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【鶯】


 はらはらと舞い落ちる薄紅色が、春の終わりを告げていた。
 太く地に出た根をすっかり覆うほどに、それは一面びっしりと降り積もっている。
 地に落ちて、雨に濡れ砂利に塗れ、辺り一面灰色滲みの紅色。
 春の終わりそのものの景色を、朝陽の中で私は見ていた。



 朝靄に少しかすんだ庭の桜の木に目を取られ、つい私はぼんやりとそれを眺めていた。枝先に光る露の美しさに、気付けば朝の散歩の足が止まっていた。
 隙間無く若葉の緑が覆う枝に、咲き遅れた花が僅かにぽつりぽつりと咲いている。その花も、風が吹き抜けるたび少しずつ、ひらひらと散ってゆく。
 春の名残が舞うたび、夏の足音が近づいてくる。

 桜の花びらは、放っておいても土に還ってゆく。だから妖夢には、落花は放っておけばいいと伝えてある。
 上に眺めた桜が、今は下に墜ちている。その景色が私は嫌いではなかった。名残雪のように降り積もった、無数の花達。
 庭を穏やかな南風が通り過ぎる。前髪が少し揺れ、目の前をまた一枚、春が地面に舞い落ちた。



「どうしたの。嬉しそうな顔して」



 不意に空から聞こえた声に、顔を上げる。
「もう春はお終いだよ。つつじもたんぽぽも、桜もね」
 鈴を転がすような綺麗な声だった。張りがあり、曇りのひとつもない。よく響く声色に、まだ寒さの残る空気が冷たそうに震える。
「嬉しそうだった? 私が」
「ええ、とっても」
「ありがとう、妖精さん」
 少し微笑んで、明け始める空を仰ぎながら答える。丁寧に笑顔を返す声の主。背負う空はまだ朝ぼらけながら、筋雲のひとつもない。今日は夏晴れになるだろう。
 ほどなく青一色になるであろう澄み切った空を、彼女もまた見上げながら。朝の静けさを壊さぬようそっと、桜木と私の間に彼女は舞い降りた。
「ありがとう、私のこと知っててくれてるなんて。貴方は朝早くから、お庭のお散歩かしら」
「そういう貴方はどうして此処へ。もう『貴方の季節』は終わったでしょう?」
「そうね、見ての通り」
 妖精はそう言って、夏の衣に着替えた桜木をちらりと見やる。僅かに細めたその目が、春の終わりを小さく悲しんだようだった。

 この春の妖精に逢うのは、これが初めてではない。しかし最初に逢った日のことを、残念ながら私は憶えてはいない。
 風が木々とすれ違うような出逢いだった気がする。短い時間だけ顔を合わせ、他愛ない会話をほんの少し交わした…… そんなことだけ、記憶の片隅で朧気に残っている。
「春を告げる妖精が、散り際の花見?」
「ええ。他人の御家にお邪魔して御免なさいね。
 空からこのお屋敷の庭を見てたら、ああ春が終わるんだな〜、って気がして」
「あら奇遇。私も丁度、そう思っていたの」
「へえ、そうなの?」
 薄暗い紫色の空が、少しずつ夏の青に変わってゆく。閑かな朝の庭の空気は、不意の客さえも自然に受け入れているようだ。
 靄に溶けてしまいそうな二人の声。ただ南風だけが、時間よりゆっくりと通り過ぎてゆく。

「ねえ、教えて。どうして、そんなに嬉しそうな顔をしているの?」
 妖精は不思議そうな貌で、私を覗く。
「春が終わりそうだから、かな」
 私は彼女の目を見ずに答えた。
「春、嫌いなの?」
「好きよ」
「もう、どっちよ」
「どっちもよ」
 むう、と紅く膨らむ妖精の頬。少しだけ罪悪感を覚えて苦笑いする。少し意地悪が過ぎたかもしれない。

