【玉手箱の部屋〜chamber of present〜】



 屋根に降り積もった雪が、塊のまま地面に滑り落ちた。
 どすん、というその盛大な音に窓硝子が鳴り、壁が揺れ、僕は驚いて顔を上げる。
 ――その瞬間に、何だか気持ちまで切れてしまった。手が止まったのを好機とした僕は、小一時間も格闘を続けていた縫い針と糸に我ながらあっさり見切りをつける。か細い冬風に窓硝子がかたかた鳴いた。テーブルの上へ手放した銀色の針を見つめながら、安楽椅子に深く掛け直し、暖炉の焔の温かみに身を委ねて溜息一つ。
 首を回す。そのくせに何だか、まだ諦めきれない。布地は藍染めの木綿である、紐は萌葱色、あの人の持ち物にしては珍しく意趣も風情も、味も素っ気も無かったその財布を改めて僕は見つめ――その片隅に知らぬ間に出来ていた小さな綻びに、何度目かの溜め息を小さく零した。
 針仕事など、元々慣れない作業だった。気付けば肩が凝り、気休めに天井へと散らした視界の中ではいくつかの星がちかちか瞬いている有様である。見様見真似で糸を舐め、針穴の糸通しから順番に頑張ってはみた一時間前。甘くはなかった。街にありふれた年増達が魅せるようなあの熟達の、淀みない針捌きに到底及ぶべくもない僕の不器用さを、溜まった唾と一緒に飲み干す。やはり餅は餅屋ということか、あの練熟の腕前――彼女たちの名も無き屋号に勝手な敬意を払いつつ、しがない一道具屋の僕は結局いさぎよく諦めて、財布を縫い針の隣に置いた。この先、まぐれにも上手く縫えることがあるとも思えない。それこそ針穴に糸を通すような、か細い希望に縋る気になれなかった。
 一応、大切な代物である。
 とはいえ、たかが財布……そう言ってしまえばいかにも軽い。現物をこうして投げ出してしまうとあっさり未練など引き千切られて、はなっからまるでどうでも良い、名実ともに軽い代物のように思えてしまう。あとは自分の気持ちが収斂してしまえば熱は失われる一方だ。こんなに懊悩するくらいならいっそ目を瞑ってごみ箱に捨ててしまえ――そんな気さえも齎された。

「『プレゼント』……か……」

 たぶん、自棄くそなどではない。現実問題としてこの財布は恐らく、理性的に考えても「軽んじうる」代物なのだと思われる。
 その人が平素は使わなかった横文字の、少し気取りめの科白に縁取られし昔日の想い出は、ほんの昨日の閉店間際まで、僕の手の中で確かに棲息し続けていた。別に財布なんて見せびらかすようなものでもなく、したがって誰に知られるわけでもなく、すっかり見窄らしく古びたそれを僕は、ずっと実用品として愛用し続けていたのだ。
 刻は新年。松の内の瀬戸際、浮かれ吹かれる正月気分もそろそろ蒸発しかかってゆく暦、間際の本日は真冬日。
 去りゆきし年にまるで合わせるように新年早々の昨日、ほつれた布地はその天寿を全うした。享年が何歳になるのかさえ忘れてしまっていた。元の布地の色とはとうにかけ離れて、在りし日の面影を既に宿していない。ふちの部分は最早すっかり、長年の手垢で誇らしげに汚れていた。
 繕ってまで、そんな古物を使わなくても良いじゃないか――また、弱気な声が頭の片隅から聞こえた。
 今更じゃないか。もう充分に使っただろう。
 だいたいお前は店持ちじゃないか。――声は、矢継ぎ早にそう続く。

