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【No Name Story】


 ごろん。なんですかこれは。
 面妖な円形物体を手に受け取って2秒と半分、文は目の前の霖之助に当然の疑問をぶつけた。
 幻想郷外れの古びた道具屋で、店主の眼鏡が暖炉の炎に妖しく光っている。肩口ではかぁかぁと、烏が間抜けな声で暇を持てあましている。
「怪しいものに見えるかね」
「怪しい物に見えます」
「いやまあ、そんなに怪しい道具じゃない」
「怪しい者に見える貴方が言うんだから怪しい物に見えます、間違いなく」
 ははは、とにっこり笑いながら店主は拳を固めている。どしゃりと豪快な音を立てて屋根の雪が窓外に落ち、ストーブの湯気が少し揺らいだ。
 びりびりと、振動に窓が軋む。
「……おとうさん、このおうちぼろだからつぶれちゃうよ」
「どっかで聞いたような言い草だね」 
「色んな意味で潰れる前に訊いておかなければならないんですが、それでこの品は何なのですか」
 進まない話にやきもきしつつ、悴んだ指を暖炉の煙に翳しながら、文は回答を促す。遡ること16秒前に手渡された小型の黒色球形物体は、どうやら何かの装置と文は見受けるが、ところどころ小さな穴が空いており何とも用途に想像が付かない。
「君の新聞のネタには格好と思ってるんだがね」
「私は信頼のあるネタしか扱いませんので、扱うかどうかは私が決めます」
「100人に伝えて100人が信頼する事実なんて、この世に一つだってあるのかな」
「無いですね。あるとすれば、貴方が胡散臭いということくらい」
「あー、それもそうだね」
 蕩かすような人の良い笑みを浮かべて、霖之助は中指を立てた。
「私を言い負かそうなんて9秒早いですわ」
 文も笑み返す。ストーブの上で薬缶がしゅうしゅうと湯気を上げ、窓の向こうでは空っ風に地吹雪が舞い上がる。
 がん、と霖之助の足に蹴っ飛ばされた椅子が向う臑に直撃し、文は声もなく悶絶した。9秒後のことである。
「それはね、夜空を見る道具だ」
「よ、夜空……?」
「正しくは星空。外界で必要とされなくなったわけでもなかろうが、ある理由でここ最近これが沢山入ってくる」
 真剣に悩ましげな顔を浮かべて、霖之助は顎を撫でている。同じテンポで臑をさすりながら、文はあらためて手にした球状物体を矯めつ眇めつ弄ぶ。
 必要不必要のベクトルとは常に独善的に存在する。畢竟誰かによる欲しい欲しくないの情動が、他人の必要性如何に影響されることは稀である。なればこそ古物屋が暖簾を構えていられるのだが、香霖堂に限っては人が不要にした物でなく、世界が不要にした物を集める性癖があった。
 その風変わりな店主は、道具を掌に弄ぶ文の様子をおもしろそうに見つめている。
「何故それが、幻想の産物になったか分かるかな?」
「んー。外の世界ではもう星も浮かばないとか」
「星は星だよ、我々の物じゃない。鋭利安のものだ」
「永理案ですか」
 A李餡だそうだ。無駄な異国情緒が店内に溢れて、隙間風と共に天井のランプを揺らす。
 そうか永理案が縮んで永琳なのかと閃いて嬉しくなり、文は肩口の烏の羽根を勢いよく一本毟った。ぎゃあ! と抗議の声が上がる。
「まあ鋭利安は冗談でしょうが、本当のところはどうなんでしょ。星空は存在するが、もうそれが見えない、ということですかね」
 答えはまだ出ていない。霖之助も呼応するように、不思議そうな表情を作った。
