【Spirited Away】 |
* Prologue *
最近、妖精の数が減っている――
最初にそんなことを言い出したのは、チルノだった。
「前はもっと沢山居たんだけどねー……もう、いっくらでも」
首を傾げるチルノ。
その顔はいつになく真剣であり、そしてその視線の先には、はて、と同じように首を傾げている緑髪の少女がいる。
「んー……そういえば、ウチの池もちょっと蛍が少ない、かな」
気怠げな少女が気怠げに答える。頭の天辺に生えた触覚を、所在なげに指でくりくりと弄くっている。
蛍と言ってもその季節にはほど遠く、そもそも夜に輝く蛍星の数はまだそう多くない。その上でなお蛍の多寡を見極められるのは、彼女が蛍の化身した妖怪少女であるせいだった。
「ね、あんたもそう思うでしょ? これは何かの前触れかもしれな――」
「考えすぎだと思うな、私はー」
身を乗り出したチルノの横で、別の少女が口を挟む。眠たげに欠伸を一つ、ふわふわと伸び代わりのように雀色の羽根を背で揺らす。
「ほら、今年の冬は暖かかったしー、そのせいで数が変化してるのよ」
「……それは関係ないような気がするけどなあ」
そんな少女――ミスティアの意見に、チルノは不満だった。
妖精は自然と密接に共生しているが、三寒四温が二寒五温になれば妖精が減るなんて、そんなことは聞いたことがない。
花の数くらいは違ってくるかもしれないが、草木の萌芽と妖精の誕生とはまた別の話である。
「というかさー」
そこへ、また更に違う声が割り込んだ。
「妖精が自然から減ると、どういうことが起きるの? もしかして式神にも何か関係ある?」
好奇に満ちた瞳を向けるのは、猫の少女である。
「式神は知らないけど……妖精は自然とすごく関係が深いの、だから」
「だから?」
「だから……」
返答に窮するチルノを、その少女、橙がじっと見つめる。
「っとにかくっ、イジョウジタイなの!」
取って付けるようにそう加えて、チルノはぷいっと視線を空へ飛ばした。
取り残された橙は何も飲み込めないままに、うーん? と首を傾げている。
「だいじょーぶ、そんなに考え込むことじゃないよ、橙」
「そうそう、何せチルノちゃんの言ってることだしー」
すっかり難しい顔になってしまった橙に水を差して、脇にいる二人が笑顔で場を茶化した。
嘲る笑みではないが、単純なチルノは分かりやすく頬を膨らませる。
「うるさーい! 妖精についてはあんた達よりあたいの方が詳しいの!」
「だって……そもそもさあ、本当に前は今より妖精多かったの?」
「多かった! 間違いなく多かった!」
「そうかなー、私は気付かなかったけど」
むきになったチルノの顔が、どんどん上気する。
氷の妖精だというのに顔を真っ赤にして、チルノは爆発させるように声を張り上げた。
「妖精のあたいが言うんだから間違いない! ちょっと前までは、本当に妖精はそこらじゅうに漂ってたのよ! まさにね、犬も歩けば棒に当たるってヤツ!」
胸を張ったチルノの大音声が、蒼い空に悠然と消えた。
他の三人、揃って顔を見合わせる。見合わせて、そして視線をチルノに移して、一呼吸を置いた後――大笑いの花が一斉に咲いた。
「チルノちゃーん、それ意味分かんないって!」
つまるところチルノはチルノであり、難しい言葉を無理に使えば墓穴を掘るだけだった。気付いたチルノの顔が、たちまち耳まで真っ赤に染まる。
溢れかえる笑い声の中、溶けそうに上気した顔で必死にチルノが言い訳を紡ぐ。そして、それを見て更に笑う失礼な三人。
合わせて四人分の騒がしいお喋りが、時間さえまどろみそうな麗らかな昼下がりをかき混ぜてゆく。
いつも通りの日常が、そこに流れている。
それはどこにでもあるような会話の一駒であり、また実際、いつどこにでもある風景だった。
大混乱に陥ったチルノは勿論、周りの少女達もまた馬鹿笑いにそれぞれ忙しく、なれば最初の話題など、もう誰も覚えていない。
今日があれば明日が来る。明日が過ぎれば明後日を迎える。それが、彼女たちの知っている、幻想郷という世界だった。
掃いて捨てられるような、ありふれた日々の光景。
――ずっといつまでも続くように見えていた、「日常」という名の、眩くて儚い瞬間だった。
* 1 *
がん、と強い衝撃が突き上げて、夢の世界のヒューズが飛んだ。
湯気立ち上るコーヒーと在り来たりなチーズケーキの残像が網膜から消えて、代わりに無機質な天井の色とくすんだ車内灯と、助手席の後ろっ側と、そこから零れるような茶色い髪が視界に流れ込んだ。
妙に甲高いエンジン音が耳の中を掻き回している。
首だけで窓の外を振り仰げば、馬鹿馬鹿しいくらいに青い空。
後部座席で横にしていた身体をゆっくりと起こすと、気配に気付いた助手席の茶髪が翻り、くりくりと大きな瞳がこちらを覗き込んだ。
「あらおはようメリー、道の悪いタクシーでの夢見は如何だった?」
「……あんた、げんきねえ」
いきつけの喫茶店の夢を見ていた、なんて言えない。
わざわざ太平洋の彼方までやってきておいて、飽きるほど通った日本の喫茶店の味を夢に見ていたなんて知れたら沽券に関わる。
無意識下且つ内在的な日常の浸食を思い知った気がして、マエリベリー・ハーンは気取られぬ程度に薄く溜息をついた。
「言わないなら私が当ててあげる。今夢の中で何か食べてたでしょ? 人間って食べ物の夢を見ると、もにょもにょ口を動かしてヨダレたらすのよねー」
「……」
いつかぶっ飛ばしてやろうと思う。
無意識に棘のある言葉を言って他人に煙たがられる人間は世間にそこそこ多く、しかしことこの宇佐見蓮子という人間は、意識的に言葉へ棘を生やすことについて人並み外れた技術を持っている。
いつかぶっ飛ばしてやろうと思う。
心に誓いを立てながら、メリーは口元を袖で拭った。拭いつつ改めて上体をきちんと立てて、窓の外に首を向ける。
「……わあ……」
草原だった。
地球が球体であることを忘れさせるようなまっすぐの草原が、雄大に地平線を覆っていた。
後ろを振り向くとそこも同じ景色だった。前も同じだった。この世界は三百六十度以上あるに違いない。フルパノラマの緑色だ。
スケールが違う。
日本よりもずっと大きな世界だな、と、メリーは子供のように思った。
二人を乗せたタクシーはそんな緑の海の中、モーセが裂いたような茶色の道をまっすぐ走り抜けてゆく。道は悪路極まりなく、事あるごとにがたがたと上下に左右に激しく揺れる。悪路といえば今の東京だって同じだが、あちらは車が走らなくなって荒れたアスファルトの悪路だ。これとは違う。
今や田舎の象徴となった自動車、土のままの悪路。快適な車中ではないが、それすら自然味という名に免じて許せてしまうくらいに、窓外の風景は雄大だった。
窓から窓へきょろきょろと風景を見回していると、蓮子がまた助手席からこちらを振り返る。
メリーが車内で寝ている間も起きていたらしい蓮子は、もう車の乗り心地にも草の光景にも、そろそろ飽きている頃かもしれない。
運転手の迷惑そうな顔にもめげず上体を後部座席に突き出して、蓮子は笑顔でメリーに言う。
「メリー、ヨダレの筋が取れてないわよ」
秘封倶楽部、と名付けたサークルがある。
結成以来、中身は変わっていない。今も昔も、増減も入れ替わりもない二人の少女が、この零細不良サークルを構成してきた。
サークルの趣旨は、結界の境目を曝くこと。
運動部のような練習も、文化部のような研鑽も必要のない、実にのどかな道楽サークルである。
「でもこれじゃいけない、と思う訳よ!」
二ヶ月前のことだ。
蓮子のことだから、どうせ思いつきで言った言葉に違いない。その証拠に一体全体何がいけないのか、メリーは未だに知らされていない。
舌鋒鋭い政治家のように斬り込んだ蓮子の言葉について、メリーは当然問いただす必要があった。
これじゃいけないと言うなら、どうならいいというのか。
「私達は霊能サークルとして致命的に経験不足である。このままでは私達の能力が、怠惰という風化に侵されて錆び付いてしまわないとも限らない!」
すなわち、
「そして季節はこれから夏。夏と言えば合宿!」
ゆえに、
「夏休みは、海外へ研修旅行よ!」
と、そう宣った。
誰が解説するまでもない。清々しいまでに私欲にまみれた公私混同の活動理念だ。政治家なら即野党に糾弾されている。
しかしサークルは構成員二名であり、蓮子の声は即ち鶴の一声である。例え自分の海外旅行のダシにサークルの活動方針を体よく流用しようが、宇佐見議員が言い出した時点で得票率は五十パーセントなのだ。
半独裁とも言う。
かくして蓮子の蓮子による蓮子のための利益誘導政治は動きだし、秘封倶楽部のサークル活動は俄に活性化した。具体的には旅費を稼ぐための労働、である。
二人してそれぞれ大学生らしいバイトに奔走して資金を貯めつつ、目標あと○○円! などと先月のカレンダーの裏にマジックで書き殴って壁に貼ったりして、これは結界曝きに何か関係があるのかしらとメリーが首を捻ったりする一方で蓮子はスーパーの安売りを徹底して突き、二人で重ねた労働と節約に貯金箱が重くなってきて顔がにやけ始めた頃のスーパーの抽選イベントで蓮子が亜米利加への往復ペア航空券を当てた。
有り得ない。
蓮子が回した抽選器から転がり出た金色の玉の輝きに、メリーは神について三日考えた。
やはり有り得ない。
しかし夢から醒めた今の景色は日本離れした壮大な眺めであり、故に現在のメリーに現実を疑う余地は残されていない。
今時では高価になったタクシーでこうして疾駆できるのも浮いた費用の賜物であり、あの金の玉のお陰だと思うと有り難くもあった。
ありがとう金玉。
いやいや。
やはりこの世を支配する遍く偶然は、この宇佐見蓮子というお気楽人間に百パーセント追い風なのかもしれない。
この国では右側にある助手席でどっしりと身体を預けている頼もしい相棒に、それくらいまで大それた事を思う。
「ねえ蓮子、それで……あの洞穴ってのはそろそろ……」
「うん、そろそろね。空港から車で二時間、だそうだし」
「やっぱりもうすぐなんだ――って私、じゃあ二時間近くも眠ってた訳!?」
「そうよ? 空港出てすぐから今まで、ぐっすりだったわね」
もう一度念入りにヨダレの筋を拭ったメリーの仕草を、バックミラーの蓮子が保護者のような眼で見つめている。
二人は今、ある洞穴を目指していた。
それは元はと言えば、蓮子が見つけてきたスポットだった。
スポットと言っても、有名無名の形容詞で測るまでもない。そもそも観光名所でも何でもなく、旅行客が高い旅費を払って足を運ぶような場所では間違ってもない。時折思い出したように時代遅れのガソリン車が黒い煙を上げてすれ違ってゆく、二十年遅れの片田舎である。
19xx年。夏の日のこと。
その洞穴で、一人の冒険家が消息を絶った。行き止まりのはずのその洞穴に入った彼は、入ったきり二度と戻ることはなかった。
中に獣が居て喰われた訳ではないし、落盤や陥没があった訳でもない。そもそも冒険の種があるような険しい洞穴でもない。一本道の平凡な洞穴に入ったまま、彼は文字通り忽然と消えてしまったのだ。
その後の洞内捜索でも、彼の生死は不明のままだった。身体すらとうとう見つからなかったという。
ローズビア・ケーブ事件。
図書館の埃っぽい場所をひっくり返し、漁り出した資料集の片隅で虫に食われかけていた太古の小さな事件には、そう名前が付けられていた。
それだけといえばそれだけの事件である。
蓮子はしかしこの事件をいたく気に入り、執拗な調査の末にこの洞穴が未だに現存することを知り、あとは軒昂な意気込みに全てを任せて猪突猛進に旅程を決め上げてしまった。
抽選の件の手前、メリーはろくに口を挟むことすら出来なかった。
「行き止まり、脇道もない洞窟に入ったまま、二度と出てこなかった――こんなに背筋が震える事件はないわ」
不気味な会話内容の割に、蓮子の声はうきうきと弾んでいる。
手には、朽ちたページを破らないようそっと丁寧にコピーしてきた、件の資料集。
「ねえ蓮子、結界の裂け目なんてのは何十年も同じ場所に存在する事の方が珍しいのよ? 今更行って何かが見つかるとは思えないわ。それに、万が一にも帰れなくなったりしたらどうするつもりよ?」
「あなたはイベントが起きてほしいのか起きてほしくないのか、どっちなのよ」
呆れたように蓮子が笑う。
……そう言われると、メリーも些か返事に困るのだ。
どうせ無駄足だろうと正論を吐き出す自分が居て、反面で類い希な結界にお目にかかれる千載一遇のチャンスと血が躍る、蓮子と同種の自分が居る。
理性と願望が鬼ごっこをしている。
なんだかんだで、海外旅行で高揚している気分のせいだろう。
蓮子の手からコピーを奪い、おさらいに目を通す。揺れの激しい車中で、酔いそうになる三半規管を叱咤激励して精読する。
男の名前。事件当時の状況。事件の捜査経過推移に同行者の実録談。
仔細はともかく、事件としてはそう稀有なタイプの事件でもない。時代ごとにいくつかずつ起きるような、伝承じみた不可解な失踪事件というだけである。
それでも、行き止まりの洞穴に入ったきりどこかで消滅した人間――そんなシチュエーションを考えるだけでも、胸の中でオカルトサークルの血が騒ぐのをメリーは感じる。実に良い具合に不気味である。
不純な海外旅行の方から真面目な活動指針の方へ向き直るベクトルを、自分の胸の中に知覚する。どうやら蓮子の言ったとおり、それなりに研修旅行になりそうな気配が発露しはじめる。
恐ろしい。
コピー用紙を折りたたんで、メリーは蓮子の掌にそれを返す。
カラーコピーが紙の日焼けまで鮮明に映し出した、赤茶色のそのページの隅にはぽつりと、資料集のテーマが古めかしいフォントで打刻されている。
『世界で起きた神隠し』
* 2 *
洞穴だった。
当たり前である。
「ねえ蓮子」
「何かしら」
「……私達はわざわざ航空機まで使って、こんなところを見に来た訳?」
「違うわ。私達は結界を見に来たのよ」
詭弁も甚だしい。
無愛想なタクシーに吐き出されたそこで小高い山と黒い洞穴を前にし、メリーは言い知れぬ虚無感に苛まれる。
マグマのように滾っていた何かが、溶岩のように固まってゆく。
熱しやすい物は冷めやすい。妄想はいつも風船のように膨らんで、現実という針がそれに穴を開ける。
ローズビア・ケーブは、しょぼかった。
観光名所ではないのは分かっていたが、それにしても、本当にただの洞穴だった。何の変哲も特徴もなかった。
元より何かが物珍しい場所だったという訳でもなく、ただ大昔に蛮勇をぶちかました男が一人呑み込まれたというだけの洞穴である。事件直後はオカルトマニアや宇宙人研究家あたりで賑わったかもしれないが、そんな流言飛語の賞味期限などたかが知れている。
振り返れば地平の遠くで、巨大な農業車両が蠢いている。走り去るタクシーが残した土埃は、空っ風に吹き飛ばされて跡形も無い。人の息吹なんて物ははじめからありもしない。
空の青と雲の白と野の緑と、在るのはその三色だけだった。
「じゃあ行きましょうか」
言うが早いか一歩を踏み出す蓮子の肩を、メリーが力の限りに引き寄せる。
