【ZENRA】


 引き戸の向こう側には裸の霊夢が立っていた。
「きゃっ!?」
「どわっ!!」
 さて、霧雨魔理沙はさながら熱いものでも触ったように思わず引き戸から手を引いた。飛びずさり、目の前の裸体から反射的にぱっと視線を逸らす親切心の反作用で開け放したその扉を閉め直してやることも忘れた。
 慌てふためく。冷静になれば良いものを、いきなりこういう事態になれば理性も理屈も罷り通らぬ。
「わ、悪い悪い!」
「もう……気をつけてよね」
 むぅ、とふくれた顔でかりかりと頭を掻く霊夢。鼻の高さの棚に置かれた籐籠に、脱ぎたての下着を身も蓋もなく放り込んだ。
「……ああ……すまん」
 どうにか絞り出す言葉は、湯煙のかほりに連れ去られる。
 茫然自失の魔理沙の眼前、ここからの霊夢の行動はいつも通りに戻る。しがらみ全部を脱ぎ捨てた状態でむぅーっと背伸びして、肘を頭の後ろに組んでストレッチまがいに骨をぱきぽき、腋は全開、開放的な御姿になって身も心も開放的になったのか知らぬがそれにしても早く湯船に行けば良いものを。何ともおおらかに、のんびりと時間を無駄遣いしてやまない巫女はあろうことか欠伸までかました。
 最後に髪を結わえるリボンに手をかけて、軽やかにしゅるりと解いた。はらりと黒髪の束が肩の向こうにふくらみ、一筋の線を引く赤いリボンの軌跡と黒髪の舞は檜の脱衣所と筵の床を借景にいただいて、まこと無駄に蠱惑的で、和の雰囲気をあでやかに纏って実に美しい。秘めず恥じらわず、何ら気取らぬ自然体の動きがまた一段と情緒的だ。
 しかし全裸。
 魔理沙は未だ扉を開けて、暖簾を押しのけたそこに突っ立ったままでいる。口はぽかーん、だ。いろんな意味で自然体となった霊夢は哀しいほどまで意に介す様子が無く、そぞろに乱れる呼気はただ棒立ちの霧雨魔理沙ひとりのものである。よもや、もう帰ったと思い込んで寛いでいる訳もあるまい。その格好でそんな無防備な判断はすまいぞ。
 へえ、服ぜんぶ脱いでからあのリボンをほどくのかぁー等と、魔理沙は長年の付き合いで初めてその順番を意識して覚えてみて妙に感心しつつ、 
「……いつまでそこに居るのよ。早く閉めてってば」
 ……あ、やっぱ恥ずかしいんだ。
「寒いじゃない」
 ってそれだけ!?

■ ■

「うーむ……」 
 心あやふやな廊下をふわふわ歩きながら魔理沙、独りきりの夜半に煩悶する。金髪つややかなその頭部がさながら爆発事故直後のようなざんばら髪なのはつまるところ魔理沙自身も風呂上がりであるからで、しんしんと凍みてくる師走の冷気に洗い髪が固く冷やされる夜はアツアツお風呂が良い良いお湯加減、ぽかぽか茹だった脳味噌でうっかり髪留めのリボンを脱衣所に忘れてきたことに気付いたのはそれから少し後のことで、そそくさと踵を返して取りに来たらばもう霊夢が続けて風呂に入ろうとしていた。何のことはない、事態はそれだけの話である。魔理沙が博麗神社にお湯を借りに来たのもいつも通りなら、脱衣所の中で人様が裸になるのは社会通念上、誰がどうあれいつも通りだ。
 だがそれならば、
「霊夢のやつ……もうちょっと……こう、さあ」
 女の子なんだから。
 口の中で呟いた声は白い吐息となり、冷え込んだ廊下の空気に呑み込まれる。
 いくら相手が同性とはいえ、すっぽんぽんのすっぽんすぽぽんを見られて眉一つ動かさんってのは如何なものか。一糸まとわぬ姿を見られて一糸乱れぬ精神ってのはどうなんだ。泰然自若は結構だが、もうちょっと赤面とか金切り声とか、早く閉めてよ馬鹿このー、とか、なんなら無言で夢想封印とかでも。
 すっぽこぽんぽんで背伸びとかするな。
 見てるこっちが赤面する。
「そんな……もんなのかなあ」
 霊夢と魔理沙、長いつきあいという事情はある。男っ気など微塵も無いのはお互い様だ。目下そんなものはほぼノーチャンスの幻想の郷において、恥じらいという感情は生物学的に退化の運命を辿るか。女同士だからついてるモノは同じだぜ、と、そういうことを堂々と言えるようになるものなのかどうか。
「もしかして……私が勝手に恥ずかしがってるだけ、ってか?」 
 何となく呟いてみる魔理沙である。
 幼い頃から一緒に寄り添って実の姉妹以上と自他共に認める、仲睦まじき博麗霊夢が無駄に堂々たる振る舞いを今ここで披露した件について、魔理沙は、何となく、自分だけが子供っぽく取り残されたような疎外感を感じてやまないのだった。裸を見られても泰然としている霊夢はカッコイイ。そう思ったら、なんとなく少しずつ、その不動心に憧れを感じなくも無い。
 自分だけがあたふたやってるってのも、何とも悔しいものだ。
「……ぅおっし」
 魔理沙は髪を拭くのも忘れ、ついでに脱衣所に残してきた髪留めリボンはついぞ回収作業を思い出さぬまま終わる。絹のようになめらかで強い、ひめやかな乙女の柔肌と決意をパジャマの胸に暖めた魔理沙、いざ颯爽と箒を玄関に取り、風となって冬空の彼方に飛び立った。
 好奇心と憧憬が手招きしている。
 博麗霊夢は何も知らず、檜の湯気の中でかぽーんかぽーんと言わせている。

