【指定席(前編)】




  みんなの声が聞こえる。
  楽しかった日々のみんなの姿が、そこに見える。

  別れ離れても、いつも一緒に「生きていた」みんなへ。
  とっても、大好きでした。ありがとう。



  大切な思い出が燃えていく。全てが灰になっていく。
  炎が、目の前まで迫ってきた。

  神様。もし居るのでしたら。この身が消える前に、もうすこしだけ、時間を下さい。
  たいせつな人の為に、あとすこしだけ、時間を。



  最後に精一杯の力を込めて、わたしはこの約束を―









-----

  「気をつけてね、行ってらっしゃい」


 朝早く出て行く父。
見送る娘は、今日も私一人だった。

 私以外の娘達は、父が出かける様な早い時間には起きてこない。
日が高くなるに連れて一人起き、二人起きしてくる。
 そして…その日も三人目は、一番幼い妹だった。


  「レイラ、もっと早く起きて頂戴。食器が片づかないわ」


 母親のような言葉で、私はいつものねぼすけを急かした。





 母が夭折し、この家は長女の私が守っている。
次女の陽気さに疲れ、三女の狡猾さに振り回され、そして四女の幼さに手を焼く。
 毎朝父にからかわれるまでもなく、毎日天手古舞いの日々だ。
それでも私は長女だから、それなりに自覚があったわけで、自分に妥協は許さなかった。
家のことを隙無くこなし、妹達にも気を使って、一家を切り盛りした。



 遙か彼方、遠く聞こえる銃の音。
 時代は、戦争の真っ只中にあった。
 昔は平和だったこの街にも最近、戦火の手が忍び寄ってきた。

 私はいつも不思議だった。命を賭してまで曲げられない宗教とは一体何だろう?
神のため神のためと奮い立っては斃れていく憐れな人たち。
この世界はどうにかなってしまったの?

 この宗教戦争が始まって以来、父の朝は早くなり、家を空けることも多くなった。
貴族であるゆえ自らその手に銃を持つことは勿論なかったし、そもそも戦争に加担することもしなかったが、
街に生きる貴族として、父は父なりに、背負うものを感じていたのだろう。
毎日出かけては、街の平和の為に働いていた。


 神のためと街を焼き、人に銃を構え、自分も斃れる、それの何が英雄だ…
父は口癖のようにそう言っていた。
 悲壮な父の背中。それはひょっとしたら、どこかの「英雄」が放った銃弾に斃れた母への、
せめてもの償いだったのかもしれない。


 
 そんな父に、心配などかけられない。
こんな中で妹たちを守れるのは、姉しか居ないと思ったから。
 銃弾から守る盾にも、母を失った悲しみの癒しにもなれやしない無力な私だけど、
それでも私達が幸せに生きる為に、私の責任は重い。



  「まったく、毎朝寝坊ばっかりして…さ早く食べなさい」



 そうして私は今朝も、責任感の塊を末の妹にぶつけた。





-----

 ごちそうさま!と一言言い残して庭に出るレイラを見ながら、
私は窓の外に目をやる
 見れば空から、白い粉雪がはらはらと舞い落ちて来た。



 今年ももう終わりが近い。
最後まで、この家は何か満たされないまま一年が終わっていく。

 今度晴れたらピクニックに行こう、次の休みには演奏会をしよう…
毎週のように父や妹とそんな話をしたのに、一度も実現しないまま、幾度もの休日が過ぎた。
 金曜日の夜はいつもキッチンのテーブルにお弁当箱や水筒を支度したのに、
一度もそれに中身を入れる事は無かった。

 まるで決まり事のように土曜の朝に戻す道具。
どことなく悲しげなお弁当箱に、随分と父を…いや、この時代を恨んだものだ。

 街を焼いていく炎は容赦がない。
私達の大切なものを次々と、「灰」に変えていく。

 ふと窓を見れば、いくつもの粉雪が窓にぶつかり、煌めいては消えていった。




 ――…



 不意に、レイラの声がした。
気付けば横に、心配そうな顔。
どうやら知らぬ間に目を閉じて、後かたづけの手を止めてしまっていたらしい。

 小さくため息をつき、目を閉じ首を横に振った。
そして、なんでもないわと言葉を継ごうとした私の目の前に、不意に何かが突き出された。
ふわりと優しい香りが、鼻腔をくすぐる。

  「?」

 ようやく目の焦点が合って視界に現れたそれは、小さな白い花だった。
薄く黄色がかった、可愛らしい花だ。

  「どこから採ってきたの?これ…」

 お庭から、とレイラは答えたが、どうもしっくりこない。
屋敷の庭に、こんな花が咲いていた記憶がなかった。
一つだけ咲いてた、と言うレイラの言葉を信じれば、きっと何かに紛れて、一粒だけ種が落ちたのだろう。

  「だめじゃないレイラ、花は生きてるのよ。
   あなたが摘んじゃったから、この花は死んでしまったわ」

 横からメルランが意地悪を言う。
 どれだけご大層な花でもないのだが、それでもレイラには堪えたらしく、
しんじゃったの…?と小声で呟いている。

 私はここぞとばかり、身を乗り出す。


  「そうよ、花も一本一本生きているの。
   私達一人一人が息をして、こうしてお日様の下で生きてるのと同じように、
   この花も呼吸をして、お日様を浴びて、一所懸命生きていたの。
   花も生き物、大事な命なの。摘んでしまったら死んでしまう。大切に扱わなきゃだめよ?」

 
 私の言葉に、こくん、と頷くレイラ。

 こういう情操教育も姉としてのつとめ。
人間として情緒が豊かになれば、それだけ優れた音楽を作る土壌となる。
 メルランやリリカは口々にまだ早い等と言うが、何も難しいことではない。音楽は人を癒す物なのだ。
作る人、演奏する人が他人を癒せなければ、心に響く音楽など作れはしない。
その為には…「三つ子の魂百まで」というやつである。


 一歩外に出れば、いつ殺されてもおかしくない時代。
庭の小花なんかよりずっとたやすく、簡単に命が摘み取られていく。

  「どっちが雑草なのかしら…」



 レイラはその花を手に持ったまま、どこかへ駆け出していく。
 そのレイラの手の中で、花が泣いているように見えた。
 

  「もう。レイラに変なことばっかり教えないでよ」

 傍で聴いていたリリカが口を尖らせる。

  「何が変な事よ」
  「いや、だから…」

 きっぱりとした私の言葉に、むう、と口を噤むその姿に、私はため息をついた。
分かっている。リリカは必ずしも、幼い頃からレイラに堅苦しいことを教え込むことに賛成していない。
音楽なんて好きならば良いの、要はセンスよ、というのがリリカの口癖だ。


 私自身それは否定しないし、その言葉に説得力があるだけのリリカの才能も知っている。
でも、その音楽をより楽しんで貰うために、私は自分のやっていることを間違いだと思ってはいなかった。
 それに、リリカの場合は単純にレイラに甘いのだ。基本的に。



 音楽は難しい。
例えばどんなに優れた音楽でも、演奏が下手では台無しだし、聴く者が鈍ければ馬耳東風。
その上聴く者の気持ち次第ではうるさいだけだし、更にそれらが最高に上手く行っても、
長く聴けば飽きて嫌になる。

 では何が優れた音楽だというのか…その問いはきっと、出口のない迷路だ。
だから答えが出ないまでも、優れた音楽への努力と工夫だけは惜しまないようにすれば、
それが優れた音楽への道になるのだろう。

  「ほら、また手が止まってるわよ!」

 リリカに茶化されて、再び我に返る。
考え事をしていたとはいえ、こうも度々手を止めてしまうのは、きっと疲れているのだろう。

  「良いから、アンタはレイラと遊んでらっしゃい」

 そう言って私は吹っ切るように、いささか乱暴にレイラの食器を片づけたのだった。




 レイラは素直で聞き分けが良かった。
私の言うことも、しっかり飲み込んで理解してくれた。

 それからしばらく、レイラは私に「いのち」を伝えに来た。
あそこで綺麗な花が咲いていたよ、庭にかわいい子犬が来てたよ…
毎日のように嬉しそうに報告するレイラの姿が、微笑ましかった。



 そんなある日。その日も、レイラは私に何か言いたそうな瞳を向けて歩み寄ってくる。

  「今日は何を見つけたの?」

 先を制して、私はレイラに問いかける。

  「鳥のヒナ!」

  「ふうん、ヒナ鳥ねえ。
   …ヒナ?どこに?」

  「屋根のところ」





 レイラに案内され出てみると、確かに軒先に、小さな鳥の巣が作られていた。
中から小さなヒナたちが、親鳥の帰還を、鳴き声を上げながら口を開けて待っている。
3羽…4羽かしら?


