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【ぽんぽこ!】


 かさかさと草むらを揺らして、ひょこっと顔を出したタヌキと霊夢、目が合った。

「……」
「……」

 タヌキも巫女も思わず、その状態で互いに硬直する。
 お洗濯中に呑気に鼻唄混じり、上機嫌の霊夢の手は泡だらけのまま、珍客の来訪にはたと止まっていた。タヌキもはたと止まっていた。
 霊夢は言葉を失い、小川のせせらぎだけが大自然の中で聞こえている。
 平常心を装っている。
 装っているが、霊夢といえど女の子だった。また年頃でもある。
 しかるに、

(か……かわいっ……!?)

 ――とはいえ、そういうことはおくびにも出したらいけない。高潔、不動心、あやにかしこき博麗の巫女はすっと目を細め、こほん、と咳払いを一つ。
 恐らくはまだ子ダヌキなのだろうか、顔の大きさときたら猫のそれほどしかなかった。親ダヌキの姿が見えないことからして、ひょっとするとはぐれてしまった迷子さんなのかもしれない。
 そして人里に迷い込んでしまったのかもしれない、だとしたら、実はこの子はすごく困っているのかもしれない。
 ――否々、そんなん人間が勝手に想像しているだけだ。
 実に勝手な話だタヌキにしてみれば、ありもしない不幸な身空をでっち上げられてきっと迷惑しているだろう、ああ迷惑しているだろう、霊夢の目にタヌキがひどく不安そうに見えたのはつまり人間様が人間様の感覚で勝手に彼が「寂しがっている」と想像しただけのつまりは錯覚である。あのタヌキさんだって本当に困っている訳はないのだ。くりっとしていて黒く輝く瞳がまるで涙に潤んで見えるのも錯覚である。瞬きもせずにじっと見つめて、まるで霊夢に縋ってきているように思えちゃうのもきっと、自分勝手な勘違いに違いないのだ。
(だめ……だめ……)
 お願いだから、そんな某犬みたいな瞳で見つめないで。
 崩れそうになる理性の柱を必死で支えていた。願望を静かな恫喝に変えて平穏な顛末を希う。ほら人間って怖いんだから。襲いかかってきて鉄砲とか打つんだから、船場山なんだから。お鍋にされちゃう前に、すぐにぱーっと一目散に逃げるの。ほら早く。
「……お……おせんたく、お〜わりっと!」
 何となく明るく言ってみた。
 周りには霊夢以外にタヌキしか居ないから、つまり今のは霊夢の独り言である。すごく大きな声の独り言なのだ本当に。
 洗い物でいっぱいになった盥はずしーっと重く、早く干さないと下の方の洗濯物がすぐにシワになってしまうだろう。タヌキにかかずらっている暇はこれっぽっちもないな、これは大変だ。さあ忙しい忙しい。
 霊夢は素知らぬ顔で立ち上がって、タヌキに背を向けた。
 ずかずかとそのまま歩き出した先には慣れ親しんだ社殿への小径。わざと足音を大きくして、大自然のお友達を人間様が威嚇する。六歩目くらいでちょっと振り向いてみたが、相変わらず潤んだ瞳で相変わらず見つめ返されたって私には何も関係ないことなのだ。てくてく付いてきたってこの先には私の神社しかないんだから。尻尾振ったって犬じゃないんだから、私はキミのお父さんもお母さんも知らないんだから早く山にお帰り、てくてく歩いてついてきたってこの道の先は神社しかないし可愛いなんて私はこれっぽっちも思ってないし、そんな風にてくてくてくてくこっちに歩いてきたってだから私はキミに何もしてあげられないんだから! 

 結局ついてきてしまった。
 タヌキと二人っきりの神社で、博麗霊夢は途方に暮れている。
 遁走するようにひとり玄関を駆け抜けて引き戸をぴしゃりと閉め、ところでなんでこんなに気にしなきゃいけないのよと自分自身に憤慨する。同じようににべもなく閉じて、蟻一匹の這い出る隙間も無い――と見せかけている雨戸の隙間、そっと薄戸を開けてしばらく様子を窺っていたが、困ったことにタヌキは前庭をうろついていて一向に帰ってくれないようである。いつまでも前庭の隅から隅へとうろうろしている。お掃除をしてくれるわけでもなければお参りにいらしたわけでもない。赤い鳥居をくぐってやって来るのはお賽銭を投げてくれる人だけで良いというのに、タヌキにだけ好かれるなんて本当に困ったものである。
 やはり、誰かを探しているように見える。
 きっとお父さんお母さんを探しているのだろう。恋しきは棲処の温もりであって、間違っても紅白の巫女さんが居なくなっちゃったなー、なんていう風には探してない。絶対に探してない。私は単に洗濯場で視線が合っただけの一期一会、それ以上でも以下でもない間柄。
 やはり、子ダヌキのようだ。
 身の丈は猫にも足りず、両手で一抱えすればそのまま胸元に収まってしまいそうな小さな痩躯。人間で言えばちょうど遊び座盛りか、そう思って眺めてみれば、なかなかにしょうから(※=やんちゃ)そうな顔をしているではないか。
 しかし。
 その毛並みは解れた古布のように乱れている。心なしか黒ずんだ背中はただの体色かそれとも土埃か。尻尾のボリュームは霊夢が想像するお狸様の模範図に比して二回りくらい足りず、ついでに使い古した刷毛のように見窄らしくぼさぼさになっている。
 見ていれば時折地面を嗅ぎ回っていた。その姿のひもじげなことはこの上なく、こればかりは人間様の勝手な想像とは塩梅が違い、恐らくは本当に空腹ではなかろうかと察される。生憎とこの神社の前庭には、恐らくタヌキの空腹を満たしてくれるような自然の恵みなど落ちていないのが哀しい。境内に枝を広げるは椚と欅と榊ばかりである。見つからぬ宝物を健気に嗅ぎ回るその、えも言われず哀れな仕草。
 ……ふと。
 そこまで考えたところで霊夢、自分の右手に視線が行った。
 ある物を握り締めていたのだ。
 紫色のにくいやつ。
 帰ってきてお台所の前を通り過ぎる道すがら、今日のおやつにと手に取ったそれは昨日の今頃、掻き集めた落ち葉に突っ込んでたっぷり蒸かした、
 焼き芋。
 ずっと握ったままだった、紫色のにくいやつ。
「……えーっと……」
 タヌキって――薩摩芋食べるのかな?
 ってそうじゃない。
 霊夢は一人首をぶんぶん振る。
 これは自分のおやつだ。何を考えてしまったんだ、絶対にタヌキのじゃない。朝から昼下がりまで夏物の衣類を総ざらえ、一切合切の洗濯作業に精を出してそういえば今朝はお茶も飲んでいなかったから流石にそろそろお茶にしようと持ってきただけだ。そもそも昨日から、今日のことを思ってわざと多めに焼いたのだ。もう冷めてぱさぱさに固くなってしまっているけど、焼き芋は焼き芋なのだ。絶対に焼き芋なのだ。
「……」
 でも……まあ、今、あまり霊夢はおなかがすいていない。
 タヌキさんにとっては幸運なことが一つあってそれは、霊夢は現在決しておなかがすいているとは言い切れないということだ。博麗霊夢は、あくまで自分のおなかがすいていないという理由で、焼き芋の権利を放棄することを決定した。異論は認めない。ぱさぱさになっているから食べる気がしなくて、わざわざ次のを焼くのも面倒だし、だけど無碍に捨ててしまうのはいかにも勿体ないんだけどたまたま、偶然たまたま、そこにタヌキさんが居たから、捨てようと思ってた焼き芋を特別にあげることにするのだ。
 玄関を開ける音だけで、すぐにタヌキは耳聡く気付いた。
 歩き回っていたその脚をぴたっと止めた。こちらを振り向き、じーっとこちらを見つめて、飼い犬のように寄ってくる訳ではないがさりとて脱兎のように逃げるわけでもなく、つまりは霊夢がそこに立っていることを確かに知覚しているのに逃げもせず、この人はなにをしてくれるんだろうなー? という瞳でくりくりと眺めているのだった。
 畜生、その目は卑怯だ。
「……ほら」 
 ひらひらと芋を振り、わざと高い軌道でぽおんと放り投げた。
 ぼん、と落ちる音にちょっとびくっ! となった。
 そのためか少し躊躇はしていたようだったが――しかし、やがて美味しそうな匂いにつられた。てくてくと歩み寄ってきたタヌキ、そうするのが礼儀かのように対象の匂いを嗅いだのも束の間、
 「はぐっ」と、一息にむしゃぶりついた。
 そこからは顔も上げなかった。必死という言葉が非常にしっくり来る有様で、彼は芋を食べ続ける。口を開けて一部始終を見ていた霊夢が――思わず、無意識に笑顔になった。それほどに、一心不乱の食べっぷりだった。
 やはりおなかがすいていたのだろう。
 嬉しそうにかぶりつき、幸せそうにほおばる子ダヌキの健啖っぷりに頬が緩む。見ている毛で幸せになる。嬉しそうで、しかし本当に嬉しそうである。
 我に返った。
 すっかり緩みきっていた頬を、ぴしっと凛々しく引き締める。巫女は襟を正し、こほん、と咳払いを一つして整息、
「……食べたら早く帰りなさいよ?」
「……」
「おやつはそれっきりだからね、間違っても神社に住み着いちゃダメよ。人間におねだりなんて、間違っても覚えちゃダメ。毎日やって来て、おなかすいたーって目でこっちを見たってもう何もあげないわよたぶん。もう二度と、二度とここには来ちゃダメよ、ちょっと来たくなったなーってどうしても! ど〜ぉしても思ったなら……まあ……一回くらいは来ても良いけどでも二回以上はダメよ。…………まあ二回くらいでも許すけどでも基本的には絶対ダメ! 絶対に未来永劫絶っ対に、ここに来ちゃダメだからね!! ダメダメダメ! 分かった!?」
 ぜー、はー。
 荒い息づかいの向こうで、タヌキは聞いてか聞かずか、未だ薩摩芋の残りを美味しそうに頬張り続けている。今の大声はつまり、霊夢の独り言なのである。
 肩の力が抜けて、右の袖が手首までずり落ちた。
 ぱくぱくむしゃむしゃと咀嚼して「ぺろっ」と口許を舐める。その、世界でいちばんのごちそうを食べたようなとびきり満足げな表情。
 言いたいことはひとまず叩き付けるように言い終えた霊夢、思いの丈を巨大な独り言で撒き散らしたその脳裏に去来する感情は現在、ただ一つである。