■ ■

 分からなかったら、人に訊く!

 と思いつつ、まさかこんなことを人に問いかける訳にもいかない。
 あのとき博麗霊夢はどういう心でいたのか。
 歳が嵩めば乳歯は生え替わらねばならぬ。稚気は克服せねばならぬ。分からぬが人に訊くことが出来ぬと来れば、実験で前途を切り拓いたのが霧雨魔理沙の人生ではなかったか。
 魔理沙は緊張している。
 実験のお相手として“彼女”を呼ぶために用意した嘘の口実、どんな理由をでっち上げたかなどもう既に忘れた。彼女の家に赴き、玄関先で「ウチに来てくれ」とだけ告げて逃げるように帰ってきたこの自宅のポーチですぐにブラウスのボタンに指をかけた。この体験もなかなかに刺激的だ。その後に控える行動を考えれば、気を落ち着けるのにも大変苦労した。というか緊張している時点でまだ自分は青二才の埴猪口だと思うし、用件を告げた時からして彼女の目を真っ直ぐ見られた記憶が無い。
 魔法の森、霧雨の家、散らかり放題の部屋で魔理沙は一人素っ裸。
 ところで寒い。めちゃくちゃ寒い。
 冬という季節柄もあるし、その他諸々の意味で心がとても寒い。
 とりあえず正座して待ちかまえているところ、不意に申し訳なさげに忍び込んだノックの音が二回。
 きた、と魔理沙は腹を据え、
「……はいはい、ただいま」
 度胸一発、立ち上がろうとしたとき、
「がちゃっ」
 いきなり、扉を開けられてしまった。
 目を剥く。
「きゃーっ!?」
「……」
 無言ではた、と空中に立ち止まったのは上海人形である。
 裸の魔理沙を見ても表情一つ変えない。そりゃ変えないよなあ、人形だもの。
 上海人形は黙って「ぱたん」と、扉を閉めてどっかに行ってしまった。
 どっと肩の力が抜ける。よく躾けられたお人形さんである。ふぅーっと、魔理沙の大きな溜め息は悔しいながらも安堵感だ。「人形に運んでもらいたいものがあるから外で待っててくれ!」という苦しい言い訳を窓下のアリス・マーガトロイドに叫んでひとまず予行演習のシチュエーションを用意してはみたものの、相手が文字通りの木偶の坊でさえ今の恥じらいの悲鳴である。申し訳程度に女の子っぽく丸みを帯びた身体のあの辺とかその辺を、気付けば両手で押さえていた辺りまだ未熟者だ。霊夢の境地には程遠い。ノックに応える間もなく入ってきた不意打ちを考慮しようにも、それはあのときの霊夢とて同じ事だった。
 裸でいるときにいきなり扉が開いて、誰かにその身体を見られても平然としていられるものか。
 いなければならないのだろう。人は最初裸を恥ずかしがらず、年を重ねて羞恥心が芽生える。そしてその後「女としての達観」、これである。やがて悟りの境地も見えてくるのか。
 霧雨魔理沙の実験は、やがて再び打ち鳴らされたノックの音によってレディー、
『魔理沙ー? 上海帰ってきちゃったんだけど――何の用なのよ一体』
 ステディー、
「あー。やっぱ気が変わって、さ」
『はぁ……?』
 ドアの向こうから、更に二言三言、訝るアリスの声が聞こえた。いよいよ魔理沙の身は固くなり、ふと我に返りて整息、集中、
『……入るわよ?』
 ゴー。
 がちゃり、
「……やあアリス! 今日も幻想郷は元気かい」
 とりあえず笑顔で、気さくに右手なぞを挙げてみた。
 アリスは一瞬「ぶっ」と、小さく口から音を漏らしたと思う。
 それから時間がちょっと止まった。不自然に流れるゆっくりとした空気に、二つの乱れた呼吸音が混ざる。ここに湯煙のかほりはなく、寒く冷たく、ただの埃っぽい部屋であり、しばたたかせたアリスの瞳はやがてシラミでも見るような目つきに変わる。
「……一応訊いておくわ。何やって、るのかしら」
「あ、えー、っと……火性魔法の実験中で、ちょっと引火防止ってやつだな、うん」
「……」
 笑顔は、どうしようもなく引きつっていたと思う。
 霊夢にはやはりまだ遠く及ばぬのだという実験成果が得られて魔理沙は内心頷いた。予想通りである。そう思った瞬間急激に羞恥心が襲い来て、恥じらう魔理沙は臍を噛む。
 幻想郷は平和で、アリスは只管、茫然としている。