  「よく見つけたわねえ、あんなところの巣を」

  「あの鳥達も、生きてるんだよね」

  「そうね。鳥のヒナは沢山の危険に狙われているの。
   いつ大きな鳥に食べられてしまってもおかしくない。
   だから親鳥が、一所懸命世話しているのよ」

 私はそう説明して、家に戻った。
しかしその後も、鳥達のことが気になった。



 それから毎朝、鳥達の様子をひそかに伺うのが私の日課になった。
親鳥は懸命に世話をして、ヒナたちに餌を運んでくる。
そのおかげですくすく元気に育っていく鳥達を、私は毎朝じっと観察していた。






 そう、あの日の朝も。
 そうやって私はいつもどおり観察した。

  「へえ、そんなのがあるの」

 食堂に戻ると、珍しくリリカが早起きをしていて。
私はそのことを食卓で紹介したことを覚えている。 
マグカップにコーヒーを注ぎながら、私は得意げに説明した。

  「そう、それで親鳥も一所懸命でね。
   見てて可愛らしいし、いじらしくて」



 説明しながら、なんとなく私は、鳥達に惹かれる理由が分かってきた気がしていた。
きっと私は、自分達の姿を無意識に重ねているのだろう。
 幼い子達の為に、必死で羽ばたき世話をする親鳥と、沢山の危険に囲まれながら
何とか生きようとする小さな命。
 そう考えるとまるで、私達の写しのようにも見えた。

 目の前に、私が守るべき命がある。
そのために私は、出来る限りのことをしてあげなければ。
何しろ我が家には、親鳥が一羽居ないのだから。

 鳥達の姿に、私はまた一段と、決意を固めた。




 まさに、その直後だったのだ。 




  「ねえ、その巣、見せて!
   どこにあるの?」

  「ええ、こっちよ…」

 リリカが席を立ち、私も飲みかけのコーヒーを手にしたまま立ち上がり、 
二人が歩きだそうとした瞬間。



 呼び鈴が鳴った。


 
 誰かしらと訝しむも束の間、迎えもしないのに見知らぬ男が勝手に居間に入ってくる。
その男の鬼気迫る表情が、只事ではないことを知らせていた。

 彼は一つ呼吸を整えると、上気した顔で、一言だけ叫んだ。




  「公爵が亡くなった」



 

 手からマグカップが滑り落ち、床に砕け散った。
 凄まじい破壊音に驚いた親鳥が、巣から飛び立つ羽音が聞こえた。










-----


 それからの時間は、あっという間に去った。
 気が付いたら、年は明けていた。


 私達には悲しむ間さえなかった。
葬儀を済ませ、広大な屋敷を片づけ、やっと落ち着いた頃には一月も半ばになっていた。



 

 父の死は事故だったそうだ。
街の道を歩いていた時、どこかの誰かが撃った銃弾が、父を貫いたという。
撃った人は分からない。父を殺したことを知っているかどうかさえ、分からないそうだ。
何も知らない人間の手が、また一つ命を消した。それも、たった一つの、大切な命を。

 それは余りにも残酷すぎるほど、「ありふれた」ことだったのだけれど。




 遺品を整理し、片づけ終えたこの屋敷は、4人の姉妹だけで住むには、あまりに広大だった。
狭いより良いと人は言ったが、無駄に空間があると、色んな事を考えてしまうのだ。
父の思い出も沢山あるこの場所だが、いつまでも思い出に縛られているわけにもいかないし、
何より私達だけでは暮らしていけない。

 危険なこの街を考え、私とメルランの二人は、父の伝を頼り、別の街へと移り住むことに決めた。



 顔の広かった父のお陰で、意外にもすんなりと私達の「疎開先」は決まった。 
そして、私達に示されたその行き先は…4つあった。

 幼い妹もいるし出来れば避けたかったが、やはり4人も一手に世話をしてくれるところがあるはずもない。
 何より世話をしてくれる大人達に、そんな我が侭が言えるはずもない。





  「今朝、叔父さんから話があってね…私達、離ればなれになることになった」


 大事な話があると、一つの部屋に集めた妹達を前にして。
 出来るだけあっさりと、私は要点だけを告げた。
どう前置きしても残酷すぎると考えて、それならばと、単刀直入に事実を告げたのだ。

 それが妹たちに出来る、精一杯の心遣いだった。



 案の定3人は口々に異を唱えたが、私は必死に事情を説明した。
一緒に世話をしてくれるような人が今はいないこと。このままここにいても危ないし、生きていけないこと。
街が平和になるまでの避難で、その後はまた一緒に暮らせること。

 私の説得に、メルランもリリカも、渋々首を縦に振った。
彼女達も、ある程度事情は知っている。ここで意固地になっても
どうにもならないことを、理解してくれているだろう。

  「この家は、どうなるの?」

 リリカが不安そうな目を私に向ける。

  「叔父さんが管理してくれるって。傷まないようにはしておくからって…」

 どことなく、安堵感のようなものが流れた。

 私だけじゃなく、姉妹みんなにとってこの家は、何より大切な、父との思い出だ。
離れるのは辛いし、いつかは戻りたい場所。
自分が帰るまで、なんとかこの家だけは…みんながそう思っただろう。

  「そうね…この家が残っているなら、きっといつか…」
  「ええ。街が落ち着いたら、また一緒に…暮らしましょうね…」

 メルランの言葉を、私もそのまま、自分に言い聞かせた。
いつか、また。

 きっと…? 

 いつか…?


 分かっている。
 私達は、恐らく…




 

  「本当に…また一緒に…暮らせるよね…?」


 リリカが震える声で、不安を代弁する。



 誰も、答えることが出来なかった。
 誰もが分かっていた。

 親を失った私達が、この危険な時代、離れ離れに移り住んでいく。
そんなことをすれば…どうなるのか…



 窓の外遠く、また銃の音が聞こえる。
 長い静寂が、部屋を支配した。

 …




  「わたしは、ここにいる」




 不意に、それまでずっと口を噤んでいたレイラが喋った。
 私は、その意味するところを一瞬理解しかねた。

  「ここに…って何言ってるの」
  「ここにいる」
  「だから言ったでしょ?ここは危ないって」
  「お願い」

 泣きもせず、騒ぎもせず。
 静かな眼に凛とした意思を湛えて、レイラは強い口調で私に迫った。
 そこに、いつものあどけない面影はなかった。
 あるのは、人生の一大決意を果たし、梃子でも動きそうにない頑なな視線だけだ。

 
  「ちょっと待って」

 私は必死でそれに抗った。

 この街が危険だからという理由でこの地を離れようとしているのだ。
それで一人だけ、まして末っ子がこの場に残るなど、冗談じゃない。


  「お父さんのことを忘れたの?」
  「…」
  「この街が危ないのは分かっているでしょう?
   またいつか暮らせるから、それまで辛抱して頂戴」
  「嫌」
  「レイラ…」

 まるで取り付く島もないと言った有り様に、私は困った視線を他の妹に向ける。
彼女らもまた、いつもと違うレイラの頑固さに戸惑っている様子だ。

  「レイラ、ルナサの言うことを聞いて」

 見かねたメルランが助け船を出すが、レイラは首を横に振るだけ。

  「レイラ、お願い。我侭を言わないで」

 私の言葉にも同じ。
そして、私の目をまっすぐ見つめた。




  「だって、ここにお父さんがいるから」


 つぶやくようにぽつりと、レイラは一言だけ言った。

  「レイラ…」

  「お父さんはここにいる。だからわたしも、ここにいる」




 レイラは強い口調で、改めてそう言った。
 凛然とした態度と、どこと無く空恐ろしささえ感じる鬼気迫る表情に、誰もが押し黙ってしまった。
 

 それっきり、私達が何を言ってもなだめても、レイラが翻意することはなかった。



 生まれるのがあと100年早ければ、私達はきっと仲の良い姉妹として、
優しい父と母の元、この屋敷で何事もなく生きていただろう。
 勿論生まれた時代を恨んでも何も解決しはしない。それでも、ただでさえ多感な歳の姉妹なのに、
急に生涯の別れになるかも知れないとなっては、そう容易に受け入れられるものではない。
まして、亡くした父や母との思い出が詰まった屋敷だ。



