【Paraskavedekatoriaphobia】



 庭の方で神社の大鳥居が盛大に倒れる音がしたが、近年老朽化が進んでいたのを知っている故に霊夢はさして驚かなかった。
 失って初めて大切さが分かるものもあると人はよく言うし、長年連れ添ったりすると付喪だの愛着だのと只の道具でもえらく美化されるものだが、少なくとも霊夢にとってみれば庭に立ってるだけの鳥居相手に何かしらの苦楽を共にした覚えはないし、まあ枯れ葉を落とさないだけ木に比べれば人畜無害だったわよねという評でしかない。鳥居が無くなってお茶が飲めなくなるわけでもないし、鳥居の倒壊ごときで怒る器の小さい神様ならこっちから願い下げねと想いながらずずずとお茶を飲む。
 華やかな春風が、桃色化粧で境内を舞う。掃除の要らぬ花吹雪であれば喜ばしいが、積もった花びらの後始末に気が滅入るだけに損な職業をしているとつくづく思う。こんなにも美しいのに。
 冷める前にとお茶を喉に流し込んで外を見やれば春うららで、光のどけき陽射しの中に玄関を蹴り破る音が聞こえた。
 魔理沙ではないし萃香でもない。勘だ。
 どすどすという足音、ばきんどかんと色々を壊してくる物音、奇声、春風、鼻息、ぶぃーん。
 ぶぃーんって。
 魔理沙や萃香の華奢な身体では気付かなかったが、どたばたと盛大に歩かれるとこの建物は全体が揺れる。怖い。まあ割と暇だったし客人くらいもてなすけれど、そういえばあの玄関の板戸も随分長いことあそこにはまってたっけ、どたんばたんと足音に箪笥が揺れて、棚でだるまさんが転んだのを手で押さえれば埃が指について日めくり暦は四月、十三日の金曜日。
 十三?
 ばあんと、障子が吹っ飛ぶように開け放たれた。開け放たれる半分くらいで溝から外れて、廊下側に倒れる。ひどく広くなった部屋の入り口に大男。白いお面に穴ぼこだらけ、黒ずくめの衣装手にはチェーンソー。
 無表情で見送る楽園の巫女。
 文字通りの変質者、おぞましい笑い声と裂帛の絶叫、無関心な巫女の目に振りかざすは大ナタとチェーンソー、
「…………悪い子はいねえーーがーーー!!!!」
 それはたぶん違う。
 声にならない嘆息が零れた。
「……ちゃんと障子、直しときなさいよ」
 仕切り直しで口に含んだお茶は少し冷めていた。煎餅を齧ったら既に湿気っていた。全ては彼のせいであると思う。
 平和な巫女とホッケーマスク。
 時間が止まった。
「……」
 ホッケーマスクはいそいそと障子を立て直しはじめた。和風溢れるその仕切り戸はしかし外国人には少々難儀であり、おおかた一分ほどかけてようやく事態を収束させることに成功した。
 外国人なのかな?
 とそれはさておき、直し終えた彼はもう一度廊下に出て、ぱたんと障子を閉める。
 静寂。
 またしてもばあんと開け放ち、
「…………何を言えばいいんだぁ!!」
「知らないわよ」
「ですよね」
 項垂れた。ナタとか持っている割にはひどく低姿勢な男だった。
 項垂れたままでチェーンソーを脇に放って、炬燵の手前に胡座をかく。
「さてさて」
「何くつろごうとしてるのよ」
「折角来たのですし」
「お茶は出さないわよ」
「結構です、この顔のままじゃ飲めませんし」
 一理あるかもしれない。っていうか外さないのか。 
「私の矜恃ですから」 
 左様ですか。
 それでも取りあえず三度目の出がらしを湯呑みに入れて、客人の前に差し出す。水っぽいお茶を通り越してお茶っぽい水になったそれが、湯呑みの中で天井のシミをゆらゆら映している。呑んだってもう味は分かるまい。
「時に巫女殿は」
「巫女殿って」
「この私をどう思うかね」
 何だろう、藪から棒に。
 なんだかひどくノリが軽いがさておき、うーんと一つ唸ってから、首を捻りつつ男を矯めつ眇めつ。
 ホッケーマスク、ざんばら髪、黒ずくめ、
「…………醜い」
「殺ス」
「きゃー」
