【お焚き上げ】 |
さぁさぁ雛を流しましょ。
厄を乗せたら、流しませ。
紙雛載せて、桟俵。
貴女の涙が、晴れるなら。
今日の時雨が已むのなら。
春の小川のみずいろになる。少女の涙が、一しずく。
哀しみ載せて流し雛。
さんだらぼっちと紙人形。たんぽぽすみれ、桜の香り。
少女が一人、泣いていた。春の河原で泣いていた。
何故泣く何故泣く? そんなに泣くの。
さぁさぁ雛を流しましょ。
厄を乗せたら流しませ。
「どうしてそんなに泣くのかな?」
思わずそっと問い掛けた。
姉の身体が悪いの――と、声の最後が掠れ消ゆ。
――さんだらぼっちを流しませ。
差し出す紙雛、桟俵。そっと手に取り紙のヒトガタ、鍵山雛が差し出した。涙の少女に差し出した。
姉の病を雛に載せ。
陰暦桃の節句には、流せば消ゆる、厄の色。
不思議に思いて少女が問うた。貴女はいったい、誰かしら?
言う間に河の流れへと、指より離したさんだらぼっち。「あれが私」と答えれば、丸い瞳がふしぎ色。
あれが貴女? と言問うた。
そうよ私、とお雛が笑う。鍵山雛が答えて笑う。
――ええそう私は、雛なのです。
流れてゆくよ流し雛。
揉まれて下る雛菊の影、よしよし童女のおかっぱを、よしよしよしと撫でて慰み、語り触れ合う雛の郷。
厄流しましょと鳥取は、人も乏しき用瀬(もちがせ)の、山あいに、川あいに、人あい続けて厄生まれれば私の袂においでませ。
厄なる者みな、おいでませ。
さんだらレっちに祈りましょ。
この子の姉が身の上に、巣食いし厄の種よ散れ。祓え給えや流し雛。やれ厄戻るな、水になれ。
この子をこんなに泣かせても、まだ世に神が居るのなら。
この子の瞳の水さえも、
川の流れに変え給え。
健やか祈れ、幸祈れ。
厄を祓いて小さな肩に、貴女にとっての幸せよ。
必ず必ず、訪れや。
姉の健やか、祈りませ。
* *
桜の花びら水面に浮かび、春も過ぎ逝く晴れの午後。
少女が突然現れた。
喜びはにかみ晩春の、散り桜をまた春にした。
戻れる幸の笑んだ顔。
夏を戻して春にした。
「何がそんなに嬉しかろ?」
春は等しく訪れり。長き冬越え流し雛、桃の節句に間に合わねども、姉の快気は間近に迫りて春色桜の薫り佳し。
姉の病が快気の兆し。
妹健気に喜んだ。
我が事の如く喜んだ。
雛も健気に喜んだ。
我が事の如く喜んだ。
病はいつしか治るよと、医者診立てたと言うではないか。
鍵山雛は喜んだ。
厄を預けて命の松明、暗夜の未来を照らしませ。夜来たりなば朝遠からじ、桜の薫りに夏遠からじ。
雛に預けし厄よ戻るな、戻らぬ厄よ花と散れ。弥生に萌せし桜と共に、河の流れへ散りて逝け。
鍵山雛は喜んだ。
我が事のよに、悦んだ。
そして寂しく、こう告げた。
「けれど貴女は、ここな来そ。今こそ別れめ……この私とは」
冷たき声に、桜散るらむ。
何故? どうして? と。
縋る瞳の健気さに桜も一時散り遅れ、一陣舞いし川風に、やはり耐えずに散り逝きて。
――私は流しの雛の神。
厄を纏いて流れる身。未来に戻らず、過去に消ゆ。
我が事思わば厄を知る。我が身に寄らば、厄を受く。
私は雛神、流し雛。
民草の厄をこの身に背負いて、水の流るる彼の先に、消えて散り逝く運命なら。
この身は貴女を、不幸にするよ。
この身に寄る者、不幸になるよ。
だから貴女に、もう逢わじ。
今日に別れて、二度とは逢わじ。
流しの雛の、運命(さだめ)とて。
哀しき瞳の貴女が一つ、「うん」とこくりと頷けば、寂しき春はまた揺り戻す。
私は厄神、流し雛。
これが私の、運命とて。
寂しき貴女に寄り添わば、いかで貴女を悲しませねどもこの身は哀しや、流し雛。
私は厄を背負う神。
貴女は幸を背負いませ。
……いざや願わん春風や、人の幸こそ運び吹け。不幸を運びて吹くこと勿かれ。
