【東京童夢】 |
Prologue:夢違世紀
「……うん、美味しいわ、メリー」
「でしょう? この店では正真正銘、昔から変わらず同じままの製法で作り続けているらしいの」
「ふーん。けどこれ、豆は完全に現代物よね。
巷には数百年前のコーヒー豆が溢れてるのに、なんかアンバランスじゃない?」
「何言ってるの、あんな合成モノ、このコーヒーにはまったく相応しくないわ。
たとえ現代物でも、天然モノが一番」
「あら、そうとも限らないでしょ……ってまあ良いわ、
メリーの言うとおりってことにしときましょう」
メリーが待ち合わせ場所に指定した喫茶店の自慢の一品は、なるほどコーヒーにうるさい彼女のお気に召しただけの味だった。
懐古ブームにほだされてうわべだけ繕った「昔ながら」とは、味も香りも気品も違う。
なかなか良い店を知ってるじゃないの―― 蓮子は心の中で、メリーにつぶやいた。
「あ〜美味しい。こんなに美味しい珈琲なら、今日はメリーのおごりね」
「何それ」
「だって〜、誰かさんったらこの間一人でお墓探検に行っちゃったんだもん」
「それについては悪かったと思ってるわ、蓮子。それに今日は、その事で貴方を呼んだんだから」
二杯目のカップの中身を、いささか冷めてしまった香りと共に飲み込むメリー。
梅雨の到来を告げる小走りの雨音が、二人だけの喫茶店を柔らかく包んでいた。
1:ヒロシゲ36号
「この間私が話したお爺さんのこと、憶えてるでしょう?」
「ああ、一昨日の講義中に話してくれたイタコの話ね。
お陰で二次元性精神学の内容がほとんど頭に残っていないわ」
「大切な講義を邪魔しちゃったことは謝るけど、イタコじゃないって言ってるでしょう」
「似たようなモンよ、聞かされてる私にすれば、口寄せを聞いてるのと同じだもの」
店に広がる重い音楽と一緒に、蓮子は一口コーヒーを飲み込む。
その話を蓮子が聞いたのは、三日前の講義中のことである。最初にメリーの口からそれを語られた時には、正直言って蓮子にはほとんヌ現実感が湧かなかった。
話を要約すれば、メリーはある日の帰り道で、ふと誘われるように近くの墓地に足を踏み入れ、そこで奇妙な霊と会話したということらしい。もっともそれ自体は秘封倶楽部にとって、ありふれた日常だ。
何でもそのお爺さんは、随分昔に亡くなった人だという。メリーによれば現世への未練がありそうには見えなかったと言うから、この世に漂う幽霊ではなく、正真正銘冥界にいる本物の霊だろう。
また知らない内にメリーは、妙な結界を飛び越えたに違いない。
彼は、かつて自分が訪れた不思議な場所への冒険譚をメリーに語ってくれたという。
もとより結界破りとオカルトが好きなメリーは例によって、その年寄り霊の言葉にすっかり耳を傾けてしまったらしい。
「それで、その民謡のことだけど……」
「ああ、『通りゃんせ』でしょ? ええ、もちろん知ってるわよ。日本では超が付くほど有名な民謡ね」
「有名なの? へえ、そうなんだ。じゃあ、私すごい人と話をしちゃってたのね。
だってその唄はお爺さんが考えたモノで、彼はその歌を唄いながら、
この世の誰も知らない、不思議な不思議な世界に行ったというのよ」
「それで?」
「彼は恐怖心と戦いながらその異世界を探検し続け、そしてついに巫女さんと出会って……」
「へえ、異世界で巫女さんねえ。確かにすごいわね、日本にもそんなガリバーが居たなんて。
それなら童謡なんかじゃなくて旅行記を書いてほしいものだわ、是非とも」
「真面目に聞いて頂戴、蓮子」
メリーがお爺さんの霊から聞いたという、有名な童謡の名前。
一人の探検好きな少年が、勇気を奮い立たせるべく口にした言葉、「怖いながらも通りゃんせ」。それが現代まで伝わり、後世の民謡になったというの。素敵な話でしょ―― と、それがメリーの話だった。
その曲名は、彼女……つまりマエリベリー・ハーンはともかくとしても、生粋の日本人である宇佐見蓮子にしてみれば、かなり馴染み深い童唄であることは間違いない。
それも、数ある童謡の中でも群を抜いて長い歴史を持つ歌だと聞いている。その作詞作曲家とあらば、私達はおろか、日本全国の民俗学者や歴史家が興味津々だろう。
だが、それほどの話題であるゆえどうしても、蓮子は疑いを拭えなかった。
「『通りゃんせ』は日本人なら誰でも知ってるビッグネームの童謡よ。
その神聖なルーツを、通りすがりの霊に聞いた与太話の内容で信じろというのかしら貴方は?」
「失礼ね、通りすがったのは霊じゃなく私よ」
「問題点はそこじゃなくて……だから、これよこれ」
ぺろりと人差し指を舐め、唾を付けた指で眉を撫でてみせる。
「どういう意味、蓮子?」
「だから……ああもう、変なところで外国人なんだから!