 僕は席を立った。
 店の名を、香霖堂という。
 その香霖堂が品々を湛える、その棚を一通り確かめてみて……しかし、僕の淡い期待はあっさり裏切られた。先ほどの声が、ただ無根拠な楽観でしかなかったことを自覚した事実――ありふれた日用品であるはずの財布という代物を敢えて捜索の対象物と定めて探した今、はじめて僕は、この店の商品棚に今まで財布の一つさえ置いてなかったことに気が付いた。
 失望は溜息へ、自戒は独り笑いへ化ける。
 実に可笑しいことだった。
 やれやれと首を横に振りながら自嘲的に独り笑って、僕は元の安楽椅子へまた身を投げ出す。
 深々と、そこに背を委ねた。


■ ■


『お年玉、だって?』
『いえ、僕がじゃないですよ!』
『……ぷっ』

 思わず手を振って遮った僕を、呵々大笑で一蹴した貴方。その大きな声、邪気のない笑い声の子供っぽさ。
 あったりまえさ、わかってるさ、バカだねえ――終いには奥歯まで僕に見せて大笑いに笑うその呼気に、試験管から漂う毒々しい色の煙がさやさやと乱される。静かな部屋なのにまるで異世界だった。歪に凹凸を形作った壁で、彼女の声音が不自然な具合に共鳴する。変わらず笑い続ける彼女の声に乗って饐えた柑橘のような、胸に悪い薬品の匂いが漂ってきた。
『心配すんな、頼まれたってお前にお年玉をやるほど私はお人好しじゃない』
『当たり前です、僕はもう大人です。僕じゃなくて――ほら、あの子のことを言ってるんですよ、まり――』
『まぁまぁ』
 先ほどの笑いの余韻を引きずりながら、鳩のように震えて貴方はまたそうやって、僕の言葉を遮った。
 そんな、いつまでも変わらない、年老いた稚気を孕んだ不思議な口調。
 刻は新年。松の内の瀬戸際、浮かれ吹かれる正月気分もそろそろ蒸発しかかってゆく暦の、
 ――真冬日だった、あの日。

『お前だって、そんなことを話しに来たんじゃないんだろ?』
『……』

 あの日も僕の時間は、ゆっくり流れていた。
 かく必要のない汗まで掌に浮かべて、背筋に意味のない力を入れて彼女の部屋の扉を叩いて入って、
 僕はまるで叱られた子供のように、そこに立ち竦んでいた。
 雪がずっと降り続いていた。饐えた柑橘は彼女の手許でどんな魔法をかけられてどう変遷したものか、いつしか木犀の華やかな香りに変わっていた。途端に胸が穏やかになった。
 僕の向こう側に、意地悪な微笑を浮かべていた魔法使い。
 どさりと――そういえばあの時にも、雪の塊が落ちる音がした。


