【死神試験】



 コンコン、という乾いた音に執務の手を止め、映姫は扉の方を見やる。
「四季さんよ、お客さんがお見えじゃ。可愛い娘さんよ」
 嗄れた老爺の声が、その向こうから映姫を呼んだ。
「話は伺ってます。今日、ひとり来ると。久しぶりですね」
 壁越しの会話とあり、映姫は幾分か声を張り上げて答える。
「なるほど久方ぶりじゃが、果てさて、もう何人めになるかのう。御主もいい加減選択が律儀に過ぎるぞい」
 せんちゃく、と発音して老爺は映姫を笑った。
 只の選択でなく、仏法に照らし人を善悪に選り分けることを意味する。
 その真意は、とある人選びに際した映姫の態度に対する、ちょっとした皮肉である。
「頑なに過ぎるとは、心得ております。ですが、ここで妥協すれば後々に差し障りますゆえ」
「御主は選り好みが過ぎるんじゃ。儂ならあんな可愛い娘は、何はなくともすぐにでも――」
「はいはい、どんな美女でも私は御老体のようには行きませんよ」
 下世話なことを臆面もなく口にする老爺、映姫は苦笑しつつそれをあしらう。
 いつものことで、気にも留めない。
「じゃがのう」
 老爺が言葉を継ぐ。
「あの娘、きっと御主も気に入ると思うぞい。これで御主の懊悩も、一つ終止符じゃ」
 不意に、打って変わって落ち着いたその声音。言い終えるや、クックッと喉で笑う声が聞こえる。
 何かを確信しているような風情のある言い草を、映姫は僅かに訝しく思った。だが、敢えて口にするほどでもない。
 しばしば思わせぶりなことを口にしては、けむに巻いて人を惑わせるのがこの老爺、平時からの悪癖である。蓋を開けてみれば、結局その実取るに足らぬものであることが多い。
 今回もそれらと同じ戯言の類であると、映姫は判じた。
「御老体、無駄口はこれまでにしましょう。こちらへ来るようにお伝えください、その可愛いお嬢様に」
「ハッハッ、手厳しいのう。あいよう、御案内役、望むところじゃ」
 無駄に鼻息を荒げ、老爺の足音がいつも以上の速度で遠ざかる。
 それを耳で送る映姫の顔にはしかし、それまでの柔和な会話と物腰から一転、早くも僅かな苦渋が浮かんでいた。

 老爺に言われるまでもなく、自分が頑固に過ぎることは自覚している。だが反面で、容易く信念を曲げることには強い抵抗感があった。
 だからこそこうしてまた、新たな候補生を迎えることになっている。だが、それを迎える度に胸を昂ぶらせていた期待感が、次第に薄らいできているのも事実である。
 そろそろ、どこかで妥協すべきかもしれない―― 少しずつ、諦観にも似た心変わりが、映姫の中に芽生え始めてきていた。

 夏も終わってすっかり涼を帯びた、秋晴れ澄み渡る窓の外。
 かの死神と出逢った日、その朝の事である。







 * * * 



 窓外では、盛りを迎えた錦の紅葉が千々に入り乱れていた。悉くの枝が紅や黄金に染まり、絶景である。
 しかし案内の老爺が存外に足速で、半ば駆け足で追う彼女の目には、その美しさも映っていない。
 ぱたぱたという草鞋の足音と共に、紅葉と同じ赤銅色の結い髪が、ひらりゆらりと背を払っていた。
 彼女は、名を小町という。姓はない。
 死神を志す、一人の亡霊である。
 志す、と言えば職のようだが、死神という存在は当然ながら、一般的な意味での職とは一線も二線も画す。ここでの死神とは、死した者の魂を閻魔の元へと送り導く者を指す。
 生ける者を冥土へと攫うような、さながら邪神として描かれる死神も確かにある。が、それは単に現世にある人間が、比喩として存在を祭り上げているに過ぎない。
 実を正せば、死神に任ぜられる役割は差し当たって、三途を渡す舟守である。
 ここではそれ以上でも、以下でもなかった。
「あいよ、この部屋じゃ。それではお嬢さん、健闘を祈るぜい」
 眼前で足を止めた老爺が、振り向いてにんやりと笑う。
 その野卑た笑みは、品が無い分どこか世俗的で、張り詰めた小町の緊張を適度に解してくれた。
「御案内ありがとうございます。頑張ってきます」
 小町は案内の礼を老爺に告げ、一つ深呼吸をしてから、木目の美しいその扉を叩く。
 一拍有って、その名が中から呼ばれた。
 深呼吸を一つ。
 小町はやや震える手で、その扉をゆっくり開いた。

 
「貴方が今回の候補生様ね」
 部屋に入るや、落ち着いた女声が中から聞こえた。
 足を踏み入れてまず目を奪われたのは、夥しい量の背表紙の列だった。所狭しと並ぶその分厚い蔵書の数は、なるほど閻魔たる者の住まう部屋に似つかわしい。
 膨大な本を湛える書架が、圧迫するように三方を囲う。さながら牢の壁である。
 その仄暗い部屋の中央に、小さな人影があった。
「初めまして」
 先に口を開いたのは、その人影の方だった。
「あっ、はい、初めまして。小町と申しますっ」
「……四季映姫。よしなに」
 雲間に隠れていた太陽が覗き、部屋に明るさが差し込んだ。
 小町はそこでようやく、閻魔の顔を知る。
(へ……?)
 瞬間、小町は目を疑った。
 子供が座っていた。
 否、子供ではない。子供のような閻魔様だった。
 あどけない表情、細身の体躯。短めに切られた浅葱色の髪の上には、不釣り合いなほど大きな帽子。被っていると言うよりは、載っかっている。
 好奇心丸出しで小町を矯めつ眇めつ観察する瞳、そこに冥府の長という威厳は微塵も感じられない。背丈も小柄で、立ち上がっても小町の肩口ほどだろう。
「かわいい……」
 あまりの愛くるしさに、場違いな感想が漏れた。
 映姫と名乗ったその閻魔は、当然不快げに眉根を寄せる。その表情もしかし、非常識を窘める先達というよりは寧ろ、むくれた童女のような印象を受ける。
 自然とまた、小町の顔が緩んだ。
「わー……」
 小町の黒目が、るんるんと輝く。
「これはこれは、また随分な方だこと」
「あ……す、すみません、つい」
 ようやく、小町は我に返る。ついでに今いる場所がどこだったか、眼前のそれが誰だったかもしっかりと思い出す。
 しどろもどろになりながら顔を引き締め直し、小町は小柄な閻魔様に頭を下げた。
「角でも生えてて牙向いて……そんな閻魔様をご想像してた?」
「あ、は、はい」
 図星をつかれ、小町は素直に二度三度と首肯する。
「それで、その……こんな可愛らしい方だとは思わなくて」
「……」
 面白くも無さそうな顔で、映姫は聞こえよがしのため息を吐く。小町とて別に世辞を言ったつもりはないが、ここまで無表情な反応も些か不気味である。
「今回も望み薄ね……」
「はい?」
「何でもないわ。貴方みたいな亡霊上がりの死神って、生前の軽さを持ち越してることが多いのよね」
 顰め面のままぽりぽりと、映姫は頭を掻いた。  
 死神の出自には、いくつか種類がある。妖怪や化生の類が変じた者、妖精や精霊が分を越えた霊力を身につけて身体を成した者、そして、人間の亡霊から転じて死神を目指す者。更にごく稀に生きている人間が死を経ることなく、そのまま死神として転化する場合もある。が、それは特殊な例である。
 死神を志すその条件としてはただ一つ。命に対する執着が強い、ということである。
 それは生への未練でもなければ、死への渇望という意味でもない。ただ命そのものに対する、並ならぬ意識の固執である。
 生や死を生理現象としてではなく、霊的な観念として捉える考え方がそれに当てはまる。そういった思索を弄していた者が、その死後に多くこうして、死神を目指す浮遊霊となる。
「申し訳ありません、以後慎みます」
「慎んでもらうかどうかは、試験の結果次第ね」
 ぴしゃりと断じ、映姫は唇だけで笑った。
 映姫の見たところ小町は、亡霊から化身した者と判じ取った。多くは生前、命にまつわる何がしかの想念に心を焦がしていた者である。
 もっともその思念自体は、転生を経ることで魂から雲散霧消している。多くの場合、自分が何故死神を志す立場にあるのかさえ全く知らない。
 それは人間道を経た魂ならではの特性であり、中途半端に生前の思念に縛られる精霊上がりの試験生よりは、閻魔にとって数段扱いやすい相手だった。
「それで、試験内容というのは……」
 小町が不安げな声色で訊ねる。
「今から説明します」
 もっぱら生徒を諫める教師の口調で、映姫はそれを制した。
 もっとも見てくれが童子だけに、相変わらず威厳はない。
 くりくりした瞳を気持ち引き締めて、映姫は襟を正した。