「何よ」
「何よじゃないわよ。誰もいないこんなところで二人っきり人知れず中に入って、何か事故でもあったらどうするつもり?」
「そりゃ、第二のローズビア・ケーブ事件が紙面を賑わせるに決まってるじゃない」
「ふざけないで」
未知への怯懦ではない。極めて現実的な点において問題が有りすぎる研修旅行な気がする。
危険に踏み入れるためには安全という戻り場所を確保することが必要であり、それを捨てることを勇気と勘違いする人が往々にして非業の死を遂げて、翌日の退屈なタブロイド紙の片隅に乗っかる。
そうなりたくはない。
「大丈夫よ、何たってウチには結界の境目を視認できる、強力なお方が付いておりますから」
「可能な限り警告するけど……」
「メリーだってどのみちここまで来て、引っ込むつもりはないでしょう?」
「う……そりゃあ……」
そうだけど。
何かしら方策を模索してみるが、見渡しても地平線と青空しかないこの場では、どうしようもない。
日暮れまでに出てこなかったら警察を……などと頼める人はなく、入り口に紐を結んで道しるべを作ったところで史実の二の舞になればそんなもの無意味であり、一人ずつ行くにしても洞穴の深さが知れない以上は片方だけが待っているのも
「何してるのメリー、置いてくわよ!」
楽しげな声。
見れば蓮子の身体は、既に洞穴へ半分踏み込まれていた。
「な……ちょ、ちょっと待ちなさい!」
考えている時間はなかった。蓮子には結界が見えない。下手に動かれたら落とし穴に落ちる。行動を検討する余地すらない。
メリーは慌てて追随する。
つまるところ結局は、運命共同体なのだ。
蓮子が動けば、メリー自身も動かなければならなくなる。蓮子が斬込みイノシシ隊長で、メリーがそれを止める役。秘封倶楽部は寡頭政治であり、蓮子は得票率五十パーセントであり、止める役割のメリーが止められなければ案は可決を見る。
それがたとえ蛮勇であったとしてもだ。
こちらを見やる蓮子が実に嬉しそうにしていたので、露骨に眉を顰めて見せておく。相手は余計楽しそうに笑うだけだった。運命には逆らえない。
ふとメリーは、遠い昔の冒険家に想いを馳せた。
彼もまた蓮子のように、異界への好奇心を持って洞穴に足を踏み入れたのか。それとも全く予期しないままに、空間の穴へと落ちたのか。
もし好奇心を持って世界に開いた落とし穴に落ちたのなら、それは彼にとって本望と言えたのか。幸せと言えたのか。
彼の失踪からは長い時間が経っている。
ローズビア・ケーブ事件はまだ、この洞穴の中で口を開けて待っているのか。
目の前の洞穴はあまりにも在り来たりで、平凡で、ゆえに迫力に欠け、しかし史実の箔によってそれなりに不気味さを湛えている。
その入り口でひどく都会的な冒険家が嬉しそうに、駆け寄ってくるメリーへ微笑みかけている。
溜息は、亜米利加の風に紛れて草原に消える。
冗談のように鋭い陽射しが、黒い穴に呑み込まれてゆく二人の少女の背を照らす。
ほんの少しだけわくわくする童心の欠片が、飾り物のようにメリーの胸の中で蟠っている。
* 3 *
蛍の数が減った、という発言について明確な根拠はなく、しかし確実に減っているとリグル・ナイトバグは思っていた。
十が九になったならともかく、千が九百九十になったところで、気付く者は普通居ない。例えればその程度の僅かな誤差であって、それにリグルが気付けた理由を強いて挙げるなら、同族ゆえの感性とでも言うべきである。
灯りを明滅させる者も、そうでない者も、リグルは全ての蛍の存在を知覚することが出来る。人間が夜闇の中でも人の気配に気付けるように、その存在を直感で感じ取ることが出来る。
絶対に減っている。
あっちの甘い水を賭けて断言できるほどに、リグルはそう確信していた。
「じゃあ、チルノちゃんが言ってた『妖精が減ってる』って話も……」
「さあ、そっちはどうだろうねえ」
首を振る。
蛍については確かだが、そっちの信憑性は些か怪しいと思っている。
手前味噌という訳ではなく、あっちが普段からバカだからという理由である。
暮れなずむ道を二人の少女が歩いている。
リグルは今、塒とする池への帰り道を歩いていた。同じ方向へ帰るミスティア・ローレライが、その横にぴったりくっついてきている。
道すがらの話題は今しがたまで一緒に聞かされていた、知り合いの氷精による与太話だった。
曰く、妖精が減っている。曰く、一大変事が起きる。自然の怒りだ。天変地異の前触れだ。云々。
大変な話である。蛍が減っていて妖精も減っているとは、これはもう世界がおかしいとしか考えられない。狂ってしまった自然の中全ての生物が絶滅の危機を歩み始めている。戻れない下り坂を自分たちは転げ落ちている。
森林消滅。火山爆発。山河洪水土砂崩れ。
怖い怖い。
怖すぎるから鼻で笑っておいた。
チルノは怒っていた。
「でも、蛍が減ってるのは間違いないんだよね?」
「ない」
「原因は?」
リグルは黙って、おどけたように両手を広げる。
理由はリグルにも分からないのだ。ただ、そんなに大ごととも思っていない。だから気にしない。
季節なんてものは年ごとに千変万化するものであって、気温とか雨の量とか、何かしらの影響で蛍の数が多少増減したとしても何ら不思議はない。お天道様にケチをつけるほどリグルは馬鹿でもないし、自然の摂理で損なわれたのなら自然の営みで補われる日が来るだろうと思っている。そんなものだ。
「じゃ、私はあっちだから」
「ほーい。今夜は屋台に来てくれるんだよね?」
「うん。じゃまたあとで」
「まいどありー」
ミスティアが元気印の笑顔を振りまいて、二人連れの帰り道はそこで終わる。
お喋りに別れを告げて、二分岐の道の右手へとミスティアが去ってゆく。手を振って、リグルは左手に向かう。
遠ざかる友人の影。
言葉が消えた道は、冷たいほどに静かだった。
夕方の道が朱色に染まり、烏の鳴き声が聞こえて、後ろの影は離れてしまいそうにぐんぐん長くなってゆく。
自分の足音が耳の中で跳ね返る。風だけが不気味に啼いている。呼吸の音さえ他人のように思える。
夕陽から逃げるように、灰色の雲が駆け抜けてゆく。
忘れてしまえと、自分で言い聞かせていた。
どうせ大したことじゃない。
なにせチルノが言ったことだ。
世界はいつもと何も変わらない。そうじゃないか。
もしも何かが本当に起きるとして、じゃあそれを予想した自分が蛍達に何かしてやれるのか。文字通りの虫の知らせで何かを嗅ぎつけたところで、どうせケツ一つ拭けやしないのだ。
空を仰ぐ。
夕刻にさしかかった晴れ空が、茜色を纏いはじめている。うずまきの雲が西へと帰って行く。
視線を進行方向へ戻す。
濃くなってゆく森の影。謙虚な草達。小川が流れていて道は狭くて、木は茶色で石ころは硬くて苔は湿っていて緑色の光が舞って森は昏くて
その残像はやけに鮮やかだった。
(え……?)
目の端を横切った、緑色の細い光。
蛍達の光だった。
十や二十ではきかない。
何かを求めるように、沢山の蛍が宙を飛んでいた。それこそ甘い水でも見つけたように、大きな線を成して野の向こうへと疾っていく。
考える前に足が動いた。
緑色の軌跡が消える前に、その後を駆け足で追ってゆく。
例えば新しい水場を見つけたんじゃないかとか、変に縄張りでも争っているのかとか、そんなことを半ば無意識のまま予想した。問題を解決してやろうなどという腹づもりはこれっぽっちもなく、そもそもリグルはこれを問題として捉えてもいなかった。蛍が減っているその理由を、リグルは僅かほども真剣には考えていない。
程なく、蛍達の群れの目的地は視界に出現した。蛍達の仄かな灯りが、その一カ所を目的地として収束してゆく。
「え……?」
半開きにした口と丸く開いた瞳で、リグルはそれを、確かめるように眺める。
それは、小屋ほどの間口を広げている。黒々とした空間の中で、緑色の蛍火が僅かに漂っている。ひゅうひゅうと風が共鳴している。百年も二百年も昔からそこに当たり前にあったように、山の裾でそれは口を開けている。
ぽっかりと洞穴が、そこに佇んでいた。
(……こんなところに、洞窟なんてあったんだ……?)
首を傾げる。
郷で長く生きてきたが、リグル自身知らなかった物である。
紛れもなくそれは、飛び去った蛍達が目指していた場所らしい。リグルが立ち止まったその前で、幾つもの光が吸い込まれるように穴へ飛び込んでゆく。
闇色の間口で、緑色の光がふよふよと蠢いている。
餌場。ちがう。水場。ちがう。寝床。縄張り。その他諸々。ちがうちがう。
いくつかの思考が瞬間的にリグルの脳裏を駆け抜けて、
(……連れ戻さなくちゃ)
その末にはじき出された結論は、結局それだけだった。
洞穴へ足を向ける。
リーダーの自覚だとか、そんな格好良いことではない。何も考えないで、リグルは洞穴に足を踏み入れた。
だから疑わなかった。
全ては平仄が合っていたからだ。
「おーい!」
洞穴の入り口で、リグルは声を張る。
「おーい!?」
もう一度呼びかけてみる。返事はない。
それどころか、飛び交う蛍達は何ら反応を示さない。確かに目の前を飛んでいるのに、まるでガラス張りの向こうに居るようで、リグルの声に気付く素振りすらもない。
リグルは訝しむ。
もう一歩、洞穴の中へ足を踏み入れる。
結果から言えば、疑うべきだった。辿り着けない結論でも、それでも何かが出来るかもしれなかったのに。
水も餌も無い暗い洞穴に、どうして蛍達が集まっていたのか――リグルの思考は、そこで既にボタンを掛け違えていた。
どうして集まっていたのか、ではない。
もしも、集まっていた、ではなかったとしたら。
――集められていた、だったとしたら。
最後までリグルは、気付くことが出来なかった。
幾つもの蛍の光が、闇の中へ消えてゆく。緑色の髪を揺らす少女が、見知らぬ洞穴へと足を踏み入れる。
何も疑わない蛍の少女を、洞穴の闇がたちまちに呑み込んでゆく。
風が揺れている。
夜が世界を包み始める。
遠い鳥の鳴き声。悲鳴のような風の音。
誰も見ていない夏の夕暮れ。
* 4 *
蓮子が持つ安物の懐中電灯が、値段相応の薄っぺらい光で前方を照らしている。洞穴は存外に広く、小柄な少女二人なら楽に通れる、大学の廊下ほども広さがあった。
濡れ光りする岩が浮かんでは消え、彫り込まれたような地面の溝に何度も躓く。
「……蓮子、それ以上進まないで」
鋭い声で、先兵役の蓮子を制す。
泥のように粘っこい闇の中に、メリーはそれを見つけて立ち止まった。蓮子もぴたりと足を止める。
その三歩前で、淡い光を放つ紫色の線が揺れている。
光でありながら辺りを照らすこともなく、しかし確かに光として闇の只中で布帛のように浮いている。ヒカリゴケ、等という単語が意味もなく頭をよぎる。
浮世離れの出入り口。端に見えるリボンが何かの冗談のように見える。マーブル模様の闇が、その裂け目から悪戯っぽく覗いている。
「メリー、もしかして」
「ええ」
やっぱりこうなるか、とメリーは思う。
予期しなかった訳ではないし、自分だって胸のどこかで望んでいた調査結果の筈だ。面白いと思う。
それがゆえに、期待とここまで調和する現実が未だに信じられない。
誰かに仕立てられたような、悪意さえ感じてしまう。
「――そこに、結界があるわ」
言いながら、メリーは苦虫を噛み潰す。
蓮子の表情に花が咲くのが、懐中電灯の薄明かりの中でも充分に分かった。
「ダメよ蓮子。この結界は、凄く危険な匂いがする」
「あら、今まで一つだって危険じゃない結界なんてあったかしら?」
先を制したメリーと、切り返しを放つ蓮子。
すなわち、
「だからこの先は、行かない方が良い」
「よってこの先は、行ってみるべきだと思わない?」
こうなる。
「……蓮子、」
「メリーは心配性なのよう」
「ここで大昔、一人の冒険家が消息を絶っております。その洞穴の中に踏み込んだところ何と結界の裂け目を見つけてしまいました。これだけの条件が揃って尚突撃精神を掲げるバカが居るならその間抜け顔を是非是非見てみたいわ」
「私バカじゃないから見せてあげない」
蓮子はにんまりと笑う。
「全てはメリーの言う通り。かつてここで雲散霧消した人間が居る。まさしく現代の神隠しよ? ここまで来といてそれを曝かないオカルトサークルの風上にも置けない小心者が居るならそのピンぼけっ面を是非是非見てみたいわ」
「蓮子」
「だってここまで来て見逃すの? これほどの物を見つけて、指をくわえて見てろって言うの? 毒を食らわば皿までよ! 明日は明日の風が吹くわ! 据え膳食わぬは女の」
「やかましい」
思わず足技が出かかるが、この位置から蹴飛ばすと対象が頭から結界に飛び込んでしまうので仕方なく理性で抑える。
本来なら、この旅行に出る前に気付くべきだったのだ。身の安全を考えた時、先を思えばここで結界を見つけたところで何も出来やしない。
口先の威勢は良くても、所詮は温室育ちの現代っ子なのだ。自分の命を供物にして結界の秘密など曝けやしないし、賢者の素振りで保身をとって、夢はいつまでも夢のままだった。
哀しいが、現実には甘んじるしかない身なのだ。一線を踏み越えれば、蛮勇を着飾った冒険家と寸分だって違わなくなる。
退くもまた勇気である。それでこその研修旅行でもある筈だ。
「蓮子、止めましょう。本当に、何が起こっても起こされても不思議じゃない結界よ。ここは合成映像のお化け屋敷じゃない」
「うー……」
蓮子は露骨に不満そうな表情で、眉を顰めていた。
視界がぐるりと反転する。世界が裂け目に覗いていた紫色に染まる。
逃げ遅れた。
それがメリーの憶えている、短い思考の展開だ。
硬質な壁面、砂混じりの地面、微かに濡れた天井が木の葉のように回る。世界が七百二十度回って、意識がネガフィルムの極彩色に染まる。
倒れないよう必死で足を踏ん張ったら、地面が水もないのにぬかるんでいた。転びそうになった身体はしかし倒れることなく、傾いだままに宙に浮く。
目の前に横たわっていた亀裂が消えて、その代わりに、マーブルの紫がより鮮やかなコントラストを持って、視界の全体を煌々と埋め尽くしている。
――結界に食われた。
「蓮子、大丈夫!?」
「うん、何か変な感じがするけど……別に大丈夫よ」
安堵の息が漏れた。
蓮子には結界が見えない。こうして結界の方が変動して身体を包み込んだとしても、それを知覚できるのはメリーだけだ。だからメリーは、いつも二人分心配しなければならない。
理不尽だといつも思う。
蓮子の心配なんて、もうしなければ良いとも思うのだが…………まあ、なかなかそうはいかないのだ。
目の前の蓮子が、首を傾げる。
「それで、どうなってるの、今」
「結界が動いたのよ。偶然かもしれないし、或いは」
「或いは?」
「この結界が誰かに操られてる」
「……」
「なんてね」
そんな風に、メリーは答えておいた。
何の確証もない。そもそもどうでもいいことだ。
この結界がいかなるものかなど現時点で悩むことではない。差し当たって今の問題は、原状復帰の手だてを講じることである。
眠い気がする。お腹も空いた気がする。離れてまだ二日の日本が恋しい。
(……?)