■ ■ 


「――霖之助さん、居るかしら」

 涼やかな声に呼び戻される。
 左から右へと空虚に移ろいゆく閑古鳥の店の中、僕は今日はじめて、ストーブの薬罐以外の声を聞いた。
「やぁ――明けまして」
「おめでと。それより」
 お年始の挨拶をあっさり遮られて、思わず苦笑する。「それより」の一言で千切り取られた言葉の欠片、行き先を失った正月気分は風に舞う。ばたばたと店を縦横断する博麗神社の巫女さんは、或いは鬼にでも追い立てられているのか、いかにも忙しなく店内へと入ってきた。
 ちら、と、そこで初めて僕の方に視線を向けてきた。
 手元の湯呑みは、最寄りのストーブの熱気に当てられてかまだ仄かに温かい。そんなもので少し唇を湿らせて、騒々しいお正月を僕は安楽椅子から眺めている。少し不服げに、彼女は僕のことを睨んでくる。
 ……一月だって六月だって、同じ速さで時間は流れている。ほら、そんなに早足で歩き回るほどこの店は広くない。髪の毛も乱れている。今ちょっと転びそうになった。そんな薄手のマフラーだけじゃなくて、もっときちんと着込んでくれば暖かいものを。
 どことなく、少し不憫な気持ちになった。
「巫女さんは流石に、お正月は忙しそうだねえ」
「私はいつでも忙しいんだけど」
「……普段はとてもそう見えない。とても、だ」
「人様にそう見えないようにするからね――実は結構ね、忙しいのよ」
 ぷ、と吹き出す。
「本当に?」
「本当……たぶん」
 ぱたぱた、と早足の巫女は結局店内の巡回を切り上げ、やおら僕の目の前にくると、ぴょこんといった仕草で椅子に座った。マフラーをほどいて畳んで、膝に乗せる。椅子は古い。ちょっと古すぎて、少し左足が削れて傾いている。背凭れの布地もいい加減くたびれている。西洋も東洋も感じない最早おんぼろの椅子も今は、それなのに気付けば彼女の指定席に納まっている。
「なら大変じゃないか。僕の店に来ている暇は無いね」
「ところがどっこい、おもちが切れちゃったのよ――お正月におもちも無いなんて、さすがに寂しいじゃない」
「……」
「……」
 肩の力が抜ける。
 なんだか僕としては、油を売り損ねた気分になる。
「あのね――僕の店はいつから食品店になったんだい」
「魔理沙が三つもおかわりするから」
「そんなこと聞いてない聞いてない」
「じゃあ聞いてないところ悪いけど――お願いするわ。霖之助さん」
 拒まれることを、まるで想定していない顔。
 ほんの少し、ねじの緩んだにらめっこを僕と霊夢は無言で続けて、
 ――くす、と思わず笑ってしまう。
 倉庫裏に置いてある籐籠に、確か放り込んでいた筈だ。正直に言えば持て余していた、年末についたおもちの余り。
 降参、のポーズをした。
 にらめっこはつまるところ、笑った僕の負けだった。
「五つくらいで良いのかな」
「十くらいあれば嬉しいんだけど」
「……一応商談として請け負おう。お代はちゃんと頼むよ?」
 正すべき襟を一応正してから、僕は席を立った。なんだかんだで、結局返って来ないような気もするが。
 お正月の巫女さんに追い立てられて、僕は席を立つ。
 
 なんだかんだ言って、僕は彼女のことが好きなんだと思う。
 好き、といっても色情にまつわる話ではないとは思う。きっと世界のせいだ。
 博麗霊夢という少女が佇んでいる幻想郷という世界の片隅で、気付けば僕は知らず知らずのまま算盤を弾く毎日だ。恋慕するとしたら、彼女よりもこの世界の定理みたいなものに対して……と、言った方が正しいのだろうか。
 博麗神社には、ろくにお賽銭が入らない。
 香霖堂には、まともに客足さえ寄りつかない。
 定理という言葉はたぶん、この世界にはあまりにも似付かわしくない。まるで水のようだと時々思う。
 そういう世界の中で、彼女も僕も、恐らく本当に忙しいのだ。
 この店がそうであるように、幻想郷という場所はひどくゆっくりとした時間の流れ方をする。義務感に縛られた職務があるわけではないけれど、さりとて平穏無事とは程遠い。毎日夢が生まれて現が死んでゆく外の世界に連動して、この幻想郷は物心両面から、絶えず揺さぶられ続けている。
 心の担当の博麗霊夢と、
 物の担当の森近霖之助。
 幻想郷は毎日、こんなにも平和に乱れ続けている。
 ぱたぱたと忙しなく動き回る少女の巫女さんを見ていると、なんとも応援したくなってくるものだった。
「霖之助さーん。紅白のおもちがあるなら、お代も弾むんだけどー」
「そんな贅沢な物は無い」
 勝手口と居間の境目に掛けた玉簾の向こうから、やはり忙しない正月の、暢気な暢気な声。
 七、八……と数えながら僕は少し思案して、大きめのもちを十個入れて、更に一つ――
「……」
 ……二つ、おまけを麻袋に放り込んであげた。この年末、拵えたもちを余らせていることなんて誰にも明かしていなかったはずだが、変な意味で嗅覚を働かされたか。
 おかしな子だと思う。