■ ■

「何なのよ……ちぇ」

 どぎまぎの小径を歩きながらアリス・マーガトロイド、夕まぐれの森に呻吟する。木立のささめくその下、心持ち足許は覚束ない。
 何が引火防止、だ。
 あっという間に追い出された霧雨魔理沙の家に、一体何の用件があったのかは既に忘れた。というか最初から聞いていなかったような気もする。魔理沙本人が「用件は終わった!」と言い張るから仕方なく蜻蛉返りの帰途に就いてみたものの、ふと後顧、得られた結果はと言えば北風ぴいぷうの散歩っぽと魔理沙の一糸まとわぬすっぽぽぽんだけである。
「何よ……あれ」
 理不尽きわまりない。裸を見せて用件終わり、つまるところ裸を見せるのが用件だったというのか。冬の寒さが骨身に沁みる最中にストリップショータイム。
 だとすると悪くねえなぁ。
 悪いわ。
「べ、べ、別に魔理沙の裸が見られてちょっと喜んでるとかってことは無いんだからね!」
 ひとり慌てて、道すがらのクヌギを恫喝する。うむ、と風に一つ鷹揚に頷いたクヌギは非常に泰然としていて、アリスの溜息ばかりがより冬色に深まるのだった。
 ちくしょう。
 アリスの中に、もどかしい想いが広がる。
「あれでなかなか……ちぇ」
 どうせ幼児体型、だと思ってたのに。
 脳裏によみがえった扇情的な裸体に今更オンナの感情が鎌首をもたげ、嫉妬めいて劣情めいて、純粋な乙女の頬をかぁーっと赤らめさせる。呆気にとられるのが先んじたあの一瞬はウブなリアクションを見られずに済んだが、一歩間違えば魔理沙の裸を見て赤面するアリス・マーガトロイドだ。そんな失態を犯すくらいなら死んだ方がマシとさえ思う。
「いやでも絶対胸は……胸は絶対わたしの方が……」
 眼下、自らの胸元に視線を落とし、そこでふと黙る。
 誰も見ていないことを確認してから、なんとなくアリスはその場で、自分のを、ヨせてアげてみた。
 笑みが浮かぶ。
 ぐいっと押し上げてみて、絶対自分の方が、との確信をより濃きものにして満足げな首肯。魔理沙が自慢っぽく見せびらかしてくれた乙女の象徴を彼女が猶鼻高々で自分達に見せつけてくるのだとしたら――こちらにも考えがある。
「上海! ちょっと持って!」
 ぶらぶら提げてきた用もないバッグを上海人形に押しつける。戸惑う上海に次に押しつけたのはショール。次に押しつけたのはカチューシャと上着、次にはスカート、次にシャツ、ブラ、編み上げブーツそしてとうとう
「……どうよ! これで!」
 最後に小さな下着を持たされたところで若干飛行高度が落ちた。アリスは大股で歩き出し、上海は両手に抱えきれない布帛の荷物にフラフラになりながら健気に宙を飛ぶ。よろよろと頼りなく蛇行線を描きながらも、必死に、一途に彼女が追いかける主人の背中はまるで未踏の雪原のようになめらかで白い。柔らかげなその稜線はまさしく降り積もった淡雪、触れれば溶けてしまいそうなメレンゲのお肌が背中から腰にかけて艶めかしくくびれ、お尻にかけて艶っぽくふくらんでつまりは全裸。
「魔理沙……アンタには負けないんだから……」
 アリスは自信を持って堂々と胸を張り、今までの三倍の早足を進めた。上海人形が必死で追いすがる。そこでパンツを落としたことについては、とうとう最後まで誰も気付かなかった。 
 人を呼びつけてまで自慢した御自分の裸体があの程度というなら、明日魔理沙のことを鼻で笑ってやる。あの調子で、知り合い全員に己の未熟なカラダを見せびらかし続けるというならそれをそっくりそのまま赤っ恥にしてやる。
 ああ、アリスさんのお身体に比べれば霧雨魔理沙なんてちんちくりんね。
 幻想郷の総意を味方に付けたあとで、魔理沙に平伏させてやるのだ。
 ああアリスさん、どうやったらそんなナイスばでーに。
 四倍の早足を進める。自宅が見えてきて、自宅に肉薄し、自宅を通りすぎ、自宅からどんどん離れ、やがて紅色の屋敷が見えてくる頃にはアリスの胸中は最早対抗心、の三文字で埋め尽くされていた。
 このカラダを見て!
 慌てて駆け寄ってきた門番を一喝してアリスは紅魔館の敷居を跨ぎ、恍惚たる表情でひとまず魔法使い仲間をお披露目の相手に選んだ。魔理沙とも自分とも同じ魔法使い系、なんとなく身近な存在の者に自慢できる感じで、気分が悪くなかったからだ。
 図書館の重厚な門扉を、高らかに六回も叩いた。
「なによ。もう……誰」
 眠たげな魔女が、眠たげにまろび出てくる。
 出不精でやせぎすの病弱っ子、しかも同じ魔法使い系。自慢するにはちょうど良い相手で、アリスはいよいよ胸を張る。
 しかし全裸。

