【虹色幻想郷 〜せきとうおうりょく、せいらんし!〜】 |
「まぁまぁ……これはまた見事な光景になっちゃったねぇ……」
見慣れた博麗神社の庭に降り立つなり鳩のようにくすくす零しながら、西行寺幽々子はからりと明るい声を上げる。
隣に侍した魂魄妖夢が、眉を顰めた。
「笑い事ではありません――どうするのですか、これ」
「どうするの、って言われたって私のせいじゃないんだし」
「ですが」
「……心配しなくても、なるようにしかならないわ」
「指を銜えて見てろってんですか?」
幽々子は、にっこりと笑った。
「だって指を銜えて見に来たんじゃないの、こうして」
妖夢は、眉が繋がりそうなほどに憮然としている。
眼前の光景は、もちろん幽々子の目にも確かに見えている。まだその原因は掴めないながら、悪戯好きな妖怪の仕業なら必ずやそこに残る、剣呑な妖気の痕跡なども一切漂っていない。自然現象で片づけるにはいかにも不自然な今日この日だが、退治すべき妖怪が居るわけではなさそう。
いかにも「誰か」の仕業に見える現象が、実は「誰か」によるものではない。根拠もない想像でそう仮説を立て、だから幽々子はにこやかに、内心でこう思った。
――ちょっと、厄介なことになるかもしれない。
例によって軽くあしらわれた妖夢は「異変がないか探しに行く」と呟いて、一人博麗神社の裏手へ回ってしまう。緊張の手に固く握りしめられた二振りの剣の鞘が、先っぽまで建物の陰に隠れるまでを幽々子はぼんやり眺め、一人取り残されてから「ふむ」と、一つ頷いた。
天を見上げて思案顔。
その遙か上には、今し方まで自分たちがお茶を飲んでいた、白玉楼が建っている筈である。
異変というのは得てして、退治すべき相手が居る方が解決はよっぽど楽だ。犯人が判明し次第、そいつを叩けば済む話である。
しかし退治すべき相手が居ないとなると、鍵の在処から探ってゆかなければならない。はっきりした原因が掴めない以上、回りくどい探偵の真似事に身を窶さなければならなくなる。それなら、ぐー一発で済む方が楽だ。
……こういう短絡的な考え方を、ちょっと前までの自分はあまりしなかった。犯人を探し出してとりあえず殴っとけ、みたいな霊夢の考えに、どうも彼女と出会ってから似てきてしまった節がある。
幽々子は、苦笑いで頬を掻いた。
「さてさて、軍勢を募りますか――」
快晴の空を見上げる。
時、薫風の五月。風は温く、緩やか。
雲一つ無い空が、燃えるような真っ赤っ赤に染まっている。
そのことを除けば、何ら変哲のない朝である。
■ 赤〜1st day〜 ■
「というわけで、神社の周辺も含めて特に異常は――って、何暢気にお茶なんか飲んでるんですか!!」
「だってー、ヒマなんだもの」
木陰に涼みながら、きゃんきゃんと喚く犬のような妖夢をまたあしらって、幽々子は水筒を傾ける。
ヒマなのである。ヒマだ。
「ま、どーせまた変な妖怪の仕業だろうしな」
そのヒマをしていた幽霊の隣、木の陰からふと姿を現した少女がある。
む、と妖夢が畏まる。
「……魔理沙さん」
「お茶、ご馳走になったぜ」
ぽん、と魔理沙が乱暴に放り投げた水筒の蓋を、空中で幽々子が掴み取る。
「お粗末様でした」
「まぁまぁだったな」
「あら、妖夢が淹れてくれてるのにまぁまぁだなんて失礼な」
「ふーん。ごちそうさんだったぜ」
虫も殺せないような笑顔で、魔理沙が妖夢を振り返る。
「いえ。それで魔理沙さんも、やっぱりこの赤空を?」
幽々子に寄り添うように、妖夢も木陰に腰を下ろした。恐らくは自分たちと同じように、異変解決の糸口を求めて博麗神社に足を運んできたらしき霧雨魔理沙は、今一度、その異変を示す赤空を悠揚と見上げる。手にしていた箒を、勢いよく振り回した。
「まぁ、最近ちょうどヒマしてたところだしな。身体を動かすにはちょうど良い」
妖夢が、また眉を潜める。
「暇つぶし感覚で参戦しないでくださいよ……結構おおごとですよ、これ」