 記憶の片隅にも無い、彼女との最初の出逢い。取るに足らない会話を二つ三つ、小さく交わしたその邂逅の刻。
 その妖精が春告鳥だったと私が知ったのは、それからまたしばらく後のことだったように思う。
「貴方は、春はどんな季節だと思っている?」
 そんな妖精に、私は場を繕うように問うてみる。
「私の季節」
「それは分かってるわ」
「そうねえ、敢えて云うなら、息吹きの季節。
 あらゆる花は草原を彩り、山は冬の眠りから目覚めた動物たちで賑わう。
 冷たい雪に閉ざされた幻想郷が、生命の息吹に満ちる時」

 山吹色の髪を風に揺らしながら、妖精の貌が喜びに満ちてゆくのが分かった。愉しそうな頬は、春らしい桜色に染まる。遠い山の稜線を這う朝陽が、背の翼をも仄かに紅く染めていた。
 晴れやかな笑顔は、朝の空気よりもずっと澄み渡っていた。申し訳ない気分が、それでまた少し、強くなる。
 春が終わるのを嬉しいと告げたその理由が、実に独り善がりなものだからだった。



 この庭には、幾度春を迎えても花を纏わない、大きな大きな桜の木がある。ちょうど妖精が背にしている場所に立っている一本の老木。それこそがその桜、西行妖だ。
 春が来る度に私を悩ませるこの大木。今年の春もまた私は、その開花を見ることは出来ずじまいに終わりそうだ。いつか大輪の花を枝一杯に咲かせた西行妖を、この目で見てみたいと思っているのだけれど。
 かつてその心が昂じ、この幻想郷で一騒動を起こしたことさえある。

「ねえ、どういう意味よ。意地悪な幽霊ね」
「あら流石ね、私が幽霊だと分かるなんて。
 ああ、でも貴方とは昔……ずっと昔に、逢った気がするから、そのせいかしら?」
「どうだろうね、逢ってるかもね」
「どこで逢ったのかしら」
「さあ」
「あ、そう。分からないなら良いわ。私にも分からないから」
 彼女も、私との出逢いを憶えてくれてはいないようだ。
 まあ、もとより妖精の記憶力などに期待はしていないけれど。

 また少し風が吹く。しかしどんなに強い風が吹いても、西行妖から舞い落ちる花びらは無い。見た目の枝振りだけが立派で、その先っぽがのんびりと揺れているだけ。 
「後ろの桜の木を御覧なさい」
 妖精の目を見ながら、顎をしゃくる。
「え? これ桜の木なの?」
「そう、紛れもなく桜の木。だけど、ただの桜の木じゃない。
 その桜は、『咲かずの桜』なのよ。春が来るたびに、私はこの裸の桜木を見ることになるわ。
 どんな伝説の名木よりも強く、どんな長い桜並木よりも深く人の目を魅了するであろう、
 この壮大で風雅な桜の枝を」
「…」
「必ず、いつか咲かせてみたいと思ってる。
 だけどこの枝は、去年も一昨年も、結局ずっと茶色のままだった。
 そして今年も同じまま、また春が逝こうとしている」
 妖精は言葉を失い、ふらふらと木の方へ歩いてゆく。 
「そっか……咲かない桜なの……」
 哀しそうな顔を浮かべながら、妖精はゆっくり西行妖の傍に歩み寄り、その幹を撫でた。白く小さな手の甲に、どこからか飛んで来た花びらがふわりと乗る。
 薄くなり始めた朝靄が、南から北の方へとゆるやかに流れてゆく。朝の閑けさが、会話の途切れた空間をあっという間に支配する。



「実はね……全然咲かないこともないんだ」
「え?」
 少しだけ、西行妖から視線を外す白い妖精。
「ただし、夢の中でね」
「なんだ……」
 彼女はしかし、それを聞いて更に肩を落とした。

