【天空のデリカテッセン(前編)】 |
「いや……ちょっとだけ、悪いことしちゃったかなーって。申し訳なかったな、って」
「はあ」
今その台詞を幻想郷にてぬけぬけと喋った日には恐らく暴動が起きるだろう。衣玖は良識の天秤に彼女の言動を掛け、そして胸の内で舌を出した。
曰く比那名居の総領娘が、大地震で博麗神社を灰燼に帰しめた。ばーか。挙げ句天界に地上人を攻め込ませ、宴会まで開かせて、ついでに神社の修復を御自ら請け負うこととなった。ばーかばーか。
神社をお釈迦にしたなんて話はまったく洒落にもならないね――とまあ、天界の人々に後世七代先まで口伝されるであろう醜態を歴史に刻んで、比那名居天子は今衣玖に対して訥々と愚痴っているのだった。
申し訳なかった、と来た。
よもや本心でもあるまい。
罪悪感などは母体内にきれいさっぱり置き忘れたであろう彼女が、
「――ここは一つ、神社の竣工式の二次会として、天界仕込みのお料理でも振る舞おうかと」
「はあはあ」
そんな殊勝な真似などするはずもない。
衣玖はそう信じていた。
理屈はあとから粘土細工のようにくっつけることが出来るわけで、要するにこれも暇つぶしの一環なのだろうと竜宮仕込みの溜息ひとつ。帽子の鍔のすぐ下のあたりをぽりぽりと掻いて、青い青い空を衣玖は見上げた。
何故こんなことを相談されているかといえば、その地震の騒動以来何かと、この総領娘と対面する機会が募ったその結果である。特にはっきりとした交誼を結んだ覚えもないが、こうでもしなければ女友達にも不自由するくらい、彼女の棲まう天界は楽園すぎるのかもしれなかった。何かと絡んでくる天人崩れの少女と爾来、風を受ッる柳のように衣玖は付き合っている。別に苦痛ではないし、足手まといというわけでもない。衣玖自身日頃は忙しくも何ともないし、この天人がお喋りに不自由しているのなら、まあどうせかなり暇だし、ちょっとくらいは付き合ってあげるのが人間関係的に筋かなーと思った。それだけだった。
人なつこい印象の天子に人付き合いの一つもないという事実は、衣玖には当初少し不思議だった。曰く、この上ない極上最高級の幸せが用意されている天界にあっては、ベタベタとした他人との付き合いをしてまで楽しみを見出そうとする人は少ないらしい。一人でいれば充分幸せだからということで、そこで止まってしまうという。そういう意味でどうやら天界に棲まう天人という種族は本質的に友達嫌いであり、つまるところ、なべて皆孤高なようだった。
「どうでもいいですが、どんな料理を振る舞うのですか」
「選びに選び抜いた、天界の厳選食材よ」
ふうん、と衣玖は頷き、
「桃ですか」
「桃ね」
さすがに桃だけじゃ腹はふくれないだろう。ご大層に宴会へと招待されて、献立が桃の切り身に刺身にソテーに煮付け、ついでにテリーヌと味噌汁なんてことになったら本当に暴動に発展する。
天人は閑居して不善を為す。でもほんとにほんとに暇なのよー! と天子はいつも嘆かわしげに嘯いており、それまで身近にしてよく知らなかった天界という場所が、どうやら本当に何にも無いところなのだ――と、衣玖は近来実感しているのだった。
あくまで俗物としての感覚では、である。
この“俗物としての感覚”というのがつまり永江衣玖の感覚であり、そして更に言えばつまり、
「食材だけでよければ、私がいくらでも調達します」
「嬉しい御言葉を言ってくれるじゃない。桃ばっかじゃやっぱりー」
「心中お察ししますねぇ――甘い食べ物ばかりでは飽きますし、栄養が偏ります。お肌によろしくありません」
「でも桃だけに、お肌はしっかりピーチピチ! なんて」
「わー……」
――同時にこの天人失格の娘、比名那居天子の庶民派感覚でもあるのだった。
流石にそこまでエキセントリックな答えは求めておらず、呆けたような溜息が一つ足許に落っこちる。肩の力が抜けたがそれでもまあとりあえず、食料の調達に便宜を図る程度なら役に立ってあげよう――と、衣玖は思っていた。
それくらいには、この天子という少女に日々刻々、興味が湧いてきていた。
二人仲良く座っていた天界の岩から、衣玖だけがぴょいっと飛び降りる。
なんだかんだ言って、互いに境遇は似ていると思う。雲竜となりて雷鳴に揺蕩うばかりの我が身を振り返れば、天人を笑えない程度に自分もしっかり暇している。天人の身空に「暇」という形容を冠することの適切性はさておき、二人の間に小さく違う点を見繕うとすればそれは、そういった生き様を楽しんでいるかいないかである。天子が天人崩れと称されるなら、何の欲も不満も抱かず雲間に泳ぐ自分はきっと根っからの竜宮ノ使ヒ、ということになるのだろう。
衣玖はしれっとした顔で食材の手配に頭を悩ませ始めている。天子は暇そうに左手右手で緋想の剣をぶぅんぶんと振り回して、象でも呑み込めそうな大あくびをして奥歯まで見えて光ってってちょっとちょっとお待ち、その緋想の剣とやらは確か、本来門外不出の秘宝じゃありませんでしたっけか天子様?
それを持ち出したから、あんなに貴方は怒られて――
「――ぜんじんるいの、ひそーてーん!!」
ぼっかーん。
とまあ、衣玖のそんな疑問も、天子の憎めぬ明るさと仰角七十五度の極太バズーカが朗らかに掻き消してゆくのだった。
頭上を遥か非々々々想天くらいまで突き破る勢いの緋い大砲は、古より育まれし悠久の銀河系に対して確実に何らかの甚大な迷惑を与えつつ、閃光と爆音を置き土産に残して空中の想い出となった。
またそんな剣を持ち出したのがバレた日にゃ――と衣玖は怖い想像をしてみたが、この天子はひょっとすると、それすらも何ら痛痒に感じないんじゃないかと思い直す。
そういう性格である。件の騒動の顛末には衣玖の方が気を揉んでいたというのに、当人はまるでどこ吹く風で、今日も今日とて従前通り、天界の野原を悠然と闊歩し続けているのだ。衣玖の羨む胸が内、その蒼天を思わせる髪の色に似て彼女の心はいつどんな日も、空色快晴一点張りなのだ。
哨戒で山岳地帯をうろついている天狗達にでも食料を募ってみようか――等と算段しつつ天子の暢気なるを顧みてもう一つ嘆息、衣玖、感じるところはつまるところ、自分が纏っているひらひらの衣に似ているなーと思ったのである。
天衣は、無縫である。
■ ■
「うーん、懐かしい食材ばかりねぇ」
「……懐かしい……?」
天子の率直にして偽らざる感想に、衣玖もまた率直なリアクションでお返しする。
それにしても。
懐かしい、と来た。
「……天界に行ってしまってから、人間の食べ物には一切お目にかかれてなかったんですか?」
「うん。人間の食べ物は持たない、作らない、持ち込ませない」
「ふーん」
……いやいや、と天子は首を横に振って、
「てゆうか実際、天人の口に合わないのよ、人間の食事って」
「はあ」
そんなふうに簡潔に付け足して、衣玖に対する説明を締めくくった。
天界に於いて食べ物は桃、飲み物は酒。それだけなのだと巷間には伝えられていた。その二つだけあれば、天人とは食欲に充足を得られる人種なのだという。人間のグルメに対する憧憬は、まるで生前の煩悩のように、既に霞のごとく立ち消えているのだといい――例えば人間がカブトムシと一緒になって木の幹の樹液を嘗めたりしないのと同じで、天界人にとっては人間達が地表に這い蹲って目もなく愛好する刺身、銀シャリ、焼き魚に焼き肉、チーズバーガーもポテチもシーフードヌードルもすべてが位相のずれた食事であり、根本的なところでどれもこれも美味しいとは感じないのだということだった。
可哀想な人種ですことよ!
衣玖は憐憫の涙に咽ぶ。
哀れなる哉、地上の宝石箱のような美食を尊しとせず、天人どもは夢の跡。シーフードヌードルの美味しさが分かる自分は何と幸せなんだろうと衣玖は思い、
――同時に、そういった天人の平均的な感覚に馴染めていない天子はやっぱり、天人失格なのだろうと実感するのだった。
彼女が天界に導かれた経緯を、衣玖は知らない。生粋の天界人ではないという情報だけ耳に入れていたが、そこから先の仔細については、誰に聞くこともできず、謎のままである。
その辺は非常に複雑な生い立ちがあると、風の噂で聞いていたのだ。
だから彼女と出会ってからずっと、その話題について触れないでいる。
ずっと、衣玖は黙っている。
興味もないことである。
今、天子と会話に興じるこの一幕をとっても、それは同じだった。
衣玖自身、必要以上に他人と交誼を引き結ぶことに積極的ではない。他人を不快にさせるのは気が咎めるが、どれだけ明るい交わりを持とうという気骨も無い。人が集えば場の情勢を伺い、双方の毒にも薬にもならぬ振舞いをして、空気となって過ごす――それが永江衣玖の考える、竜宮ノ使ヒとしての生き方だった。
衣玖の種族は、基本的に誰かと触れ合う機会が極端に少ない。
衣玖自身に自覚はないものの、そういった境遇こそが、衣玖の人格に少なからず影響していた。天人が本質的に友達嫌いなのと同じように、それに類するだけの性質を衣玖自身も兼ね備えている。理由の差はあれど、天人の生き方を無下に笑い飛ばすことなど出来ない。
ひとまず、衣玖は他人に気分を害される機会はほとんど無かった。根本的に人逢いの機に恵まれないこともあるが、そのささやかな返礼として、誰かを傷つける振る舞いだけも丁寧に避けている。それが、衣玖の生き方だった。
天子に過去のことを問わないのは、そちら方面の理由もある。
しかるに衣玖がすべきこととは、したがって、根も葉もないことを根掘り葉掘りする詮索ではなかった。
触れるべきでないことに触れず、今はまだ表面だけを取り繕いながら、
「……こちらが幻想郷の指定農家が育てた和牛の霜降り。こちらが取れたての有機野菜、あと魚とかきのことか色々」
「おー……おおー!」
差し当たって地上の美味いものでも食べて元気出せー! あ、いや食べるな調理しろー! と、天子に文字通り「地取れ」の食材を突き付けることであった。
哨戒天狗達の有能さと懐の深さには深謝したい。
“ある”交換条件の下に集めた食材は、紛れもない絢爛豪華な逸品揃いである。調理のし甲斐としては申し分無い。
衣玖にできることはつまり、彼女の望んだとおりの準備をすることである。望んだとおりに料理会が成功するよう、下地を整えてあげることなのだった。
「わー、はー。……やーやー」
衣玖が自身の羽衣ですくうようにして持ってきた多くの食材に、天子が炯々爛々たる眼光を宿す。
その光を横目にしつつ、食材は衣玖の衣の間より次々にごろごろ転がり落ちる。こういう時にこの衣は非常に便利で、食の宝石箱もかくやと思しき絢爛豪華な食材が一つまたひとつと俎板に転がり出るたびに衣玖の羽衣は一枚またいちまいとはだけられてゆき、七重八重に折り重なっていた羽衣が食材と同じ数だけひらひらゆらゆら草の上にほどけてゆき、次第にほっそりとした身体の稜線が――
「……っと。これで全部ですね」
「あれ? 裸まで行くんじゃないの」
「なんでですか」
興味津々の緋色の瞳は一心不乱、緑黄色の栄養豊かなる枝葉の艶やかなるに加えて取り分け真冬の淡雪を思わせる和牛の霜降り、つまり瑞々しい鮮やかなビーフ、そして――衣服の奥に秘められた、永江衣玖自身のマシュマロのお肌に捕えられて片時も離れない。
彼女は肉の虜である。
まあいやらしい。
「……本当に、食材を見るのさえ久しぶりなんですね」
天子の顔に貼り付いた満面の喜色に、衣玖が思わず念を押す。
「そうなのよー。いやもうねえ、天界に来ちゃったら最後、こんな人間に人気なものなんてお目にかかれなかったしー」
「はあ」
すごーい、うわーすごいすごーい、と無尽蔵のような感激で子どものように無邪気にはしゃぐ天人様の威厳の無さは尋常でなかった。久しく桃しかお目に掛かっていなかったのだとしたら、脂の乗った和牛などは正しく宝石にも等しいのだろう。
雷様はほとほと呆れつつふと、不安が背中によぎるのを感じた。
一点の曇りも感じない、非常に純粋な天子の感激、
「本当に久しぶりー!」
等と重ね重ね叫び回る天子の言葉があまりにも曇りの無さ過ぎたものだから、衣玖は思わず訝しんだ。
そして尋ねた。
常識的に考えれば、こうだ。
長年天界に暮らし、食材を眼にする機会すら無かったというこの比那名居天子。
食べ物は桃だけだったというこの途方もない世界に長い間起居し続けていた彼女はつまり、
「あの――」
「?」
「失礼ですけど――見るのさえ久しぶりな食べ物を、本当にお料理なんてできるんですか?」
「……」
「……」
無言ですか。
「……ウフフ」
「……」
……笑顔、ですか。
「……むーん」
「……」
…………。
「えへへ」
「えへへ、じゃありませんよ。何ですか大見得だけ切っておいて」
「お料理は九割は気合いで出来てるんだってお師匠様が」
巫山戯た天人の少女が言葉を終いまで言い切る前に、衣玖がじゃがいもをぶん投げた。教えられたことを鵜呑みにして大人になってしまうのは、現代教育の弊害ではないだろうか。
衣玖は眉間に皺を寄せる。天人とは一体どれだけお花畑に棲んでいるというのか。肉じゃがに気合いでコクとまろやかさが出せれば、誰も苦労はしないのですよ。
地上に這い蹲る、愚か人間共をナメくさるにも程があります。
「……うーん」
唸り声混じりに天子はじゃがいも直撃のおでこを抑え、
「……う〜ん」
衣玖は何も直撃していない頭を抱え、設えられた本日の舞台を二人横目で睥睨していた。
舞台だけは、並外れて豪華である。
天界の恒常的な晴天の下、雄大な雲海のほとりに設置されたキッチンルームは、ひたすら機能性だけを追求されたかのようにシンプルだった。幻想郷の森に居を構える萬屋の倉庫になぜか放置されていたシンク一式が、天界の眩しい太陽を受けて嬉しそうに煌めいている。華美さを省かれ、無駄な部分はまるで無い。同様に調達してきた適当な大きさの板、それをただ磨き上げて俎板。清冽な天界の小川の清水が手桶一杯。柔らかな布巾。笊、皿、お玉に菜箸、塩胡椒。
そこに、衣玖が今しがた並べ立てた七色の食材が躍っている。
「これだけ用意させておいて、料理のイロハも知りませんなんて言ったら怒りますよ?」
「イロハは知らないけど、さしすせそは知ってる」
