【燐は猫である。猫であるが、】



 燐は猫である。猫であるが、人並みに物を思えば言葉も解す賢い猫である。それ故地霊殿の主である古明地さとりの能力は、同居する家族として、非常に鬱陶しいものである。何しろ相手の心を読むというのだから、たちが悪い。心というものは自分自身ではどうにも制御が利かぬものであり、その中身を問答無用で垣間見られるとなると防ぐ手立てが無いのだ。現在はお出かけ中のさとり様とお留守番のお燐だが、こういう日こそが気の休まる僅かな一時である。
 例えば廊下を歩いていて、もやもやと不埒なことを考えていたとしよう。さとり様の恥ずかしい一瞬とか恥ずかしいポーズとか、もっと直裁に言えば生まれたままの姿であるとか、お燐はこの点猫であるが賢い猫であるから、時々いけないことを考えてしまいもする。しょうがないのだ。厚ぼったい服を脱ぎ捨てたあとのさとり様の身体、ただ裸にするだけでは妄想とは呼べない。妄想とは、常に具体性が高いものである。例えば脱衣所での姿を想像して一糸まとわぬその身体を隠しもせず一人風呂場へと赴く際の、服を脱ぐ仕草から足取り一つに至るまで――誰も見たことのない光景を脳裏に再生するのに、長い時間も労苦もかからない。これを、人は妄想という。妄想である。リピートアフターミー、モゥソウ。アクセントは「ソ」にある。
 哀しいかな、この妄想というのは、普段の想像力を何倍も凌駕する速度で発展拡散して止めようがない。思春期の方々は、説明するまでもなくおわかりだろう。特に男の子は想像逞しい。嗚呼こんなことを想像するなんて、とてもイケないことだ……ああ、ぼくはダメだ……と思えば思うほど、想像は自制と裏腹にどんどん発展してゆく。風呂場の縁にかがみ込んだ裸のさとり様の一挙手一投足を、ひとたびスイッチが入ればこの目で見るよりもつぶさに再生することが出来る。もはや止められない。風呂場から立ち上がった瞬間の肌の濡れ具合であるとか輝き具合、いずれも仔細に亘って想像できる。身体を洗う仕草とか洗う部位の順番、髪を洗うときに無防備に目を閉じて水を被る仕草であるとか、その後の濡れそぼった髪が胸や背中に張り付く有様であるとか、想像は想像を呼んで連鎖反応はしばらく止まらない。お燐は賢い猫だから、想像力も格段に豊かなのだ。
 本来ならばしかし、それ以上の問題とはならない。妄想はあくまで妄想だからである。
 ところがこの屋敷には、こともあろうに人の心を読むという厄介な主人がいる。
 これはゆゆしき問題である。妄想内容の道徳的・倫理的な吟味はこの際横に置いておくとして、妄想自体は妄想である限り人畜無害なはずである。それを表に出しさえしなければ特に公序を乱すものでもないし、日々の暮らし恙なく流れてゆくであろう。どんな男の子も女の子も、心の中ではちょっとくらいやましくてえっちなことって考えるが、それが擾乱の種とはならない。それを表に出さないから、平和でいられる。
 なのにウチの主人は心を読む。これで秩序は崩壊である。お互い心中穏やかでは居られない。
 分かりやすくさとり様の視点で考えてみよう、或る日廊下を通りかかったさとり様は、偶然すれ違った賢い猫がその心の中で自分のことを想像して居るのに気づく。彼女は興味を持ってそれを観察し始めるが、しかしその心象風景において自分がやおら服を脱ぎ始めるのだ。公然と自分があられもない姿を晒し、誰にも見られたことのないはずの自分の入浴風景がつぶさにそこで展開され始めたらさとり様だって反応に困るだろう。しかしそれでも家族だから、いきなり手を上げるわけにもいかない。全てを脱ぎ捨てた自分の姿を猫の心象風景に眺め、おろおろと困って赤面するしかないのではないか。一糸まとわず風呂場に入る自分が、身体を洗う仕草を自分で黙って眺める。髪を洗って顔を洗って、身体を洗うための長いタオルをぐるぐる回して「ブーメラン、ブーメラン」とかすっぽんぽんで唄い踊り、格好良くUルトラマンポーズを鏡の前でキメて「しゅわっち」とか言ってみたり、両手にシャンプーとボディソープのポンプを構えてクロスさせて「おっぱいスペシウムこうせーん!」と叫びながらポンプをちゅーっと飛ばしてみたりする光景が繰り広げられる。心象風景のパブリックビューイング、ただただ唇を噛み締めるさとり様。湯煙の中を舞う若草色の洗剤の軌跡。地獄の余熱を利用した風呂には、しかしジャミラも来たことが無い。
 リアクションはどうあれ、さとり様がそういう目に遭ったら確実に心中穏やかではないだろう。どうして自分の趣味がばれたんだ、とひたすら煩悶し続けてその日は終わる。
 だが「どうしてばれたんだ」の科白は、お燐側とて同じである。こっちはこっちで、知られるはずもない心の中だけの内容を見られてしまったとあって立つ瀬を失う。心を読める人間が家族の中に居るというのは、お互い、そういう危険性を考慮に入れなければならないということなのだ。