 私がここに来て以来、ひとつでも花をつけた西行妖をこの目で見たことは確かに無い。それ故に幻想郷中の春を集め、花咲じじいの真似事を企てたりもした。が、それも失敗に終わった。結局この桜には、希望のつぼみすらこの目で見つけられることはない。
 ところがその騒動以来、私は幾度と無く、この木が満開になる夢を見るようになった。
 夢の中で私は、この西行妖の幹に、寄り添うように立っている。現実と違い枝という枝は見事なまでに満開で、その下にはまるで滝のような壮麗な桜吹雪が降りしきっている。そんな中に、私はたった一人で立っているのだ。誰もいない木の下で清かな春風に吹かれながら、静かで、かつ荘厳な光景をじっと味わっている。
 そして、文句なしの満開に咲き誇る桜を見上げながら、その大きな幹に抱かれるように――
 私はそっと、懐から何かを取り出し、それを手に持って……

「……」
 夢はいつも、そこで終わってしまう。手に持ったそれが、一体何なのかも分からないままに。
「ねえ、妖精さん」
「ん?」
「私はね、桜が大好きなの。だから本当は春も好き。
 でも、この西行妖は夢の中以外では、どうやっても咲いてくれないの。
 どんな春の盛りにこうして朝のお散歩をしていても、いつだってこの木だけは仲間はずれ。
 他のどんな木だって……桜もつつじも、たんぽぽも花水木も、こぞり合って咲いているのに。
 いつだってこの木だけは裸んぼう」
「仲間はずれ……」
「そう。でもね、周りの春が終わってゆけば、西行妖は目立つことなく、またただの庭木になるでしょう?
 一本だけ咲かない桜に、気分が沈むこともない。だから今は、春が去ってゆくのが嬉しいわ」
「そっか……」
 一層哀しそうな目で、妖精は裸の枝を見上げる。
「そうね……私も初めて見たもの……こんな可哀想な桜……」
 現に見る西行妖は、咲かずの桜。夢での満開など、何の慰みにもなりはしない。
 束の間愉しむ夢の花見は、いつももどかしさだけを遺して、泡沫の夢との名の如く、淡雪のように消えてゆく。


 
「どうして、桜は散るのかしらね」
 西行妖の幹を見つめ乍ら、しょんぼりと悲しむ妖精。そんな彼女を見ながら私は、あてのない愚痴をこぼす。
「散らない桜なんて無いわよ」
 妖精は意外にも、きっぱりとした声ですぐに答えてくれた。
「ふふ、貴方は強いのね」
「だって事実じゃない。季節には、夏も秋も、冬もあるんだもの」
「そうね。その通りだわ。桜はいずれ、全て散ってゆく。
 なら、散っても良いからせめて咲いてほしいわ、この木には」
「……」
「そう、せめて咲いてさえくれれば、それが例えば一輪だけだったとしても――
 私はこの木を、この春という季節を、心おきなく深く愛せるというのにね」

 春告鳥には、いささか残酷に過ぎる言葉だったかもしれない。
 彼女の哀しげな目が、私に少しの後悔と呵責を呼び起こす。


 こんな季節に、誕生の季節などと誰が名付けたのだろう。舞い落ちて土色に滲んだ花びらも春ならば、咲かぬ桜木もまた春なのに。
 万葉の花が咲き、ほんの一時の野を彩って、褐色に身を染めながら瞬く間に枯れ落ちてゆく。もっともたくさんの命が生まれ、もっともたくさんの命が死んでゆく。
 それが、春という季節なのに。

 哀しい春の、終わりの刻の中で。
 庭は相変わらず、ただただ閑かだった。
 

 


 朝陽が、熱を帯びてくる。
 少しずつ、陽が高くなっていくのを感じる。
「御免なさいね、残酷なことを云って」
「ううん……」
 弱々しく私の方に向き直る、白い妖精。
「でもね、御覧なさい、貴方の周りの地面を。こんなに沢山の桜たちが死んでいるでしょう。
 御覧なさい、貴方の後ろの木を。ひとつの花も咲いていないでしょう。
 でも、ここも紛れもなく春だったの。ここは、こんなにも暗い春なのよ」
「そうね……。でも、その春ももう」 
「間もなく終わるわ。だから私は、嬉しそうな顔をして見えたのよ」
 目の前の白い翼が、風に負けて力なく靡く。泣き出しそうな視線が、薄汚れた桜の骸に零れ落ちている。
 夏の日射しに光る白い躯は、心なしか本当以上に小さく見えた。