「どうぞ」
「さとう……しお……酢……せう油…………そ……そ……」
「……英語ですよ」
「ソドム!」
残念、はずれでした。
下界の人間に一体どんな料理を食べさせるつもりですか貴方は。
「……まあ、好きにやってみられたらいいじゃないですか」
これ以上付き合うよりは、いっそ全てを任せてしまった方が良い。
衣玖はそんな気がした。放任主義という訳ではないが、ここで手を離しておけば、然るべき過程の上に然るべき結果が出るだろう。
少し突き放した考えのもとに、衣玖はそっぽを向く。
アルェー、と天子の気の抜けた声が、視界の左に外れた方から聞こえた。
「……そんじゃ、勝手にやらせてもらうね」
ややあって、そんな言葉が天子の口から聞かれた。
――衣玖はきゅん、と気に病む。同時に、一抹の寂しさが胸の中に揺らめいた。
元よりこれは天子の計画なのだ、と自分に言い聞かせるものの、冷淡な拒絶の罪悪感は、生来人の良い衣玖の胸を呵責に苛んで離さなかった。窮地に陥ったなら多少の助太刀も考えていたとはいえ、元々本気で手出しをするつもりはなかったというのにである。
それはあくまで、比那名居天子というひとりの迷惑少女による、博麗神社および幻想郷に対しての、贖罪意思を込めた宴席という事業計画だった筈だ。
それでも、ちょっと寂しかった。
事業趣旨から考えて当然の判断をしたまでなのに、大きな後ろめたさが沸き立ってくる。
一人っきりぽつねんと、手持ち無沙汰で息を吐く。
「それではまずゴマ和えから〜」
「……またエラいものから作りますねえ」
活動的な天子がちょっとだけ羨ましくなりつつ、衣玖は自信作のキッチンスペースを見た。青い髪をポニーテールに織りまとめた天子は実に嬉しそうに立っており、食材を吟味するその小柄な身体に真っ白な割烹着を着ていた。
割烹着まで準備した憶えは無いぞ。
要するに、あれは自前ということらしい。料理もしない人が何で割烹着持ってるんだろうとか、何も持ってこなかったくせにどうしてそんなものだけ準備してるんだとか、そもそも天界に何で割烹着なんてモノがあるのかとか、色々懐疑は尽きない。天人に自分たちの常識が通用しないことを、改めて衣玖は悟る。
悟った面白味は、苦笑いと溜息に化けた。
天子自身が楽しそうなので、ひとまず衣玖も、胸の淀みを飲み下す。
とりあえず手は出さずに、天子の調理作業を観察する体勢に入った。
「ホント豪華な食材があるわね〜」
「そりゃあ――それなりに見繕って調達してきましたから」
天子に褒められ、衣玖は内心胸を張る。この準備の出来映えは、称賛されて良いレベルである。間違いない。
食材の質に気を遣ったというのは本当だし、のみならず、種類もそれなりに取り揃えた。食事会というからには、単色のメニューで乗り切ることは出来ない。やるべきでもない。また、献立もろくに決めていなかった状況にあっては、満遍なく食材を調達する必要性に迫られたのも事実であった。
がさごそ、と衣玖の調達してきた食材からゴマさんをチョイスした天子はついでに大きな擂鉢を召使いに順えて、そそくさと準備に取りかかり始めていた。
暇を両手両足で持て余しながら衣玖が、それをぼんやりと眺めている。
小脇に擂鉢を抱えておたおたと走り回る天子が、なんか可愛いなー、と思っていた。
今日はぽかぽか温かいなー、と思っていた。
割烹着姿の天人というのは、たぶん何百年に一度くらいしか見られないレアな光景だろうなー、等々等々思っていた。
衣玖が苦労して調達してきた良品のゴマを惜しげもなく擂鉢の中に注ぎ込み、即席キッチンの機能美テーブルの上にどかんと置いてじっと見つめる天子、
「……」
見つめる天子。
それを見つめる衣玖。
更に、見つめる天子。
「……?」
「……。」
じーっと、じーっと見つめる天子、
見つめる天
「…………あの。擂粉木が無いと、いつまで経ってもゴマはゴマのままですが」
たまりかねて、そこで衣玖が口を挟んだ。
天子の動作は、完全に停止していた。
擂鉢の準備までは割と闊達に手際よく進めて見せた天子だったが、どういうわけかテーブルに鉢を置いてしまい、そこから動く様子が無くなった。かれこれ二分近く、擂鉢に入ったゴマさん達と睨めっこの態である。
ゴマの擂鉢は知っていても、ゴマの擂り方を知らないか。
それが衣玖の、当初の推察である。嗚呼そうか天人というのは、ゴマの擂り方も知らないんだ。世間知らず。だから、変な感じで知識をつまみ食いしたりしてたのだ。その結果、こんな変なところで壁に当たってしまったというわけだこの可愛い奴め。
そう思い至った衣玖は、やれやれしぶしぶと擂粉木を御自ら手渡そうとして、
「――大丈夫だから、待って」
天子の真剣な声に、足を止められた。
「大丈夫……って、何ですか」
「大丈夫なのよ」
「じゃあ『待って』って何ですか。待っててもゴマは」
「待ってったら待って、」
ゆったりとした整息、
「――今、霊力を溜めてるんだから!」
そして、天子が声を張った。
気圧された衣玖、踏み出しかけた足が思わず止まる。差し出しかけた擂粉木も、背中の後ろに引っ込めた。
れいりょく、と、口の中だけでその単語を反芻した。
霊力。
なるほど。
霊力を溜めているのだ。比那名居天子は霊力を蓄積している。衣玖は大変納得した。
それならば仕方ないだろう。霊力をフルゲージにするとなれば、それ相応の時間を要すのは当然である。多少長い時間が掛かっても、じっくりと溜めてから放った方が料理は美味しく仕上がるだろう。料理の基本中の基本である。
急いては事をし損じる、霊力を込めて料理はきっと旨くなる。
って。
……なんでやねん。
「えい」
ぽこ。と音がして、天子の腕からタケノコが出てきた。
灰色のタケノコだった。
――衣玖の眼には、少なくともその瞬間、そういう光景に映った。
タケノコはとても固そうだった。まるで岩のようではないか。
タケノコはくるくる回転していた。まるでドリルのようではないか。
衣玖がみゅーっと眺めていると、くるくる回転していたタケノコはそのうちぐるぐる回転するようになった。
ほへー、と感心していると、ぎゅいんぎゅいんと回転するようになった。
うひょー、と衣玖が興奮しているとタケノコは唸りと煙を上げながらぶおおんぶおおんと音速回転、永江衣玖、その鈍色の切っ先に彼女は男のロマンを感じていた。
誰もが憧れるその切っ先、
「で、何ですかこれ」
「B射撃」
「……」
「多段ヒットのB射撃、略してドリル岩」
天子はにこやかに微笑んで、衣玖の目の前にぐいーっとドリル岩を突き出してきた。そんなに近づけなくても見えてるんだけど、と衣玖は思った。
てゆうか当たる。当たるから離して。当たっちゃったら800くらい喰らうから離して。
今のぜんぜん略してないね。
(そういえば、こんなのを使ってましたねえ……)
衣玖の脳裡に、十日ばかり前の光景が蘇ってきた。
それは衣玖が自ら天人である少女に刃を向け、あろうことか、お灸まで据えてしまった痛快な一件のことである。
あれは自分なりに、分限を越えた大立ち回りだったと自覚している。何しろ現役の天人に刃向かったのである。大それた事をしたなあと後々膝が震えたし、またそれにうっかり勝ってしまったので尚更印象に強い。
相手の天子は曲がりなりにも天界人で、しかるに圧倒的な力を持っていたから、衣玖は随分と苦戦した。一歩間違えれば、お灸を据えられていたのは自分だったに違いない。
特にこの、通常射撃のドリル岩が難敵であった。相殺にも強いし多段ヒットだし、一方ならず手を焼いた記憶がある。
これがそうか、あのときの天敵の正体か――と衣玖の感心する傍らに天子はと言えば、やおらその岩を擂鉢の方に向けて戦闘態勢、
「えいやあ!」
衣玖が何かを訝しむ暇もなかった。
天子が気の抜けたようなつぶやき声を上げたのを合図にして、岩は面倒くさげに腰を持ち上げる。
そして眠たげに回転しながら彼は、ゴマの盛られた擂鉢の中へと切なげに、その身を投げた。
ややあって、
「ごりごりごり」
と、つまらなそうな硬質の音が衣玖の耳に届いた。
居たたまれないような雰囲気でごりごりごり、ごりごりごり、
「……」
「えい」
ごりごりごりごりごりごり。
「…………」
「えい」
ごりごりごりごりごりごり。
「……………………」
「えいえいえいえいえい」
ごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりご
「ちょっと待ってください」
どの辺で突っ込もうかと延々考えていた衣玖だったが、一行に進展する気配の無い現況に嫌気が差して遂に待ったを出した。
「何やってるんですか」
「ゴマを摺ってる意外にどう見えるの?」
「そういう問題ではなくて」
「だって……お手軽だし」
「お手軽かもしれませんが、しかし」
「しかし?」
「……えーと……擂鉢が傷みますね」
「え? そういう問題なの?」
「……まあ」
それだけじゃないけど。
「あなたって人は……もう……」
衣玖は呆れて、ゴマが大量に惨殺された擂鉢の中を覗き込んだ。
原形を留めぬほど破砕されたゴマは、一粒残らず粉末になっていた。そして覗き込んだ瞬間に、濃厚すぎるほど芳醇なゴマの香りが衣玖の鼻腔をグングニルの様に貫いていった。
良い匂い。
それはもう、ものすごく。
上物のゴマを目一杯まで摺ったらこんなに良い香りがするんだー、と衣玖は感心した。感心しつつその濃密な香りの秘訣はよく見ると、目一杯摺りすぎて摩擦熱の煙が上がる寸前まで加熱していたことであった。
つまり陶器製の鉢は、とても熱かった。
重い、焼けた石みたいにねっとりとした熱さが掌に伝わった。
掌が伝えた温度信号を衣玖は脊椎内で処理し、放り出すように手を離した。
哀れ見捨てられた鉢はごどん、とテーブルの上に着弾して辛うじて割れず、また何とかひっくり返ったりもしなかった。天子が横で「きゃっ」と、可愛い声を上げた。
「こぼれたらどうするのよー!」
「あ――失礼しました」
「……んもー」
危ないところだった。
鉢が割れたら況や惨事だし、またそもそもあのタイミングで天子のドリル攻撃を衣玖の良心が止めていなければ、擂りゴマがどういうわけか焙煎ゴマになるか、あるいは擂鉢がハコ眼鏡になるかのどっちかだっただろう。
衣玖は瞳を閉じて、人差し指で眉間を抑える。
とりあえず、曲がりなりにも擂りゴマにはなっている。それならば、深く追及しない方が良いと思った。
幾らか腑に落ちないところもあるが、とりあえず
「まあ……及第点と言えば及第点かもしれません」
だいぶボーダーを引き下げて、衣玖は悩ましげに呟くのである。
天子は笑った。
「よーし。じゃあ次は漬け物」
「――ってゴマ摺っただけで終わりかい!?」
悠然たる天界に釣り合わない素っ頓狂な絶叫が、蒼い蒼い蒼天の彼方まで届いた。
「ごめんこっから先は、衣玖も手伝ってくれないかな?」
「こっから先、って……」
ゴマ和え、と天子は言った。而るにレシピは野菜の数々を茹でて、ゴマで和えること。
野菜のゴマ和えの、「ゴマ」しか出来ていませんけど。
「野菜」と「和え」の部分はノータッチのまま投げっぱなしとか、
「それで満足するんですか貴方は」
「ええ。私は漬け物の仕込みに回るから」
煌めく天子の笑顔が眩しいかった。そこにあるのは残酷なまでに、純真な本心だけである。
衣玖の脳裡に偏頭痛が去来した。
本当にこれで良いのだという。
……地上人に贖罪の意を示す、料理会ではなかったのか。
そういう大切な誠意の場面で「しあげはおかあさ〜ん」みたいな、こういう卑劣な手段が許されて良いものか。
衣玖は眉を八の字にして、うんうんと呻吟していた。
悔しいような虚しいような、居たたまれないような不憫なような、複雑な胸中が上手い言葉を紡げないでいる。
「ねぇねえ〜」
そオて、そんな人の悩みもまったくお構いなしに、頭痛の原因が朗らかに語りかけてくる。
「漬け物は〜、コレで良いわね!」
明るい声の方側へ、衣玖は淀んだ瞳を向けた。
ぶんぶん、と振り回される両手にまるで勇ましく掲げられている緋想の剣の如きは剣に非ず、剣状の野菜は大根、胡瓜、聖護院蕪におたんこ茄子。
本当に漬け物の方へ行ってしまうらしい。
衣玖が無言で頷くと、はじめてお料理を手伝う子供のような無邪気さでもって、包丁を手にする天子の腕まくりが見えた。
衣玖は苦笑いを一つ足許に落っことし、ここに至ってやっとこさ、しずしずと準備に取りかかる。天子に命じられたとおりのゴマ和えを完成させるべく、だった。
渋々重い腰を上げる。酢を絡めたゴマ和えを目指して白菜とか人参とかを手にとり、あとはひたすら包丁包丁である。大概お人好しだなあ、と、自分で想った。
空気を読めすぎるのも考え物である。よく考えると料理するというのにひらひらふわふわ、すごく邪魔な服装をしていることに気付いたので天子同様、自分も腕まくりをしてから改めて包丁。
「……」
「……」
「……」
「……」
とんとん、と。
互いが作業に没頭したことで、会話は暫し已んだ。晴れ渡る空の下、雲上の澄み切った空気が急速に静寂へと包まれる。
天界とは実はこんなにも静かだったのかと、初めて衣玖は気がついた。心地よい静けさの天界の片隅にとんとんとん、とんとんとん、と、心地よい俎板の音が二組響いていた。
途絶えた会話で出来た音の空白の中に、軽やかな俎板の音が割り込んできたような具合である。その音は、天界にあってごく自然に馴染んでいるように思われた。適度に硬質な音が、相対的に周囲の静けさを唄っていた。まるで練習ずくのように端正に整った音律が、喧噪に火照っていた衣玖の心を、そっと穏やかなものにしてゆく。包丁を振るう手が、俄然気持ち良くなってきた。天子も少なからず、きっと同じ気持ちを感じているだろうと思った。
衣玖の菜切り包丁、天子の文化包丁、ともに人郷で名の知れた、手練れの鍛冶による珠玉の逸品である。衣玖が哀願懇願し、竜宮ノ使ヒの仲間が秘蔵していたところを直々に借り受けてきた業物だった。おかげさまで音同様、切れ味もまた頗る宜しい。