 冒頭にてお話ししたが、心を無に保つというのは大変難しい。
 難しいというか、常人には無理である。完全なる無我の境地となると、数十年がかりの修行を納めた高僧か涅槃の年寄りでもなければ到達できない。出家か頓悟という話になる。俗を捨てるというのは、巌に齧り付く覚悟と膨大な時間が要ることなのだ。ましてお燐のような、賢いとはいえ所詮猫でしかない猫が、そうおいそれと簡単に煩悩を捨てられたら誰だって苦労はしない。
 煩悩とは厄介なものであり、それを読まれるというのは重層的に厄介なことである。「この心はひょっとしたら読まれるかもしれない、だからこんなけしからんことを考えちゃダメだ」という書き方は、既に定義矛盾を起こしていることにお気づきだろうか。
 例えば食卓で顔をつきあわせている時に「ほら、ほっぺにご飯粒がついてるわよ」なんて言われたシチュエーションを考えてみたい。これはもうエラいことである。主人にそういうご指摘をいただけるのは大変光栄なことなのだが、こういう甘いシチュエーションは色々と色々なスイッチが入ってしまう。「ああ、動かないで――私が取ってあげる」と呟いたさとり様の顔が、眼前からふと消える。次の瞬間、頬にかかる吐息。そっと頬に寄せた顔を恥ずかしげに赤らめながら、「ぺろ」っと嘗めてくれるその舌の感触。
 「きゃっ……」「ふふ。とれたよ、お燐」「や……やん……」
 なんて言われる想像を想像しちゃダメ想像しちゃダメ思っちゃダメ思っちゃダメ!! 

 ――そんなこと思っちゃダメ、と自制しようとする時点で既に「そんなこと」を心に「思い」描いているではないか。
 と、こういう理屈である。おわかりいただけただろうか。

 映像の再生を「無かった」ことにするというのは、映像を思いついてしまった時点で既に不可能なのである。ならば山火事を消し止めるように、想像の火の手よりも先回りして想像の発展を止めようという手段が考えられる訳だが、残念これもいけない。妄想はここまででストップ、ということを「思った」時点で「ここまで」を既に改めてハッキリ思い描いていることに他ならず、心を読んでくる主人が隣にいれば「ここまで」と思い描いた部分をピンポイントであっさり看過される。そして更に重要なのが、「妄想は妄想を呼ぶ」の法則である。先ほど風呂場のUルトラマンでお話ししたとおり、厄介なことにひとたび不埒な妄想をすると止めどなく連続性が生まれるものなのだ。終わり無き小説のように、いけないいけないと思いつつもつい色んな場面を想像してしまう。妄想が妄想を呼ぶ法則、略して妄法(もーほー)である。もーほーは止める術なしという話は、既に何度もしてきた通りだ。
 妄想に先回りして自制するとなると、つまり現在進行形の妄想を更に追い越す速度が必要になる。例えば米粒を嘗め取ってくれたあとのさとり様が、同じようにお醤油の雫を頬につけていたとする。「あら……さとり様も」なんて言って「ぺろっ」「ふひゃっ……!」「ふふ……さとり様も、これじゃまるで子供みたいです」
 さて、ここまでで妄想を止められるか?
 おさらいしよう。
 ここまでで想像ストーップ! なんて自制しても、「ここまで」は既に心の中に描いてしまっていて取り返しがつかない。そして同時に、その状況に即して赤面するさとり様を想像しているからそれがまた別の妄想を呼ぶ。もーほーである。この赤面したさとり様の想像が具体的なシーンの想定を呼び、「あらお燐、あなたミルクの雫が」「え、どこですか?」「……うふふ。ぺろっ」「んぇっ……く……くちびる……」。心臓が張り裂けんばかりに高鳴る火焔猫燐――
 そう、終わり無き小説はどんどん連鎖してゆく。「ぺろっ」「きゃっ――」「……うふふ。さとり様のくちびるは、やっぱりさとり様の味がするんですね」「ば、ばか! ……それなら、貴方だって、ぺろっ」「にゃんっ」「……ほら。お燐のくちびるだから、やさしい味がします」「……ううん。でもさとり様のくちびるはもっと、ほら」「ふあぁ……」
 と、こうなる。
 誓って言っておくがこれはあくまで妄想の話であって、現実には一切関係はない。だが例えば人間の少年少女、思春期に少年から大人に変わる辺りの子が好きな異性と対面した時のことを考えてもらいたい。大体こんなもんであろう。妄想はここまで、なんて言って、好きな女の子を裸にひん剥くのを自分自身で我慢できる男の子が居たらそいつは今すぐ仏様になれる。妄想を食い止める為に妄想の先回りをするのは、山火事の消火作業で外周の木々を切り倒そうとして、その切り倒す作業に石油と松明を使うようなもんである。
 いずれにせよ燃えるから妄想なのだ。山火事は自然の摂理でもあるから、自然に鎮火するのを待つしかない。
 