この身にのみぞ、厄よ吹け。
この子に幸の、風よ吹け。
この身は人に寄り添わず。寄り添うことなど、よもや能わじ。
この子の明日に、姉の明日にこそ幸よ吹け。
もう一息の、春よ吹け。
「分かりました」と頷きて。
従容去りゆく、幸なる少女。
――寂しく小さな、その背中。
* *
冬枯れ小径に薄小袖。
寒げに肩を震わせて、見上ぐれば空に粉雪の散る。
少女は高く見上げてた。
高く高くを見上げてた。
青い冬空振り放け仰ぎ――用瀬木枯らし寒河原、雪の泳ぎを眺めてた。
「おやおや一体どうされました? そんなに寒げなお姿で」
流し雛神、現れ問うた。
冬の雛さま現れて、雪に変えたる雪催い。儚げ佇む少女の背には……露も見えざる厄の蜜。
いったい誰ぞ? 雛が問う。
季節はずれの流し雛、儚き姿に現れた。
少女の幸が気になりて、思わず冬に現れた。
妹お世話になりまして――
そう言告げて、はじめて少女の相好に、あの幼子の面影見ゆる。
鍵山雛は驚いた。
貴女はもしや。
もしかして。
「こうしてお外を、今歩けます。きっと貴女のお陰です」
微笑む一足早き春、哀しみ溶かせと厄神の、鼻先に留まる雪の粒。
柔らかすぎた横顔と、薄く霞んだその影と。
病は治りて厄は無し。
晴れたる笑顔に雪は無し。
快気を悦ぶ清冽な、瞳に流しの雛の神。
私に寄るなと、また告げた。
私は厄神、流し雛。
この身は貴女を不幸にするよ。
流し雛 二度とは逢わず 災厄を 流して幸を もちがせの川。
貴女は幸こそ持たれませ。
この身に寄ること、必ず勿かれ。
何故? どうして? と。
訝る少女がまた問うか。
少女は問わずに微笑んだ。
どういうわけか、微笑んだ。
妹お世話になりました。貴女のことは聞きました。
少女は笑って空を見る。
涙を沈めて、空を見る。
薄骨浮いたその頸に、雛が気付いた真実も。
誰をも恨めぬ真実が、青く哀しく澄み渡る。
切なく冷たく、あの高空に澄み渡る。
気付かぬ者は、かの妹と、この雪と。
春待ち侘びる、あの枯れ枝と。
寒げに飛んだ、雀の子。
私は厄神、流し雛。
流れ流れて厄を負い、流れ流れて戻らぬ身。
あなたはきっと、流れゆく。過去の河へと流れゆく。
春より先に、流れゆく。
花より先に、散ってゆく。
せめて寄るなとまた言えば、ふと抱き締めた姉の腕。
抱かれた厄神、お雛さま。可愛き可愛き、お人形。
抱き締めた姉、呟いた。
――この雛さまが、あの子の縁(えにし)。
――このお身体が、あの子の便(よすが)。
妹ずっと、笑ってくれた。毎日毎日笑ってくれた。
あなたのお陰で、笑いて過ごせし夏と秋。
姉妹で過ごせし「幸」の刻。
季節は巡り、巡りゆく。夏来たりなば、秋遠からじ。
秋来たりなば……冬遠からじ。
あの子の冬を、守りませ。
私はきっと、流れ逝く。流れて消えて……私はきっと、次の春まで守れませぬから。
鳥取用瀬、雛神よ。
あの子の幸を、守りませ。
どうか守りませ、とこしえに。
私は間もなく、雪になる。神さまどうか、お守り下さい妹を。
私は春咲く花になる。
薄紅色の、花になる。
花になれたら誓います。あの子の家に咲きましょう。
花になれたら誓います。あの子の家で散りましょう。
流しの雛に、散るのです。
さんだらぼっちの、花になる。
だから神様、いつまでも。
あの子のお傍に、居られませ。
居て下さいませ。
いついつまでも、いつまでも。
厄神雛を両手に掴み、厄の溢るる冬河原。
涙に震えし、その指を。
嗚咽に凍えし、その声を。
……離すことなど、出来なくて。
桃の上枝に春遠し。
少女がひとつ、泣き笑う。
鍵山雛は、その手を撫でた。
骨ばむ指を、温めた。
私は用瀬、雛の神。
少女の幸せ、祈る神。
いかで少女を、守らずや?