 チェーンソーが唸り、どーんとちゃぶ台をひっくり返す。気に障ったらしい。
「――とまあ、そういうことだ」
「一体どういうことよ」
「そういう設定なんだ」
「ふうん」
 ぱちん、と男はチェーンソーのスイッチを切る。結局使わないのか。
 醜いと言われるのが嫌なのかしらと思ったが実際格好良くはないし、でも設定とやらには基本興味がなかったので、霊夢は所在ない視線を外の陽射しに向けた。いつもより暖かだった冬そのままの勢いで、郷は気の早い夏日和を迎えている。桜花が心なしか例年より長寿を保って枝を彩っているのも、或いはそのお陰かもしれない。
「そもそもだね、スプラッタというのは音や光に任せるだけのびっくり箱ではなくて」
「すぷらったって何」
「お化け屋敷みたいなもんだ」
 どう違うのかについて二秒頭を捻ったが、生憎理解できなかった。
 男は残念そうに首を振り、その動きのままに辺りを見回す。
「それにしても、ここはどこなのかね。なんだか空気が違う」
「神社ね。割と境界のど真ん中にある」
「境界、とな」
「そ。あんたの居た世界とは別の世界」
 淡々と、霊夢は事実を告げる。
 外からの迷い人がここに来ることはそう珍しい事じゃないし、それが奇天烈な風貌を纏っていることだってさして希有でもない。だから霊夢もさして慌てはしない。
 幻想となって郷に迷い込む場合もあれば、単純に道に迷って紛れ込む者もいる。後者は主に主犯がマヨヒガの方に一人いて、その度に色んな意味で落とし前をつけるのは霊夢の役目だった。実に不条理ではある。
「……もしかして私は、ふらふらと森を彷徨う内に異世界に迷い込んでしまったのか!」
「そんな説明的に驚かなくても」  
 なんか映画みたいだな、と霊夢は思う。見たこと無いけれど、きっとそうだ。キネマとか活写とか、あんな辺りはきっとそうやって状況を説明しないといけないんだ。だから男は、キネマの主人公かもしれない。
 まあ彼がこちらの世界の住人でないことについては先んじて想像が付いていたから、彼がどうあれどっちみち送り返すことにはなる。
 どうせどこかの結界が綻んだくらいのものだろうから、かの主犯の尻を叩いて直させれば済む話だった。
 それが面倒なんだけど。
「じゃあ向こうの世界に返したげるから……それにしてもあんたの格好は何。普段どんなことやってる人?」
「殺人鬼」
「わーお」
 そんな答えを即答しないでほしい。
 どうしたものか。
「まずいですか?」
「まずくないわけがないでしょ」
「いやー巫女殿は正義漢でございますな」
 褒められた。
 褒められたが断じて漢ではない。撫子だ。
 もっと言えば正義じゃなくて一般論だ。
 ただ、その割に霊夢自身泰然自若としているのは、つまるところ
「んーまあ、放っとくと人喰う奴らばっか相手にしてるからねえ、いっつも」
 ということである。そう考えると、今の状況もさして驚くことではない。日常に延長線を引いたらそのどこかに引っかかる程度の出来事でしかない。
 でもまあ、堂々と外の人間が殺人鬼を自認するというのも、なかなか興味はある。
「殺人鬼っつってもさ、そんなことをするんだから、動機もあるのよね」
「あります」
「どんな」
「……殺された妹の仇を討つために、イニシャルS.Kの奴を捜しています」
「なにそれ」
 おそらくは違う。
 霊夢が首を傾げると、男の方も首を傾げてしまった。
「まあ動機は何でも良いのです」
「良いの?」
「……人を怖がらせることが、殺人鬼の役目ですからなー」
「あー、まあそうね」 
 そっちなら、まあ満足な回答ではある。
 レーゾンデートルという奴だ。聞いたことがある。
「まあいいわ。元の世界に帰したげる。出口はこっち。この神社からなら、結界に穴を開けなくても外に出られるから」
「かたじけない」
 武士か。
 男が立ち上がったので、霊夢もそれに続いた。