 そういう人間、ひいてお燐のような賢い猫にとってあのさとり様という方の能力はまことに疎ましいのである。しかも厄介な事にこのさとり様、かわいいと来ている。想像力を喚起するような方でなければまだ楽なのだが生憎このさとり様、かわいい。すると一体どういうことが起こるか?
 そう、いじめて困らせてみたくなる。かわいいというのは罪だと閻魔様も言うだろう。
 さて、こうなると妄想のスイッチは恒常的に有頂天である。眉目秀麗でかわいくて、それで心が読めるというのだから歩く犯罪因子としか言い様がない。しかも厚手の服を着ていかにも奥ゆかしく荘厳としておられる、ああいうヴェールに包まれた印象が輪を掛けていけない。いけなさすぎる。開けたらいけないと言われた箱ほど開けたがる、きれいなものをみたらきたなくよごしてみたくなるのが我々の煩悩だ。
 最初は誰だって、ダメよこんなえっちなこと考えちゃ! と強く首を振る。好きになった女の子にそんな破廉恥な想像して、自分はなんていけないんだ! いけないんだ! と最初は強く自制する少年もやがて誘惑の手ぐすねに惹かれて、ようこそ地獄車である。厚ぼったい服だからこそ身体のラインが見えない、奥ゆかしいからこそ自室に引っ込んでからのプライベート空間が知れない、見えない知れないからこそ見たい知りたい、唄いたい。
 例えばいつも以上に暑かった日などは地底でも汗をかくから、自室で新しい服に着替えたりもする。自室に戻りその扉を固く閉めたことを確認したさとり様は、厚ぼったい上に必要ないほどの装飾がごてごてとまとわりついたあの水色の服のボタンに上から順に指をかけてゆく。はーあ、なんてわざとらしい溜息をつきながら、一つずつ外されてゆくボタンとそれに伴い左右にはだけてゆく衣服。しっとりと汗に火照った胸の谷間。さとり様の着替えなんて誰も見たことがないから、想像で補完するより他がない。補完するしかない光景は豊かな想像を呼ぶ。
 もちろんここで素直に着替えてしまっては妄想として意味をなさず、今こうして考えている中でさとり様は下着まで汗びっしょりというシチュエーションである。だから当然それも脱いだ。またしてもあられもない姿である。……そう、言い忘れていたがこれはもーほーのひとつの特性だ。人にとってのもーほーとは、常に扇情的で好都合な展開を常に生み続ける。そこに現実味とか実現可能性といった野暮ったい価値観は存在しないし、どんなにご都合主義の展開でも文句を言われないから突進する。現実感なんて考えもしない。心象風景に向かって「それなんてエロゲ」なんてツッコんでくれる人は居ない訳で、もーほーやり放題である。
 先にも言ったが根本的に、想像を喚起させるようなさとり様の日頃の振る舞いにも責任の一端はある。想像が及ぶような余地を与えることでもーほーがスタートしてしまうのは道理、そして一応は家主であるから彼女の部屋をみだりに訪れる者も居ない、機会もない、それもまた想像の余地ということになってしまい、汗びっしょりだから着替えで全裸という謎のシチュエーションも余計現実味を帯びてしまう訳だ。その部屋の中で何をしているかなどつま誰も知らず、乾いたタオルで火照った肌の汗をしっとり拭いているかもしれないし、誰に見られている訳でもないのに恥ずかしそうにもじもじしているかもしれないし、逆に誰にも見られていないことをいいことに裸のまま紅茶を飲んだりうーんと背伸びしたりスリラーを踊ってからラジオ体操を始めているかもしれない。いずれも現実性がある。ラジオ体操にはどれとは言わないが、全裸でやるとえろすぎる動きが端々に取り混ぜられていることは大人なら誰もがお気づきであろう。好きな女の子とラジオ体操するとき、誰もが一度は無闇に緊張したはずだ。だから、実際に全裸でラジオ体操を始めるさとり様の魅力に溢れた妄想を、お燐とて止められない。
 ――いやいや、今はさとり様の責任割合の話をしているのであってそんな不埒なことを想像している場合じゃないのだが、これもつまりはもーほーである。ダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだと思ううちにさとり様は裸ジオ体操を終えてしまい、最後の深呼吸。そう、これが妄想のスピードの恐ろしさである。ラジオ体操は約三分だがこんな妄想はぽけーっと口を開けているあっという間で終わる。さとり様は余計しっとりと汗ばんだ肌を心地よさそうに太陽に輝かせて笑顔、おい待て、地底に太陽など無えだろなんてのは現実に根ざした反駁であり無意味である。妄想は楽しければ良いのだし、楽しいから続くのでさとり様はこともあろうに屈伸運動をしたり反復横跳びから立位体前屈をしたかと思えば逆立ちして三回ワン! とか言ってたりする。ラジオ体操なんて思いついたのがそもそも間違いの始まりだった、とお燐が自己反省を心に描いたせいでさとり様はやおら裸ジオ体操第二を始めてしまう始末である。ラジオ体操第二を全裸でやるとなるともう開始直後の二発目の動きからして既にものすっごいえろいのだが、さてそれを一体何人の人がご存じだろうか。最早尋常ではない。おにいさんの声はいつにも増して高らかだ。
 さぁ元気に腕を上げて、大きく背伸びの運動からぁ!!