「あら、私も暇つぶし感覚だけど」
「幽々子さまはお黙りください」
返す刀、冷たい声で幽々子を断罪する。
事の発端は、今朝幽々子が起き抜けに言い放った一言である。
「あらおはよう、妖夢。今朝は異変の匂いがするわね」
朝から何てことを言いやがる――そんな顔をして妖夢はちょっとだけ、黙った。それから、
「なかなかのご挨拶です、幽々子さま。おはようございます」
そう言葉を継いできた。こちらもまだ起きたばかりだったらしく、頭の髪の毛が一握りほど、東北東の方角へ向かって見事に跳ねていたのを幽々子は覚えている
「残念だけど、割と伊達や酔狂でもないのよ妖夢」
「特に何も感じませんが――夕べは静かな夜でしたし、もっと言えば昨日はきれいな夕焼けでしたから、今日もいいお天気だと」
妖夢は言いながら踵を返す。髪の毛が西南西を向く。幽々子に背を向けて三歩歩き、寝所の障子を左右に開ける。
「思いますよ」
その目の前の雨戸を、最後に一番勢いよく開け放った妖夢。
その瞬間だった。
「わ!?」
「きゃっ」
一瞬にして、部屋が真っ赤に染まり返った。大げさでもなんでもなく、赤い絵の具を夜中の内に部屋にぶちまけられていたのかと一瞬思った。寝室の暗闇に馴染んでいた瞳は明順応が遅れ、壮絶にまぶしく差し込んだ朝陽の光にすぐさま幽々子は目を瞑る。手を翳し、早く部屋の中の状態を確認したいと逸る気持ちで少しずつ瞼を開け、程なく部屋のみならず空までもが赤一色という事実を知る。朝陽の中で毒々しく存在感を示していた赤の色が、そして実は朝陽そのものだと気づくまでに要した時間は割と長かったように記憶している。
「な……なんですか……これ……」
背を向けたままの妖夢の呟きが、小さく聞こえた。その向こう側に広がる空は、何かの冗談のように真っ赤に染まっていた。
「これはこれは……」
誰かが描いた浮世絵が、幽々子の脳裏を一瞬暢気に掠めた。雄麗な富士を題材にした彼の絵は確か空だけは青かったはずだが、世界から受ける印象としては、あの浮世絵と非常に似たものを感じる。
幽々子は、起き抜けから感じ続けていた異変の「症状」を、こうして知った。
異変を察知していたのは本当だと妖夢に主張し、妖夢は例によってからかわれているだけだと思ったらしい。だが、あれは幽々子にしてみれば本気も本気である。空気の匂いがいつもと違うことを、幽霊である幽々子の身体は敏感に察知していた。かつて紅霧の異変であるとか、あとは自分たちが幻想郷中の春を集めて回ったときもこの空気の匂いは、如実に変化を来した。異変が自然を巻き込んだとき、幻想郷の空気は非常に敏な反応を見せる。
自然には気性がある。それが幽々子の持論である。
人間や妖怪が狼藉を働けば、相応に自然の不興を買う。それはある種、神への信仰の気持ちにも似ていると思う。尋常な空ではなかった。秋の盛りの紅葉を思わせるように、派手な赤色で染まった空。まさしく浮世絵の世界である。いつも見慣れている枯山水の庭の情景、その白砂、そして頭上に広がる青空の青の部分だけが、刳り抜いたように赤へと染め替えられている。
妖夢がゆっくりと、青ざめた顔で振り返った。赤一色の中に、唯一の青である。
額に冷や汗を浮かべながら、恐る恐る言う。
「不覚です……幽々子さま……起きてくださいもう夕方ですよ!」
「ちがーう!」
* *
「へぇ……空の上まで空が真っ赤か」
「面白いことになりそうね」
隣で妖夢がまた顔をしかめるのも見ないふりをして、幽々子は水筒を傍の幽霊の首に引っかけさせ、立ち上がった。
「まぁ、魔理沙が居てくれる分だけ話は早そうね」
「何つったって異変といえばここだしな」
魔理沙は笑って、ここ、のところで親指を立てて博麗神社の方を指す。何となく、異変を受け手からの行動が魔理沙と同じ発想だったというのが無性に自分で悔しくなる。よもやそんなことはおくびにも出さないが、異変といえばここしかない、と思いしは神社なのに駆け込み寺。些か短絡的な思考だったかも知れないと反省しつつ、ひとまず方策を練るならここだろうという判断は間違っているとも思わない。