つまり、話が大きすぎるってことよ」
「ああ、そういうことね。大丈夫、面白さは私が保証するわ。
彼がその不思議な世界への入り口を見つけたのは、ある山の山奥らしいんだけど、
その山が実は案外近くにあるらしいのよ」
「……で、結局何が言いたいのよ」
「だから、ねえ、今度の週末……一緒に行ってみましょうよ、歴史ロマン溢れる童謡の故郷に!」
「うーん……」
それがつまり、今日メリーが蓮子に持ち込んできた提案―― オカルトサークル「秘封倶楽部」としての、部活動案の内容である。
別に蓮子自身、乗り気でない訳ではなかった。
真偽はともかくあの謎めいた童謡の発祥となれば、蓮子の学術的好奇心をくすぐる素材であることは間違いないのだ。
元より日本に伝わる文化というのは、なかなかに後世の尺度では測れないモノが多い。
万葉集に伝えられる我が国は、文字だけなのに現代よりどこかカラフルに映る。浮世絵に描かれる富士山は、どう見ても現代のそれとは印象が違う。
古代の日本はきっと、別の国と言ってもいい所だったのだろうと蓮子は思っていた。
だから『通りゃんせ』が生まれた世界というのも、少なからず面白そうな香りはする。
話が大きすぎるというのは紛れもない本心だが、探検が面白いモノになるためには、話なんて大きければ大きいほど良い。
最近真面目なサークル活動もしてなかったし、何より久々の純和風だし、メリーの欲求不満を抑えるのにはちょうど良いだろう。
ただ、どうしてもメリーの前で、久々の活動を喜ぶような仕草は出来なかったのだ。
疑っているマネをしてでも。
なぜなら――
「しょうがないわねえ。良いわ、付き合ってあげるわよメリー。
貴方が出逢った老人の戯れ言にね」
「やったー、そう来なくっちゃ! ありがとう蓮子!」
「その代わり……」
今日はメリーのおごりね、と。
乗り気でないように装った唯一の理由をメリーに告げて、蓮子は珈琲の最後の一口を飲み干した。
2:53ミニッツの青い海
少し前のこと、二人が住む場所からほんの一時間ほどの場所に「幻想テーマパーク」なるモノがオープンした。
桃太郎や一寸法師などの古い童話を手軽に疑似体験出来る、新世代と旧世代の融合型遊園地と銘打たれたそのテーマパーク。懐古ブームに乗って、連日多くの親子連れや観光客で賑わっているようだ。
太古の物語を文字通り「身を以て」体験出来るとあって、日本はおろか世界中の懐古マニアの注目を集めているという。
「あのテーマパーク、どうも物足りなかったわね」
「あら、どうして? 私は結構気に入ったけれど」
「蓮子は『夢と現実は同じだ』なんて言う人だからそれで良いのよ。
私からすれば、現代の科学で古代の幻想を掘り起こそうなんて、とんだお笑い話だわ。
それの何が懐古だっていうの?」
「良いじゃない、その科学のお陰でちょっぴり昔日の夢が見られるんだから」
「幻想テーマパーク」は、仮想現実に身を置いて臨場感を味わうというフルデジタルの遊園地である。
人間も妖怪も、お化けも鬼もデジタル―― 早い話が、精巧な舞台装置の上で学芸会の役者になるようなモノである。桃太郎のアトラクションでは桃の中に入れるし、一寸法師なら背景画像が全て拡大処理され、小人気分になれる。
どんなに万緑の山や紺碧の空が広がっていたとしても、全てはスイッチ一つで消えるデジタル映像なのだ。
前の週末に二人で行ってきたそのテーマパークの感想は、蓮子とメリーで正反対に分かれた。
もっとも、それでなくとも全体的に現実主義者には味わい深く、理想家達には些かアレルギーであるというのが大まかな利用者の感想傾向となっているようだ。
現実主義者がこれを愉しむというのは一見可笑しいようで、実際のところ全くもって自然な成り行きだと蓮子は思っていた。
現実主義はつまり、現実だけを見るために夢と現実を峻別する者のことである。よって現実主義者の方が、仮想現実は仮想現実として愉しむ「度量」を持っているのは必定だ。
作り物の空想を愉しめないのはいつも、夢と現実の狭間にプロセスやリアリティの整合性を求める、それこそメリーのような石頭の人間である―― と、蓮子は常々想っていたのだ。
あのテーマパークで蓮子が不満に想っているのは、莫大な設備投資の滅価償却を狙ったバカ高い入場料くらいだ。
ああ、あとレストランのカレーライスも不味かったかしら?
「後世の人間が後付けで解釈したテーマパークなんて、夢だろうが現実だろうが愉しい訳無いじゃない。
あそこじゃ『通りゃんせ』の故郷は、太宰府の天満宮だってされてたわよ」
「天神様の細道じゃ〜♪ ……か。なるほどね」
「なるほど、じゃないわ。なんたって私はこの耳で直接聞いたんだから、
そんな説は間違ってるに決まってる。ほんと、無責任なアトラクションね……」
一人で興奮するメリーに、私はたまらず問いかける。
「無責任なのはメリー、貴方よ。今私達がどこに向かって歩いてるのか、ちゃんと分かってるの?」
3:竹取飛翔
異世界へとお爺さんを導いたその「光の扉」は、子供の眼にだけ見えるモノだったという。
友人と二人山奥を探検して、見つけ出したのだそうだ。
そして、もしも世界と世界を結ぶ出入り口があったとするならば、それは最早紛れもなく「結界」と言える代物だろう。
或いはメリーに話しかけたという時点でその爺さんには、メリーの眼の力がどんなモノなのか分かっていたのかもしれない―― 蓮子は歩きながらぼんやりと、そんな想像を思い浮かべていた。さもなければ、巡り合わせがあまりにも出来すぎているとさえ思えるのだ。
たまたま結界を見つけられる眼を持った少女に、たまたまそんなことを話したなんて。
山道を奥へ奥へと歩み続けるメリーは、ひょっとしたらもう、結界の「匂い」を嗅ぎつけているのかもしれない。
あてもなく歩いているように見えるメリーの後ろ姿に、大した文句もつけず蓮子が従ってきたのはそんな理由からである。
もっともそうでなくとも、いざとなれば自分が星と月さえ見ればいいと蓮子は思っていた。
昼間はともかく日が落ちた後なら、元いた場所に戻るくらい造作もない。
……それにしても。
「行ってみよう」と軽々しくメリーが言った場所が、こんな険しい山道だとは。
「さあ、今に結界を見つけてみせるわよ。大船に乗ったつもりで、ド〜ンとお任せなさい」
「ただの大型の泥船じゃなきゃ良いけどね、かちかち山の狸さん?」
「誰がイヌ科よ。ま、ともかく頼りにしてるわよ、いざとなったら貴方の眼も」
「ええ、私が居る限り迷わせはしないわ」
「まかり間違ってうっかり迷わせたらババ汁にするからね」
優しいお婆さんはお爺さんに相談して、狸とウサギを改心させ仲直りさせると、彼らを野に還してやりましたとさ……
幻想テーマパークの「かちかち山」の結末を思い出しながら、蓮子は「ババ汁」の味を想像していた。
かつて「かちかち山」は、お婆さんの肉をお爺さんが狸肉と思い込んで食べてしまうという結末だったという。
やはり昔の日本は、今とは別の国なのかもしれない。
「やっぱり狸じゃない、メリー。私がいなければきっとこんな竹林、一度迷ったら出て来られないわよ」