「例えばどういう理屈で」
「分厚い『すもっぐ』とか」
「そんな煙が覆っていれば、星空見上げるべき生き物は誰も生き残れまいさ。この世界に居る君と僕もね」
 烏が延々ぎゃあぎゃあと騒いでいるが、霖之助の言はもっともな理屈だった。星空も仰げない瓦斯瓦斯しい世界に、酸素を吸って生きる者が棲めるとも思えない。
 ただ君と僕などと言われて気持ち悪かったので、手近にあった壺を霖之助の顔に投げつけた。首を捻ってかわした霖之助の背後で、二つばかり別の壺を巻き込んで破裂音がたおやかに立ち上る。
「真相はね、星が減ったということらしい」
「減った? 爆発でもしましたか」
「いや、そういう意味でなくて――だって満天の星空の中から一つ減ったところで、誰か気付くかね」
 気付かない。文が首を横に振ると、霖之助は傍の棚の品を手に取った。文の手にある物と同じで、こちらは一回り大きい。
「ここに一つ、冥王星という星がある」
「ああ、その件ですか。知ってますよ、冥王星くらい」
 そこまで言われて、ようやく文も思い至った。外界の情報については、こと天狗の耳目の鋭さに敵う者は居ない。
「僕が聞くところ、この星が無くなったらしいんだ」
「無くなってませんよ、外の人間が扱いを変えただけです」
「ほう」
 やれやれ知っていたのか、とでも言いたげな風情で、霖之助は瞑目して首を振った。
「その結果がこれだ」
 言って霖之助は、椅子の背もたれに踏ん反り返る。
 文が知っていた時点で、どうやら何も言うことはないらしい。奇妙に小気味よく肩を揺すりながら、器械を弄びつつこっちを見てにやにやと薄っぺらい笑いを浮かべている。それがどうにも気持ちが悪かったので毟ったまま持っていた羽根をストーブの天板に落としたら、黒い煙と一緒に物凄い匂いが店内に立ち籠めた。6回立て続けに噎せ込んだ霖之助が、手に持っていた物体を窓に投げつける。涼やかな破砕音で硝子がダイヤモンドダストになり、舞い込んだ吹雪が匂いと暖気をかっさらって店内を駆け抜けてゆく。
 烏が暇を持てあましたように、肩口から床に飛び降りて滑ってこけた。
「単純な話、冥王星が手酷い目に遭ったからこの星見は要らなくなった――そういうことですか」
「ああ、まあそういうこと。なにせ星見と言っても、宇宙を見る訳じゃない。宇宙の有り様を見る道具だから、旧代の物はもうお払い箱ということだ」
「有り様って、人間が勝手に決めた有り様でしょう。星も宇宙も、何にも変わっちゃいない」
 人が冥王星を見捨てたことは伝え聞いている。場所がどうとか大きさがどうとか、偉い人が話し合って決めたと天狗仲間のまち子が言っていた。
 だがどのみち歩いてゆける距離でもあるまいし、眼で見ようとして見える星でもない。それで道具が要らなくなったというのも奇天烈な話だと文は首を捻る。奇天烈すぎて喉が渇いたので飲み物を霖之助に注文したら、三角形パックの牛乳が投げ寄越された。幻想の仲間入りを果たした牛乳らしい。一度取り損なってお手玉してから辛うじて掴み直すと、踏鞴を踏んだ拍子に足元の烏を踏んづけてぎゃー! と野太く啼かれた。
 文がストローをパックに突き刺すのを待って、霖之助が口を開く。
「宇宙は変わらないけど、人にとっての宇宙は変わる。夜空の星の場所を全部覚えてられるほど、人間は賢くないのさ」
 達観した様子で嘯いて、霖之助はにやりと笑みを浮かべる。
「眼に見えない場所にある星だからこそ、名前を付けてやらないと誰も存在を意識できない。たとえ眼に見えても、似たようなのが沢山あればそれぞれ名前が要るし、さらに区別するために定義を作り、そこに嵌めるかどうかで喧嘩する」