庭の木の足もとから眺める博麗神社は、真っ赤な空の光に染まり、普段以上に赤く染まり返っている。こぢんまりとした暖色の建物も、この色の旭光を浴びて聳えていると些か毒々しかった。
「だれが異変といえばここですって?」
強く張った声が、背後から聞こえた。
その玄関から、ゆらりと人影が現れる。
「あら、呼びに行く手間も省けるだなんて」
「幸先が良いぜ」
三人の視線を一身に浴びることとなった神社の主・博麗霊夢は、思わずたじろいで「む」、と声を漏らす。
「意外な組み合わせが揃ってるわね」
「ただの偶然だけどな」
「ただの偶然ですけどね」
「偶然にしては、面白いことを見つけたような顔してるわねぇ」
にやにやと生笑いを浮かべながら、霊夢はゆらゆらと近づいてくる。
「あぁ、久々に面白すぎる材料だぜ。真っ赤すぎるくらい真っ赤だし」
「ええ」
その足下が、どこかおぼつかなく揺れている。幽鬼のように左右へ揺らめきながら歩み寄る霊夢の姿を、頭上から真っ赤に染まり返った朝日が照らし出し、やけに毒々しい印象を与えてきた。赤一色に染まった博麗神社の庭で、微笑みを浮かべながらゆっくりと近づいてくる霊夢。「……ゆゆこさま」と、妖夢が脇に寄って小声で呟いた。
幽々子はにこやかに笑っている。
「いいから早く幣を持ってこい、誰の仕業かしらんが二、三発ぶん殴ってやりゃ悪戯坊主だって目を」
「魔理沙さん」
「ん?」
妖夢がお節介に、魔理沙までを制す。幽々子はそれも黙って見ていた。懐から扇を取り出してばん! と広げ、口元にやって瞳はまだ笑っている。
その奥底には、しかし鋭い眼光が光った。
霊夢は無言で近づいてくる。
焦点の定まらない瞳と針路の定まらない足取りが、やがて三人並んで突っ立ったその真ん中に目標を定めた。
横の二人が、その人物を見やる。
その人物は扇を口元に当てたまま、笑顔を下半分覆い隠して微動だにしない。
千鳥足のような霊夢の歩みが、ふっと一息に早まって一瞬で幽々子に肉薄した。
「幽々子さま!」
敏捷な動きに一拍反応が遅れた妖夢が、焦りの声を上げた。幽々子が扇を振り上げるのは、それとほぼ同時だった。
ぱちんと音を立てて、振り上がった先で扇が閉じられる。そのまま一直線に霊夢の脳天を打擲するや――と見えた、次の瞬間。
「……あは、ゆゆこさ〜ん」
どふ。
と、霊夢がその懐に飛び込んだ。よもや小柄を構えての刺突という訳ではない。単純にふわりと両の腕を広げた霊夢が、扇を振り上げてがら空きになった幽々子の胸に抱きついたのだ。腕は両脇をすり抜けてしっかりと幽々子の背中に回され、突っ込んだ顔をその胸の谷間に預ける形となる。
飛び込まれる前一瞬だけ垣間見えたそのうっとりとした笑顔が、やけに三人の脳裏に残像として残っていた。
「……は?」
「うふっ、ふふふ」
突然すぎる出来事だった。左の差し手も許してもろ差しとなった幽々子は勿論、咄嗟に横で刀に手を掛けた妖夢、ぼんやりのふりをして箒の柄を強く握りしめて身構えた魔理沙も誰一人、何一つ動けない。呆然として霊夢を見守っている。
すりすりと、霊夢が嬉しそうに胸の中で顔を動かす。幽々子の豊かな胸が、そのたび左右にくいくいと柔らかく押し退けられる。
「そらはどーでもいいですから、遊びませんかー」
「ちょ、ちょっと霊夢……うぐっ」
首に手を回した霊夢はそこにぶら下がり、頭半分ほど低いその身長差を相殺する。次の瞬間、頬にちゅっとキスされた。そのまま頬ずりされる。
奇天烈、としか言い様のない光景だった。
妖夢は完全に目を白黒させている。魔理沙は爛々とした目で「おおー」なんて言い、箒の柄の部分をぎゅっと強く握りしめている。
当の幽々子は、にこやかに霊夢の頭を撫でている。その内心は勿論、平静ではない。
「れ、霊夢、そういうのも嬉しいかもだけど、今はひとまずお話が――」