「貴方にはこれから、ひとやに行ってもらいます」

「……」
 最初の一言。
 それだけで、小町の表情がにわかに曇った。早くもじわりと、その額に冷や汗が浮く。
 ひとや、とは獄と書き、すなわち地獄のことである。閻魔がその単語を使う時には特に、咎重き魂がその裁きによって堕とされる、牢獄としての意味合いを持つ。
 魂が罪を贖う牢獄は本来、餓鬼の道・畜生の道に地獄の道を合わせ、三悪道と総称される。地獄はその中でも、殺生以上の重大な罪過を重ねた者が送られる、最も凄絶な場所である。
 刑の軽い者が赴く他の二つとは異なり、地獄道での責め苦は八熱・八寒地獄に代表される通り、外圧的なものがほとんどとなる。つまるところ、生者が迷い込めば同等の責め苦を負う場ということである。
「それで、地獄に行って私は何をすれば……」
 恐る恐る、小町は問いを継ぐ。
「貴方には、その地獄に行き、一つの匣を取ってきてもらいます」
「はこ?」
 その予想外の単語に、小町は目をしばたたかせた。
「灼熱の地獄のどこかに、長細い桐の匣が横たえられています。それを捜し、ここに持ってくること。以上」
 言い終えて満足げに、映姫は一人大きく頷く。その仕草も、やはりどこか子供じみていた。
「えーっと……それが試験なのですか?」
「何か不満でも?」
「いえ、とんでもない。ただ……」
 予想外です、とは言わずにおいた。
 死神とは他の何者にも代わり難い、無二の重責を担う存在である。その試験にしてあまりに軽々しいその内容に、小町は拍子抜けせずにはいられなかった。舞台が舞台であるとはいえ、それこそ宝探しが試験だと言われたようなものである。
 曲がりなりにも、小町は必死になって死神を目指す身である。その発端こそ知れないにしても、内に滾る憧憬は正真正銘の本物に間違いない。それだけに、そこに持ってきて告げられた試験内容の幼稚さには、勢い込んだ情熱がどうにも肩透かしを食らった気分である。
 目の前の閻魔の風貌にしてもそうだが、厳然とした堅苦しい空気を思い描いていた小町の想像は、ここまで悉く裏切られていた。
「質問が無いなら、そろそろ行ってもらうわよ?」
「ま、待ってください。もしそのハコを見つけられなかったら、どうなるんですか?」
 今の紹介にあって、それは聞き逃すことのならない疑問である。その小町の質問に、映姫は腕を組んで上目遣いにニヤリと笑った。
 そこに、権力者特有の威圧的な凄味は無い。瞳はむしろ遊び盛りの利発な少年に近い。
 聞き手の反応を楽しんでいるような、悪戯っぽい笑みである。
「無論、匣を見つけない限りこちらには還ってこられません。発見し得ぬ限り、とこしえに地獄の灼熱に身を焼いてもらいますよ」
 当然のように言い切って、映姫はふん、と鼻を鳴らした。
 またしても、小町の背中に戦慄が走る。試験内容は単純そのものだが、話は何やらとんでもない方向に向かっている。文字通り、生き地獄と隣り合わせである。
 頭の片隅では、単なる脅しだろうという予感もあった。たかが試験ごときで、軽々しく無辜の魂を地獄に叩き込む真似はすまいと小町は考える。たとえ閻魔であろうと、そんなことをすれば職権濫用も甚だしい筈である。
 だがその一方で、まさかという思いも拭いきれない。映姫の言葉は、ただの脅しにしては度が過ぎている。それだけ必死になれという意味かも知れないが、それにしても一生地獄行きとは穏やかでない。
 愛らしかった稚い映姫の表情も、事ここに至っては小悪魔的な狡猾ささえ感じられる。
 何やら心なしか、さながら全てが計算尽くであるかのような、奇妙なうそ寒さを小町は覚えた。
「他にご質問は?」
「ええっと……匣って、中身は何なんですか?」
「秘密です。御心配なく、運べぬような重い物ではありません」
 映姫はしらばっくれてそっぽを向く。
 しかしこれは、半ば小町の予想通りの答えだった。実のところ、或いはその匣の中身が試験の肝となるのではないかとまで、小町は直感している。
「他には?」
 映姫は次を促す。
「地獄で亡者に襲われたら、どう抗えばいいのでしょう?」
「殴り合うなり説き伏せるなり、お好きにどうぞ」
「そこで斃れたら、やっぱり私の魂は永久に地獄に?」
「その時はひとまず死者として丁重にもてなしますわ。私がちゃんと裁判にかけて、魂の行く末を決します」
「途中で試験を降参することは?」
「まかりなりません」
「どうしても絶望したら?」
「獄卒の連中に刀でも借りて刎死すればいいでしょう」
 後顧の憂いを絶つ意味合いも込め、ひとまず思い当たる疑問を小町は全てぶつけてみた。
 が、救いのある返事は何一つ返ってこなかった。
 もっとも、小町とてこれ以上手掛かりを求める気もあまりない。綱渡りの試験ではあるが、事の筋は至って単純である。
「さあ、そろそろ行ってもらいましょうか、試験の方へ」
「あ、ちょっと待ってください。最後に一つ」
 座っていた椅子から立ちかけた映姫を、小町は手で制した。
「閻魔様」
 向き直る小町。
「なんでしょう」
 向き直る映姫。



「貴方の死神になれた暁には、貴方を映姫ちゃんと呼んでも良いですか?」



「……はい?」
 虚を突かれ、映姫の声が裏返る。
「……冗談ですよ」
「え……あ……ははは……」
 眼を白黒させる映姫。腰が砕ける。
 辛うじて、傍の机に手を置いて転倒だけは免れた。
 継ぎ早に三度深呼吸して息を整え、改めて、目の前の試験生を睥睨してみる。
 晴れやかな笑顔だった。
 またしても、無意味に映姫の心音が高まる。
「あの……ぶ……ぶっ飛ばしますわよ」
 すっかり我を失った映姫、思わずとんでもない言葉が口をつく。
「そんなこと言わないでくださいよう。それだけを楽しみに、地獄に行って参りますので」
 一層色めき立つ小町の瞳。
 ふつふつと沸き上がる映姫の鬼気をさらりと受け流すように、小町はわざとらしく肩を竦めて見せた。その飄々とした振舞に、映姫は眉をひくつかせ、そして途轍もなく大きな嘆息を漏らす。
 映姫自身心得ていることだが、特に亡霊から転じた候補生は、その生前の性格をそのまま受け継いでいることが多い。
 それが良かれ、悪かれである。
 小町と名乗るこの茶髪の少女が生前どんな人物だったか、映姫には透けて見えるようだった。
「さあ、そろそろ本当に油を売るのはお終いにしましょう。入り口は、そこだから」
 映姫が指さした場所には、一台の巨大な鏡が置いてある。
 その表面の光が、まるで湖の水面のようにふわふわと同心円にさざめいていた。
「ここをくぐれば、そこはもう地獄。その瞬間から、試験は始まるわよ。気を引き締めて行ってらっしゃい」
「はい……あ、あともう一つ」
「何ですか」
 先刻の突拍子もない会話の余韻そのままに、苛立たしげな表情で映姫は額に手をやる。
「もし……もし私が死神に失格だった場合、私はどうなるんですか」
「……」
 その姿勢のまま、映姫は暫し固まった。
 告げるべきか、一瞬逡巡する。しかし、ことさらに秘匿する理由は見つからなかった。ともすれば、隠し通した方が後々残酷な答えでもある。
「貴方の魂が、この場から消える。それだけです」
 小町の眼を見ずに、映姫はなるべくあっさりと答えを告げた。
 眼前でほんの微かに、息を呑む音が聞こえた。
「それで……それから、どうなるんですか」
「さあ。そこから先は、それこそ神か仏に訊いてください、としか」
 そこについては、映姫はつまびらかな明言を避けた。
 ひとまず、今言えるのはそこまでである。それ以上言えば、試験の禁忌に触れるとされているのだ。
 実のところは、試験に不合格となった魂はその直後に閻魔の審判、つまり浄玻璃裁判にかけられる。言うなれば、一度『死んだ』ことと同じになり、そして再び輪廻の巡りに身を置く定めとなる。
 しかし、死神となる資質を備えた魂はその性質上、再び元の輪廻環に戻ってゆくことが難しい。命と向き合いすぎて、運命のまま流れることに抗う力が蓄積されやすいのである。結果、多くの魂はやがて輪廻環から外れ、魔縁と称し天狗に転じるか、闇に転げ落ちて霧中に散じることになる。 
 一方で、辛うじて輪廻環に留まる魂もある。だが、そういった魂にもあまり恵まれた現実は待っていない。
 輪廻による行き先は六道と呼ばれ、先の三悪道に加え修羅道、人間道、そして天道の六通りである。そして死神になり損ねた魂は浄玻璃裁判において、その失格の烙印を負の要素として計上される。故に、罪人として輪廻に乗せられることが大半となるのである。
 その生前の思想や徳如何によっては、ごく希に最上級である天界へと転生できる場合もある。しかしそこにあっても死神としての資質が首を絞め、その寿命……いわゆる天人の五衰と呼ばれる時期が、他の魂以上に早く訪れることとなる。
 仮に人間道、つまり顕界に再び転生できたとしても、たとえば他人の死を操るような妙な霊力を帯びて生まれた挙げ句、心に闇を背負わされて自責や失意のままに夭折してしまうことが多い。
 つまるところいずれにしても、厳しい道が待っているというわけである。
「失格の後のことは、内証というわけですね」
「そういうことです。ただ、あまり願わしい結末でないことだけは教えておきましょう」
「御配慮、感謝致します」
 ぺこりと、小町はその頭を下げた。
 突拍子もない振舞をしたかと思えば、こうして粛として振舞い、常識的な態度を取ることも出来る。
 不思議な娘だと、映姫は改めて感じた。
「というわけで、私の話は以上です」
「ありがとうございました、閻魔様。では、行ってきます」
「はい。健闘をお祈りしてますよ」
 せめて最後は、笑顔で送り出そうと映姫は心に決めた。
 色々と引っ掻き回されはしたが、然るべき時には襟を正す。それが閻魔としての、いやそれ以前に、大人としての対応である。
 ここは一つ、それを示してやらねばならない。
「えっと……じゃあ出発前に最後に一つ」
 そう意気込んだ映姫を、またも小町が挫く。
「貴方の最後は何回有るんですか」
「お願いです、最後に一つだけ!」
「……何ですか」
 辟易しながら、映姫は小町に向き直る。
「……無事に還って来れたら、一緒にお風呂入りませんか?」
 蹴り飛ばした。
「きゃん!!」
 実に耳慣れない悲鳴を残し、奇妙な死神志望生はこうして鏡の奥の地獄へと、文字通りすっ飛んでいったのだった。