「どうよパチュリー・ノーレッジ! 見直したでしょ!」
「ふん……その程度の身体で。なんなら見てみる? 私の……」
「なっ……!」

 ――しゅるり、ぱさっ。




■ ■

 指の甲で曇りを拭いた窓の外、すっかり闇に呑み込まれた幻想郷の夜を見つめる。 
 十六夜咲夜は紅の厨房で一人、あてどない思考をお手玉して苦々しく楽しんでいた。
 何かがおかしい。
 けど何もおかしくない。
 事もなく幻想郷は今日もいろいろなことが起こり、つまりは平和であった。メイドの職業病としてどうでも良いことにさえ東奔西走しながら終わってみれば大山鳴動して鼠一匹、と最近の相場は決まっている。人里に住む見知らぬ少年がいきなりパチュリーへラブレターを持ってきたなんて事件があったときはしばらく笑ったが、それも終わってみればやはり何も起こらず、やはり何も代わり映えしない日常である。
 というわけで何が起きたって多少の事じゃ驚かないが、しかし今日の獲物はなかなかにファンキーだった。時間さえも眠たげな生ぬるい昼下がりに「咲夜さんぷりちー!!」とか叫んで現れた紅魔館門番・紅美鈴が全裸マッパのすっぽんぽんだったのでとりあえずグーで殴った。
 見せたいのか。
 見せびらかしたいのかそれを、そんなに、公衆に、ひいてはこの私に。
 すごく嫌味な奴である。度肝を抜かれた自分が情けないというか、気絶させたあと改めて二秒くらいはまじまじと見つめちゃったあたり自分も一体何をしてるんだろうと思った。「アリスさんも裸だったのにー」等と言われても知らぬ存ぜぬ。てゆうかアリスとやらが裸だったからって何だ。仮令本当だったとして、全裸で紅魔館の門戸を叩いた無頼者をどうぞどうぞと屋敷に通したばかりか剰え自分も教化されて服を捨てた? 恥を知りなさい。裸になりたければ門番辞めて、どっかの地下の劇場にでも行けば良いじゃない。その無駄に豊かなバストで、男どもの精神を蕩かすくらいの上質なぱふぱふが出来るだろう。
 同じ女なのにこんなに大小差があるなんて、極めて不公平だと思う。
 って、そうじゃなくて。
「人類……衣服の発明って偉大よねえ」
 ひら、とメイド服のスカートをつまんで、孤独なキッチンの俎板に独り言を転がしたのは咲夜。
 この幻想郷という場所に衣服がなければ、レミリアではなく紅美鈴が満場一致で紅魔館の当代当主に収まり、咲夜と美鈴の力量関係もまたすっかりあべこべに逆転していただろう。おっきいことはいいことなのだ。素っ裸の美鈴が胸を張って振り回す権力という名のスイカップに全幻想郷は五体投、自分やレミリアお嬢様は絶対服従というバストカーストの桎梏を両手両足に纏ってその臣門に下るのだ。起伏の無いなだらかな己の前半身の稜線を土下座の視界に否応なくいただいて、メロンも真桑瓜もびっくりの乳魔神の独裁下で隷属同然の小間使い扱いを受けていたであろうことは想像に難くない。それくらいの大小差である。
 衣服があって良かった。幻想郷が全裸の国になってしまったら大変だなあ。
「さくやー。ごはんまだー?」
「あら」
 嗚呼、かわいらしいお声は我が敬愛する大切なご主人様のおねだり声だ。
「お嬢様……今日はずいぶん早いですねえ」
 皿洗いの最中、振り向かず、咲夜はひとまず背中で返事を返す。
「うん。ちょっと……見せたいものがあってさ」
「はぁ」
 幸甚である。
 私めに見せてくださるものがあるならそれだけで至高。
 こうしてメイド長としてレミリア・スカーレットお嬢様に仕官することが出来るのも、つまり全ては衣服のお陰なのだ。人間見た目で決めちゃいけない。幻想郷のパワーバランスは、着衣という因習によってこそ成り立っているのだと咲夜は実感する。幸福を噛み締める。
「さくやー。寒いから、中に入って待ってても良い?」 
「どうぞどうぞ――それで、見せたいものとは一体何でしょうか」
 ようやく皿を成敗し終え、襟を直して改めて主人に向き直る。
 花柄エプロンで濡れ手を拭き拭き、