「そゆのは、ちゅっ、あと、ちゅっ、あとで」
幼女が母親に戯れるように、霊夢は幽々子の両頬にキスの雨を降らせる始末である。どこか無邪気なままのその仕草だけにかえって、何とも蕩かすような霊夢の熱い目が逆に際立って淫靡に見えた。
「ど、どうしたのかしら……ずいぶん今日は色っぽいことね、霊夢」
「そう? 気に入った?」
「ええまぁ、それなりには」
「幽々子さま! お気を確かに!!」
妖夢が隣からがなり立てる。
「なんであなたが顔を赤くする必要があるのよ」
「そうそう」
「だって! だって!」
「ねー」
いかにも楽しそうに幽々子へ相槌を打ちながら、霊夢はやおら組んだ手をほどき、代わりに今度は幽々子の左腕に絡みついた。きゅっと押しつけられる身体から、薄い布越しに伝わる体温。心許ない胸の膨らみの柔らかさの奥から、霊夢の心臓の拍動までが聞こえてくる。平静よりも高く、速く。
「に……二百由旬の一閃!!」
スペルカードとか、ご大層なものでは間違っても無い。前口上もなければカード宣言もなく、宣言というかその名前を早口に叫んだだけで、あれがスペルカード宣言とはとても思えないいい加減さ。
要するにほとんどデタラメに振り回した妖夢の一太刀が霊夢の脳天を優しく撫で、勢いづいていた霊夢はようやく大たんこぶを作って昏倒する。
* *
「……ふう」
炊事場を物色して見つけ出した白の布巾を頬に宛がいながら、幽々子はようやく人心地をつけて溜息を落とした。落とした視線の先に座布団のほつれ。他人の家の拵えとはいえ、こういうものを見つけると無性に気になる。
一応巫女さんらしい身だしなみだったのか、霊夢はご丁寧に薄紅を引いていたらしく、一頻り騒動を終えた幽々子の頬には見事なまでのキスマークが五つも六つも咲いていた。
じっくりとほっぺたを擦って、消しにかかる。
妖夢は横で、未だに何事かぶつぶつと呟いている。
「やっぱり、何かしら関係あってのことか?」
「空の色とは関係無しに霊夢がお色気むんむんになったってんなら、それはそれで喜ばしい出来事だ――って?」
「色つながりでね」
「それはそれで面白いしな」
「いけません」
意地の悪い微笑みさえ浮かべながら会話する幽々子と魔理沙に、妖夢が一人反旗を翻す。苦笑いの二人が振り返る。
仏頂面で剣の柄に未だ手を掛けたまま、息巻きながら幼い少女は呟く。
「ふしだらです」
ひとまず幽々子と妖夢は、赤い空へと舞い上がった。霊夢の「容態」については気になったが、魔理沙が「看病」を申し出てくれたのを幽々子も了承し、ひとまずは白玉楼に戻る。況んや「容態」とは、たんこぶのことではない。
あの時ならぬ発情の理由を、幽々子自身、未だ掴みかねている。
その追究をあっさり手放した格好だが、霊夢があの調子で魔理沙も詳しい事情を知りそうにないとなると、現時点では頼れるアテがないのも事実である。なんだかんだで空の色が変わってからまだ半日、もう少し成り行きを見守ってからでも行動は遅くないというのが幽々子の判断だった。幻想郷での異変は数知れない。有為転変の日常の中で、一見おかしな異常でも落ち着き払う胆力が、幽々子にも魔理沙にも、恐らく無駄に醸成されてしまった。
「ひとまず明日ですか、幽々子様」
「ひとまず明日ねぇ」
曖昧に頷く。
博麗霊夢に訊きたいことは、いずれにせよ山ほど積もった。。
悪ふざけが過ぎただけといえばそうも見えるし、不養生なことだが朝からお酒を呑んでいた可能性もある。空腹にあかせて変なキノコでも採って食べたという可能性も、あの巫女なら割とあり得る話だが――
やはりどうしても、ひっかかった。
霊夢が気を失ったこともあるが、その転変を見定めるには、もう少しだけ時間が必要だと判断したのだ。
気性の乱れ――そう遠くない記憶が蘇る。
先ほどの霊夢には、確かに、「気性の乱れ」が起きていたように思う。