 以上のように家庭崩壊を招きそうなさとり様だが、説明の通り自身が雑多な原因を負っているのである。妄想の種になってしまうような要素を、ふんだんに取り揃えているからいけない。ここまで御本人ばかりに言及したが、失礼ながら例えば妹の存在にしてもそうである。妹は心を読まないが、さとり様主観でキーパーソンを挙げてゆくと妹の存在は大変でかい。それはつまり、もーほー的な意味ででかいという意味でもある。
 だって妹ですよ、いもうと。
 もうさとり様が帰ってこられてしまう可能性があるので詳しく突っ込んでは話さないが、妹というのは非常に罪な存在である。もうその肩書きを妄想するだけで人には背徳感が巻き起こる。背徳感というのは強烈な妄想要素である。なぜならこの世には二種類の行動がある、現実に出来ることと妄想でしかやっちゃいけないことのふたつだ。妄想だからこそ出来、妄想であるが故にいいぞもっとやれと叫ぶことができることは沢山ある。妹と組んずほぐれつするお姉様、なんていう今一瞬に浮かんだ言葉だけでもーほーは既にアクセル全開となり、あとはもう行き着くところまで行き着いてくれといった案配だ。お互いの身体に生クリームを塗ったり、お風呂の身体の流し合い、湯船で顔つけの時間比べをして二人ぶくぶく、「…………ぷはあっ! ……あ、お姉ちゃんもう顔上げてる。わたしの勝ち!」「うん……こいしの『ぷはあっ』って顔が見たくて、先に上げちゃったから私の負け」「…………ふぇ?」
 ここまでで、健全な男子であれば恐らく二秒とかかるまい。ごはんの「あーん」のしあいっこ、衣服のとりかえっこ、その着替えの最中で後ろから抱きついてどことは言わないが女の子の上半身の大きさを後ろから持ち上げて比べ合ったり、そのまま全裸で二人してPリキュアのポーズを取ってみたりラジオ体操第二をやってみたり、凛々しい笑顔で堂々と屹立し「我らAフロダイエース!」とか「荒ぶる鷹のポーズ!」とかやってみたり、全裸リンボーダンスとかいう危険すぎる遊びも。
 最後は全裸のまま寝転がったこいしの足の裏にさとりが着地、蛙のようにこいしが足を縮めて放つ乾坤一擲の姉妹技、
「ひっさつ、Sカイラブハリケーーーーーーーン!!!!」
 国立の青い芝。
 大歓声に包まれ、笑顔で空を飛ぶ裸のさとり。
 