 ……うぅ、おなかすいた。
 

■ ■

 
「どう? 美味しい?」
「……」
 三日経っても相変わらず、見ている者が幸せになるくらい元気な食べっぷりである。
 栗とか芋が好きなあたりはさすがに山野の動物だなーと霊夢は感心し、手元からころころと栗の実を転がしてやりながら、食べ終わったタヌキさんが「ぴょこっ」とこちらを向いてくれる、その一瞬を何よりの楽しみにしてにこにこと待ち続けている。
 二度と来るなとあれほど忠告したのに、困った子ちゃんである。
「お父さんお母さんが見つかるまではここに居なさい。ここなら乱暴者の妖怪は入ってきたりしないから」 
 霊夢が背中を撫でてやっても、逃げる素振りさえ見せなかった。
 思えば、子供の頃から犬も猫も飼ったことが無かった。根無し草の放蕩野良猫が入れ替わり立ち替わりひなたぼっこに訪れたりもするけれど、そんな連中にこうして食事をごちそうしてあげたことなど一度も無い。何より、じっとこっちを見つめてくれるような動物なんてのが初めてだった。
「ひょっとしてさ、霊夢のことお母さんだと思ってるんじゃない?」
「うんうん、そうかもしれない」
 本来ならば、気怠い昼下がりである。
 それが珍客タヌキさんのお陰ですっかりと頬も色々も緩みっぱなしの霊夢、投げかけられた質問に思わず嬉しさ満点の声音を隠しもしないで無意識に答えてしまい、
 そこでようやく
「……え?」
「やっほー」
「……」
 日傘をさして佇む、別のお客様に気付いたのだった。
「……いつから見てたのよこの下衆吸血鬼」
「五分くらい前から」
「それは一部始終って言うのよ……一般的な日本語では」 
 こめかみを押さえて霊夢は立ち上がり、恥ずかしさ紛れの鋭い視線で眼前の珍客その二、レミリア・スカーレットを睨み付けるのだった。
 くすくすと、面白そうにレミリアは肩を揺らす。
「何よ、最近ご無沙汰してたと思ったらいきなり現れて、人を陰から笑ったりして」
「陰から笑ったりしてないわよー。ただ、霊夢の意外な一面をちょっと眺めてただけ」
「それは陰から笑う、って言うのよ一般的な日本語では」
 レミリアの鼻先に突き刺さる視線、冷たい声音。
 レミリアの見る限り、すっかりといつもの博麗霊夢に戻っていた。「あーあもったいないなー」と、思わず心のままを口にする。
「何がよ!」
 霊夢に思いっきりぶっ叩かれてもめげず、レミリアは残念さを殊更に顔に出す。それでも気持ちが何とか落ち着いたところであらためて、博麗神社に一足先にお越しになっていた“先客”をまじまじと見つめた。
「どうやって手なずけたの?」
「どうやってもこうやっても、勝手になつかれただけよ」
 霊夢が鼻を鳴らす。つんとしたその表情に、険しさはない。
 にま、と口許が綻ぶレミリア。
「ふーん、へぇー。私はてっきり妖怪ばかりか迷子のタヌキにまで信頼されてこの神社まで追いかけてこられて、そのままお得意さんになっちゃったのかと思ったじゃん。そんで本当は心優しい霊夢が余り物のおやつとかあげて、それっきり好かれちゃって霊夢もまんざらじゃないのかなーって思ったじゃない」
「……」
 レミリアに目を合わせられない。
 冗談なのか本気なのか、それを確かめることすら怖い。
 聞こえよがしの思いっきりの溜め息をついて、
「用が無いならとっとと帰んなさいよ客」
 霊夢は、タヌキさんの背を撫で回す作業に戻った。その様子を、意に介す様子のないレミリアが肩越しに眺める。
「でも珍しいねえ、自然の動物が人間に懐くなん……」
 レミリアもしゃがみ込んで、思わず手を出しかけた、
 その時である。
「……て?」
 レミリアの言葉が、不意に途切れた。
 霊夢の手の動きも、眼前に息吹く小動物の、その確かな異変を察知してふと止まる。
「…………」
 タヌキがレミリアを見上げていた。
 すごくまっすぐに見上げていた。
 そしてその形相は、今の今までと一変している。
「ちょ……ちょっと、何?」
 霊夢に見せていたような恍惚たる表情と似ても似つかない険阻な視線が、夜の王・レミリアに真っ正面から突き刺さっていた。歯を見せ、眼を細め、穏やかに見えた瞳は今や炯々とした光を放ち、まだ短い前足まで目一杯つっぱっちゃったりして何やら心なしか、低い唸り声まで聞こえる始末である。
「えっと……これって、もしかして」
 レミリアは、戸惑い、思わず霊夢に助けを乞う視線を向けてしまう。
「私……威嚇されてる?」
「もしかしなくても、そうねえ」
 霊夢としても意外げに眺めるはそのあまりの変貌ぶり、人なつこいタヌキかと思っていたが案外そうでもないらしかった。いきり立つ怒気、逆立つ毛並み、霊夢は慌てて背中を撫で回して、ついにはその腕に抱き留めてよしよしと赤子のように揺すってあげたりしている。
 優しいお母さんに抱かれて少し落ち着きを見せた野生の瞳はふにゃ、ととろけるように一瞬細くなり、しかしその腕の隙間から紅色の人影を認めるや相変わらず険しく、激しく、睨み付けてくる有様である。
 レミリアが眉を顰める。
「……ふん、何よ。狸ごときの下等生物が」
「ちょっと何よ、大人げない」
 霊夢が唇を尖らせる。
 タヌキの方の肩を持たれたものだから、レミリア、いよいよ面白くない。
「まあ別に良いんだけどね〜。人間も狐狸も私にとっちゃ同じだし。ど〜せ眷属畜生に変わりはないもんね」
 刃のように尖った人差し指の爪をぺろりと舐めて、わざと横目で霊夢に微笑みかける。
 霊夢はようやく宥め賺し終えたタヌキを、地面にぽてっと置いた。最後のだめ押しでもう一度頭を撫でてやり、頬を両手で挟んでよしよしー、なんて微笑みかけてからようやくタヌキを解放。
 一息挟んだ後にレミリアを一瞥、
「ヤな奴ね、アンタ」
「うぐ」
 強烈なカウンターに、レミリアがたじろいだ。
 でもそんなこと言ったって仕方ないと思う。その変なタヌキが悪いのだ。霊夢にだけ懐いて神社に日参するそのご身分、まして私を灰にする太陽の下を眷属ごときが堂々と闊歩してあまつさえ霊夢の手ずからおやつまでもらえているのに私だけ、どうしてこの私だけ、警戒心むき出しで牙を見せて威嚇?
 生意気な。
 そのくせ霊夢に宥められたら大人しくしちゃったりなんかして、しかも霊夢にだっこまでされるなんて、
 気にくわないに決まってる。
(霊夢はアンタだけのものじゃないんだから!)
 ……と、タヌキに投げかけるレミリアの言葉、まさか霊夢を御前にして口に出す訳にはいかず、内心の叫びだけに留まっている。残念ながら、タヌキの耳に届くことはない。
 ついでにタヌキは眷属畜生なので、仮に耳に届いたとしても恐らく脳味噌に届かない。
 やっぱり下等生物なのである。
「……帰るー」
 がっくりと項垂れて、レミリアは踵を返すのだった。
 言っておいて未練がましく、六歩目でちらっと霊夢を振り向く。
 つーんとむくれていた霊夢、レミリアの冷たい一言に慌てておろおろして「ごめんねレミィ私が悪かったわ、許して! ごめんね!」と早口に謝って「タヌキなんて所詮タヌキだけど、でもレミィはレミィ、貴方だけ。お願いゆっくりしていって」なんて縋り付く目つきに涙ぐんだ声で
「うん、さよならとっとと帰れ」
 言ってくれるはずなんて無かった。
 ちくしょー、と叫んで帰途に就いたレミリア、なるほどやっぱりタヌキは畜生なのである。帰り道についたというのに霊夢は見送ってくれる素振りもなくて、またしてもタヌキをおいでおいでと足許に呼び寄せて笑顔まで見せちゃっている。
 活断層でも刺激しそうな位の歯軋りを立てながらレミリア、いつもより長く感じた帰路の果てに辿り着いた紅魔館の玄関で「バカヤローッ!」と、真っ赤な夕陽に叫ぶ。