衣玖自身、それは久々のお料理だった。料理とは得てして、野菜なんかを包丁で切っているこの瞬間が一番楽しいし、いかにも料理をしているのだという実感が湧く。リズムが生まれて気分は軽快、スキップをするように心が波に乗れるというものである。思わず意味もない笑顔を零しそうになりながら衣玖もまた、久々のお料理を楽しんでいた。ついつい気分良く切っていると思わず白菜を必要量の倍くらい切ってしまったりして危なっかしいったらありゃしないがひょいひょいと、根菜葉菜その他さまざまを切り揃えて一仕上げし、衣玖は首の骨をばきぼきべきっと鳴らして菜切り包丁を俎板に置く。
天子の方を顧みる。
待っていたかのように、こちらを見ていた天子と眼があった。
「私も完成したよ!」
天子の口調は、心なしか誇らしげだった。その口調と曇り無きその笑顔が衣玖に安堵をもたらすが、二秒と持たずすぐその後に、その三倍程度の不安感に化けた。
非常に失礼な話である。が、数分前に前科があるので仕方がない。
つまりこうだ。
――本当に“ちゃんと”、出来ているのか。
「ちょっと見せてご覧なさい」
心配して歩み寄った永江衣玖。
……だったがしかし、天子の眼前の俎上には、衣玖が想像したのとちょっと違う光景が繰り広げられていた。
「……あ……あれ?」
衣玖がまごつき、天子がえっへん胸を張る。
天子の前に展開されていたのは、哀れ有機野菜の無惨なる残骸――――ではなくて、割と小綺麗に切り揃えられた瑞々しい根菜の短冊達だった。
小ざっぱりと切り揃えられた葉野菜。瑞々しい根菜はきちんと皮も残さず落としてある。
手の行き届いた、丁寧な下拵え。
「はー……」
「うまいもんでしょ」
肩透かしを引かれてしまって、衣玖は出す言葉に困った。天子はむーん、と胸を張る。衣玖はうーん、と唸りを零す。
褒めそやすにはちょいっと仕上がりの大きさにムラがあるものの、文句の付け所はそれくらいである。それなりに見た目は整っている。先ほどの愚挙から期待数値を下げていたこともあるが、純粋に判断しても必要充分以上だろう。
衣玖はあらためて瞠目し、天子のまるで教科書のようなドヤ顔を目の当たりにするのだった。
天人というのはやはり、ベーススペックが高くて先読みが出来ない。何をやらせても上手くやるか、或いは思いっきりボケるかのどちらかである。
悉く行動の読めない天人の少女に、また衣玖の頭の中、偏頭痛がぶり返してきた。
「ま……まあ、上手く行ったならそれに越したことはありませんね。じゃあ、あとは浅漬けにするだけで」
「うん」
「ええ、それを伺ってないんですが、一体どうするおつもりなんですか。まさかとは想いますが、漬ける行程は私任せとかではありませんよね」
「……あら」
衣玖の言葉は、無論、さっきのゴマ和えの阿呆な展開を念頭に置いたものである。
天子は、目を丸くした。
そんなことを言われたのがさも心外、といった表情で、それからふふん、と目を細め、自慢げに微笑んで見せた。
「さすがにねえ、浅漬けの作り方くらいは心得てましてよ」
と、来た。
「はあ」
天子の自信に溢れた気勢に衣玖はふうんと頷き、一歩引いてキッチンスペースを天子さんにお譲りした。
心得てます、というなら話は早い。
私は何も助けませんよ、と、そういう合図である。天子も一つ、その衣玖の意思表明に頷いて見せた。
そこからの動きは速かった。本当に衣玖の意思を察してくれたかどうかはともかく、下拵えから始まる立ち振る舞いに、無駄や迷いはなかった。御石のボウルにたちまち酢と塩をぶちまけると、手際よくほぼ基本通りの床を作った。ついでに衣玖が切った野菜と自らの切った野菜とを合流させて、御丁寧にも粗塩で揉んで見せる。
衣玖は、言葉にこそ出さなかったが、感心していた。
手際は良かったし、何より基本に忠実である。つい今し方まで料理のりの字も知らなかったような彼女と、同一人物とはにわかに信じがたい。派手な無茶を演じて見せた五分後には、味に大ハズレの起こらない手本通りの調理を、ここまで徹底できている。
衣玖も会食に呼ばれるのは確実だろうが、このままいけば多少でも安心できようものである。
しかし、当然話はここからだ。
「さてさて天子さん、材料は完成しましたが、仕上げまできちんとしてくださいね?」
「む」
「さっきみたいに、最後は私任せじゃいけませんよ。漬け物は漬けてこそ、料理する方のセンスが見えるんですから」
多少、意地の悪い言い回しを選んだ。
漬け方が鍵を握る。
そういう念を押しておけば、天子に僅かでもプライドが残っている限り、この料理会に供与するにおいて自分でやらざるを得なくなるだろうと思ったからである。
衣玖は別に、嘘をついているわけではない。漬け物は漬け方が決め手という、それは紛れもない真実である。「漬け物を天子が作る」というなら、最後の過程は、天子が直截に手を下してこそなのだ。
中途半端に衣玖が協力姿勢を見せていては、いざまたお鉢を回された時に言い逃れが利かなくなる。別に自分の腕の方が怪しいという訳ではないが、やはり、そこで自分が手を貸すのは何か違うと思った。
「……よし」
天子の決意の声が聞こえた。天子は、またしても機敏に動いた。
辣腕料理人の如く、まるで不安など感じさせないてきぱォとした仕草でもって磨き上げられた石の器に、先の野菜たちと、漬け床を一緒に盛りつけた。
そして、先程まで使っていた俎板をどういうわけかその上にぼん、と置いた。
それを衣玖はじっと見ていた。天子もじっと見ていた。
それはもう、じーっと見ていた。
衣玖の胸に先ほどの不安が過ぎった。
不安は間髪を入れず「予想」に転じ、間もなく確信に転じた。
霊力を溜めている。
溜めているということは、どういうことか。
……絶対アレだ。
「待って! お願いだから待」
「……天地開闢!!!」
無念、間に合わなかった。
衣玖が手を差し伸ばそうとしたその瞬間、天子は何事かを喚くように唱えた。
躊躇い無く。
喜色満面で。
衣玖が考えるに恐らくはそれが技の名前だったのだろうけれども、金切り声ははっきりと聞き取れなかった。聞き取れなかったがとにかくその一声に天が黒く染まった。文字通り、快晴だった頭上が一秒で青さを喪った。
曇ることのないはずの天界の空が一面影に覆われて衣玖は立ちつくし、それが大きな岩のお腹の部分であることにちょっとしてから気が付いた。
気が付いてすごくびっくりした。
「天地開闢! プレ〜ぇ〜ス〜〜!!」
大岩に乗っかった天子が、羽毛のような軽やかさと豪放磊落さでもって地面に向かい急降下してくる。岩と共に。
身構える暇も無い。逃げる暇などもっと無かった。
――天界すべてを揺るがすような、激甚なる爆音と振動と衝撃が発生した。
完全無欠の直下型地震である。文句なしの一撃に、空の上で十年百年のほほほほんと閑居してきた衣玖が真っ当に対処できようはずもなかった。足を着けている地面が揺れる、という事態を体験したことの無かった衣玖はほぼまったく抵抗できず、思いっきり足を取られてすっ転んで鼻を強打した。空前の直下型は衣玖の真横数十センチを震央として、哀れ竜宮ノ使ヒを一匹仕留められたハエのように地面に縫い止める。寄せては返す細波のように去来する振動は愛の抱擁となり、ハエは二度三度と猛る地面に往復ビンタをされる。
一体どれだけの時間の阿鼻叫喚であったか。
その揺れがようやく収まる頃になって、岩の上から天子が軽やかに降りてきた。
「どう? 野菜ちゃんと漬かった?」
「……」
「ねぇ」
「……見てるわけ無いでしょ!!」
赤くなった鼻をさすりながら、衣玖はどうにか立ち上がる。立ち上がるのが非常に怖くなっていた。安定した地面氏に対する信頼感は失われていた。信頼というのは、些細なことで砂の城のように崩れ落ちるものなのである。
もう誰も信じられなくなった絶望の地上で、衣玖は生まれたての子鹿のようにぷるぷると立ち上がった。二本の足で立つことがすごく怖くなっていた。地面は震えていないのに、膝が震えていた。
衣玖の涙目に霞む視界の向こう側、漬け物のセットはといえば多分今、その大きな岩の下にあるのだろう。
漬け物などもう忘れた。
今となっては、どのみちあの巨岩の下など確かめようがない。
「実は人まねなんだけどねー。人間達もみんな漬け物を漬ける時は、こうしてたという話よ」
誇らしげに屹立する巨岩を見上げながら、天子は嬉しげに頬を染めて両頬に掌を添えた。
計算通り、といったところか。
なるほど調理行程としては、恐らく間違っていない。
「まあ……もう、何でも良いです」
ふにゅう、と赤い鼻に涙目をしつこくこすりながら、衣玖はもうどうにでもなーれと、こくこく頷いた。
確かに間違ってはいないだろう。きっと正しいはずだ。ただ漬け物石が本当にこんなに巨大である必要があるのかどうかだけ、どうしても胸に引っかかったけどそんなことももうどうでも良い。
天人はハイスペックなのだ。
常人の常識は通用しない。
「――もうとっとと、最後のメニューに行きませんか。“あれ”を使って、メインディッシュを作るのでしょう」
遅々として牛歩のような調理タイムに次第に苛立ちは募り、衣玖は突っ慳貪に進展を促す。
巨岩に空を浸食されてすっかり日陰になってしまったキッチンスペースで、衣玖は先を急ぐ。顎を横に振り、視線でそれを示す。
「“あれ”ですよ」
「うん」
天子も衣玖に従うように、それに目を向けた。
二人の美少女に見つめられ、“あれ”は、元々赤い頬をさらに赤面させてつやつや輝いた。
食肉界の優男。燃えるような情熱の赤に、淡いロゼ色は霜降りの誘惑。
二文字で言えば牛肉である。
衣玖が下界に降りて調達してきた、とってもおいしい牛さんだった。
「本当にでも、よくこんな上物が調達できたわね。こんなもの、人間やってた頃だって見たこと無いわよ」
「私だって初めてです。……苦労しましたよ」
上質の食材を眼前にして、天子も思わず畏まっていた。そうさせるだけの威光が見て取れる。究極的に言えば食肉でしかないそれは、まるで俗物に似つかわしくない気品溢れる佇まいをしており、ぞんざいな調理を丁重に拒絶するような居丈高なオーラを放っていた。
ありがとう、と天子が呟く。
衣玖は、無言で頷く。
ここまですったもんだの調理会だが、一発逆転の可能性を充分に秘めた最高の食材が最後に待ちかまえているのだ。
腕に撚りをかけて、本日のメインディッシュと行きたい。
「では最後のメニューです。最高級品、国産衣玖牛の」
「衣玖牛って名前じゃありません」
「牛みたいな胸の衣玖さんの」
「要らんことは言わなくて良いですから」
「というわけで最後は、この美味しそうな幻想郷牛肉をレアステーキで締めてみたいと思います。です!」
ぽんぽんと手を叩きながら、天子ははしゃいでいた。
悪くない選択だ、と衣玖は思う。
良くも悪くも上質な食材なので、調理法に小手先の小細工が必要ないのは僥倖である。天子が無理な調理法に挑まずとも、とりあえず焼いておけば味を損なうことはないだろう。焼き加減が決め手とはなるが、材料が材料だけに、多少の失敗は覆い隠してくれるに違いない。
張り切って肉の塊を持ち上げる天子に、衣玖は、今度こそ全ての行程を一任することを決心する。成功の公算が大きくなったことで、天子にすべての下駄を預けるだけの余裕がようやく生まれた。開催趣旨に照らし、ようやく本来あるべき姿に戻ったのである。
手近な岩に腰掛けて、成り行きを眺める姿勢に入った。
――ひとつだけ、今し方耳にした、ちょっと気になる言葉を抱えて。
(「人間やってた頃だって」)
天子は、確かにそう口にした。
言葉の正確な意味は判らない。ただ、何かしらの経緯があって天界の住人となった事は確かなようであもある。死者の一人として天界に導かれたと考えると、俗世への未練を残しているのは極めて不自然なことだった。
仔細はともかく、彼女の言葉を言葉通りに信じれば、辻褄の合うことが多いのは事実である。
天人として決定的に違和感のある性格、価値観、本来究極の楽園として考えられている天界を疎んじるような日頃の物言い。
何も起きないことを、退屈と言い切る思考。
その思考は、極端なまでに“人間的”と言えた。
彼女の来歴に何かの“秘密”があり、それに起因しているのだとしたら得心が行く。
人間が天の世界に移り住んだがために、人間としての境遇を引きずったまま、ただ住まう場所だけが雲を飛び越えたとしたら。
「……総領娘さま」
「はいな」
「ちょっと出かけてきます」
腰を上げて、衣玖はお尻をぽんぽん払った。
――今しがたまで続けていた思考が、ひどく愚かしいものに思えたからだ。
「このまま行けば、宴会に来られる人数分の食事を用意することが出来ません。郷に降りて、適当に魚でも捕ってきます」
「ういさっさー」
気立ての良さそうな笑顔でひらひら手を振る天子に背を向けて、衣玖は、すぐそこに広がる雲海のほとりへと歩みを進め始めた。
蟠る気持ちは、彼女に背を向けて隠した。
(……私が気にすべき事じゃない)
そう言い聞かせて、忘れようとした。
脳裡にしつこく思考の鎖を引き結んでくるのを、必死でふりほどこうとする。
興味も無いことだと、自分でも感じていたことである。忘却は容易な筈だった。
にも、関わらず。
思考の歯車を、衣玖は止めることが出来なかった。悶々と一人葛藤を抱えながら歩き、雲海の水面はどんどん近づいてきていた。
理由が何も分からなかった。天子の過去になど首を突っ込むべきでないと自制し、そもそも興味もなく、慎ましやかな態度を遂行できていたはずの自分が――どうして、一体、こんなにも変わってしまったのか。
天子の生い立ちには、余計な詮索をしないと決めた筈だった。
それがいつしか自分は、下衆めいて、彼女の過去を曝こうとしている。
自分のことを恐らくは信頼してくれている天子に対して、それはある種の裏切りとも思われた。彼女から自分に向かい、僅かでも親愛の情があるというなら、衣玖自身の信念などよりも何より、彼女のその純潔な思いを蹂躙する行為だと思う。
止め処なく、探偵の真似事のように推察を加えてしまう自分が、とても恥ずかしい気がした。
思考をふりほどこうと、衣玖は激しく首を横に振る。
(……)
疑問に答えを見つけられぬまま、衣玖は雲海の中へと飛び込んだ。
