【潮騒】


 穴を掘るという行為だけならば、魔法を扱える者も居り、わざわざ道具を携える必要はありませんでした。現にパチュリー様などはそんな提案を仄めかしておられ、かたくなに私がそれを拒んだ結果、直截自らの手に依ろうということになったのです。そういった無機質な手段で、私は、貴方の場所を作りたくありませんでした。
 私は寧ろ、誰かを偲ぶ所作としてその方が自然だとも思ったのですが、生憎とそういった感覚はパチュリー様……或いは美鈴や、他の方々にしても乏しいと見え、珍しく私が我を押し通す姿にただ何も言葉を返さず、黙って頷かれるばかりでした。手ずからの行為というものが極めて感情的だと見えたかもしれませんし、パチュリー様はああいう性格ですから、あまり“判りやすい”行動をしたがらないということはあるのだと思います。ですからこれはパチュリー様が情に薄いとかいったことでなく、ただ私とパチュリー様の二人――踏み込んで言えば、人と妖という二つの立場の純然とした違いから、こういった差異が現れたのだとも思っています。
 このことで私がパチュリー様を責める気は当然ありませんでしたし、また、誰かが責めることを許すつもりもありません。他の誰かが、例えば私を笑いこそすれ、パチュリー様に物を申すような事でもあれば、私が然るべき線を引きます。寧ろ、彼女は私に憐情を掛けて大切な選択権をお譲り下さったのだとも思いますし、最後にふと美鈴が私の発案を支持してくれたのも、彼女なりに私の気持ちを汲んでくれたからではないかと思うのです。――思えば美鈴は、ずっとそうやってくれていました。他の誰もが皆貴方を中心に動いていたその中で、恐らく彼女は誰よりもしっかり、私達同士のことをも影で忖度して、助けていてくれていた気がするのです。こんなことを美鈴に直截言える筈もありませんが――私は彼女を見込んだ貴方の目に、やはり間違いは無かったのだろうと思います。
 妹様は、部屋に籠もられているようです。貴方との別れについて、私達はまだ一言の言葉も聞けていませんが……恐らく、私達の方からフランドール様に、何も申し上げることはないと思います。
 蔑ろ、という意味ではありません。不本意ではありますが――彼女には、今の恐慌の段階で私を含め、誰のどんな言葉も届かないような気がしているのです。
 私もパチュリー様も、妹様のことは好きです。
 ならばこそ、今できる最善の手段がただ触れずにいてあげること――私達はそう考えて、この場に妹様を伴わずに居ります。
 彼女のことだけではありません。
 恐らくはパチュリー様以下、みんながみんな、それぞれ相手に最善の慮りを推し量りながら――お互いにお互いを救い合って、今この蒼い空の下、しめやかに集まっていると思うのです。

 貴方の場所から、みんなの姿が見えますか。

 私達はみんな、貴方の妹様のことを想っています。美鈴のこともパチュリー様のことも、私達はきっと、互いに好いていると思います。
 この屋敷で一番ひ弱な私がそして今、パチュリー様の優しさに甘え、美鈴の気遣いに救われながら、貴方に最後の揺籠を整えます。こんなにも小さな世界のこんなにも大きな屋敷で、温かくも冷たくも、この屋敷を渡るすべての風の息吹が一体誰に向かって吹いているか。そんなことは、考える必要も無いことです。フランドール様がここに現れないことも、今私が身勝手を貫いト穴を拵えているのも、まごうことなく皆すべて、理由はきっと、根っこのところで同じだと思うのです。

 ――私達は、貴方が大好きでした。

 この穴を、貴方の為と言えば欺瞞になるかもしれません。この穴は貴方の為であって貴方の為でなく、他の誰でもない、私自身にこそ向けられている気がしているのです。手向ける花の華やかさは、貴方の朽ちた身体でなく、この場にいる優しい家族達の心をこそ癒すのでしょう。遺された人はそのために、華を手向けるのです。
 貴方の居場所を、私自身の手で掘れるお陰で、この私は――私は、どうしようもなく蟠り続けるこの絶え間ない寂しさに、それでもひとつずつ整理を付けながら――またすぐ巡り来る明日という日に向かって、どうにか歩いてゆける気がするのです。
 また次の陽が沈み、次の月が間もなく昇ります。貴方が大好きだった満月は、今夜にはもう逝ってしまっていて、今宵は雲の向こう、少しだけ欠けた形で夜空に昇ります。
 貴方だけが居ないこの事実を受け容れるには、あともう少しだけ、時間を下さい。
 私はこれからも変わらず、貴方だけのメイドで在り続けたいと願っています。ここに僭越ですが、私には、貴方に見込まれた者としての誇りもあります。