 しめて十二個のおもちを持ち帰ってきたところで、椅子から立ち上がっている霊夢の姿に目が行って僕はどきりとした。
「お待た……って、こら。何を」
「あ……ごめんなさい」 
 はたと霊夢はこちらを見遣り、ばつの悪そうな顔をした。そこでようやく僕は、彼女が手にしかかっていた代物に気付く。
「一応、大事な物なんでね。狭量なようだが、あまり触らないでいてくれると嬉しいかな」
 平静を装って言いながら、歯噛みしていた。
 迂闊にも、財布と針を放り出したまま席を離れていたことに気付かなかった。ちょうど針の手を休めたところで彼女に暖簾をくぐられ、急かされ、もちを頼まれ、そしてそれっきり忘れていたのだ。
 なるべく冷静に、素早く財布を手に取る。
「もしかして、また変な商品なのかしら? お金呑み込んじゃう財布とか」
「いやいや……って、そんな売り物がどこにあるか」
 見られて困るような代物ではないが、そこに籠もった想いを考えると、なにやら無意味に気恥ずかしかった。
「じゃあ、私物?」
「――まぁ」
「へえ、ボロボロじゃない」
 ぬけぬけと、彼女は言う。
 僕は答えずに、かなぐるように針と糸も仕舞った。

「分かった。誰かからのプレゼント、当たりでしょ」

 何かしらの反応の一欠片も、僕は表情に出さなかった。

「――別に、そういうわけじゃないよ」
「あら、そう」

 男の手に不似合いな縫い針を、霊夢の顔を見ずに僕はそっと小箱に仕舞う。
 雪が少し小康状態になり、窓外にはいくらか明るさが増し始めていた。黙って窓を指さして、
(雪、やんだよ?)
(そーね)
 帰るにはちょうど良いじゃないかと仄めかしてやったというのに聞かない、効かない。霊夢はなお、そこでにこにこし続けている。
 人の恥ずかしい話は、蜜の味がするという。
 ……僕は、溜息をついた。
「悪いが、その昔話は本当に昔話だ。君に語り聴かせる物じゃない」
 照り始めた光に溶かされて、屋根からどさりとまた雪が落ちた。降り積もりし雪は陽光を白銀色に照り返して店内にまで流れ込み、窓を見遣れば余りにも眩しい冬の景色と、屋根より滴りゆく清かなる雪融けの水音。店内に視線を戻せば、明順応の視界の中でありもしない星がまた、ちかちかと赤い幻になって瞬いた。
 霊夢が、笑顔のままで呟く。