目指すのは遥か下界にある、幻想の地上である。
天子の気配が遠ざかり、慣れ親しんだ雲達の光景が視界を覆い尽くしてゆく内。
――あまりにも悔しい安堵という感覚が、飛翔する衣玖の胸を包み込んでいった。
【天空のデリカテッセン(後編)】 |
陽射しが灼いてくる。
日焼けしない健康的な光。
暑さの無いお得な夏。
さながら刃のようなその夏の熱さは――しかし、天界にまでは届かない。
熱気さえ届いてくれれば、この牛肉だって焼けたかもしれなかった。
まったく、天界というのは涼しくて忌々しい。
天界の対極である「地」の世界――すなわち地獄に八熱地獄と八寒地獄があるとおり、暑さ寒さは苦しみの代名詞。ゆえに、天界に暑さや寒さはない。暑いのは嫌なことだ。天界は嫌なことが一つもないところだ。つまり暑くない。
空虚な三段論法の成れの果てで、いつどんな時も汗腺とお肌に優しい世界である。
つまらない。
雨を希求する者もいない。雪の風情にも、天人は理解を示さない。まして嵐などあろうはずもなく、風に吹かれて汗もかかず空調の効いた世界であくびをしながら、頭上にはいつどんな日でも、魔法のように清澄な青い青い空が広がり続ける。四季の移ろいを消し、天候の千変万化を失って空はひたすら青く、いつ、誰か、どう見ても不思議なほどに美しい空だった。
――比那名居天子がこの世界を退屈だと思う、最大の理由が空である。
晴れ間というのは、雨の狭間にあるから嬉しいと天子は思う。
晴れの日が沢山あるから雨が心地よくなる。雨が降る。今度は晴れ間がありがたい。そういうものではないか。
時にそれが望みに反し、農繁期を苦しめたり散歩をびしょ濡れにするかもしれない。汗が止まらなかったり、こたつから離れられなくなるかもしれない。
だがそれを「生きる上での苦しみ」とまで、地上人は形容したか。
毎日が晴れだったならと心底から望んだ人間が、本当に一人でも居たというのか。
天界の宝具の一つである、「緋想の剣」。
気質を現出させる金色の剣を天子は、先だって宝物殿から内緒で持ち出した。
その剣を秘宝と崇めておいて自分達の世界は毎日が日本晴れ、というのだから天人はちゃんちゃらおかしい。今回の騒動のお供に天子が緋想の剣を持ち出したのは、天子なりの、天人界に対するちょっとした意趣返しのつもりがあった。
剣は快刀乱麻に舞う。
地上人の「気」を顕現させる。
幻想郷の住人は、見事なまでに思い思いの気候の変化を示す。天人を相手に剣を振るっていればこんな十人十色の成果はない。個性豊かな連中が闊歩する幻想郷だからこそ、緋想の剣は真価を発揮できた。
その事実こそが、天界に対する皮肉となる。
晴天のみを幸福と信じる天人に、気質を顕現させ、気候を変化させる剣など文字通りの持ち腐れにしか見えなかった。現実、扱いはめちゃくちゃ粗雑だった。さしてやんごとない身分でもない天子が、簡単に蔵から失敬できるくらいである。棚の上に「ひそうのつるぎ」と、ふせんを付けて放ってあった。
アホなのか。
それでもって誰も盗まないのだからすごい。そして誰も使わない。故に色即是空。放っておけば宝剣といえど、あの埃っぽい宝物殿の中で名刀赤鰯は確実だったろう。
何も変わらない世界ほど、退屈なことはない。世界は千変万化であるべきだ。時が流れ剣のように錆びて朽ちゆく世界ならそれもまた一興だと思う。
ひたすら青い空の下、定律に従うように花を咲かせる蓮の華や甘い桃の実だけで満足を得られるその感覚が、天子には、ひたすら苦痛でしかなかった。
今夜の宴会を心から楽しみにしている。
会話の中には変化が詰まっている。酒精は人に変幻をもたらす。人と出会い、酔い、話せば時間は幻惑され、空間は回り、酔いつぶれた人々が集う果てには運命に囚われぬ様々な出来事が起きるだろう。
天人はそれを嫌った。
天子は、それに憧憬した。
今から楽しみで仕方が無い。
その遠大な準備の締めくくりは――現在、天子の眼前の大型七輪に横たえられていた。
クライマックスを目前に控え、天子の悩みは今、たった一つしかないのである。
――衣玖さん。事件です。
火が、おこせません。
■ ■
泣き出しそうな空だが、まだ泣いてはいない。
至極当然な事だが、天界が晴天であったとしても、地上まで晴天という訳ではなかった。
地上が雨であれ雪であれ、雲の上は晴天である。雲の上が晴天であれ、地上は話が別だ。衣玖自身も雲より下には滅多に降りないため、天界で陽気に当たっているとついつい「地上も同じ天気だろう」と思い込んでしまった。
その日の幻想郷は鈍色の雲に覆われていた。
午後二時半。
幸い雨粒は落ちてきていないが、風が冷たく重い。
「……とぅ!」
気合一閃。張りつめた声が川縁に響く。
河面がぼん、と、紫色に煌めき――やがてびっくりするくらい肥えたイワナが、力無くぷかーっと浮かんできた。浮かび上がってきたその眼は透き通り、川面に佇む衣玖の姿を麗々と映している。
羽衣の袖が濡れるのも構わずに、衣玖は素手で魚を掬い取った。その掌の中、囚われのイワナは身体や鰭を細かく痙攣させている。
獲物はそのまま、魚籠の中に放り込んだ。
膝元に抱えたその中はすでに、同じようにして捕獲した魚たちで溢れ返っている。
「……と。結構捕れたわね」
”釣果”を確認し、衣玖は満足げに衣の袖で額を拭った。汗と少し土の匂い。大きめの魚籠の、半ばまでが埋まっていた。
幻想郷の人郷に降りてきて、こうして魚を捕ってゆくのも久々である。水面に雷撃を放ち、電気ショックによって魚を『拾う』この漁法で、地上に足繁く足を運んでいた頃はよく遊んだものだ。獲れた魚はお土産にした。幻想郷の川魚はそれぞれ育ちが良く、その美味たるは竜宮ノ使ヒの美食家達をも唸らせた。
今宵の招待客がどういった面々になるかはまだ分からないながら、きっと喜んでもらえると衣玖は思っている。文句無しの新鮮さとお味だし、まあ幻想郷の住人であれば、地捕れの魚料理に不満を抱く者もいないだろう。
「……ちょっとちょっと、あまり捕りすぎないでよ?」
背後から、どこかで聞き覚えのある声に呼ばれて振り向く。
「あら、貴方は――」
「そ。この河の魚が絶滅したら、結構生命に関わるんだから」
飛沫に濡れた顔のまま衣玖が振り返ると、誰あろう、今宵宴会の主役たる博麗の巫女だった。
その顔には露骨に不機嫌が貼り付いている。
衣玖の魚籠に、ねっとりとした妬みの視線を送っていた。
「――失礼しました。そろそろ終わろうかと思っていたところです」
「そんなに魚捕ったって、食べられないでしょうがー」
巫女は腕組みをして、惜しむような視線で魚籠を見下ろす。
「……自然の恵みは食べられるときに、食べられる量だけ捕るものよ」
巫女の言葉には、重みがある。幻想郷において自然とは神である。ちはやぶる八百万の神々を司る巫女として、衣玖の一見無計画な漁獲量が面白くない。
――というのが、表向きの理由。
真相はと言えばつまるところ、困窮の生活を送る人間としてのやっかみ妬みである。いっつもひもじい思いをしているのにこいつと来たら、の理不尽さが瞳に現れている。
そんなこと言っても仕方がないのだ。漁獲は才が物を言う。弱肉強食を生き残った者だけが焼き肉定食にありつける。
狩る能力のある個体が生き残るのが運命だ。釣り針が見えるほどエサの量までケチってるから、お前は魚に見向きもされないのだ。
「大丈夫です。一人でいただくわけではありませんから」
冷や汗の衣玖だったが、おわしますのは本日主役の博麗の巫女殿。
夜の予定を、まだ伝えていなかった。
天子があんな頼りない状態だけに、一通り準備の目処が立ってから話を通すつもりだった。
だが今、大漁を見咎められて偽の言い訳をでっち上げる訳にもいかない。
「ちょうど良いところですから、お話ししておきましょう。急な話で申し訳ありません」
「?」
「実は今夜、天界におわします総領娘様が――」
■ ■
「さて」
イッツ牛肉である。
高級な正絹を思わせる光沢、染井吉野もかくやと思しき鮮やかな薄紅色の赤身に淡雪の霜降り。
腕が鳴る。胸が躍る。
「レアステーキ……レアステーキ……」
献立の名前を天子はぶつぶつと反芻する。牛だから反芻しているというわけではない。むしゃむしゃしているわけでもない。
想像するだけで垂涎である。幻想郷の宝石と呼ばれし珠玉の逸品。天人としての面子、体面、またその身を捧げてくださったウシ様を想っても、この食材に一切の粗相は罷りならぬ。
衣玖の用意してくれた道具類の中から、板きれと棒を取り出した。板きれの真ん中に錐の穴。古来日本の匂いを芳醇に漂わせるその古めかしき道具。
ひおこし。
今回の企画に協賛してくれている、永江衣玖お手製の火興し道具である。
万端の準備はすべて衣玖がしてくれたものだ。未来から天子の行動を先読みしてきたみたいに、痒いところに手が届き続ける本日のクッキングスペースは天子にも驚きを禁じ得ない。七輪の中は最たる例で、下層から順に、杉の葉唐松備長炭と美しいミルフィーユが作ってある。満を持して火種を放り込めば、幻想郷を核の炎に包めるくらいの元気な炎が燃えさかるだろう。
そこまでやってくれるとは。
万事がうまく運ぶように出来ていた。成功は約束されている。失敗するなど普通にありえない。それは衣玖の大業である。
ここまでやってくれたその尽力の偉大さに天子は感謝を惜しまない。現在地上へと足を運び、不在となった衣玖に届かぬ感謝のお辞儀を捧げる。
「ありがとう衣玖様! おねがいたすけて!」
火がつかない。
とにかくつかねえ。
これは流石に予想外だった。
ここまでの尽力だけでも衣玖には大感謝だ、だからこの板きれがちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、神社に置き忘れた煎餅のように湿気っていたことについて批判を向けることなど毛頭考えていない。天人はそこまで恩知らずではない。
でも助けてほしい。たのむ。
衣玖の心意気に結果でお答えせねば女の名折れだが、その前に心が折れそうである。ジューシーなレアステーキは本日宴会の成功ならびに彼女への恩返しの約束手形となるが、このまま行くと牛肉の刺身になる。或いは漫画肉か。妄想の中だけで肉汁を滴らせていれば良いというものではない。
「こんなことで……こんな……」
天子は知恵を絞った。一心不乱に、腕まで組んでひとつの物事を考える。三年ぶりくらいだ。
衣玖が出掛けている時間は限られている。間もなくこのキッチンスペースへと舞い戻って来るであろう衣玖が、生のまま佇んでいる和牛を見た瞬間にどんな感情を吐き出すか。
哀しむだろう。
或いはサボっていたんだろうてめえこらと、怒声張り上げて角を生やすかもしれない。肉一つ満足に焼けないのかと嘲るやもしれぬ。今日はもう失敗だ、と突き放されるかもしれない。こんなダメ女がのさばっている天の世界なんて滅んでしまえば良いのにと絶望するかもしれない。
案外衣玖が本気を出すと自分ごと天界を消し炭に出来るんじゃないかと思えるので、出来れば事は穏便に運びたいのである。
肉さえ焼ければ文句はない。無い知恵を雑巾絞りにする。
押してダメなら引くが良い。板が湿っているなら火がつかない? そんなものは固定観念ではないか。木とは燃えるために生まれ育つのだ。多少湿っていようが、火種さえつけばあとはこっちのもんである。
本日も晴天なり天界の青空の下、料理会のグランドフィナーレへ向かう緋毛氈。
その主役は最高級和牛。
天子の大一番、裂帛の気勢、うなりを上げる小枝一本。
「――どりゃあああああああ! 待ってなさいよ衣玖牛ぅぅぅ!!!」
やはり衣玖牛、らしい。
■ ■
「……まあ。いいんじゃない?」
「いいんですか」
衣玖の鸚鵡返しが、せせらぎの下流から上流へと間抜けに木霊する。青く繁った山裾。歩いた場所がそのまま道になった道。川縁、賽の河原のようにごつごつとした足場。三本の丸太を麻縄で縛っただけの橋が上流で流れを跨いでいる。山百合が見頃を迎えている。
天子が、今夜料理会を開こうとしていること。現在天界特設キッチンにて絶賛準備中であること。天界では人が集まりにくいので、宴会にあたっては境内を貸して欲しいこと。
ついでに――今回の料理会に至った、天子の動機。
「申し訳ないと思った」という天子の言葉を含めて、衣玖は事のあらましをそのまま霊夢に伝えた。
あまりそういう科白をヌケヌケと招待客にバラすもんじゃない、というのは衣玖も思う。だが、さもなくば奸計を疑われかねなかった。
霊夢にとっての天子は、先だって社殿を倒壊させられた目下仇敵である。急に美味しそうな餌を眼前に出されれば、当然まずは裏を疑うだろう。
今回は純然たる好意である。天子にも衣玖にも、裏の意図は無い。何を言われたって言い返せる身分ではないが、痛くもない腹を探られるのはやはり気分が悪い。
打てる先手があるなら打っておきたい。
衣玖は、天子の言葉を正直に霊夢に伝えた。
その言質を信じる信じないは霊夢の勝手として、ひとまず全ての情報をさらけ出しておくことは、後々マイナスにならないはずだった。人間関係における誠意というものでもある。
ふぅん、と来た。
がく、っと拍子抜けした。
「――とりあえずご快諾いただけた、と解釈していいんですかね」
衣玖は苦笑しながら、ため息をつく。
てっきり怒るか、鼻で笑われるか、良くとも交渉を要すと思っていた。
神社を壊された日の、霊夢の落ち込み様ときたら相当なものだ。瓦礫の山と化した再起不能の社殿の真ん前に座り、はわわ〜とか言いながら地面に膝を抱え、適当な枝切れでもって足許に八卦図を四十個くらい書いていた。変な法力が集まっていて魔理沙が血相を変えていた。
今でこそ物心両面でだいぶ立ち直りの兆しがあるとはいえ、そこまで痛めつけられた霊夢の心を衣玖は目の当たりにしており、簡単に天子への怨みが晴れるとは思っていなかった。そこに持ってきて『悪かったわ』なんてあっけらかんと伝えられたところで、幻想郷の山という山が噴火するくらい怒るんじゃないかと思った。
結果は逆である。
霊夢はあくまで泰然とし、腕組みと瞑目でふんふんと満足げに頷いた。