されどこの身は、厄の神。
――答えがついぞ、出なかった。
* *
陽暦雛の節句にも、春は等しく吹きにけり。
梅の香揺れる用瀬の、弥生の河原に少女が一人。
涙に暮れて空を見ゆ。
雛さまや。
雛さまや。
少女の声が震えてた。
堪えきれずに震えて消えた。
――鍵山雛は、現われた。
見知った顔に、現われた。
……堪えきれずに現われた。旧暦桃の節句の日、それを待たずに現われた。
私は厄神。流し雛。
二度とは逢わじと誓いて今日に、いかでこの名を呼びけるや。
鍵山雛は哀しんだ。
我が事のよに、哀しんだ。
妹切なく泣いていた。無人の河原で泣いていた。
姉が、姉がと泣いていた。
姉が、姉が、と、泣いていた。
少女が震えて叫ぶ空。今朝は奇しくも上巳の日。
陽暦桃の節句の日。涙を切り裂き叫ぶ空。
私は雛に、祈りけり。
姉が幸せ、祈りけり。
さんだらぼっちに厄載せて、流せ流せば流し雛。
二度と戻らぬ川果てに、厄を運んで去る小舟。
いかで姉こそ死にけるや。
姉の厄載せ桟俵、去年(こぞ)の御雛の節句の朝に、あの厄この厄皆載せて。
千代川(せんだいがわ)の流れに消えて、厄祓いましょと流し雛。
私は祈れり、流し雛。
雛神様に、お手々を合わせて祈りけり。
どうして姉は、逝きますか。
私を残して、逝ったのですか。
――私に寄るなと、雛言った。
重ねて問わば川流れ。
言葉も流れて涙に代わり、虚ろな少女の瞳につぐみ。いそひよどりに風が吹く。消え入る声はじょうびたき。
私は厄神。
貴方をきっと、不幸にするよ。
貴方の傍には居られない。
鍵山雛は、そう言った。
この子守れと姉言った。
大事な大事な妹を、お守り下さいお雛様。
姉はこの春、桜になった。薄紅に咲き、匂い微かに散りぬれど、二度と戻らぬ春になる。
桜と咲きて、桜と散って。
妹忘れぬものならば、想い飛び梅、春桜。吹き込む風に、言伝て馳せよとあの桜。
天神様の小径にて、妹必ず守りませ。
――されどこの身は、厄の神。
だから「寄るな」と、雛言った。
雛は必ず、守ります。
流し雛として、神として。
姉との約束、果たさんと。
少女の幸を祈りつつ、厄を背負いて消えましょう。
幼き少女の涙を載せて、私は流れて消えましょう。
私は貴方を、不幸にするよ。
流れ消えてこそ……流し雛。
少女は一つ、頷いた。
涙を隠して、頷いた。
最後に一つ、と呟いた。
御雛様。
私はあなたが、好きですと。
切なき胸が、潰される。
少女は健気に、こう言った。
ここは用瀬、雛の郷。
桃の節句に雛流し。厄を祓いて幸祈る。
あの日にも一度、逢いましょう。
最後に一度、逢いましょう。
それで最後に致しましょう。
貴方が人を、不幸にするなら私は最後に流します。
お雛様、お雛様。
私の厄をお預けし、流れも早き千代川に、千代(ちよ)の幸せ流しませ。
鍵山雛は頷いた。
私は厄神、流し雛。
少女の幸せ祈りつつ、厄を背負いて「雛」となる。
陰暦桃の節句の日。
流しの雛の祭にて、最後に逢いましょ。
そう言った。
姉と交わした約束と、
妹告げし約束と。
二つの約束胸に秘め、少女の幸せ祈る雛。
流れ流されど雛は雛。
少女の幸せ祈りつつ、
私は厄神、流し雛。
二人の幸せ、願いつつ。
* *
そして妹、現れた。
桃の節句に、現れた。
千代川は、春霞み。
千々に花咲く春の朝、いと嬉しげに現れた。
少女が流す、桟俵。
少女が流す、桟俵。
春の流れに花が咲く。さんだらぼっちの花が咲く。
今日は用瀬、雛祭り。
あちらの少女もこちらの童女も、手に手に載せた桟俵。紙雛載せて、流しませ。
これが用瀬、流し雛。桃の節句の春祭り。
厄を籠めたら流しませ。
少女の幸せ祈る雛。
二度と戻さじと流し雛。流され雛と妹と。
華やか祭を背にしつつ、妹無邪気に微笑んだ。
流しの雛の、節句の日。
この日がとっても楽しみで。
――この日がとっても、楽しみで。
鍵山雛は、見えていた。
雛人形(ひとがた)には見えていた。
見たくもないのに見えていた。
「おひさしぶり」と言う少女。
その「人型」に――既に御魂の消え果てて。
少女の唇、言葉を紡ぐ。
私は人間、ひとりきり。
母も父もが居ない日に、とっても可愛いお雛様。
貴方は厄神、流し雛?