「はいはい、感謝感謝と。それにしてもほんと、見事に綺麗な竹林ねえ。
でも、これも合成品ね。作られてから、何年か経ってるみたい」
周りはいつしか、不自然に鮮やかな緑色で覆われていた。人の手が作り上げた、人工の竹薮である。
こういう合成の竹林が頻繁に作られるようになったのは、実際は今から少し昔のことらしい。
本来竹が萃まると、人間の方向感覚を狂わせる魔力が生まれる。大昔多くの妖怪が竹林に住んで迷い人を攫っていたのは、その自然の力を借りたものだった。
だがいつしか人間はそれを理解し、都合が悪ければ竹を手当たり次第伐採するようになる。そしてさらに後の時代になって、逆に人払いに利用するようになった。
科学の進歩が、竹林の合成を可能にしたのだ。
その頃にはとうに絶滅していた竹という植物を、科学の力で無理矢理蘇らせることによって。
人間は、魔力こそ無くとも取りあえず迷路「っぽい」場所を作ることには成功した。
「合成ってことは、ここは筍一本生えないのよね。面白くもないわ」
「かぐや姫にも逢えないわ、きっと」
「あら、幻想テーマパークのバーチャルお姫様には逢えるかもよ?」
「う〜ん……ナマモノの方が良いわねえ、お姫様に関してはやっぱり」
「あはは」
あまりに精巧に出来た合成物は、時として「本物」とほぼ全く同じ性質を有してしまうことがある。
竹林から吹いてくる風がどこかしら魔力の気配さえ帯びているのは、きっとこの竹林があまりにも「本物」に近づきすぎたせいだろう。
それだけ人間の科学力は、長足で進歩してきたのだ。
或いはかぐや姫の一人くらい、どこかの節に入っているかもしれない。
その時。
不意に、前方の足音が途切れる。
つられて立ち止まった蓮子の前には、呆然と動かないメリー。
その眼は、目の前の宙をじっと見つめていた。
4:彼岸帰航
先週末に行った幻想テーマパークでは、メリーがいくつもの結界を見つけて騒いでしまい、蓮子はそれをなだめるのに必死だった。
本物に近づきすぎた「バーチャル」が本物と同じように結界を生んでしまい、メリーにはそれが気になって仕方なかったようだ。
この調子だとあのテーマパークのアトラクションには、いくつかの霊くらいは簡単に宿っているのだろう。
「どうよ蓮子、この光の扉! まさしくお爺さんが言ってたとおりの扉じゃない!」
「落ち着きなさい。ねえメリー、気のせいかコレ、この間テーマパークで見た扉そっくりなんだけど」
「大丈夫よ、こんな山奥にテーマパークは無いわ。
というかテーマパークの扉が、この結界を参考にして作られたのかも!」
「参考って……貴方以外に結界が見える人間がポロポロ居てたまるもんですか」
蓮子は本来、結界を見通す眼力など持ち合わせてはいない。ならば自分の眼に見えているその扉は、本来結界と云うべきではないのかもしれない。
だが、メリーに語りかけた霊の言葉を信じるなら、やはりそれは紛れもなく結界だろう。
「メリー、どうするの」
「何を」
「この扉が、貴方がお爺さんから聞いた異世界への入り口なのかどうか、信じる根拠は何一つないわ。
もしかしたら、向こうの世界に行ったっきり戻れないかもしれない。命を落とすかもしれないわ。
死を賭すなんて、サークル活動にしては危険すぎる……さあ、どうする?」
「うふふ、彼の世なんて、数ある異世界の一つじゃない。
むしろ彼の世に近い場所なら、一番遊び慣れた場所だわ」
本来結界を行き来して遊ぶのは、近代の不文律として禁止されている。
が、全国の大学にはそんな禁を平気で破る不良サークルがある。もっとも大抵は肝試しをして遊ぶ程度のお喋りサークルであり、秘封倶楽部ほど「本格的」に活動するサークルは余所に類を見ないらしい。
構成員が構成員なので、本格的になってしまうのも当たり前のことではあるのだが。
結局、ここでどんなに宥めすかそうと、メリーは止まりはしないだろう。
それでもサークル長として、蓮子はメリーに「一応」問いかけたのだ。
そして答えは、やはり蓮子の予想通りだった。
近代精神学では、夢と現を同一視するがあまり、生と死さえも同じと解釈する学説も存在する。
確かに一連の流れであることは間違いないが、実質的に考えればそれはあまりにも暴論に過ぎると蓮子は――
「もし仮にこの先が彼の世だったとしても……」
「え? 何?」
物思いに耽っていた蓮子が振り返ると、メリーの身体は既に、半分ほどしか見えなくなっていた。
「この先が彼の世でも、それ以外の世界でも 結局の所はどのみち同じよ。
もう一度ここを通って、帰ってくれば良いだけのことじゃない!」
「あ! ちょ、待ってよ、メリー!」
蓮子を無視して、メリーの身体が光に包まれて消える。
蓮子は慌てて、必死でその後ろ姿を追った。
5:青木ヶ原の伝説
世界には磁界というモノがあると明らかにされたのは、最早遠い昔のことだ。
金属を引きつけるその性質を利用して、人間は方位磁針というモノを発明した。
現代に至るまで、それはほぼそのままに現役の道具として息づいている。
今や数少ない古代道具のひとつだ。
「メリー、地球上かどうかさえ疑わしいこんなところで、方位磁針なんて使って役に立つの?」
「立たないわよ。だって方角が分かったところで、どっちに行けばいいかなんて結局分かる訳ないじゃない」
「さすがねメリー、たくましいわ」
私の掌の方位磁針を覗き込もうとした蓮子は、あっさりとその首を引っ込めてしまった。
「それにしても深い森ねえ……しかも、紛れもなくこれは……」
「そう、合成じゃ敵わない、天然100%の森。
どうやらさっきまで立ってた場所じゃないことだけは、確かなようね」
蓮子には告げなかったが、私が掌に弄ぶ方位計の針は今、くるくると独楽のように回転している。
天然の樹海では方位磁針が効かなくなることを、私は初めて身を以て体験した。
どうせ蓮子に教えれば方位磁針が壊れているとでも言いそうだから、私は黙ってそれをポケットにしまった。
蓮子のような現実主義の学者は信じないけれど、実際のところ磁気も霊気も似たようなものだ。
ただ磁気は金属を惹き付け、霊気は魂を惹き付けるというだけの違いしかない。「気」というカテゴリに類する、正真正銘の仲間同士だ。
樹海の中で方位磁針が効かなくなるという話はつまり、決してオカルトでも何でもない。
磁気が霊気に干渉しないなどと、どんな科学によって誰がどうやって証明したというのか。蓮子が知っているなら教えて欲しいくらいだ。
天然の竹林が人を迷わせる魔力を持つのと同じように、天然の樹海には人を異世界に誘う霊力を帯びる性質がある。
お陰で本当は色々な世界の入り口が開き、人はホテルの部屋を割り振られるようにして様々な異空間ホールに墜ちてゆく……のだが、一般社会の間で混乱を避ける意図から、政府の方針で異世界は全て「彼の世」で統一されている。
従って世間一般ではその霊力定義がタナトスに統一され、樹海は自殺の名所として認識されている。
……。
ガサッ。
「ねえメリー……何か今、物音がしなかった?」
「したわねえ。きっと動物が居るわ、その繁みの中に」
そう、方位磁針など本当は要らない。ここが異世界で、あの光の扉が私達をここへと導いたなら?
