【ちはやぶる】

(注) 食前食後には絶対読まれませぬよう。






外界に活躍する水木しげるという人物、こと人間と妖怪の姿を描くについては遍く凡百の人間と一線も二線も画す筆力を持った
齢八十を数える爺であると聞く。
人妖触れ合う姿を今に伝える人材として幻想郷内外から注目を集めるその翁の筆にかかれば、眼球に手足の生えた奇々怪々なる
御仁に加え、妖怪の巷間に萌えキャラ一番手の猫少女、更には齧歯目のケチ男に何故かやられ役のいたいけなサラリーマンと
自由闊達に生き生きと動くと云う。
そして登場人物の真ん中に据えるは、一人の妖怪少年。茶髪+長髪は現代の若者の主流なんだとは霖之助が云っていたが、
彼は妖怪らしく鬼の一文字を名に冠し、意味も分からぬ擬音をその頭に付けている。
その戯画を、人「ゲゲゲの鬼太郎」と称すると。つまりゲゲゲだ。
そう、そのゲゲゲの感触が私博麗霊夢の胃から食道辺りに降臨して早数十分が経とうとしている。
人妖共に生きる幻想郷にあっては鬼太郎譲りのこのゲゲゲの蟠りも得心が行くわなどと納得している場合ではない。
ぉぅえ、マジ吐きそう。

ともすれば雪もまだちらつこう弥生の半ばに、桜木の下で花見酒と大集合。
……ってまだ枝しかねえだろうがバカと言ったものの、誰も聞く耳を一つたりとも持つ輩ではなかった。
それもそのはず要するに酒が飲めればオールオッケーの動機で集まっているのだから、見窄らしい枝を指差したところで
何の指摘にもならぬ。酒さえ飲めれば、咲いているのは桜でも向日葵でもトリカブトでも何でもいいのだ。
いや、最後のだと宴会は異常に盛り上がりそうだ。ああ、そういえば香霖堂に参割引で売ってたわね。今度ためしに…
っていやいや霊夢、神社の庭がジャンクストリートになっては先代に顔向けが出来ないというものだからそれは……
って、また吐きそう。ぉうえ。

果てさて寒い中に呑む気も起こらず、当の私はといえば脇でチビチビと小さな猪口に口を付けていたのだが、
隙間に珍しい洋酒が流れ着いたので持ってきたわなどと年増妖怪の甘言が聞こえてしまっては、
酒飲みの食指が止められなかった。
あったまるからと言われるがままにコップ一杯を一気飲みしたらば、刹那に意識がトんで昏倒した。
そして何時間失神していたのか、暫くして黄泉の淵より黄泉還った時には、神社の庭にゴミだけ残して一同綺麗に居なくなっていた。
残されたのは「Spirytus」「96%」などと意味のわからぬ文字の躍る件の酒瓶と、ただ胸に残るゲゲゲの誘惑だけ。
っぅえ、そろそろ誘惑に屈しそう。

食べ物は全て貴重な神の恵みであると博麗代々の教えに従い、吐き戻すほどの深酒など只の一度もしてこなかったというのに。
悶々と自らを責める限りである。
胃袋に送った恵みをわざわざ逆送するなど、お天道様に申し訳が立たぬ。つーか普通に勿体ねえ。
食糧難の我が神社にあって、食った栄養を十二指腸の手前でUターンさせてわざわざお外にお返しするバカがどこにいるか。
って、そろそろここに一人生まれそうだよその罰当たりモンが。
おうえっぷ。





唾液腺をフル稼働させて唾を捻出し、吐き気がこみ上げるたびそれを嚥下して堪えていたが、どうやらそれも限界のようだ。
食道の辺り、胸の中が焼けつくように痺れてくる。
念のため風呂場より手桶を持ち出し手元にそれを置いて部屋に休んでいたが、ここはやはり素直に厠に赴こう。
このまま明日朝まで堪えきれば、天の恵みは米一粒たりとも無益に還ることなく我が体力となり、僅かな残りは脱糞に処して終わろう。
今ここで厠に赴き便器に跪けば、それは即ち鬼太郎の誘惑に敗北することを意味する。
つい先刻この舌に鼓を打たせた見目麗しき御馳走の数々を、近付くすら忌々しき無残な吐瀉物に変えてしまえと許容したことになる。