「ただ夜空のどこかにある、では気が済まないんですかねえ」
「たとえば君に名前が無かったらどうかと考えるのさ。そしたら君を見る僕ら誰もが、君にときめくことも恋することも出来ないだろう?」
 言い得て妙な比喩だった。本当に上手いと思ったので一通り舌を巻いてから、気持ち悪かったのでストローの袋をストーブに落とした。先とは異質な匂いがまたしても猛烈に立ち籠めて、霖之助は七回噎せた。文も十一回噎せた。
 霖之助の右手からほどなく二つ目の星見器が宙を舞って、反対側の窓ガラスが砕け散って空気が交換された。百四十キロは出ていた。
「名は態を表す。ここにある品が全て名を持っているのは、単に便宜だけの話じゃない」
 霖之助の眦に、少しだけ陰が差す。
「案外薄氷の上に生きてるものさ、僕も君も。世界が確かかどうか、それを確かめる時でさえ僕らは、名前という自家製の証にばかり頼ってるものでね」   
「自家製の証、と来ましたか」
「君らだって、記事を書く時辞書を使うだろう。辞書が無くても世界は在り続けるが、辞書がなければ、それを表す定義がなければ我々は、星の一つさえ碌に愛せない」
 因みに最近は電子辞書とかが便利だ、と霖之助は続けた。
「挙げ句の果てに、その定義を巡って自分達で喧嘩してるんですから、始末に終えませんね」
「僕だって名前がなければ店も出来ないし、物に名前がなければ品を扱えないかもしれない。だけど世界は別に変わらない。僕が居ても居なくても、物は物として在り続ける訳だしね」
 なかなかの大言壮語を、しかし興味なさげに霖之助は口にする。本当に興味がないのか自己欺瞞なのか文の目では判らないが、取りあえず彼の奇妙な能力を顧みれば多少なりとも感傷になりうるかと思いなし、文は黙ったままそれをやり過ごしてあげた。
 彼の言の通りなら、それはそのまま彼の眼力の無意味化に繋がる気がした。さりとて、舌先三寸で彼を慰めるのも馬鹿馬鹿しいし無意味である。触らぬ神にとは思わないが、無策に優る策も無いだろうと考える。
「まあ良いじゃないですか、我々は星空を眺めていればいいわけですし」
 そして気が付いたら、やっぱり舌先三寸で慰めていた。言ってから一人で臍を噛む。
「そういうもんでもないと思うが……ってそれにしても、随分と詳しいね件の事情に」
「まち子に聞きましたから」
 訝しげに眉をひそめた霖之助に、胸を張って文は答える。外の事情通のまち子が言うことに間違いはない。ロリ顔でポニテで巨乳と三拍子揃っているので一層間違いはないと文は思っている。
 しかしそれを聞いた霖之助の眼が黄色く輝いたので、ちょっとだけ霖之助に同情した11秒前の自分を激しく後悔した。後悔したついでに手に持っていた星見器を天井に這うストーブの通気管に投げ当てたら、盛大な音と共に継ぎ目が外れて物凄い量の煤が店内に降り注いだ。すると怒った霖之助がにこやかに輪ゴムを飛ばしてきておでこに直撃して涙が出たので、その輪ゴムもストーブの上に落としてやったら格の違う悪臭が炸裂して死ぬかと思った。
「そんで、この機械はそもそもどう使うんですか」
 煤まみれになった器械を拾い上げながら、文は霖之助に問う。もとを正せば今日、記事のネタをやると文を誘ったのは彼の方である。寒空を裾はためかせて飛んできて、貰ったのが球状物体と牛乳と愚痴だけでは間尺に合わない。