不意に、手に温かい物を感じた。
「え、ちょっと」
「いいから」
ひんやりとした洞穴の中で、掌のそれは熱い程に感じる。或いは実際、火照っているのかもしれない。
蓮子の遠慮がちな掌が、メリーの左手をきゅっと握っていた。
「……怖いくらいなら最初から」
「はぐれないようによ、ばか」
聞こえてくる声がうわずっている。
苦笑いを浮かべて、メリーは前を向く。蠢く闇の中を、相棒の手を引いて歩き出す。
揺れてもいないのに、酔ったような悪寒が胸を包む。そのくせ不自然な浮遊感が妙に心地よい。宇宙遊泳はこんな感じなのかなあと思う。懐中電灯の要らない闇が、無限に続いているような錯覚。影が語りかけてくるような音は空耳だろうか。
上が分からない。右が分からない。どちらへ歩こうか。
メリーも蓮子も黙ったまま、進んでいるかも分からない足を動かし続ける。
そして、それは前触れもなくメリーの視界を縦断した。
「蛍……」
「え?」
「蛍よ、ほら」
蛍だった。
事実を明かせば、メリーも蓮子も、蛍なんてものは観たことがない。蛍など今では種類を問わず、限られた沼地で細々と営巣しているだけの国際天然記念物である。何とか条約のレッドマーク等というご威光の看板をひっさげて、観光地として堂々売り物に出来る代物だ。
緑色の光条が、まだらの闇に線を引く。
それだけでも、それは蛍だとメリーは思ってしまった。
動きが動物的である。数が多く、それぞれバラバラの動きをしている。何より、
「――幻想的ねえ」
幻想的だった。
「ちょっと、こんなところで何和んでるのよ」
蓮子に窘められるまで見とれていた。
これが蛍だと言われたら、もう疑わないと思う。蛍だと思えただけでもう良い。例え合成映像の偽物でしたと種明かしされても全然悔しくない。
だからこれは、蛍なのだ。見たことが無くても蛍なのだ。
そうメリーは思う。
「あっちの方から来てるわね、蛍」
緑の光の来し方を眼で追った。
その先に、蛍の物ではない光がある。
お化け屋敷の出口は、いつも日の光に照らされる。暗い闇に慣れた目が、その白光を確かに捉える。
無言で蓮子を振り返れば、蓮子もうなずき返した。
直感である。
光の射す方へと。
蛍のような虫達は、いつも光をめがけて飛んでいる。この闇の中であの光を出口と信じている自分たちは、今この瞬間虫と同じように、本能だけで生きているのかもしれない。
この世界はつくづく、不思議なことばかりだとメリーは思う。その不思議の母胎に抱かれたなら、虫も人間も、実はそう変わらないのかもしれない。
それが証拠にオカルトサークルの自分たちが、今こんなにも、世界に翻弄されているのだ。
この世界は、不思議だ。
白光が次第に大きくなってくる。
緑光が負けて、蛍の飛行線が見えなくなってゆく。
夢から現か、現から夢かも分からない。けれど、取りあえずは。
流れ込んでくる土の匂いを感じながら、二人は光の外へと飛び出した。
* 5 *
夜の河原。
脚を河の中に投げ出して、チルノはぼんやりと夜空を仰いでいる。
自身の能力や勘の全てにおいて、完全無欠に優れているとは流石に思っていない。ただ、妖精の動静に対する嗅覚については、ことそれなりの自信を持ってチルノは生きていた。
例えば蛍の数や雀の羽音やマタタビの匂いを嗅ぎつけることについて彼女たちに敵わないとしても、妖精達の動向を見る目については我こそがと信じている。妖精のことは妖精が一番分かる筈なのだ。
妖精は、自然そのものである。
鳥や魚の数が減るのとは事情が違い、妖精の数が減っているということは世界そのものが変貌している証左に他ならないのだ。だからチルノはチルノなりに、訳が分からないなりの危機感を抱いてここ数日を過ごしている。
そんな様を笑いぐさにして楽しんでいるあの連中は、つまるところ何もわかっちゃいないのだ。どんかんなのだ。
河原に腰掛けて水に足を浸しながら、チルノは胸の中で悪友達に毒づきまくる。ちゃぽちゃぽと足を動かして、拡散する月色の波紋をぼんやりと眺めている。
ふと何かの気配を感じて川面から顔を上げる。そこに居たのも、妖精だった。こちらは何をするでもなく宙を漂っており、目の前のチルノなどお構いなしで夜を楽しんでいるようである。
同じ妖精であっても話が出来る訳でなく、また妖精同士だからと無条件に仲が良い訳でもない。妖精は自然であり、自然はつまり総称であり、色々な構成要素を内包している。ちょうど人間がそうであるように、妖精はそれぞれ別の性格や身空や佇まいや利害関係を持って生きている。
それは確かだけれども。
もしもそういう人間の世界で、人の数が減り始めたとしたら人里の連中はどうするだろう? 当然、それなりに気を揉むだろう。
そこに至っては、赤の他人だのどうこうは関係ない。自分たちの世界に何かが起きていると考えて、彼らは当然その真相を探るはずだ。
残念ながら妖精は人間に比べて知能が高い訳ではなく、だから全妖精を代表する殊勝な気持ちで、チルノは自然を心配しているのだ。
バカっぽいと言われようがバカだと言われようが、壮大に心配しているのだ。
心配しているのだが、
「ねえねえ〜!」
背後から飛んできた軽い声に、脚はそのままで首だけ振り向く。
件の悪友の一人が、茶色の羽根をばさばさとはためかせて飛んでくるところだった。
「どしたの」
「ちょいとね。リグルちゃんここに来てないかなって」
辺りに目を配りながら、空を飛んだ人影がそのまま川辺に着陸する。
「来てない」
「変だなあ、今日はお店に来てくれるって言ってたんだけど」
ミスティア・ローレライだった。件の悪友の一人である。
「私は見てないわよ。約束すっぽかしてもう寝ちゃったんじゃない?」
「蛍さんはこれからが活動時間でしょうに」
「……そういえばそっか」
ぱしゃりとまたチルノが脚を動かす。
跳ねた水は瞬く間に氷の粒になり、ぽちゃんと音を立てて川面に落ちた。
静かな夜。眼下の月が波紋に歪む。
「ねえ」
話しかけられたミスティアが、チルノの横に腰を下ろす。
「何かしら」
「あいつ言ってたじゃない、最近蛍が減ってるって」
「うん」
「あれさあ、本当だと思う?」
ミスティアは小首を傾げる。
「どうして?」
「いや、単に本当かな、って」
「うーん、夕方帰る時は自信ありげに言い切ってたけど」
胸張ってたし、とミスティアが付け加える。チルノがふうんと相づちを打つ。
「やっぱ、同じ生き物同士は敏感なのかな」
「え?」
聞き返すミスティアに返事をせず、代わりにばしゃりと川から脚を引き抜いて立ち上がる。
見上げるミスティアの視界の中、月を背負ってチルノが言う。
「散歩に行こうか。ついでに、蛍探し」
§ §
月の光だけを頼りに歩く道が、蒼い陰影を冷たく刻んでいる。夜の幻想郷はとても静かで、なんでもない足音が耳にこびり付いてくる。
梟が山の向こうで唄っている。川の流れがどこまでも、闇の向こうの向こうまで続いている。
一つ息を吸って大きく吐き出せば、心地よい涼気が胸を満たした。
その呼気の流れで問う。
「……あたいが言うのもなんだけど、もうちょっと真面目に探した方が良くない?」
「良いのよ。どのみち今日は看板にしちゃったし、見つかる時は眼をお皿にしなくったって見つかるわ」
気楽な声の答えが、ミスティアから帰ってきた。
チルノは少し溜息をつく。吐き出した小さな憂鬱を、夜風が運んでゆく。
本当に静かな月夜だった。
花として草として河原のそこかしこに息づく命の存在すらも、夜の静謐の中で溶けそうに霞んでいる。
自然が眠ってるんだ、と、チルノは思っている。
妖精は動物であり、大抵は他の動物と同じく夜は眠る性質がある。そして妖精は自然であるから、夜は自然も眠っているのだという理屈である。歩いている今の刻は丑三つ時、草木も眠るという二つ名はあながち嘘でもない。
お日様の熱が残る地面をかみしめるように、二人の少女が深夜の川辺を歩いてゆく。歩く先には、ただ闇がある。生ける息吹の気配は、一滴の水ほどにも感じられない。
「……ほたる、いないねえ」
「……うん」
今日の自然は、一際よく眠っている。
そうずっと考えながら、チルノは歩いていた。
それはとりもなおさず、在るはずのそれがどこにも見当たらなかったからだ。
晩夏の夜を彩る、仄かな灯し火。眠りに就いた自然を柔らかく照らす、浮遊の篝火。
「ねえミスティ」
「何?」
「もしもだよ、もしもだけど」
無言で頷くミスティアに、更に少し言い淀んでから、チルノは重たげに口を開く。
「蛍が減っている、どこかに消えてしまってる――って、あいつの例の言葉が本当だったとしてさ、」
足元の石を意味もなく蹴飛ばす。軽い音が響く。
「もしかしたらさ、――あいつもどっかに居なくなっちゃった、ってことって、あるよね」
言葉が小間切れになる。
転がった石が、小さな音を残して川に飛び込む。黒い水面に波紋が拡がってゆく。小さく蛙の声が聞こえる。
ミスティアは暫く、何も言わなかった。黙ったままチルノの横を歩いていた。
強がっている風でもないその僅かな沈黙の時間があって、やがて答えが返る。
「どうしてそんな事言うの?」
明るい口調だった。
不謹慎な言葉を詰るような棘も、脅かしじみたそれを不安がる素振りも無い。
その語調が本心通りなのかそれとも内心を隠し繕っているものなのか、チルノには判らない。
判らないままに、
「いや、ごめん、変なこと言ったね」
そう言葉を継いだ。
名状しがたい空気が二人の間に流れる。
ただリグルが約束を反故にして、散歩のようなこののんびりとした空間の中で蛍の光が見つけられない。事はそれだけのはずだ。
それだけのはずなのに、それなのに、曰く言い難い胸のざわめきが胸の中に広がってゆく。
何が起きようとしているのか、自分は何を恐れているのか、自分でも分からない。
誰も話しかけてくれない沈黙の自然は、やっぱり眠っているようにチルノには見えていた。
「蛍ってのはね、」
「え?」
不意に話しかけられたミスティアの翼がぴくんと跳ね上がる。
「蛍ってのはね、虫だよ。虫だけど、あれは、すごく妖精に近いんだ」
冷たい場所だな、とチルノは思う。
蛍の光の温かみが無いだけで、世界はこんなに荒んでいる。冷めた月光のみで染まった河原が、こんなにも寂しい世界なのかと知る。
「動物も植物も、みんな自然なんだ。呼吸だってするし、生きるし死ぬし、夜になったらちゃんと眠ってる。だから本当は、虫も燕も妖精もみんな同じ」
「……?」
「動物としてシンカを遂げた奴らの中で、蛍は一番妖精の姿を残して生きてる奴らなんだ。あんな風にさ、夢みたいに光る動物なんて他にいないでしょ? あれは妖精の頃の名残り。妖精が持ってる魔力がね、あいつらん中にはまだ残ってるんだ」
目の前を不意に蛍が飛ぶ。
ミスティアが駆け足で追いかけようとして、いくらも経たぬ内その足を止める。
「あいつらの仲間の数が減ってるってのも、ひょっとしたら本当かもしれない。あたいはそう思ってるよ」
一匹だけのはぐれ蛍は河原の方へと飛ぶ。ミスティアが視線だけで追ったそれが、やがて闇に紛れて消える。
「まっ、あくまであたいの勘だけどね。だけどあたいなりに考えてるんだよ。何かの原因で妖精が減ってるのなら、妖精に近いあいつらだってひょっとしたら無事じゃ――」
「チルノちゃん黙って」
雄弁に考えを口にしていたチルノを、ミスティアが小声で制した。
その視線は、蛍が草陰に消えた辺り――を越えて更に遠く、対岸の土手の方までを向いている。
「どしたの」
「人間がいる」
ほとんど息だけの声で、ミスティアはそう答えた。
「それが何?」
「あれさあ、」
チルノが見やった土手の上には、確かに人影が動いていた。淡い月明かりでは体つきさえ判然としないが、必死に夜目を利かせ、辛うじてそれが二人分あることを確認する。
「こっちの世界の人間じゃないね」
「ああ――たぶんねえ」
チルノは曖昧に頷いておいた。自信が無いのもあるし、あと興味自体無いというのが半々である。
外周を結界に囲まれたこの郷には、お尋ね者の異界人が闖入してくることも決して珍しくない。結界が綻ぶとかそういう事情らしいと聞いたことはあったが、その辺の絡繰りは何やら雲を掴むような話で、チルノにはいまいち理解出来ていない。
人影が異界の者だとチルノが判断したのは、もっと現実的な理由である。妖怪が跳梁跋扈するこの世界にあって、丑三つ前後にこの界隈を徘徊する者などこの郷にはそうそう居ないのだ。いきおい、この郷の常を知らない者であることは容易に窺い知れることだった。
ミスティアの方は相変わらず、その小さく暗い影を細めた眼で追っている。こちらは夜雀であり、夜目が利くらしい。こっちの世界の人間でない、と言ったのは、或いはこの距離でその風体までも見えているからかもしれない。外界の人間はしばしば奇天烈な装束を纏っていて、その風貌だけでもこの郷の常識には
「ねえねえ」
「ひゃっ!?」
耳元で声がして、思わずチルノは飛び上がった。ミスティアが知らぬ間に耳打ちの体勢になっていたのだ。
頓狂なチルノの嬌声にミスティアもまた驚き、慌てたように人差し指を口の前で立てる。
「しー! 聞こえたらどうすんのっ」
「誰に!」
「あいつらによ」
「何でそれが困るのよ!」
チルノは思わず叫んだ――つもりだったが、知らずミスティアにつられてささやき声になっている。
「だって、せっかく久々のお客様だよ?」
いくらか浮かれたような声で、ミスティアが言う。
「丁重にもてなして差し上げないとね?」
「……あのねー」
はじまった、とチルノはこめかみを抑える。
気まぐれは平素からお互い様だが、今日に関しては彼女の提案を承服できるような度量などチルノは持ち合わせていない。
チルノやミスティア、それにリグルあたりは、しばしば行きずりの人間にちょっかいを出してはおもしろがるという悪癖がある。下等の妖怪にありがちなことで、その内容は取るに足らない些細なものだし、相手の命までは間違っても取ったりしない。
かつてはそのまま命まで召し捕って食料にしたりもしていたらしいが、厳格な博麗の掟が制定されてからは自由に人を襲う訳にもいかなくなり、ぬるま湯を被って遊ぶような悪戯に成り下がっている。簒奪や殺戮などは以ての外である。
しかし、それでも充分面白い。だからよく悪戯をしているし、巫女にお仕置きを受けたりする。それでも十二分に面白いのだから仕方ない。
とはいえチルノ、今夜にあってはいつもの気まぐれが影を潜めた。
「ちょっと、あたい達はそもそもあの蛍妖怪を探しに来たんじゃなかったの? 元はと言えばあんたの客が、」
「んー、リグルちゃんはまあ、そのうち出てくるんじゃない?」
他人事のようにミスティアは笑う。
その仕草が無性に拍子抜けするやら苛立つやらで、チルノは表情に困る。
「大丈夫よ、明日になったらどっかから起きてくるわよ。そん時わけを聞いてみればいいだけのこと」
「そんな無責任な――」
「まあまあ、どのみち今日は看板にしちゃったんだし。ごめんね、チルノちゃんまで付き合わせちゃって」
「それはいいんだけど……」
けらけらと笑うミスティア、チルノは未だ腑に落ちない物を抱えてそれを見やる。
「……」
「うん。まあ広い郷だし、探して見つかるとも思えないしね」
「ったく。勝手なんだから」