「やっぱこの格好だと寒いねー」
「あはは、そりゃそのお姿は当然寒いですよねお嬢様ってきゃああああああぁぁぁああああ!!!???」 




■ ■

 朝。
 黎明の光は麗しく、博麗神社の岩風呂を朝ぼらけに照らし出していた。油然と沸き立つ白い湯煙は全てを覆い隠している。ほんの一月前までは鎮座していなかった露天の湯船は移植のサツキの植え込みに覆われ、更に神社の正門からは社殿を挟んで裏側に建造されたため衆目を気にする必要もない。ついでにこの湯煙の緞帳である。肝心の湯は、地底より文字通り湯水の如く沸き立ってくる。
 ふと一陣の風が吹いて、立ちこめていた湯煙を全て洗い流した。穏やかで少し蒼白い水面が朝陽を照り返しながら視界に現れ、次いで肌色の像が見えてくる。全ての靄が風下に歩み去ったあとに残されたのは、ぽかぽかのお湯に片や身体を浸して片や湯船の縁に腰掛けて、ともに肌をほんのり上気させ、気持ちよさげに薄目を瞑る二人の少女の姿である。
 つまり全裸。
 地獄の間欠泉も幻想郷に溶け込み、副産物の地霊もやがて収まり、肩口までお湯に浸かりながら
「良い世界になったもんだなぁ」
 と嘯くのは上白沢慧音である。湯船の縁に座る霊夢のあれとは比べものにならない二つのボール状のけしからんものが水面に浮かんでおり、博麗霊夢はそれを羨望と嫉妬と親しみを込めて「ひょうたん島」と呼んでいる。
「しょっちゅう朝風呂に付き合わされる私の身にもなって欲しいんだけど」
「朝風呂ってのは贅沢だぞ霊夢。そうおいそれと味わえるモンじゃない」
 うむ、と自分で言っておいて自分に納得するかのように一つ頷き、首まで沈んで慧音は言葉を続ける。
「こうして誰かとお風呂に入れる幸せをな、神様に感謝しなくちゃいかん」
「……」
 霊夢は黙ってそっぽを向き、濡れそぼった前髪をきゅ、と絞ってみる。
「まぁ――おふろじゃないと話せないことも多いしねえ」
「そうだ。身体が裸同士だからこそ、心も裸になれる」
 笑顔の慧音が断言し、くす、と霊夢も素直に笑う。
 日本人として生まれたことをふと霊夢が幸せに思う瞬間として、このお風呂という因習は確かにあった。なんなら朝風呂くらい、その気になれば断れる。それを断らぬ理由はといえば、おっきい人と一緒に入浴すれば御利益にあずかれるかもしれないという神道上の理由と素直な会話を飾らず気取らず楽しめることと、そのたった二つなのである。
 その二つが何よりも崇高で大きいのだ。
「裸同士でも恥ずかしくないってのが風呂場の特権だよなあ」
「講釈も良いけど慧音、アンタあんまりしっぽりしてると寺子屋に遅刻するわよ」
「誰かさんじゃあるまいし――時間はちゃんと覚えてるさ」
「あ……そ」
 霊夢はやおらばしゃん、と湯船に飛び込んでそのまま頭の先まで沈んだ。やがてざばっ、ぷはぁっ、と立ち上がって「……じゃ、先行くわ。」と短く言う。
「どこへ」  
「ちょっと頼んでるものがあってね。朝一で“店”に行くって言ってあるから」
「ああ――なら、まぁ私もそろそろ上がるか」
 ばしゃ、と慧音も立ち上がる。時に朝風は残念ながら既に凪いでおり、湯煙を吹き飛ばす男性の味方は来てくれそうもない。立ち上がった二人の裸身を、尽きることのない湯煙がまた覆い隠してゆく。
 真っ白に変わってゆく世界で、少女の声だけが聞こえている。二人は脱衣所に向かう濡れた石畳をひたひたと歩いているところだが、それを見ている者は人と言わず妖と言わず、一人として居ない。なればこそ、女の子のあられもないすっぽこぽかぽん二名、である。
「別に温泉じゃなくても、心まで素直になりたいなら街中で裸になっても良いんだぞ?」
 冗談めかした慧音と、
「やりたきゃやれば良いじゃない」
 応酬の霊夢。
 あはは、と慧音は笑い、霊夢もまたくすっ、と笑う。
 湯冷めしない内にと、慧音はいつもの服を纏う。
 湯冷めしない内にと、霊夢もまた、いつも通りの巫女服に袖を通してお出かけの準備は万端となった。
 ごく普段通りの光景である。