しかしこのまま部屋にとどまる訳にもいかぬ。手元にあるこの手桶は本来、風呂場にて湯を汲み上げ身体を洗い流すものだ。
汚物を入れることは当然あまり気が進まぬ。
それでなくても胃液は強烈な臭気を放つ劇物。部屋の中にて嘔吐をかませば最後、その天下無双の強烈な芳香が
この蝸牛の庵を隅から隅まで覆い尽くすことになろう。おそらく三日は消えまい。
ゆえに天の教えに背くとも、ここは厠にて来たるその瞬間に備えるのが最善策。
ぉぅ、変なことを考えてたらいよいよヤバイ。おえっぷ。





月に叢雲かかりて真暗闇と化した神社の庭を横切り、離れ小屋の厠の方へ向かう。
ぱたぱたと早足で歩いていたら、心地悪い胃袋にバイブレーションが加わり、吐き気が更に強まった。
そこで素早い摺り足を使い、私はなるべく身体を揺らさずに走り続けた。
夜闇を能役者の如き足捌きで走り抜ける謎の摺り足巫女など、素面に戻って想像すればさぞバカな画だろうと考えるが、
誰も見ていないなら体面など気にする理由は皆目無い。

こんな暗闇を動くときには夢想妙珠を周りに浮かべ眼前を照らすのが常の術だが、
本日の私は巫術などに割り振るだけの精神的余裕などありはしない。
どうしてこんなことになったのか。紫が飲ませた酒の所為か。
決して弱いわけではない私にここまで鬼太郎を攻め入らせるとは、あの酒なかなかやるな。
ぉえっぷ。

ぅおえ!?





嗚呼、自制を忘れてしまった。鬼太郎のことをあれほど考えるなと自分に言い聞かせていたのに。
強まる吐き気に負けて、脳内がゲゲゲしか考えられなくなる。
吐き気は雑念を呼び、さらに吐き気を高まらせる相乗効果を有しているのだ。
どこかで思考の悪循環を断ち切らねば、道すがらに汚物を撒き散らすという醜態に堕することになる。

何も考えるな、考えたら吐くぞ。寝たら死ぬぞ。いや死にはしないがそこで吐くぞ。仰向けに寝て吐いたら自分で浴びるぞ。
ああもう、吐くことは考えるな私。そうだそうだ他の事を考えよう、な。
そうだな、美味しい料理を想像しよう。刺し身? 良いねえ。味噌汁? さわやかだねえ。
カツ丼でも食うか? う〜ん良いねえ、っていや馬鹿カツ丼は無理矢理吐かせる時に使う料理だろがアレは。
いやいやカツ丼で吐くのは事件の真相だろ、私が吐こうとしてるのは胃液でしょうが……って
だからゲロのこと考えるなっつーの!!ぅぅえっぷ!

嗚呼ダメだ、全ての思想が磁石に吸い付く砂鉄の様に全てゲロの二文字に吸着していく。
NとSには逆らえぬ。我が心はすでに鬼太郎の虜、今私の中で彼はかけがえの無い存在。
いや出来るならばかけがえて欲しいが、どうにも退いてくれぬ存在。



胃袋からカウントダウンが聞こえる。
10.9.8……
ああちょっと待って、待ってまだ厠が見えない。暗くてどこに行けばいいのか分からない。

7.6.5……
ああもうダメだ!揺らさぬよう摺り足だったが、もう構わない、全力疾走。

4,3,2……
…ああっ、見えたっ。
暗闇の中、雲に漏れた薄い月光が照らした、小さな木枠。
あそこだ、あそこに急げ、まさか庭でぶっ放すなよ私。後片付けするのは私だかんねっ。

1……
木枠に手がかかる。



ZERO!!!