「なんか、哀しいな」
「哀しい?」
 しばらくの静寂の後、意外な言葉が妖精の口から漏れた。庭までもが驚いたかのように、そよいでいた南風さえも静かになる。
「ええ、哀しいわ。私は貴方に、春の倖せを伝えられなかった」
「私に?」
 妖精は黙って、首を縦に一度だけ振った。

「私の役割は、春を告げること。だけど私が春を告げるのは、草や花じゃないわ。
 春が来るのは植物だけど、春を喜んでくれるのは植物じゃない、生き物だもの」

 横顔を朝陽の光に染めながら、妖精はまた西行妖を振り返り、その幹を撫でる。 

「ねえ幽霊さん、ちょっと聞くけど。この桜は、本当に一度も咲いたことはないの?」
「私が知る限りはね。私の夢以外では……」
「そうね、貴方の夢の中では、咲いているのよね――」
 私の前を、またひとひら、桜が横切ってゆく。

 あんな夢を見る理由は、私にも分からない。ただの潜在願望が見せている幻なのかもしれないし、実は私が、生前この桜の満開を見ているのかもしれない。生前の記憶がない私には、それを判じることも出来ない。
 理由も何も分からぬまま、私は夢を見続ける。西行妖は何度も満開の花をつけては、桜吹雪を纏いつつその懐に私を抱く。
 そして私はいつも、穏やかな気分にこの身を委ねつつ、その夢を見果てぬまま、冷たい現に引き戻されてしまう。
 巡り来る季節のように。いつもいつも、その繰り返しだった。



「教えてあげるわ、幽霊さん」
 再び妖精が沈黙を破る。
「何を?」
 私の問いかけに、妖精はしかし西行妖だけをじっと見ている。
「私は春の妖精だから分かる。この木には、春そのものが来ていないわ。
 永遠に近い時の中で、時代を超えて冷たい冬に閉じこめられている」
「冬……?」
 幹に頬を寄せる妖精。あたかも西行妖が囁き、それに耳を傾けているかのように。
「……御免なさい、冬じゃないわ……真っ黒な春に、閉じこめられてる」
「黒い春?」
「そう。……どうしてだろう、この大木は、大きな罪と悲しみに包まれている。
 この木よりも遙かに大きな誰かの大罪と、それを更に凌ぐほどの、深い深い悲しみに」
「……?」
「その悲しみがこの木を、まるで冬のような真っ暗な春に閉じこめている。
 近づこうとする暖かい春を、結界のように拒んでいる」
「そう、罪と悲しみ、ね。それはきっと……」
「きっと?」
 首を傾げる妖精を目の端に見ながら私は、書庫で読んだある書物のことを思い出していた。


 その書物によれば遙か昔、この桜の下で果てた若い娘がいたらしい。元々春を集めてみようと思ったきっかけは、思い出してみればそれを読んで、その娘の霊への興味が湧いたのが主因だった気がする。
 結局その企みが頓挫して、元来飽きやすい私はその娘への興味を失ってしまっている。しかしその騒動の時、西行妖以外の桜という桜が満開に開いたこの庭の絶景は、私の瞳には強烈に焼き付いた。
 そして、西行妖という大桜をいつか咲かせてみたいという気持ちだけは、枯れずに残ったのである。



 そう、思えば西行妖の夢を見るようになったのは、そうやって春を集める騒動を起こしてからのように思う。
 ならばその娘とやらが、この夢を私に見せているというのだろうか。

 だけど、私は西行妖の開花を望んでいる。
 ならば何故、私はその娘のことを、もう一度探ろうと思わなかったのだろう。
 なぜこの手で、その木の根を掘り返して墓荒らしの一つでもしようという気さえ起きなかったのだろう。