 騒がしい空気が治まると同時に、映姫の肩にどっと疲れがのしかかる。
(なんか……とんでもない娘が来たものね)
 そのあらゆる意味での豪傑ぶりは、僅かな対面で映姫にも充分に感じ取れた。まあ、当たり前と言えば当たり前である。
 その言動こそ破天荒だが、しかし冷静に考えてみると、なかなかに傑物とも見える。地獄へ赴くという文句に、小町は間違いなく人並みの恐怖心を抱いていた。その一方で軽口が叩けるのは、それとは全く別次元に平常心を置いている証左である。並外れて図太い神経、としか言いようがない。
 人間社会の中にあってはともかく、試験の趣旨からすれば、そんな性格は死神としての資質に何ら関わるものでもない。奇矯な先刻の振舞には、映姫自身むしろ憤り、呆れ果ててもいる。
 それでも、人に無い心根の持ち主という点には、少なからず惹かれる部分があった。
 少なくともちょっとした困難や脅威にはびくとも突き動かされない、そんな一面を映姫は小町から感じ取った。
 在り来たりな凡百の候補生に辟易し薄らぎ始めていた希望が、また胸の中でじわじわと鎌首を擡げてくる。

 もしかすれば、或いは―― 
 誰も居なくなった書斎の中、あてのない期待感に映姫は一人、静かに胸を躍らせた。




 * * *



「痛ったあ……」
 思いっ切り足蹴に付された臀部をさすりながら、小町はよろよろと立ち上がった。
 辺りを見回し、息を呑む。

 そこは、地獄絵図だった。

 無論地獄に来たからには当たり前なのだが、その形容があまりにもぴたりと填るのだから仕方がなかった。
 足元は一面どす黒い人の血でへどろのようにべっとりと汚れ、暗く澱んだ闇が地平を覆い尽くしている。聳える山は巌のように険しく、その地表には草木の一本たりとも見られない。
 河も湖も当然ながら有りはせず、そこかしこから人の呻き声や叫び声が谺する。
 見渡す限りただひたすらに岩と砂利が続く地面を、血肉や白骨、髪の毛などが隙間無く、累々と埋め尽くしていた。
「うぅ……」
 胸に蟠る不快感を、小町は唾と共に嚥下した。
 常人ならば失神しかねない壮絶な光景だが、流石にこの程度で気を失うような柔な神経ではない。
 仮にも死神を志す者、こんなところで音を上げるような真似をすれば、それはただの阿呆か間抜けである。
(桐の匣……か……とっとと見つけて、こんな場所お暇したいわ)
 倒れ込んだ拍子に手や膝を突いたせいで、既にあちらこちらと汚い血がべっとりとこびり付いている。が、さして頓着もせず、ぱんぱんと簡単に手を払っただけで済ませる。

 長細い形の、桐で出来た箱……
 その形を頭にしっかり思い描いてから、ひとまず道のように見える場所を、小町は一人歩き始めた。


          ◇ ◇


「のどかわいた……」
 五分で足が止まった。
 噎せ返るほどの熱気を帯びた空気が、小町の身体からたちまちに体力を奪ってゆく。装束の下の肌は、既に汗でべっとりと濡れていた。
 地獄には大別して二種類あり、灼熱地獄と極寒地獄がそれである。主に八熱地獄と八寒地獄と纏め称されるそれらの内、小町が送り込まれたのは八熱地獄に類する場所である。名が示すとおりそれには八種類あるのだが、その中のどこへ来ているのかまでは、小町にも分からない。分かろうとも思わない。
 地獄における実際の空気は、触れれば瞬時に皮膚が溶け落ちるほどの気温と小町は従前に伝え聞いていた。その割には汗をかく程度で済んでいるが、それは恐らく霊力の働きか、或いは映姫の計らいと見て間違いない。さすがに本物の地獄の状況下では、試験も何もあったものではないだろう。

「ほほう、新しい試験生様かね」

 地べたにへたり込んでぱたぱたと襟首をはためかせていたところを、一人の男が話しかけてきた。
 金棒と太刀を携えている。亡者という雰囲気ではない。
「ええっと……獄卒の方ですか?」
「おうよ。下っ端だが、よろしくな」
 若い男の声で、その鬼はにやりと嗤った。温かな人間の笑みではない。悪鬼の笑みだった。
 獄卒とは、地獄において刑の執行官の任にある者を指す。つまるところ、閻魔様の部下である。
 よろしくと言われたはいいが、別に好き好んで留まる気があるはずもなく、小町は反応に困った。
「あの、試験の匣、ってどこにあるんですか……って」
 取りあえず会話を繕うが、これは聞いちゃいけないよな、とすぐに小町は思い直す。
「ごめんなさい、今の忘れてください」
「ははっ、正直な死神様だねえ。確かに、俺様が教えちゃあまずいよなあ」
 かっかっと、獄卒はまた耳障りに嗤う。
「まあ心配なさんな。どうせこんな場所だ、行けるところなんて端っから限られてらあ」
 獄卒は、背後に顎をしゃくる。
 見るまでもなく、その言い分は、確かに当を得ていた。
 周りを囲む山や谷は、そのいずれも険しく切り立っている。崖のような岩山は、血塗られた地肌もあり到底登れそうにはないし、また渓谷の方も目が眩む深さである。
 選ぶほどの道はまるで無く、歩ける場所を辿っていれば勢い、針路が自然と定まってゆくような地形だった。
「ありがとうございます。僅かですが休めましたし、今からまた頑張って歩いてみます」
 人心地ついたところで、小町はその獄卒に礼を述べた。
「おう、頑張れよ」
 まるで人がそうするように獄卒は片手を上げて、小町が来た道の方へと、ずしずし歩いて行った。

 そうやって背を向けられて初めて、小町はあることに気が付いた。
 背後に担いだ金棒には、よく見れば髪や脂がべっちゃりとこびり付き、黒い血が滴っている。その腰巻きにも血の飛沫が飛んでいる。人間の身体を叩き潰すかすり潰すかして、そう時間を置いていないらしい。
 小町は微かに、背筋が震えるのを感じた。
 茫としていれば、気付かず過ごしてしまいそうである。気の良さそうなあの妖こそが、亡者に対し責め苦を負わせている、まさにその者なのだ。
 人の身体を無残に虐げ、痛めつけ、その苦しみを永劫に近い時間与え続ける鬼である。
 そんな獄卒と、普通に何気もなく会話していた自分……それが地獄なのだと分かっていても、その現実に小町は吐き気を覚えた。

 彼の心に、人間のような怨や鬼気は無い。ただ職務として、咎を背負った魂に機械的な苦しみを与え続ける。
 まして情け容赦などあろう筈もない。それが彼らの、任ぜられた役割なのだ。
 まるで新入りを迎える先輩のように、気さくに声を掛けてきたのも彼である。助けを希う亡者を前に眉一つ動かさず、太刀と鉄棒でその肉を引き裂くのもまた、彼の所行である。
 彼の振るうそれで、亡者は痛み続ける。どんなに血を流し肉を裂かれても決して死ぬことのない身体で、長い時間痛みに苛まれ続ける。
 彼はそれを、恐らくは口に笑みさえ浮かべて見ている筈である。

 彼の心はどこに置かれているのだろうと、小町はふと思う。
 人の身体を石榴のように潰して、その数瞬後に自分へ笑いかけてこれる心とは、一体何なのだろう。
 地獄の凄惨な光景よりも、小町にはその鬼の胸の内こそが、よほど嫌悪すべき地獄のように思えた。
(ほんと……早く出よう、こんなところ)
 何はともあれ、どうにか身体は適度に休まった。汗で張り付いた前髪を乱暴に手櫛で掻き上げて、小町は立ち上がる。 
 道の両端は、谷と山に囲われている。獄卒の言うとおり、差し当たって進む道は決まっていた。
 気を引き締めて小町は再び、やや覚束ない足取りで歩を刻み始める。

 遠く、亡者の悲痛な叫び声が聞こえた。
 かの獄卒が、歩み去った方向からだった。




 * * *


 歩いていて気が付いたことだが、地獄の石は、小石の大きさでも岩ほどの重さがあるのだ。
 既にもう幾度と無く躓いた小町の爪先は、最早痛みを通り越し、痺れだけを感じる有り様になっていた。草鞋にこびり付いた血には、或いは自分のものも混じっているのかもしれない。
 まして、左手は崖である。その下は、底も見えない渓谷が口を開ける。まかり間違って足を滑らせれば最後、文字通り奈落の底である。
 足も竦むその高さに気を取られ続け、小町の体力は激しい速度で消耗していた。
 どれほどの時間が過ぎたか、どれだけの距離を歩いたのか、小町にはまるで分からなかった。延々重い闇に包まれている世界を歩いていては、距離感も時間感覚も失われてしまう。
 何度目かの休憩に腰を下ろした岩は、やはり灼けるように熱い。無意識に腰の竹筒に手をやるが、気付いて再び手を離す。そこに入っていた水は、とうの昔に払底している。
 うっかりすれば弱気に心が挫けてしまいそうな中、ただ何も出来ないまま、小町は茹だるような暑さと疲労にじっと耐えていた。
 止め処なく滴る汗を拭いながら、辺りを見回す。
 その視界にふと、奇妙な地形が映った。
(……?)
 ひたすらに尖った凸凹道の中、一部分だけ奇妙なほど小綺麗に、平たい地面が段々を成している。
 座ったばかりの腰を上げ、小町はそこに歩み寄った。 
 階段だった。
 険しい山を二つに裂いて行くように、階段が峰の真ん中を真っ直ぐに貫いている。行き着く先は遙か頭上にあり、豆粒ほどの山門らしき門構えが辛うじて遠くに見えた。
(匣、発見ね!)
 小町は確信を持った。
 そこに何ら根拠はない。無いが、こういう宝探しのようなことをさせる時は、得てしてそれっぽい場所が設えられているのが相場というものである。探し求める匣が道端に落っこちているなど、端っから期待もしていない。
 ここに無ければどこにある……そんな雰囲気が、階段からは匂い立っていた。
 俄然元気を取り戻した小町、階段に足をかける。
(高……)
 見上げて改めて知ったそれは、凄まじい高さだった。
 段の高さはそれほどでもないが、とにかく段の数が桁違いに多い。そして長い。たとえ修験道の名刹であっても、こんな馬鹿げた階段はそう有りはしないだろう。
 ここまでの艱難辛苦に加え、この階段はあまりに辛い仕打ちである。死神の試験とは体力勝負なのかと思うと、どうにも不条理を嘆かずにはいられない。
「閻魔様の意地悪……」
 不満は独り言となって、口から零れ落ちた。独り言にしては大きな声だが、元よりどんな大声で叫んだところで、誰が聞きつける訳でもない。
 とはいえ、ひとりごちていても始まりはしない。