そうすれば、この空の変化とも、ちょっとした仮説が成り立つ。勿論仮説であり、今の段階では根拠も何もない。
「ねぇ妖夢」
「はい」
「明日も空が赤くなるような気、しない?」
「えええー」
根拠は無い話、である。
ちなみにそうなると、自分一人では恐らく左右できない問題になる――
脳裏に軍勢の候補者を繰りながら、幽々子は無言で赤い空の向こう、白玉楼を目指した。
■ 橙之日〜2nd day〜 ■
竈にかけた鍋が、くらくらと煮立っている。煮沸した煮汁に落とし蓋がふわふわ持ち上げられ、芋の子らしき白い塊が時折ちらちらと垣間見えては湯の中に没す。
炊事場中に漂った醤醢の薫りは、昨晩拵えた特製調味料の名残である。流し台に無造作に叩き込んである草は薇で、その横に横たえられている魚は小物ばかりだが岩魚三尾。この厨房の主を務める九尾狐の式神・八雲藍が今朝釣ってきた獲物で、薇の方はそのおまけである。厨房にどこか殺伐とした空気が漂っているのは、今が朝食の支度の真っ盛りだからというのが一つ。手伝ってくれる者も居ないというのが一つ。
そして、とれたて新鮮な魚を置いているとどこからともなく嗅ぎつけておねだりにやってくる、式の式の猫又を静かに警戒しているのが一つ。
そして今日は、もう一つ。
普段厨房に居るはずのない彼女がでーんと突っ立っているだけで、八雲藍の緊張感は倍増しだった。彼女はどこか胡乱げな視線で、来訪の真意をなかなか掴み取らせてくれないどんな腹づもりで厨房なんぞに現れたのかは知らないが、どうせこの空の色と無関係ではないのだろう――気取られぬ程度の溜息をつきながら、八雲藍は今朝の空の色を見上げた。
橙色。
そうとしか言い様がない。赤と黄色を半分ずつ混ぜて出来る、正真正銘の橙色である。
「藍ー、お鍋吹きこぼれてるけど」
「げ!」
昨日の赤い空も、なかなかに冗談のきつい光景だった。だが冗談の度合いなら、今日の橙色一色に染まり返った空も負けてはいない。それでも不思議と世の中恙なく回るもので、実害が無い以上藍自身も慌てず騒がず、どうせ何も出来ないならと今は朝餉の炊事に精を出している。この調子だと例え太陽が西から昇っても、世界は何ら問題としないのだろうと感じる。
それ故、藍は判断しかねていた。
今朝方いきなり厨房に現れた、このいかがわしい大妖怪――八雲紫に、一体どんな腹づもりがあるというのか。
橙色に染まり返った空は確かに異常な光景だったが、普段腰の重い紫がわざわざ身を乗り出してきたのは藍にも意外だった。ただの見物がてらに出てきたのかとも思ったが、さきほどから視線は意外と真剣みを帯び、朝っぱらっから現れたのはあながち伊達や酔狂や物見遊山というわけでも無いらしい。何かしらの意図を、その振る舞いに薄々感じ取る。
藍はそれを、しかし言葉に出して問い掛けようともしない。
問い掛けたところで、答えが返ってきたためしなど今まで一度も無い。
「あの子はまだ、寝てるのかしら?」
「あの子って……ああ」
「貴方の式のことよ。えーっと……えー……だいだい」
「ちぇんです」
「それそれ」
藍はやはり、何も言わない。曲がりなりにも長年連れ添っている藍の式神のことを、本当に忘れているのかもしれないし、単純にこちらをからかっているつもりなのかもしれない。
「今朝はまだ見てませんよ? 庭でも歩いてるんじゃないですか」
「私もそう思ってみてきたんだけど、見当たらなかったわよ」
「はあ」
お玉をとり落とし蓋を持ち上げて、灰汁との格闘を始めていた藍はそこでふと、ようやく違和感を覚えた。
「変ですねぇ……生魚がある日は、目聡く見つけて飛んできたりするのですが」
「鼻聡くじゃない?」
「そっちかもしれません」
藍が覚えた違和感は二つである。一つには、いつも魚の気配をどこからか察知して飛んでくる橙が今朝に限っては姿を見せないこと。
そしてもう一つ。
なんでそこまで橙のことを気にするのか――という、主に対しての凄まじい違和感だった。
「来ないわねえ、だいだい」