■ ■


 それでも復権のチャンスを狙って、以前より足繁く博麗神社に通うことになっているのは何の因果か。
 三日連続で現れたレミリアを霊夢は「懲りないわねぇ」の一言で斬り捨てた。仕方がない。タヌキごときに下手に出るのは大変不本意だが、そうでもしなければ霊夢と遊べさえしないのだ。
「アイツ、決まった時間に来るの?」
「ええ。私が御飯あげる時間が大体一緒だったからねえ」
 饒舌な回答である。
 相変わらず嬉しげに喋る霊夢は新鮮極まりない。最初は人前ということで、つとめて冷静な素振りを少しでも繕おうとしていた気配だったが、今や、すっかり綻んだ頬をレミリアの前で隠そうともしない。
 言葉だって嘘はつかない。最初は「エサ」だった日本語が、やんごとなきことに「御飯」まで昇格しているのだからタヌキも偉くなったもんである。
「……羨ましいことね」
「何が?」
 ふと、レミリア考える。
 例えば自分が博麗神社にやって来て霊夢とご相伴に与ったとしたらどうだろうか?
 霊夢はもてなしてくれるだろう。どこかから血のように紅いトマトジュースを調達してきて湯呑みに注いで、はいどうぞ召し上がれと出してくれたとして、それは霊夢にとって「御飯を御馳走する」なのかそれとも、
 ――「エサをあげる」なのか。
 レミリア、背筋を震わせる。
 まさかとは思うが、霊夢なら案外分からない。この巫女の思考回路は正体不明である。食材の貴賤はともかくとして、事と次第によれば、タヌキの方がよっぽど真心のこもった「御飯」を食べさせてもらっている可能性。
 現実味を考えたら?
「……キーっ!!」
「うるさいわねえ。ほら、来たわよ」
 来たらしい。
 時間にして三時十五分。こほん、と咳払いを一つ、思考を洗い流してレミリアは霊夢の視線を追いかけた。
 降り注ぐお天道様の下、目深に差した日傘のギリギリに境内の地平線が見える。ご丁寧に鳥居の下を潜って神社に参詣する子ダヌキの姿を、レミリアはその目に認める。
 最初に逢った時はまだぎこちない足取りだったのに、今日のそれはまっすぐ霊夢へ歩み寄って、他の何にも迷うことがない。
「私があの道を帰ってくるのにトコトコついてきたのが始まりなんだけど、それっきりあの道を覚えちゃったみたいでさぁ、あはは」
 あはは、って。
 その問わず語りが妬ましい。
 豊かとは言えない霊夢の表情に咲きほこる笑顔は非常に魅力的なはずなのに、レミリアの心の中で何かが引っかかりながら時間が過ぎてゆく。霊夢のことを独り占めしてやろう、なんて気はレミリアにだってさらさら無い。だけどわざわざ日傘を差してまで三日立てつづけに神社まで行脚してるのだから、もう少しこちらにも愛想が良くたって、神様のバチは当たらないと思うのだけど霊夢?
 目深にした日傘を、さらに深く差しなおす。タヌキの姿が視界から消える。こうしておかないと彼が激昂するのだから仕方ない。重ね重ね、タヌキなんぞに気を遣わなければならないのは実に悔しい。
 栗の実を霊夢の手がばらばらと地面に撒き散らした。小さいのもあるが、人様でも食べられそうな大きさのも沢山混じっている。
 地面に栗が転がる、その間際からいそいそ飛びついてくるタヌキに霊夢が二重瞼を細めている。秋風が冷たく、レミリアの頬を通りすぎてゆく。
「やってみる?」
 今や霊夢はタヌキにかかりっきりである。
 この場にいるのは博麗霊夢、レミリア・スカーレットと名もない小汚いタヌキ一匹、この環境の中で
「ねえ、レミリア」
 たぶん一番地位が低いのは他ならぬレミリアなのだ。信じられない事態である。レミリア・スカーレットである。ひかえよろ、又の名を夜の王。又の名を紅魔館当主。
 又の名を誇り高き吸血鬼の末裔、
「レミリア〜」
「何よ」
「やってみる?」
「うん、やってみる」
 何でもやりますとも。
 何をやって差し上げましょうか霊夢さま?
「はい」
 ふと、いきなり霊夢に手を握られてどきっとした。霊夢の手はあったかかった。
 茶色のゴロゴロした、小石程度の大きさの何かを掌に移される。
 栗、と、さっき聞いたような名前が霊夢の口から零された。先ほどの説明にて話を聞いていた、子ダヌキさんに何度か餌付けしてみる内にどうやら一番の好物と分かった代物。
「って、私があげろっての!?」
「今そう返事したじゃない」
 そういえば。
「……マジで?」
「マジ。」
 マジらしい。
「やってみなさいって。顔さえ見せなければ大丈夫よ、日傘は私が持っててあげるから」
「うぐ……」
 その優しさが複雑なのよ。
 逡巡する。霊夢は本当に輝かしい笑顔をして、さぁさぁとレミリアに栗の実を渡してくれて。
 だけどそれは、レミリアがどうこうではなく、あくまでタヌキさんに主眼を置いてのサジェスチョンで。
 だけど断ったらまた一昨昨日の二の舞で霊夢に冷たくされちゃうし、気付けば足許ですりすりと、日傘に隠した顔を見ずにおねだりして寄ってきている茶色い動物はまるで子犬のようで、