きっとまた違う何かによって、私達はどこかへ案内されるだろう。
この天然の世界が持つ、天然の「タナトス」によって。
ガサガサッと、一際大きな音と共に草の中から現われたのは。
ピンと立った、長細い二本の白い耳だった。
6:お宇佐さまの素い幡
……
……
ねえ蓮子、因幡の素兎って物語、知ってるでしょう?
ほら、テーマパークで一緒にアトラクションに入ったじゃない。
どうしてあの物語、素兎が救われる結末が用意されてると思う?
悪いのはサメを騙したウサギの方なのに。
その理由は一つ。兎が、幸せを運んでくれる幸運の動物だからよ。ほら、人間だって大きな耳のことを「福耳」と云うでしょう?
あのウサギの耳を御覧なさい。あんな大きな福耳よ、幸せを運ばない訳がないわ。
……ちょっと。何笑ってるのようさみみ蓮子、じゃなかった宇佐見蓮子。
これは極めて大真面目な話よ。
良い、蓮子? あの物語の主人公はね、ウサギじゃないの。皮を剥かれたウサギを最初に見つけて、潮風に当たれと唆した意地悪なヤツ……彼が本当の主人公。
一見彼は、悪行の報いを受けたウサギが更に苦しむための、ただの引き立て役のように見える。
でもね、彼は実は人間という生物そのものを投影してるキャラクターなのよ。他人の不幸を喜んで自らの幸運のチャンスを逃してしまう、馬鹿で滑稽な、哀れだけど典型的な人間の姿をね。
例によってテーマパークでは、助けた大国主命と助けられたウサギが主役のハッピーエンド物語だったけど、実際はきっと、そういう皮肉のこもった物語なのよアレは。
今私達の目の前を走るあのウサギが、本当に私達をどこかへ案内しようとしているのかどうか……私にも判らないわ。
或いは私達をこの世界で騙したりとか迷わせたりとか、何かしらの企みを巡らせているのかもしれない。
だけど、あんなに楽しそうにピョンピョン跳ねてゆくのよ? 悲惨な結末なんて、たぶん何も待っていないわよ。
……え? それじゃあまるで、私達がサメみたいじゃないか、って?
あはは、面白い事云うのね蓮子。もしあのウサギが私達を騙してたとしたら、私達は確かにサメね。
うん、それって案外的を射た言い方かもよ。
あの物語でも、嘘にさえ気付かなければ―― きっとサメは最後まで、ウサギを怒ることなんて無かったはずだもの。
そう、嘘を最後まで信じ通せた時、嘘をつかれた人が必ずしも傷つくとは限らないわ。
だから私は、あのお爺さんの話を信じてみることにしたの。仮にあの「話」が嘘だったとしても、それはそれで良いと思った。
だって、本当に「幻想の郷」という場所があるなら……嘘が本当になっちゃうくらいの夢、泡沫の時だけでも見られるような気がしない?
『通りゃんせ』を唄いながら旅した異世界―― ほんの一瞬の夢の中でも、もし存在してくれたら嬉しいじゃない。
そしてもしそんな夢が見られたなら、それが嘘だなんてこと知ってしまう必要は何処にも無いわ。
そんな世界に蓮子と旅が出来ただけで充分。お爺さんにも、心からありがとうと言える。
それに、ひょっとしてひょっとしたら――
夢が現実に変わる、そんな奇跡が起こるかもしれないじゃない――?