「案外、素直に受け容れられるのですねえ」
「魚心あれば水心。文句はないでしょ?」
なかなかに殊勝なことを言ってくれる。
殊勝すぎて残念ながら、衣玖は訝しんだ。
怪しい。
ものすごくあやしい。
それは巫女の御心の広さなのですか、それとも。
「ん? んー、まあね」
えへへ、と霊夢は頬を掻き、
「まあ……ほら、お食事と宴会っていうなら」
「あ……はあ」
馬脚を現すのだった。
乾いた笑みが衣玖に零れる。
要するにメシである。
お食事さえ出来れば何でも良い。
失笑する。
幻想郷の神職達は、そんなに日夜ひもじい思いをしているというのか。臆面もなく夕食の二文字だけの餌など、今時クマでも引っかからない。
「まあ、総領娘様も喜ぶかと思います。ありがとうございます」
頭上遙か彼方の上空で今頃奮戦しているであろう天子に代わり、永江衣玖が丁重に頭を下げる。相手が単細胞で本当に良かったと思った。
衣玖がこのたび重ねてきた「下準備」もこれでフィナーレである。最後にして最大の課題を解決し、あとは天子のイベントを心待ちにしておけば良い。
天子自身にとって、先日の騒動以来の地上でのイベントである。そこで宴会を挙行できると正式に決定すれば、彼女にとってはそれなりの“意味”があるだろうと推察していた。
――あの言葉が、本当ならば。
「……あの総領娘様は、元々地上におられたのですか」
その問いを、思い切って衣玖は霊夢にぶつけた。
霊夢は不思議そうに眉根を寄せ、それから難しい顔になる。
「よく知らないけど、そんな感じらしいわよ」
宙を見上げて、霊夢は瞳を細める。
「そう……でしたか」
「つっても、私も紫あたりからちょこちょこ話を聞いただけだし……まあ紫の言うことだから、だいたいどこまで本当なんだか。アイツはあんなんだから、全然要領を得ないしね」
「はあ」
比那名居天子とは、どんな「人間」だったのか。
この計画に付き合っている内、衣玖は知らず知らず、それに興味が湧いてきていた。
天子はかつて、幻想郷に居たという。そのとき天子が、果たしてどんな存在だったのか。
優しかったのか、狷介だったのか。敬われていたのか、疎んじられていたのか。人間だったのか、はたまたその頃から不良天人だったのか……
「ってか、本人に訊いてみれば良いじゃない」
「さすがにそんな失礼なことは――」
「今日の料理だってあなたも手伝ってるんでしょ?」
「あー……いや、どうでしょう」
何よそれ、と、霊夢の肩から袖がずり落ちる。
「あなた、あのバカ天人と付き合って何やってるの」
「何、って料理ですが」
「料理は手伝ってないんでしょう?」
「極力手伝わないようにはしています」
「……ほぅら」
雲の上の笑顔が脳裏を過ぎる。
「そうですねえ、――お喋りとかツッコミとか」
「ツッコミって」
「ああ、あと準備はほぼ全て私がやりました!」
霊夢が吹き出した。
話の主導権を握られてやりにくい。
気分が優れない。
「――ねえ」
「何ですか」
夏にしては、足を浸した河の水が冷たかった。
岩陰に沢蟹。
山百合の匂やかな風。
曇天を映す河面。揺れる魚籠、はためく巫女装束の袖口と長い黒髪。紅いスカートの裳裾。
「……アンタ、あの天人の何なの?」
娼婦めいた悪戯っぽい瞳が、やたらに網膜に焼き付いた。
水面の中で小さな燐光が閃く。はぐれた岩魚の稚魚が、水の中で沢蟹の岩陰に隠れる。粘るような暑気。曇り空、清冽な水の流れ。浸した脚、濡れた羽衣の袖。
汗の滲んだ額と前髪。
あれれ、と霊夢が首を傾げた。
黙りこくった衣玖を眺めている。
「ん……何ででしょうねえ。何というか、成り行きで」
絞り出すように答える。
「……ふうん」
霊夢はぴょこん、と川縁の岩にしゃがみ込んだ。素足を河に浸したまま突っ立っている衣玖が、そんな霊夢を見下ろす格好となる。
言おうと思えば、いくらでも言葉を足せる。
霊夢の含み笑いは、そんな言葉を雄弁に語りかけてくる。
ぽちゃんと草履ごと、霊夢も流れに足を浸した。
風がまた少し冷たくなる。
(……)
いざ問われてみると、自分でも分からなかった。
だから不思議な気持ちになった。衣玖はふと冷静を取り戻し、今日の経緯を考えてみたけれど自分でもよく分からない。成り行き、という答えだけでは到底不充分だ。
天子との邂逅は件の異変。天界の秘宝を持ち出し、幻想郷に地震を起こして博麗神社を倒壊させたその犯人を、衣玖は実力行使でもって懲らしめた。
その縁か。
それだけの筈はない。
度々に重なった出逢い、取るに足らないお喋り。愚痴の相手、暇つぶしのお供、挙げ句の果ての奇妙な計画への左袒。
今自分をこの下らない計画に繋ぎ止めているのは、成り行きとかそういったものとちょっと違う感覚の気がした。惰性に任せた、動機とも言えないような動機ではない。
交友というのも少し違う。
そう、もっと本能的な――
「――そうか! 女同士の、道ならぬ慕情!」
「モルダー、あなた疲れているのよ」
川辺で、トノサマガエルが馬鹿にしたような笑いを上げた。
山裾に挙り咲いた名も無き花が、風のゆらめきに小首を合わせている。
「……まあいいじゃありませんか。人間関係なんて大概そんな」
衣玖が苦笑いでごまかしかかったところへ不意に、
「あ」
「え?」
霊夢の頓狂な声が来た。
あまりに頓狂すぎて衣玖の思考を引きちぎり、並びに、霊夢の視線の先を衣玖にも追わせる。
「……あ」
「うん」
霊夢の見ているものが、衣玖にもすぐに分かった。
追い掛けた先には水面がある。きらきらと空の光を照り返す水面の下に、水の細波とは違う光り方が見えた。
でかい。
でかい魚。
大物のイワナが、まるで吸い込まれるように衣玖の照射射程へと泳いでくる。
「博麗殿」
「ん」
「…………若さって、何かね」
「躊躇わないことだよ」
飛んで火にいる渓流魚。
衣玖の心の中に、ガッツポーズの灯が灯る。
電撃漁法を採用する衣玖にはテリトリーがある。立っている場所から半径いくらか。
決して広大なエリアではないが、その分陣内に入った時点で、最早彼の運命は決まったも同然である。逃がしはしない。感電によって仕留めるその運命は、既にラプラスでさえ左右できない確定的な未来となった。
それが永江衣玖の漁法なのだ。敵を傷つけず、さりとて逃さず仕留める必殺仕事人。
本日最後の獲物に相応しい大きさを、衣玖は河面の中に視認した。哀れなイワナさんを衣玖は見据え、手に力と光を籠めて雷撃を纏い紫電一閃、稲光りの切っ先が河面に突き刺さるまさにその瞬間霊夢は本能がそうさせたかのような勢いで立ち上がって水に膝まで飛び込んでいた。
止めようがなかった。
止められるはずもなかった。
彼女もまた大物に飢えていた。それは、正しく事故というより他は無かった。
迅雷の槍は残酷なまでに暇を置かず水面を捉え周囲は紫の光の一色。染まり返る閃光と爆音、比類無き強烈な電撃、水を伝って巫女の身体。
光と影、暗転と明転、黄色い輪郭を纏った黒い人型のシルエットの中にドクロのマークが昭和のアニメのように明滅して幻想郷は幻想の光景に包まれ、
「…………ひぎゃあああああああああああああああああああああああwせdrftgyふじこlp;!!??」
言葉にならない言葉、裂帛の絶叫、その次の瞬間巫女の身体から黄色とか紫とか、その他七色の光が飛び散った。
地上の打上花火。
ほんの一瞬の静寂。
ぷかりと浮かび上がった大物のイワナ、茫然と見送る衣玖の少し向こうで楽園の素敵なアフロ巫女の頭上から黒煙が立ち上っていた。巫女というのは、どうやら電気を通す生き物だったようである。めでたしめでたし。
ぽはっ、と、耳の穴から白煙が出た。
口をあんぐり開けて唖然とする衣玖の眼前で、漫画のように綺麗にコゲた博麗の巫女は美しかった。女性的だ。それはまるで巫女舞の如く雅やかにたおやかに、間もなく足腰の支えと意識を同時に失って幽鬼のようにぐらり揺らめいた。
けたたましい水音を立てて、巫女は川面に顔から突っ込んだ。
じゅっ、と、頭の先から音がした。
■ ■
掌に唾を付ける。
金色の剣は手元に突き刺してある。牛肉が小さな岩に載っかっているのを見下ろしている。紅い肉は灰色の雲海を借景にしている。
「今度こそ……」
天も焦がせと立ち上る気勢。天子の怒髪天を衝き、晴れやかな天界に不穏な風の漂う昼下がりに牛肉は文字通り俎板の上の牛、間もなくその紅さを失わんとしている。
焼く。
それだけ出来れば良いのだ。
無理にヒオコシの道具に頼る必要はない。要するに肉を焼くことさえ出来れば目標は達成される。天界の人里と逆方向、衣玖が地上に向かって降りていった雲海の方に牛肉を置いた。
言わば天界の波打ち際。
そっちなら人も居ないだろう。
雲の海の下には人間の世界があるばかりだ。
普段は人の出入りなど無い道である。分厚い雲の中を突っ切って人間界に降りていく、そんな妙な用事のある者はそうそう居ない。
もう一つ、ぺっぺと掌に唾を付ける。
金色の剣の柄に手を掛け、徐に引き抜いて日の光に翳す。
霊力を込める。
切っ先を、岩の上に据えられた牛肉へピタリと据えた。
■ ■
「まあ」
雲の厚みが次第に増してきた。
粘っこい暑さが滞っていた幻想郷に、夕立の一つくらいは来るかもしれない。
「……夕方くらいには目が覚めるでしょう」
風に飛びそうになった帽子を右手で押さえる。その拍子に取り落としそうになった魚籠を左手で押さえる。傾いだ魚籠の口からヤマメが一匹、遥か眼下の地上へと滑り落ちていった。誰かの背中に落ちたりしないことを祈るばかりだ。
降りしきるようなつくつく法師の蝉時雨は、空に飛べば湧き上がるような声に変わる。湿潤な空気。上がりきらぬ気温、下がりきらぬ気温。粘り気のある風。
巫女は介抱して、とりあえず本殿の板間に寝かせておいた。巫女は虫の息だったので、夕方くらいには快方に向かうだろう。何の虫の知らせか、偶然居合わせた白黒の魔法使いに宴会のことは話しておいたから、人員の手配も滞りなく進むに違いない。
歯車の波長が揃っている。
天子の思惑通りに事が運び続ける。
『あなた、あの天人の何なの?』
大きなお世話だった。
「まあ……どうでも良いといえば、どうでも良いのですし」
単純に友達になりたい、という想いだけで片付けられるならその方が楽だ。
同性の道ならぬ恋、といった方がまだ相応な気もしてくる。断じてそんな気は無い。無いのですよ。
胸の奥の方、小さく共鳴する音を鳴らしているのは何なのか。
頬を小さな雫が打つ。
「あ」
空へ昇ってゆく。
雨が周囲を通りすぎる。
地上へ向かう雨粒と逆方向に向かう。雨とすれ違って衣玖は昇る。鬱積した雲の渦の中に細く逆巻く稲光、地鳴りのような雷鳴。鬱屈した想いは晴れることを知らない。
気にしなければどうということもない。
強まる風。あの雨粒は地上まで持つだろうか。雲から降り注ぐ雨粒は、あまりに小さければ地上にたどり着く前に蒸発してしまう。
蒸発してしまえ。
今宵は宴会だ。
雨粒は、雨になる前に蒸発してくれた方がよっぽど良い。
視界が、夜のような闇に包まれる。
一つ、大きな咳払いをする。
■ ■
青い青い空。
青い青い風。
白詰草をでっかくしたような変な花が、野原一面に沢山咲いている。地上には無い花が咲く。さやさや緑を揺らしながら風が通りすぎる。お花の匂いがそよぎ立つ。
青い青い空。きらきら輝く太陽。曇り、霞みの一つも無い完璧な空。強くもない弱くもない、穏やかな風。花弁の一枚も欠けぬ花達。
臍下丹田に力を込めている。
乾坤一擲の集中力を磨いている。
堅忍不抜の精神力で剣を握っている。
一世一代の大砲を放つために。
「20……19……18……」
牛肉を焼ければ文句はない。もっと言えば緋い大砲は、厳密には炎じゃない。
だが、激した気持ちの顕現は炎と変わらないハズだ。極限まで精神力を高め、昂揚の気分のままに気質を顕現させれば牛肉的な意味での突破口は開ける。
板きれと棒で火がつかなかったならば。
ここは女の一念、岩をも砕く炎で肉を焼いてみせよう。
レアステーキを作るのだ。
満を持して、博麗神社の宴会に臨むためにも失敗は許されない。衣玖が東奔西走して万端の準備を整えてくれた、その報恩感謝の想いは口よりも結果で示してみせると心に誓った。
ところでレアステーキのレアってのはどういう意味だろう。
ま細かいところはどうでも良い。
「10……9……8……」
胸の内に数を刻めば、沸き立つ霊力が抑えきれなくなってきた。
迸る気迫。
汗みずく。
逆立つ青い髪、逆巻く風、人に迷惑の掛からない雲海方向への一発は残り5秒を切った。
■ ■
微細なことを気にしすぎているのかもしれない。
人が人と付き合うのに、どれだけ真剣な思慮を巡らせるというのだろう。想えば馬鹿馬鹿しい話だった。男女の間の話なら、友達以上恋人未満などと呟いて甘ったるい関係に色々妄想を巡らせていても暇つぶしにはなる。
女同士。
夢もない。
二人の関係を考えてどうなるということもない。
今はただ、天界に残してきた天子と、その腕に一任した牛肉の運命が気になって仕方がない。
「うまく焼けていると良いのですが――まあ、多少焦がしたくらいなら全然食べられますし」
独り言の語尾は嵐の音に掻き消される。
大太鼓を耳元で撲ち鳴らされたような雷鳴。
人間界から天界へ変わる境界線。
紫電が幾筋も奔っては消え、割れ目のような形無き門扉を作り上げている。
その真ん中に飛び込む。
■ ■
「4……3……2……」
気勢はもう、止まることを知らない。
刀身に、紅い霧が纏われてゆく。
竜巻のように迸る霧は忽ちの内に、天子が掲げる金色の剣に収斂する。
破裂はもはや目前に迫る。
■ ■
とりあえず肉が無事であればそれで良い。
万が一手こずって何も出来ずにいたなら、あの可愛い天人さまをまた適当に弄くりながら、私めが腕を見せて差し上げましょう。
■ ■
「1…………!!」
天を向き、地を向き、最後に肉へピタリと据えられた切っ先。
過たず肉の方向、つまり人の居ない雲海の方へ鋭く向けられた刃は、
■ ■
なんだかんだで天子の笑顔ってかわいいよね。
久しぶりに見るとなるとちょっと楽しみ。
うふ。
■ ■
「ぜん……じん……るい……のぉっ!」
……ゼロ!