「……まだ子供なんだね」
「うんうん」
 そうじゃなくて。
「なんで私がタヌキに餌なんか――」
「ホント可愛いんだから」
 そんなこと聞いてない。ええいままよ。
 どうしてこんなに緊張しなければならないのだろう、緊張してしまう自分が腹立たしかった。無闇に心臓が高鳴って背筋に汗まで浮くし、ごくりと唾まで飲み込んじゃうし、とうとう掌までもが汗ばんできた上になんだかむずむずするし、
「……え?」
「あら」
 最初に気付いた瞬間は、糸か何かかと思った。
 その後にそれが風とか呼気ではなく確実に能動的な動きでもって脈動し、つまりは天より命を授かりしトモガラであり、しかし眷属畜生よりも更に数段も下等生物であると認識できる割には羽化後の美しき蝶々の姿など何ら想像できないことこの上なく、まあどうせ蝶々じゃなくて蛾か何かなんだろうけど、
「たぶんどれかの栗の中に入ってたのねえ。尺取り虫さん」
「……みぎゃああああぁああっ!?」
 ここ四百九十年は出したことの無かった素の部分の叫びを上げて、レミリアは手に持っていた栗を一息に取り落としてしまう。日傘から飛び退きかけて背中がちょっと焦げて、慌てた霊夢が傘を差し掛けてくれるその足許に散らばった栗達に、
 子ダヌキがむしゃぶりついた。
 一目散にむしゃぶりついた。
 そこでレミリアも気付く。霊夢がすぐ自分と交代してしまったものだから、まだいくらも今日のお食事にありついていなかったらしい。
 子ダヌキは嬉しそうに、栗の一つひとつに次々とかじり付いた。はふはふと、熱くもないのに一所懸命な息づかいの音が聞こえる。むしゃむしゃと頬張るその顔は別に笑ってるわけじゃないのにどことなくとびきりの笑顔に見えた。食べかすを踏んづけた前足の先まで自分でぺろぺろ舐める、その仕草はなるほどとっても子供っぽくて、まだ落ちてないかまだ落ちてないかと地面を探し回っては次のを見つけて食べにかかるその仕草。嬉しそうである。はふはふ、もぐもぐ、とことこ、ぱくっ、もぐもぐ、はふはふ。
「レミリア、口が開いてるわよ」
「……はっ」
 一生の不覚を演じた気がした。
 霊夢がつんつんと、脇を突っついてくる。
「見とれてたでしょ」
「見とれてない」
「いーや見とれてた」
「見とれてない見とれてない見とれてない見とれてない」
 最後の方は、自分に言い聞かせるような語調になった。意地っ張り、と霊夢が呟き、無言のレミリアは霊夢から日傘をひったくるように奪い返してそっぽを向く。
 ……ちくしょう、あの仕草は卑怯だ。
「小動物ってのは生まれつき可愛いもんなのよ絶対」
「眷属。眷属ちくしょー!」
 そっぽを向いた首がそろそろ痛くなってきたのだが、なかなか降ろせない。今すぐ俄雨が降ってきてそれを口実に紅魔館に帰りたい気分。霊夢がにやにや見つめて、それほれと目の前に突き出してくるのは更なる栗。
「もっとやってみない?」
「なんでよっ! だから私はっ――」
 さすがに耐えかねたレミリア、くわっと霊夢の方を振り返り、
「あ」
「あ」
 気付いた時には、日傘がずいぶん高い位置にあった。
 どうやら霊夢も忘れていたようだ。
 私は、もちろん忘れていた。
 霊夢が「しまった」という顔をする。私に声を掛けるときにその子を抱きかかえていて、その子をレミリア・スカーレットの顔が完璧に見える場所まで持ち上げてしまうなんて霊夢にしてはあまりにも不注意すぎた。
「……霊夢」
「何」
「ぅーって言ってる」
「どう見ても威嚇ね」
 はぁ、とどちらからともなく溜息をついた。
 不意に霊夢、くんくんとレミリアに鼻を寄せてきて、言うに事欠いて一言呟く。
「なんか変な匂いとかつけてない?」
「つけるわけないでしょ? コイツがきーきー牙を剥くから私は霊夢に――」
 はっ、と口を噤んだ。
 霊夢は「?」と、ちょっと首を傾げたが、どうやら聞き逃してくれたらしい。
 ぽおっと、霊夢に気付かれないようひそかに赤面するレミリア。どうも調子が狂う。いつも腹の探り合いのような会話をしている相手だけに、こうもタガが緩んでいるとつられてこちらまで緩んでしまう。
 霊夢は、赤子をあやすように腕の中の小さな命を揺すってあげている。またいつかのように、全身を使って小動物を宥め賺すのに専念することとなっていた。
 ちぇ、と唇を尖らせるレミリア。
 もぅ、と困ったように眉を潜めていた霊夢。
「……そうだ!」
 その表情に、突然花が開いた。
 ぱっと目を見開いた霊夢、レミリアをきっと見据える。その華やかな、稀代の天才を思わせる閃きの表情。
「……さて、何かしら」
「うん」
 ぽこ、と子ダヌキを地面に置いて拳をぽんと打ち、嫌がるようにレミリアから遠ざかってしまった子ダヌキの歩みをまた数秒目で追って、もったいつけてから向き直って、花開く笑顔で霊夢が告げたのはとても短い言葉。