 私は仕方なく、件の叔父に相談し、どうにかレイラをこの屋敷で世話して貰うことになった。
平身低頭の私に叔父は、必ず迎えに来なよ、と、私の目を見て言ってくれた。


 あとでその事を告げると、勿論メルランやリリカは反対した。
一番幼い妹が一番危険なところに残るとなっては、到底受け入れられるものではない。
それは良く分かっているし、私も内心その不安が無いといえば嘘になる。

 それでも、私は叔父の力も借りて何とか二人を説得した。
私はいささか強い口調で二人を半ば強引に説き伏せ、事は決まった。





 話を合わせ、私達3人は同じ日の同じ時に、この家を後にすることが決まった。
その前の夜、私達は父の部屋に集まった。

 いつもはみんな、好き勝手自分の部屋にこもるのだが、今日だけは、みんなと一緒に居たいと、誰もが思った。
そこで、思い出の父の部屋で、最後の床に就くことにした。



 父の大きなベッドに並んで寝る、4人の姉妹。

 もちろん…と言っても良いだろう、誰も眠ってなどいなかった。眠れなかった。
他愛もない話が誰からともなく振られては、誰からともなく応え返した。
 普段なら寝て起きれば忘れているようなそんなやりとりが、いつまでもだらだらと続いた。



 もう僅かな時間しか、残されていないことをみんな知っていた。
だから、残酷な朝陽が昇るまで、私達は布団の中別れ盃の如く、とりとめもないお喋りを続けた。
このお喋りが出来る明日が、もう二度と巡ることはないのだ。
ひとときでも長く、この大好きな妹たちと、最後の「姉妹」を楽しみたい…私は布団の中で、涙を堪えるのに必死だった。

 夢ならまたいつか見られるだろう。遠く離れても、いつだって見られるだろう。
でも、夢じゃない妹たちの温もりは、今日で終わりなのだ。
 そう思うと、睡魔などどこかへ消え失せた。
眠りの淵に足を踏み入れる時間など、もったいなくて仕方がなかった。



 時計の針は残酷なまでに正確に時を刻み続ける。
居間に置かれた柱時計の鐘の音が部屋まで聞こえてくる度、私達の会話は途切れた。

 その回数を一回ずつ増やしながら鐘は、まるで死刑執行台のカウントダウンのように、
私達に与えられた未来をどんどんと削り取っていく。



 哀しいほどに時はあっという間に流れ去って、鐘は、とうとう6つを一気に叩いた。
 私の頬に、薄日が当たり始める。



 もう時間は無いと思った。
 この「夢」を伝えられるなら、今しかない。



  「レイラ…」

  「なに…?」

  「聞いて欲しいの」



 レイラの首がこちらを振り向くのを枕の音で感じながら、私はレイラに背を向けたまま、ゆっくりと話した。



  「あなたに頼みたいことがあるの。
   私達はきっと、何とかしていつか戻ってくる。
   何があっても、必ずもう一度、あなたたちと一緒に暮らすわ。

   だからそのときまで、私達の楽器を預かっていて欲しいの。
   私のヴァイオリンと、メルランのトランペット、リリカのキーボードや打楽器。
   それを、あなたに…」

  「良いの?持って行かなくて」

  「良いのよ。私達の楽器は、一人では音楽を奏でられない。
   三人が揃って初めて、あの楽器達は意味を持つの」

  「…」

  「あの楽器は、ここに残しておいて。
   そして、きっちりと手入れもしておいて頂戴。
   私達3人がいつ帰ってきても…すぐにまた、プリズムリバー楽団で演奏会を出来るように」

  「分かった。分かったけど…」



 レイラが口ごもる。



  「何?」

  「わたしも、ひとつだけ頼みがあるの」

  「良いわよ。言いなさい」

  「みんなが帰ってくるまで、わたしあの楽器を掃除しておく。
   いつでもコンサート、出来るようにしておく。

   だからその代わり…みんなが帰ってきた時は…わたしを…
   いちばん最初の、コンサートのお客様にして!」



 空元気を振り絞るように、レイラは最後に、震える大声を出した。






  「バカ…そんなの…」




 あとの言葉が、続かなかった。
 どうしようもなく、止めどもなく涙が溢れた。

 隣の布団からも、その向こうからも…堪えきれない嗚咽が聞こえる。
 枕に、いくつもの滴が落ちた。

 元々、父の枕だったものが涙に濡れていく。  
 なんだか、父も一緒に泣いてくれている…そんな気がした。



 哀しい運命に翻弄されながら、レイラはこんなに逞しくなりました…
私は枕についた涙の染みを見ながら、胸の中で父に報告した。
 


 


 レイラが意地を張った時、当然ながら、泣こうが喚こうが力ずくで屋敷から引き離すことだって勿論出来た。
というか、それが最善の選択だっただろう。

 それをしなかった理由。私には希望があった。
レイラがここに居てくれれば、いつか彼女を中心として、4人の姉妹が再会出来るんじゃないか…そう思っていた。

 根拠ももちろん無いし、幼いレイラに勝手にそんな役を負わせるのは自分勝手だとも知っていた。
ましてそれが危険な場所であるから、姉として散々迷った。


 それでも、最後に私は一つだけ、レイラの我が侭に負けないくらい、私の我が侭を通すことにした。
見たこともない場所へたった一人で移り住んでいく3人の姉達にとって、妹がこの家に残っていることは
必ずや未来の希望になる。



 レイラの小さな手には、幸せの扉の鍵が握られた。
それを使う時は、いつになるのだろう。
やがて時代が変わり、再会の機会が巡った時。そのときまで私は、元気に生き残っていられるのだろうか。

 いや、私だけじゃない。4人とも、生き残っていなければいけない。
この時代にあって、それがどれだけ困難なことか…みんな分かっているはずだ。



 それでも、信じたい未来がある限り、頑張ろう。  
 もう一度、みんな揃った明日を迎えたいから。



  「メルラン、リリカ、楽器を持って」
  「「え?」」

  「最後のコンサートよ。
   …ううん、『活動休止前最後』の…コンサートよ!」


 私は勢いよく、布団から跳ね起きる。
メルランもリリカも、涙を拭いながら立ち上がる。



 手にした私のヴァイオリンには、埃が積もっていた。
父の死以来、楽器など構っている暇がなかったから。



 それぞれ軽く埃を払い、3人は楽器を構えた。



  「レイラ…曲は何が良い?」

  「何でも良いよ」

  「じゃあショパンの『別れ』を…
   いや、別れだけど別れじゃないもんね…それはまずいか」

  「うーん…じゃあ、楽しい曲が良いな!」


 レイラはニッコリと笑って、そう言った。
私も、メルランもリリカも笑い返す。





  「オーケー、じゃあ飛びきりのヤツを演奏しよう。

   本日は『プリズムリバー楽団』コンサートへ、ようこそ!」



 私の改まった挨拶に、一人だけの拍手が部屋に響く。



  「それではご静聴願います。
   私達のオリジナル曲、『幽霊楽団-phantom amsemble-』です!!」



 リリカのキーボードが、ソロのイントロを奏でる。
私とメルランが、それに同調していく。

   氷柱のようなリリカの細い指。
  白黒の絨毯に踊れば、一人オーケストラのキーボードだ。
  彼女の十指が生む音色で、音楽はぐっと厚くなる。





 曲が転調する。ここはメルランが主旋律をとる。
徐々に盛り上がる音楽。3人の動きが、大きく激しくなっていく。

   軽やかな高音に変わっていく彼女の吐息
  ソファの温かさと、軍隊の勇敢さを兼ね備えたトランペット。
  聴くだけで気持ちを昂ぶらせるような、元気の出る音。





 曲はいよいよサビにかかる。
私とメルランとリリカ、三人が好き勝手に演奏しているように見えて、絶妙のハーモニーを生み出す。

   私の手に握られた、弓という細い棒。
  私のヴァイオリンは、癒しの音色。
  穏やかな波のような音の芸術で、聴衆は静かで落ち着いた時間を手に入れる。





 音は激しく、そして楽しく奏でられていく。
レイラも楽しそうに見てくれている。


 別れの悲しさは、今ひととき、その存在感も薄れていた。
ずっとこんな時間が続けば…と、4人はそれぞれ、心で願った。



 私達は渾身の力で、一番大切な人のための、たった一人のためのコンサートを終えた。






-----

 その朝は、雨だった。
旅日和とはいかなかったね、とリリカは言ったが、
まるでその雨が私達の別れを邪魔してくれているように私には見えて、なんだか有り難うを言いたい気分だった。