「ひそ」
「ただいまー」
「おーーーーてぇーーーーーーーーんんんんんんんん!!!!!」
花が揺れた。
天界の夏。
二度と戻らぬ、青春の熱い日々よ。
■ ■
博麗神社の境内に、藍色の夜の帳が降りていた。
盛夏一歩手前の時節を物語るように、夜半を迎えてなお粘稠な暑気が漂っていた。日の長さは尾を引いて空に濃い藍色を残す。山並みが墨色の稜線だけになる。くっきりと藍色の中に墨を零している。
日中薄い雲に覆われていた幻想郷も、夕刻に差し掛かる頃には僅かに晴れ間が覗いていた。雨は、数分ほどのおしめりだけで終わった。いつしか空を遮蔽していた灰色の膜は消えている。宵の明星、暮れ泥み。間の抜けた欠け方の月が浮かんでいる。
神社の境内は、暖かな橙色の光で満たされていた。
そこかしこで会話の花が咲いている。三歩先の会話も聞こえない。姦しい歓談の頭上に橙色の提灯が揺らめく。油紙越しの色は穏やかに境内を照らし出し、夏の羽虫や蛾みたいなのが沢山、灯りを求めて周囲を飛び交っている。
徳利と猪口。小鉢。零れた酒の痕。前菜として供された魚料理の大皿が、宴席の中央に陣取っている。小分けにされた皿の上には骨が転がっている。参加者の円座する真ん中で香ばしい香りを漂わせているそれは、本日の主催者の一人が用意した手料理だ――と、彼女は事前に聞き及んでいた。
「――やれやれ、だぜ」
会場の真ん中に席を構えた霧雨魔理沙は箸を置く。猪口を一献、上機嫌なげっぷを夜空に不法投棄する。
長く手がけていた魔法実験の成果が、その日、一定程度の好結果を結実させたことが上機嫌の理由の一つである。だが、それ以上に彼女を昂奮させているのは、夜闇の落ちた境内でこれから開かれる、久々の宴会への期待だった。
天界の民が作る料理。
食してみたところ魚は幻想郷の物らしかったが、お手並みは悪くない。醤醢の味付けは和食派の舌に嬉しい。物珍しさや迫力には欠けたが、文句を付ける場所はひとまず見当たらない。
天人は二人。一人目はまず合格。
値踏みしながらまた杯を小さく呷り、額の薄い汗を袖口で拭う。
「楽しみだぜ。楽しみだ」
来るべきメインディッシュを想う。
唄うように一人ごちる。
先の変事でほんの僅かだけ足を踏み入れてきた、天界の酒の味を魔理沙は思い出す。楽しみなのは他の参加者も軒並み同じようで、いつもの宴会以上に「メシ」への期待は高まっている。
魔理沙の隣に、本日の主賓として親友の博麗霊夢が座っている。その更に隣には、招待主にして賓客である、今回の主宰者のうち一名が陣取っている。
永江衣玖。
ふわふわとした羽衣に魔理沙は見覚えがある。
魚料理の手並みに、ひとまず合格点を告げた。衣玖は丁寧にお辞儀をして、それに答えてくれた。
その衣玖の隣は現在空席になっている。準備の最終段階という、今回の主役の椅子……という席次だった。
天人の二人目。
逸る気持ちを自制しながら、魔理沙はひとまず霊夢の方へ向き直る。
「それでさー、霊夢」
「何?」
「宴会の前に、ちょいと聞いておきたいことがあるんだが」
「何かしら」
浮かれ声の魔理沙と対照的に、霊夢の返事は素っ気なかった。高揚した気分を持て余す宴席にあって、彼女だけが一人、異様なまでのローテンションでやたらに重々しく沈んでいる。
うん、と魔理沙は笑顔で一つ頷いた。霊夢の爪先から頭頂部までをじっくりとっぷり眺め回した。
夏の暑さが汗を手招きしている。
蟋蟀の子供が足許を跳ね回っている。
彼女に聞きたいことは、ただ一つである。
それを魔理沙は、単刀直入に尋ねた。
「…………なんでそんなにアフロヘアーなんだぜ?」
巫女からの返事はない。泰然自若とした巫女は答えるそぶりを見せず、何事にも動じないような瞳で遠くを眺めながら髪を振り乱している。蓬髪みだれ髪といった度合は三年も前に通り越したような、寧ろ今にも神職から陽気なレゲエ野郎に転身してマーリーと踊り出しそうなアフロ巫女はただ静かに、行儀良く、神格すら漂わせてそこに座っていた。ものの見事に薄気味悪い。異様な威圧感は隠しようもなく漂って、周囲の人間を平時より四歩ずつ遠ざけている。立ち上る怒気がもう二歩半遠ざける。お馴染みの巫女服の黒こげになったやつをボロっと身に纏い、全身から余すことなく色んな意味でキナくさい匂いを漂わせている。
どう見ても尋常ではない。尋常と思う奴がいたらどうかしてる。
煤けた精悍な横顔がもうすごく怖い。
「なあ、なんでなんだぜ」
「……放っといて」
魔理沙は背中に汗を掻きながら食い下がったが、霊夢はとうとうそっぽを向いてしまった。
向いたそっぽは隣の席には天人。魔理沙は天人と思っているが、本当は雲海の住み人。竜宮ノ使ヒは複雑そうに、霊夢の視線へぎこちない笑みを浮かべる。
霊夢の射抜くような峻烈なる視線と気勢が、魔理沙の場所からでも分かった。
魔理沙は重い口を開く。
「な……なんだ。お前ら、またやりあったのか?」
「えぇ、ちょっと霊夢さんと――」
「何もないのに好き好んで焦げる巫女なんて居るわけないでしょっ」
雲海の少女はどこかバツが悪そうで、霊夢は露骨に不機嫌で言葉は意味不明。
事の仔細はまるで掴めないが、とりあえずどうやら面白い事件があったらしいということだけは魔理沙にも容易に汲み取ることが出来た。魔理沙はそれを、内心で残念に思う。舌打ちをした。原因など到底予想もつかないが、あの霊夢をここまで得点力の高い風体に化けさせるのだ。そんな事件があったとは、つゆほども知らなかった。
愉悦にあずかれなかった不運を魔理沙は嘆く。魔法実験などにかまけて家に閉じこもっている場合ではなかった。何とも勿体ないことをしたものである。
あはは、と乾いた笑みを浮かべ、魔理沙の興味は、無愛想な霊夢からやがて離れ、転じてその彼女に睨まれている、人の良さそうな竜宮ノ使ヒへと移った。
霊夢では埒が明かない。
「衣玖――とか言ったっけな」
「永江の衣玖と申します」
糸口はもう一つある。
魔理沙の問い掛けに少女は低い姿勢で、慇懃に頭を下げた。
取り付く島もなかった霊夢とは、あまりにも対照的な姿である。
「じゃあその衣玖さんに質問だ」
「はい」
与しやすしといった雰囲気が風貌に漂う。魔理沙は、再び人を蕩かす満面の笑みを浮かべた。
こちらに聞きたいことも一つである。
魔理沙探偵は灰色の脳細胞を研ぎ澄まし、核心を突く質問を衣玖容疑者に投げつける!
「…………なんでお前までそんなに黒コゲなんだぜ?」
問われた衣玖は、小首を傾げて苦笑いを返した。その傾斜で、帽子の鍔から微量の煤が落ちてくる。
ひらひらの羽衣は心なしか布面積を減少させており、永江衣玖は引きつった笑みを、ただ無言で煤だらけの頬に浮かべていた。髪はこちらもアフロ。きれいなドーム型だった帽子は歪に変形している。薄桃色の羽衣も端々が焼け焦げている。
蟷螂の小さいのが横に歩いてきた。
鎌首をもたげ、黒こげの衣玖に威嚇を始めた。
「…………かぁーまぁーきぃーりぃー、」
「昭和なアテレコは入れなくて良いですから」
幻想郷の将来を、魔理沙には少しだけ真剣に不安に思った。
「ちょっと……私にも事情がありまして……ね」
衣玖は曖昧な笑みのまま魔理沙にそう答える。そこでふと、空色の髪の少女が歩いて席に戻ってきた。
用意した料理を、手元に運び終えたところである。
「お疲れ様です。準備はうまくいきましたか」
「ええ綺麗に盛りつけも出来たわよ」
和やかな会話だった。長年のつきあいを重ねた旧友同士のような、その屈託無い会話は見る者を和ませる力がある。誰もが思い思いの会話に興じている中で魔理沙は、その様子をにこやかに見守ろうと思った。
衣玖の笑顔に埋め込まれた視線が、霊夢に負けず劣らず、まるで氷柱のようだった。
人間はこんなにも冷たい瞳が出来るのかと目を見張る完成度だった。細くなった眸の中で、凍えるような冷気と灼けるような怒気がせめぎ合っている。
「失敗無くできたなら良かったですね、総領娘様」
目がまったく笑っていない。
「――いえいえ。衣玖のおかげよ、どうもありがとう」
こっちは目しか笑っていない。
「……な、なんか今日……空気が痛い……ぜ?」
魔理沙の笑みが引きつった。
暑さのせいではない汗が、流れ流れて止まらない。
生存本能が警告音を鳴らし始めていた。首許がなかなかに涼しい。
空色髪が、気取った仕草で魔理沙に頭を下げる。
「……お前は……確かあのときの」
「ご無沙汰しております。その折は天界へお越しでしたが、如何でした? 気に入ったら、どんどん来てくれたって構わないんだけど」
無邪気な笑みを浮かべながら――比那名居天子というその少女は魔理沙に愛嬌を振りまいていた。横からの剣呑な気勢も、どこ吹く風である。
魔理沙ももう、乾いた笑みを零すより他になかった。
そして乗りかかった船の都合、
「じゃあその天子さんにも、やっぱりお尋ねしておくか――」
結局最後の一人に至っても、その真相を問い質すのだった。
灰色の脳細胞がつくづく恨めしい。好奇心は猫を殺す端緒となる。つくづく人間という種族は罪を犯すために生まれてきたものだと思う。
「…………お前は、なんで青タンこしらえてるんだぜ?」
あは、と左目の回りが紫色に腫れている天子が小首を傾げた。
「……ちょっとね」
「お前もちょっとか」
「……ええ、ちょっと」
ちらりと横目で伺った天子の視線を、衣玖が清々しく無視していた。
――天界の二人だけが知る真相は、緋い大砲直撃の後に命からがら這い上がった竜宮ノ使ヒさんによる、体重の乗ったグーの一撃である。それはもう綺麗に決まった。
「そ……そ……それじゃ霊夢、そろそろ宴会開始と行こ、か……?」
「そうね。あらかたの参加者は出揃ったみたいだし」
棘を増やした場の空気に、魔理沙は嘆息した。業を煮やしたということもあるが、何よりこれ以上首を突っ込むと自分が煮やされかねない。
天子がそそくさと席を立つ。円座の跡地には、衣玖と霊夢、更に空腹を持て余した魔理沙が残された。
「楽しみだぜ、楽しみだ」
魔理沙は無理矢理、無邪気にはしゃぐ。参加者達の会話がやんで、その食卓を注視する。
唇の橋だけで無理に笑っている魔理沙の背後に比那名居天子が歩み出る。
「お待たせいたしました。それでは今日の料理です、皆さん召し上がれ!」
■ ■
時が止まった。
それ以外にどうとも形容できない。衣玖の目には少なくとも、満面に笑みを湛えたまま凍り付く魔理沙の笑顔が一枚のスナップになって残った。凍りつくというのはああいう状態のことを言うのだろう。彼女なりに精一杯維持していた笑顔が、とうとう限界突破した瞬間である。
それは料理なのか。
参加者の疑問符はまず、その原始的な立ち位置から出発することとなる。大勢の宴会に供されるにはあまりにも猫の額な平皿の上に正体も匂いもよく分からない黒い塊が乗っている。溶岩がぽろぽろに崩れたあとの欠片みたいなの。泥団子を思いっきり固めたみたいなの。拳骨の丸焼き。
でも今こいつ料理って言ったぞ。
戦慄のザ・ワールドは、たちどころに境内の全てを覆い尽くし、もって敬虔なる博麗の人妖合い混じり合う氏子達を絶句させ、脂汗の雫をふたつずつ各自の額へ平等に配給する。
命の危険を感じている。
神は厳かに思し召す、死にたくなければそれを喰らうなと。
死ぬぞと。
皿の上でからからと硬質の音が悩ましい。サイコロくらいの大きさのから備長炭くらいの大きさのまで、大きさだけが大小一通り揃っている。
天子がてへっ、と。
「――えっと、牛肉です」
嘘をつけ嘘を。
どこからともなくナイフとフォークが飛んできた。
悲鳴と怒号。罵声、讒謗、夏の暑い夜に虫が五月蠅い。ひぐらしの啼きしきる日本の夏に提灯の灯りゆらめく。
舞い散る拳固、血飛沫、掟破りのシャイニングウィザード。
霊夢の瞳孔に、既に感情の色は無い。
「――そこの天女。衣玖とかいうの」
「は、はい」
「なおれ」
目が本気だ。
お鉢を向けられた衣玖は動けない。
「答えよ。この碧髪の天文学的アホじゃ埒が明かない。これは何というメニューか教えなさい。天界の人間が凡そ地上人の理解の及ばないところでエンゲル係数を築いているのはもう充分に分かったから、せめてメニューの名前を教えなさい。教えろ」
「……幻想郷産、最高級和牛のレアステーキです」
「わーお。突っ込まなくて良いところが一つもない……」
横の魔理沙が呟き、手にしたフォークとナイフを取り落とす。
目の前の料理はただ絶望だけを孕んで、何事かと見に来る宴席の客達に憤怒と失笑をピストン輸送してくる。幻想郷産でもなければ最高級でもないし、牛でもないしレアでもない。すごい。
致し方ないとはいえ、事の運んだ結果の当然の帰結に衣玖は頭を振る。融点の低い脂で形成された口溶けの良い牛肉は、極太の緋い大砲で撃ち抜かれて猶原形を留めるほど健気ではなかった。
融点とかを超越してる。