「なあ――街中で裸のヤツにあったらどうするかなあ」
「そりゃ――たぶん原形を留めないほどに成敗でしょ」
「ま八つ裂きだわな。違いない」

 ――少女達の包み隠さぬ会話を、聴いている男は一人も居ない。






■ ■

『着衣の時代は終わった! 幻想郷は幻想郷から理想郷(ゆーとぴあ)へ!』

 小春日和の木漏れ日は窓から差し込む。ふわふわと漂う陽気は早朝の放射冷却を振り払い、正しくさながら春を思わせる温暖な朝の店内の安楽椅子。射命丸の天狗が届けてくれた新聞記事には何年かぶりにシゲキ的で惹起的な見出しが躍り、切れ長の怜悧な瞳を更に細めた銀髪の美貌が「……ふむ」と、バリトン声の一つを膝元に落とす。
 森近霖之助。
 瞳を更に細めて光らせて、唇の端っこだけで薄く微笑んだ。
 なかなか。
 いや、なかなかどうして。
 はっはっは。
「母上、幻想郷は良い世界になりました……」
 ゴッドブレスミー。
 すばらしい朝刊の一面には脱衣所で背伸びの霊夢の写真の肌色の、艶やかな肢体の煌めき。そして届けてくれた射命丸、彼女自身のお姿は早くも霖之助の両目の網膜に焼き付いて離れようとしなかった。カラスというのに色白で、すべすべで、なかなか引き締まってスレンダーながらもスタイル抜群で、
 いやいや、なかなかどうして。結構結構。
 唇の端っこがさらに上を向く。
 普段二色刷がせいぜいの文々。新聞は霖之助が初めて見る1,677万色カラー刷りで、微に入り細を穿つ記事が版図を鬩ぎ合いながらそれぞれ幻想郷各所のルネッサンスを写真付きで伝えていた。東では由緒ある神々がそろって神々しいお身体を披露し、多感な年頃の風祝巫女までもが嫌々服を剥かれて泣きながら暮らしているという。南では公明正大の証明ですからと裁判長が厚ぼったい法服を脱ぎ捨てた。西では「生まれた時はみんな裸、だから死んだ時もみんな裸」という筋の通った理由で幽霊嬢が雄麗状に一糸まとわぬ姿となり、ここでもやはり従者が無理矢理服を剥かれた。北では全裸でくるくる回る狐までもが目撃されているという。ついでに上では毎日暑いからと天人が、下では毎日熱いからと地獄鴉がそれぞれ生まれたままの姿になった。紅魔館で孤軍奮闘しているメイドが陥落するのも時間の問題であろう。
 普段一枚のペラ紙新聞のところを実に三十六頁まで膨れあがらせた大健闘には拍手を送りたい。森の中でひとりヨせてアげている魔女の写真が文々。新聞史上最初の“三面記事”となって花を添えた。もちろん、新聞は森近末代までの家宝にする予定である。
 うっすらと焚いたストーブと、木漏れ日の陽気。