  「さて、行きましょうか」

 私はつとめて明るく、二人の妹に声をかけた。
 行きましょうか、と言っても、三人は目の前の十字路を、それぞれ別の方へ進んでいくのだから、
誰を誘うわけでもないのだけど。

  「じゃあね、レイラ。また…いつかね」

 また緩みそうになる涙腺を必死で引き締めて、私はレイラに声をかける。
するとレイラはぽつりと、静かに言葉を口にした。


  「わたし、もう花は抜かないから。」

  「え??」

 何を言っているのか、私は理解しかねた。
 戸惑う私を見ると、レイラは庭先に咲く、小さな花を指さしながら、私に向き直る。






  「花は生きてるんだよね!
   どんな花も、一本一本生きてる。
   鳥さん達と、一緒なんだよね!

   わたし、もうお花、抜いたりしないから!」




 
 力強くそう宣言する、懸命に生きようとする一輪の花。
 その頭の上を、今日も親鳥がヒナの幸福のため、大空を羽ばたいていった。




【指定席(後編)】
                







 それからしばらく、私達は互いに手紙をやりとりし、消息をつかみ合った。
レイラも叔父の元、あの屋敷で楽しく暮らしていると手紙に書いて寄越してくれた。
 まるで仕事の報告書のように味気なく現況を記した、せいぜい一枚二枚の
薄っぺらな紙切れだけが、私達がどこかで生きている証だったのだ。

 しかし、時代はそれさえも次第に許さなくなってきた。
戦火は激しさを増していき、3人からの手紙は次第に滞りがちになっていった。
毎週のように届いていた手紙が、3週間おきになり、1ヶ月おきになり…やがて3ヶ月経っても届かなくなった。


 いい加減心配が極限まで達した頃、ようやくレイラから手紙が届いた。
前の手紙から、半年近く空いていた。
 中には、長い間を開けた事への詫びは書かれていなかった。それから察するに、きっと
毎月書いてはいてくれたのだろう。届かなかっただけのことのようだ。
文はそんなわけで相変わらず他愛ない内容だったが、手紙その物が、レイラの生きている証。
内容は正直、どうでも良かった。

 と、そう思いつつも嬉しさの余り4度立て続けに読み返した。
5度目を読もうとして止め、それを夜寝る前の楽しみにとっておくことにして、
私は一度封筒に手紙を戻しかけた。
 その時、私は便せんに黒いものをみつけた。 

 
 それは、煤だった。
家の中で書いたであろう手紙に、煤が付いている。


 
 せっかく安心に満ちたはずの私の胸は、また不安というどす黒い雲に覆われていった。
あの街は、また一段と戦が激しくなっているのだろう。
それも、私達の屋敷の近くまで、本格的にその手は迫ってきているらしい。




  「そうか…煤ねえ」

 その日の夕食のテーブルで、私はその手紙を養父に見せた。

  「大丈夫だと思うよ。窓を開けていた時に入った煤かもしれないじゃないか」
  「ええ…それでも、戦争が激しくなっているのは間違いないです」
  「うん…そうだな」

 少し戸惑うそぶりを見せたあと、彼は私を見て笑いながら言った。


  「大丈夫だよ。レイラちゃんはちゃんと生きて、こうして手紙を寄越してくれた。
   メルちゃんもリリカちゃんも、きっと頑張って生きているさ。
   ほら、言うだろう?便りがないのは無事の証拠って」


 なかなかに矛盾した言葉を平気で言い放つ養父。
どうにも飲み込みきれずに私が不安そうな視線で返すと、「むう…うん」と唸って、視線を逸らしてしまった。

 この養父、実に素直な性格で、嘘がつけない。その上口下手と来ている。
口先だけでも励まして欲しい場面であっても、空元気というものが出せない。自己矛盾に気付いてしまうとそれを誤魔化せない人なのだ。
 そして私もこと姉妹のことになると真面目になってしまい、それを受け流すことが出来なくなる。
そして私の視線に耐えられなくなった彼は、視線を逸らす。

 そんな養父の困った顔を見て私はいつも、悪いことをした、という気持ちになるのだ。
どうにもお互い正直すぎるせいで、こういったことがしょっちゅうあった。 
 それでもそんなことを差し引いても、その不器用な優しさは、不安でたまらない私にとって大切な励ましであったことは言うまでもない。
だから私自身、彼の困り顔を見るたび、尚更申し訳なく思うのだった。




 それでも、時代は容赦なく、世界のあちこちを蝕んでいく。
 私達の街は幸運にも相変わらず戦禍とは無縁の日々を送っていたが、
入ってくるニュースは、焼け落ちていく街の名前ばかりだった。

 それを証明するかのように、やがてメルランやリリカからの手紙は、完全に途絶えてしまった。
こちらから何度手紙を書いても、それに応える消息の知らせが私の元へ届くことはなかった。

 たった一つの「生きている証」だった手紙の断絶。
 それは単に郵便システムの障害だけなのか、それとも…もう返事をする者がこの世にいないのか…
それさえも分からなかった。





 それからも何通かレイラからだけは手紙が来ていたが、しばらくしてやがて遂に、レイラからの手紙も途絶えてしまった。
私の元に届く手紙が全て途絶え、恐怖感と不安と孤独感に居ても立ってもいられなくなった私は、
元の屋敷へ行かせてくれるよう養父に頼んだ。
だが、当然あまりに危険すぎると却下された。

 私は結局、ひたすら筆を走らせるだけだった。
届くかどうかさえ分からない手紙を書き、そして返事を待ち続けるしかできなかった。
 そして、郵便の配達員を庭に出て迎えるのが、いつしか私の日課となっていた。 
僅かな可能性に賭け、妹たちの命の証を、私は信じて毎日待った。




 そうして気が付けば、時はまた冬になっていた。
妹たちの居ない日々は夢のように足早に過ぎ去った。味のないガムをずっと口にしているような、
何も変化のない毎日。
 それでも、みんなきっと、あの頃よりずっと大人びているだろう―
そう思うと逢えなくても、まるでその成長を横で見ているような錯覚に陥ることが出来た。

 あの別れの夜以来、数えて三度目の冬だった。



 その日も私は同じように、手紙を外で待っていた。
でも期待は空しく、いつも通り郵便屋さんは家の前を素通りしていった。
 これもいつも通り肩を落とし、寒い庭をあとにして家に入ろうとしたその時。
 私はふと、足下の鉢植えに目が行った。

 今まで意識してみたことがなかったその鉢に、小さな花がいくつか咲いている。
それは、見覚えある花だった。



  「これ…あの時の…」



 間違いない。あの時レイラが私に得意気に差し出した、小さな白い花だ。
時期的にも一致している。あの時も、冬だった。

 
 行儀良くプランターに植わっているその花を見て、私は納得した、なるほどあの花は園芸品種だったというわけである。
だから本来植えてもいない場所に咲いているはずも無く、私も覚えがなかったのだ。
たまたま何かに混じって種が一粒落ち、それがそこで花を咲かせただけのことだったのだ。


  「おじさ〜ん」
  「何だい?」

 私は傍で水やりをしていた養父に声をかけた。

  「この花、なんていうの?」
  「綺麗だろう?この時期に咲く花なんだ。
   でもどうして?」
  「ちょっと、思い出のある花でね。
   レイラがこの花を見せてくれたことがあって」

 いい加減な説明だったが、養父はそれ以上追及しなかった。
私がレイラに気を揉んでいることを、彼もよく知っているからだ。

  「庭から摘んできたんです。庭に咲いていたと言っていたけど、私も知らなくて。
   種が落ちて咲いてたんでしょうけど」
  「なるほど。
   たった一粒君の屋敷に落ちて、その庭で花を咲かせていたんだね。逞しい花だ」