「暗い部屋で使ってみると良い。中の灯りさえ点けば、壁に星空が映るはずだ」
 言われて文は、ああ、と唸りながら納得した。我が意を得たりと、霖之助も笑顔で頷く。
「プラネタリウム、ね」
 正しくは即席の、という修飾語が付くだろう。半球の器に穴を空け、そこから漏れる光が星空模様になるらしい。
 スイッチらしき物を文が押すと、淡い光の点が壁に薄く映った。部屋が明るいので判りにくいが、ご丁寧なことにいくつかの星は星座の線で繋がれていたり、名前まで影に映し出している星もある。
 果たしてその中に、plutoと刻まれた星がチカチカと瞬いていた。 
 消え入りそうなその小さな星が晴れて“消えた”今、この道具はは旧世代の代物ということになるらしかった。香霖堂に今映し出している星空はつまり、旧世代の宇宙ということになる。
 幾十億の星霜を重ねた宇宙がほんの一と月で旧世代と扱われるのも馬鹿馬鹿しいと文は思うが、それが人間の都合なら仕方ないかもと考える。人間による人間のための道具なのだから仕方ない。仕方ないけど馬鹿馬鹿しいので烏を蹴飛ばしたら、煤の褥に頭から飛び込んで真っ黒になった。あまり変わらない。
「名前だらけの宇宙……このプラネタリウムが外の世界の人にとっては、宇宙なんだろうね」
「無駄な物を作りますよね。星空を見上げれば、いつだって宇宙はそこにあるのに」
 緩んだ下駄を履き直しつつ、心底から、文はそう思う。宇宙は間違っても、狭い部屋に映し出せる物じゃないはずだと知っている。知っているつもりである。
「いやいや、夜の星空は星空であって、宇宙じゃない。だからこそ、小さな冥い星を巡って喧嘩するんじゃないか」
 ところが霖之助はまた可笑しそうに、幅の狭い肩を揺らした。文が察するところ要するに、人間がやることはつまらないとでも言いたげらしかった。
 半分さえ人間じゃないなら人間を笑う資格があるのかとも文は思うが、その前に道具屋として嘲ってるのかとも思うと悪い気分はしない。何より嘲る反面で、嫌っている様子は微塵もない。
 それこそ達観したような、穏やかな笑顔だった。
「あの小さな星が、冥王星だそうだ」
 霖之助が指さした先の光の点は、窓からの光に溶けそうな程小さかった。暗室の中ならともかく、日中の店内では灯りを消しても心許ない。
 壁元に、霖之助が歩いてゆく。
「こんな小さな星だけど人間はムキになるし、こんな小さな点だけど宇宙のどっかで浮かんでるんだよなあ。気持ちいい話だ」
 ぴんぴんと壁に浮かんだ点を爪弾きながら、霖之助は乾いた笑いを浮かべていた。はて気持ちいいだろうか、と文は首を傾げ、まあ心地悪くは無いなと思い直す。
「これが土星、これが木星、そしてこれが……」
 小嬉しそうに呟きながら、霖之助が広い宇宙を歩いてゆく。掌サイズの土星と、壁の隙間に埋もれた木星と、窓の向こうに溶けた火星と……人間が愛する宇宙とやらを、霖之助が一つずつ爪で弾いてゆく。
 その笑顔は軽いけれど含みがあって、面妖で薄っぺらくて寂しげだと文は思った。ただ一方で宇宙が人の物じゃないという証拠を示せと言われたら困る気がして、文は文で烏を足で小突きながら、複雑な胸の内を持て余してもいた。
 今居る世界が、まるで飴細工のように見えた気がした。
「星に名前を付けたなら、その時星は我々の物になっているのかもしれないね」
 その胸の内を見透かしたようなことを零されて、文は驚いて烏を三米ほど蹴飛ばす。蹴飛ばしてから考えるとしかし、名前がなければ所詮文とて、星も宇宙も愛せない気がして立ち止まる。霖之助はというととぼけたように笑って、恥ずかしそうに視線を外してしまう。