 気を取り直し、小町はようやく心を決めて、重い一歩を踏み出した。
 千里の道も一歩から、である。


          ◇ ◇


「うー……」
 三分で足が止まった。
 それでも気持ちほどの一休みを挟んだだけで、小町は歩みを再開していた。
 それこそ永久に続くのではないかとさえ錯覚する階段を、無言で小町は登り続けた。
 足は、階段を登る前から既に棒と化している。登れど登れど、杳として果てに行き着かぬその道筋に、幾度も心が折れそうになった。
 それまでの血塗られた地面と違い、その階段は血の雫一滴、髪の毛一本落ちてはいなかった。あの厄介な、やたらに重い小石も転がっていない。階段とはいえ、歩きやすさで言えばそれまでの道には比ぶまでも無い。聖域の類なのかもしれない。
 それでも、疲労が蓄積した足には厳しい。何度も己を励ましながら足を運び、気が遠くなるほどの段を登ったところでようやく、小町は山門の裾に到達した。
 豆粒に見えた山門は、近づいてみると途轍もなく大きかった。
 威厳溢れる丹塗りの門構え、その両の脇には仁王像が据えられ、射竦めるように小町を睨んでいる。その表情の只ならぬ鬼気に、見上げた小町も思わず背筋を震わせる。
 地獄で見るそれは、人間界以上の威圧と不気味さを湛えていた。

 暫しして視線を下ろすと、小町は門の奥に何者かの影をみとめた。 
(……?)
 暗がりに目を利かせて、その正体を探る。

「やっと参ったか。遅いわ、戯け者が」

 険しく重い声が、暗中から響いた。
 その影が立ち上がり、ゆっくりと小町の方へ歩み寄る。
(ひっ……!)
 声にならぬ声が、小町の喉から漏れる。
 それは、牛だった。
 否、正確には、牛の頭を持つ鬼、である。

「我は牛頭なり。御主の顛末を見届ける、獄卒の者よ」

 荘厳な響きを持った低い声が、腹の底に響く。
 その単語に、小町は聞き覚えがあった。
 牛の頭、と書いてごずと読むその鬼は、数多跋扈する地獄の鬼達を統べる役、いわばこの地獄界において筆頭格の獄卒鬼である。
 地獄とくれば、閻魔と共にその存在がまず第一に思い浮かぶ、名のある獄卒の一人だった。
 彼は、その牛頭だという。
 つい躊躇いもなく、小町は舐め回すようにその姿を観察した。
 場違いに好奇心を丸出しにした小町に、牛頭の眉が心なしか歪む。
「あ! それ、もしかして……」
 その小町の視線が、足元に這ったところで止まった。彼の膝元に、木目の匣が置かれているのに小町は気が付いた。
 薄暗い中にあってぼうっと浮かぶそれは、紛れもなく箱形であり、また長細く、そして木で出来ているように見える。
「明察。これぞ、御主の求むる匣に相違は無い」
 小町が問うまでもなく、牛頭はあっさりと真実を告げた。
 疲れ切っていた小町の顔に、ぱっと明るさが広がる。だが同時に、それが牛頭の膝元にあることが、小町の頭に別の疑念を掻き立てた。
「……あの、まさか、貴方を打ち倒さなければいけないなんて事、ないでしょうね?」
 もっぱらの疑問は、そこに尽きる。
 そんなことは小町、間違っても御免である。生来喧嘩の心得など碌々無い上に、今の手には得物らしい得物の一つも持ち合わせてはいない。しかも携えていたところで大差は無く、無双の膂力を謳う地獄の鬼などを相手にすれば、どのみち歯の一本すら立つ筈もない。まして素手で挑めば、鎧袖一触請け合いである。
 早い話が、喧嘩を売られれば最後、この身がただで済むとは思えない。
「案ずるな。我はただ、御主を見定めるに過ぎん」
 牛頭はしかし、威厳溢れる声で小町の疑念を一蹴した。
「この匣を手に取りて、冥府に馳せ戻るが良い。出口は、御主の頭の上に垂れておる」
 視線で小町を射留めたまま、牛頭は呟いた。
 その言葉に身を硬直させたまま、小町の視線が宙を這う。
(……?)
 そこに、一本の白糸が垂れ下がっていた。
 いかにも頼りげのない、細く煌めく糸である。
「それは蜘蛛の糸。その果ては、冥府に通じておる。それこそが只一本の道にして、それを使わずばこの世界からは脱し得ぬと心得よ」
 牛頭はそう言った。
 その真偽を定める術は無い。が、まさか牛頭たる者がこの場に及んで、試験生たる小町を誑かすとも考えにくい。
 ひとまず小町は、その言を信じることにした。
 恐る恐る牛頭に近づき、その膝元の匣を小町は手に取った。
 映姫が事前に言ったとおり、その匣は小町の腕力でも持ち上げることが出来た。それどころか、羽のようにまるで重さを感じられない。たとえ中身が空であっても、ここまで軽くなるとは小町には思えなかった。これにもまた、何らかの術が施してあると見て間違いはない。
 小町が匣を手にするのが合図だったように、白糸の先端がするすると、その眼前に降りてきた。
「長居は無用」
 ぼそりと呟いた牛頭の声に、小町はびくんと肩を震わせ、慌ててその糸を掴んだ。小脇には、件の匣を挟んでいる。 
「御世話になりましたあ……」
 恐る恐る小声で呟いて、小町はそそくさとその糸を手繰った。
 言いつけられた行動は、本来であればあまりにも無理がある。さながら糸で木登りせよと注文されたようなものである。
 しかし、あっさりと小町の身は持ち上がった。本来なら中空で掴み続けるさえままならないはずだが、まるですっかり吸い付くように、軽々と小町の身は天へ昇ってゆく。大きな匣を抱え十全な体勢ではないが、その障りさえ微塵も感じない。
 不思議な感覚に不気味さを覚えながら、小町は素直にするすると糸を手繰った。
 瞬間、不意に頭上の糸が不自然に揺らいだ。
(……?)
 血塗れの亡者が一人、同じ糸を手繰り、小町を追うように登ってきていた。 
「え……ちょっ……」
 必死になって、その下の牛頭を探す。
 が、その姿はいつの間にか、どこかへ消えていた。
 亡者の重みが加わったせいで、糸は今にも切れそうに、頼りなく震えている。
 小町は戦慄した。
 この道が唯一、冥府に戻る道である……そんな牛頭の声が、脳裏を掠める。
「あのっ、貴方達……!」
 必死になって、小町は言葉を投げる。亡者はしかし、聞き入れる様子も無い。
 耳につく呻き声を低く上げながら、血に塗れた顔で小町を見上げてくる。
 そのおどろおどろしい形相に、小町の背筋がざっと粟立った。
 糸が一際、大きく揺れる。
(……!!)
 ちっ、と小町は小さく舌打ちをした。
 このまま行けば、糸は切れるだけと小町は見る。
 そしてこの糸は、試験生たる自分のために用意されたものである。
「この糸は私の為の糸よ! 貴方の……」
 その意思を、小町は眼下の亡者に告げようとする。

 瞬間、小町の脳裏に妙な記憶が浮かんだ。

(あれ……これ、どこかで……)
 咄嗟に、白糸ではなく記憶の糸の方を手繰る。
 さして学に造詣もない小町だが、その知識はほどなくして輪郭を得た。
(カンダタ……そういうことか……)
 小町の顔に、勝ち誇った笑みが浮かんだ。
 その『小説』は、小町が辛うじて脳の片隅に仕舞い込んでいた、数少ない彼女生前の愛書である。
(閻魔様、牛頭殿……この試験、頂きました!)
 小町は、再び視線を下に転じた。
 そこにいる亡者と目が合う。尤も合わせるべき眼球は潰れ、眼孔は空洞になっている。

「名も知れぬ亡者殿、先ほどの前言、撤回致します。さあ、一緒に外の世界へと戻りましょう」

 その苦しげな顔に、小町は優しく微笑みかけた。

 何のことはない、匣だ何だはつまるところ関係ないのだ。
 ただ偏に、この世界を脱する時の態度で、その心根を量るという意図だったのだ。
 宝探しは、いわばそのおまけだったのだろう。
(どうりで、試験が単純すぎると思った……これで見事一本に繋がったわね、私の疑問も……)
 地獄からの出口も。
 そんなつまらない諧謔にさえ、小町は一人、にやけた笑みを堪えきれなかった。
 かの小説を偶然読破していた経験が、結果的に小町に微笑んだのである。
 少々卑怯な気がしないでもないが、名文学に触れていたことを生前の徳と考えれば、閻魔様の裁定にも汲み入れられて然るべきというものだろう。なれば、そこで優遇の差を受けることも、何ら誹りを受けるものではない。それを不正だ不公平だと勘繰るのは、野暮である。
 糸は、いよいよ激しく揺れる。
 正しく、今にも切れそうな風情である。
 だが、小町は既に絡繰りを看破している。ここに至って、下の亡霊を突き落とすような真似はしない。
 いかにも切れそうな弱々しい糸は、『ひっかけ』である。
(あと少し……)
 そうこうしているうちに、残りの糸も少なくなってきた。
 暗雲の中に消えているその先が行く先を、小町はもう疑わない。
(あの子供っぽい閻魔様の鼻、明かしてやれるわね)
 一層にんまりと、小町は微笑んだ。
 事後の想像に想いを馳せながら、最後の距離に、小町はがっちりと手を掛けた。
 掴み損ねないよう、ぐっと掌に力を込める。 