「えへ、ごめん。さてそれでは、ひとっとび行ってみるとしますか」
言うが早いかミスティアは大きく羽ばたいて舞い上がり、次の瞬には対岸に進路を変えて急加速する。一直線に件の人間へ向かおうとしたその影が、しかし何かを思い出したようにとって返してくる。
「あれ、チルノちゃんは行かないの?」
首を振る。
「今夜はいいや。あたいはもう少し、あいつを探してみる」
「ふうん。面白い物が見られると思うのにな」
残念、と言うようにミスティアはくるりと円を描いて飛ぶと、
「じゃっ、また!」
その円軌道のまま対岸へ飛び去ろうとする。
「ちょいまち!」
思いがけず鋭利な声が出た。
射竦められたように肩を振るわせて、宙に浮いたミスティアの身体がそこで止まる。
「あー……」
ミスティアを見上げる。黒い影のその上に星空がある。
どこまでも続きそうな星空がある。
「えーっとさ、あれだ、そのー……」
きょとん、とミスティアの影が首を傾げる。
「……あんまりちょっかい出し過ぎるなよ! あとで巫女にお仕置きされても知らないからね!」
迷って選んで、そんな言葉が口をつく。
返事はなかった。
月の光を背負ったミスティアの顔は逆光で暗く、故に表情を窺うことは出来ず、しかしどうやら一つニコリと笑ったように見えた。
そしてこくりと頷いて、風を切る勢いで対岸へと飛び向かう。いつしか人影は消えている。河原の途中で、郷の方へと下ったらしかった。
「…………」
不気味なほどの静謐が降りてくる。その中でチルノは、ただ何をするでもなく立ちつくしていた。
ミスティアを止める理由はなかったし、気まぐれはお互い様だし、チルノとてリグルを見つけ出せると本気で考えて河原を闊歩した訳ではない。夜風に当たろうというくらいの軽い気持ちで散歩がてら出かけ、ミスティアは単にそれに付いてきただけなのだから、ここから先どんなことをしようがチルノに口を挟む権利はない。
ならば、この不安は何なのだろう。
――本当に、彼女を止めることは出来なかったのか。なんて。どうしてそんなことを考えてしまうのか、自分でも判らない。何が起こると予感した訳でもない。巫女の罰を受けるなら受ければいい。まさか悪戯をしくじったりはしないだろうし、人間に返り討ちを浴びるような馬鹿ではないとも思う。
なればどうして、こんなに不安になるのだろう。一瞬でも行かせたくないと思ってしまった、自分の気持ちは何なのだろう。
後悔すらしているこの気持ちの正体は、何なのだろう。
何も判らないまま、夜の時間が過ぎてゆく。冷たい河原に、チルノは一人残される。蛍はもう飛んでこない。僅かな虫の音さえも掻き消すような静寂が、やけに耳に痛い。
土手の上空に達したミスティアの影は二度三度と旋回し、やがて目標を定めたように急降下を始めた。
チルノはただ、それを見送る。
ふと空を見上げれば、いつしか雲が月を覆っている。
見えなくなってゆく月の影に、ミスティアの影に、得体の知れない不安ばかりが雪のように積もってゆく。
どれほどかに迷い、意味もなく河原をうろつき回り、そしてチルノは思った。
今日の散歩はもう、続けられそうにない。
* 6 *
少なくとも洞穴に入る直前の時点で、まだ太陽は南中を僅かに過ぎた頃合いの筈だった。
亜米利加の洞穴で彷徨い歩いた時間はどう見積もっても一時間を超えてはいないと思われ、ゆえにようやく見つけ出した結界の出口の外が真夜中だったという点で既に世界規模での迷子確定である。
時差に攪拌された体内の時間感覚はあやふやで、洞穴に入ってからの正確な経過時間すら分からない。
広々と広がる天蓋には、満天の銀河の代わりに鉛のような分厚い闇がのさばっている。
頭上の視界に希求していた星と月の姿は、今、意地悪な雲の向こう側にある。
「――さすがの私も、これじゃあねえ」
光のない曇天の夜空を見上げながら、横で蓮子が呟く。小さく舌打ちが聞こえる。
星で時を知り、月で場所を知る――そんな蓮子の能力も、今宵は雲に遮られて届きそうにない。
「ひとまずは、それっぽい場所を歩いてみましょうか。結界があれば私が見つけられるし」
「たくましいわねえ、うちの相棒は」
「ここで木乃伊になりたいわけでもないでしょう?」
あははと笑って、蓮子が一歩を踏み出す。ひとまずは大きな川の土手らしきその道を、二人して続くがままに歩いてゆく。
――ここまで、何の情報も手がかりも得られずにいる。
洞穴の結界を抜けると、そこは酷く鬱蒼とした森の中だった。出るやいなや足元の苔に滑って二人して盛大に転び、仰向けに飛んだ蓮子の下敷きにされて呼吸が止まった。命からがら振り返ったそこには、もう結界の出口が見当たらない。
『うっそー!? メリーあんたの目が節穴……な訳ないわよねえごめん』
もちろんである。メリーは即答した。
一瞬だけ現れた結界がすぐさま消失することは、メリーからすればさほど珍しがることではない。
そもそも結界の綻び目とは位相違いの世界同士が或る一同軸上で接触したその断面であり、その接触軸の定義土台がどこにあるかによってその綻び目は簡単に明滅する。接触軸は様々で、空間接触の結界は地震や台風でも来ない限りある程度同じ場所に滞在するものの、時空間接触の場合などは、一秒違えば接触が途切れ、結界の出入り口があっさり消えてしまうことも少なくないのだ。仮に八十五度のずれを持つ異空間軸上の二世界において局部的な時間軸上の融和性接触によって生じる結界の出現周期は
『あーもういいもういい。結界のことについては、メリーだけに任せておくわ』
道すがら懇々と語っていたら、匙を投げられた。実はメリーも七割以上適当な言葉を並べていただけなので、全く問題はない。
そんなやりとりをしている内に、どうにか森から抜け出すことは出来た。曇天のせいで蓮子の眼が使えず問題の根本解決には至っていないものの、おどろおどろしい森の中に比べれば天国のような場所を今は歩いている。
「それにしても広い川ね」
「暗いから広く見えるだけじゃない?」
蓮子が混ぜっ返す。
でもそうじゃない、とメリーは思う。
この世界は本当に広いと思う。掛け値無しに広大な匂いがするのだ。
空港から洞穴までの、タクシーから見た草原が脳裏を掠める。あれも大きな世界だったが、ここはもっと大きな世界がある――言葉にならない感覚で、メリーの感性がそう告げている。
月明かりも星明かりもなく、外灯らしきものだってひとつもない。果ての見えない世界がどこまで続いているのか、目に見える物では全然分からない。ひょっとしたらそもそも地平線さえないかもしれない。
そんな世界かもしれない。
「……研修旅行と言ってもこれはやりすぎよねえ。夢の中を歩いてるみたい」
「あら蓮子、本当に夢かもしれないわよ? ここ」
本音としてメリーはそう告げる。
「ちょっと暗いから、土手は避けましょう。転がり落ちたら洒落にならないし」
「賛成、ね」
メリーが先導する下り階段の足元を確かめながら、蓮子が笑う。
その笑顔に、我知らず安堵する。オカルトサークルのメンバーとして来られたことを、メリーは心から良かったと思うのだ。
秘封倶楽部は寡頭政治であり、これが胡蝶の羽でも華胥の夢でも、今歩く道は一つしかない。この世界がたとえ泡沫で出来ていたとしても、故にこんな面白いキネマは、楽しまなくては損なのだ。
空は雲、地平は闇、森の中は妖しい色。
蓮子が呟く。
「……夢でも、落ちたらきっと痛いでしょうからね」
分かってるじゃん、とメリーは笑う。
「それで、帰れるアテはあるの?」
「現状は無いわね。とにかく結界の尻尾を掴み返さないと二進も三進も」
「えー、ちょっとメリー大丈夫なのー?」
言葉とは裏腹に、蓮子の声は弾んでいる。
恐怖心を押し殺してのことなのか脳天気の結晶なのか、メリーの眼にも判然としない。
「大丈夫よ、結界の気配があれば見逃したりしない」
「メリー、肝心なのはその結界が実際に現出するかどうかじゃなくて?」
その通りである。蓮子はいつだって正しい。
メリーの信頼であり憂鬱であり誇りである。
「ふざけないで」
「ふざけてないわ。その件についてなんだけどね、蓮子」
歩きながらメリーは、後ろの蓮子に声だけで話しかける。
「さっきもちょっと言ったけど、結界の出入り口ってのはいくつかの属性があるの。属性というか、種類ね」
「それで?」
「さっきもちょっと話したでしょ、空間軸がどうとか時間軸がどうとかって。あれがそう。例えば、どこか離れた場所同士をトンネルで繋ぐみたいに現れる結界の出入り口は、空間軸。自然に出来る結界がつまりこれね。私が見つけるのも、ほとんどがこれ」
言葉を選びながら歩く。自然と早足になってゆく。
蓮子が歩幅を広めて追いついてくる。
「次に、時間軸の結界。時折時間の歪みでひょっこり発生することもあるけど、大抵はさっきの空間軸結界が出来た後、時流の平仄が合わなくなって副次的に発生する結界。物が不自然に空間を飛び越せば時流も乱れるから、世界がその調整を働かせる」
「分かった。うるう年みたいなものかしら?」
「近い。結界の中から見れば、一瞬現れる一方通行の出口みたいなもの。さっき私達が放り出されたのもこれっぽいし、稀に未来人とか原人の伝説の元になってるのもこれ」
腕を組んで、メリーは口舌を続ける。
「まとめるとこうなる。私たちは亜米利加のローズビアケーブにおいて結界に飲み込まれ、しかる後に気まぐれに現れた綻びによって再び世界のどこかに放り出された。放り出されたときの出口はあっという間に閉じてしまったので、今別の綻びを見つけて元の世界に戻ろうとしている。以上」
「いや、ちょっと待ちなさいって。じゃあ私達、いつどこに現れるかも分からない結界の綻びを延々待つって訳?」
俄かに蓮子の声に不安げな色が帯びる。
「ところがね。話はまだ半分なのよ」
ここぞとばかり、メリーは口調を勢いづけた。
ついでに歩調も勢いづく。蓮子の足が駆け足気味に変わる。
「蓮子の超統一物理学なら、世界の基本的な軸は時間と空間のみ。だけど、」
闇を裂いてゆく懐中電灯。世界を照らす百円の灯り。
「私の相対性心理学なら、世界はもう一本の基軸を持つ。そしてその座標軸上で、出現する結界もあるのよ」
些か舌っ足らずではあったが、メリーはひとまずそこで結んだ。
ひとまず重要なことは一つ。楽観はしないが、悲観もしていないということだ。
結界は現れる。必ず現れる。
メリーはそう信じている。
「……そう」
意を汲んだように蓮子は微笑み、
「本当に研修旅行っぽくなってきたじゃない」
どこか嬉しそうに、星のない空を仰いでそう継いだ。
滑り落ちかける帽子を左手で抑えて、少しだけくちびるを吊り上げて、宇佐見蓮子が空を見る。
「蓮子?」
「つまりメリーがいる限り帰り道は安泰なんでしょ? なら、私は何も言う必要ないわ」
「え、あの」
「何も言わないわよ私。何も言わずに、この冒険を楽しむことにするわ」
思いがけず下駄を預けられたようで、メリーは戸惑う。
頬が赤くなっていないか心配して手をやるが、手には眼がついていないことをそこで思い出す。
「でもねえ、私思うのよ、メリー」
あくまで爽やかに、蓮子が口を開く。
辺りが暗すぎて表情が伺えないものの、笑ってるんじゃないかなと思わせる軽やかな声だ。
暗闇の中に蓮子の姿が沈んで、表情なんて見えなくて、
「あれ……蓮子……?」
「これはさすがにちょっと、暗すぎると思わないかしら?」
周囲を見渡す。闇がある。
空を仰げば、月はない。星もない。
辛うじて確保されていた視界が、急激に狭窄を起こしてゆく。
天然の筍が美味しいように、天然の闇はこんなにも濃いというのだろうか。
すぐ傍に居るはずの蓮子さえ見えないほど、こんなに濃い闇があったなんて。
変な感心ばかりが先走ってしまう。
懐中電灯の光さえ呑み込む闇が、身体を押しつぶしそうに迫ってくるというのに、少しだけ垣間見えた蓮子は相変わらず笑っていたのだ。
鳥の鳴き声が、どこかから聞こえている。
§ §
美味しそうな餌だ、とミスティアは思った。
比喩ではない。そのままの意味である。
土手を降りた二人の異邦人は、互いに何事かをしゃべりながら、森の中の一本道を歩いていた。手には行灯が一つ。見たことの無い異形の代物である。そのことだけでもその二人の出自が知れる。
外の世界。
幻想郷では大抵誰でも、博麗大結界の向こう側をそう呼んでいる。
直接的な流入出がある訳でなく、世界の悪戯によってたまに行き来が起こる程度である。ある者は山一つの向こうだと言い、ある者は月よりも遠い世界だとさえ言う。その文化や文明は少なくともミスティアが与り知るところではなく、それでもあの小さく明るい行灯を見る限り、それなりに頭の良い連中がいるらしかった。
ミスティアが背後をつけてから暫し経ち、やがて異邦人の足取りが大きく蛇行を始めた。時折いやと言うほど慎重な足取りになったり、腕を付き伸ばして行く先を探ったりする。
「……良かった。外の世界の奴らにも効くみたいね」
ミスティアは一人、夜空の中からほくそ笑んだ。
打算が正しければ、彼女らは今、経験したことがないほどの深い闇に包まれている筈だ。
「チルノちゃんったら、大袈裟なんだから」
舌なめずりをする。
ミスティアは最初から、この二人を久々のお食事にしようと目論んでいた。
チルノあたりは巫女の仕返しを恐れる上にやたら良識派ぶるためいつも乗り気でないのだが、ミスティア自身は、妖怪は人を襲って当然だという考えを今も持っている。そこの辺においては、妖精と妖怪という種族の違いも思考の差に現出しているのかもしれない。
(たまには狩りをしないと、ね……)
血が火照るように騒ぐのを、ミスティアは久々に感じる。
結論から言えば、今は人を襲えない世界である。スペルカードとか銘打ったルールが敷かれ、人間の郷の者を闇討ちなんかをするとそれこそ巫女が飛んできて退治されてしまう世の中になったのだ。
それには抗えない、しかし――
ミスティアは、そこにこそ穴があると思っている。
――幻想郷の人間ならば。
スペルカードの戦いの定義には、そんな註釈が付いている。
つまり、
(外の世界から来た人間は、襲おうが食べようが勝手なんだもんね)
なのだ。
美味しそうな餌だ、とミスティアは思う。
比喩ではない。そのままの意味である。
「それでは、」
ふわりと少しだけ上空に返しを入れて、助走をつけるように一気に降下してゆく。
前方の視界に気を取られた異邦人は、背後の妖気にまるで気付く様子がない。ミスティアの視界にどんどん大きくなってゆく二人の姿。
掌を目の前に突き出す。鋭く巨大な爪が、指の先で翻る。
目の前を緑色の光が通り過ぎた。
「!?」
羽を無理矢理捩って、速度の乗った身体をミスティアは辛うじて押し止めた。
そのまま緩やかに宙を滑り、漂うままの光の先を追う。
その行く手、闇の中に――小さな光が、幾重にも舞っていた。
「わあ……」
蛍の洞穴。
闇の中で、ミスティアの目にそれはそう見えた。
地上に星達が降りてきて、暗がりを好んで競い輝く夜空のそれのように、深い闇へと寄り集まっている。十重二十重に折り重なった蛍達の残像が、暗幕の中に明るい光条を幾筋も引いてゆく。
約束を反故にしてくれた友人の顔が脳裏に浮かぶ。
「んー、もしかして」