 ……ありがとう。
 この簡単な気持ちさえもまっすぐ伝えられなかったのが、実は少しだけ、今になって心残りです。
 ただ、それは別にしても私は私の中でこの屋敷、そして屋敷のみんな――貴方が愛したあの人たちを私も同じくらい好きに想いながら、貴方より少しだけ長く、生きてゆこうと思っています。






 
 貴方の優しさの理由を、私は知った方が良いとも、知らない方が良いとも思いました。その答えが私の仕える日々に、何かしらの意味や変化をもたらすわけでもありません。偏に、私の烏滸がましい好奇心でしかありませんでした。
 而るに、かつて――かつて、決して人間に対し好意的でなかったという貴方が、私を拾ってくれた理由。遠い昔の夜この屋敷の前で、血塗れの姿で倒れていたという私に貴方は一体何を見込んだのでしょう。例えば、それこそ悪魔の子とも知れぬ私を――誇り高い吸血鬼という貴方はどうして手厚く護り、その大切な屋敷に留まらせてくれたのか。
 私が面白そうだったからなのか。人と少し違った力を、私が持っていたからなのか。
 貴方の生の長きを考えるにつけ私には、ただ他愛もない享楽的な理由しか思い浮かびませんでした。時を止める力を持った不思議な人間をただ一人の人間として以上に面白がって、だから貴方は私を手元に置いてくれたのではないかと――ずっと私は、勝手な事ばかりを考えてきました。
 そして、余りにも勝手なことに私は、それを「寂しい」と思っていたのです。

 どんなに問い掛けても、貴方はもう、私の届かない場所を歩きます。
 私の力は、時間を操る能力でしかありません。時間は、今を流れる河です。滾々と、過去から未来へ下る川の流れを幾度堰き止めたところで、貴方はもう二度と戻ってこないのだと知っています。
 運命を操る力は、時を操る力の上位互換なんだと気付いた頃にはもう、貴方との時間は幾許も残っていませんでした。哀しいことです。
 貴方の力と私の力は似ていて、しかしそれでもやはり、私は貴方に敵いませんでした。
 貴方は主人、私はメイド。力の上下は歴然として、時の端境に立ち止まっています。
 私は、今を流れる時を操れるのに、この今を変えることが出来ません。哀しいことです。
 そんな簡単なことに、貴方を喪ってから私は気付いたのです。
 そしてそこに、貴方の優しさの理由を、見つけられるのかなあと思ったのです。
 喪って気付いたという事実が、とても皮肉でした。


 
 
  
 貴方が今朝溶けていった大空に春雷が迅り、轟いた音がまるで張り裂けるようです。
 冷たい驟雨と土の匂いが空と貴方と私とをぜんぶ濡らして、濡らしながら夕刻の昏い時を洗い流し、洗い流して容赦なく、時の傷は痛く爛れてゆきます。掘る傍から崩れてしまいそうになる穴を眺めながら、私はこの雨もまた、何かの名残なのかと思ったりしています。
 身体を打つ大粒の雫が何故かしら、不思議と冷たくありません。この雨粒さえも貴方の一欠けかと馳せる想いの、どこにも冷たさなどあるはずがありません。
 貴方は知っているのでしょう。
 私があの世界から消えた夜も、確か雨でした。
 氷雨のように冷えた水滴だったのは、私がきっと寂しがり屋だったからだと思います。刃物の傷に凍みたのは、誰の手当も希めなかったからでした。
 この世界の雨は、どこか温かい、不思議な雨です。
 この世界の紅い空はとても綺麗で優しくて、私はもう誰に蔑まれることも傷つけられることも、きっと無いのだと思っています。
 世界を厭い、大人を厭い、意味もなく刃を向けられた不思議な世界に、私はきっと戻りません。
 針のように冷たい雨が降る、霧の色をしたあの寂しい街に、私はもう二度と戻ることは無いと思っています。

 雨の日も晴れの日も、貴方はこの空の下を歩けない定めでした。
 空の美しさを知らなかったのは、実は貴方だったかもしれません。貴方は本当の空を、ひょっとしたら、一度も知らなかったのではないでしょうか。
 空が色んな色を持っていることを、きっとひとつも知らないままに、貴方はその空と溶け合ってしまいました。
 貴方が今不幸せでないか、とても心配です。