 切れた。

「へ?」

 それ以上、声を上げる暇もなかった。
 そのまま亡者共々、小町の身は元の地面へと真っ逆さまに落下する。
「っ!!」
 目一杯、背中を打った。
 雷のような衝撃が全身に疾る。
「この、ど戯け者が」
 その頭上から、先ほどまでに聞き慣れた声が降り注いだ。
「下衆の勘繰りとは貴様の如き浅慮を言うのよ。かの著名な神品を以て、曲がりなく準えると本気で思ったか」
 心を見透かしたように、牛頭は嘲った。
「見下げるでない。もう一度、己の考えを見直すが良い」
 痛みに呻いていた小町、その言葉にも反駁の術はない。
 後ろ手に背をさすりながら、しょんぼりと頭を垂れる。
「機はもう一度訪れる。御主がこの界に来た、その場所に歩き戻れ。その道程に、己が愚考を悔い改めよ」
 衝撃で未だ立ち上がれない小町にそれだけ言って、牛頭は山の奥へと去っていった。
 亡者の姿もいつしか消えており、後には桐の匣と、惨めな死神試験生の姿だけが残されていた。



 * * *


「ああもう……ああもう……」
 ぶつぶつとひとりごちながら、小町は今来た階段を降りていた。
 背中の痛みは、程なくして引いていた。無傷で助かる高さではなかったはずだが、これもまた試験中の一つの特例ということらしい。
「そうよね、小説通りなんてちょっと簡単すぎると思ったのよね、うん」
 そう思わないと、やっていられなかった。
 牛頭に命じられたとおり、小町はそれまでの旅程を一から逆に辿らんとしていた。
 行きがけの登り階段にもほとほと手を焼いたが、足が疲れている時に限っては、下り階段の方が一層骨が折れる。すっかり笑ってしまっている膝では、転げ落ちないよう身を保つので精一杯だった。
 まして、行きの途には無かった大荷物が、帰り道には増えている。
 重みはないこの匣だが、しかし両の手が塞がってしまうという点だけでも、既に充分煩わしい荷物となっている。疲労困憊でふらつく足取りとあっては、胸にこんな大物を抱えて歩くのはどうにも難儀である。相変わらず躓きやすい道も相まって、必要以上に気と体力を取られる原因となっていた。
「許されるのは、あと一回か……」
 牛頭の言葉を、小町は回想する。
 その言が正しい限り、既に後はない。 
 背水の陣に追い込まれた小町、考えるのは、この試験の「狙い」のことである。
 試験というからには、必ずや正解若しくはそれに準ずる目安がある。そこには必ず目的、則ち死神として何らかの資質を見定めるための何某かの基準ないし意図が含まれる。
 仮に、先ほどの小町の選択が『正解』だったとしたら……それが意味するところは簡単に目星が付く。至極単純に、生ける者として心に保つ慈悲、仏心を計る狙いだろう。それは、件の小説に照らしても間違いはない。 
 だが、現実には閻魔にとって、その選択は望まない答えだったらしい。とするならあの時小町が取るべきだった行動は、取りも直さず亡者を突き落とすことだったということになる。
 否、或いはそう見せかけて、再試験でもう一度慈悲の行動を取ることが真の正解、ということも有り得る。引っかけじみてはいるが、そんな絡繰りが無いとも言い切れない。

 疑い始めればきりもなく、探ればそれこそ底も見えない。
 結局小町は、その意を汲み取ることを放棄した。

 そうやって様々な物思いに耽る内、その場所へは存外に早く辿り着いた。道に歩き慣れたせいもあるかもしれない。
 それでも疲労に疲労を重ねて歩いた道を、また同じだけ歩いてきたのである。小町の体力は、そろそろ限界を迎えつつあった。
 膝に手をつき、肩で息をする。
「へへっ、御苦労なこった」
 その横から、再び声が聞こえた。
 小町が振り向いたそこには、またも鬼が立っていた。先ほどの牛頭に似ているが、闇に浮かぶ輪郭が僅かに違う。
 尤もその全体像を見るまでもなく、小町にはそれが一体誰なのか、薄々見当が付いていた。
「馬頭さんですね」
 さん付けをするのはおかしいかな、とも思いながら、小町は自分からその影に話しかけた。
「んお? お嬢ちゃん、俺のこと知ってるのかい」
 牛頭よりかは幾分さばけた口調で声色を返し、その鬼は目を丸くした。
「当たり前です。先ほど牛頭に出逢いましたから、どこかで馬頭にもまみえるだろうと予感しておりました」
 馬の頭を持つ眼前の鬼に、小町は誇らしげに胸を張って見せた。
 先の牛頭とこの馬頭は、二人とも見た目通り畜生の獄卒である。別に互いに補佐補完するわけではないが、それこそ山門の仁王像に阿形と吽形があるのと同様で、牛頭馬頭は二人で一対を成しているという色が濃い。
 その見た目は一種異様で滑稽な鬼だが、その実彼らは地獄の獄卒の中でも、際立って強大な力を持つ立場にある。もっぱら閻魔が直轄する部下としては、最も高い位にあると言って良い。
 その膂力は強力無双。性格は冷酷にして残忍と名が高い。獄卒鬼の最高峰にして、いわばその最たる典型と言えた。
「はっはっ、牛頭に逢ったんなら、一回目は見事失敗したか」
 耳障りな声で馬頭が嘲笑する。
 小町、それにむっとする。
「そうですねー。でもどうせ二度の試験に二度とも立ち合いが居るなら、貴方達よりもっと尊べる相手が良かったわぁ。仏様って二人組が割と少なくないのに、牛馬じゃ目の保養にもなりゃしないじゃない」
「馬鹿言え、地獄に仏を地で行けってのかい?」
 分を弁えない小町の手厳しい罵詈にも、馬頭は薄笑いさえ浮かべ、さして怒る様子も見せない。
 それでいて当意即妙なその答えに、小町は内心苦笑して口を噤んだ。
 曲がりなりにも、仏法に仕える役人である。
「さて、だべってる時間はねえ。最後の一回だぜ」
 馬頭が天を仰ぐ。
 中空からするすると、また白い糸が降りてきた。
「お節介かもしれんが、言っておくぜ。余計な邪知は捨てな。お前が死神として生きる時にどうありたいか、どうあるべきだと思うか、その心のままに身の振りを決めな。それでこその試験だぜ」
 その糸の先を目で追いながら、ぶっきらぼうな口調で馬頭が言った。牛頭よりも饒舌な性格らしい。
「心得ました。ありがとうございます」
 小町は意識半分で、それに返した。
 ここに来るまでの道のりで、小町は様々な考えを巡らせてきた。吟味し、取捨し、予想を立てて―― その結論は、ついには出ていない。
 しかし、もう迷う余地がないのが現実である。
 小町の意は、一つに決した。

 『こう思いましたからカンダタは、早速その蜘蛛の糸を両手でしっかりとつかみながら……』

 小説の節が、脳裏に蘇る。
 糸の先を、掌で包んだ。
(別にここで、死ぬ訳じゃないんだから――)
 自分に言い聞かせた。
 大事に運んできた匣を、改めて小脇に抱え直す。
 その様子を、馬頭が見守った。
(最後の、一回――)
 頬を、汗が伝う。
 瞬間、遠く絶叫が谺した。獄卒から責め苦を受ける、亡者のそれである。
 小町は、心の中で耳を塞いだ。
 きつく、聞こえないように聴覚を閉ざす。
 深呼吸を一つ――
 細い糸の感触を掌に確かめるようにして、小町はゆっくりと、天へ登り始めた。

 カンダタは、亡者を突き落とさんとして、地獄へ逆戻りの運命を負った。
 それを知る自分は亡者をも助けんとしたが、白銀の糸は耐えかねた。 
 熱風が、髪を揺らす。
(お釈迦様が言いたかったこと、か……)
 カンダタに糸を垂らし、その先で待っていたのは、釈尊だった。
 今この糸の先で待つのはしかし、極楽の主たる釈尊ではない。
 地獄を統べる、夜摩天である。
 それが、カンダタと小町との、決定的な違いだった。
(こんなこと……)
 小町は唇を噛む。
『ほほう、新しい試験生様かね……』
 入り口で最初に出逢った獄卒の、生々しい声が耳に蘇る。
 生温い血を金棒に滴らせて、楽しげに話しかけてきた悪鬼の笑み。
 その記憶を振り払うように、小町はひたすら、細い糸を手繰った。

 釈尊と閻魔の差異……そこに目を向けることが、小町は怖かった。
 自分の師事する者が、閻魔である―― そう知覚し、この試験の『正解』を知ってしまうことが怖かった。

 白糸が揺れる。
 眼下に亡者が居た。真っ直ぐに垂れた細い糸を、必死によじ登ってくる。
(……来たわね)
 時は至った。糸の握りを強める。
 自分は他でもなく、死神を志す者である。
 ならば、その自分がすべきことは決まっている。
 だから、出す答えは、糸を登る前からもう心に決めている。
(これで、終わる――)
 懐中を探り、細い鞘をつまんだ。
 身を護る最低限の物と気慰みに携えていた、小指ほどの長さの小刀だった。それなりの業物である。
 柄を右手に持ち、口で鞘だけを引き抜いて眼下に棄てる。
 乾いた音が響き、空の鞘が地に撥ねた。
 その傍には、馬頭がいる。傍にはいつしか、牛頭も侍していた。
 その唇が、にやりと嗤う。