 障子を開けて縁側を歩くと、春風と言うには暖かすぎる風が頬の横をさっと吹き抜けてゆく。座っているだけで微睡めそうな穏やかな昼下がりに、涼やかな巫女がてくてくと歩いて、ホッケーマスクが後ろに付いてくる。
 物凄い光景だった。
「現実の世界ではもう私を怖がってくれる人は居ないが、巫女殿もあまり怖がってはくれませんか」
「実際怖くないし」
「怖くなくなった殺人鬼など、何の意味があろうか」
「知らないわよ」
「実際こんなチェーンソーだって……設定では私は一度として持ったことはない!」
 憤りの声を上げる男。だから設定って何だ。  
 そのとき不意に背後で、男の足音が止まった。
「時に巫女殿」
「何」
「あれは何だ」
 不意に男が縁側の先を指差す。
 視線が追いかける。
 そこに、何かがあった。
 否、居た。
「げ」
「うぃ〜?」
 指さされたそれが、朱染めの頬と胡乱な眼でこちらを振り仰ぐ。
「おー! やぁやぁ霊夢! 今日はまた変なお連れ様がいるね」
 萃香だった。
 人の知らぬ間に縁側にどっかと居座り、見たところもう三杯は引っかけている。
「それにしても、何しに来たのよ」
「うぇー、神社の方から鬼の匂いがしたからー」
「鬼の匂い?」
「そこの男ー」
「私ですか」
「あんたよー」 
「それは……あーなるほど」
 頷く男。何がなるほどなのか。
「ほら、私って殺人鬼ですから!」
 訊くんじゃなかった。
 頭痛を感じて、霊夢はこめかみを押さえる。
「……それで萃香、あんたらの仲間なのこいつ?」
「違うわよー、私達は誇り高き日本鬼の種族であって、そんな醜い男なんて」
「殺ス」
「きゃー」
 怒った。
 やはり気に障るらしい。
 また追いかけ回す奴と追いかけ回される奴。鬼ごっこが始まったなーと霊夢は思いつつ、ああこれぞまさにごっこじゃない鬼ごっこねと変に感心する。リアル鬼ごっことでも呼ぼう。
「まてー」
「いやー」
「殺ス殺ス」
「ばかーばかー! あんたも霊夢もみんな馬鹿ー!」
「なんで私もよっ!」 
 逃げ惑う萃香、意外と敏捷な男、奇声、ぶぃーん。 
 ぶぃーんって。
 要するにそれがチェーンソーの音だということに、霊夢はそこでやっと気が付いた。
 萃香の方は逃げ惑って鳥居の方へ走り去り、男もそれを追いかけて、しかし獲物は程なく倒れて横たわっていた鳥居に足を取られてすっ転ぶ。
「がしっ!」
「ひゃー」
 小鬼はあっさりと捕まった。
「巫女殿」
「何よ」
「これは殺しても良い人種ですか」
「たすけてれーむー!」 
 何故私に聞くのかと思いつつ、霊夢は改めて庭の光景を目に映す。うるうると瞳を潤ませて助けを求める鬼の少女と、その上から大チェーンソーを振りかぶる黒ずくめの大男。
 清々しいまでにシュールな絵だ。
 でもやっぱり、殺人鬼はこうでなくちゃと思う。
「ねえ男」
「何か」
「あんたさあ、殺人鬼よね」
「イエス」
「それチェーンソーよね」
「シュア」
「……殺っちゃって」
「合点承知」
「きゃー」
 萃香の瞳を、絶望の色が塗りつぶす。
 いつも霊夢は思うのだが、命乞いをされるその最後の藁一束の存在になって、しかしそいつを突き放す時のサディスティックな快感といったらない。 
 まあ実際いつも好き放題に境内で酒を飲む酒呑童子なのだし、少しは灸が必要だ。ちょうどいい。
「巫女殿、本当に良いか」
「コロセコロセココロセコロセ」
「お墓をお連れします」
「いやそうじゃなくて」
「いやー! いのちだけはおたすけー」
「ノーサンキュー」
「いやあーー!」
 おののく萃香に大男の影が迫る。迫力充分のマスク、殺人鬼の気合い、フルパワー駆動で唸り迫り来るはネガティブでハッピーなチェーンソーのエッヂ、
「ずがががががががが」
「いやあああぁぁぁーーー!!!」
 割と硬質の破砕音が、博麗神社を包み込む。
 そりゃあ、角なんだから結構固いよなあ。