「アンタ、明日からしばらく来ないで頂戴」
「分かりまし……何ですとー!」

 気の利いた返しなど出来なかった。レミリア、ただひたすら唖然とした。
 あはは、と笑う霊夢、ぽりぽりと頭を掻いて視線は尚、タヌキの帰り道を追いかけている。
「いやぁだってさあ……あの子が怖がっちゃうじゃない? アンタが居ると」
「……霊夢、冷静になって。私とあの子と一体どっちが」
「あの子アンタが居るといっつも怒ってさ。あれ見てると、なんか、ほら可哀想だし」
「人の話聞けーこらー」
 暖簾に腕押しとはこのことか。
 うんうん、と自分で納得したのか一つ二つの首肯、得心が行ったといった晴れやかな表情。覗き込まれたレミリアの顔は対照的に極めて剣呑であるが、
 霊夢は、まったくと言って良いほど意に介すことが無かった。
「というわけで、明日からしばらく。ね?」
「ね、って……ちょっと霊夢!?」

 反駁を探し求めていたレミリアの目の前から、ふと霊夢が消えた。
 いきなり踵を横に返すもんだから、びっくりする。レミリアが慌てて追いすがろうとする。霊夢も追いすがる。レミリアも追いすがる。
 霊夢は違う物に追いすがっていることにレミリア、気が付いた。
 足を止める。
 その先にタヌキ。
 つまりはあれである。眷属、畜生。
 怖がって帰ろうとしていたタヌキを無理矢理呼び止めて、霊夢はしゃがみ込んでいた。一体どうしたのかとレミリアが思ったのも束の間、ゆとりの多げなその袖口からどさどさ、まだ有り余っていたらしき団栗やら銀杏やら、色んなものを地面にぜんぶ撒き散らした。駆け寄ってくるタヌキ。しゃがみ込んで撫で撫でしつつ何事か優しそうな囁き声も撒き散らして、見たことも無いようなえびす顔も撒き散らして、誠に充実した時間を送っておいでの博麗の巫女。
 その言葉が、未だにレミリアの脳裡でくわんくわんと共鳴し続けている。
 明日からしばらく来ないでくれる?
 明日からしばらく来ないでくれる?
 あしたからしばらくこないでくれる?
 その瞬間確実に、レミリア・スカーレットとタヌキの間に、がちゃりと不等号が成立する音がした。
 すごく否定したい。レミリアとしては躍起になって否定したい。否定したいのだけど、偶発的抵抗は絶対的光景の前に一瞬で屈服する。
 夕暮れの博麗神社に映し出されている圧倒的不利の顕現はタヌキのおねだりと、撒かれた木の実と、アシタカラコナイデクレル?と博麗霊夢のほくほく顔。
「霊夢……冷静になって」
「冷静冷静」
 地獄耳が聞き咎めたか。
 袴の横に差していたお祓い棒を手にとって、ぷんぷん、とこちらに振り回して見せてきた。
 静かに愕然とした。
 手を伸ばせど届かない。言葉も聞こえない。心にもどうやら、この指が届いてくれそうに無いならば今日はひとまず、

「……帰るー」
「はいはい、さようなら」

 そんなに嬉しげに、さよならを言わないで欲しい。けどしょうがないんだ。
 神社に背を向けた。
 逃げるようにヤ鳥居をくぐった。広い境内を横断するその道中、タヌキの居る場所は律儀に遠回りしてあげた。何となく、そんなことまで「させられた」ような気分になって非常にやるせない。
 悄気て、脱力して、地団駄百歩の帰り道。

 背中が煤けてるぜ、とカラスに言われた。
 
 

■ ■

「あんのタヌキ〜……」

 岩にも焼けつくような深い呪詛をテーブルに刻み込んでおいて突き刺すような眼光、射竦められた木目調の天板は悲しげな黒煙を上げる。香草を利かせたお食事には銀のナイフとフォークを振るい、しかしその味も香りも分からぬままのろのろと咀嚼、もさもさと嚥下、ぽてぽてと前掛けに零れるソースの雫。
 十六夜咲夜が横で溜息をついた。
「何があったのかは存じませんが」
 頭の上に重い石でも乗せられた気分である。
「間違いなくご機嫌は良くないですね、お嬢様」
「最悪よ」
 替えの前掛けを持ってきた下っ端のメイドが、咲夜に渡すだけ渡してあとは逃げるように場を辞去してゆく。張りつめた場に揺れる燭台、食器が奏でる硬質の音、静かな吐息二つ、それらを混ぜっ返す気怠げな柱時計の振り子の音。
「だっておかしいじゃない! 口を開けばタヌキがタヌキがって」
 タヌキって何ですか? と咲夜。
 ちくしょーよ、とレミリア。
 咲夜は首を傾げ、レミリアはまた一人煩悶し、肘つきしたまま豚肉のでっかい切れっ端を頬張って付け合わせの人参を啄んで、挙げ句に石でも喰っているような難しい顔ばかりをしている。
 記憶が走馬燈のように、ぐるぐると脳裡で再生され続けていた。
 レミリアの知る、ちょっと前までの霊夢はあんなんじゃなかったと思う。
 絶望的な変事や未知の妖怪の脅威に晒されたって眉根の一つも動かさない。手には封魔の御札。かしこみかしこみ陰陽の力を司り、敢然としてあの夜、この私にさえ立ち向かってきた博麗の巫女。
 紅霧の日々のこと。
 それが博麗霊夢なのだ。この私をして面白い奴めと一目置かせた、幻想郷の斎なる少女。
 子ダヌキの世話をして、にこにこ微笑んでいるようなヤツじゃない。
(いろいろあって、霊夢も変わってきた……のかな?)
 それは文字通りの色々であろう。
 なんだかんだで霊夢だって、人間の中でもまだ幼い身なのだ。年月を重ね、色んな物に触れて見聞広まれば時相応の変化を来すか。紅霧の事件からもう五年を超えた。無愛想な霊夢が、可愛らしく年頃の乙女めいて変わってゆくことだってあるだろう。冷静なフリをしていたってやっぱり女の子だ、可愛い動物にきゃいきゃいはしゃぐのだって全然おかしくない。博麗霊夢という肩書きがそこに付くから違和感を感じるけれど、あれが他ならぬ彼女の成長なのかもしれないじゃないか?
 レミリア、胸に去来する感情は子ダヌキを愛翫する、それと同じようなちょっと違うような、でもやっぱり似てる気がしてきている。
 霊夢が可愛らしい。
 混じり気のない清らかな表情が、逆に格好付けたいレミリア・スカーレットには、扱いづらくて気取りにくくて。
「分かりました。タヌキが何かのきっかけになって、霊夢と喧嘩でもされましたね?」
 咲夜が冗談めかして、そう訊いてくるから笑ってみせる。
「あははっ。私を誰だと思ってるのよ? 霊夢ごときに喧嘩をしてご機嫌斜めになるほど私はお子様じゃないわよ!」
 あーははは、と高笑いする。先ほどの下っ端メイドが、向こうで怖々こちらを窺っている。
「違うのですか」
「違うに決まってるじゃない! 咲夜の目も曇ったものねぇ!」
 霊夢がタヌキをどう思っているか?
 なんだかんだであの霊夢である。そして動物はどーぶつである。
「違うのですか」
「違うのよ」
 自分に言い聞かせて、レミリアは皿の縁にナイフを取る。豚肉に仄かな香草の下味が付いていた事を、今更乍らに気付いて舌鼓。ワインとの調和も絶妙なればさすがの咲夜、すべてのセンスが超一流である。
「では、神社に迷い込んできたタヌキに霊夢がかまけてしまって、レミリア様が邪魔だからと追い返されたからご機嫌を損ねられたとか?」
「……」
 実に超一流すぎた。
 言葉は途切れる。くすくすと笑う咲夜が、触れれば溶けてしまいそうな薄手のグラスに上機嫌で葡萄酒を注いでいる。
 夜は深い闇を湛え、色温度の高い照明が屋敷の中を温かく照らしている初冬の夜にレミリアは無言。
「……お嬢様?」
「いいから黙って仕事してれば良いのよ咲夜は!」
「は、はいっ!」