「ちぇんです」
橙――漢字で書くと、今日の空と同じ色。とんでもない色に染まったこの空と、思えば「ちぇん」の名前は符合している。
鍋の中身をかき混ぜながら、藍は沈思していた。くるくると渦を巻く白い泡が、何かのメッセージを伝えるように不規則にふわふわ弧を描いた、その瞬間。
「藍、うしろ!」
紫の声、言われたとおりに振り返る。そのときには既に「それ」が、視界を埋め尽くしていた。振り返った一瞬で視界をがばっと覆われた藍は「うひゃ」という情けない声を上げ、しかし直前一瞬だけ視界に映り込んだ赤いおべべに見覚え以上の見覚えがあった。
顔を覆い尽くしてくれたその小さな体躯、その匂いも、お狐様・八雲藍は完璧に記憶している。
「橙こら! お魚は昼だ!」
紫が横で、目を丸くする。橙にかけられた言葉の意味を、彼女はよく知らない。その言葉の意味は、日常的に口にしている藍と、橙本人のみが知っている符丁である。
式神として使役してもう何年にもなるが、未だに野生の稚気が抜けきらず、厨房に魚を放置していれば通常十五分と持たない。藍の頭痛の種である。釣ってきた魚を流し台に横たえていたのは、毎度毎度どこからか魚の気配を嗅ぎつけては、つまみ食いにやって来る魚泥棒の常習犯に対し藍が睨みを利かせるため――なのである。
振り向きざまの藍に身体ごとぶつかってきた橙は、しかしいつもとは違う反応を見せる。
「えへ……らんしゃまー」
そのまま橙は、藍の腰回りに抱きついた。
「おいおい」
「〜♪」
紫は、目をぱちくり。ぱちくり、ふ、と笑い「仲良しねぇ」と呟いて母親の顔。
藍は、それどころではない。
「こら! 降りろ! 降りろってば」
「ふぇへへ」
必死に抵抗するも、まるで橙は聞く耳を持つ様子がない。傍には火にかかった鍋が湯気を立てている。藍は小さく舌打ち。橙は、いよいよ藍を抱きしめて離さない。
四苦八苦しながら藍が無理矢理引き剥がすと、橙は不満げに唇を尖らせる。う〜、と低く唸った後、膝下いっこ分の身長差をジャンプで相殺し藍の首筋に腕を回してまとわりつき、すりすりと頬を寄せて普段の何倍もの猫なで声。ごろごろと喉を鳴らし、ついには藍ご自慢の帽子をやおら手先ではじき飛ばすと、揺れる狐耳ににじり寄ってやおら甘噛み。
「はむ」
「ひゃうっ! ……ってこらぁ、橙!」
ぱさ、と、帽子が床の上に落ちる。
「……仲良しねぇ」
「紫様! ぼけーっとご覧になってないで何とかしてくださいよ!」
「前も言ったけど、式神の人格は主人次第よ。」
「いやいや――」
「そんな猫の式神ひとつ上手く使役できないようじゃ、私の株も下がっちゃうんだけど」
「なんの株ですかー……ってひゃうぅっ」
「……やれやれ」
適当に話を合わせながら、紫はしかし、藍ではなく橙の方をこそ、じっと眺めていた。
ちぇん、だいだい、ちぇん……と、なんとも不思議な言葉を、聞こえない程度の小さな声でもごもごと呟いている。
* *
点在するこぢんまりとした家並み、蛇行した道と宙をのたくるような不思議な木立。不自然に赤みの強い土の色にしても、目に焼き付く花の色にしても、久々に見るこの郷の景色は相変わらず不自然な主張の激しさを見せる。マヨヒガの郷を形成するいくつもの「迷い」の要素を、悪趣味な幽霊画でも眺めるように冷ややかな笑みで睥睨する幽々子。遠く臨む五里霧中の景色をそうやって縁側から横に眺め、幽々子は、長い廊下を思案顔で歩いている。
目の前には、旧知の友人八雲紫の姿。こうして二人寄り添って歩くのも、大変久し振りである。それぞれ従者と式神は橙の「看病」に付き添い、今はここに姿を見せていない。妖夢は体よく偵察を買って出て、苦手な紫との接触を避けただけのことかもしれないが。或いはひょっとすると、こちらに多少気を回してくれたのかもしれないし。
「……それで、我が家まで来て何か収穫はあったのかしら?」
「ええ」