「分かった。……空気読んであげるわ」
「ありがたい」

 僕は素直に、頭を下げた。
 そして顔を上げた先にあった、霊夢の笑顔のあどけなさ。
 ほんの少しだけ。
 僕はその笑顔に惹き込まれて、意味もなくどきりとした。
 


■ ■



『時間が流れすぎた、かな』

 女性はそう言って、木犀の香りの試験管にコルクの蓋をしてしまう。しゅうしゅうと沸き立つ液体は細い硝子の体内に封じ込められ、なお油然と作り出される玉虫色の小さな泡を、そしてそれが膨らんでは消える光景を、僕は行き場を失った視線で虚ろに眺めていた。
『なぁなぁ』
『何でしょうか』
 僕が応じると女性は、ふっと面白そうな顔をした。
『人間って生き物はな、長生きするとなかなか素直になれないもんだ』
 やおら机の引き出しを開けて、何かをまさぐる。やがて取り出した長いマッチの箱を、彼女はひとまずテーブルに置いた。
『――かといって、若い頃にはもっと素直になれないもんだったが』
 懐から、長細い縮緬の袋を取り出す。
『なぁ――お前は笑うか? ばか丁寧な敬語で犬が尻尾振るみたいにアンタについて回ってた私が』
 言いながら遠くに視線を泳がせる、貴方。
『今はこうして、女将の座だ』
『おめでとうございます』
『だからさー、そんなこと言いに来たんじゃないんだろ!』
 また強い語勢で言われた。
 僕はまた立ち竦み、貴方はまた「……ぷっ」と吹き出す。
『アンタも大概、素直じゃないなあ。こりゃひょっとすると、私の方がまだマシじゃないか?』
 饒舌に早口で貴方はまくし立てて――けれどそれはどこか、貴方自身こそが、まるで僕の言葉を急いでいるように聞こえた。
 所在なく立ち竦んでいる僕の目の前でくつくつと肩を揺らす、その小鳥のような、あの日の少女の面影ひとつ。
 そうやって右寄りに少しだけ顎を俯かせて、柔らかく立てた右手の人差し指だけ口許に当てて笑う貴方の癖は、
 僕の知る、昔の貴方のものだ。
 たとえ貴方が素直じゃない年齢になったとしても、ちっとも変わってなんていなかった。
 思わず少し、僕も笑って口を開く。

『若い頃は貴方も……もっと素直でしたっけ?』
『ああ、素直だったさ』

 実は問い掛けるまでもない。
 よく知っている。
 よく知っているのだ。
 彼女は本当に素直な“子”だった。
 そして――

『知ってたか?』
『知ってなかったです』

 にや、と貴方は笑う。

『――恋色は魔法にしてぶっ飛ばすのが一番さ、って、私は思ってたな』 

 だから、知っている。
 やっぱり貴方は貴方のままで、今でもきちんと、ぎこちなく素直だってことを。



■ ■


「商売人ほど物を捨てない生き物は居ないさ。――あと縁起も担ぐし」
「商売人に拾われた商品は大変ねえ」
「それが物にとっても幸せだと……僕はそう信じてやってる」

 物の価値を決めるのは、人である。物そのものには、予め定められた価値なんて存在しない。
 値段というのは、需要と供給の単位である。僕が見捨ててしまうことで消えゆく物があるとすれば、なにも商売人の看板を掲げずとも、物を大事にする心は自然と芽生えてくる。
 この財布を捨ててしまうことで、消えゆくのは財布だけではない。
 物を捨てるというのは畢竟、そこに付随していた何かしらの“価値”を捨てることを意味するのだ。
「よっぽど大切な人からの贈り物だったのね」
「あんまり大人をからかうもんじゃないよ」
「……」
「……」
 ああ、と霊夢は、今気付いたという顔をする。
「霖之助さんって……そっか、私より大人なんだ」
「望むならこの店の丁稚にだってしてあげるよ、あんまり失礼なことを言うと」
 からかっても心が落ち着かない。
 あの人とは似ても似つかない博麗霊夢をからかっても尚、あの日の記憶が消えてくれない。
 今更どうしようもない、そんな焦げ付いた心がつまりは、この財布の価値なのだった。
 口惜しい価値だ。
 物を捨てるというのは、価値を捨てること。
「やっぱり聞かせてくれない? 昔話」
「勘弁」
「それじゃ、私からの今日の最後の要件」
 そして物をプレゼントするというのは、どういう意味なのか?

「……あけましておめでとうございます」

 物じゃない。
 ――相手に価値そのものを贈ることなんだと、僕は想っている。
「……?」
 眼前に、何かが置かれた。そして霊夢の白い手が視界から引っ込んだ。
 置かれた代物に目をやった。その品物の名前が辞書のように、僕の口の中だけで小さく言葉になる。それでも一瞬僕は――その品の名前と用途をそれこそ辞書のように把握しても尚、彼女がそれを置いた行為が何を意味するのかさえを、理性で掴み損ねていた。
「……お財布じゃないか」
「そんなおんぼろ財布なんてもう使えないでしょ、私からの新年お祝いの、」
 くすくすと子供のように霊夢は笑って、そして悪戯っぽく言う。