 もし妖精の言うとおり、西行妖が冬という檻に閉じこめられているというなら……
 まるで私の好奇心さえ、なにかの鎖に縛られていたような……



「――ねえ、何よ? それはきっと、の続きは?」
「……いいえ。何でもないわ」
「嘘。今の話に、何か引っかかるものがあるんじゃない?」
「無いと言ったら、嘘になるけど……」
「何なの? 教えてよ」
「秘密。教えない」
 口を噤んだ私に、妖精はしかし、それ以上深入りはしてこなかった。


   何故だろう。
   誰よりも西行妖の開花を望んでいた私が、その裾をまるで禁足の地のように扱っていたのは。
   そこを掘り返されると困る『誰か』が、私を縛っていたというの?

   それはつまり、そこに埋まっている『誰か』の……


「ねえ、ひとつだけ教えて。西行妖は、いつか咲くのかしら?」
 妖精に問いかける。
「さあ。だけど、これだけは言えるわ」
「何?」
「春に咲く花は、みんな冬の季節を経験してるってこと」
 少しだけ明るく、妖精はそんな言葉を口にした。
「ありがとう」
 負けないように私は、つとめて明るく、妖精に言葉を投げた。
「さっきの質問、答えてあげる。その桜の根には……」
「誰かが埋まっている」
 気を取り直して教えようとした私の言葉の先を、妖精の凛とした声が打ち消した。
「!!―― どうして……」
「私は春の妖精。春の木の考えてることくらい、触れれば分かるわ」

 妖精は口元だけ小さく笑いながら、あっさりとそう言った。
 その眼は寸分逸らさず、また笑いもせずにまっすぐ私の眼を見ていた。




   分からない。どうして?
   どうして私は、こんなに西行妖の『下』を遠ざけるの。
   そこに眠っているのは、一体誰……

   埋まっているのは、誰なの――?




「……でもね……私、その霊は復活させない方が良いと思うんだ」
 言葉に視線を上げた私の目の前を、また一枚花びらが舞う。
「それは、どうして?」
「秘密」
「教えて、お願い」
「残念でした」
 妖精はニコリと笑う。そしてくるりと、私に背を向けると、
「もう、時間がないんだ」
 一言だけ、小さく言葉を声にした。

 南風が、また少し強く吹き抜ける。
「時間って?」
「これでお終いなの。名残惜しいけれど、私はそろそろ行かなきゃいけない」
「? これからどこかへ行くの?」
 むこうを向いたまま、妖精の小さな首がうなずく。

「そう。こんなに熱い日射しで、こんなに若緑に染まった桜の枝で……
 もう、時間が来たのよ。
 私はそろそろ…… 逝かなきゃいけないわ」

 声は少しだけ、震えているようだった。



 山の向こうから昇る太陽が、少しずつ、完全な円になってゆく。日射しが熱くなってくる。空もまた、明るく青くなってきていた。
「でもね」
 しばらく黙った後でもう一度私を振り返ると、妖精は少しだけ、無理に明るく絞り出すような声で言った。
「代わりにひとつだけ、教えてあげる。
 貴方は、満開の桜が見たいと云った。でも桜にはね、満開が無いんだよ」
「え……?」
「つぼみの八分が咲く頃になるとね、残りのつぼみが開く前に、最初の花が散ってゆくの。
 人が満開と呼ぶのは、八分咲きの頃のこと。満開って云うのは、つまり偽りなの。
 桜には……ううん、どんな木だって同じ。満開になる木なんて、どこにも無い」
「満開の桜なんて……無い……?」


   そんなはずはない。だって私は、あんなに何度も『満開』の桜の夢を……
 

「そう、満開なんて無いのよ……」


   いや、絶対に違う。桜は、満開があるはずだ。
   だって私の目には、こんなに鮮やかな満開の西行妖が……



「だから。
 だから、私は少しだけ悔しいわ。貴方が春を、愉しんでくれなかったことが……!!」



 震える声に前を向けば、白い妖精が肩を震わせ、西行妖の下でじっと私を見ている。
 大きな大きな、桜の木が聳えている下で。
 哀しそうな顔の、小さな小さな春告鳥が。

 大木の下の、小さな妖精。
 風に揺れる黄色い髪。哀しそうなその貌。降りしきる、滝のような花吹雪――


 ――花吹雪? 