     「『吐符』ガスタースパーク!!   ぉぅええええええええっっっ!!!」










おおおおお……我ながら盛大な生産だことよ。いや清算か。胃袋の清算だ。
鬼太郎が猛る。猛り狂う。
さらば胃酸。止め処なく滝のように流れ落ちてゆく私の消化液よ、安らかに便壷に眠れ。
せめて便壺に屯する大腸菌だけでもそのPHを以って殺戮するが良い。

嗚呼そして神よ、私は天の思し召しに反し、斯様なる堕落した体たらくをこの夜空の下に晒してしまいました。
斯く成るは我が自己管理の不徹底その一点に尽きる愚行。それがし、明日よりいっそうの修行にて穢れを禊ぐ所存にございます。
故に一時、この天の不孝をお許し下さいませませえ。



……はあ、やっと落ち着いてきた。胃袋がそのまま出てくるかと思った。
ひとまずはこれで身も落ち着こう。
うん、よく感じてみれば何とも身が軽くなったような気がするわ。いや質量分は実際軽くなっているのだけれど、
なんだろう、胸を覆っていた何物かが消え去ったようなスッキリ感。
はっと思い直して脇から手をやるが、サラシは解けていない。良かった、スッキリ感が物理的感覚じゃなくて。

ひとまず部屋に戻って手桶を風呂場に戻し、炊事場から釜を持ってきて米を入れる。
先ほどの厠の隣にある井戸に向かい、つるべを引き上げてその釜に水を入れ、護符を一枚貼り付ける。
この札にかけた術により、明日朝には炎の巫術が発動、7時ごろには美味しい粥が炊き上がっていることだろう。
幻想郷広しといえども、タイマー式炊飯器を作れるのはそう多くはない筈だ。

さて、吐く物吐いてスッキリしたら、もう眠りの時間だ。
なんと最悪な一日であったことか、我が身を呪っても呪い切れぬ。が、ひとまず鬼太郎にはおいとま願えたようなので、
これで枕を高くして眠れるというものでしょう。
明日も晴れましょうぞ、では今日はお休み……











嗚呼、最悪の寝覚め。頭が石のように重い。
鬼太郎はもう居ないが、これほどまでに見事な二日酔いもなかなかに未体験ゾーン。
つくづく無計画な深酒はするもんじゃないわと溜息。

術が上手く行き、ふっくら炊き上がっていた粥を頬張る。
普段は固炊きの銀シャリを最低限の量だけ慎ましやかに炊くのが博麗の流儀ながら、昨夜機転を利かせて
水の量を増やし粥にしておいたのが幸いした。柔飯が手負いの胃袋に優しく吸い込まれる。
二日酔いに重かった頭も、次第に晴れ渡ってくる。
日々あれこれ丁寧に思慮をめぐらして暮らしていれば、いざという時自分の身を助くのだ。素晴らしき哉。

ああしかし、喉が渇いてしょうがないですよ。
吐いた後の朝は喉が渇くと誰かが言っていたけれど、我が身がその状況に置かれてやっと理解できる。
うん、何か飲みたい。
善し、なれば、朝の寒さに冷やされた井戸の清水を頂きに行こう。





庭を横切れば、夕べの記憶が蘇る。
滑稽な忍者のように、吐き気を抱えて素っ飛んでいった昨夜の我が身が目に浮かんで見える。
何とも情けない姿ながら、あの時は仕方なかったのだ。
誰も見ていなかったことだけが救いだった。というか見ている奴が居た場合の方がおかしいシチュエーションだけど。

井戸のつるべを引き上げ、柄杓に水を汲む。朝日を照り返し輝くその様や、実に美しい。
いつも飲んでいるただの湧き水が、まるで永遠の命を与うる聖水のように見えてくるではないか。
しかも器はこの柄杓一つしかないので、間違った器を選んで一瞬の内に白骨と化すようなトラップも無い。
安全保証付きの聖水だ。

嗚呼、なんと至福極限の一刻であることよ。
前日の苛烈な騒動も、きっと至極の旨さを誇るこの水の一杯の為と考えれば、その苦行もまた善し。
幸せの為の、不幸の先払い。幸福の天使に先駄賃を渡したと思えば、胃袋のでんぐり返りなど我慢しよう。

こんな爽やかな朝、この水は充分に冷えていつもより旨いのですよ。
きっと今日は、そんないつもより更にもっと旨いのです。
酔い覚め頭に一杯の水、たまらんですよコレは。

美味しそうでしょ?羨ましいでしょ?だけどダメだもんね。
これは博麗神社の井戸。私一人のものだもんねえ。いただきま〜す。
ごくり。






ブッ……!!!