「あばよ……」

 歪みきった笑み。
 馬頭の零した小さな声は、頭上の試験生には届かなかった。


 小町のほんの真下には、自分を追って糸に縋る、哀れな亡者が迫っていた。
 目は窪み皮膚は爛れ、その形相すら最早定かではない。先刻に牛頭の前にて現われた亡者と同一なのか、小町の眼ではそれすらも判然としない。
 亡者は、言葉を紡ぐこともない。もがくでも、或いは何かを希うでもない。
 ひたすら小町の後を追い、糸を手繰る亡者。
 そのぽっかり空いた空洞の眼孔から、どす黒い血が溢れ流れた。
 その身も竦む表情が、しかしどこかまるで泣いているように小町には映った。
 声もなく、ただひたすら曰く言い難い苦難を訴えているように思えた。

(私には、罪はない―― 悪いのは、貴方なんだから――)

 心の声で、小町は必死に叫んだ。
 亡者への誹りではない。全ては、自分に向けられた声である。
 小刀の柄を、しかと握り直す。
 その掌に、汗が浮いた。
(さようなら、地獄……)
 白糸に白刃を当てる。闇を映し、刃先が黒く濁って光った。
 不意に、白糸が激しく揺れる。
 亡者が、激しく抗っていた。見えないはずの眼で小町を捉えたように、その貌が忌々しげに歪んでいる。
 空洞になった眼孔が、小町を睨む。まるで射竦めるように、それは右手の小刀に注がれている。
 小町は恐怖を覚えた。
 後ずさる地面はない。逃げるように、上へと一掴み、糸を手繰り登る。
 亡者もまた、それを追うように僅かに登る。
 その重みに耐えかね、腐ったその指が砕ける。
 黒い血が飛び散った。つんと、饐えた臭いが鼻をつく。
 小町はその様に、吐き気を覚えた。
(頑張れ――)
 己を奮い立たせ、改めて、白刃を糸に当てる。
 亡者の手が必死でもがく。
 不意に、その眼が合った。 
 どぷりと、その眼孔から血が溢れ出す。
 小町にはそれが、慚愧に打ち拉がれる滂沱の涙に見えた。
「ごめんなさい……」
 心の本音が、口に出た。
 白刃に映り込む、涙目の自分。
 その貌が、初めに出逢った獄卒の嗤いに重なった。
 亡者を苛む、地獄の鬼。
 こともなげに話しかけてきた、かの悪鬼。
 誰かを叩き潰し、痛めつけ、数瞬の後には笑っていられる獄卒達。
 心を遠くに置き忘れてしまったような、乾いた嗤い。
 あの時の嗤った貌が、脳裏にこびり付いて離れなかった。

 遠く、無数の亡者の呻きが聞こえる。
 慚愧の叫びか、苦痛の呻きか、或いは小町の幻聴か。
 無数の声が、熱風に乗る。身を裂かれ、骨を砕かれ、のたうちながら懺悔を叫ぶ。
 倦む事無く、それを苛み続ける獄卒。
 飛び散る肉片。舞う血飛沫。
 また誰かが、切り裂くような叫びを上げた。

 白刃に、耐えられなかった一滴の水が落ちた。
 血に染まった、地獄の水ではない。深い哀しみだけを湛えた、温かい水である。
 雫は震える刃先を滑り、粒となって落ち、亡者の額を温かく濡らした。
 瞬間、小町は一思いに、刃を引く。

 糸が縮み上がり、微かに身体が浮いた。
 ぷつりという音を立て、亡者の身体は再び、奈落の底へと墜ちてゆく。
 ぼやけた視界で、小町はそれを茫と見送る。
 小さくなっていく、亡者の貌。
 断末魔のままの、苦痛な貌。

 転瞬――





 身体が、地面に跳ねた。






「お帰りなさい」






 瞑っていた目を、そっと開く。
 そこに、あどけない閻魔の笑顔があった。
「試験は以上で終了です」
 静かに、その唇が温かな声を紡ぐ。
「カンダタを助けたのは、温かいお釈迦様でした。彼は慈悲の心を持って、地獄に苛まれる大泥棒を助けんとしました。
 ですが、私達は釈尊ではありません。我々の役目は、天秤の如き公平さで、死者を裁くこと。罪も徳も、全てを斟酌し、その魂の顛末を定めること」
「……」
「我々に、慈悲の心は要りません。慈悲を持てば、天秤は不自然に揺らぎます。誰かを慈しみ救いの手を延べるのは、御仏の仕事に他なりません。
 善を救うのが釈尊ならば、悪を裁くのが我々である。そう心得ていなければなりません」
 懸河のように雄弁に語る映姫の口調を、小町は黙って聞いていた。
 まだ止まぬ汗が、頬を一筋つたった。
「故に、貴方が取った行動が、この試験の正解となります。結句、亡者に情けをかける必要はないのです」 
 ぼうっとしていた頭が、ようやく冴えを取り戻してくる。
 長い間噎せる熱気に当てられた小町の皮膚には、室内であってもその空気は寒いほどに感じられた。
 ぶるりと、一つ身を震わせる。
「では、正式に貴方を死神に――」
「閻魔様」
 映姫の言葉を遮り、小町は声を上げた。
「私、死神にはなりません」
 はっきりとした口調で、眼を見て小町はそう映姫に告げた。
「閻魔様の言い分は分かります。我々が情けをかけてはいけない……その立場は、弁えているつもりです。
 それでも、私は迷いました。迷いに迷って、あの亡者を見捨てました。
 彼が生前、どんな悪行に身を働かせたのか、それは知る由もありません。知ろうとも思いません。ですが、彼の顔は紛れもなく、最早人の顔ではありませんでした。とうに感情を忘れ、償いも忘れ、それでも麻痺さえ許されず、痛みに身を焦がし続ける。その彼を、私は本当は、見捨てることなんて出来ませんでした。仏法に背くとしてもです。
 それが、私の本心です。そこまで私は、冷酷になりきることが出来ません」
 一息に、小町は言い切った。
 地にへたり込んだままの小町、その様を映姫は身じろぎひとつせず、ただじっと見下ろしている。
「貴方が死神になれなければ、貴方の魂は消え失せるかもしれない。それでも良いのですか」
 静かに、映姫が問う。
「構いません。鬼のようにこの心を失うくらいなら、その方が望ましいくらいです」
 鬼のように。
 獄卒の笑みが、また記憶を掠めた。
「試験は失格で構いません。私は、死神として失格です」
 消え入りそうな声で、小町は呟いた。
 乾いた声だった。
 映姫は黙して、瞳を閉じる。
 しばらくそのまま、何事かを沈思するように押し黙った。
 二人の間に、沈黙が降りる。陽光の差す静寂の中に、紅葉の葉擦れだけが窓外からさやさやと聞こえた。

「……貴方の言いたいこと、余さず汲ませて頂きました」
 やがて、映姫の声が落ちる。
 その声音は、優しかった。
「匣を開けなさい」
 映姫の声に、小町はすっかり存在を忘れていたそれを思い出す。
 投げ出されたように、その匣は小町のすぐ横に転がっていた。
 蓋を探ろうと、匣を回す。
「えっ……?」
 重かった。
 訝しみながら、それでもどうにか取っかかりを見つけ、小町はそっと、その蓋を外した。

 真新しい鎌が、納められていた。
 恐る恐る匣から取り出すと、それはたちまち、小町の背丈ほどにも膨らみ上がった。
「きゃっ!?」
 驚く小町の前で、映姫が笑う。

「貴方を正式に、私直属の死神として採用します」

 耳を疑った。
 小町の目が、大きく見開かれる。
「ですから、私は……」
 反駁を試みた小町の声を、映姫の小さな掌が制した。
「確かに、死者を慈しむのは我々の役目ではありません。そこに情を入れて仏法を曲げなどすれば、それは畜生か大罪人と同じです。
 でもその一方で、心を失ってしまった者に、死神という任は務まりません。魂は等しく、その瀬を溢れる感情に包んで生涯を送る。喜怒哀楽、慈悲に煩悩に信仰心、全ての心に身を焦がしながら皆生きてゆく。
 その魂を舟で冥界へと運ぶ者が、心を失っていてどうして務まりますか。人の苦しみを解せぬ者に、どうして魂が運べますか。一度目の試験で僅かでも仏心を見せないような人には、それこそそのまま獄に留まってもらった方が良いくらいです」
 クックッと鳩のように笑い、映姫は前髪を掻いた。
 映姫の言葉に、小町はまだ知り得ていなかった試験の真相を悟った。
 一度目の失敗は、『織り込み済み』だったということになる。
 引っかけじみた絡繰り……危惧していたそれは、最初から充ち満ちていたというわけである。
 再び、沈黙が訪れる。
「……何だかよく分かりません。ですが……」
 慎重に、小町は言葉を選んだ。
「私は本当に……」
「……」
「本当に、死神になっても、良いのでしょうか」
 映姫の瞳が、見開かれて固まる。
 そして、ぷっと吹き出した。
「私が良いと言っているのです。貴方はそれを疑うのですか」
「あ、いえ、そういう訳じゃ……」
 慌てて手を打ち振る小町に、映姫は優しい笑みを浮かべた。
 つられ、小町も相好を崩す。
 二人はそのまま、しばらく笑い合っていた。
「さて、では最後に問いましょう」
 映姫が口を開いた。
 表情は相変わらず、柔和なままである。
 しかし小町には、その表情に心なしか、陰が差したように見えた。

「その匣、どうされますか?」

 映姫の視線を追い、小町も視線を床に落とす。
 そこには、今しがた鎌を取り出して空になった、長細い匣が横たわっていた。
「その匣は今見たとおり、鎌を納めるための特殊な代物です。その匣が無ければ、鎌を仕舞うことはまかりなりません。
 それがどういう意味か考えて、その匣をどうするか、貴方が決めて下さい」
 映姫はそれだけ言うと、腕を拱き、三歩ほど後ろに下がる。
 小町の前には、大きな匣と、更に大きな鎌だけが残された。