 不覚にも無骨な輩に気付かされ、ついでに慰められてしまった気がして、文もまた視線を逸らした。すると逸らした先に大きな星が瞬いていて、あれは何という星かと訊ねたりして話をも逸らした。こんな筈じゃなかったのにと、霖之助に奪われた主導権を恨めしく思うが、一番まぶしいあの星の名前は僕しか知らないなどと彼が答え代わりに嘯いて薄気味が悪かったので、電源を切らぬまま文は高下駄でその星見器を踏み潰した。
「星空は変わらずとも、宇宙は変わる。やっぱり案外、宇宙は人間のものなのかもしれない」
 そう言って霖之助は、半分だけ人間くさい生欠伸を浮かべる。どこか力ないその言葉は、厭世というには未練っぽく、説示というには乾ききった口調に聞こえた。
 そしてふと、床の黒い塊と化した鳥に目を向ける。
「烏、烏と言っているが、その烏にだって名前があるんだろう」
「ええ、ありますけど」
「だからこそ、君もその烏を相棒として愛でることができる。名前がなければそれは烏でしかない。あー否、烏でさえもないね。只の黒い鳥でしかなくなる」
 自家製の証……今更になって、文はようやく霖之助の言葉が飲み込めた気がした。気がしただけなので、改めて反芻して噛み締める。
 噛み締める。噛み締めてみる。
 すると何故か世界が急に薄っぺらく見えた気がして、文は三度ばかり頭を振り、言葉を慌てて生煮えのまま呑み込んだ。
 そんなのいやだ、と思ったから。
「まあ……」
 霖之助はといえば物憂げに、都合六つ目の星見器を取り出して眺めていた。本当に無尽蔵に転がり込んできているらしい。
 眺めたまま少々寂しげに、しかし温かく言葉を継ぐ。
「君も記者なら、そう客観の世界ばかり気にしない方が良い。君達が出来事を伝えるからこそ、世界が生きた世界として回っているらしいからね」
 不本意だけど、と続け、霖之助は手元の道具から顔を上げて笑った。上げた瞬間その目が合って、すると顔が紅くなった気がして、文は慌てて俯きスカートに飛んだ煤をはたくふりをした。
 慰めてくれてるのかな? などと考えると耳まで赤くなりそうでまた文々と、ぶんぶんと首を振って思考をねじ切る。
 そうして俯いた先の胸ポケットに、赤と黒のペンが二本刺さっていた。スカートのポケットでは、四角い帖面の感触が布越しの太股に触れている。こんなに細い、こんなに薄い力が、誰かにとっての宇宙を作る。それが新聞というものなんだと、霖之助はそう言った。
 言ってくれた。
 それが容易に判る理屈で、また判るからこそ気恥ずかしい。
 零れる笑みをもっと深く俯いて誤魔化しながら、訳もなくくすぐったい気持ちを文は覚えていた。
 悔しい。なんか悔しい。
「何はともあれ……君が冥王星を知ってた時点で、僕のネタ提供は空振りに終わったというわけか。代わり、と言いたいが、今のお駄弁りも新聞のネタには少々……ね」
「ええ、少々大幅にそぐいません」
「ははは。……でもまあ」
「?」
 霖之助の顔が歪み、くしゅん、とくしゃみを一つ。やれやれははは、と誤魔化し笑いを浮かべた鼻元を人差し指で擦りながら、
「まあ案外、お互い似た者同士ってことで」
 取り繕うようにそう言って、霖之助はまた笑った。
 文も応えて、曖昧な微笑を返した。返したが、眼鏡の奥の眼がまるで何もかも見通してしまいそうで、結局最後まで、視線はそのまま合わせることが出来ずに終わった。
 