 養父が何気なく言った一言に、何となく、私は嬉しかった。
結局レイラが摘んでしまったけど、一輪で孤独に強く生きる花が、庭に咲いてくれていたことが…
なんだかとっても、嬉しかった。


  「それで、なんていう花ですか?」
  「え〜とねえ、確か…」



 私はわくわくして、その名前を教えてくれるようせがんだ。
 なかなか思い出せない彼にやきもきしながら、返事を待っていた、その時。



 目の前の光景が、グニャリとゆがんだ。

 同時に、体から全ての力が抜けた。






  「あ〜そうそう、思い出した。その花の名…

   ん?おい、ルナ…」




 待っていた養父の答えを聞くことなく、膝が折れる。

 私の意識は、止めようもなく…真っ暗な深淵へと、沈んでいった。 







-----

 目が覚めると、私は病院のベッドの上だった。

  「大丈夫かい?」

 養父の声が聞こえる。
そちらへ振り向こうとするが、頭に力が入らない。
それでもなんとか、必死に養父の方へ眼を向けた。

  「私は…どうなったのですか…」

 弱々しい声で、養父に問いかけてみる。
 答えは返ってこない。
 ただ腕を組んで押し黙ったまま、哀しげな眼と困ったような顔を浮かべている。

  「おじさん…?」
  「大丈夫、過労だそうだ。
   すぐに良くなるから、心配しなくていい」

 彼は窓の方を見ながら、笑わない顔でそう言った。

  「本当に?」

  「…あ、ああ…」



 彼は目線を合わせてくれない。


 分かっていて愛らしかったいつもの彼の癖が、この日だけは、あまりに残酷だった。
 この人は、嘘をついている…


  「おじさん、お願いです。本当のことを話して下さい」

  「…」

  「大丈夫です、覚悟は出来ていますから」

 その一言が決め手になったのか。
 彼は腕組みを解いて、腹を決めたように、私に向き直った。










-----

 二週間後。私は、馬車に乗っていた。
 嫌がる養父の知り合いになんとか頼み込んで、送って貰えることになったのだ。
 どこへかって?節々が痛むこの体を引きずって向かう先など、一つしかない。


 馬車が揺れるたび、痛みと苦しみが体のどこかを休むことなく襲う。
 私は、歯を食いしばって耐えていた。



 


 長い時間の心と体の疲れが、私を蝕んでいた。
残された時間があと数ヶ月も無いという医師の非情な宣告を教えられた時、
私は目の前が、真っ暗になった。
口では「覚悟している」とは言ったが、流石にショックだった。

 なんとか治療する術が無いのかと詰め寄る私に、医師は「手遅れです」の一点張り。
養父も気を遣ってあれこれと私に言葉をかけてくれたが、慰みにはならなかった。




   次のコンサート、最初のお客様にしてね!―記憶の中で、レイラがあの日の約束を叫ぶ。


   時間が無い…焦りが頭をよぎった。




 
 もはや治す術がないならと、私は必死に医師や養父の知人に頼み込んで、こうして元の街へ向かうことになったのだ。
正直なところ長距離を動けるような体力も無いのだが、もはや躊躇する時間は残されていない。



 出かける事が決まると、連絡が途絶えて久しい3人の妹に向けて、手紙をしたためた。
迷いはしたが、隠しても余計傷つけるだけである、そう考えた私は、
偽ることなく正直に、自分の運命を書き記した。
そして、平和になった訳ではないけれど、自分の生きている内に約束を果たしたいから…と、思いを伝えた。
もし我が侭を聞いてくれるなら、今夜、約束の場所で会おう、と。


 妹たちがそれに応えてくれるかどうかは分からない。
そもそも受け取ってくれたかどうかさえ分からない。読んでくれる人がこの世にいるかどうかさえも。
それでも、もし受け取ってくれていたなら、今日の夜…



  「うっ…」


 胸が痛む。
 今治療を止めて長旅などすれば、下手をすれば明日をも知れぬと医師が制止した言葉は、どうやら本当だったらしい。
今の状態で馬車を降りれば、きっと立つことさえつらいだろう。

 それでも、妹たちの悲しむ顔を見たくはない。
約束のコンサートが終わるまで、私は死ぬ訳にはいかない。
だからこそ、医師の警告さえ私は振り切って、周りの迷惑も顧みずこうしてあの街へ戻ることにしたのだ。



 養父は責任を感じているようだった。
裏で医師から口止めされていた私の余命をばらしてしまったおかげで、この旅のきっかけを作ってしまったのだから。

 まだ夜も明けきらぬ早朝の旅立ちに、養父は涙を流して私に詫びた。
いくら私が慰めても、彼は子供のように泣き狂い、自分を責め続けていた。

 私はその彼の涙に負けないくらい、今まで世話になったことの感謝を告げた。
そして、ろくな御礼も出来ぬまま旅立っていく非礼を詫びて、後ろ髪を引かれつつもこの馬車に乗り込んだのだった。



 長い長い道を走る。
 自分がいかにあの屋敷から遠く遠ざかっていたかを思い知りながら
あの日々の記憶に思いを馳せる内に、辺りはすっかり夜の帳が降りていた。

 太陽に代わって空に昇った月の明かりが、うっすらと山の稜線を映し出す。
 それが、次第に見覚えのあるそれになっていく。





 私の胸は、いやがおうにも高鳴った。
みんなは、私を迎えてくれるだろうか。
あの日の笑顔が、待っていてくれてるだろうか。
希望と不安と、二つの思いが交互に胸を支配した。

 いや、笑顔はきっと無い。
私の余命を知った妹たちは、きっと泣き顔で私を迎えるだろう。
待ち望んだ再会がまた「お別れ会」になるなんてと、あの日以上の涙を流すだろう。

 だからきっと言おう。私は嬉しいと。
こんな短い間とは寂しいけれど、貴方たちにまた逢えることが、たまらなく嬉しいと言おう。

 レイラと約束したあのコンサートを開けたのなら、私は流れ落ちる時の砂その最期の一粒の瞬間を、
悔いなく笑って迎えられるからと。




  だから、必ず待っていてください。
  私は痛む胸で、必死に祈った。




 幌の窓を、そっと開ける。
 見渡す限りの闇。その向こうに、微かな灯りが見えた。

 久しぶりに帰る、私たちの居た街の方向だ。
それは間違いなく、あの街の筈なのに、でも、何かが違う。

 一瞬、その違和感の正体を分かりかねた。
そして、すぐに気がついた。

  灯りが、少なすぎる。



 馬車が街に入り、たまらず幌から身を乗り出した私の目に映ったのは、
あの華やかな街ではなかった。

 あちこちで笑い声が聞こえたはずの家は、半分も残っていない。
そこかしこ至る所に瓦礫が山を成して、幾本も立っていない街灯が暗く照らす道は、炭と煤で真っ黒だった。

 街を焼き尽くす炎が、頭に浮かぶ。
悲鳴を上げながら逃げまどう人々、口々に神の名を叫びながら銃を構える男…
不安は悪い想像となって、抑えきれず悪いほうへ悪いほうへと流れていく。
私は頭を振って懸命に振り払った。

 私達にとっては永遠のように長かったとはいえ、あれからまだ三年である。
なのにこの街の光景は何だ。何があったというのか。
 いや、何があったかなど誰の目にも明らかだし、私だってもう気付いている。
それでも、私は自分の目を信じる事が出来なかった。


 
 

   この街は違う。
  私が帰りたかったのは…こんな街じゃない。





 たまらず、走る馬車から飛び降りた。
力の入らない足は簡単に膝が折れ、私は地面に叩きつけられた。
同時に、体中の内と外から、猛烈な痛みが襲う。

 馬車の御手が何かを叫ぶ。
私は痛む身体を無理やり引きずり起こすと、御手に礼も告げず、必死で走った。
どこへ行くのかって。そんなものはもう一つしかない。
もう、この目で確かめずにはいられない。

 必死で走った。
途中何度も転び、躓き、いつの間にか足を挫いた。
身体は中からも、絶え間なく痛んだ。
めまいが、吐き気が、どんどん強くなっていった。

 それでも、私は塀につかまりながら、必死で走った。
お願いだから、あの場所だけは無事でいてほしい…その気持ちだけで、私はとうに限界を超えた身体を、
必死でかろうじて、あの屋敷の場所へと導いていった。