ああ、食べない方が良いですよ霊夢さん。歯が欠けます。
てかそんなものまで食べようとしないでください。
「で……お体裁のように並んだこれら和え物と漬け物だけが、今夜のメニュー……」
「天子どこにいるの。歯あ食いしばれ」
呆然と開いた口をふさげずにいる魔理沙と殺る気十分に怪気炎を上げる霊夢の狭間で衣玖はターゲットを探す。
盾にされてたまるか。
探す。
探した。
目を皿のようにして、捜査一課の刑事と同じくらい聞き込みを重ねて、
――群衆の血祭りに供されたあとの天子がサンドバッグ状態で現れたのは、それからようやく二分も経ったころである。
宴会客達はしょうがなさげに、和え物と漬け物に手を出し始める。
「――何が豪奢な食事よ」
「所詮そんなもんさ。何を期待してたんだよ」
霊夢はぶすくれて、魔理沙が嘲り混じりにそれを慰める。似たようなやりとりは、その二人のみならず方々で聞かれた。
落胆の声もあり、怒気を孕んだ声もある。酒さえあればとりあえず良いじゃないか――という誰かの優しい言葉さえ、天子にとっては毒となる。
風が再び吹き始める。
雲が西から運ばれてくる。月が煙る。
はぁぁ、と。
鉛のように重い溜息を地面に落っことして、天子の脳天を爪先で乱暴に小突く。
うぐ、と天子が顔を上げる。
「……ご覧なさいよ」
もう誰も、声を掛けてくれないじゃない。
料理は口実にすぎなかった。
ただ笑って済ませられるならその方が良かった。
ある程度の失敗も成功も瞭然たるもので、入手するリアクションの相場は客に出す前からだいたい分かっている。料理のために宴会を開いたのではない。況や酒のためでもない。
座談の花は既に、料理以外の話題に花を咲かせていた。曰く屋敷の妖精メイド達がどうの。曰く庭のウサギたちがどうの。曰く式神がどうしただの、大食らいの主人がどうの、昨日のおふろがどうだっただの。
「総領娘さま?」
「いやまあ――楽しそうだね、ね」
天子が待ち望んでいたのは交誼だ。
地上人が愛好し、酒の肴につまみ食いする他愛もないお喋りがメインディッシュになる。
天子は渇望したはずだった。
誰も満足に口も聞いてくれない天界でしかも外れ者扱いにされて、折れそうになった天子がこの地上に求めたものは何だったのか。
衣玖は知っている。
たとえその手段が地震、博麗神社の倒壊などという暴戻な手段だったとしても、その想いまでは決して汚れていない。手段が罪だったとしても、その気持ちまでは決して罪でなかったと衣玖は信じる。
半ば脅迫じみた大騒動、各有力者によって騒擾を平定された後も地上の世界に交わりを持とうとしたのは――成り行き任せの情ではない。確かな天子自身の意志だったと思う。
博麗神社の下に挿し込まれた要石の意味を、だれよりも知っているのは天子自身だ。
到達しうる未来の元に、縁は繋縛される。地震を起こしたくなくば、要石の存在を忘れるな。
人がそれを例えば”脅迫”と呼んだとしても、長い時間の中で、そんな毒素はいくらでも薄められる。長久の時間の中の断片的な一日一日に、天子と地上人が「友達」になってゆけばよい。
それが、天子の望んだことの筈だった。
料理はどうでも良くて、どうでも良くはなかった。
「お元気になさってください。また改めて、どこかで皆さんを集めればよいじゃないですか」
「どうやってー」
「今度こそ満を持して準備しておけばよいじゃないですか。僭越ながら、私もお手伝いできることがあれば」
「ロクなことをしないろくでなし。そんなヤツが宴会を招集して、また足を運んでくれるようなお人好しなんていないさー」
不自然に明るい声音、棒読みが痛々しかった。
天子の目論見は外れている。幻想郷、博麗神社の巫女がその小さな郷の中で守っているものはとても大きく、強固で、望んだ者を届かない場所にしまい込もうとする。
雲の上から来た人間に懐の内を見せない。
幻想郷の仲間達が、手を組んで余所者を追い出すんだ。
閉じてはいけない扉が閉じられようとしているんだ。
宴席を眺めれば、座談はあくまで明るい。提灯も明るい。煌々とした灯りに影をゆらして、誰もが嬉しげに杯を交わして、どうでも良いお喋りに興じているというのにそのどれ一つとして天人に向かってこない。天子という少女は一人だ。衣玖も一人。
切なく映る。
天子が雲の中で抱いた、激しい想いはこんな価値なのか。
天人崩れの哀しみに気付いてしまった。自分のその罪過に、良心の呵責で棘を与えたところで天子は救われない。良心の呵責。そんなのは所詮自己満足だ。
衣玖という少女が、天子という少女に抱いた惹起感情の正体が――もし、“同情”だったとしたなら不遜だ。あんまりだ。この世界で誰かと笑い合う時に、そんな高慢ちきで傲岸なことは無いよ。
「……でもまあ、これはなかなか」
伏し目の天子。
メイドの手招き。
「なんだっけ、テンコ?」
「それは裸の狐ですよ」
どうして目線を切っていたのか。
想いを繋いでいれば良かった。
たっぷりとある時間の中のほんの数秒の差だとしても、望んだ世界がそこに用意されていたというのに。
沈み込んだ嘘っぱちの笑顔の中に、銀髪のメイドが映り込んで。
金髪の魔法使いも映り込んで。
天子の瞳に色が戻り、そして表情が固まって。
「え……?」
「この漬け物。こっちはなかなか、うん、イケてるぜ?」
「八十五点ですわ」
下手な使い方の箸につままれた胡瓜の一片が、魔理沙の笑顔の横に掲げられている。
「霊夢の下手くそな漬け物よりは百倍マシだな」
「誰が下手よ!」
「これはそこの天国人が作ったって訳か?」
摘まれた漬け物が魔理沙の口に消える。
瀟洒な薄笑いのメイド。
ぶすくれた巫女。
満面笑みの金髪の魔法使いの頬から、こりっ、という小気味の良い歯ごたえの音。
衣玖は頷く。
「天子?」
「え……っと……」
天子は言葉を失っている。
さっきの蟷螂がどこかへ帰ってゆく。
風がまた止む。陽はいつしかすっかり落ちきって、月は月の色に戻っている。宵の明星はもうどこにあるのか分からない。
答えが言葉にならない。
天子は吐息だけを零し続ける。
金髪魔女の後ろから、衣玖がそっと笑う。
そりゃああれだけ重たいもので漬けたんだ。漬かりが悪い訳ないじゃない。
重ければ良いってもんじゃないかもしれないけど、あの漬け床を準備したのも総領娘様、あなたですよ。
「へぇ」
「なかなか、大したモンじゃないか」
にこっと、憎めぬ笑顔で魔理沙が笑った。
この少女はとても良い笑顔をする。
誰をも受け止めてくれる笑顔をする。
衣玖は気付いていた。
閉じられかけた扉が、また開いたこと。閉じられかけた扉を開く、先天的な才覚のある少女がこの場に居合わせた幸運。
この少女が居るから、幻想郷はこんなにも楽しそうに見えるんじゃないか。
衣玖の横、天子がきょとんとして、少しどきまぎとした虚ろな瞳でその言葉を反芻している。
「おいしかった?」
「ああ」
世界がまた巡り始める。
嬉しさの花が、天子の表情に咲いてゆく。
宴会がまた騒ぎ出す。
酒が酌み交わされる。
あまりにも強引な魔理沙の腕が、まだ立ち上がりきらない内に天子を輪の中へ引きずり込んでゆく。
「……仲、良いわね……あの二人……」
霊夢が言う。
「良さそうですね」
衣玖が笑う。
「……ったく、魔理沙は見境無いんだから。もう」
霊夢は立ち上がって、居心地悪そうにどこかへ行ってしまった。
衣玖はふと酣の宴席に目を戻し、加わろうと膝を叩き――
「そんで、それが例の剣か」
「そーそー」
「なかなか良いものですね。霊の力はあまり感じませんが」
「……ってあー! そこ、勝手に触らない!」
「大丈夫です。刀の扱いには慣れてますし、食べたりする幽々子様も今日は居ません」
「馬鹿言わないでよ妖夢」
「そうですよ幽々子さま」
「剣はタテにこう、呑み込むもので――」
「……ってなんで幽々子さまがいらしてるんですかぁ!!」
「いやだから食べるなー! こらー!!」
「五月蠅い。メイドはいつでも瀟洒で居なさい」
「メイドじゃないー!」
「女中、だぜ」
「ちがーう! って全部呑んじゃったー!?」
「はいー!?」
――その場に座って、一人静かに盃に手酌した。
今度は寂しさを感じない。
どうしてだろう。
今この場で、誰一人の視線として自分に向いていないというのに孤独感を感じない。疎外感がない。
お酒の味がさっきと別物になっている。
靄みたいに脳がしびれてきて、心地よい酔いの口に天子の漬け物が美味しい。
本当に美味しい。
びっくりした。
「……よかった」
届かぬ言葉を投げ掛ける。
物珍しい天人の周りには人集り。妖集り。もう天子の姿は見えない。頭につけた桃の飾りだけ、人垣の間から少し見えた。
自分は一人のままだけど、自分の想いだからこれで良い。
天子が今、幻想郷の住み人となろうとしている。
この博麗神社の地中深く、挿し込まれたあの大きな要石の石舞台の上で天子の昂奮が躍っている。
嬉しそうな笑い声の、どれが誰のだかもう分からない。匂い立つような酒精が鼻をつく。その場にいるだけで酩酊しそうな幸せな匂いがする。
甘い匂いが漂ってくる。
酒とは違う匂い。
「……桃?」
「そう、桃。」
背後からいきなり来た。お皿がいきなり視界に現れて衣玖は思わずびくっとなった。
煤けた巫女服の袖が頬を掠めてくすぐったかった。幻想郷を守っているとは思えない、ほんとうに小さなお手々が衣玖の目の前に不思議な料理を置いた。
それをじっと見る。
飴色の切り身。
霊夢のほんとうの小声が、誰にも聞かれないよう細心の注意でもって、衣玖の耳朶に次の瞬間囁いた。
「……おつかれ。」
次に天子の元へ歩いていった。あっけにとられたままの衣玖がそれを見送った。
手にはもう一つ、大きなお皿があった。衣玖の目の前と同じ、飴色の何かが乗っていた。刺身くらいの大きさ。琥珀色。切り身。そして匂い。
猛烈に甘い匂い。
どうやったらここまで出来るのかというくらいに甘い匂い。
魔理沙が目を丸くする。
「何だよそれ?」
「あの天女が持ってきたのよ。魚を捕ったお詫びに、って。それを私も漬け物にしたの」
「これは何……桃か……?」
「桃」
胸を張った巫女が言う。
「桃の蜂蜜漬け」
ぶへ、と誰かが吹き出した。
魔理沙が眉を顰める。
「お前……どこで覚えてきたんだそんな料理」
「パチュリーが貸してくれた小説に載ってたのよ」
「おいこらパチュリー! 面貸せ」
「来られる訳がありませんわ。こんな騒々しい人たちが集まる夏の宴会なんかに」
目の前に置かれた謎なる果物を一切れ、衣玖が摘む。
口に運ぶ。
ハチミツの香り、桃の香り、甘ったるいのは当然として、
「……普通に美味いな」
「ふつうに美味しいですわ」
美味しかった。
魔理沙も咲夜も言うのだから万人共通の感想に間違いはない。衣玖の味覚だけ波長がずれているということはない。
この料理は美味しい。
天子も、びっくりした顔でほおばっている。
「……どうよ」
恥ずかしそうに、霊夢が天子に感想を求め、
「……うん」
恥ずかしそうに、天子が答えを返す。
「うん、じゃ分からないぜ。ちゃんと言ってやれ」
「びっくりした」
「いやだから、」
「桃に……桃に、こんな調理法があるなんて知らなかった」
二切れ目に手が伸びた。
一口でほおばって、指をぺろぺろ舐める姿に気が抜けた。
気に入ってくれたなら良いけど。
霊夢はそう言って、居心地悪そうに元の席に戻った。猪口に残っていた酒を、なぜか忙しなく飲み干した。
ちら、と横目に睥睨したその視線と目があう。
衣玖が微笑む。
「……おいしい、ですよ」
「ならいい」
夜が、そうやって更けていく。
宴会の声が少しずつ減ってゆく。
騒ぎ疲れて眠る者。潰れる者。一人酒に興じる者。
最後まで花が咲いていた一隅の景色を、衣玖は必ず忘れないだろう。
くわがたの雌が一匹飛来してきたのを捕まえた。お酒の残りを呷った。雲混じりの夜空を見上げた。さっきの蟷螂はまだそこに居た。
小皿に取り分けてくれた桃の蜂蜜漬けはあっという間に無くなった。
優しさに礼を云う前に、霊夢はどこへやら行ってしまっていた。
いつまでも盛り上がり続ける一角がある。
話は尽きることを知らないように、夜空の上へ青天井に盛り上がり続ける。歳はいくつだ。胸の大きさは。天界ってどんなところだ。素敵か。素敵じゃないのか。そいつは大変だなあ、おい。
回らぬ呂律で喋り続ける者がいる。蜂蜜漬けがすっかり気に入ってしまった者がいる。飲み比べが始まる。飛び交う徳利、転げる杯、下戸とザルの争い、やがてぶっ倒れる奴が一人、二人。
「ひとり」と「孤独」は違う。
気付けばこんなにも沢山の人間が居る。妖怪が居る。
ひとりで酒を飲んでいても、衣玖には充分に楽しい。
案じ続けた少女が今、輪の中で、最後の一人と飲み比べ対決するところだ。