「……ミッション完了」
「気が済んだ?」
「済んだ」
「なら、もとの世界に帰るわよ」
「わあぁあーん! 私の角ー!!」

 楽園の巫女と、幻想の郷と、外れ者の鬼が二匹と。
 これはこれで、平和な一日なのかもしれないと霊夢は思……いや、やっぱり絶対違う。
 うららかな陽射しの中で、男の勝ち鬨と鬼の泣き声と巫女の溜息が春風を混ぜっ返す。
 霊夢が先導してようやく、男は彼の帰途に向けて足を運び始めた。



 神社の石段を下りれば、そこが世界の出口である。
「――色々と世話になったな、では」
 幻想郷の境界で、ホッケーマスクが礼をする。
 最後まで妙な光景ではある。
 ついでにその後ろからは、左の角だけ綺麗に刈られた小鬼が一匹、未だに半べそをかいている。
「まあ、平和ぼけも程ほどに、きちんと人を殺しなさい」
「正義漢の巫女殿の口からそんな言葉が漏れるとは!」
「だから漢じゃないって!」
 ぷんすか怒る霊夢に高笑いを残して、男が幻想郷に背を向ける。その背中が夕日を受けて、儚い黄昏色に染まる。
「それにしても、妙なことを仰いますねえ」
「何か間違ってる? ここで人間を襲うのは考え物だけど、あんたが外で人を襲うってのは現実じゃなくてつまり」
「おっと、そこから先は禁句ですぞ」
 一瞬双方が黙る。一迅の風が吹き抜けて森の匂いが漂い、そして男が高笑いで沈黙を引きちぎる。
「いやいや、なあに、それはフィクションとノンフィクションの境界というか」
「あんたが言うな」
「ごもっともでございます」
 しおらしくお辞儀。
 やっぱり変な奴だった。
 折り目正しく四十五度に腰を折り、ぴっと顔を上げて、そのまま男は空を見上げる。
 茜色の雲が、風に乗って空を飛んでいる。
「それにしても……この空だけは、向こうの世界と変わらんのですな」
「何格好つけてんの」
「いやいや」
 男は空を仰ぐ。
 仮面にも表情があるとするならば、それはばつの悪そうな苦笑いだと霊夢には見えた。
 明日の快晴を告げる茜色が、天蓋を隅まで染め上げてゆく。
「……巫女殿」
「んー」
「人を殺すという幻想について、考えたことはないかね」
「さあ」
 考えたこともない。
「そうか。ならばいい」
「いいの?」
「いいのだ」
 男の声が、そこで初めて弱くなった。
 とはいえ男の背は、ちっとも寂しそうではないから心配は要らなさそうではある。
 何しろ殺人鬼だ。凛々しくあれ。
「確かに! 私は殺人鬼だ。が、ただ――」
「ただ?」
「――人間は案外、不器用になったものだと思ってな」
「あー」
 霊夢もそこで、少しだけ声が弱くなった。何を感じたという訳でもない。自然とだった。気配を感じて振り向けば萃香も後ろに立っていて、黙って成り行きを見ている。頭が右に傾いているけれど。
「それについては同感ね」
 頷く霊夢の顔に、自然と笑顔が乗る。裏腹に、心は苦い。
 黄昏時は、どうしても心が妙に染み入ってしまっていけない。風がそろそろ冷たくなり始めているのに、胸だけが妙に温かい。くすぐったいし、こういう感覚は嫌いだ。
 だけどまあ……こんな日も、少しならあっても良いかと思う。