 両手で大きく広げていた新聞の向こう側には、一転していつも通りの店内が広がる。誰に対してもシゲキ的でも惹起的でも無い、へんてこりんな顔のタヌキの置物が一つ、商品棚から店主の椅子を見ていた。タヌキに見えているのは霖之助が没頭している新聞の一面と裏一面だけであったが、やがて全ページを三度ずつ読み返した彼が新聞をゆっくり下げてゆくにつれて、慣れ親しんだ店主の姿が目に入ってくる。
 つややかな銀髪。
 眼鏡。
 瞳、鼻、口、喉、鎖骨、胸板、乳首、
 新聞は下がってゆけどゆけども、衣服は一向に見えてこない。
 胸板、乳首、腹筋、臍、下腹部、省略、腿、膝、足首、爪先。
 はっはっは。
「これが本当の――幻想の郷、か」
 霖之助は今、世界の人々の黎明を目の当たりにして感慨深い。時代の分かれ目に自分が立ち会えていることの幸福を噛み締める。アダムとイブの時代が降臨した奇跡には、遍く悠久の神々を祝福する。
 遥かなる生命の営みを深呼吸という形で肺腑に満たしながら、幻想郷の住民として、森近霖之助は全面協賛の胸板を張るのだった。
 気分は晴れやかだ。
 願わくば幻想郷の平和がとこしえに続かんと天を仰ぎながら霖之助、開店直後の店内に笑顔をキメる。
 とりあえず安楽椅子にて待ちかまえているところ、不意に申し訳なさげに忍び込んだノックの音が二回。

『おはよう、霖之助さん。頼んでた榊だけど――調達してくれたかしら』   

 裸でいるときにいきなり扉が開いて、誰かにその身体を見られても平然としていられるものか。
「――やぁ、いらっしゃい」
 いなければならないのだろう。
 人は最初裸を恥ずかしがらず、年を重ねて羞恥心が芽生える。そしてその後の達観、原点回帰、そして幻想郷は理想郷へ。
 博麗の巫女から始まった幻想郷の全裸の日々が、目映き朝陽と共にこのドアから訪れる直前の一瞬の静寂。
 幻想郷のアダム、森近霖之助の幻想郷は、やがて再び打ち鳴らされたノックの音によってレディー、
『……入るわよ?』
「入ってくれたまえ」
 ステディー、
「最近めっきり寒いわねえ……」
「寒くなんか無いさ」
 ゴー。
 がちゃり、

「……こんにちは僕のイーハトーブな日々!!」
 
 アダムとイブはその瞬間、確かに朝陽の祝福に包まれていた。
 冬を振り払うような陽射し、幻想郷の夜明けで止まった時間。唸りを上げた巫女の腕は衣服に包まれており、シゲキ的でないタヌキの置物がこの刹那、謎の衝撃波で天寿を全うしたのだった。






 爆発オチです。
 この作品までに3年あまり作品を書いてきた私がたぶん初めて書いた爆発オチです。
 嗚呼爆発オチ。感慨深い。

 一行目を思い付いてからは早かった。そこからは衣服を纏わない東方キャラを好き勝手に動かすことで僕のイーハトーブな幻想郷がひとりでに形成されてゆきました。不思議不思議。
 裸で何が悪い。
 朝風呂? いや、朝風呂は良いものだ。うむ。
(初出:2008年10月30日 東方創想話作品集61)