寄り添い逢えぬ、運命なら。
――お姉様。お雛様。
――同じ所に、私も行くよ。
姉は逝けどもお雛様、貴方のせいじゃありません。
私はすっごく幸せで。
貴方のお陰で幸せで。
姉様母様、父上そして、お雛様。
私が死んだら、みんなとずっと、
いっしょに居られる。
そうだよね?
鍵山雛は微笑んだ。
そして静かにこう言った。
「……なれば一緒に、いざ行かん」
少女の霊が、はにかんだ。
春晴れのように微笑んで、無邪気にはしゃいでそれが故、
――雛の涙に、気付かなかった。
私は厄神、流し雛。
少女の幸せ、祈る神。
すべての厄を祓いましょう。
私がすべて、祓いましょう。
あらん限りの災厄を、さんだらぼっちに載せたらば、鳥取用瀬雛の郷。
千代川に流しましょう。
どうしてみんなが哀しむの。
どうしてこんなに苦しむの。
私は厄神、流し雛。
私に寄るなと、告げたのに。
貴女は別れてくれたのに。
私は一体、何をした?
私は現われ、少女に触れた。
二人の少女に――この身この手で、触れたのだ。
この身に寄らば、貴方をきっと不幸にすると。
分かって私はお雛様。少女の幸せ祈りつつ――流され消えるお雛様。
そうだったのだ。
そうだったのに。
ごめん、ごめんと呟いた。
鍵山雛は涙した。
二人の少女の不幸せ。
私が作った、不幸せ。
雛神様が、涙した。
ごめんごめんと……涙した。
私も一緒に、いざ行きましょう。
千代川の、流れの果てまで。
哀れに消えた、この少女。
私はきっと、誓います。
貴女を二度と、哀しませじと。
とこしえに、とこしえに、貴女がずっと哀しまぬよう。
その厄全てを、この身に背負いて。
私は一緒に、行きましょう。
私が一緒に、逝きましょう。
さぁさぁ、雛を流しましょ。
厄を載せたら、流しませ。
紙雛載せて、桟俵。
貴女の涙が、晴れるなら。
今日の時雨が已むのなら、
――貴方と一緒に、流し雛。
* *
流れ流れて雛が行く。千代川を、雛が行く。
さんだらぼっちが流れ来る。いくつもいくつも、流れ来る。
上流河原、春霞み。裳裾を揺らして少女が歩く。晴れ着、はにかみ幸溢れ、無邪気な少女が手に手に流したさんだらぼっち。
鳥取用瀬、流し雛。
鍵山雛は流れ行く。
さんだらぼっちに囲まれて、少女と共に流れ逝く。
その厄全てを、身に背負い。
私は厄神、流し雛。
貴女とやっと、一緒に居られる。
これからはもう、離れぬと。
雛が少女を、励ました。
貴女の傍に、居てあげる。
――ずっとずうっと、居てあげる。
見遣りし用瀬、春河原。
昇る煙は、お焚き上げ。
(了)
まさかもう一回五七調の作品を書くとは思いませんでしたが―― 最初からそれを企図した訳ではなく、気付いたら五七調で書いていたという感じ。 この作品を出した前日、旧暦の桃の節句に実際に用瀬の流し雛祭へ行ったのですが、そこで目撃したのがお焚き上げ(不要になった人形を供養し、灰にして空へ帰す行事)でした。 流し雛はもちろん良かったのですがそれよりも、河原に投げ捨てられるように山と積まれた種々の人形が織り成す情景の一種の異様さときたら、心を根刮ぎ奪ってゆくような暗い膂力がありました。 その結果書いたのが、この作品です。明るくも哀しく、哀しくも明るい話を目指して書きました。 |
(初出:2009年4月1日 東方創想話作品集73) |