 一時愛情を注いでいても、それに溺れるほど愚かしい人間ではないと思う。
 レミリアは、そこまで博麗霊夢を見くびっちゃいなかった。
 それなら一時タヌキとやらに浮気溺愛、その程度の些事を私自身が気に病むことなんて何も無いんじゃない?
 そう思うのに、どこか不安が増している。
 一瞬で盛り上がった愛情は一瞬で熱を失うだろう。タヌキもそれで幸せなのだ、元々山野を駆け回り、大自然を友達として生き続けていた獣が人の情愛に預かる方が問題なのだ。
 
 ――問題、な筈なのに。
 レミリアは認めない。揺らいだ自分の心を認められないでいる。

 つまりは、格好付けてばかりはいられないのだろうか。
 これがもしも、やっぱり、つまりは、あの博麗霊夢に対するこのレミリア・スカーレットの……嫉妬、なのだとしたら。

 
  






■ ■


 ほんの五分過ぎた頃、最初にその可能性を考えた。

 十分過ぎた頃には、心音が高鳴り始めていた。色んなことを考えて平静を保とうとしたのに、それを混ぜっ返す思考と更に抗う思考が混淆して滅茶苦茶になった。
 四時を回ってからは、もう、座ってすら居られなかった。


 大自然に営む生き物に時計なんてありはしない。人間様の勝手な都合なのだ。博麗神社の境内に御飯をおねだりに来ていた彼の無邪気な振る舞いも勝手な都合なら、それが終わるときにしたって勝手な都合だ。それにどうこう想うのも振る舞うのも、いてもたってもいられなくなるのだって全て人間による人間の勝手な都合なのだ。
 次第に削れ落ちてゆく期待と、それに抗う未練と。
 考えれば悪い想像しか働かなかった。口を開けば「おーいおーい」と機械的に叫ぶしか出来ない。そういえば名前すらつけていなかったのだと、ここでようやく霊夢は気付いた。彼の今現在について何をどう悪い想像に変えたってそれを確かめる術なんて何にも無いのに、どうせ何にも判らないのに、確かめられないその方がよほど残酷だなんて感じた。気持ちばかりが焦った。元気で生きていてくれたらそれで良い、そんな使い古された言葉で自分の焦躁を慰めかけて、それじゃ不満なのと理性が拒む。とにかく顔を見たかった。それだけで良かった。どうかもう一度、御飯をおねだりして無邪気に私の足にすり寄ってきてほしかった。冬が近づいて山野にだんだん探すのが難しくなってきた栗の実を、それでも私はこうして集めてきたんだからもう一度私の前で脇目もふらないで息も継がないで、あの時のようにまた一心不乱に食べてみせてほしい。それだけ願っていた。
 夕日は釣瓶のように落ちてゆく。
 この日々に区切りがついてゆくカウントダウン、落ちてゆく気温と頬の火照り。
 時間が止まってくれることなんて、あるわけがなかった。
 日の光が落ち、色濃い影がやがて庭の土の上で闇に同化した時に博麗霊夢は一度、立ち止まって茫然と山並みを見上げた。
 稜線に陽光の最後の一筋が沈みきったその瞬間を見送った。郷のどこかの古寺から、入相の鐘が一つ聞こえた。
 なぜだろう、ほんの少しほっとした。
 何ひとつ宛てもなく探し続けた時間、陽が落ちて立ち尽くしたその時をピリオドにした。
 私は諦め時を探していたのだろうか。
 タイムリミットという踏ん切りを、無理矢理つけたかったのだろうか。
 あまりにも危うい日々だったことに私はきっと気付いていて、けれど毎日やって来てくれる彼の姿に途方もない喜びを感じて、いつの間にかかけがえのなくなっていた時間を一日一回ずつ味わって、栗の実や焼き芋や団栗や零余子や銀杏や名も知らない木の実を何でも良いから綯い交ぜにして贅沢に一人と一匹で味わって、

 ――ほんとうにあっという間の一週間を過ごしたのだ。

 ただ顔を見たくて、それだけでも良いと思っていたたった一週間の夢が、お別れの挨拶すら告げることも叶わずに幕を下ろしてゆく。撫で回した背中の毛並みの感触が、疼くように掌に蘇ってくる。
 自分が動いても仕方ないのに、庭をぐるぐる探し回った。終いには意味もなく駆け足にまでなって、叫んで、散々どこへともなく庭のあちらからこちらへ走り回って子供みたいに息を切らして喉を枯らして、草履が何度も脱げそうになって、一つ残らず生け垣の中を覗き込んで、最後の夕陽の一欠けをこの目で見送ったあの時まで私の夢はずっと続いていたというのに、

 終わっちゃった、のだ。

 陽が沈んでいったあの山のどこかから、この人里に向かって、一筋の川が流れてきている。
 非常に清冽な水だ。洗濯をするには大変向いている。動物達が喉を潤すのにも、きっと最適の場所だったろう。
 その川の畔で、博麗霊夢とタヌキは出会った。
 まるで二カ所から流れて来る名も知らぬ二筋の川が、そこでちょうど交わったように。
 ――そして、再び中州で別れてゆくように。
 霊夢はいつしか、縁側に腰を下ろしていた。御飯を食べるのもお風呂に入るのもすべて忘れて、寒空の冬の夜も気にならないままに一体どれくらいの時間か、そうしてぼぅっとしていた。
 自分は一体何に哀しんでいるのか? それさえ判らなかった。
 私の中で私が、私じゃなくなってしまって。

「……あの、もしもし?」

 眼前、鳥居をくぐってくるその姿には最初から気付いていた。ずっと鳥居の方を観ていたからだ。
 とても可笑しいことに最後まで自分は、あの赤鳥居を四本足でてくてくと潜ってきてくれる彼の来訪を待ち続けていたことに気付いた。何だかんだでずっと鳥居から目を離していなくて、ほんの少し闇が揺れるだけでドキっと最後に胸を高鳴らせて、現れた小柄な人影に対して失礼なことに「なぁんだ」と失望して、ひそかに理不尽な恨みまで抱いたりして。
 そしてその気持ちの原因が、やっぱり自分でも分からなくて霊夢は目を伏せる。
「霊夢……?」
 彼女の貌を見ることが出来ない。タヌキは畜生なのだ。言葉は喋らないのだ。
 うにゅ、としゃがみ込まれて、伏せていた視線を更に下から覗き込まれて、彼女の髪の毛から薄くいい香りがふわっと漂った。
「……えっと」
 ごめん、と小さく呟くレミリア・スカーレットの小さな肩。
 最後まで黙っていた自分の姿は、さぞ滑稽だったに違いない。どきどきしたような目でこちらを見上げてくるレミリアの瞳が、その可能性を察知したようにはっと見開かれる。
 そのまま口を噤んでしまった。