 幻想郷と現実世界の境界が曖昧になったのは、九割は八雲の大妖怪の責任ではある。残りの一割は、色んな意味で幻想と現実の境界が曖昧になっているからだった。幻想を信じられない者、現実を信じられない者、そして――幻想と現実を峻別できぬ者と。
 それがゆえに、幻想は常に駆逐されてゆく。現実の世界を守る大義名分の下、大人達という殺人鬼はチェーンソーでもって、子供の心を殺戮してまわるのだ。
「大人達ばかりを驚かしても、自分はあんまり楽しくないですよ」
「そーそー」
 男の声に、霊夢の後ろで萃香が同調する。
 霊夢も、分かる気がちょっとだけした。子供は守られてしまって大人ばかりが殺人鬼を享受して、そりゃ面白くないだろう。 
 幻想を抱くのにも、こんなに気を遣わなければいけない時代になったのかと思うと、霊夢もいよいよ深い感傷に
「はいはい、馬鹿言ってないでさっさと帰る!」
 全然浸らなかった。
「あんた殺人鬼でしょ? 血飛沫肉飛沫で健全に成長する子供なんて居ないわよ」
「はいそうですすんませんでした」
 謝った。
 だからナタとチェーンソーを携えておいて余所行きの姿勢なのは止めてほしい。
「いや何、所詮詭弁でございますから」
「そう。でもあんたはあんたなりに、不器用なんだから」
「いやは、ありがとうございます」
 男の高笑いには、達観が混じった。
 霊夢だって分かっている。彼とて、子供に相手をしてもらいたい訳じゃないはずだ。
 ただちょっとだけ――本当にちょっとだけ――寂しかっただけだろう。 
「次に逢うのはいつでありますか」
「もう逢わないで良いから」 
「左様ですか」 
「左様です」
 にべなく突っぱねた霊夢の言葉に、マスクの下の顔が少し嗤ったように見えた。表情は読めないのだけど。
 ついでに暦上では三ヶ月後にまた同じ曜日が巡り合わせることを霊夢は知っていて、でもまあ、言う必要の生じる事象ではないと思った。
「じゃあこの先に歩いていけば、元の世界に……」
「ねえ」
 不意に言葉を遮って、霊夢の後ろから声が飛んだ。
 萃香だった。
「あんたの居場所はここにはない、だから帰らなきゃいけない。それは事実。……だけどー、」
「だけど?」
「……一人くらい驚かしてから帰っても、罰は当たらないんじゃないかなーなんて」
「ちょっと萃香あんた」
「まーまー霊夢、私の角の代償はきっちり払って貰うんだから。ここは私のわがまま時間よ」
 巫山戯た笑顔で、巫山戯た理屈の巫山戯た物言いだった。
 だったが、その語勢には紛れもなく、有無を言わさぬ気勢が裏打ちされている。
 くっと、霊夢は思わず息を呑む。古の鬼の気勢が零れて、霊夢の心を畏怖に縫い止める。
「そこな殺人鬼! 神社の入り口から右にずーっと行くと、真っ紅な屋敷が湖の畔に建ってるわ。あそこの連中ならあんたを満足させてくれるかもしれない」
 気取った萃香の声は、すっかり悪戯坊主のそれだった。
 溜息をつく霊夢、わくわくと一人で笑う萃香、首を傾げるホッケーマスク。
「う……本当ですか?」
「本当本当、本当も本当。ま、そいつらに泡吹かせてからでも遅くはないよ、帰るのは」
 ふむ、と男は思案に腕を拱く。
 黄昏の森に三つの影、鴉の遠い鳴き声。終わってゆく十三日の金曜日。
「――巫女殿、」
「勝手にすれば」
 男が巫女を仰いだ時、霊夢は既に背を向けて帰途につき始めていた。