 どれだけ走っただろう。
 やがて、私は最後の曲がり角へたどり着いた。
ここを曲がれば、目の前に屋敷が広がるはずだ。
…きっと、広がるはずだ。

 私は体勢を整えた。深呼吸をする。
と息を吸い込んだ瞬間、肺に痛みを覚え、激しく咳き込んだ。
 それでも必死で堪え、もう一つ深呼吸をし、息を整え、
そして背筋を伸ばした。

 目を閉じる。覚悟は決まった。
一歩、足を前に踏み出し、屋敷のほうへ向き直る。

 お願い…お願い…おねがい…
 閉じた瞼にギュッと力を込め、私は最後に祈った。
その向こうに、みんなの笑顔を思い描いて…

 さあ、時は来た。




   私は、 ゆっくり、 目を開けた。






  ―聳え立つ、屋敷が見えた。
  ―その玄関で手を振る、三つの影。



 笑いがこぼれた。喜びが湧き上がる。
 手を振り返し、歩み寄ろうとする。
 瞬間、胸が痛んだ。私は激しく咳き込んだ。

 うつむいたまま呼吸を整えて、もう一度目を開けて前を見る。





   目の前には、何も無かった。
   立派な門も、綺麗な庭も、そして荘厳な屋敷も、誰かの影も。

   そこにあるのはただ、黒く焼け焦げた、瓦礫の山だけだった。




  「…」

 もう、何も考えられなかった。
 無言で、夢遊病者のようにその瓦礫に歩み寄る。
瓦礫の前にたどり着くと、私は無心で板を掻き分けた。
痛む体で必死に、いくつもの板や瓦礫をどけた。

 虚しい事は分かっていた。
そんなことをして、何がどうなるわけは無い。
冬の夜に冷え切った瓦礫を掘り返したところで、何も。

 哀しかった。
手紙の途絶えたレイラが住んでいたこの屋敷が、今目の前でこういう姿になっている…
…それが何を意味するか。
もう、誰に聞くまでもなかった。


 遂に私は、瓦礫の山に倒れ込む。
 もう、動く気力さえ起こらなかった。
時代の歯車は悲しいほどに強力で残酷で、容赦なく幸福を、希望を押し潰していた。

  「どうして…どうして…」

 これが現実なのか。そんなはずは無い。でも、これが…
 現実と向き合おうとする自分と、認めたくない自分。
二人の私が、激しくぶつかり合った。


 みんな、どこへ行ったの。
 あれから、たったの三年だよ?

 あんなに固く、約束したじゃない。
 もう一度演奏会しようって、約束したじゃない。

 どうして誰もいなくなっちゃったの。
 三人一緒で楽団だからって…確かにみんな、そう言ったじゃない。




 何が悪かったというの。
戦争?宗教?そんなもの私たちに関係ないじゃない。
関係ない私たちが、どうしてこんなに、ズタズタなの?

 もう戻ってこないあの日々の責任を、私は誰に求めればいいの?
この怒りを、悲しみを、誰にぶつければ良いって言うの…!!



   「返して…返してーーっっ!!!」



 仄かな月夜に、どうしようもなく虚しい悲鳴が消えていく。
もう、なにもかもが終わりだ。

 私は仰向けに横たわり、星達を見上げた。
この世界には、何もなくなった。誰もいなくなった。
 それならばもう、私は私に用は無い。
それでなくても私にはもう、世を恨む時間さえ残されていないのだから。

 終幕が下り切ったこの屋敷で、確かに生きた日々があった。
一緒に笑った、妹たちがいた。

 だけどそれはもう過去のお話。どうあっても過去は戻らないし、現実は変わらない。
運命は絶対だ。どんなに残酷でも、受け入れるしか道は無い。

 それにしても、こんな景色は受け入れがたい。
本当に受け入れがたい。

 そして、これが運命だというなら、私は…このまま…







 …不意に、騒がしい笑い声が聞こえた。




 誰だ、こんなときに笑っていられるやつは、
命がこんなに儚く消え去ったこの時代この場所で、のんきに騒いでるのは、

  「…?」

 もしかして…

 私の胸に、もう一度、希望の火が灯る。
 諦めたこの世の土を踏みしめ、私はもう一度立ち上がった。
 笑い声のするほうへ、ゆっくり向かう。

 もしかして…もしかして…
可能性は希望となって、ボロボロの私を動かしていく。

 門のあった場所を歩き抜け、左に向かう。
笑い声は、隣の庭から聞こえていた。

 次第に、料理の焼けるにおいがした。
この冬の寒い夜、パーティーでもやっているらしい。

 楽しげな笑い声。
 そこにいるのは、ひょっとしたら…



 隣の家の門をくぐる。案の定、ささやかなパーティーを楽しむ数人の人影。
真ん中に造られた焚き火が、仄かにその顔を照らし出すが、よく見えない。

 更に歩み寄る私。
その時、小石を踏んだ靴が、ジャリッと音を立てた。
人の気配に、全員の顔が一斉にこちらを向く。




   そこに居たのは、見知らぬ人たちばかり。
   妹の姿は、一つも無かった。  



 「フフ…」

 可笑しかった。
何がこの世は終わり、だ。何がもう用は無い、だ。
 結局私は、また妹の姿を追い求めてしまったではないか。
かっこつけて旅立とうとしていたのに、未練たらたらじゃないか。

 この希望は、最後まで捨てられないのか。何とも自分は、諦めが悪かったものだ。
 自分が滑稽で、いじらしくて、そして憐れだった。

 また体の力が抜け、その場に倒れこむ。


  「おい、大丈夫か」

 見かねた一人の男が、私を抱き起こす。

  「酷い格好だな…泥だらけじゃないか。
   お前さん、どこから来たんだ」

 急に紛れ込んだ珍客に、随分と人懐っこい男だと思った。

  「プリズムリバーの、長女です…」
  「プリズム…?」
  「隣に…住んでた…」
  「ああ、隣に住んでた人なのか…知らなかったよ。
   俺たちもつい3日前、ここに越してきたばかりでねえ」


 そうか、越してきたのか。それなら知らないのも無理はない。
 …待てよ。

 越してきた…? 私は不思議に思った。私達と逆ではないか。
 どこの世界に、わざわざこんな戦火の激しい所へ好き好んで引っ越す奴がいるというのだろう。

  「悪いところへこられましたね…ここはご覧の通り、戦の激しいところですよ」

 私は自棄になり、失礼も構わず男に投げやりな言葉をかける。
しかし意に反して、男はけろっとした顔で言った。

  「戦…何言ってるんだ、終わったじゃないか」

  「は…?」

 私は耳を疑った。
今、この人はなんと…

  「は、も何も無い。知らないのか、君。
   10日前に終わったよ。

   なんでも互いの宗派の長が話し合って、争いは今年までにしようってことになったんだそうだ。
   これ以上は神も望むまいって…そういうことでケリがついたらしいよ」



 …ぽかんと口を開けたまま、私は放心状態になった。

 なんだったというの。
 話し合って終わりましたって。
 神も望むまい、って。

 それはなに、つまり。
 私たちは話し合って終わるような戦争に、ここまでボロボロにされたというの…?