 レミリア・スカーレット様。

 私に運命を下さい。
 何も大きな事は望みません。メイドである私にとって貴方はつまり主であり、仕える者と仕えさせる者という身空の向こう側を、私はずっと踏破することがありませんでした。
 貴方のメイドにしてもらえたこの幸せを、否定することなどは絶対にしません。沢山の幸せと優しい人たち、安らぎ。帰るニすらも失くした世界の向こう側、どこにも行く宛の無かった私を拾い、安寧を下さった貴方の隣でそれでももし叶うことなら、私は。
 もしももう一度、生まれ変わって貴方に巡り会えるなら。

 ……そのときはメイドでなく。
 ……私は、貴方の友でありたいのです。
 
 もし、貴方が本当に、ほんの少しの運命を私に下さるのなら。
 本当に、大きな事は望みません。ただ、雨も晴れも知らなかった貴方と、無二の友としてもしも生きてゆけたならと願う、小さな想いが私にあるのです。
 向こうの世界でもこの世界でも叶わなかった私の夢を、せめて次の世界で出逢う貴方と叶えたいのです。大好きな友達と二人で公園に行って、はしゃいで、二人でお弁当を開けて。
 夢みたいなものを語り合って、お洒落をして、お茶をして、ちょっとだけ好きな人の話をして――そうやって生きてゆける明日なら、どんなに私は嬉しいでしょうか。
 貴方がふと戻ってきてくれることを、私は、今でも私のどこかで信じているのです。貴方が運命を操れたから、私もつい、そんな夢みたいな奇跡を願わずにいられないのです。
 貴方と逢えた世界で、今度の日曜日に花畑に行きましょう。お日様を浴びながら、色とりどりの花を見ましょう。大きな時計塔を知っています、そこに行くのも良いかもしれません。それから海を見に行きましょう。貴方は、海を知っていますか。汐の匂いというものがあると、知っていますか。私は知っています。貴方にも、汐を知ってほしいです。波がくれる風に吹かれて、波と一緒に心を揺らしながら、潮騒に抱かれて何も考えず砂の上に座って過ごすのです。夜の海は本当に綺麗です。海の水面に沢山の月が揺れる景色を、貴方はきっと知りません。海には、月も星も居るのです。夜の海は宝石箱になります。本当に素敵なのです。
 貴方はきっと、きっと気に入ると思います。
 この世界の裏側にある、この世界よりもずっとずっと大きなものを、私は貴方と二人、気兼ねもせずに笑い合いながら――






 「咲夜、もうそのくらいでいい。……ありがとう」





 静かなパチュリー様の声に引き戻されて、私はようやく手を止めました。
 滔々と想いを馳せながら、気付けば穴は充分な大きさになり、知らぬ間に雨は西へと去って濡れそぼった私をパチュリー様が、真っ赤な瞳で見つめていて。
 私は顔を上げ、雨垂れの前髪の向こうにパチュリー様の涙を見ました。
 美鈴も泣いていて、そして隣に――

「……フランドール、様……」

 お嬢様はじっと動かず、彼女だけが涙をひとしずくも見せず、凪のように凛としていました。さめざめとした空気もなく、ただ変わらず世界を撚り曲げるような狂気を秘めた禍々しい瞳の奥底に――私は、しかし確かに、普段流れていないはずの感情を読みました。
 その表情の片隅。
 見えない涙と聞こえない嗚咽が、雨上がりの空を静かに目指していて。
 ――このお嬢様も、きちんと、何か大切なことを間違えずに、気付いて下さったようだと知ります。

「……」

 私はほんの少しだけ、笑うことが出来ました。
 遠い昔の私。大人たちを誰も信じられず、笑うことさえ許してもらえなかった昔日の私が、貴方に拾われてまた笑えるようになりました。貴方を喪ってまた笑い方を忘れかけた私が、最後に、貴方を誰より想う人の心のお陰でもう一度、笑うことが出来るようになったのです。
 とても素敵なことだと思いました。
 貴方が大切に想い、貴方を大切に想った幼いお嬢様の静かな瞑目が、押し流してゆく時に置き去られることのない、新しい未来を許しているのです。
 とても良い未来をきっと、私やパチュリー様や美鈴達に連れてきてくれる。
 そんな気がしたのです。