「プレゼント」

 その言葉の瞬間、また閃光のように脳裡を過ぎる映像が有った。
「春財布って言ってね、縁起が良いのよ。知ってた?」
「……あのね。僕は商売人だぞ、それはさすがに釈迦に説法というものだ」
「私神道なんだけど」
「なら改宗したまえ」
 霊夢の声さえも満足に聞こえない。理性は追憶に駆逐され、埃っぽい匂いまでもが鼻腔に蘇り来る。古い日々、古い古い日々、古い古い部屋の中で嗅いだあの柑橘と木犀の匂い。玉虫色に光る試験管の液体。
 現れては消えた泡沫。
 酸っぱさから甘さへと、形無く移ろった古い古い匂い。
 かの人の為人と来たら不思議だった。鼻につくようでつかない、馬鹿にしているようでしていない。そして子供のようでいて――本当に子供のようだった、金髪が頬に揺れていたあの昔日の笑顔。
 霊夢が置いた財布をつまみ寄せる僕の指の、目に見えないほんの少しの震えを、僕は知られまいとした。霊夢もこちらを見ない。自分がやったことに恥ずかしくなったのか、心持ち頬を染めて目を逸らしたその少女の横顔を、そして、僕以外の誰も見ていないという現実が今この場所に、漂っている。
 過去と現在が交差する。消えた日々と今の日々が、僕の目の前と奥とで鬩ぎ合っている。新年、香霖堂という名の時間の中で、まるで僕は小さな夢を二つ見ていた。
 手にしたその財布のデザインに、見覚えがあった。
 僕は口を開く。
「これ……前から君が使ってた奴じゃないか」
「前からって言うか――今の今まで使ってた財布よ」
「良いのか?」 
「うちの神社にはまだ使ってない財布くらい有るけど、このお店にはどうやら無さそうだし、ね?」
「……地味に痛いところを突くね」
 確かに、無い。それはさっき自分で確かめたからよく知っている。
 僕は改めて、“プレゼント”を、しげしげと眺めた。
「……本当に良いのか?」
「ええ。……まあいつもお世話になってるし、たまには恩返しを」
 ふと言葉が切れる。
 なぜかいきなり慌てた様子になって、霊夢が付け足した言葉はといえば、
「あ、中身は無いわよ?」
「……」
「あ……」
「……」
 思わず反応に困り、
「……ぷっ」
 僕の方が先に吹き出した。
「そうか中身は無いのか、それはそれは残念無念」
「ちゃーんと移し替えました」
「へぇ、いつの間に」
「さっきおもちを取りに行ってもらってる間に」
 そんな軽いやり取りも、どこかそぞろになる。
 僕は――お金よりももっと卑しいことに、手に持った財布の温度を確かめてしまう。僕の掌の中で訴えかけるように、確かに火照り返す薄布。
 心音がまた少し高鳴る。
 身体の内側からも温かくなった僕の掌と、霊夢の体温の残りをまだ宿したままの小さな布の袋。
 霊夢が席を立った。帰るわ、という小さな声が耳の片隅の、更に遠く向こう側から聞こえている。僕の記憶の海を振り払ってゆくような後ろ結いの黒髪の一筋二筋、唇から零れかけて留まった言葉。
 立ち去ってゆく静かな草履の音を、まるで僕はもう一度手繰り寄せるように、
「霊夢!」
 声を張り上げて名前だけ、叫んだ。 
 入り口で振り返った博麗霊夢に、僕はまた、投げかける言葉を少し迷った。喉元まで出かかった普通すぎるその言葉に、取り替える別の言葉をちらちら探していた。
 ――ありがとうと、素直に口に出せない自分に臍を噛む。商売人失格の、まるでぎこちない笑顔だと自分で分かっていながら僕は、無理矢理の笑顔を繕った。
 素直じゃないな。
 そんなことを、霧雨の魔法店であの人に随分からかわれた。
 過去であって過去でない現在があった。
 財布を掲げて、ひらひらと霊夢に振ってみせる。