  「そんな…馬鹿な…」

  「ああ、馬鹿馬鹿しいな、散々ドンパチやっておいて、最後は話し合いだもんなあ。
   ま、戦争なんて所詮そんなもんなんだろうよ」


 男はあっさりそう言って、からからと笑う。

 最後の最後に待ち受けていた、一番残酷な真実。
何よりも容赦無くて、何よりも腹立たしい真実。

 知らなければよかったと、私は後悔した。
あのままあそこで、死んでおけばよかったのだ。
そうすればまだ、ただ力だけを恨みながら逝くことが出来たのに。

 なまじ捨て切れなかった希望を抱いて、それに引きずられここへ来てしまったせいで私は、
最後の最後になって、この上ない救いようの無い絶望を手にしてしまった。
徹底的に、地獄の底まで突き落とされた気分だった。


  「まあ、何はともあれ、戦争は終わったんだ。
   さ、お嬢さん、立ちなよ。一緒にパーティーしよう」

 男はそう言って、私の目の前に鶏肉を差し出した。

  「祝おうじゃないの、お嬢さん。
   今日は聖夜だ。年に一度のお祭りだ。
   めでたいめでたい、神様の誕生日だよ」


 神様の誕生日。
 かみさまの、誕生日。

 かみさまの…カミサマノ…



  「ふざけ…ないで…」

  「え?」



  「ふざけないで!!!」


 辺り一面に響き渡る大声に、驚いた男の手が鶏肉を落とす。



   何が誕生日だ。
   何がおめでたいだ。

   その神様のせいで、私は、妹たちは、父は母は…こんなに…
   こんなにも沢山の、絶望の血と涙を流したというのに。

   何がおめでたいだ…
 


 他の人たちも、一斉に静まり返ってこちらを見る中、
私は抜け殻のように、また歩いて、その場を後にした。






-----

 5年前のことになる。私たちは一回、クリスマスパーティーを開いたことがあった。
私とメルランで飾りつけたツリーと、母が拵えたローストチキンに、
レイラやリリカが狂喜乱舞していたのを覚えている。

 父がサンタの役を務め、滑稽な衣装で私達にプレゼントをくれた。
一人ひとりが自分のプレゼントを喜び、お約束通り他人のプレゼントをうらやみ、
そして口々に両親に礼を言った。

 何も疑わなかったあの頃。全てが楽しかった。
 何も恨まなかったあの頃。全てがおめでたい出来事だった。

  「あのままだったら、良かったのになあ…」

 戻ってきた屋敷の跡地で瓦礫を見つめながら、私はつぶやいた。
何もかもがあのままだったなら、きっと幸せなクリスマスを、何度もお祝いできたに違いない。



 神様を信じるか信じないか、そんなことはどうでもいい。
だけど、神の為にと手に持つ銃に、何の意味があったのだろう。
 彼らが神を信じて戦ったあの日々のせいで、私は神を恨む事しかできなくなった。

 神様が居たとして、私は幸せを祈る。
きっと他の人もそうだろう。
ならばなぜ…私は神様のせいで、こんなに不幸なの?


   誰か、教えて。どちらが正しいの。
   誰が間違っていたの。何がおかしかったの。
  
   誰も答えられるわけが無いよね。
   だってここに一人、神様のせいで幸せを失った者がいる。
   その事だけで、もう誰も…この問いに答えられる筈が無いもの。

   一つだけ確かなのは…何かが必ず、間違っていることだけ。



 深い夜の闇が視界の中、更に暗くなっていく。
 音も、だんだん聴こえなくなってくる。
 なんだか息苦しい。
 眠いような、寒いような、不思議な感覚。

 私はその場に寝転がった。
まるで倒れこむように、ごろりと。
子供が投げ出した人形のように力なく、私は四肢を地面に放り出す。

 
 不意に、投げ出した手が何かに当たったのを感じた。
 瓦礫ほど固くなく、土にしては柔らかくなく。


 ゆっくりと、顔を横に向けてそれを見る。





 泥だらけで傷だらけの、一丁のヴァイオリンが転がっていた。
 私は大きく目を見開いて、それを見つめた。

 蘇る記憶に導かれるままに、そのままそれを無意識に手に取る。
 その瞬間。忘れていた感覚が、指先から全身を駆け巡った。

 間違いない。それは、自分のヴァイオリンだった。



 傍に転がっていた弓と一緒に拾い上げ、私は寝転がったまま、それを構えた。
弦にあてがい、弓を引く。
キイ、と、小さな音が響いた。

 確かにこの場所で開かれた、楽しい楽しい、みんなの最後のコンサート。
あの時の楽器はまだここにあって。
そして今、またこの手に戻ってきた。
少し嬉しくなった。
またこの音が聞けるなんて、本当に嬉しかった。

 もっと聞きたくて、更に弓を引いてみた。
また少し、音が出た。

 また引いてみる。
すると。


 パシン、と乾いた音を立て、弦は弾け切れてしまった。
 衝撃で手から楽器が滑り落ち、顔の傍に音を立てて転がる。

 私はじっと、右手に残った弓を見た。
そしてそれを、地面に投げ捨てた。

 それっきり、私の手はもう、言うことを聞かなくなった。
目の前の世界が、急速にしぼんでいく。
何も見えなくなっていく。聞こえなくなっていく。
 



  「ごめん…せっかく…会えたのにね…」




 斃れた愛器に、最後に小さく詫びをつぶやいて。

 私は静かに、目を閉じた。











-----

 それからどれだけの時間が経ったのだろう。



 気がつくと私は、明るい部屋の中、温かい布団の中にいた。



 私はまるで、うららかな昼下がりの午睡から覚めるように、ゆっくりと体を起こす。



 

 そこに広がっていたのは、紛れも無い、幸せだったあの日々の、部屋の光景だった。
 風に揺れるカーテンも。規則正しい音を刻む柱時計も。花瓶に生けられた花も。
全てが、あの日のままの姿だった。

 私は夢を見ているのか。
だとしたらまあ、悪くない夢ね―私はそう思った。
あんなに残酷な現実を見せ付けられた今、夢くらい幸せを楽しんでも罰は当たるまい。

 それでも、何か違う気がする。
夢の中にいるにしては、私はあまりにも冷静だった。
 夢は、夢だと気付かないから楽しいのだ。夢だと分かってしまえば、それは虚しいだけ。
だから人間は、夢の中でどんな非現実を目の当たりにしようと、それが夢だと気付くことは少ない。
不思議なことだが、どうやら人間は生まれつき、夢というものを楽しめるように出来ているらしい。

 そしてそれを踏まえ、今の状況を考えてみる。
私は、今を「夢じゃないのか」と疑ってしまっている。
夢だと気付いているのも不思議だし、たまに夢だと気付いてしまうと、その後程なくして目が覚めてしまうものなのだが、
今こうして考えている間も、世界はそのまま目の前に広がって、私を迎えている。

 それが何を意味するのか。


  「戻って…これたの…?」


 そんなはずは無い。
 絶望的な瓦礫の山を目の当たりにしたのは、他ならぬ自分ではないか。
では、今こうして見ているものは一体…




  「お久しぶりね、姉さん」 



 不意に、懐かしい声が聞こえた。


  「久しぶり、ルナサ姉さん!」

 にっこりと笑う、二人の少女。
 あの日のままの、妹たちだった。

  「あなたたち…どうして…ここは何なの?」
  「なんなのって、私たちの家に決まってるじゃない」
  「そうそう、あの世のね!」


 あの世、という言葉に不釣合いなほど、リリカは元気いっぱいに言い放った。


  「そう…夢の割には残酷な現実を突きつけるのね」
  「夢じゃないってば。姉さん、死んじゃったんだよ」
  「だからここに来たのよ、ね」


 妹たちの言葉を、そう簡単に信じられるはずは無い。
何しろ、死んだら天国に行くと思っていたから。
…いや、ある意味これは天国なんだろうけど、それにしても。
あれ、待てよ。

  「つまり、あなたたちはもう…」
  「お手紙途中で書けなくなってごめんなさい、姉さん。
   先に旅立ってしまったけど、その代わりずっと、ここから姉さんを見ていました」
  「私もごめんね。メルラン姉さんと同じで、私もあの後すぐに、死んじゃったの」

 
 力が抜けた。
あの時灰燼に帰した屋敷で、痛いほどに感じた絶望。
結局「現実」だったというわけである。 
私が待っていた妹たちは、あの時にはもう、この世にいなかったというのだ。

 そしてそこまで考えて、私はふと、思った。


  「レイラは…レイラはどこにいるの?」
  「ここには居ないわ」
  「じゃあ、あの子は生きてるの?」

 メルランとリリカは互いの顔を見合わせ、首を横に振った。

  「姉さんに、見せたいものがあるの」

 メルランはそう言って、顎で階下へ促した。
起きあがった私は二人を追って、私は見慣れた階段を下りていく。
その体はもう、痛むことはなかった。





 二人に連れられた部屋は、昔父の書斎として使っていた部屋だった。
部屋の真ん中で足を止め、メルランは向き直る。

  「姉さん、レイラに代わって、お返しするわ。これ。」


 メルランの腕に抱かれていたのは…一丁のヴァイオリンだった。
手渡されるまま、私はそれを手にする。

 ピカピカに手入れされていた。埃や汚れの一つも付いていない。
指で弦を弾いてみると、しっかり調律された音色が響く。
弓もピンと張られていた。

 誰が見ても文句の無い、完璧な保管だった。


  「姉さん」

 メルランが静かに話しかける。

  「姉さんが死んでここに来るまでの間、私たちは二人で考えたの。
   どうして私たちは、天国に行けなかったんだろう。
   誰かどうやってこの屋敷をここに建て、どうして私たちがそれに集まったのか」