「結界の出口は教えたから、私はもう知らないわよ。それに、万が一この郷で悪さをしたら、私が許さないから」

 以上である。
 それだけ言っておけば、よかったと思う。だから、返事は待たなかった。後ろだって振り返らなかった。
 振り返らなかったけれど、ホッケーマスクの馬鹿丁寧なお辞儀に関しては、西日に長々と伸びた影でしっかり認識できた。
 霊夢以外に二つ並んだ影が、それぞれ別の方へと歩み始める。一つは紅魔館の方へ歩いていき、もう一つは霊夢を追いかけてくる。
 茜色の空に、細い雲が黒く棚引いている。降りてくる夜の帳が、次第に郷を覆い始める。
 夕日はもう、随分と西の山並みに落ちていた。

 ぶぃーんと、チェーンソーの音が遠く聞こえる。


 


「……ねえ霊夢」
「同情した訳じゃないのよ」
「分かってるって」
 すっかり暮れきった神社への帰り道、先を歩く萃香がくすくすと笑う。
 どこか馬鹿にされた気がして、霊夢は露骨に眉を顰める。
「あんたも結局、鬼同士には甘いのね」
「ったりまえよー。あいつは変わりもんだけどね」
 変わり者は同意だけど、まったく自分のことを棚に上げて。
「うるさーい。私は変わり者だけど極めて純血の鬼で、ああいう鬼は紛れもなく変わり者! でも、やっぱ鬼は鬼だからー」
「訳わかんないけど、何よ、アレとあんた、やっぱり知り合いな訳?」
「だって、同じ鬼の字が付くじゃん?」
 あははー、と笑って瓢箪をひと仰ぎ、ぷはぁーと息を吐いて、
「でも初対面」
 ぐーで殴った。
 殴られた萃香の身体が豪快によろめく。
「いったーい! っていうかやっぱり右に傾くー!」
 出来の悪い弥次郎兵衛のように、身体がぐわんぐわん右へ右へと振れている。
 すっかりバランスを失った歩き方になっているが、ただ反面さして不自然にも見えないのは、やっぱり日頃っからへべれけになっているせいか。
「……ねえ萃香」
「なによー」
「鬼ってのはみんな、ああも一匹狼託ってスカしてる訳?」
「うぐぅ」
 何がうぐなのか。あゆなのか。
「だってさー、鬼がみんな必要な訳じゃないんだもん? 人に害なすような鬼まで護るような、そんなお人好しはかえって世界の毒だしー」
「言うわね」
「言うわ」
 けらけらと笑った後、
「でもさ、」
 霊夢の前で、変わり者の鬼が足を止めて振り向いてくる。
「――人に害なすような鬼って、つまりは誰のことか分かる?」
 宵の明星が夜空に灯る。川のせせらぎ、土の匂い。太陽が遺した暖かさを奪う、冷たさに染まった夜風一片。
 暗闇に飲まれそうな石段の中腹、霊夢の目の前。
 いつだって明るくて、寂しげで、健気な鬼がそこで笑顔を作っていた。
 文字通り作っていた。頑張って、必死で頑張って作っていた。
「……すごく分かる」
 だから、捻くれのない、素直な言葉が霊夢の口をついた。
 少しだけ悔しかったけれど、だけどまあ、心地悪くはない言葉になったと思った。
「うん、ならいい」
 満足そうに頷いて、萃香はまた歩き始める。千鳥足も今日は右寄りだ。 
 霊夢はつくづく思う。鬼ほど不器用な生き物はないし、人間ほど不器用な生き物もいない。人みたいな鬼が存在してここで笑っているし、鬼のような存在の人だって沢山いるはずだ。
 人みたいな鬼は鬼だが、鬼のような人なんてのは、すなわち鬼だ。人は鬼を人にすることは出来ないが、鬼は人を鬼に出来る。正確には、そう人が云う。
 鬼は人に害をなさない。本当に人を傷つけているのは、鬼そのものじゃなく――鬼になった人間なのだ。
 鬼が乱獲されるのは即ち濡れ衣で、つまりいつだって、人の不器用さと理不尽さのせいだった。
 そしてついでに言えば、そうやってお払い箱になった鬼の尻拭いをさせられるのが、いつだって霊夢ということになる。
 今日がそれだ。
 世界はどこか歪みながら、今日も今日とて一日を使い捨ててゆく。影で泣いているのはいつだって、鬼と巫女だ。
 なんてまあ……理不尽な世の中ではある。
 そんなことを、霊夢と萃香は笑顔で語り合いながら石段を登っていった。