視界が不意に開ける。枝葉の遮りが無くなり、空から溢れ出した陽光の中にウサギが溶けて消える。
深い森を抜けたそこには、太くて赤い柱が二本、天に向かって高々と生えていた。
7:月まで届け不死の煙
人間が神様を「必要」としなくなって、どれくらい経つのだろう。
あらゆる技術と知識を手に入れ、何もかもを創り出すようになるにつれて、神様という動物は人間の心から消えていった。
神に祈ると言うからには、その願いが人間の力では実現不可能でなければいけなかったからだ。
「見なさい蓮子、この大きな鳥居。お爺さんの話したとおりだわ」
「それで、この先に行くとどうなるの? それもお爺さんに聞いたんでしょう?」
「この先でお爺さんは、巫女さんに怒鳴られて尻尾を巻いて帰ったらしいわ。
そう、この先に行けばいよいよ、超恐怖・戦慄の巫女さんとご対面って訳。……ワクワクするわ」
「それにしても、見事な鳥居ね……神社の名前は……はくれい神社、と読んで良いのかしら」
目の前の鳥居のあまりの大きさに、蓮子はしばし心を奪われていた。
鳥居というものがこんなに大きいということを、今まで蓮子は知らなかった。
いくら何百メートルの鳥居が作られても、所詮現代のそれは無機質な作り物でしかない。
現代っ子の蓮子が初めて見た「本物の」鳥居。それは恐ろしいほどに大きく、紅く、そして神々しかった。
鳥居はもともと、神の世界の入り口として立てられた物。
神が少なくなった時代に、鳥居がただのモニュメントでしかなくなった理由は想像に難くなかった。
「ねえ、あの鳥居、何かとまってるわ。
鳥みたいね。白鳥かしら?」
「メリー、白鳥は樹の上に止まったりしないわ。
あれは鴇という鳥よ」
「え? トキって随分昔に絶滅した鳥でしょ。それに、この間テーマパークでミニチュアを見たけど、
あんな赤茶けた白色じゃなかったわ。もっと純白の、綺麗な羽だったはずよ」
「貴方が鴇という鳥を知ってたのは感心するわ。
だけどメリー、紛れもなく目の前にいる鳥こそが、本物の鴇なのよ」
「ふうん。まだこの世界には、生き残ってるのねえ……」
世界最後の鴇が死んだのは、完全に実用的なクローン技術が完成する三日前のことだった。
あと一歩のところで、本物の鴇を永遠に世界に遺すという夢は叶わなかった。
現代に残るバーチャル鴇の羽根の色は、プログラマーの頭の中のイメージによって作られた色。
本物をきちんと勉強した蓮子から見れば、現代の鴇はどれも純白すぎた。
鴇の羽根の色はわずかな薄黄色と赤みとが混じり、「トキ色」という色名を生むくらい、他のどんな文字にも例えようのない色だったのだ。
たった三日間のすれ違いが、彼の本当の色を、この世から絶滅させてしまった。
結局人間は、神様を手放すことは出来ないのだ。
なぜなら、現に「本物」の鴇を、人々は失ってしまったからだ。
それが例えわずか72時間の差だったとしても、この美しい鳥に永遠の命を与えることは出来なかったことに違いはない。
例えばあの鴇を捕獲して現代に持ち帰ったなら、彼の細胞を写し取って永遠にその姿を留めさせることくらい、今ここで撃ち殺すよりも簡単なことなのだろう。
永遠に存在する「容れ物」を細胞一つから繰り返し造り出す科学力は、人間は既に備えている。
だが鴇も人間も、「中身」だけはどうしようもなく入れ替わってゆく。
客観は変わらなくても、主観が変わってゆく。だからこそ、偽物が本物と乖離してしまう。
鴇も、鳥居も。
人が「不死」を僅かな神に恃み続ける限り、きっと永遠の鴇は生み出せないだろうと蓮子は思った。
終わりが無いことを見届けられる者がいない限りは、「永遠」さえもまた、誰かの主観でしかないのだ。
一番最初に人間が生み出す「永遠」のアイテムは、どうやら私達の命そのものでなければいけないらしい。
8:レトロスペクティブ京都
二人で手を繋いでくぐった「本物の」鳥居の先は、不思議な空気に溢れていた。
温度や風向きなどという尺度では測れない、二人が暮らす時代とは明確に異なる空気が流れている。
「こんな空気は、そうそうお目にかかれないわね。
あ、空気だからもともとお目にかかるのは不可能かしら?」
「蓮子ももっと神社や寺に行ってみなさい。場末の古寺あたりなら結界も豊富だし、
この手の空気はちょこちょこ渦巻いてるわ」
「それは私達が住んでるのが、世界屈指の霊都だからよ。
もうこんな空気がある場所なんて、数えるほどしかないわ」
「それを言ったら京都でだって稀よ。近代化が進んじゃった今となっては、
ここまでの霊気が漂うのはせいぜい化野か伏見稲荷の山奥くらいだわ」
古びて崩れかけた石階段を、そろそろと昇る。手は勿論、繋いだままで。
二人とも、決して弱虫や臆病ではない。なのに握りしめた互いの掌を、二人とも離すことが出来なかった。
得体の知れぬ恐さが汗となって、ふたつの掌の間で滲み、互いにひんやりと混じり合ってゆく。
結びが緩みそうになるたび、どちらともなくきゅっと、指に力を込めて強く握りなおした。
石階段を昇りきると、やがて小さな小さな建物が見えて来た。
鳥居があったからには、恐らくこれが神社なのだろう。
「本物」の鳥居に負けず、こちらもまたれっきとした「本物」の社殿だった。
「木々の一本一本が、まるっきり私達の普段見てるものとは違う。
天然とか、合成とか以前に」
「葉の一枚一枚に、強い霊力が渦巻いてるわ。正真正銘のひもろぎよ。
後から作られた林ではなく、この神社に集まった霊力がそこにあった樹に宿ったものね」
「ええ、今まで行ったことのあるどこよりも、『それらしい』雰囲気を感じるわ」
「そりゃそうよ、『それらしい』じゃなくて、『それ』そのものなんだもの」
それは、気を紛らわせる他愛ない話にすぎない。
それでも言葉を互いに聞き合うことが、相手が隣にいることを確認する手段だった。
繋いだ手がまだ「相棒」のそれであることを確認するための、ささやかな一つの方法。
この世界で迷子になってしまわないようにする、蜘蛛糸のような命綱。
それでも。
これまで結界巡りを幾度も重ねてきた二人の勘は、「それ」に気付くのには十分だった。
「ねえ、蓮子……」
「しっ。分かってるわ。誰かいる、この先に……」
蓮子もメリーも、ここまでの「肝試し」は久しぶりだった。メリーに話しかけたお爺さんは、少年時代きっと相当な腕白少年だったのだろう。
今の日本と同じように、この世界もまた、お爺さんが訪れた時代から遙かな時間が流れているはず。それでも、二人が住んでいる日本ほど「残酷な」歳の取り方はしていない……蓮子は半ば直観で、憧れにも似たことを考えていた。
物音を立てぬよう、すり足でそっと社殿に近づいてゆく。
道の真ん中を避けるように歩きながら、時々後ろも確かめる。
「……」
「……」
話し声が聞こえる訳でもない、仕事の音が聞こえる訳でもない。
しかし蓮子もメリーも、しっかりと感じ取っていた。
少しずつ、その「誰か」の気配に近づいていることを。
それは、お爺さんの話していた「怖い巫女さん」とやら?