ふわふわと羽を動かしながら、洞穴に近づいてゆく。
妖しげな光を炯々と湛え、その一つ一つの光が人をいざなうように舞っている。
リグルもここにいる。
確かめるまでもなく、直感がそう告げた。
「……ちぇっ。人間達、命拾いしたね」
多少迷いはしたが、気紛れでちょっかいを出しただけの人間と不自然に約束を破った友人とでは、迷うまでもない選択である。
首を振って、ミスティアは光る洞穴に向き直った。
こんな光景があるんだな、と、妙に感心を覚える。
美しくもあり、幻想的でもある。
「――あいつったら、こんなところで何やってるって言うのよ」
ひとりごちて、ミスティアは洞穴に足を踏み入れた。
何一つ疑わなかった。
蛍がそこに集まっている理由も。
そこにリグルが居るだろうという推測も。
明日、リグルが屋台にやってきてくれるんだろうという希望も。
幸せな日々が、いつまでも続くんだという幻想も。
炯々たる蛍光と洞穴の闇が、混ざり合うように夜雀の小さな身体を包んでゆく。
ばさばさと羽根が揺れて、光の帯が僅かにさざなみを打つ。
羽音が消えてゆく。
足音も消えてゆく。
誰もいなくなった洞穴の入り口。
不意に空からぽつりぽつりと、水滴が落ちてきた。
滴はすぐに数を増やし、やがて白い帳になって洞穴の入り口を覆い尽くす。
森を叩く静かな雨音が、誰も居ない夜に浸みてゆく。
* 7 *
空が朝陽に白み始めている。暗すぎた闇を、その明かりが祓ってくれる。
木陰の二人を迎えるのはしかし、澄み渡る紺青色ではなく、ねっとりとした鉛色である。
手荷物をローズビア・ケーブの前に置いたままであることに気が付いたのは、何とも間抜けな話であるが、雨に打たれ始めてからのことである。
思えば元の世界に戻る手立てばかり考えていて、その道中が徒手空拳になっていたことさえ気付かなかった。クローゼットや箪笥を引っ掻き回して互いに一番大きなのを選んだ旅行鞄は、それぞれの折りたたみ傘をその体内に納めたまま、亜米利加の大地のどこかで仲良く防虫剤の匂いを振りまいているはずである。
枝葉を大きく広げた木の下で手近な岩に座り、背中合わせで蓮子とメリーはぼんやりと脚を休めていた。
「全然雨が落ちてこない。すごい木ねえ」
「すごい木というか、すごい森よ」
メリーはぐるりと、上空を見回す。
木々の間隙はそれ程でもないのに、頭上のほとんど全ての面積が濃緑の葉に覆われている。空は僅かほどしか見えない。腕をめいっぱい広げたみたいに、一本一本の木が信じられないほどの枝振りを翳して、天然の傘になっている。その気になれば、森の中なら傘無しでも充分動き回れそうな具合だった。
メリーはふと、忘れてきた折りたたみ傘の事を思う。
さすがに何百年も前から折りたたみ傘が有った訳ではない。だが、只の傘ならば何百年も前から有った。太古の昔から人々に使われ、そしてどれだけ時代が移ろい流れても、いつまでも傘というやつはあの姿形のまま存続している。技術が進化しても変わったのはせいぜい生地くらいなもので、どこかが飛躍的に便利になったという事もない。
今頭上にある木は、さながら何百年も雨を防ぎ続けられ天然の傘に見える。傘という形は、いつの時代もまるで変わらない。それを示しているようでほほえましくもあり、反面、人間として小馬鹿にされたような感覚にも陥る。
メリーはこの国の木について、不思議な話を聞いたことがあった。
いつかの講義で教授が言っていた。大昔、日本という国の木々はもっと大きく、高く、そして雄々しかったのだそうだ。自分たちが知っている木という植物なんてのは、その頃の木という植物とはもう全然別物なのだという。
現代の木々が矮小なそれに転じていった理由は明確でないらしく、勿論メリーが知る由もない。ただそういう事を聞いたことがあったから、例えば千年の昔に旅することが出来たならと想像した時、そこで目にする木はきっとこれくらい大きなものだと想像してしまう。
それくらい、この地の木はメリーの目に大きく映っている。
「メリー、起きてる?」
「起きてるわよ」
長い時間が経てば、木々でさえその姿を萎ませてゆく。その一方で傘のように、千変万化が常である人間の道具が、長い時を経て尚変わらずに存在し続けることもある。
不思議な話だと思う。
時代の流転は選り好みが激しいのだ。
とはいえ、自然と人間とを比べてみればやはり、それは一方に厳しく、一方に優しいというのが定説だった。自然はいつでもあるがままに泰然としているし、一方人間の世は、ギオンショウジャの鐘の音、ショギョウムジョウの――何だっけ。
「ねえ蓮子」
「なあに」
「私、思うにね、この世界は随分古い時代にあるんじゃないかって思うの」
特に筋道の通った根拠があるわけではない。ただ世界の雰囲気だけを見て、メリーはそんな考えを口にした。
手近な石に腰掛けて背中を丸めていた蓮子が、のんびりと身を起こす。
「この森の木々、あと人の気配も無いあの河原とか、何か全然現代じゃないっていうか……」
「じゃあ何、私達はタイムスリップしちゃったっていうの? 研修旅行に時間旅行のオプションが追加されたってわけ?」
「あくまでも予想よ。ただ――そんな気がするな、って」
メリーは改めて上空を見上げる。
押しつぶしてきそうな枝葉が悠然と風に揺れていて、その切れ間から覗く空は、相変わらず冴えない色をしている。
時折葉に溜まった雨が雫になって、ぽたりぽたりと落ちてきている。
静かな森にその不定期の固い音と、あとはただ雨の葉音だけがさわさわとさざめいている。
「でも私も同感よ、メリー。ここは多分昔の世界。……もっと言えば、」
頷いた蓮子の帽子の鍔に雫が落ちて、ぽつん、と一際固い音がする。
「大昔の日本。そんな気がするわ」
そう言って、蓮子は愉しそうに輝かせた眼を片方瞑ってみせた。
曇天なりに明るくなってゆく空が、ゆっくりと深い森の中までを照らしてゆく。時間感覚を失った今では夜明けと言われてもぴんと来ないが、取りあえず夜は森の奥へ奥へと追いやられてゆく。
大学のキャンパスが、酷く懐かしく感じられた。
自動化された出席確認。色鮮やかな電子白板。学友とのお喋り、整備されきった帰り道の歩道、お座なりの自然公園、路傍の標識が提唱する都市と文化の調和、東京までを五十三分で結んだ近未来鉄道。
メリーが毎日見ているあの国にだって、こんなにも森が深い時代があったのだ。
「空間軸の結界、時間軸の結界と、あと一つ――それはね、思念軸の結界よ蓮子」
途切れていた話の向こうを、そうやってメリーが呼び戻した。
「空間や時間が世界を作るのと同じように、私たちの思念にも世界の位相定義が備わっているとする考え方があるの。その軸上で発生するのが思念軸の結界。通称、」
蓮子を振り返れば、同じように振り向いてきたその顔と視線が合った。にこりと笑う。
「――夢の結界」
蓮子が溜息をついた。
「それが、今回ローズビア・ケーブで現れたあの結界だったっていうの?」
「確証はないわ。証拠もない。だけどそろった条件としては魅力的よ。時代を隔てて同じ場所に結界が存在したこと、同じように人を呑み込んでしまったこと。途方もない偶然に見えることだけど、夢の結界だったとすれば説明がつくわ」
「そういえばどっかの枯れそうな教授がそんなこと話してたわねえ。精神学は主観の世界を作り出す学問だからって」
僅かに腰をずらした蓮子の顔が、さっきよりもこちらを向く。
「でもそんな結界が本当にあると仮定して、どうして私達の前にそれが現れたの?」
「その原因は、多分これ」
蓮子のスカートに、メリーが指を這わせる。
「うひゃっあ!?」
頓狂な嬌声を上げて、蓮子が飛び上がる。それを淡々と無視して、メリーはそのスカートのポケットから紙切れを摘みだした。
「私達がこんな物を頼って、それを突き止めようと来たからよ。思念軸の結界は、分かりやすく言えば思考の中にある世界への入り口を具現化すること。勿論結界だから、念ずれば入り口開くみたいな簡単な物でもないんだけど」
言いながらメリー自身、解釈に自信があるとは言い切れない。
ただ途轍もなく昔に世界から忽然と消えた人物が確かにいて、今自分たちは彼と同じ道を辿っているらしい――その関係を上手く説明するには、そう考えるのが一番自然な気がしていた。
「従って、元の世界に戻るには――」
「まあまあ」
不意に蓮子が言葉を遮って、そのまま立ち上がる。一つ伸びをする。
「メリーには悪いけどまあ、往来した手段についてはどうでも良いわ。いずれにせよこの世界は確かに存在するんだし、研修旅行先でホームステイなんてぞっとしないから、あとは帰る手段を探すまでよ」
メリーも頷く。
「そうね。今の話を総合すると、元の世界に戻るには――ちょっと蓮子、聞いてる?」
滔々と語り部に徹していたメリーはふと、蓮子の只ならぬ様子に気付いた。
メリーから見て明後日の方向を見ている。森の奥に首だけを振り向けている。射抜くような鋭い視線が髪の隙間から垣間見える。
「――!」
只ならぬ気配が背筋を伝って、メリーも立ち上がる。
蓮子が無言で頷く。
「メリー、結界が思念で生み出された物かもしれない――私はそれもありかと思う」
低く抑えられた声に、俄に緊迫感が漲る。
「だけど世界はいつも現実の物よ。夢と現実は違う物。こうして私達が歩いている以上、ここは紛れもなく現実の世界」
「それは違うわ蓮子。反証、今私達が夢を見ているとしたらどうかしら」
ゆっくりと、蓮子の傍に寄り立つ。
「より正確に言いましょうか。夢の中で歩く世界と、歩く世界で見る夢と――その二つは、どこか違うところがあるのかしら? この足で土を踏んでいるなんてちっぽけなことが、現を証明するに足るのかしら?」
蓮子が笑う。
震えるような笑みだった。
「いいえメリー、ここは現実。私が手に持っている懐中電灯は何? 貴方が持っている資料集のコピーは何? エントロピーがインチキ結界を飛び越えてここへ来たとでも?」
蓮子がするりと動き、メリーの更に近くへと寄ってくる。
「そして何よりの証左があるわ。日本に帰りたいと貴方が願ったなら、今あの木の向こうで私達を狙ってるあの子達は何?」
「……」
「真実は客観よ。貴方の主観があれだと言うなら、今曝される真実は二つに一つ」
「蓮子、」
「この世界は逃げおおせ得ない現実であるか、或いは、」
微かな反射光が闇に閃いて、次の瞬間、氷柱のような無数の刃が猛烈な速度で苔生した地面に突き立った。
「メリーがこの世界に居たいなんて、バカなことを望んじゃってるかのどちらかしかないのよ!」
視線を合わせて一瞬の差で躱した二人の少女が、森の奥へと一散に駆け出してゆく。
木陰から飛び出した少女が一歩遅れて、その後を跳ねるように駆けていった。
水色の髪が舞い、透明な羽が宙を薙ぎ、朝の清涼な空気が逆巻きに掻き回される。青い残像が夜明けの森を通り過ぎる。
すべては一瞬の出来事だった。
森は静から動、そしてまた静へと表情を変えて、何事もなかったように落ち着きを取り戻す。
三つの軌跡が森の向こうで翻る。騒々しい森の客人が過ぎ去ったそこに、いつも通りの静謐が舞い降りる。
その場所にふと、近づいてくる少女の影があった。
少女は事のあった場所で歩みを止め、蓮子達が腰掛けていた石をじっと見つめる。それからぼんやりと、喧噪が過ぎ去ってゆく森の彼方を見つめていた。小柄な身を持て余すように、そこで暫しの時を過ごしていた。
やがて少女は、赤い衣のその懐から、一枚の札を取り出す。
少女は妖怪である。今しがたまで木陰から、旅人達の話を聞いていたのだ。
面白い話だと思った。
だが、意味はどうにも判らなかった。横で聞いていたチルノも難しい顔をしていたから、答え合わせにはどうにも期待できそうにない。
幻想郷の民でない人間が話す内容は、どうやらなかなかに難解そうである。
そして少女がそれについて結論を出すとすれば、差し当たって一つしかない。
(……藍さまに、あとで聞いてみよっと)
手に取った札を、きゅっと握りしめる。静かだった森に、前触れもなく旋風が舞い起きる。
少女の身体が音もなく宙に浮く。その頭頂で緑色の葉と、猫の耳がひょこりと揺れる。
少女は念じる。
森羅万象の息吹は風、遍く世界を翩翻と渡る風神に、鳳翼の恩恵を希う。依りて願わくは千里の駿馬が鬣に蒼々と靡くが如く、万里を翔る風の疾しきを得んことを。
「飛翔、韋駄天!」
その身体が瞬間、弾かれるように加速した。そのまま、先程去っていった三人のお騒がせ者を追いかけてゆく。
風切り音さえ残す速さの緋色の軌跡が、朝ぼらけの森を鮮明に舞う。
少女はかつて自分の主から聞かされた、ある現象の名前を思い出していた。
この世には稀に、生き物が唐突に、忽然と姿を消してしまう現象があるという。
九本の尾を持つ少女の主は、こんな風に教えてくれた。川の両端に必ず岸があるように、世界があるからには必ずその端に結界がある。その結界が悪戯を起こすと、生きている誰かを呑み込んでしまうことがあるんだ。その人は生きる訳でも死ぬ訳でもない。ただ世界から消えてしまって、まるで世界にはそんな生き物が最初からいなかったかのようになっちゃうんだ。
二本の尻尾の毛を逆立てて怖がった覚えが、少女の記憶にある。
彼女は更に教えてくれた。原因は誰にも判らないと。外の世界でも当然起こるし、幻想郷の中でも起こりうるんだ。いつどこで起きるかは、誰にも知れない。
すべては神様の気まぐれなんだ。私達じゃかないっこないんだ。
だからそのことをね、こう言うんだ。
神様が私達を陰に隠してしまう。
神隠し、ってね。
――橙はその時生まれて初めて、神様のことを怖いと思った。
橙は今、友達を追いかけている。
おっちょこちょいな妖精の友達と、あともう二人、同じくらい大切な二人の友達である。
神隠し――それだけは嫌だと念じながら。
誰なのかも知らない神隠しの犯人という奴に、ひたすら祈りながら。
* 8 *
橙が教えてくれたのだ。
あの人間から、ミスティア・ローレライの匂いがすると。
河原での一瞬の躊躇は、何倍もの後悔になってチルノの胸を埋め尽くしていた。
確かに嫌な予感は感じていたのだ。あの時飛び去ろうとするミスティアの身に、何かが降りかかるような予感がしたのだ。呼び止めることも考えて、結局は自信が無くて、彼女の飛ぶがままに委せてしまった。
歯噛みする。
「あいつら……一体何をしたってのよ……」
結局居ても立ってもいられず追いかけたその時にはもう、ミスティアの姿はどこにも見当たらなかった。
リグル・ナイトバグと同じだった。
間違っていなかったのだ。妖精が減っていたのは、紛れもなく何かの予兆だった。或いは予兆と言わずその時にはもう、何かが始まっていたのかもしれない。
確信する。
減っているのは、妖精であって妖精ではない。
妖精は自然である。自然は世界である。妖精は即ち、世界である。
妖精が減っているのではない。
この世界が削られているのだ。
チルノの翼に力が籠もる。
「アイシクルフォール!」
目の前を走る二つの影に、氷刃を投げつけて牽制する。飛びながらの照準はしかしまるで精緻でなく、弾は大きく外れて視界から消えた。