 どうして。
 どうして桜吹雪が、こんなところに――









 ……

 …







   なんだろう、この気持ち。
   まるで、夢の中に居るような……

   ああ、そうか。
   私が見ていた夢に、そっくりなのね。
   西行妖、舞い散る桜の吹雪。




 でも、どうして。私は庭に立っていた。夢なんて見られるはずがないわ。
 現にほら。目の前の西行妖は、咲いてくれてはいない。
 夢の中だったなら、あれは絶対に「満開」で……



 どうして? どうして咲いてもいないのに、花吹雪が――?
 どうしてって、決まってるじゃない。

 私はあの日、この西行妖の木の下で……
 夥しい桜花の、美しく舞い散る下で……


 この、固く鋭い小刀の刃で……








   満開の桜……途轍もなく大きな木の下に、静かに立っている私。
   聳える桜の木、髪を撫でる桜吹雪。母親の腕のように私を包む、西行妖の桜のゆりかご。

   懐からそっと、小さな縮緬の袋を取り出す。袋を開けて現れる、鈍色の小刀。  
   柔らかい木漏れ日を照り返す鋭い刃の切っ先を、私は静かに躯に当てて――










『――――』



 ……誰……?









 誰? 貴方は誰? じっと私を見ている貴方は、一体誰?
 ……ああ、なんだ、春告鳥の妖精さんね。

 いつのまに、そんな色の服に着替えたの?
 私が見ていたのは白い妖精さん―― なら、今の貴方はさしずめ、黒い妖精さんね……
 ふふ、黒い妖精さんも、可愛いじゃない。





『……』
 え? なにか言った?


『……い?』
 なに、きこえない。



『貴方の春は…』
 え?









   『貴方の春は、もうおしまい?』









 ……。

 ええ、そうよ。
 私の春は、ここでお終いにするの。

 

 御免なさいね。
 実はね、私、たくさんの人の命を奪ってしまったの。
 沢山の人が持っていた春を、すべて奪ってしまった。

 御免なさいね。御免なさい。
 こんなことをしてしまったこと、深く後悔してる。
 だから、この桜の下で、すべて。
 何もかもすべて、「おしまい」にすることにしたの。



 この場所を選んだのは、最期の最期の、私のわがまま。  
 私自身の春は、こんなにも真っ黒に汚れてしまったから。

 だからせめて、この満開の春の下で。
 美しい桜の中にこの身を任せ乍ら、私は土に還ってゆきたいの。 


 こんなに綺麗で荘厳な桜の、少しでも私が土になれたなら。
 子供の頃からずっと大好きだった、この桜の一部になれるなら。
 ほんのちょっとだけだけど私は、救われる気がして――。

 御免なさいね、こんなわがまま。
 私の春は、もう真っ黒なの。
 そうまるで、貴方のその、服の色のように……。








『――――』






 どうして、妖精さん。

 どうして貴方は、そんなに哀しい貌をしているの。
 こんなに桜が降り注ぐ、美しい春の中なのに。

 どうして貴方は、そんなに真っ黒な服を着ているの。
 こんなに薄紅色に染まった、大きな大きな桜の下で。



『……』



 あれ。どうして。

 どうしてこんなに、桜が……紫色に染まって――?
  



『桜の花は、罪の花……』


 

 何……? どういうこと? 妖精さん。







『紫色の桜は、罪の証……これが貴方の、春』

「……!!」











 ……。
 そっか。そうだよね。
 こんな罪を重ねた人が、煌びやかな薄紅色の花吹雪の中で、静かに逝ける訳が無いか。

 紫色の桜か…… なんて毒々しくて醜いんだろう。
 他の花はともかく、桜だけはきっと何色でも綺麗だろうって、私ずっと信じてたのに……。






 まあ良いわ。さあ、お別れにしましょう。
 黒い妖精さん、貴方は最期まで、見て行くのかしら?