 夕焼けが象った長い影も消えてしまった。日傘無しで訪れたレミリアの向こう、闇の中、ひとり佇む朱塗りの黒い鳥居。
 手に持ったままだったハンカチに気付き、霊夢はレミリアに気付かれないよう、それをそっと服の内側に隠す。

■ ■

「そっか――」 
「うん」 
 
 霊夢の機微なんてどうでも良い筈だった。今の彼女にかけられる言葉の一つさえ持っていないとして私が、この私が、本当なら何一つ気に病むことなんて無かった。
 ……なのに。
 こんなに傷つききった霊夢を前にして、レミリアはまず最初にそんな自分のことを、なんと悔しいと思ったのだ。
 よしよしと慰めて運命が平和になるならそうしよう。笑い飛ばして気が晴れるというなら腋でも何でも擽ってあげよう。
 霊夢からついぞ詳しい話も聞かないままに、数えてみれば出逢いはたったの二回のままに、霊夢の眼前から消えてしまったという小さな動物の行き先についてレミリアはつまり何も知らないままだ。
 タヌキ。
 けれどそれをもし、タヌキの「運命」というなら――もしかしたら、私はそのタヌキを霊夢に引き合わせてあげることが出来るかもしれないことに気付いた。
 それを口に出しかけて、すぐに止めた。
 たぶん、やってはいけないことのような気がした。
 自分には何ら累なんて及ばない。霊夢はきっと花が萌すように喜びを爆発させるだろう。誰も傷つかないし、誰かの傷が癒えると思う。
 けれど。
 理由は分からないけど、自分がそれをやってしまうのは、何かとてもいけないことの気がしたのだ。言葉には言い表せない理由だ。
 レミリアは生まれて初めて、運命を操れるなんていう、自分の能力を恨んでしまう。
 考える事はたった一つである。
 霊夢なんて――タヌキと同じだ。
「良かったわね」
「へ?」
「タヌキ。アンタ嫌ってたじゃない。いがみ合ってたじゃない。居なくなってせいせいしたでしょ?」
 にやり、と霊夢が笑う。
 うん、と唇だけで笑み返し、レミリアは霊夢から視線を逸らした。
「霊夢」
「ん?」
 ひとつ、大きく息を吸う。
「痛々しいから、やめてほしい」
 せめてそれだけ、絞り出させてもらった。
 くっ、と、息を呑む音が聞こえた。
 こんなにも素直な言葉を口にしたのは、一体どれくらいぶりだったろうか。直截に伝わってくる感情はとても痛いものだ。それが明るい感情であれ暗い感情であれ、素直な気持ちは相手の素直な所まで届いてしまう。お互いに。
 霊夢の本当の心を覗いてしまったような気がして、レミリアはきゅっと一人、拳を握る。
 居なくなってせいせいした?
 そんな言葉は、私にはとても痛い。
「……何よ、それ」
 霊夢の眉根が吊り上がる。
「私は別に、あのタヌキがどうこうなんて想ってないし、アンタがあのタヌキを嫌ってたから、居なくなって良かったって言っただけでしょ! それ以外に」
「……私だって」
「は!?」
「私だって……!」
 夜風は底を知らぬように、どんどん気温を失っていった。震えの止まらない風の中、すっかり冷やされた唇がそのまま固まってしまったように、少女の心へ届く言葉が続いてくれない。 
 レミリアは臍を噛む。
 私の素直さは、北から吹いて北へ抜ける風のように。
 このひねくれ者の博麗霊夢、今ひとときの素直さと、弱々しく弱った彼女を愛おしく守ってあげたいと想う気持ちと、霊夢が可愛らしいと思う気持ちと。
 そして。
 つまりは霊夢と同じように、誇り高き吸血鬼であるレミリア・スカーレットだって、あの子ダヌキのことを。
「私だって、って何よ!?」
 怒張した声が静謐を切り裂く。翻る気勢、打擲めいた気迫、縁側から三和土へ飛び降りた霊夢の視線は剣のようである。
「元はと言えばアンタがあの子を嫌ったからでしょ! こっちが気を遣ってんのよ!? 大体大人げないわよ、タヌキに威嚇されて毛嫌いする吸血鬼? それで吸血鬼なんてよく名乗るわね! 私だってアンタのために気遣ってあの子を遠ざけてたのに、」
 レミリアは、上に視線を逸らす。
 見上げた夜空に、いくつかの星が輝いている。 
「……そうよ! アンタが居たから怖がって逃げちゃったんじゃないの!?」
 美しい夜空だった。
 夜空というのは不思議なものだ。
 ひとたび雲がかかれば、ただ一面真っ暗闇である。そんな夜空だって、本当はあんなにも綺麗な星達を、あんなにも沢山持っている。
「アンタのせいかもしれないのよ!? もっと悪びれた顔をしたらどうなのよ! 私がどれだけあの子を好き――」
 ハッと、口を噤んだ霊夢。
 本当に、静かな夜である。獣たちの息吹は一つもない。
 私達だけ。
 私達だけ。
 ただ二人、人間と吸血鬼という、たくさんの感情を持ちすぎてしまった哀しい動物が二匹いるだけだ。
 レミリアは、縁側から飛び降りる。霊夢の眼前に、すっと立つ。
「な、何よ! 文句があるなら――」
 気色ばんだ霊夢はちょっと背が高かった。ぴょい、と最後は背伸びした。
 霊夢の顔を、レミリアがそっとそのお洋服に抱き留めた。
 頭の後ろに手を廻して、肩にくいっと押しつける。何か言葉をかけるのは、それからにしようと思った。
 まず抱き留めた。
 そうしていれば、傷だらけの霊夢の顔を見なくて済むからだ。
「……本当にあのタヌキさんのこと、好きだったんだね」
 にこりとレミリア、霊夢に見えない場所で笑う。顔を押しつけた肩の辺りから、しゃくり上げる振動が始まる。
 川の流れが離れてゆくように。
 夜空の雲が晴れてゆくように。
 雲が雨を落として、消えてゆくように。
 こんなにも素直な自分を、この私に、博麗霊夢が、見せてくれたという事実の嬉しさ。
 嗚咽は声になる。やがて波打つような感情がさざめき返す。静かな境内に染み渡ってゆく。
 くしゃ、と、少しだけ髪を撫でた。
「タヌキのために泣く霊夢なんて、霊夢じゃないんだから?」 
 えんえんと、霊夢は子供のように泣き続ける。
 最後に身体ごと、きゅっと抱きしめてレミリアも瞳を閉じる。
 一緒に泣いてあげられたら、どれだけか幸せだったろうけれど私は吸血鬼だった。
 そんな恥ずかしいことなんて出来ないや。
 そう思った。だから、  
 ――この幻想郷を、こんなに小さな肩が預かっている不思議さだけ、素直な心で噛み締めた。
 ちょこちょこ歩いてきただけの動物をたっぷり可愛がって、ふらっと居なくなっちゃったからってこんなにも取り乱して、泣きじゃくっている少女の涙の行方を、私は必ず忘れない。
 博麗霊夢。
 人や妖怪には見せてくれない、いつも雲に覆われっぱなしの星空を、レミリア・スカーレットがその肩越しに見上げている。
「私も好きだった、あの子ダヌキ。かわいかったもんね」
 何の慰めにもならないそんなことを言って、戻らない河の流れに想いを馳せる。
 ただひたすらに静かな博麗神社の境内で、小鳥のように震え続ける人間の少女を抱きしめた今という時間が、遠い星から来た不思議な運命の奇跡のように思える。
「まだ子供だったね」
「……」
 肩に埋めた頭が、小さく縦に振られる。
「最後まで元気そうだった?」
「……」
「良かったじゃない」
「……」
「またいつか、ひょっこりどっかで逢えるかも」
「……」
 問いかけのたび、小刻みに震える霊夢の顔。