それとも……
「メリー! あそこ!!」
9:Locked
Girl 〜少女密室
最初に蓮子が見つけたもの。
それは、美しい人影だった。
長い黒髪が風に揺れ、束ねたリボンの赤が、閑かな緑の森にひらめく。
紅白色の衣装が木漏れ日を照り返し、手に持った湯飲みの湯気に溶け合う。
湯飲みを口につけ少しだけ中身を飲むと、少女は小さく溜息をついて空を見上げた。
その顔は、今にも日射しに溶けてしまいそうなほど柔らかい。
何もしていないのに嬉しそうで愉しそうで、笑顔にすら見える。
古びた社殿の古びた縁側に座っていた「恐怖の巫女」は、とても穏やかそうで、可愛らしい少女だった。
「ちょっとメリー、全然話が違うじゃないの」
「って、そりゃそうよ、お爺さんが巫女を見たってのはいつの話だと思ってるの」
「でもさあ、冷たくて怖そうだってメリーが散々言うからてっきり……。
ずいぶん可愛らしくて温和そうで、どことなく春っぽくて間の抜けてそうな巫女じゃない」
「散々怖いと言ったのは私じゃなくて、私が話を聞いたお爺さんの霊よ」
遠い物陰から、二人でこっそり伺ってみる。
「本物の」神社に居る人間としては、少女はあまりにも「普通」な人間に見えた。
固く繋いでいた二人の手は、いつの間にか自然にほどけていた。
木陰から流れてくる涼しい風が、掌や背中に滲んだ冷や汗を乾かしてゆく。
二人を包む空気は、さっきまでと同じの妖しい空気。
それでも、感じていた冷たさや怖さは、もうそこにはなかった。
つい、と、メリーが蓮子の袖を引っ張る。
「蓮子、あれ……」
「何か飛んでくるわね……鳥かしら……?」
それは、鳥ではなかった。
程なく風を切り裂いて近づいて来たのは、それもまた紛れもなく「人間」だった。
丈の高い黒の帽子を被った、金髪の少女。
巫女とは違い抜け目の無さそうな、悪戯好きな子供のような眼をしていた。
やって来た彼女に、巫女の穏やかそうな顔が少し曇る。それでもその眼は、彼女を嫌っている眼ではない。
金髪が、なにやら巫女に話しかける。巫女はぷいっと、そっぽを向く。
金髪がそれを見て、ニヤリと笑い、また何か言う。巫女はそれを見て、呆れたように溜息をつく。
その表情のまま、二人は愉しそうに会話をしている。
彼女らの会話は、声が聞こえずとも和やかな雰囲気が伝わってきた。
紛れもない異世界の神社の境内なのに、蓮子はまるで、いつもの大学にいるような錯覚に襲われた。
自分たちが大学で聞く日常的なおしゃべりと、巫女達に大きな差があるようには見えなかったのだ。
全てを達観していそうな黒髪の少女と、全てを愉しみそうな金髪の少女。
まるで私達のようだと、蓮子は思った。
ここは本当に、自分が思っていたような異世界なのだろうかと。
お爺さんの話とどこかが違うと、メリーは思った。
ここは本当に、お爺さんが訪れた世界なのだろうかと。
いいや、それでもここは異世界に間違いない。蓮子はそう思った。
いいや、それでもここはお爺さんが訪れた場所に違いない。メリーもそう思った。
間違いなく、自分たちの世界とは別の場所であることは確か。
それでも、蓮子もメリーも思い始めていた。きっと彼女らは、自分達と何も変わらないんじゃないか、と。
蓮子の友人が誰も異世界を知らないのと同じように。彼女達もまた、ここ以外の世界を知らないだろう、と。
メリーは神社に入って以来、お爺さんの気持ちが少しずつ分かり始めていたのだ。異世界に来たということで頭が一杯になり、混乱し、恐怖に怯え、巫女とたった一言言葉を交わしただけで逃げ帰ったというお爺さんの気持ちが、ようやく分かった気がしていた。
怖さは感情であり、感情は主観である。やはり、自分が当事者になってみなければ分からないものだ。
だが今、巫女と金髪の少女は愉しそうな顔をしている。
そして横を見れば、蓮子もまた怖がるどころか、どこか愉しそうな顔をしている。
結界に囲まれた秘境の異世界めぐりとして、自分たちはこの「幻想郷」と称される場所へ冒険にやって来た。だけど、結界がどちらを囲っているのかという問いもまた、鳥居や鴇、怖さや愉しさと同様「主観」でしかない。
傍の客観事実とは、「二つの世界の境界に結界が存在している」ということ、そして「四人の少女が風に吹かれている」ということだけ。
自分はどうやら、お爺さんが気づけなかったことに気付くことが出来たらしい。メリーはそう思った。
お爺さんの怖がりようを充分に理解出来た後で、メリーには「その次の」感情が芽生え始めていた。
そして、それならば―― 次にとるべき行動は、決まっていた。
「ねえ、蓮子……」
「なあに、メリー……」
メリーはぼんやりと、隣に語りかけてみる。
振り向いて応えた蓮子。その顔は、メリーの言わんとしたことを理解しているようだった。
メリーは、少しだけほっとした。
この後、一体どうするか……二人の答えは、どうやら一致を見たようだ。
談笑を続ける巫女達を見つめながら、そっと、二人は腰掛けていた石から立ち上がった。
10:千年幻想郷
光の扉をくぐり抜けると、不自然な緑色が再び二人を出迎えてくれた。
本物の霊気を浴びて戻ってくると、この竹林など張子の細工のようだ。
威厳も妖しさも、おまけのように薄いものでしかない。
まあ、実際に人造物であることは間違いないのだから、当然のことである。
「本当に良かったの、メリー?」
「何が?」
「これじゃメリーの聞いたお爺さんと一緒じゃない、私達の体たらくは」
「あら、それは『主観』ね。私からすれば、お爺さんとは違う冒険を出来たつもりよ」
「あ〜はいはい、メリーの言うとおりってことにしておきましょう」
蓮子はあっさりと、メリーの言葉に折れる。
蓮子自身この冒険に、ちっとも不満は無かったからだ。
たぶんあのまま巫女達に話しかけていたら―― きっと激しく後悔しながら、この竹林に戻って来ていただろうとさえ思っていた。
巫女達に気付かれぬようそっと帰ってきたこの選択は、きっと間違っていないはずだと思った。
どうして子供の眼が、昔と違って輝かなくなったか?