  
  





    この穢れきった春が逝く、醜い醜いその時を……?














 ……

 …



   「そう。貴方が出逢ったのは、黒い春」



 手の甲に、温かい感覚。
 
 目の前には、ひざまずいた妖精。


 その口が、私の手に重なっていた。




「今のは、貴方が……?」
 静かにその口が、私の手から離れる。
「さあね、でも」
 妖精は静かに私に背を向けると、
「私は春の妖精。春の木の考えてることくらい、触れれば分かるわ」
 そうつぶやいて、そのままゆっくり向こうへ歩いてゆく。

「貴方の春が、たとえ黒い春でも」
 遠くなってゆく妖精の声に、朦朧とした意識が現実に引き戻される。
「私は春を愛します。いのち生まれ、いのち消えてゆくこの美しい季節を、全て」
 透明な声が、あたたかな南風に乗ってやって来る。

 目の前の彼女の服は、黒ではなかった。
 何の曇りもない、晴れ渡った早朝のように澄み切った、真っ白な服を着ている。
 足を止め少し振り返ったその顔には、とっても嬉しそうな、だけど少しだけ寂しそうな笑顔が浮かんでいた。


 強い日射しが、彼女の後ろから降り注いでくる。
 それは紛れもない、夏の日射し。



「私は、あの西行妖の下で……? じゃあ、あの木の根元に埋まっているのは……まさか」
「そこまで」
 凛然とした声が閑かな空気を震わせ、私の言葉を遮る。
「待って、ひとつだけ……貴方は、あの時の、黒い妖精さんなの……?」
「いいえ」
「じゃあ、誰なの貴方は?」
「春にはね、白と黒、二つあるんだ。嬉しい春と、哀しい春のふたつがね」

 妖精はまた、むこうを向いた。

「春はね、いのちそのものだよ。生まれては消えて、いつかふたたび巡り来る」
「……じゃあ、来年もまたここで、貴方に逢えるのかしら?」
「それもいいえね。同じつぼみは、二度は咲かないよ。
 どんなに桜が咲いてもつつじが咲いても、来年の春はもう、今年の春じゃない。
 ……そうでしょ? 西行寺幽々子さん?」

 目の前の春告鳥が、ひときわ可愛らしくはにかんだ。
 




 そのとき。
 ひゅうっと、風が一際強く吹いた。

 舞い起きた砂の地吹雪に、堪えられず目を瞑る。
 さやさやと、木々の葉が騒がしく音を立てる。



 一瞬の間を置いて、やがて葉擦れの音が止む。
 乱れた前髪を掻き分けて、私がそっと、目を開けてみると……









   そこには、誰も居なかった。








 後ろを見やれば、広い庭が見えるだけ。
 上を見上げれば、すっかり夏の青空。
 前を見渡せば、いつもと変わらぬ茶色の西行妖と、若緑に染まった桜の木々。

 妖精だけじゃない。桜もつつじも。
 春はもう、どこにも居なくなっていた。





 ぼんやりと、西行妖に歩み寄ってみる。朝靄が彼方へ流れ去った庭一面に、春のを彩った小さな花びらが、姿変わり果てて無数に地に斃れている。枝を見れば新しい緑が息吹き始め、日が昇りきった空は深い青色に染まっている。

 私は今、夢を見ていたのだろうか。
 全てが幻だったように、また閑かになってしまったこの庭の中で。
 私はさっき、誰とお話をしていたのだろうか。
 目の前に居たはずの妖精は、一体何処へ行ってしまったのだろう。

 何かを思い出した気がする。私にとって、とても大切なことだった気がする。何だっただろう。
 目の前にいた妖精に教えられた気がする。彼女は私に、何を言ったんだろう。
 妖精は、白かったような気がするけれど、黒かったような気もする。

 あの小さな妖精に逢ったのは、これが初めてじゃないはず。じゃあ一番最初に逢った時、私は彼女と、一体何を話したのだろう。
 記憶に欠片ほどさえない遠い過去に、私達はどんな会話を交わしたのだろう。

 遠い昔に話したことは何だった?
 たった今話したことは何だった?
 いやそんなことより、私はさっき、とても大事なことを思い出したような気がするけれど――?