杯に、揺れれば零れそうなほどの酒が注がれる。既に言葉にならない裂帛の気合。
勝ち鬨の声。
死屍累々の野次馬が、今日一番の盛り上がりを見せる。
月がどんどん天へ昇ってゆく。
やがて人々の声に、虫の音が勝り始める。
■ ■
吸い込まれるような闇の中に、星と月の光だけであとは何も見えなかった。
地平線が闇に塗り籠められている。景色は何一つも分からず、やっと足下の道だけ月光で仄かに照らし出されている。蒼白い月がこちらを見ている。ぼやけた輪郭が、出来損ないの彫刻のように玲瓏と光っている。
深更。川沿いの道を歩いていると、まるで暗い宙に浮かんでいるようだった。さんざめく虫の声の中を歩く。人の息吹も妖怪の咆吼も聞こえない。闇に埋もれた木々、山、花達。草を踏む自分の足音がいたずらみたいに大きく響く。
宴会の参加者達も三々五々、既に帰途に就いた。境内は死んだように活気を失い、虫の音、風の息吹、草の匂い、夏の暑気。今はもう馬鹿騒ぎの余韻すら残されず、人と妖、百鬼夜行の幻想世界も今一時には忘れさせる。
あまりにも閑かな、そして少しだけ暑い、平和な夜だった。
夜の静寂を壊さぬようそっと歩み寄った。
河原、草むらに座っているのをようやく見つけて、衣玖はそっと声をかける。
比那名居天子。
本日の主役から、返事はなかった。
「お隣、失礼」
そのまま横に腰を下ろしたが、やはり何の言葉も返ってこない。
表情はまるで読めない。
月明かりだけが頼りの世界。
彼女の元へじりじり寄って、ほとんど肩同士がふれあうくらいまで近づいた。
長い髪が夜風に梳られた。青い稲みたいに揺れていた。
その向こう側の表情を眺める前に、衣玖は深い深呼吸を一つ、闇に流した。
「どうもお疲れ様でした」
「おつかれ」
ようやく耳にした声音は、一仕事を終えて晴れやかだ。
「……桃」
「は?」
「桃と交換で、食材集めてたんだ」
「あ、はい。さすがに、ただで食料だけを募るわけにもいきませんでしたので」
すみません、と衣玖が付け足す。天子は何も言わず、首を横に振った。
蜂蜜漬けにされたのは予想外だったが、あの牛肉と同じくらい、どんな調理法にも応えてくれる最高の食材である。聞いたこともない食し方だったが、あれは想像以上に良い。
衣玖の口にも、鮮やかに後味が残っている。
逃す手はない。
いずれ、自分でも作ってみるとしよう。
「星空はいつ見ても良いね」
不意に、天子が嬉しそうに言った。
衣玖は夜空を見上げ、千切れ雲で黒と灰色のまだら模様の中の星明かりに瞳を輝かせる。
「……綺麗ですね」
「綺麗だし、何より――天界で見る星空と同じだから」
「はあ」
間抜けな声を出した。
天子の身体に思いっきり近づいたから、言葉を継ごうとする、その吐息の音まで聞こえた。
「“本当の天国”ってのは、あの星空の宇宙な訳だけど」
「……」
「どっちから見たって同じ大きさの光だと思わない? つまり幻想郷と天界の高さなんて、大した差じゃない」
「……よく分かりませんが、おもしろいことを言いますね」
小さく吹き出す声。
「面白くも何ともないさ」
自嘲的に嘯いて、天子は可笑しそうに肩を揺すった。
身を乗り出してくる。
「ねえ」
「はい?」
「星は回る」
「ですね」
「月は満ち欠けする」
「知ってます」
「知らないんだよ」
「誰かですか」
衣玖は首をかしげる。
誰に聞きとがめられるわけでもないのに、気がついたらささやくような声で喋っていた。
「天人だよ」
天子が笑った。
悪鬼の笑みにも見えた。
夏風のかけらが吹き抜ける。蜻蛉みたいな虫が飛んでゆく。
「天人は、宇宙が動くことを知らないんですか?」
「そうそう。知らないんだよ」
っくしゅん、と、天子のくしゃみ。
「ぐす。……おかしいだろ?」
「おかしい」
衣玖が笑う。
天子も笑う。
夜風は静かに幻想郷を吹き抜ける。蒼い線を引いてゆく流星。丈の高い草は川の向こうでさやさや音を立て、土の匂いが微かに薫る。蛙か何かが川に飛び込む、とぽんという音。
「……やっぱり、元々は地上の世界に住んでおられたのですか」
「うん。だからこそ、天界人の平和ボケにはうんざりなんだ」
ふああ、と大きく長い欠伸に天子が大口を開ける。
やおら、ごろんと草むらの中に背中から沈んだ。
「衣玖も」
「は?」
「ここ、ここ。天国が、よく見えるよ」
ぽふぽふと、草むらを天子が叩いている。
黙って衣玖は従う。
くっと背中に力を入れる。身を強張らせる。
怖々と身を倒すに連れて視界は上に上に、川から地平、地平から山、空、そして背中が湿った土に着いて――
「……天国ですね……」
「うん」
雲の合間から確かに見える、金剛石の欠片達が衣玖を見下ろした。
遠く、手を伸ばしてもきっと届かない星空の縁の下に二人きりで寝転がった。
小さな光の瞬きを二人で眺めている。それを、天国と言わなければバチが当たるだろう。
この広い幻想郷のど真ん中で、たった二人っきりだ。
天国は届かない場所にある、と思わせておいて、気づける限りは隣にある。
人間が知っていて天人が知らない、本物の天国。
天国は遠くとも、天国になれるモノはきっと、身近にあるということ。
天子が訥々と呟く。
「……平常が幸せになるってことは、絶対にあり得ないと思う」
「説得力が、ありますね」
「だって、幸せでない時があるからこそ幸せがあるんだもの。天国は手が届かないから天国。手が届いた瞬間、そのまた上が見えて天国が天国じゃなくなってゆく。変化があって、目標があって――ある部分と比べて心地よい瞬間だから幸せと呼べるよ。ずっと幸せな世界、ってのは有っちゃいけない。欠けるときがあるから満月は美しい。散るときがあるから花は綺麗。忙しいときがあるから、安息は幸福を呼ぶ。違う?」
「そんなに天界が暇ですか」
衣玖の茶々に、愉快げに天子が笑う。
「暇は決して、不幸じゃないと思う。思うけど……」
「思うけど?」
「――私には、耐えられなかった」
月が半分だけ雲に隠れる。弱まる光。
闇が少しだけ深くなる。
「衣玖。私はね、元々この地上に住んで――」
「天子」
俄に高まる虫の音、せせらぎ。偶然に重なった自然の息吹が、天子の述懐を掻き消してゆく。
夜空に敷き詰められた銀河。草と水とへどろの匂い。欠けた月。通り過ぎた熱気と喧噪、吐息に酒精の欠片が薫る。緩やかに蟠る、まるで眠気のような、暑い夏の夜の風。
「……ん?」
「そこから先は、言う必要はありませんよ」
真横にあった天子の唇に、衣玖は自分の人差し指を当てがった。
天子と目が合う。片目を瞑る。
「私が、ちがってたから」
力を込めて、宣言する。二人で幻想郷の夜の河原に大の字になって。
もう、迷わないと決めた。
この少女のことを知りたいと思った、その理由を衣玖は探していた。天界という不思議な世界から来た青い髪の、不思議な魅力に縁取られた天子という女の子に、しかし理由など実は必要なかった。必要はなかったが、でもやはり、その理由はいとも簡単だった。
学問で追究することでもない。哲学でもない。意地でもない。石を投げれば当たるような人並の感情が、人並の好奇心を抱かせただけのこと。
天界を暇だと言い切る思考は面白かった。気さくな物言い。綺麗な水色の流れ髪に、天衣無縫の性格、垢抜けた容姿にかわいい笑顔。
「……衣玖」
天子が不意に、呟く。
「なんでしょう」
「今、“てんし”って言ってくれた」
「……」
「……」
「……うん」
「そうりょうむすめさま、じゃなかったよね」
「……うん」
「はい、じゃなくて、うんって答えてくれてる」
「うん」
「……はじめて、私のことを名前で呼んでくれた」
「うん」
童女のような無邪気な声音に、頭が働くより先に、言葉が唇から零れてゆく。
選ばずに選んだ言葉が口をつく。自然にしゃべれる。身構えて、相手の胸の内を探ってから喋っていたのがばかみたいに思える。延々と余所行きの風采を着飾っていた竜宮ノ使ヒの声は、やがて堅さを失って流れる水のようになる。
この子と居れば楽しい。この子といっしょに喋っていたい。
おかしいくらいに人間的な感情だ。お友達だ。天子が希求したものだ。
簡単な情愛に自分が気づけなかったのは天子に対する意地っ張りなのか、愚鈍なのか、或いは……長く孤独に暮らしてきたことの弊害なのか。
それとも――
「うん、って答えてくれた」
「うん」
自分もまた寂しがり屋だと認めることを拒んだ、無意識の強がりだったか。
「よかった!」
本当に嬉しそうに顔をくしゃくしゃにして、はにかんだ天子の顔が暗がりに眩しかった。
自分なんかより天子の方が、ずっと正々堂々孤独に向き合っていたと思う。皮肉だった。誰かに合わせ、場の空気に溶け込んで生きることで孤独を霞ませた。そうやって自分を守り、寂しさから逃げていた。
彼女の笑顔がすべての答えだ。
二人とも望んでいたことは、きっと一緒だ。
比那名居天子も、この永江衣玖も。
「……帰りましょうか」
「うん」
――ひとりよりも、ふたりが良い。
簡単なことを願っていた。
■ Epilogue. ■
「ねえ天子」
「なあに、衣玖?」
屈託が無さ過ぎる。
「……今度はもう少し、料理の腕を磨いてきてくださいね」
「うぐ。分かってるわよ……」
ぷ、と衣玖が吹き出す。
大切な人たちを棲まわせる、幻想郷の大地が遠ざかる。
月の光を身体に浴びる。真っ暗に見えた地上の世界も、空から見れば淡い輝きを照り返している。地上に建つ木々や建物が小さくなる。振り放け仰いだ夜空が、代わりにぐんぐん大きくなる。風が横から縦に変わる。闇を縦に切り裂いて昇ってゆく空の向こうに、天子が見慣れた張り子の天国がある。
小さな背中が夜闇を先導している。
振り向かぬままに、背中が言う。
「料理が下手だから上達を目指す。不満があるからがんばれる。そんなもんでしょ人生はっ?」
「――そんなもんですね」
果ての無い夜空に昇りゆく。果ての無い人々の望みを想えば、切なかった。
快楽、平穏、富裕などと形を変えながら夢に“幸せ”という名前をつけて、望み望んで望み続けた最果てにあった雲上の世界で天子は泣いていた。
人間の業か。仏法の救いの無さか。――難しいことは衣玖には分からなかったが、それはどちらでも良いことだ。
不幸せがあるから幸せがある。不幸せがなければ幸せはない。
いかなる業も非業も、すべて超越した場所にあるべきはたった一つである。
それは、地震を収める要石に似ているものだ。
「でも……またすぐ宴会を催したら、誰も来てくれないかもしれない」
「大丈夫ですよ。幻想郷の人間は、根本的なところでみんな忘れっぽくて暢気で馬鹿騒ぎ好きですから」
……人は皆、誰かとの絆の中に要石を埋め込んでいるのだと思う。
要石を抜かなければ地震は起きない。けれど、それはいつか起こる大地震の証でもある。絆はいつか千切れる為に存在する。尽きる欲望は欲望と言わない。
それでも、人は人に惹かれ続けてゆく。
生きる人がそこにある限り、業だの仏法だのを飛び越えてゆく気持ちがある。
博麗神社の要石が抜かれぬ限り、霊夢たちと天子の関係が壊されることは無いだろう。
今はまだ打ち解け合えぬ仮初めの仲だとしても、地上に赴き、注ぎ込むための時間はまだたっぷり残されている。
「あ、あと天子」
「?」
「……『全人類の緋想天』は、周りに人が居ないかよく確かめてからお使いください」
霊夢達よりも先に要石を埋め込まれた者として、その未来を見届けたい。
不良天人の顛末を、無二の友人として応援してあげたいと衣玖は心から思った。
ぴしぴしと雨粒が顔に当たり始める。温い空気から一変する雲の中。水の粒、氷の粒、遠い雷鳴と近い雷鳴と猛烈な濃霧を噛み切って突き進む天国への道。
天子が叫ぶ。
猛々しく突き上げられた金色の剣。
「ぜんじんるいの、ひそーてーーーーん!!!!!」
比那名居天子にとっての、大切な一つめの要石は宙に浮いている。
地面が無いところに住むふたりの絆を、地面がある連中の絆よりも深くしてやる。霊夢なんかよりもずっと大切な友人に、自分がなれたら良い。
衣玖の胸に炎が灯る。途方もない嬉しさが蟠り、緋い大砲が切り開く夜空の天道を身体より先に心が突き抜ける。
世界の境界を飛び越える。
吹き飛ばされた雲の形までもが、おかしくて笑いになった。
空中のトンネル、雲の中の一本道。雲散霧消の灰色と緋色。
雲一つ無い満天の星空を背景にして、やがて空虚なる世界が見えてくる。
誰より大切になった人が笑いかけてくる。何事かを嬉しそうに叫んでいる。
(了)
天子かわいいよ天子ちゃん! てんことかわざと間違える奴は俺がシメてやる! 前作に引き続いてスランプの時期に書いた作品ですね……うぐ…… 物語としてはあまり捻ったものでもなく、こんなに長くなったのはたぶんそのせい。 |
初出:2008年7月17日 東方創想話作品集57 2008年8月26日 東方創想話作品集58 |