チルノは妖精であり、妖精には羽がある。しかし飛ぶこと自体は妖精、実のところ総じてあまり得手ではない。鳥のように飛び回ることなど到底出来ないし、出せる速度も高が知れている。森の木々の間隙を縫う飛び方では益々勝手が利かず、こうして人間にさえ置いていかれそうになるていたらくである。
飛びながらチルノは、ミスティアのことを思った。
まだ杞憂である可能性は残されているのだ。朝陽が昇った頃になって「あらおはよう」と木陰からひょっこり顔を出すかもしれない。池に帰ってみたら何食わぬ顔で、リグルと一緒に朝ご飯を食べているかもしれない。そして平和な顔をしている二人の頭をぽかぽか殴ってありったけの文句を連ねる自分――なんて未来だって、まだ用意されている可能性はある。
崩れようとしているのだろうか。
何だかんだ言って恙なく、いつまでも続いてゆくのが、幻想郷の日常だったはずだ。
知らない間に、誰かによってそれが壊されていたというのか。
「橙!! 付いてきてる!?」
大音声を張って背後に問いかける。
返事はない。代わりに、風の変化が返ってきた。
何かが猛烈な速度で飛んでいるのを感じる。
(そういえばあいつ、えらい速度で飛べたんだっけ……)
言葉の返事はなかったものの、ひとまずそれだけを確認してチルノは目の前の遁走者に向き直った。
ミスティアを探して歩き回っていた時、彼女の匂いが唐突に途切れていることを教えてくれたのは橙だった。 偶然居合わせた彼女に情報を貰ったチルノはしばらく二人でミスティア、そしてリグルの跡を探し回った。手がかりが無いまま夜が明ける頃にまでなってしまって、その時に見つけたのがあの二人の人間である。
夜の河原で対岸に見た人影と、同一人物に違いないと思った。
何かを知っているに違いないと思った。
あの時、ミスティアはこの二人の人間を追いかけて飛び去ったのだ。そしてそのまま、消息を絶った。更には橙曰く、この人間達からミスティアの匂いがしたという。
条件は出揃っている。
何だかんだ言っても人間、それも外の世界から来た人間だから、そう簡単に夜雀を斥けたりは出来ない筈だとチルノも思う。だが、この人間達が鍵を握っているのは疑いようがない。チルノはそう思っていた。
「許さないから! あの子達に何かあったら、あたいはあんた達、絶対にゆるさないからね!!」
感情が迸り、激した想いが喉を突き破る。
リグルとミスティアの無事を、今はただひたすらに願った。
願いながら、目の前の人間を追う。
絶対に、何かを知っているに違いないのだ。
§ §
「ねえ、メリー!」
「何、蓮子!」
「私達って、ハードボイルドサークルだったっけかしら!」
「たぶん違うと、思うけど!」
甚だ不本意ではある。
筋肉にエネルギーを使うくらいならその分を脳味噌に回したい……それが秘封倶楽部、サークルとしてのモットーだった筈である。
とはいえ現状は、知性より体力勝負である。取りあえず三十六計に優る方策をとるより他がない。
木陰からこちらを窺う誰かの気配には二人とも気付いていた。気付くことが出来ていた。しかし実際に喉笛めがけて槍がすっ飛んできた時には、流石に肝を潰した。石さえ貫きそうなあの切っ先を思い返すと、未だ背筋に震えが来る。
「これが夢の世界だってんなら、メリー、あんたの夢の趣味は相当サディスティックよ!」
蓮子の声が横から飛んでくる。
足を緩めることなく、メリーは内心それに胸をなで下ろした。足を取られそうな悪路には気を抜けないが、取りあえず減らず口が叩ける程度には蓮子もまだ余裕がありそうである。
「ねえ蓮子、何か良い手無いの! 超統一物理学仕込みのひもの研究とか、ひょっとして今役立ったりしない!?」
「役立つ訳無いでしょ!?」
お返しとして、こちらも茶目っ気を見せておく。蓮子の顔が心なしか綻んだので、意は通じたようである。
思えば久々の運動である。蓮子の方は講義でも遅刻寸前に滑り込む日常を送っているだけ、より脚力の方には覚えがあるらしい。
とんだ研修旅行だとメリーは思う。
「……夢を見すぎたのよ」
「?」
少し上がった息で、蓮子へ音声を張る。
「思念軸の結界は、人の思考に根差すが故に、強くその内容に影響されるの。と言ってもどこかへ行きたいと願ってそのどこかへ行けるとか、そんな簡単な意味じゃない。問題はね、」
後方から飛んできた何かが、右手にある幹にぶつかってはじけ飛ぶ。スターダストのように煌めいた砂塵が舞う。心持ち足を速める。
「問題はね蓮子、その人がどんな夢を持って生きているかなのよ」
それが、メリーの弾き出した一つの答えだった。
結界そのものは世界ではない。夢と現の境界に線を引くかは蓮子と意見が分かれるところにしても、その結界の特色については差が及ぶところではない。
だからメリーは、蓮子に結界の伊呂波を論じることが出来る。そして相対性精神学の専攻学生として、メリーはこう考えている。
夢が叶う、夢が現実になるという言葉――世界も夢を見るとしたら、世界が寝返りを打つことがあったって何らおかしいことはない。
世界には沢山の結界がある。今回は自分たちの描いた夢がちょっとばかり、世界と同調してしまったくらいのことなのかもしれない。
「ローズビア・ケーブに消えたその男も、きっと相当な夢見人だったに違いないわ。私達と同じようにここへ飛ばされたかどうかまでは判らないけど、少なくとも心に大きな世界を抱いていたんでしょうね」
見知りもしない男に、メリーは幻想を馳せる。
馳せながら、笑顔で蓮子に告げる。
「良かったわね蓮子! 真面目なオカルトサークルとして大きな夢を持ち続けてきた私達への、これがプレゼントなのよ、神様からの!」
「……」
蓮子は暫し黙り、やがて、
「ありがた迷惑って言葉を知らない神様だったのが玉に瑕だけどね!」
そう減らず口を返してきた。その声には、暗い色を感じない。
それくらいの夢は、蓮子も見てくれるのだ。
今なら胸を張って言える。これはオカルトサークル秘封倶楽部の、紛れもない研修旅行である。ただ雑然と世界の境界に放り込まれただけとは違う、それ以上の意味がある、立派な研修だ。
夢を見られない世界は最悪である。大学生になったメリーはずっと、夢を見たい、夢を信じていたいと願っていた。大学には、同じように夢を願う宇佐見蓮子という少女がいた。倶楽部は旗揚げした。
基本は不良サークルだ。常に遠大な目標が目の前にある訳ではないし、賞状やメダルの一つだってありはしない。誰かに興味を持たれることも少ない。運動サークルの記録会のような達成感があるなら教えて欲しいくらいだ。
でもそれこそが、秘封倶楽部なのだ。夢は百メートル走の数字ではない。夢はいつも、ただそこに在るだけだ。
息を切らしながら、鬱蒼とした森を縫う。木々が作った出鱈目な隙間のままに走る。数秒遅れて、青い少女が追いかけてくる。
太い幹の合間を跳ねるように縫ってゆく。笹を払う。朽ちかけた枝垂れをかわす。糸ほどの小川を飛び越える。
乾いた京都での恙ない日々、現実感が雁字搦めにした日常からの逸脱。蹴ってゆく苔の一本一本が夢でも現でも良い。抽選で当たった航空券でも何でも良い。自分たちは今、こんなにも美しい世界を走っているのだ。
夢と現は同じなのだ。そして、横には誰よりも頭の良い夢見人がついている。
これが秘封倶楽部の夢なのだ。
夢を追うのだ。
自分達の夢を。
古ぼけたあの事件簿に載っていた、名も知らぬ男と同じ夢を。
「メリー、あれ!」
不意に蓮子が叫んだ。
その真っ直ぐに指さした先に、緑色が閃いた。
蛍の光だった。
光は一直線にメリー達を追い越して、森を裂いて向こうへと飛んでゆく。その先に、森の開ける気配がある。蛍火に導かれるようにその行方に視線を投げる。
メリーはそこに、亜米利加の光景を見た。
小高い山の裾に広げた小さな口、ただひっそりと佇む自然の造営。走る風、開ける野、森の傘が途絶えて枝垂れ柳のように降り注ぐ霧雨の冷たさ。
ローズビア・ケーブがあった。メリーはそう思った。
久しぶりに見る、洞穴の入り口だった。
「蓮子、こっち……」
僅かに遅れた蓮子を、メリーが顧みる。
瞬間。
「そこまでよ!」
「きゃっ!?」
すぐ傍の幹で、氷塊が弾け飛んだ。
思わず身を竦めたメリーの頭上を、青い影が飛び越える。洞穴の方を振り返ったそこに、森が開けるその出口の辺りに、少女が降り立つのをメリーは見た。
山の稜線に雨雲が僅かに切れて、漸くの朝陽が顔を出し始める。山が緑色になり、土が朱い色になり、霧雨が細く白く、ベルベットの幕のように光り輝く。
夢の世界の夜明けが来る。
メリーと蓮子は並び立って、目の前の青い少女を見据えた。逆光で読めないその表情に、少しだけ背筋が粟立つのをメリーは感じる。
「……戦っちゃう?」
「ハードボイルドじゃないって言ったでしょ」
蓮子の唇の端に、笑みが浮かぶのをメリーは見た。
メリーも頷き返す。
行く先、洞穴の中には闇があり、蛍火の緑色があり、――紫色の、マーブル模様の闇がある。
口を広げた地上の半月。世界の切れ目。ここならぬ場所へといざなう、研修旅行のフィナーレ。
メリーはクライマックスを告げる。
「……結界があるわよ。あの中に」
蓮子が安心したように微笑み、改めて前方を睨む。メリーも向き直る。
追撃の少女のシルエットが朝陽に浮かんでいる。フリンジが紫色に輝いている。絹糸のような木漏れ日が降り注いでくる。無言で相対する三人の間を、静かな風が渡る。
朝陽を受けた霧雨は、あまりに幻想的だった。
この世界が昔日の日本だというなら、白銀の天鵞絨がこの国にあったというなら、自分たちは一体何を間違えて、この景色を失ってしまったんだろうと思う。
「……天鵞絨少女戦なんてね」
「?」
「何でもないわ」
「何しゃべってんだい!」
小声を打ち破るように、目の前の少女が唐突に啖呵を切った。
「あんた達が誰だか知らないけど、話は聞かせてもらうよ! あの子達を……あたいの友達をどこにやったの!」
その威勢の良い言葉に蓮子とメリーは揃って顔を見合わせる。
互いに黙って首を横に振る。
「しらばっくれたってわかってるんだから! 蛍の妖怪と、雀の妖怪! 覚えがないとは言わせないよ!」
(さて……どうしたものか)
メリーは逡巡する。
この勝負は命を賭す必要はない。あの洞穴に飛び込んでしまえば勝ちなのだ。武芸の嗜みなど無いメリーからすれば、相手が話して判る奴かどうかが鍵になる。話さえ通じれば、それこそ騙し討ちでも何でも良いのだ。
ただ、言葉から漂う怒気を見るにつけ、少々難しいかも知れない。何やら濡れ衣を引っ被らされているようではあるが、その濡れ衣が何なのかが判らないことには手の出しようがない。かといって走って洞穴に飛び込むには、まだ些か距離がありすぎた。
「聞いてることに答えて頂戴! もしあの子達に何かあったとしたら、あんた達ただじゃ――」
少女ががなっている。
取りあえず当たり障りのない答えを選ぼうとメリーが口を開きかけた、その瞬間。
「チルノちゃん!!」
左斜めの後ろから、赤い閃光が猛烈な速度で森を突き抜けてきた。
「橙!」
青い少女が叫ぶその横に、旋風が舞い立つ。
霧雨がさざなみのように宙を舞い、地上に極光を作り、舞い落ちる光の雫の下に赤い服の少女が現れた。
少女は脇目もふらずに、宙の或る一点を指差している。
緑色の光がある。
「あ、さっきの……」
蓮子が小声で呟く。
先程見つけた蛍がそこを飛んでいて、先程と変わらずまっすぐな航跡をとって、どこかへ飛ぼうとしている。
その行く先に青い少女の、赤い少女の、蓮子の、メリーの視線が注がれる。その全てを吸い込みそうな闇がその先にある。
蛍は、洞穴を目指して飛んでいた。
「リグルがあそこにいるの!?」
青い少女が赤い少女に叫ぶ。
「わかんないけど、匂いはするよ! リグルのも、」
青い少女が駆けだしている。
「それから、ミスティの匂いも!」
赤い少女が後を追う。
茫然と、メリーはその様子を眺めていた。
夢の世界かどうかなんて、いよいよどうでもいい。幻想的な朝の静寂を壊す無礼なんて、そんな風流に浸る気もない。
少女達もまた、夢のようだ。
何度も目を疑った。ただの勘違いだろうと自分に問いただし、その度に間違いのない情報を視神経が送り伝えてきた。
それがこの世界というなら。
どこへ来たというのか。
――背中に羽を背負う少女が、頭に猫の耳を生やした少女が、この世界の住人だというのか。
なんて滑稽な夢だろう。
なんて滑稽な現だろう。
思わず笑みを零したメリーの胸には、不思議な思いが去来した。
――最高のお土産、出来たじゃない。
「あんた達、」
そんなことを思っていたから、一瞬だけ、反応が遅れた。
「逃げるんじゃないよ!?」
何が飛んできたのか、最初は判らなかった。
ただ気付いたときには青い少女がこちらを振り向いていて、石みたいなものが近づいてくることだけ判った。それが何かも判らないまま咄嗟に右手で受けてしまい、鋭い痛みと張り付くような感触を覚えて慌てて足元に投げ捨てる。
恐らくは猛烈な低温の、氷塊だった。
引き攣るような痺れが、たちまち掌を這い回る。
「メリー、大丈夫!?」
心配げな蓮子の顔が、目の前で振り返る。
大きなやけどではない。
黙って一度だけ、メリーは首を縦に振る。
「オーケー? じゃあ、行くわよ!!」
果たして言い終わるが早いか、蓮子は駆けだした。
その向こう、青い少女の姿は既にそこに無く、洞穴をめざし走り去ってゆくのが見える。
「千載一遇! 今の内に飛び込むのよ、あの洞穴に!」
青い少女も赤い少女も、もうメリー達の方を向いてはいなかった。
危難は去ったらしかった。
その代わり――
「ちょっと蓮子、あれ、あの子達も洞穴に向かってるんじゃないの!?」
「それがどうしたって言うのよ! 追いかける形だって、入っちゃえばこっちの勝ちよ!」
「そりゃそうだけど!」
「とにかく、行くわよ!」
蓮子の足が止まる様子はない。
にもかくにも、メリーは足を動かすことに集中した。蓮子の、白いブラウスの背中だけを視界に追いかける。
掌に、しつこく痺れと痛みが蟠る。ちょっとだけ見れば、赤く爛れ始めていた。
その掌を開いたまま、メリーは洞穴へ走る。
その入り口が、だんだん大きくなってくる。
転瞬、世界が蛍光色になった。
茂みという茂みから、猛烈な数の蛍が舞い上がる。静かな朝ぼらけに、目に痛いほどの緑色が辺りを埋め尽くす。
青い服の少女と、赤い服の少女。そして、異様な風采を纏ったお尋ね者の旅行者二人。
四人の少女が、洞穴をめがけて走る。その周りを、猛烈な明るさの緑色が包み込む。
光のトンネルを赤い少女が青い少女を追い、青い少女を蓮子が追い、メリーは蓮子を追いかける。
洞穴はただ深い闇を湛えて、目の前に座している。燦然と輝く蛍光の中心に、全てを吸い込むような闇がある。
夢の出口だ。
ふと立ち止まって、後ろを顧みる。
緑色の光が背後にもよじくれて、朝の森を覆い隠してゆく。眩しい朝陽が、緑色の稜線が、山吹色の名も知らぬ花が、信じられないくらいに大きな木が、霧雨の天鵞絨が、すべて蛍光の向こうに消えてゆく。
言葉を選んでいる暇もなく、メリーは一言だけ、こう零した。
さよなら。
山へ。森へ。雨へ。少女へ。
最後にこの素晴らしい世界に、さよならを告げる。
そしてもう一度蛍の狭間に森を眺め、心の中に、永遠に消えぬスナップを刻み込む。