 ……何だっただろう。思い出せない。どうしても思い出せない、たった今の春の刻と、遠い昔の春の刻。
 揺れる木漏れ日。吹き抜ける南風。西行妖の、茶褐色に染まった裸の枝。
 不意に訪れた妖精。緑に染まった夏の庭。流れ去った春の刻。
 こんなに閑かな庭の中で、私はいったい……何処へ行っていたの――?


 だけど、何故だろう。朧気に憶えている、その夢のような時の中で。
 私はいくつかの春の旅立ちを、そっと見送った気がする。

 何があったんだろう。妖精さんの姿が見えないけれど。
 あの妖精さんは、また来年、この木の前にやって来てくれるのかな……?








 吹き抜けた南風に乗って、またひとひらの花びらが目の前に舞い落ちる。
 反射的に思わず西行妖を見やる。花は、ひとつも咲いてはいない。
 足下に視線を落とせば、周りの桜が落とした花びらが砂利石を覆っている。

 今年も西行妖は咲かぬまま、春が終わる。でも何故だろう、つぼみさえない茶色い枝なのに、今私の網膜には、紫色の花が咲き誇っている光景が焼き付いたように映っている。
 何故紫色の桜が見えるの? 毒々しくって気持ち悪くて、ちっとも綺麗じゃないのに。
 どうしてこんな幻影を見るんだろう。


 結局今年も叶わなかった願いだけど、願わくばいつの日か、この西行妖の満開を見てみたいものだわ。
 もちろん紫色なんかじゃなく、透き通った薄紅の桜色の花で。
 誰をも魅了する、見事な見事な西行妖の春を。

 きっと狂おしいほど絶景でしょう。きっと圧倒されるほど壮麗でしょう。
 いつかこの目で、じっくりと見てみたいわ。



 いつの日か、見られる日が来るのかな。
 何年かかっても良いけれど……そんな春は、本当に、私のもとに来てくれるのかな。

 これから四つの季節が巡り、やがてこの庭がまた薄紅色に染まるとき。
 私の目に映る春は……来年は何色なのかな……?
















 一つの花も宿さない西行妖と、地面で見る影もなく汚れた沢山の花びら。
 紫色の桜の幻影と、どこかへ還っていった純白の笑顔。

 記憶に影を残すいくつもの残像。夢から覚めた後のよう。
 私には分からない。一体どれが夢で、どれが現なんだろう?

 私がさっきまで見ていた春は、一体どんな春だった?





 ああ、本当に夢を見てたみたい。今ここで起きてたことが、何も思い出せないなんて。
 ……だけどなぜだろう、この手はいつもより、ずっと温かい気がする。

 まるで暖かい暖かい春風が、そっと口づけでもしてくれたみたい。
 それもとびっきりの満開の桜のような、美しくて穏やかで、可愛らしい春風が。



 ……

 …










 

 柔らかく吹き抜ける南風が、頬をくすぐる。頭の上は、抜けるような青空になっていた。
 ほけきょ、と、どこかで鶯の啼き声が一声聞こえる。綺麗な声だった。
 静かにそっと、耳を傾けてみる。しかしその一声を最後に、啼き声は二度と聞こえて来なかった。


 春告鳥が、どこかへ還ってゆく。
 そんな音が、聞こえた気がした。





 夏は、すぐそこまで来ていた。









 割と思い出深いですね。3年を越える年月を刻んで、こういう雰囲気の作品を書きたかったんだってまだ思い出せる作品は少ないですよ。
 今の自分ならこうしただろうとか、色々思い出される作品。
 裏を返せば、割と自分でも気に入っていた作品です。
 この作品を書いた頃は、中島みゆきの「私たちは春の中で」という曲を好んで聴いてました。超余談。
(初出:2006年6月1日 東方創想話作品集29)