 すっかり夜になった神社、溜息が鉛のように重くなって、淀む闇の中に沈み込む。 
 神社に戻った霊夢はそこでしかし、逃れようのない尻拭いの尻拭いを思い出した。

 あー
 やべー、鳥居どうしよう。



* * *


 ここは紅い館。
 十三日の金曜日に、レミリアはいつにも増して無口だった。
「咲夜、今日のカクテルにはシルバーブレットをお願い」
 そりゃ狼男だろ、とは咲夜、さすがに言えない。 
「魔除けは結構ですが――何でまたそんなにも十三日の金曜日を嫌いますか」
「十三は古来より不吉な」
「それは知っています。ですが、そんなの迷信でしょうに」
「迷信じゃないわ。アレが来るのよ、アレが……」
「アレとは?」
 咲夜が近づく。ずい、とレミリアが身を乗り出す。
 詰まる息。静かなる夜の刻に、レミリアの固唾がこくりと細い喉を鳴らす。
 付き合わされる頭と頭。
「アレが来るの」
「アレとは」
「……ジェイソンよ!」
「欧米か!」
 ぱちん。
「…………」
「…………」
 見事に時間が止まった。
 当たり前だが咲夜の能力という意ではない。その証拠に、レミリアの目が笑っていない。
 咲夜の背筋を汗が伝う。レミリアが椅子から立ち上がって、パチュリーがくるりと背を向けて、他のメイド達はそそくさと部屋を辞し始める。
 修羅場らバンバになる気配、煌々と立ち上るレミリアの気迫、どうしようもないやっちまった感、後悔は月光と共に降り注いで咲夜の顔色を真っ青に染め上げる。
「あの、おじょ、さま、」
「わたしをぶったわね……ぶったぶった仏陀……」
「いや、今のはツッコミと申しまして」
「――ぶったわね! 親父にもぶたれたことないのに!」
 そう来たか。
 いや、そういえばどんな親父だったんだろう。すごく興味がある。
 いやしかしそんなことよりもお嬢様が親父なんて単語を口にしたことがどうにも萌える、萌やし尽くされて抱きつきたい衝動に駆られた咲夜だが、事態は現状風雲急を告げていて、しかしそれでもレミリアお嬢様があろうことかオヤジィなんてあーもう、

 ばあん、と、物凄い音と共に扉が開かれた。

 振り返る咲夜、青ざめるレミリア、目を見張るメイド達、本から1ミリだけ動いたパチュリーの視線、その他諸々。
 そして部屋の入り口には大男。白いお面に穴ぼこだらけ、黒ずくめの衣装手にはチェーンソー。
 勝ち鬨の奇声が夜空に谺し、勇ましい咆哮と香しい血の香りにレミリアはわざとらしく青ざめて、十三日の金曜日が二十三時の五十九分を告げて、

「…………お菓子をくれないといたずらするぞぉぉぉーー!!」

 そこで、零時の鐘が鳴った。
 無駄に荘厳な鐘の音の流れる中、南瓜の馬車でも用意してやろうか等と、咲夜は極めてどうでも良いことを徒然に考え続けていた。


                                             (了)






 なおタイトルのスペルは、未だ私すら覚えていません。
 今書くときもテキストを見ながらやりました。すみません。
 
 日本では13金(略してみた)にあまり馴染みが薄くて、気付いたら13日の金曜日が通りすぎて14日の土曜だった、なんてこともしばしばありますが、欧米では「十三日の金曜日恐怖症候群」とかいう、高所恐怖症の亜種みたいな心理学病名がきちんと成立しているらしいです。
 で、それを本国の言葉に直したのが、この作品のタイトル。
(初出:2007年4月14日 東方創想話作品集39)