「……今日のおもちだけど、僕からのお年玉ということにしておくよ」

 にー、と霊夢が笑う。

「最初からそのつもりだったもん」

 ……こいつめ。







 
■ ■ 



 極彩色の硝子壜が壁を埋め尽くしている。根がどこにあるのかも分からない濃緑の蔦は不気味に瑞々しい葉を拡げ、赤い素焼き煉瓦の壁一面を蛇のようにゆらゆら這い回る。
 縁の欠けた試験管。染みと凹みだらけの飴色の机。細波のような文字で埋められた羊皮紙が二枚と万年筆、仄かな花の蜜の香り、不確かな色で揺れる煙一筋。

『独り立ちしたいんだろ。違うか?』
『――どうしてそれを』

 女性はうふ、と面白そうに笑った。
 気付いてないとでも思ったのかしら――彼女の横顔は、まるで僕にそう言っているように聞こえた。
 目尻に刻み込まれた深い皺としみ。妙齢に差し掛かってしわしわになり始めたその温かそうな左手で女性は、螺鈿細工が泳ぐ虹色の煙管を不味そうに吹かしている。由緒あるこの大店の大将に座ってから始めたその品の悪い趣味を、紫色の吐息に変えて天井に吐き出して、
『……いいよ』
 彼女は、短くそう言った。
 悔しいくらい呆気なかった。その手許の試験管から、緑に光る液体が沸き立ちながら虚ろな湯気を吐き出している。
 深々とお辞儀をした僕に、貴方はすぐ手をひらひら振った。アンタなんてどうでも良いさ、と荒っぽい口で言って、顔をお上げ、と続けてから、
 ――しわしわの手で貴方は、手許にあった自分の財布を取った。
 鮮明に憶えている。
 貴方は中身を見もしないで、そのままそれを、僕の胸の高さに差し出した。

『プレゼントだぜ。――まぁ、死なない程度にな』

 それは、時間にすればほんの短い会話だった。
 思えば大将に座ってからろくに話もしていなかった貴方の声を、言葉を、その時に舞った一言一句の全てを僕は、今でも忘れずに覚えている。
 煙管の最後の一服を深く胸に吸い込んで、貴方は想い出を吹き消すように天井へ吐き出した。決して短くない年月を細い煙管の中に詰め込んで、貴方は僕が持っていた夢も現もすべて煙に変えた。にぃっと、ちょうど今の魔理沙がそうするような、意地悪な笑顔を浮かべた最後の一瞬。
 のれん分けなんてしてやらないからね、と僕に追い討ちを掛けた貴方。
 僕はまたお辞儀した。
 そして顔を上げた時に見つけた、貴方の顔を――僕は、死ぬまで忘れないつもりでいる。





 ――そこで、目が覚めた。

 枕元から眼鏡を手繰り寄せ、カーテンを開いて朝を迎え入れる。眩しすぎる陽光に目を細めて思わず、僕は再びカーテンを閉めた。
 ベッドから起きあがり、水を飲みに炊事場へ行った。
 