 何事もなく、小町は心を決めようとした。
 その脳裏に、しかしまた獄卒の野卑な嗤いが蘇る。
 怒濤のように、今訳が分からぬまま、自分は死神になろうとしている。今しがたまで蟠っていた嫌悪感は、映姫の優しい言葉の前に、あっさりと消えていた。
 だが、それは一時とはいえ、紛れもなく自分の胸を支配した吐き気である。
 亡者に鉄槌を振り下ろす獄卒と、亡者の目の前で救いの白糸を断ち切った自分。
 その影は、確かに自分と重なって見えていた。
 死神になることは、その影を命尽きるまで背負うということである。
 瘤のように心の皮膚を破り、膨らんで、また自分を痛みに苛まないとも限らない。
 それは、誰よりも小町が、分かっていることだった。

 目の前には、匣。
 人生という双六を、振り出しに戻すための戻り道。
 その匣の処遇。
 小町は迷う。
 手探りで迷う。


 たが、幾度迷っても、出てくる答えは一つだった。


「閻魔様……」
「何ですか」
「生きる人って、悩むものなんですね。悩んで迷って、挙げ句の果てに後悔して。
 かと思えば、何の迷いもなく悪事に手を染めて、それで地獄で彷徨って。凄く、馬鹿みたいだって思います」
 小町の声は、晴れやかに伸びた。
「でも、どこかで決めなきゃならないんですよね。それが僅かでも、愛してゆく決心が出来た職なら、尚更のこと」
 足元の鎌を、手に取った。
「獄卒と話をした時……亡者の前で、糸を切った時……私、自分を嫌いになりかけました。
 でも、映姫様の言葉で救われた気がします。何でか分からないけど、結局私って、死神になりたいなって、心で願ってましたから」
 両手で柄を捧げ持つ。
「だからもう、迷わないことにします。ううん、迷っても、悔いても良い。絶対にこの職を全うします。
 慈悲もないけれど虐げることもない、ただひたすらに、人の心を運んでゆく、この職を必ず」
 大きく、鎌を肩越しに振りかぶる。
「……というわけで、御世話になりますね、閻魔様」

 目一杯、力の限り小町は鎌を振り下ろした。
 破裂音を立て、匣は弾け飛んだ。
 後顧の憂いが霧散するように、匣は跡形もなく木っ端微塵に砕けて辺りに飛び散る。
 映姫はじっと、それを押し黙ったまま見つめていた。
 その表情に、僅かに驚愕の色が浮かんでいる。
「……貴方は、本当にそれで、良いのですか」
 映姫の声。心なしか、震えているように聞こえた。
「私が良いと言っているのです。貴方はそれを疑うのですか」
 小町はにやりと笑って、今しがたの映姫の言葉をそのまま真似た。
 思いがけぬ鸚鵡返しの返答に、映姫は微かにたじろぐ。
 そして、表情に僅かな逡巡を紡いでから―― 破顔、一笑した。
「まったく……やっぱり、変わった子だったわね」
「え?」
「なんでもありません」
 映姫はそう言って、かぶりを振った。
 その真意は、小町にも汲みかねる。
 訝しんで、その顔を覗き込む小町。
 その小町の顔を、映姫はもう、見てはいなかった。


「うわあ! 綺麗な紅葉ですね!」
 程なく窓外に視線を移した小町、唐突に頓狂な声を上げる。
 ほとんど耳元で上がった大音声に、映姫は露骨に眉を顰めた。
「ちょっと、人の鼓膜を打ち破るつもりですか」
「だって、見てくださいよ本当に綺麗なんですから!」
 その声には、まるで邪気がなかった。
 今ここで展開した会話を、早くも忘れ果ててしまったかのように。

 映姫はまた、苦笑を堪えることが出来なかった。
 この娘には、勝てないなと思った。
 諦めかけていた、理想の従者。
 最高の死神は今、映姫の前であっけらかんと笑っている。
 床には、粉々に散った匣の欠片。すっかり傾ききった斜陽に、ほんのりと照らされている。
 視界を外に転じれば、夕陽の黄昏色に紅葉が染まり、いよいよ赤みを増していた。
 この場が一人なら、小町でなく映姫とて、感嘆の声の一つも漏れていたかもしれない。
 その美景は、迷いや苦しみを内包しながらも、それでも楽を味わえるこの世の象徴であるように映姫には思えた。
「閻魔様、よろしくお願いしますね」
 紅葉に目を向けたまま、小町が呟く。
「貴方、すっかり名前を忘れてるんじゃない? 四季映姫と申します。映姫で良いわ」
 いくらか腰を和らげて、映姫も答える。
 今日から彼女は、無二の従者となってくれる者である。
 そこに他人行儀は、もう必要ない。
「よろしくお願いします、映姫様」
「こちらこそよろしく、小町」
 握手を交わす。
 小町のその手がしかし、ふと止まる。

「……映姫ちゃん、じゃダメですか?」
「ダメです」

 きっぱりと、映姫はその提案を斥けた。









 * * *

 epilogue:

 * * *



 玻璃鏡が、僅かにさざめいている。 
 その表面を眺めながら、映姫はため息を吐いていた。
 鏡面には、覗き込む映姫の鏡像ではなく、微風に波立つどこかの河面が映っている。
「お邪魔するよ」
 嗄れた声が背後からかかり、映姫は振り向いた。
 そこに立っていた声の主は、小さな小さな老爺である。映姫自身女の中でも小柄な身だが、老爺はそれに比してもなお頭一つ低い。せいぜい十も行かぬ童子ほどの背丈である。
「久しく見んかったが、元気だったかね。御主もすっかり、別嬪さんよのう」
「……御老体も、相変わらず達者なようで何よりですね」
「おうよ、身も口もこの通り、達者も達者の真っ盛りじゃ」
 開口一番軽口を叩いた老爺、呵呵大笑を周囲に轟かせつつ無遠慮に映姫の横へどっかと腰を下ろす。映姫もまた、それを止めもしない。
 小町と組んで幾星霜、辛うじて、映姫ちゃんという呼称だけは撤回させるに成功した。
 また映姫自身、経験という名の齢を蓄えて、威厳が増してきたとも自覚している。……小町に言えば、自惚れの勘違いと一笑に付されるに違いない。
 皺の深い老爺の瞼、その奥の眼が、程なく映姫の前の玻璃鏡へと向く。そこには、実に締まりのない顔が映像として映し出されている。
 三途の河面にて舟上に微睡み、涎さえ垂らしそうに開いた口。
 取りも直さず、今話題の渦中にある当人の顔だった。
「ほう、千里眼術で覗き見かね」
「まったく、さぼってばっかりで」
「己が部下の午睡を覗き見るとは、御主も下衆よのう」
「監督責任、と言っていただけるとありがたいですわ」
 老爺の苦言を、映姫はにべもなく突っぱねる。もっとも老爺自身、どれだけ本気ということもない。
「まあ良いではないか、そうこき使わずたまには休ませてやんなされ。のう、こんなに可愛い娘さんじゃろうがさあ」
 けひひ、と、また下品な笑みを零す老爺。慣れたもので、映姫もそれに何も言わない。
 その老人も、また閻魔だった。映姫とは立身の先後こそあれ、旧知の間柄である。皺の数だけの経験を重ねた熟練の士にして、貴職と老境の極地にあってなお色情衰えぬという筋金入りの好色者。生真面目一辺倒な映姫とは、その意味において対極にあると言って良い閻魔である。
「銭投げの小娘、か。御主があれと組んで、もう何年になるかの」
 往年に想いを馳せ、老爺は遠い目をする。
「忘れました。遠い昔のことです」
「ふふ、あの時は驚いたものよ。若くして才子と名の知れた御主が、まさかあんな軽そうな奴を容れるとはのう」
「あら、受け入れるだろうと前もって予想を立ててらっしゃったのは、他ならぬ御老体でしたよ?」
「ほぉーん。そんなこともあったかのう」
 あっさりとすっとぼけて、老爺は空を向く。
 それがどこまで本気なのか知れず、映姫は苦笑とともに溜息をついた。
 老獪にして、食えぬ閻魔である。 
「にしてもまあ、あんな者を容れては、後ろ暗くもあったじゃろう。何せ、あの者の試験は……」
「いずれみち形式的なものでしょう、あんな試験」
 言葉を継ぎかけた老爺の言を、映姫が遮った。
「ははっ、これこれ、少しは慎めよ」
 その答えに対し、老いた閻魔は可笑しそうに肩を揺らした。
 映姫の言は、間違っていない。かの試験は実のところ、誰が定めたというわけではない。そもそも閻魔庁とは遍く規範の最高峰として、定律という定律全てを司る存在である。閻魔を縛る法があれば、それは閻魔を越える司法府があることと同義となってしまう。そんなことになれば、閻魔の権威、引いてはその存在意義までをも揺るがしかねない。
 故に閻魔は一切、明文の規則を敷かれることはない。件の試験にしても、実のところ単なる慣例という域を出ないのである。しかしその反面、長年を経る内には不文律とも言える存在くらいにはなっているため、ぞんざいにする者はそう多くない。
 映姫も何だかんだでまだ口脇の白い身であるし、何よりその方法で死神を選んでいる閻魔が多数である以上は、そう堂々と無視を公言出来る代物でもない。老爺が咎めたのは、つまるところそんな事情を理由としていた。
 振られた昔話につられ、映姫の思念もふと過去の記憶に靡く。
「……迷い無き、という姿を、見込んだというのはあります」
 一字一句確かめるように、映姫は呟く。老爺もまた、鷹揚に頷いた。
「それが、不合格者を取り入れた理由、か」
「元々、匣壊しこそ望ましい、という気がありましたから」
 老爺が小町を『不合格』と評したことに、映姫は何ら触れなかった。
 小町も知らないことではあるが、かの匣を壊すかどうかは、実のところ隠された最後の試験だった。
 そしてその試験、鎌の箱を壊すか否か―― 慣例としての答えに倣うなら、実のところ壊さないことが正解とされる。
 人の心は変わりゆくものであり、故に一職に一生を任すことを安易に断言する者、生けるものの真理を弁えていない若輩者である……それが、手本上の理屈となっている。
 端的に言えば、心変わりしないと簡単に誓えてしまうような者は信頼置けない、という言い分である。
 匣の処遇を問うことは、それを見定める関門だったのだ。
「不文とはいえ、律を反故にするほどにあの娘を気に入ったか」
「迷い無きことは、正しく私達の職種に相応しい。そう思われませんか」
「嗚呼、思うのう。我らがやたらに迷い続ければ、死者共は堪ったもんじゃないわい」
 何が可笑しいのか、老人はまた笑う。
「だがな、一つ訊こう。御主は本当に、迷わんのかね」
 一頻り笑い終えると、天を仰ぎながら老爺はそう、ぽつりと言った。
 映姫の眼が、微かな戸惑いの色を紡ぐ。
「人たる者、迷わんようには出来ておらんものさ。いつも誰でも、常に正しさ、清らかさを求めよる。そこに迷いはあって当然じゃ。そもそも人を断じる我らでさえ、振り翳すべき正義は常に暗中の手探りじゃろう」
 懸河のごときその雄弁な口調に、しかし映姫は眉根を寄せる。
「あれを合格させた私の判断は間違っていたと、そう仰りたいのですか」
「それを問う先は儂じゃのうて、御主自身の胸の中じゃ」
 あっさりと、映姫の言葉は返された。
 ぽりぽりと頬を掻きながら嘆息一つ。老爺の視線を追い、映姫も天を仰ぐ。
 そこに広がる空は、秋らしく高い。曇りの一つも無く、透き通るような青がただ一色に広がっていた。
 美しい空だった。
「生ける者皆、迷うと悔いるは一括りじゃな。迷わずして悔いるは愚の骨頂。悔いずして迷うもまた愚の骨頂」
 悠揚とした老爺の声が、青空に消える。
「御主の死神はな、瞬時に悩み、以てあの箱を壊した。一生その職責を身に担うことを、そこですぐさま決めたんじゃ。
 これは立派なものよ。悼むことも虐げることも許されず、ただひたすらに魂と向き合う職。それが死神という者。
 その重責を生涯担う事。これをば瞬時に決断せし者とあらば、これはなかなかに豪の器よ」
 老爺の声音に力が篭もる。
「買い被り過ぎかもしれませんよ?」
「そう水をさすでない。なあに、何となれば、職業を選ぶことは只でさえ大きな決心じゃ。人として一生の力を捧げる、その覚悟じゃからのう。その決断とならば、真に誠実な決断を要すものじゃ」
「……」
 老爺は笑みを絶やさない。聴き手を誑かすような笑みではない。むしろ、真面目な映姫を温かく包み込む、太陽のような柔らかさを持っている。
 映姫もまた老爺の従容とした口調を、じっと黙って聞いていた。
 小町を賞するその言葉が、しかしどこか、それ以外の意味を持っている気がした。
 すなわち、小町に限らず……人として生ける者、その遍く全ての魂へと、等しく向けられている気がしていた。