嗚呼なんて綺麗でしょう、柔らかな朝日が私の口から放たれた霧に美しい虹を描き出しましたよ……
ってちょっと待て、そういう問題じゃなくて。
何だこの水は。

何で吐瀉物の臭いがする?





嗚呼神よ、これが私に与えたもうた試練だと言うのですか。私は私なりに、精一杯の慮りを尽くしたつもりでおりました。
我が不徳の為すところにおいて鬼太郎に屈することと成った私は、それでもせめて神聖なる博麗の境内を汚らわしき胃酸の
芳醇なフレイバーで満たすことはすまいと、敢えてきちんと厠まで赴いてその「行い」を済ませたというのに。
この様に、至福の朝の水一杯に移り香させるとは、嗚呼あんまりではございませんか。

暗闇の中、蟠るゲゲゲの誘惑に抗いながら必死で身を運び、カウントダウンのゼロの間際、暗闇に浮かんだ木枠の中に
私はしっかりと我が渾身のガスタースパークを全量叩き込みました。
八百万の神宿りし他の森羅万象の何物にも迷惑をかけず、然るべき世界のみに我が汚物をお連れしたつもりなのですが、
どうしてその厠と隣り合っているだけでこの井戸水にゲロの香りが漂うのでしょう。



いやいや私よ落ち着いて。はしたないこと言わないで。
いくら人里離れた山奥とはいえ、可憐なる少女の住まう家、厠といって野に掘った便器ではなく、しっかりと四阿に仕立ててある。
なぜ暗闇の中で、いきなり木枠だけ浮かぶの。明かりに照らされるなら、まず扉が浮かぶ筈でしょ。

ああ、そうね。枠がいきなり見えるなんて、そんな筈は無いわよね。私ったらうっかり。
そうかそうか、うん。ってことは。



     あれは厠の便器の枠ではなかったということですかい神様。



ということは。
まさか。










その後私は必死で井戸の中を覚束ない灯りで照らしたが、暗い水面が時折薄らに光るだけで何ら見えるものはありませんでした。
しかしそこから漂う確実な香りが、昨夜私が起こしてしまった事の重大さをひしひしと伝えてきます。
お引取り願ったはずのゲゲゲの鬼太郎様は、あろう事か水神様に形を変えて博麗神社に鎮座ましましてしまいました。
というか「いどまねき」だこれじゃ。覗き込んだ瞬間戦闘シーンだ。

嗚呼いやいや、そんな冗談を抜かしている場合でも無い。
博麗神社に水道などあろう筈も無く、これでは水一杯飲むことさえ出来ぬ。
たとい我が身干涸らびることとなっても、己が胃酸の混じった水など絶対飲めぬ。聖水であっても飲まぬ。
まして風呂など以ての外だ。胃酸で湯浴みなど考えたくもない。
魔理沙の家に行水を借りるというのも手だが、理由を尋ねられれば我が身のお終いだ。
酔っ払って胃酸を井戸に叩き込んじゃいましたなんて、あの魔理沙にどうして言えるか。





というわけで現在、境内を挟んで反対側に大穴を掘っております。
どうか皆様お気を付けを。天網恢恢、疎にして漏らさずとは至極金言で御座いまして、
酔っ払って妙なところで迂闊に吐いたらば、それ相応の報いをきっちり受けることになります。これは正しく天罰です。
せめて皆様、井戸にだけはゲゲゲを吐かぬようお心がけを。



井戸に吐いてしまうと、二日酔いの身体に鞭打って必死で肉体労働せねばならなくなるということを、私は今日知りました。
うう、吐き気がする。ぉうえ。





 これはひどい。

 投稿締切りももう間もなく……という最終日の午後七時頃に思い付き、そこから急ピッチで書き上げた作品。期間中じっくりと構想を練っていた「道化」に比べれば……うむ。おうぇっ。
 当時のタイピング速度を考えるとカツカツだった筈で、ある1日の終わり5時間くらいをすべてげろーの話に捧げていたという真実が炙り出されてきます。なんだ私はこんな頃から末期だったのか、救いようがないな!
(初出:2006年4月20日 第2回東方SSこんぺ 全90作品中17位)