「ところで因みに、その烏はなんという名前で」
「えー黒田アーノルド勘三郎です」
 あ、烏が喋った。
「それはそれは、後学の肥やしにするよ」 
 その辺はまあ、お好きにどうぞ。
 文はそう言い残して、彼が見送る店の暖簾を静かにくぐる。

 かぁ、と勘三郎が一つ、間の抜けた別れ言葉を呟いた。









☆ ☆ ☆


 星空の綺麗な夜だった。 
 否、宇宙の綺麗な夜だった、と言いたい。そう想いたい。

 帰り道で目に付いた河岸の草の上に座って、文が見上げた星空は宇宙だった。誰が何と言おうと、そこに宇宙があった。誰の眼にも美しく映る、満天の宇宙がそこに浮かんでいた。
 そんな宇宙を見上げて、自分もやっぱり宇宙を見間違えていたのかもしれないと文は思った。こんなに星空が懐かしいってことは、きっと色々忘れてたんだなあと歯噛みする。 
 背中の後ろではちょこちょこと、アーノルド勘三郎がまた暇を持て余して草を啄んでいる。
  
 いつでもどこでも、星はそこに浮かんでいる。プラネタリウムに刻まれた星の名前の代わりに、手の届かない星達が無数、取りあえず空には浮かんでいる。
 名を与えるというのは、擬人化か支配欲か、はたまた現実の証明か――小難しいことを色々考えてみるが、見上げた星空が綺麗なのでもうどうでも良くなった。
 四肢を投げ出して、文はごろりと仰向けに寝転がる。背中でぎゃあ! と勘三郎の声がしたが、もう一度身を起こすのも面倒なのでそのまま寝ることにする。
 いずれにせよ、星は輝いているのだ。名前は知れなくても、毎夜彼らは瞬き続けている。
(…………。)
 とはいえ、それでも明日の星空が今日と同じかと問われれば、言い切る自信もない。どこか一かけの星が燃え尽きたところで、たぶん気付かないだろうなあと思う。
 それこそ名も無ければ、どこの学者だって誰だって、気付かないんじゃないかとさえ思う。
 だけど宇宙はその瞬間確かに変わっていて、プラネタリウムの中も呼応して変化する。或いは燃え尽きなくても、やれどこかの星が小さいだ冥いだ等と言いながら、日々刻々と変化するらしい。名前のお陰で。
 人はそして、それを宇宙と云う。
 どっちが本物だろう? どっちが宇宙であるべきなんだろう? 背中では相変わらず勘三郎が蠢いているし、ついでにぎゃあぎゃあ五月蠅いし。
 そんなこんなで宇宙がどこにあるのか、文は少しだけ見失いかけた。草原の香りを嗅ぎながら、気散じに一つ大きく伸びをする。そして横に置いたカメラに振り戻した手が当たったところで、ああそれで写真が必要なのか、と一人納得した。
 思いつつ何か違う気もしたし、それすらも気休めか欺瞞に見えたが、もうかなり眠かったので結局どうでも良くなった。

 ゆっくりと文は、瞳を閉じる。すると眠気に包まれた瞼の裏に、満天の星空の残像が映った。胸の中のプラネタリウムに、仄かな灯りがともる。
 夢の深淵に溺れながら文は、やっぱり宇宙が狭く見えた気がしてやるせなくなる。きっと広いはずの本物の宇宙を、幸せであれと切なく想う。
 凍えそうな冬の草原で、ただあの風変わりな物売りの意外な優しさだけが、何か温かい水で胸を満たしてくれていた。冬枯れの胸が少しだけ、温かな拍動をもって火照り返る。

 嗚呼出来るなら、長い時間を往きたいと思う。大きな世界と沢山の仲間達と一緒に、温かい時間を生きたいと願う。ついでに叶うなら、美しく広いこの宇宙と一緒に。
 だから、右頬を一筋流れた雫の宛先については、もう不問に付してしまいたい。
 宇宙も星空も、私が死ぬまでは取りあえず、変わりなく瞬いているらしい。あとは記事を書くだけだ。

 ううん、これは不貞寝じゃない。間違っても。 






 宝石のような宇宙の彼方へと、文の意識が朧に溶けてゆく。
 ぎゃあぎゃあという勘三郎の声は次第にか細くなり、やがてとうとう聞こえなくなってしまった。

 重い物背負ってるけど、何とか生きてるんじゃない?
 みんな、たぶん。






 学研の付録の話をしましょう。
 当時5年の科学だったと思いますが、プラネタリウムが来たんですよ。黒い幕に小さな穴が開いてて中から電球を照らす、どっかのバンドの唄にありそうな小さなプラネタリウム。
 いつか遊ぼう、いつか手にしようと思い続けて数年、高校に入学する頃に結局手付けずのまま処分しました。同じような運命を辿った品は他にも沢山ありました。
 ありがちな話であります。
 4年の科学、6年の学習、たった今彼等はお星様になったのだよ。
(初出:2007年1月11日 東方創想話作品集36)