「……まだ、子供だったね?」
「……」    

 まだ子供、だったのだ。
 レミリア、意地の悪い笑みを浮かべている。

 人間はやはり、畜生と同じだ。
 タヌキと何にも変わりはしない。可愛い子なのである。





■ ■


 まるで最初から何事も無かったような一日が、気付けばちゃっかり戻ってきてしまった。

 そんな終わり方を望んでなどいなかった。けれど、やはり彼の行き先を知ることは博麗霊夢には困難なことである。ならば、せめて「幸せに生きていますように」と、神様にお祈りすることしかできない。
 最初から気付いていたことである。レミリアに慰められた通りである。それ以上を望めば、それは奇跡というやつになると思う。
 よく晴れた日がまた始まる。
 霊夢はぶんぶんと首を振る。
 ずっと一人きりだった神社が、また一人きりに戻っただけのことである。ぱん、と頬を両手で叩いた。一人きりでなかった期間は僅か一週間であった。これから更に一週間経てば、これがまた普通になってゆくのだろう。
 一週間もかからないかもしれない。今日から始まる一日一日の連続が、今日から早速、博麗神社の日常として馴染み直してゆくのかもしれない。
 ……そんな終わり方なんて、絶対に望んではいなかったのだけども。 
「レミリア」
「何?」
「内緒だからね」
 懲りずにこれで五日連続となった日傘のお客様の顔さえ見ずに、霊夢はぶっきらぼうに呟いた。一週間前までは砂埃に汚れていた蔵の平皿一枚は再び元の蔵に戻された。ザルは納屋に投げ込んだ。食べ散らかされたいがぐりの破片のいがいがは、風か箒か、ともかく何かによって連れ去られて今は跡形も無い。水飲み皿だって再び蔵の埃にまみれるだろう。探すのに苦労していた栗の実も、これからはザル半分収穫すれば良いことだ。
 更に一週間もすれば、ザルどころか一個だってもう採れなくなる。一週間という単位は確実に秋から冬へと歩いてゆく。時が記憶を連れ去ってゆくように、次の一週間あたりがこの幻想郷から秋を連れ去ってゆくに違いない。
「でもさ、バラすかバラさないかは、私の勝手よねー」
「ふうん……そんなに血が見たいのかしら、アンタは」
「むしろ吸いたい。血」
「吸いたければ力ずくでどうぞ」
「良いの?」
「良いわよ。吸血鬼に血を吸うな、とは言わないわよ」
「聞き分けが良くなったわねえ霊夢……やっぱ大人になったのかしら? じゃあ遠慮無く」
「吸わさないけどね」
 レミリアのにやにや笑いが、どこか腹立たしかった。
「……ばーか」
 悔し紛れに、鼬の最後っ屁で逃れてお茶を一啜り、抜けるような青空を見上げる。
 こんなにお天気な日は、お洗濯でもしよう。清かな水に浸して、空の光に乾かして、自然の温かさをたっぷり染み込ませよう。
「……レミリア」
「何よ」
「ごめん。ひどいこと言ったね、私」
 口から零れた言葉の素直さに、自分で驚いた。
 レミリアが、目を丸くしている。「どうしちゃったの」とか言っている。これもやはり非常に腹立たしいが、その何倍も照れてしまってその照れ隠しで霊夢、ちょっとだけ笑った。
 洗濯すれば汚れは落ちる。秋はそのうち冬になる。あの日遠く聞こえた晩鐘、紅葉と一緒に散ったひとひらの夢の出来事と、可愛らしかった動物と、投げ掛けてしまった言葉の過ちと。
「言われたねぇ。『タヌキが怖がるからもう来ないで』『アンタのせいであの子は居なくなっちゃったのよ』」
 立ち上がる。
「……ごめん」
「何? きこえなーい」
「……ご、」
「声がちいさーい」
「……」
「霊夢?」
「……ばーか!」
「きー!」

 こんなにも優しい気持ちを連れてきてくれたのは、やっぱりあの子だと霊夢は思っている。
 ほんの一週間だけど、必ず忘れまい。
 今日はこれからお洗濯だ。あの日、今日と同じように出掛けた河のほとり、よく晴れた昼下がり、せせらぎの音、揺れた草むら、私とタヌキとで同時に顔を上げたあの瞬間から。
「……そうだ」
 草履をつっかけて犬走に降り立ち、ふとそこで思い出す。
「レミリア、アンタにも何か名前つけよっか」
「はい?」
「私思ったのよ、あの子に名前つけてあげてなかったなーって。ペットって名前があるじゃない? だから」
「……」
「ねぇ? タマとかポチとか」
 レミリアの眉が、嬉しそうに吊り上がるのを見て霊夢は満足した。
 はしゃいだ子犬のように翼を震わせている。照れたように顔が紅い。ぷるぷると震える握り拳は――何だろう、何に例えよう?
「私は……私ってやっぱり、霊夢にとって、ペット、なのかしら」
「違う?」
「違う! 絶対違う! ってかやっぱり、やっぱり私タヌキと同レベル!?」
 霊夢が溜息をつく。今度のはずいぶんと大きな声を出すタヌキである。
 きぃきぃと騒ぐ吸血タヌ鬼を尻目に、大きなたらいをよっこらしょと一抱え、指先だけで器用に洗濯板をその中に放り込んで、手拭きを首にかけて。
「そうねぇ……レミリア・スカーレットだから……レミ?」
「人の話聞きなさいよ!」
「じゃあスカ?」
「悪化! 今確実にすごく悪化した!」
 
 逢いたいという気持ちがあればいつか逢えるとか、希望を言えばきっと油然と湧き出てくるに違いない。 
 それも何か違う、と霊夢は思う。
 逢いたくないわけではないんだけど今はきっと、元の住処を駆け回っている。お腹を空かせていたあの日から一週間を走り抜けた小さな運命は、再び私と流れを違えた。
 博麗霊夢とタヌキが、あるべき筋の河に戻っただけのことなのだ。

 だから今更、変な希望に縋りたくはなかった。
 そして、博麗霊夢が想うことは一つある。

「ほらスカ、おせんたく行くわよー」
「うにゃーん。ってこらー!!」

 ……当たり前のように、傍に居てくれる誰かの大切さ。
 そんな誰かが傍に居るだけで、例えようもなく温かいことを私は知った。



「……おせんたく、はーじめっと!」



 境内には現在、声の大きなタヌキと霊夢しか居ない。
 けれど別に、独り言という訳では無いのである。



(了)




 何か珍しい作品――というか、こういう作品は書いた当時の心象風景を自分で見透かしに行くようで気恥ずかしくもあります。
 小動物に癒しを求めていたということで、私はきっととても疲れていたのだろう。(ぁ

 霊夢っぽくないな……というのは上梓当時から私も感じていたのですが、それもまた一興かと思い投稿しました。
 子供っぽい霊夢とか超かわいいと思うんですが、霊夢っぽさを残しながら子供っぽさを同居させるのは難しいですね――
 うまい具合に霊夢の童心を掴み取ってみたい……というところで、2008年の書き納め作品でありました。
  
(初出:2008年12月23日 東方創想話作品集65)