それは現代に残る幻想が、すべて「タネも仕掛けもある」手品になってしまったからだ。テーマパークしかり、ヒロシゲしかりである。
幻影の世界に正解や理屈など、欲しがるべきではない。
メリーに話しかけたお爺さんがそうであったように、今の自分たちがそうであったように……全ては泡沫の夢が見せる、ひとときの幻想映像であればいいのだ。
結局、あの巫女と金髪がどんな少女だったのかは分からない。
本当は嫌なヤツだったかもしれないし、とっても気さくで可愛い、年頃の少女だったかもしれない。
後者だったら、ちょっと勿体ない気もする。それでも、やっぱりこれで良かったんだとメリーも蓮子も思っていた。
あの世界はあの世界、私達の世界は私達の世界で、この後も止め処なくそれぞれの時が流れてゆくのだろう。
どちらが恵まれているか、どちらが「最先端」か……それさえも決めるべきではない。決まるはずがないのだ。
コーヒーの製法が古代風でも、古代豆を使った方が美味しいとは限らない。それと同じである。
人工の古代豆が美味しいとも、天然の現代豆が相応しいとも限らない。
二つの世界が持っている、二つのタイプの幻想。
それぞれ対照的な二つの「幻想郷」は、きっとどちらも互いを侵すことなく、この先気の遠くなるような長い時を刻み続けるだろう。
どちらが幸せか……正解の答えなど在りはしない。
「さあ、帰りましょうかメリー」
「帰るのは良いけど蓮子、本当にソレ、電車に持って乗るの?」
蓮子の手には、向こうの世界で去り際に木の枝で苦労して掘り起こしてきた、土だらけの筍が一本。
「そうよ。天然の筍、一回で良いから食べてみたかったの」
「蓮子がそう言うなら良いけど。
ちなみに私は筍より、本当は鴇の味噌汁を飲んでみたかったんだけどなあ……」
「ちょっと、あの鴇が帰り際にも鳥居にとまってたら、殺して捕ってくるつもりだったわけ?」
「そんな気はなかったわよ。生け捕りにするつもりだったの」
「さすがねメリー、たくましいわ」
星の数ほどある絶滅危惧動物の中で鴇だけがことさらに取り上げられるのは、その美しい姿が大きな理由の一つであることは疑いない。ならば幻想テーマパークに純白の鴇が居たとしても、それは無駄な存在ではないのかもしれない。
だが味噌汁となると……天然の鴇が絶滅した今となっては、もう味わうことは出来ない。だからメリーは、ちょっとだけ味わってみたかったのだ。
しかし……それはそれで、なんとなく気の引ける話でもある。心への風当たりの善し悪しがそのまま価値判断に結びつくことは、どうやら避けられない話らしい。
ならばご都合主義のような現代の懐古ブームも、それはそれで受け入れる度量が必要かもしれない……メリーはちょっとだけ、蓮子を見習うことにした。
幻想は、タネを知って楽しむべきものではない。
来週末にでももう一度、幻想テーマパークを訪れてみることにしよう。
「さあ、そろそろ東京駅ね。一時は心配したけど、ヒロシゲの終電には余裕で間に合いそうね」
「そうね……って、蓮子ちょっと待って。アレ、何かしら?」
11:最も澄みわたる空と海
「リンゴ飴、チョコバナナ、綿菓子……金魚すくい、ヨーヨー釣り、お面のお店……
キャー、凄いわ蓮子! ほらほらこっち!」
一人で駆け出してゆくメリーを、呆れ果てて蓮子は見送っていた。
丸一日山道や異世界を駆け回った後で、どこからそんな元気が湧いてくるのだろうと。
現在の東京駅、いわゆる卯東京駅のすぐ横にあるこの遊園地。これこそが大人気ワンダーランド・幻想テーマパークである。元から有名な遊園地として長年親しまれてきたその施設を一新、ついでに隣にあった古い野球場を取り壊してまで敷地を広げ完成した、世界最大級の広さを持つ遊園地である。
今日一日ことあるごとに話題に上ったそのテーマパークの方を帰り際に見やった時、その派手な看板に気付いたのはメリーだった。
「縁日デー」……そう銘打たれた今日のイベントは、夏祭りの夜店を思わせる、懐かしの縁日屋台の列だった。勿論デジタルではない、正真正銘本物の屋台である。
無数の赤提灯が揺れる道の両脇から、美味しそうな香りと愉しそうな笑い声を帯びた風が吹いてくる。
「ほらほら蓮子、風船貰っちゃった風船!」
「はしゃぐのは良いけどメリー、ヒロシゲの最終を乗り逃したら悲惨よ」
「はいはい。もう、お母さんみたいなことばっかり言って。
大丈夫、分かってるわ。30分後にここで落ち合いましょう!」
メリーはそう言って、人混みの中に消えてゆく。
その顔は本当に、母親に怒られた少女のようだった。
来場客である子供達も、走ってゆくメリーも、普段蓮子が見たことがないほどに愉しそうだった。
しかし思えば蓮子も、子供の頃連れてきてもらった縁日が途方もなく愉しかったのを覚えている。
ほんの数えるほどの百円玉を握りしめて、色んな夜店の前を回っては、必死で悩んで遊びを選んだものだ。
甘〜い綿菓子か、ドキドキの金魚すくいか、色とりどりのヨーヨー釣りか……どれもこれも魅力的だった。
そして自分の背丈の遙か上で、大人が財布から次々とお金を出すのが羨ましかった。自分も早く、大人になりたいと思った。
大人になったら、何を遊ぶかなんて悩む必要もないのに! ……屈託もなく、そう考えていた。
今目の前にこうして沢山の縁日が並んでいるのに、蓮子の眼には何故か、縁日の屋台がどれもひどく小さく見えた。
大人になって、背が伸びたせいだろうか? 自分の思っていた屋台は、こんなに狭くはなかったはずだ。
どこまでも続くような赤い提灯の行列が、数え切れない人の波の中で仄かに石畳を照らしていたはず。
少し考える。
そして、それはきっと自分が、背丈以上に大人になってしまってるせいなのだろうと思った。
金魚は、明日には死んでしまう……ヨーヨーは、帰り道で破裂してしまう……そんな思いばかりが、先に浮かんでしまう。
つまらない人間になっちゃったな―― 賑やかな人混みの中で、蓮子はちょっぴりの後悔と、あてのない寂寥感を覚えた。