  「…」

  「その楽器を見たときに分かったの。レイラが呼んだんだって。
   ずっと待っていてくれてたレイラが、私たちが帰るための場所、用意してくれたんだって」

 メルランの声は、次第に涙声になっていく。

  「レイラは約束を守っていてくれてたのよ。
   私たちがいつ帰ってきても良いように、毎日楽器を手入れしてくれてたんでしょうね。
   私のトランペットも、リリカの打楽器も、全て綺麗に手入れされてたわ」
  
  「じゃあ、この屋敷は…」

  「そう。瓦礫になった現実の屋敷を見た姉さんなら、分かったでしょう?
   みんなが集まって、コンサートを開くって約束した、大切な場所。
   ここは、レイラが待ち望んだ場所。
   もう二度と、焼け落ちることのない屋敷。
   丁寧に準備してくれた、あの日と同じステージ」

  「…」

  「まったく、あの子ったら…
   いつの間に、調律なんて…
   それも、こんなに、上手に、丁寧に…」

 メルランの言葉が、嗚咽に途切れる。



  「ありがとう、メルラン」

 私はメルランの肩をさすった。
私にも、やっと分かった。
どうしてこんな場所が出来たのか。
どうして死んだあとの自分が、そこへ引き寄せられたのか。


   これは、レイラの夢だったんだ。
  みんなとの再会を誰よりも強く信じて、願って、支えにして…
  いつでも私たちを迎えられるように準備して…。

   約束のコンサートを信じていた、レイラの希望だったんだ。 




  「レイラに会いたい。あの子は、どうしてるの」

  「だめよ、姉さん」

 メルランが、涙をぬぐいながら私を見る。

  「言ったでしょう、ここはレイラが準備してくれたステージ。
   私たち三人が集まって奏でる音楽を聴くことが、レイラが抱いていた唯一つの夢なの。
   これは、あの子の夢。ここがステージなら、あの広い青空のどこかに、観客席がある。
   あの子が自分で約束したとおり、最初のお客様になるための、たった一つの指定席がね。
   だから、良いじゃない」

  「でも…」

  「もう一度この屋敷で三人が揃うことが、焼け落ちる屋敷の中、きっと最期まで見てたあの子の夢なの。
   ここは、何よりも大切な、約束の場所。
   この屋敷で私たちが揃うことが、何よりの『幸せ』の証だと、レイラも信じていたの。

   だから、私たちは、ここで。
   この素晴らしいステージで、最高のコンサートを開くの。それが、レイラへの御礼よ」



 分かったような、分からないような、私は複雑な気持ちを覚えた。
それでも、手にしたピカピカのヴァイオリンを見て、私も覚悟を決めた。

 この屋敷で、三人の姉と暮らせることが、レイラの抱いた希望だったとしたら。
最期に彼女が力を振り絞って、このステージを用意してくれたのだとしたら。
私は、喜んでこのステージに立つことにしよう。

 レイラ本人に会うのは、それからでも遅くは無い。
また長いお別れになるけれど、少しも辛くなんてない。

 だって、前の時は「もう逢えないかもしれない」お別れだったけど、
今は「いつか必ず逢える」お別れなんだから。
そしてあなたはそれまで、見えない指定席に、いつだって座っていてくれるはずだから。



 ふと、私の視界に白いものが入った。
みれば窓際に、一輪挿しに挿された小さな白い花が揺れている。

 こんな花がここにあったっけ?と私は訝しんだ。
小さな、白い花。

 …白い花?


  「これ…あのときの…」


 なんということだ、すっかり忘れていた。
 それは他でもない、あの日私が咎めた、白い花だった。

 あの時レイラがどこへやら持って行ってしまったこの花の行方を、私は知らなかった。
レイラはあのあと、一輪挿しの水に浸して入れて、この父の部屋に飾ったのだろう。


   「死んでしまった」と脅かされたこの花を、もう少しだけ、生かしてあげるために。
   冬を選んで咲いた可憐な花が、あとちょっとだけ―その姿で咲いていられるように。



 

 私は書斎の本棚を目で追い、植物図鑑を見つけ出す。
「冬の花」のページを私は懸命に追い、やがて同じ白い花の写真を見つけた。
そこに記されていた名前を、私は声に出して読んだ。

  「クリスマス・ローズ…」

 そうか。レイラが庭から小さな花を摘んできたとき。
あの時はもう、クリスマスだったんだ。
 メリークリスマスの一言も言えないままに、私達が揃った最後の冬は、通り過ぎてしまっていた。
あんな時代の中で、クリスマスを祝う余裕も、気分も無かったから。



  「クリスマス、楽しみにしてたろうに…ごめんね…」
 

 つぶやきながら、窓の上を見上げてみる。そこには、あの日の鳥の巣が、まだ残っていた。
でも、それは屋敷としての記憶だけ。そこにさえずるひな鳥達も、世話をする親鳥の姿も、
今はもうそこには無い。

 ただ残された巣だけが、軒先に形を留めていた。
小さな命と温かい命が確かに息づいていた、それが証であるかのように。






  「レイラ、ありがとう!」


 私は空に向かって叫ぶ。
 千切れ雲が風に流れて飛んでいく高い空に、レイラの笑顔が見えた気がした。





  「だめよ、姉さん」

 不意に、メルランの声が後ろから聞こえて、振り返る。

  「レイラへのお礼は、ありがとうの言葉じゃないでしょ」

 微笑みながらメルランは、私の手のヴァイオリンを指す。





  「…そうね…そうよね!」

 私は、力強く頷いた。
それを見てメルランとリリカも、自分の楽器を手に取る。





 こんな形は、お世辞にも希望通りとはいえない。
だって私達は結局、みんな死んでしまった。
残酷な運命に引き裂かれ、翻弄され、抗う術も無く時代の露と消えた。

 それでもレイラが、私達の魂を救ってくれた。
私達の幸せを、レイラが実現してくれた。

 あの日、レイラだけをこの屋敷に残した私の判断。
それは、「大正解」ではなかったのかもしれない。
 それでも、決して「間違い」じゃなかったこと…
それを今、証明できた気がしていた。



  「約束のコンサート、クリスマスコンサートになっちゃたね」 


 リリカの言葉に、ふと死の直前見た、クリスマスパーティーの光景が記憶に浮かぶ。
そうか、今日はあれから3度目のクリスマス。
時は早いもので、また巡って来たんだ。

 あの日言えなかったメリークリスマス。5年前に言った、最後のメリークリスマス。
今年はやっと、久しぶりにあなたに言える。

 心から、「メリークリスマス」を、あなたに言える。



   願わくば、来年も、再来年も…ずっとずっと…
   「メリークリスマス」が言える、聖誕祭であらんことを…。






  「では改めて…」
 メルランとリリカが姿勢を正す。


  『お帰りなさい、姉さん!』

 二人は声を揃えて、頭を下げた。






  「ただいま、メルラン、リリカ…
   …レイラ。」

 目の前の二人が、ニコリと笑う。






   「さあ、お待ちかね、三年ぶりのプリズムリバー楽団コンサートへようこそ!!
    今日は聖なるクリスマス!楽しいクリスマスソングからお届けしましょう!」




  約束の場所で、約束通り揃った三人。
  そして最初のお客様に、約束どおりの一人を迎えて。
  約束の演奏会が、華やかに開演した。


                                     《完》







 文鏡同様、この作品も割と覚えて頂けていることが多いです。
 プリズムリバーの過去物語は意外と少ないようで、珍重されているとのこと。

 この頃はムードを大切にしようと心がけては豚骨ラーメンのようにこってりとした演出で場を賑わせていました。
 それが上手なら良かったんですが、当時はまだ未熟な筆力。
 最近の東方創作のトレンドを外れて苦笑いを禁じ得ない作品になっているかもですが、ご容赦。
(初出:2005年12月27日 東方創想話作品集22)