笑顔で踵を返すメリーは、二度と振り向かない。
一人飛び込む。
二人飛び込む。
蛍の緑色が、遂に洞穴の闇をも浸食してゆく。
闇が光に変わってゆく。黒から緑へと色を変えてゆく視界の中に、メリーはしっかりとそれを射捉えた。
世界の脱出口。紫色の闇。
三人目が闇の手前で、手を振っている。
その姿も、緑色の光に蝕まれてゆく。
行き場を失った光が、蕩々と溢れてゆく。
「メリー、行くわよ!」
研修旅行の終わりを告げる、相棒の笑顔をそこに見る。
メリーを確認し、蓮子が洞穴に飛び込む。相次いでメリーも飛び込む。
その瞬間、視界から闇が消える。
上も下も、右も左も判らない。
光だけが、身体の周りを埋め尽くしている。
光に溢れかえる中を、蓮子と、緑色の少女と緑色の少女が飛んでゆく。
赤い少女も、青い少女も判らない。
前方を漂う人影のひとつが、ふと離れてゆく。青い少女の影が、小さくなってゆく。輪郭が溶けてゆく。圧倒的な光に呑み込まれてゆく。
赤い少女の姿も、程なく、同じように消えていった。
夢から醒めるあの瞬間のように、世界の主役達が、色を失って崩れてゆく。
光が溢れている闇だ。
メリーはふと、そんなふうに思った。
今、世界には明暗も無い。緑色の光だけが包み込む、これは明るい闇だ。
メリーは必死で目を凝らし、蓮子の背中を追う。
その後ろ姿が、ふと、同じように光へと溶けかけた。
「蓮子……!」
思わず叫んで伸ばした右手。
それを何かが、がっちりと掴む。
傷にしみた感覚が一瞬だけ走って、しかしやがてすぐに、温かい温度だけが皮膚に流れ込んできた。
「のろまさん」
目の前で、相棒が笑っていた。
思わず口を開けたまま、メリーは放心する。
ひとことの言葉も出せない。脳が思考を紡げない。ただ、握ってくれているその掌が、どんなものよりも温かく感じる。
頬が、色に染まるのを感じる。
「……ありがと」
小さなメリーの声に、蓮子が笑う。
悔しいほどに、頼もしい笑みだった。
「……さあ、結界はどっち、メリー」
蓮子の問い。
ぴんと張られたその声に、我を取り戻す。唇を引き結ぶ。
力の入りきらない右手で、メリーはきゅっと、蓮子の掌を握り返した。
秘封倶楽部は寡頭政治だ。蓮子が握ってくれた手を、今度は自分が引っ張り返す番だ。
緑色の闇という世界に、必死で目を凝らす。
その一隅にメリーは、確かな紫色を見る。
くいと蓮子の腕を引いて、メリーはその横に身体を滑らせた。
「……フィナーレよ、蓮子」
緑色と紫色が鬩ぎ合う。不意に緑色がざわりと波を打ち、次に押し返すように、紫色が押し広がった。
道も無い道を、メリーと蓮子は進んでいる。息が出来る水のように、光と闇の海をふわふわと泳いでいる。
洞穴の入り口で見た蛍達の、更に幾層倍という数と明るさがある蛍達が、動物の体内のようにうねっている。
そのトンネルを形作る蛍の一匹一匹が、今、全て自分たちを見送ってくれている――そんな幻想を、メリーはふと抱いた。
掌が離れそうになって、メリーは慌てて指に力を込めた。
旅は、家に帰るまでが旅だ。この手は、離してはいけない。
迷子にならず同じ夢を見られた少女の、そしてこれからも同じ夢を見る少女の、大切な掌だ。
夢はいつか終わると言う。人の夢は儚いと書く。
だけど、それは不公平だとメリーは思う。現だっていつかは終わるものだ。夢ばかりが果敢無いなんて、そんな筈はない。
夢と現は同じで良いのだ。今が夢でも現でも関係はない。
大事なのは、目に見ているその世界を、誠実に愛せるかどうかなのだ。
隣と視線が合う。
蓮子が笑った。メリーも笑い返す。
秘封倶楽部は、寡頭政治なのだ。
蓮子と来られて、本当に良かったと思う。
緑色が、明るさを増してゆく。
昇る朝陽のように、どんどんまばゆさを増してゆく。
ぐんぐん増して、それでも増して、緑色でさえもなくなって、ただ真っ白になって、焼かれるような光量が埋め尽くしてゆく。
メリーは思わず目を固く瞑り、しかしその瞼をも突き抜けて、光は尚容赦なく網膜に突き刺さってくる。
音が消えてゆく。匂いが消えてゆく。上も左も無くなって、焼き切れるほどの光が襲って、
時間が止まって、
不意に、猛烈な爆音が耳をつんざいた。
* 9 *
朝の雨も上がり、庭には静かな風が流れている。葉っぱに宿った雨粒が朝陽を照り返し、いつも以上に美しい朝の風景が庭に広がっている。玉砂利の一つひとつが水晶のように光彩を放っている。
その隅にぽつりと、腕を拱いて立っている人影があった。
朝陽にも負けない金色の長い髪を、穏やかな朝風に揺らして佇んでいる。
その顔には、爽やかな光景に不似合いな、冴えない表情が浮かんでいた。
「……陽光燦々と降り注ぐお庭の鑑賞。風流な事ねえ」
「あれ、今日はお早いのですね」
背後からかけられた声に、彼女はゆっくりと振り向く。
「おはようございます、紫様」
告げられた朝の挨拶に、紫は、眠気混じりの目礼だけで返答した。
「で、本当はどうしたっていうのかしら」
「はい、橙が見当たらなくて――」
言葉が終わらぬ内に、金髪の天狐――八雲藍の不安げな瞳が、きょろきょろと庭を見回した。
「あまり夜うろつくなと躾けているのですが、どうも夜歩きに出たまままだ戻っていないみたいで――」
「そりゃあ猫だもの。仕方ないわよね」
くつくつと笑ってみせる。藍が生真面目に眉根を寄せて、困ったような表情を向けてくる。
「最近はそれでも、こんなに朝帰りが遅くなることは無かったんですが――何かあったのかと思いまして」
次第に小声になり、最後は消えそうなほどに語尾が窄まる。横顔を見れば、すっかり不安の色に覆い尽くされていた瞳があった。
紫は笑って、ぽん、とその肩を叩いた。
驚いたように振り返る藍。
「――良いわよ。探していらっしゃいな、貴方の式のこと」
「え? いやでも、紫様の朝食の支度がまだ……」
「いいわよ、それまで二度寝してるから」
「……いや、それも困るのですが……」
直情径行に眉を顰める己が式神の顔に、また紫は微笑む。
「うふふ。多分冗談」
「多分って」
「じゃあ八割冗談。良いわよ、その調子じゃあの子のことが気になって、なかなか他のことに手が付きづらいでしょう」
「いや、それは……」
藍は戸惑っている様子だった。
いつもより優しい主の物言いに、訝しんでいる様子がある。それでも、根掘り葉掘り詮索してくることはない。それを心得ている従者である。
「いいから。行ってらっしゃいな。主人の命令が聞けないのかしら」
――それが故に、切り札を切った。
「いや……あの、本当に良いのですか、紫様」
「ええ。私は待ってるわ」
「本当に失礼します……すぐに見つけて戻りますので、そしたら朝ご飯にしましょう」
馬鹿丁寧に深々とお辞儀を見せてから、ふわりとその場で宙に浮く。
「すぐ戻りますので!」
念を押すようにそう告げて、藍は穏やかな朝の空に舞い上がる。
首の動きだけで、紫はそれを追った。
見惚れるような空がある。
明け方まで雨を降らせ続けた雨雲は、遠く北の彼方に身を寄せていた。分厚い雲の覆いが取れた高い空が、鮮やかな旭光と抜けるような群青色に染まってゆく。
その中空へと、金色の式神が悠然と飛び去ってゆくのが見える。
紫の瞳に一瞬だけ、寂しげな光が宿った。
「行ってらっしゃい、藍……」
見えなくなってゆく影に、紫は、聞こえるはずのない言葉を告げた。
他に誰も居ない、二人だけの庭から、藍が出発する。紫に背を向けて、飛び立ってゆく。
紫は、何も心配などしていなかった。
藍も、いっぱしの狐狸化生の類である。そこらの妖怪よりもずっと鼻は利くはずだ。
その嗅覚は時間を置かず、橙が赴いたその場所を見つけるだろう。
「……あの子には、貴方が必要なんだから……」
ひとりごちる。
気休めだった。
橙に、藍に、そんなことを言ったところでどうなる訳でもない。誰あろう紫自身が、只の言い訳であることを理解してしまっている。
朝陽が眩しくて、紫は俯いた。
口を結ぶ。
噛み締めた奥歯に、ありったけの無念を詰め込む。
逆らえぬ物を、そこで噛み潰す。
§ §
とこしえに生きながらえる物など、無いと判っていたはずなのに。
つまり、世界の不思議は、いつでも唐突な物なのだ。
日常はただ徒然に、この幻想郷の深い歴史のように連綿と続く物だと藍は信じていた。今も信じている。
例えば巡る雨雲のように、例えば一夏ただ一夜を彩って消える蛍のように、遍く移ろう物さえも止まって見えるのが世界だった。理屈では判っていても、例え橙に教え諭そうとも、この穏やかで母親のような世界がどこかで欠けるなんていうことを、誰よりも信じようとしなかったのはある意味で藍自身だった。
藍は橙が好きである。勿論紫のことも敬愛している。それが世界の全てだと、藍は信じていたかった。
夢も現も関係なく、ただ大好きな人と一緒に過ごす時間が目の前に流れている、その世界をひたすらに愛していたのだ。
疑いたくなかったのではない。疑う必要がなかったのだ。
どこまでも正直なままで、世界を見つめていたかったのだ。
橙が頭頂に載せている帽子を森の外れの地面に見つけた藍は、その前に佇んでいる洞穴の入り口に視線を向けた。
何も疑うことなく、何も恐れることもなく――ただ大好きな人の消息だけを探して、八雲藍は、その洞穴に足を踏み入れた。
蛍がひとつ、ひらりと舞う。
雨を忘れた空に、やがて、鮮やかな色が架かり始める。
§ §
「さて……私が気付いてないとでも思った? さあ、もう私だけよ。出ていらっしゃいな」
八雲邸の庭。
先程まで藍が居た場所と真反対の方に向かって、紫はそう声を張った。
葉先に光る雨の痕、遠く川の音、揚げ雲雀の詠い声、時が流れていることを忘れさせるような白銀の庭。
紫は迷うことなく、その一隅にあるただ一点をじっと見据えている。
束の間の静かな朝が、庭を包み込む。
じゃりっと、草鞋が玉砂利を噛む音が鳴った。
やがて五月の生け垣から、小さな人影が現れる。
紫がにこりと微笑む。
蕩かすような笑みだった。
* 10 *
店の掛け声、雑踏、どこからか聞こえる二束三文のアナウンスの声。
耳を突き刺すようなその騒音が今の日本だと思うと、どうにも嘆きたい衝動に駆られる。
耳を引き裂くように聞こえてきたその爆音は逆に、今までの自分たちがどれだけ静かな世界に居たのか……それを逆説的に思い知らせてくれた。
「ねえメリー、」
「何?」
「思念軸とやらの結界は、帰りの航空代まで負担してくれるほどサービス良いものなのかしら?」
「さあね。今度神様に逢った時に聞いてみたら?」
からかった言葉はあっさりとかわされた。
メリーはにこやかに蓮子の前を歩いてゆく。
足の重さを感じている蓮子とは対照的に、その歩調は実に軽い。
何だかんだで最後まで心配してくれていたんだろうと蓮子は思っている。
メリーが自信満々だったから、平穏な帰宅については何ら疑ってなどいなかった。それくらいにはメリーを信頼していた。
しかし、流石に結界を抜け出た先が大学の構内だったのは何の冗談かと思った。二人して顔を見合わせ、ひとしきり笑い転げて、行きずりの学生に不審がられ、そこでやっと土埃だらけの我が身に気づき、あとは這々の体で好奇の視線をいなしながらキャンパスを転がり出てきた。
その間際に仰ぎ見た講義棟の時計は、きっかり朝の8時を指していた。
前代未聞、日米一泊二日旅行の完成である。
「まあ良かったじゃない蓮子、帰りの飛行機代が浮いて」
「抽選で当たったのは往復航空券なんだけどね」
「飛行機よりも短時間で京都に戻ってこられたわよ?」
「ええ、引き替えに旅行道具一式を失ったけどね」
亜米利加の大地を思い返す。
あの洞穴に向かうまでの道は、本当に大きな世界だった。
――あれは紛れもない、現代である。
――たぶん。
「あの子達、どこに行ったんだろうねえ」
メリーがふと、唄うように呟く。
結界をくぐって弾き出された時、そこにあの青と赤二人の少女の姿はなかった。先に抜け出してどこかへ去ったのかもしれないし、違う世界へと旅だったのかもしれない。いずれにせよ、残された蓮子達に知る由はなかった。
メリーは口早に、あの少女達は妖怪だったと喚いていた。それを確かめる術も、もう存在しない。
「……夢を見てたのか現実を見てたのか、結局判んないわねえ」
そう独り言を零すと、メリーが眉を潜めて振り向いてきた。
「だから良いのよ、あの世界が夢でも現でも。だって、」
腕を広げてくるりと、気取ったように一回転するメリー。
「……愉しかった世界に変わりはないもの」
そう言って、にこりと笑った。蓮子もつられて、笑みを零す。
今回の旅は、思い返せば、結局メリーに頼りっぱなしだったと蓮子は思った。ローズビア・ケーブで結界を見つけたのも彼女だし、精神学の理論とやらを展開し、あの世界の脱出口を導いてくれたのもメリーだ。蓮子は道中、何も出来ずついてまわるだけだった。
心の底で、しかとメリーに感謝する。素敵な研修旅行の立役者は、間違いなくメリーだと蓮子は思っている。
しかし同時に、少しだけ、怖いと思うこともあった。
メリーは、思念軸上の結界だったが故に時代を超越した結界が実現したと語っていた。蓮子もオカルトサークルとして、結界についての知識は齧っている。だからその話は間違いでないかもしれないと思う。
だが、今回の事件が思念軸の結界によって引き起こされたものだとすれば、メリーによりあの時説明されるべきだった点はもう一つあるはずなのだ。
――メリーが口にしなかった、欠けている条件が、あと一つだけあるのだ。
「オカルトサークル秘封倶楽部も、しばらくは骨休めね。しばらくは開店休業って事で」
「蓮子はだらしないわねえ。私は明日からでも活動再開の用意があるわよっ」
「その辺にしときなさいメリー。張り切りすぎて、網膜か視神経か脳の血管のどこかがオーバーヒートしたって知らないわよ」
すっかり上機嫌になっているメリーを、その調子に水を差さない程度で、蓮子は窘めた。
朝の空を見上げる。あの時見上げたあの空と、それは同じ空の筈だ。あれが、結界を通して繋がる地続きの世界だったとしたなら、であるが。
「メリー、」
「?」
「今日は、ゆっくり休みなさいね」
思念軸の結界によって、ローズビア・ケーブ事件と同じ事を引き起こした――それならば、遠い昔に事件の報を聞いて押しかけたオカルトマニアが一人も呑み込まれなかったことに説明が付かないのだ。彼らも当然事件の謎を味わうべくあの洞穴に集結したのであり、今回の蓮子達と条件は同じである。結界がざわめかなかい筈はない。
思念軸の結界に秘められた、最後の条件――それは、誰にでも同調する結界ではないということなのだ。
相対性精神学において精神世界、つまり夢の世界が明確に存在すると考えられていたとしても、そこへ自由に飛び回れてしまっては現実が滅茶苦茶になってしまうのだ。夢はつまり幻であり、精神の中においてのみ存在しておいてもらわないと困る。その境界を気ままに飛び越えられては、現実世界など紙屑同然になるのだ。
もしメリーの思考がローズビア・ケーブ事件の主人公と同調して、或いは単純に好奇心の現出としてあの結界を生み出したなら、それは確かに思念軸上の結界と呼んで差し支えないものではある。だが、それが意味することは途轍もなく重い。