 俚諺も示すが、見上げた秋空の如く、人心とはとかく移ろうものである。そこに性別や年齢、或いは徳の多寡や身の貴賎による隔ては無い。
 人の心は、空である。天候と同じように、晴雨寒暖を綯い混ぜながら人の心は流れゆくものである。なればこそ、不文の律は箱壊しを不合格と判じる。
 小町は、迷っていた。良心と職責の間で、板挟みにも似た呵責に心を焼いていた。
 だが最後には、躊躇もなく匣を壊した。
 映姫はそれを重んじ、律を無視して小町を容れた。
 だが今、老爺の前で映姫は再び迷っていた。
「はは、そう考え込みなさんな。難しい話は無しにしよう。何にせよ、御主は良い死神を貰ったよ。大切にせねばならんぞ」
 黙りこんだ映姫を見かねたか、会話を纏めるように老爺は声を張り上げる。
 誤魔化して散らすような響きが、声に帯びた。
「……ありがとうございます。お褒め頂いたことは、小町にも伝えておきますわ」
「ほうほうそうしてくれるか、ありがたいのう。可愛い娘さんに慕われるのは、いくつになっても悪い気がせんわい」
 老爺の頬が、まただらしなく緩む。
「御老体の性格も引っくるめて、細大漏らさず伝えておきます」
 映姫、一刀両断に付した。
「ハッハッハ、参った参った!」
 小柄な身に似合わぬ大きな笑い声を発すと、老爺はよっこらしょと声を零し、映姫の横から立ち上がった。
 映姫も合わせて立ち上がる。
「さあて、儂も持ち場に戻るとしよう。我らが斯様に油を売っておっては、御主もそこのぐうたらに合わせる顔があるまい」
 老爺が一瞥を送った先は、小町の寝顔を映す映姫の玻璃鏡である。
「ご心配は無用です。小町や御老体と違って、私は平素から勤勉ですので」
「ハハッ、可愛気の無いことよ。御主もあまり働かぬが良いぞ。先も言うたが、我等こそ常に迷う職業じゃ。迷いすぎると皺が増える。皺くちゃになっては、折角の別嬪が台無しじゃぞう?」
「はいはい、皺くちゃは嫌ですから、適当に休むことにしますわ。では、休みついでに最後に一つ」
 帰途に就かんと背を向けた老爺に、映姫は最後の声を投げた。
 どうしても、聞いておかなければならないことがある。
 老爺は振り向かなかった。黙ったまま立ち止まり、その背中で続きの言葉を促す。

「瞬時の熟慮で決断する者と、浅慮の向こう見ずで決断する者。英断と、安請け合い。それを分ける差を、教えて頂きたい」

 心変わりすることは無いと誓ったのか。
 それとも、迷うことを尚受け入れて誓ったのか。
 映姫は、それに迷っていた。
 その問いはすなわち、小町の決断の是非、そして―― 彼女を抜擢した、他ならぬ映姫自身の是非を糺す問いである。
 匣壊しとは、それだけの意味を持っているのだ。遙かな時を経てなお、映姫はその答えを、はっきりと見出せずにいる。
 凛と声を張ったその問い掛けに、老爺はゆっくりと映姫の方を振り向いた。
 ―― そして、笑った。

「御主の見る眼、よ」

 一言。
 本当に、呆気ない答えだった。
 それだけを最後に、老練の閻魔はまた前へ向き直り、ゆったりとした足取りで映姫から遠ざかってゆく。
 映姫はその背を、ただ茫然と見送っていた。

 映姫は知っている。彼の死神もまた、その舟に鎌の箱を持っていないことを。彼もまた閻魔として試験の律に背き、不適合者たるその死神を受け容れていることを。
 匣という字は、器と甲である。武士がうつわに入れ、仕舞っているかぶとを書く。
 そのうつわを壊せば、もう甲を仕舞う場所はない。それはすなわち、甲を最早戻さぬという事である。武士が二度と、甲を地に措かぬ事を意味している。
 ひとたび匣を壊せば、そこは言わば人間界でも、地獄界でもない。六道の最後の一つ、修羅の道である。
 小町は、もうその鎌を仕舞うことはない。
 仕舞うことは出来ない。
 戻り得ぬ、修羅の道である。

 老爺の死神が優秀か否かは、映姫の与り知るところではない。彼が自分の選択を悔いたことがあるか、それも分からない。
 映姫もまた同じである。老爺共々、その答えが知れるには、まだしばらくの時間がかかるはずである。
 或いは、永劫分からないのかもしれない。
 人は誰もが迷う。迷いを生む心は、人によって様々である。そして、迷いながらも匣を壊した死神と、それを受け入れた閻魔が二人ずついる。迷いや悔い、それを知りつつ一時に勇断を下し、それを貫いた者がここに四人いる。
 今のところ事実は、それだけである。
 誰が正しいのか、誰が間違っているのか……それはまだ、誰も教えてくれない。誰も知らない。
 閻魔の審判のように、白と黒には分けられぬ答えである。
 生ける者には、しかしきっと、それが他ならぬ「正答」ということになる筈である。
 変わりゆく心。それが、生きている証となる。
 なればこそ、自分の『人を見る眼』を少しだけ、映姫は信じてみることにした。

 振り返ることもなく、黙して去ってゆく老練の閻魔。
 ゆっくりと見えなくなってゆくその背中に―― 無二の師と仰ぐ、その小さくて大きな背中に――
 映姫は威儀を正し、深々と一礼を送った。

 誰もが皆、迷う。





「……ふう」
 さて一拍置いて横に視線を転じると、玻璃鏡に映し出された死神の寝顔は、いよいよ安らかだった。心なしか鏡から、鼾まで聞こえてきそうな気配である。
「まったく……いくら何でも、これはさぼりすぎね」
 映姫の苦笑は、当然小町には届かない。
 だらしのない寝顔が、どこかちょっぴり誇らしげに見えるのは、きっと気のせいだろうと思った。
「えっと……笏、笏っと」
 熟睡中の頬をしかと打擲すべく手頃な武器を携えてから、映姫は三途の川岸へと足を向ける。
 まだ、迷いは晴れない。小町もまた、かの笑顔の裏で、千々に迷う心を抱えている筈である。
 受け入れるとか、受け入れないの問題ではない。
 喜怒哀楽から時には絶望まで、四季のように色様々な心を持つ。そしてそれにいちいち悩み、また迷う。
 それが、生ける者の定めである。

 部下の叱咤に赴く映姫の足取りは、しかし、いつになく軽かった。  



                       《完》
                    
                  作中引用:『蜘蛛の糸』芥川龍之介




 こまっちゃんがんばれ! そんな想いの作品でした。
 映姫様は毎日格好良いんだよ。
 こんぺのお題は「箱」でした。

 なんかとんでもない栄誉をいただいたこの作品は、未だに私の中でも一、二を争う自信作……しかし今見返すと、やはり青臭さも感じてむずむず痒いのです。
 謙遜するもんじゃないと分かっていても「やめて読まないでそれ黒歴史だからー!」と言わざるを得ない作品が多い中、それでもこの作品は「読んで!」と素直に思える作品です。読んで!
(初出:2006年10月27日 第2回東方SSこんぺ 全92作品中1位)