 ……いやいや、今は妹という存在の特殊性について話したかったのだが、妄想で脱線しただけである。改めて妹という肩書きをクローズアップして考えると、「あっ、いけませんわお姉様」となる。
 もう少し分かりやすく考えると、「こいし……ごめんお姉ちゃんね、こいしのこと、好きみたいなのです」「お姉ちゃん……」「ねえ。ダメ、かな?」「……ううん。わたしも嬉しい、お姉ちゃん」「ありがと――じゃあ」「きゃっ! や、お姉ちゃん、いきなりっ」
 こんな具合となる。一体何がいきなりなのかはご想像次第ということになるだろう。ひょっとするとラジオ体操かもしれない。
 これらが悪い悪くないじゃなくて、妹という肩書きでこういう妄想を喚起してしまうことが考えられるよね、という話である。これも現実とは何ら関係ない。人の数だけ妄想があるのだから、こういう話になってしまうのも仕方ないことである。
 




 まとめよう。
 人は恐らく、誰しも一度は考えたことがある筈である。「自分の今の心を、周りの人に読まれていたらどうしよう?」

 群衆の中に一人きりで居る時、或いは真面目で大事な話の最中に、とんでもなく不埒な妄想が頭を支配することは往々にしてある。自分でも引いてしまうくらい濃厚な妄想を、自分でも抑えきれず公然と繰り広げてしまうそのとき、「もし目の前の人が心を読める特殊能力を持っていたらどうしよう」、「今の心の内容が、自分の背後に吹き出しとなって表示されていたらどうしよう」と根拠もなく恐れる――これらは、誰もが通る得体の知れない不安感である。ついでに言えば、公衆の中に居ながらこんな妄想しちゃいけない、いけない、ダメだダメだと思えば思うほどその妄想を深追いしてより濃厚になってしまう。最後におさらいしよう、これが「もーほー」である。
 現実には勿論、人の心を読める人など存在しない。だから今説明した不安は皆様にとっては、少なくとも確実に杞憂だと保証されている。しかし地霊殿は例外なのだ。確実に心を読むと分かっている存在が、一つ屋根の下で暮らしている。

 自分も長くこの地霊伝に住み、さとり様の前で妄想に歯止めをかけるのも昔に比べて随分うまくなった。だが気を抜けば、未だに妄想列車は敢然と猪突猛進を始めてしまう。そういうときは矢も楯もたまらず取る物もとりあえず、さとり様の前から脱兎の如く逃げ出すのが常であり、大抵自室なりトイレなりに駆け込み落ち着いたところで妄想の続きを走らせる。それが家庭円満のコツなのである。先日は夏の暑さに耐えかねたさとり様が、人気のない森の泉で着衣を一枚そしてまた一枚と脱いで水浴びをするその全裸の姿を想像して楽しんでいた。天女のごとき優雅さで、冷たい水を心地よさそうに浴びる無防備なさとり様。揺れる木漏れ日。
 そういう妄想が勃興する日常の中で、さとり様が家を空けただけでも心の安まりようが段違いなのである。さとり様を嫌いだとは言わないが、ここまで散々言ってきたように心を自制するというのはまことに大変である。その心を読まれるというのは、本当に厄介なことだ。たとえ数十分でも留守番の時くらいは、心の緊張を解いて自由な屋敷にしたいものですね。
 以上のように結論づけてお茶を飲み干し、ちゃぶ台に手を突き、留守番の居間の座布団から立ち上がる賢い猫、火焔猫燐である。
















































 ……げぇっ、さとり様!





ジャーンジャーン! 
(初出:2009年4月22日 東方創想話作品集74)