 お嬢様。
 レミリア・スカーレット。

 みんなが大好きだった貴方を、どうやら、私の一番望んだ形で見送れそうです。

「……さく







 瞬。
 


 風は止み、残り香の雨粒は宙に滞り。
 みんなも世界も雲も、すべての景色が灰色に変わり。
 すべての音が消えて。
 それを消したのが、私で。



 ――私は初めて。
 ――初めて、ただ私ひとりのためだけに、時を止めました。



 貴方の亡骸と二人きり、今、私は誰も動かぬ世界で向かい合います。
 誰もここにはいません。ただ世界に、色がないだけです。
 灰色に包まれ、何の音も光もなくなってしまうこの世界が実は途方もなく寂しいのではないかということを、可笑しいことですが、私は貴方に出逢うまで知りませんでした。時の流れぬ世界というのが果てしなく孤独で、貴方の紅色すらも失わせてしまう世界がとても冷淡で、何も変わり映えしないという事実がこんなにも残酷だということを、私は貴方に逢うずっと昔から、本当ならば気付いていなければなりませんでした。
 私の中では、こうです。

 ――だから貴方は、運命を操るのかもしれなくて。

 ――だから貴方は、私を――

 






 

 ……や。」

 ふと、フランドール様の声があり。

「さくや」

 世界が、色を取り戻してゆきました。

 見上げた空は少しだけ、時を止める前よりも、色を多めに戻していました。
 微かな茜色が、灰色の雲の向こうに霞みはじめていました。
 曇り空は、薄くなっていました。雨も小康となり、フランドール様は微かに柔らかい瞳でした。
 空には、間もなく虹が出るかもしれません。そうなったら日の光が降り注いで、フランドール様も、そして貴方も、きっと居るべき場所へ歩み戻らなくてはいけません。

 屋敷の庭で密かに育てた万両の花、前庭の高枝に結べる栖に覗く懸巣の雛に気付いたのは少し前で、それから私は彼らを、誰にも内緒で見守っていました。彼らも程なく、巣立ちの時を迎えるのでしょう。月日が風のように通りすぎてゆく中で、貴方がもう居ないことだけ未だ信じられず、冷たい土と木々とをただ無機質に、私は眺めています。
 貴方にこの、小さな美しさを教えてあげたくて、弱々しい鳥の愛らしさと倖福を、ひたすらに願い続けました。
 貴方の方が先に逝くなんて、私は、想いもしませんでした。

 この小さな鳥は、貴方と過ごすこの怖い怖い屋敷での日々に、一体何を求めていたのでしょう。この鳥は一体、羽ばたくことを望んでいたのでしょうか。
 私の力は、時間を止めることでしかありません。時間とは現在に流れているものです。
 私が幾度時を止めても、貴方はもう二度と、戻ってこないのです。





「咲夜。……穴。ありがとう」





 次第に晴れてくる今夜の空には、ひょっとしたら月も見えるかもしれないと思いました。
 昨日が、満月でした。
 貴方が旅に逝く今夜の月の暦は、つまり――。

 あまりに静かで、少しだけ大人びたフランドール様の声。
 硝子のように繊細な少女の声を、この哀しみを撫でる確かな答えとして、私は受け取っても良いのでしょうか。
 あのフランドール様が発した「ありがとう」という言葉を、私は本物の宝ものにして、胸に抱きしめても良いのでしょうか。
 潰れそうな明日を信じながら、大切だった貴方に背を向けて、未来に歩んでも良いでしょうか。
 


 ――翼に傷を負い、時経てその傷が癒えたとしても。
    時として鳥は、空の高さを求めないことがあるらしいのです。
 

 
 

 大好きな貴方へ。
 どうか、心残りなく旅立って下さい。
 私は、この屋敷の紅さが好きです。
 私は、貴方に会えて……本当に、良かったと思っているのです。
 背中を合わせて戦った永遠の夜を私は忘れません。こんなにも背中が温かくなれるんだと知った永い夜のことを、私は必ず忘れません。
 明日からも、ずっと、貴方のメイドで居させて下さい。
 人間ごときの私が生きる、あと少しだけの間だけ。
 たとえ奇跡が起きなくても。止まらない針を立ち止まらせて短い時の中で、あとほんの少しの時間だけ貴方の、友達で居させて下さい。




 寂しい作品を書こうと思って書いた作品。ですが、それ以上にとにかく「丁寧」に書こうと思ったのを覚えています。二次創作としては比較的よくある物語である上に、軽々しく出逢い別れを書くのは不遜な気がして、辿り着いたのが丁寧さの希求。ある程度は、咲夜さんの心をきちんと書き出せたかなとは思います。

 とはいえ、書いてて寂しくもなる――それこそ情が移ってしまうようでした。
 メイドさんだけに咲夜さんときたら篤実そうで、あの顔の向こうに色々ドラマを探してしまいます。
 
(初出:2008年5月22日 東方創想話作品集54)