キャーッと、メリーの嬉しそうな叫び声が聞こえる。大きな金魚でも掬ったのか、ヨーヨーの二個釣りでも達成したか。
姿の見えない人混みの中で、ここまで聞こえるほどの叫び声をあげるメリーに、蓮子は苦笑いを抑えきれなかった。
お爺さんがくぐったという光の扉は、紛れもなく世界と世界を繋ぐ扉。
そのお爺さんは、メリーとの話の最後、彼女にこう云ったという。
「子供にしか見えない世界ってえのが、あると思うんだ――」
異世界への入り口を見つけてしまうメリー。彼女はひょっとしたら、誰よりも子供の眼を持つ大人なのかもしれない。
今も人混みのどこかから愉しそうに声を上げるメリーにはきっと、この縁日が途轍もなく広く見えているだろう。
天の川が流れる宇宙の海を泳ぐように、果てがあることさえも忘れているかもしれない。
やっぱりお爺さんは、そんなメリーが相手だったからこそ、自分の冒険譚を話して聞かせたのだろう。
メリーならきっと、自分が旅した世界を愛してくれると信じて。
不思議な森も、青い空も。吹いてくる風も、流れてくる雲も。
何もかもを、子供のように楽しんでくれると思ったに違いない。
巫女達に話しかけず黙って帰った先刻の選択は、やはり正しかったと蓮子は確信した。
幻想は、幻想だから良いのだ。答えを知ってしまうのは、野暮に過ぎる。
彼女達の笑顔は、私達が心の中で想像すればいい。それが、お爺さんに対する礼儀でもあるのだろう。
そんなことを想いながらふと横を見ると、そこにはおもちゃ売りの縁日が店を構えていた。
何気なく品揃えを追った蓮子の眼に、懐かしいモノが飛びこんでくる。
ポケットの小銭をまさぐり、それを一つ買い求めたとき。
約束の30分を3分遅れて、メリーが手を振りながら戻ってくるのが見えた。
Epilogue:真秀場
遅れたことに手を合わせ謝りながら戻ってきたメリー。
その目はすぐに、蓮子が手に持っている赤い筒に釘付けになった。
「ごめ〜ん! ……って何それ。 あっ、もしかして!」
「そう、万華鏡よ。懐かしかったから、つい買っちゃって」
「キャー、凄い! 貸して貸して!」
「だ〜め、楽しむのはヒロシゲに乗ってからにしましょう。本当に乗り遅れるわよ」
蓮子が万華鏡を買ったのは、自分へのちょっとした慰めでもあった。
いくら大人になって勉強を重ねても、この万華鏡がどうしてこんなに美しいのか、その構造上の理由を十分に説明することが出来ない。
鏡と色硝子で出来ていることも分かるし、どうやって作るかも知っている。それでも、この美しさの根拠を誰かに語ってみろと云われたら、上手く説明出来る自信がない。
ちょっと寂しい大人の壁を感じた今夜の、ちょっとでも気慰みになればと買ったお土産だった。
「さてメリー、東京駅に行くわよ」
「待って蓮子、なんか私喉が渇いちゃって」
「大丈夫よ、さっきビールを買っておいたわ」
「気が利くわねえ蓮子……って、お酒?」
「そうよ。悪い?」
言いつつ、二つの缶ビールが入ったナイロン袋を揺らす。
「新幹線の中でお酒って……他の人の迷惑にならないかしら」
「ねえメリー、知ってる? 卯酉東海道のボウユウは、
卯酉だけじゃなく、『憂いを忘れる』の『忘憂』も兼ねてるのよ」
「へえ……でもどうして、新幹線の中で憂いを忘れなきゃいけないのよ」
「本物の富士山を見られなくなったことに対する言い訳ってのが表向き。
裏の意味は、名詞としての『忘憂』。漢詩で『忘憂』は、お酒のことを言い表す言葉なのよ。
あの新幹線を卯酉東海道と名付けたお偉いさん、なんでも大層な酒好きらしいわよ」
「さすが蓮子、裏事情に詳しいわね」
「産業スパイみたいな言い方はよしなさいって」
酒を評して「憂いを忘れるモノ」とは、言い得て妙だとつくづく思う。
ならば是非、今夜は酒に身を任せよう。ボウユウ東海道の中で、大人になってしまった憂いを忘れる為に。
今日今まで見て来た、沢山の子供の夢のような世界の映像を、幻影として記憶の中に葬るために。
自分は、大人になってしまった。
哀しいけれど、これが現実なのだ。主観ではない、厳然たる客観の現実。
でも大人になっているからこそ、お酒が呑める。
子供が愉しめる世界が縁日なら、『忘憂』は大人にしか見えない夢の世界だ。
ならばこれはこれで、きっと幸せなのだろう。
……少しだけ寂しいけれど、きっとそうなのだろう。
「えいっ!」
「きゃっ!」
ぱしん、と、蓮子の掌がメリーの手を払う。
メリーが握りしめていた風船が、手から離れて夜空に舞い上がってゆく。
「ちょっと、何するのよ蓮子!」
「これで良いのよ、これで」
「良いって、何がよ?」
「風船は、一夜の楽しみだけ彩ればいいの。
翌朝しぼんで皺だらけになった風船の姿なんて、見るべきモノじゃないわ」
夢は、一夜だけ見るから愉しいのだ。
ましてその夢の正体や顛末なんて、望んで見るようなものではない。
あの風船のように大きく膨らんだまま、どこか遠い夜空へと浮かんで消えて行けばいい。
綺麗な思い出だけ残して、憂いはすべて夜空に忘れることにしよう。
「さあ、今日はお酒を片手に、カレイドスクリーンをじっくりと味わうことにしようかしら」
「ええ。新幹線のカレイドスクリーンも、鏡とビーズのカレイドもね」
どこまでも美しい国。いつまでも儚い国。
丸一日続いた他愛もない話の続きをヒロシゲの中でするために、二人は幻想テーマパークを後にした。
初めて秘封倶楽部に挑戦! ちょっと真面目すぎるっぽいど。 執筆当時は何とか原作の雰囲気を忠実に踏襲しようと、それを心がけてました。実現しているかどうかは知りませんが、ブックレットのように曲名で章分けをした辺りに、そんな意識を垣間見ることが出来ます。わっかりやすいやり方だなっ。 このあと私の蓮子はどんどん巫山戯た方に走ったりもするのですがそれはそれ。 秘封倶楽部の世界観はあくまで幻想郷と別ということで、原作も大好きですが、無闇に頽廃的にならぬよう今書くときは心がけています。 |
(初出:2006年6月14日 東方創想話作品集30) |