 今更、彼女の夢を見るとは思わなかった。
 内心で首を傾げながら一人苦笑いして、コップの冷たい水を呷る。彼女は未だに悪戯坊主のように笑う人で、あの日とちっとも変わらない姿で僕の枕元に歩いてきた。
 たまに逢いたくなる時が無くもないが、僕自身の勝手でこんな趣味まがいの店を開いておいて、こちらから哀愁に駆られるのもしゃくな話である。……そうだ、いっそこの夢は彼女の方が望んだことならば、僕にとっても都合が良い。
 もう何年も霧雨の看板の前に顔を出していないこの僕のことを、彼女は我慢できなくなって会いに来てくれたのではないか。いい加減にしろと叱りに来たとか、元気でやってるか? とか――或いは彼女なら「まだ潰れてないんだな」くらいは言ったかもしれない。粗野に見えて繊細な人だった。意地悪に見えるのは不器用なせいだった。まるで魔法のような優しさに縁取られたそんな貴方の亡霊が、あれから何年目かのお正月に、僕をひょっこり訪ねてきてくれたのかもしれない。
 ああ見えて、寂しがりの人だった。
 だからこそ僕は、あの最後の横顔に、とても救われた気持ちになれた。

 年齢を追い越されることがあるなんて、普通は思いもしない。
 僕だって、思いもしなかった。
 半妖ゆえゆっくり歳を取る僕のことを、彼女はいつしか追い越して、先に行ってしまった。僕より後に成人して、僕より先におばあちゃんになってしまった女性のことを、僕はどうして未だに夢にまで見るんだろう。
 簡単なことだった。
 彼女は人間であり、
 ――僕も半分は、人間なのだ。

 僕の夢はあの時、煙管の煙になって消えたのだ。

 あっという間に大きくなって、あっという間に小さくなってしまった貴方の掌が悔しかった。今はこんなに小さな財布になってしまった貴方の影を、僕は今でもそこ以外に探して夢へと視線を移ろわせている。
 僕がもしも、人間だったなら――そんな青臭い希望に、あの頃何度も駆られた。
 今になっては、恥ずかしい話である。
 あの時もらった財布の中身ももうどこかで使ってしまって、今は古びた入れ物だけが実像を結んでいる。

 水をすべて喉に流し込むと幾分か気持ちが冴えて、僕は再び暗い寝室に戻り、今度こそカーテンを開け放った。
 一転して光に溢れかえった室内で僕は、枕元に置いてあった二つの財布の内、古い方をまず手に取る。
 幻想郷の陽射しは窓から流れ込む。今という時を、今日も確かに香霖堂は泳いでいる。まるで現在という名の光で過去を洗い流す、朝陽はさながら滝の瀑布のように、白く光り輝きながら僕の目の前を淡く儚く通りすぎてゆく。
 醒めぬ夢なら良かった。
 この、恨めしい朝。

 テーブルの上に、昨日もらったばかりの財布が置いてある。薄紫に染めた木綿。手縫い、大きさも使い勝手もまずまずと見える。
 僕は古い形見を横に置き、入れ違えに今日からお供にするそれを、手に取った。
 春財布、と、口の中だけで呟いた。
 そして古い方の財布をどうするか――その答えを僕はこの時、決めた。
 捨ててしまうことも出来る。捨ててしまっても僕はきっと、今ならもう後悔しない気がする。
 けれどそれを持ち続けていることが――僕から彼女に出来る、そして僭越ながら彼女から僕に出来るであろう、プレゼントなのだと思う。


 すべての今日という日プレゼントは、いつしか昨日へと変わってしまう。
 中のお金を移し替えながら、僕はまた少し博麗霊夢のことを考えていた。
 今日は知り合いのところへ新年のご挨拶回りに行くらしい。昨日の別れ際に、彼女がそう言っていた。
 魔理沙も誘おうかしら――と、とても嬉しげに話していたのを思い出す。
 
 

(了) 




 霖之助の裁縫の腕前についてはすっかり忘れてた……というか、連想の範囲外にあったというか。
 「しるし」であまりにも巫山戯た霖之助ばっかり書いてたので、ちょっと真面目ぶってみようとしたらヨーイドンで躓いてすっ転んでいった感じ。

 静かな雰囲気を出せてれば良いなー、という感じでした。
 ただ霖之助というキャラ、やはり掴みづらいのは間違いありません。
  
(初出:2009年1月11日 東方創想話作品集67)