――メリーの力が、結界を見る能力から、結界を操る能力へと変わり始めているということになるのだ。
「……子? ねえ、蓮子ってば?」
肩を揺すられて、蓮子は我に返った。
「もう、ぼーっとして。余韻に浸ってたっていうのかしら?」
「ばーか、そんなんじゃないわよ」
しっしっと肩の手を払いのけて、そっぽを向く。
世界の境界を操る――意識的に思念軸の結界を作ったり歪めたりすることが出来てしまえば、オカルトサークルどころの騒ぎではなくなってしまうだろう。
メリーには申し訳ないが、その眼は少し、自重してもらわないと困る。
「それにしても綺麗だったわね、あの世界」
朝陽を浴びながら、メリーがくつくつと笑う。
「さすがに襲われそうになった時はどうなることかと思ったけどね、まあ、平穏無事で帰れて何より。それに、」
メリーが振り向き、ばちんと視線が合って、蓮子は意味もなく狼狽する。
「……蓮子と旅行が出来て、本当に良かったわ」
子供のように無邪気な笑みを、メリーは浮かべて見せてきた。
「あ、こ、こちらこそありがとう、メリーさん」
驚いて、慌てて、そして気付いた時には自分の視線が空の彼方に逃げていた。
視線をそらしてしまうだけ、つくづく自分の方が子供だと蓮子は思い知る。
夢のような世界、遠い時空旅行。深すぎる闇、大きすぎる森、得体の知れない少女、蛍火のトンネル、そして――頼りになる、サークルの相棒。
悔しいし、嬉しい。
現実であって欲しいと願い、そしてまたメリーが言うとおり――あれが全て夢だったとしても、少しも惜しくない気がした。
ポケットから、資料集のコピーをつまみ上げる。
現代のローズビア・ケーブ事件は、確かに起きた。二人の夢見人は世界を歪め、素敵な夢幻旅行を楽しんだ。
メリーに、結局言わずじまいだったことが一つある。
ローズビア・ケーブ事件で消えたのは、冒険家ではないのだ。粗筋だけ読んでいたメリーは気付かなかったようだったが、精緻な下調べを施した蓮子は知っている。
その事件で消えたのは、作家だった。
冒険家というのは、後世に誤謬が定着したものだろう。実際に洞穴で行方知れずとなったのは、作家だったのだ。
――夢見る人じゃないか。私達と同じように。
蓮子はそう思い、ひとり笑った。前を歩くメリーを見て、もう一つ笑う。
そしてコピー紙をくしゃくしゃっと丸めて、街角屑籠の口へとそれを放り込んだ。
もう、昔の資料は要らない。結界の向こうを、自分達は知っているのだ。
メリーと一緒に見たあの夢のような世界を、蓮子はきっと、一生忘れまいと思う。
……そして、名も知れぬあの二人の少女が、どうか幸せであるようにと祈る。
* 11 *
縁側から見た庭の光景は、垣根の陰から覗き見るよりも遙かに絶品だった。
隅々に至るまで手入れの行き届いた庭は、朝陽の輝きを映して宝石箱のように輝いて見える。
「良い庭でしょう? ウチの自慢の式、藍の作庭。毎朝しっかり、丁寧に整えてくれていたわ」
横に座った妖怪が、上品な仕草でお茶を飲んでいる。
「庭なんて、どうせ見て楽しんでそれで終わりなんだし、言わば益体も無いものよ、それでも」
飲み終えた湯呑みを、脇に置く。
「……見て楽しむ人が居るから、作ってくれる人が居た」
そう言って八雲紫は微笑んだ。
「仰るとおりですね、妖怪さん」
「自己紹介がまだだったわね、八雲紫。貴方は?」
ずっと伏せていた目を、初めてそこで上げる。
「――稗田の阿求と申します」
そう言って、阿求は真っ直ぐ紫の眼を見た。
そつなく笑い、紫は視線を外してしまう。
「話は聞いてるわよ? 幻想郷の一から十までを編纂して、後世に伝えるんですってね。御立派なことですわ」
「お褒めにあずかり光栄です。貴方に言われるというのも複雑ですが」
率直な感想を阿求は口にした。ただそれは、稗田家自身が手を尽くして調べた『八雲紫』という妖怪の立場に対しての話である。実際に言葉を交わす紫は、従前に聞いていたほど偏屈でもないらしかった。
紫が黙ってしまったので、阿求も前を見る。
北の山の稜線は、まだ雨に白んでいる。厚い雲が影を落とした部分だけ、山はまだ朝を迎えられずにいた。
庭の隅に雀が舞い降りてくるのを阿求は見た。暫く玉砂利の上を飛び回った彼らは、餌の欠片も見つけられない庭に程なく飽きてしまい、やがて次々と朝の空に消えてゆく。
「……いつ気付いたのかしら」
紫が呟く。
「稗田の家の中では、早くに気付いていたことでもありました。妖精や自然の声音に耳を傾けて生きるのが、私達ですので」
「……」
「新聞記者の射命丸さんも騒いでおられました」
「……」
「勿論、その他の方々もです」
「……」
少しずつ言葉を継ぎ足す阿求の口舌を、紫は黙って聞いている。
その表情に、感情は読めない。従容としているようでもあり、達観しているようでもある。
立ち後れた最後の雀が、一際高い羽音を残して空へと消える。
紫の方を見遣る。
「――隠された真相なんて、最初から無かったのですね」
紫は、表情を変えなかった。
静謐な空気が、撫で上げるように場を支配した。
ゆっくりとした紫の呼気が、世界を止めてしまいそうな錯覚を導いてくる。
「生き物達が消えていったのは、正しくもあり間違いでもありました。確かに、沢山の妖怪達や人間達が消えてゆき、またそこに結界があったのも確かだった」
「……」
「私は正直、早くから、密かに貴方に目をつけていました。ですが、それは違うと教えられたのです。博麗の巫女に、八雲紫は関係ないと諭されたのです」
「あらあら、霊夢には感謝しないとねえ。危うく貴方達の軍隊に討伐されるところだったんじゃないの」
冗談めいた口調でそう言いながら、あくまでにこやかに紫は笑っている。
「……」
「……」
「……どうして、」
「?」
「どうして、壊れてゆくこの世界に手を貸して下さらなかったのですか」
静かに、阿求は口を開いた。
それは阿求が、事件を調査する間ずっと、胸に抱き続けていた疑問だった。
調べ上げる内に、紫が手を下しての事件でないことは判った。同時に、自分たちでは抗いようのない運命であることも悟った。
それに抗えるとすれば、阿求の考える中で、他ならぬ紫自身たった一人しかいなかったのだ。
その妖怪はしかし、安閑として泰然として、少しも動くことがなかった。阿求がやきもきする間にも、世界はどんどん壊れていった。阿求が手がけた妖怪達も、沢山消えていった。
その理由を、阿求は知りたかった。
「どうして、か」
紫は空を見る。
「だって、みんな最後は死ぬんだもの」
悠揚とした口調で紡がれたその言葉の意味が、阿求はその瞬間つかめなかった。
「生きとし生けるものは皆いつか死ぬのよ? そして輪廻し転生して、また新しい命になって生まれ変わるの。それを邪魔したら、仏様に怒られちゃうじゃない」
「そんなっ」
胸の奥に、拭えない靄が込み上げてくる。思わず張り上げそうになった声を、阿求は辛うじて自制した。
靄はどんどんと蟠って、阿求の意識を埋め尽くしてゆく。
「幻想郷の住人達が、次々消えてゆくのですよ? あまつさえ貴方は藍さんまでも見送った」
「……」
「本当は橙さんのことだって気付いていたんでしょう!? どうして助けようと思わないのですか! 悲しいと思わないのですか!?」
昂ぶる感情が、言葉を次第に上ずらせる。
「悲しい? どうして? 生き物だって草花だって、みんな生きては死んで、また次に生まれ変わってゆくのよ」
「そんなの詭弁です! 生き物どころか今、この幻想郷という世界さえ壊れようとしているのに!」
「世界が輪廻しないなんて誰が決めたの」
「――」
くっと、阿求は息を詰まらせた。紫の目が、まっすぐ、冷たく射抜いてくる。
必死で、反駁の術を探す。
探す。
探す。
――不意に、紫がぷっと吹き出した。
「うふふ、分かりやすい子ねえ。本当、分かりやすいわ」
猛烈な、あまりにやるせない何かが、阿求の胸に蟠った。
「……貴方は本当に、冷たい方だったのですね。いい加減なことばかりを言って、消えてゆく子達を見殺しにして。大切な幻想郷が壊れてゆくのを笑って眺めて。それが真相なのですか」
「何とでも言いなさいな」
紫は朗らかに笑う。
「……もういいです。私達は私達で、最後まで足掻いて見せます」
そう言って阿求は、縁側から立ち上がろうとする。
その足を、肩を、不意に何かが掴んだ。
「きゃっ!?」
慌てて下を向いたそこに、手があった。
腕ではない。まさに手だけが何もない空間から突き出して、阿求の足を払い、肩を引き寄せて、立ち上がろうとした阿求に元通りの尻餅をつかせていた。
きっと、紫を睨み付ける。
(……!)
信じられない物を見た気分になった。
悔しげに瞳を歪めた紫が、そこにあった。
「な、」
阿求が言葉を投げようとしたその瞬間には、もう紫の表情は元に戻っていた。
どこか胡散臭い笑みを浮かべて、くすくすと扇子を口元にやる。
「――言ったとおりよ。嘘はついてないの」
唐突だった。
「この世界が現実か夢かなんて、誰にも判らない。だけどね、世界もまた命があるのよ。この世界が誰かの夢によって作られた世界なら、その誰かがそっぽを向いてしまった瞬間、この世界は瓦礫になるの」
「そんな――夢は夢です、ここは現実でしょう、誰かの夢だなんて」
「現実が夢じゃないなんて、誰が決めたかしらね?」
詭弁だ。
心の中で阿求はそう言い返す。
それを口に出して言い返してやりたかった。なのにどうしても、口に出せなかった。
言い返すために紫の言葉を反芻するのが、なぜかとても怖いと思ったのだ。
美しい庭が、空が、森が、雀たちが、今座っている縁側が、それを考えた途端飴細工になって溶けてしまいそうに思えた。
「この世界は、もうすぐ壊れる。それは私にも、どうにも出来ないことなのよ」
そっと横目に紫を見る。そのまま阿求は、息を呑んだ。
紫はあくまで、穏やかに笑っていた。自然を愛するように、生き物を愛するように、菩薩様のような笑みを湛えて視線を宙に漂わせている。
その瞳に、うっすらと、涙が光っていた。
言葉を震わせるでもなく、嗚咽に噎ぶでもなく、ただにこやかな笑みを浮かべて、八雲紫は泣いていた。
ごめんなさい。
そう言うべきだっただろうかと、阿求は自問する。
霊夢はあの時言っていたのだ。この異変で紫が動かないのなら、あいつ自身の手は何も関係ない。何かあったらあいつは動くわ。動かないって事は、動かない理由があるのよ。
暢気な口調で、霊夢はそう教えてくれた。
この世界を、今の世界を救う術には、もう縋ることは出来ないのだ。八雲紫の涙がその証拠だ。
胡散臭くて、信用がおけなくて、いつものらりくらりと誤魔化されて、まるで昼行灯のようで、結界のことさえも放っぽらかしている名ばかりの妖怪。
それは違っていた。阿求は忘れていたのだ。
――八雲紫ほど、幻想郷と真摯に接し、その世界を愛している者は居ないということを。
紫の切なげな視線が見えて、阿求は心の中で、そっと、先の失言を詫びた。
そしてその視線の先を、無意識のうちに追う。
「あ……」
そこで、思わず息を呑む。
遠く山の稜線に、鮮やかな虹が架かっていた。
明け方の天気を崩させた厚い雲はまだ変わらず遠くで雨を降らせ続けていて、しかし雲が切れて覗いた朝陽がそれに当たり、鮮やかな七色の弧が山から山へ架かっていた。
縁側には、燦々とした朝陽が降り注いでいる。庭は勿論、綺麗である。空は青い。雲は高い。雲雀が囀っている。
「……大丈夫、死ぬ者は皆転生するわ。この世界もいつか、また違う命で溢れかえるはずよ。夢を見る者が在り続ける限り、いつかまた命が巡る時が来る」
「……でも」
「それまで、」
阿求の言葉に耳を貸すことなく、紫は縁側から立ち上がり、庭に背を向けた。
阿求に、もう、手は残っていなかった。
「それまで私は、おやすみなさい」
そのまま紫は、屋敷の奥へと歩き出した。
黙って阿求は、それを見送る。
真っ白な朝陽に、大妖怪が静かに背を向ける。
世界がどうなるのか、阿求にはまるで判らなかった。
結界の沙汰について、稗田の民が手を出すことは不可能に近い。また世界そのものが壊れてゆくというなら、消えていく命に手を差し伸べることも出来そうにない。阿求が幻想郷に居るからには、どう足掻いても、所詮は釈迦の掌の上だろうと思う。
世界が流転する行く末に、そして阿礼乙女が記してきたであろうこの世界の来し方に、阿求は遠い想いを馳せた。どちらも到底及びのつかない世界である。自分が生きている今の幻想郷も、或いは阿弥や阿七が著した頃の幻想郷と違うのかもしれない。それに自分が気付いていないだけなのかもしれない。
幻想郷がどう変わってゆくかは判らない。今と同じようにその世界を愛せるかどうかも判らない。
判らないが阿求には――あの山に架かった七色の虹が、絶望的なものだとはどうしても思えないのだ。
いつかあの七色の橋が、また愛しうる未来を連れてきてくれる。
そんなことを、思わずには居られないのだ。
幻想郷の夜明けに架かった虹を、八雲紫の涙を乾かしてくれたその虹を、阿求はしっかりと、しっかりと胸に焼き付ける。
そしてゆっくりと、縁側から腰を上げた。
「おいとましますね、紫さん」
ぱたん、と、襖を閉じる音だけが答えた。
雲が晴れてゆく。
幻想郷に、朝陽が昇ってゆく。
無人になった屋敷の庭に、ひらりと、胡蝶が舞った。
* Epilogue *
「じゃあ、また明日ね。今日はゆっくり休みなさいねメリー」
「そっちこそ、今からでも寝ちゃいなさい蓮子」
秘封倶楽部の研修旅行、解団式。
子供のように無邪気に手を振るメリー、その掌には、火傷のあとがある。
蓮子は思う。夢と現実が別物であるなら、やっぱりあの世界は、現実だったのだ。
メリーの火傷が、その証拠なのだ。
……多分。
「ねえ蓮子、最後になったけど」
「何かしら」
「……私達、神隠しにあってたのよねえ」
感慨深げにメリーが呟く。
「何か凄いことよね、これって」
「うーん」
それは蓮子が言おうか言うまいか、迷っていたことだった。
どうでも良いことだと思った。ただその反面、この素敵な旅行の最後のお土産には、ちょうど良いかとも思った。
「あのね、メリー」
蓮子はメリーの方へ向き直る。
メリーが首を傾げる。
素敵な旅行のクライマックス、あの結界の中で、赤と青の少女は消えてしまった。そして自分たちだけがすり抜けた。
それはつまり、こうは考えられないだろうかと思うのだ。
「――本当に神隠しに遭ったのは、一体誰だったんだろうね?」
☆Fin.
秘封倶楽部の世界と幻想郷を繋ぎ合わせる! という誰もが一度は考えそうな作品だけに、構想はじっくりと練り、お陰様で前回に続き驚きの高評価を頂きました。二つの世界を繋ぎ合わせる「穴」が、この第4回こんぺのお題です。 現時点では、私のweb発表作品中で最長不倒のボリューム作品。またタイトルは、某ジブリ映画の米国発表時のタイトルから。和訳は「神隠し」です。 沢山のキャラクターを出して、一人ひとりに見せ所を作って物語にするのが好きです。一つのストーリーとして、本作は自分でもお気に入りの出来映えになりました。 ところでなにげに、阿求さんが私の作品に登場したのはこれが初めてだったり。 |
(初出:2007年6月2日 第4回東方SSこんぺ 全82作品中3位) |