桜の咲くような笑顔で、幽々子は笑いかけた。その笑顔だけを傍から見れば、この異変に慌てるよりもむしろ、事態を楽しんでいるのかという不謹慎な雰囲気さえある。
「とりあえず、八雲紫が絡んでいる訳じゃないということは分かったわ」
「そりゃあ大収穫ねえ」
す――と襖を開け、八雲紫が背中で客人を迎え入れる。
人間や妖怪の「気質」は、表層はともかく、根本的なところでは変わりにくいものである。猫の目みたいな御機嫌の善し悪しや天候などで一朝一夕に変化を来すものではないし、どんな人間でも生来の性格はそう簡単に変えられない。
橙の背後に感じ取った気質の乱れを、紫も同調した。さも当然、と言わんばかりに首肯と笑みを投げ寄越し、今し方通ったまま開け放した襖から、橙色に染まったその空を見上げた。
「関係があると思う?」
「そりゃあ」
青く濁った湯飲みの肌を、いとおしそうに撫でてから幽々子はお茶に口を付ける。
「なにせ橙色だし」
「同感ねー。橙、だし」
冗談とも本気ともつかない声である。もっともこの二人、平素から冗談と本気との境界は曖昧である。妖夢が紫から遠ざかるのも、この二人の会話に混ぜ込まれると終始小馬鹿にされているとしか思えない会話が展開されるためである。朦朧と焦点を掴ませない内容は、妖夢のような実直な気性の者にはいかにも不向きである。
その気性が乱れると、人には色んなことが起こる。躁鬱にしてもそうだし、突発的に怒り出したり泣き出すのもそうだし、普段つんけんとした人が急に甘えてきてみたり、淫猥な視線を向けてきたり。
「私の調べたところでは、妖怪の気配は感じないわ」
「そりゃあ妖怪の仕業でこれだけのことされたら、私だって驚くわよ」
「へぇ……じゃあ妖怪の仕業じゃなかったってことで、紫は驚かなかったのかしら?」
「うん、二度寝したくらいだし」
「あらあら……ふふ」
はむ、と団子を頬張った幽々子。
「むぐ。……それでね私思うの。妖怪だけじゃなくて、お天道様も怒るのかしらって」
「?」
「ほら、『あのバカ』がこの間飲み込んだ妖怪って……」
「ああ」
得心の行った紫が、深く大きく頷く。
三回目の頷きをふと止め、
「あ、それを言ったら……『あのバカ』が持ち出した剣だって」
「あ、それもあるのか――」
今度は幽々子が頷く。食べ終えた団子の串を行儀悪く片手に振り上げ、天空を指して「どかーん!」と、口で言う。
「そうそう」
「あれはきついわよねえ」
ほくそ笑む、生粋の幽霊と妖怪。たとえば霊夢であれ橙であれ、あの突然の変貌ぶりに、赤に橙にと染まった空の彩色が、全く無関係ということもないだろう。以前『あのバカ』に灸を据えたあとで、妖夢に語って聞かせた話を幽々子は自分で思い出す。
天候もまた、気性の一つなのだ。
人の性格や妖力がそうであるように。
天候には、一つひとつに気性が籠められている。気性は即ち「気象」と文字を転じ、そのまま具「象」化される天の神様の気性である。神様には変えられるこの気性、人間なんぞには当然自由気ままに変えることなど出来ない。それどころか妖怪、幽霊であっても無理である。
――その気性を、二つの方法で乱した者が居た。つい最近のことである。
赤橙に染まる空の下で起きた二人の気性の変化。
渺茫とした事態の論理的な究明など、幽々子と紫は割と最初から諦めムードである。繰り返すが幽々子は、面倒くさい探偵の真似事が性に合わないと来ている。
当初の目的である軍勢は、早起きしていた八雲紫のお陰でどうやら充足した。
一つずつ探った手がかりから演繹するよりも、朧気に立てた結論を帰納法で解決してみせる――幽々子探偵は、小説には絶対なれないいい加減さでもって、行動を起こす決心を固めるのである。
帰納法はどうやって実現するか?
もちろん決まっている。
ぐー一発である。
■ 黄之日〜3rd day〜 ■
恵まれない霧雨魔理沙はその日も、博麗神社をふらふらと訪れていた。
どうも最近恵まれない。不思議な色に変わる空の下であれこれと手を出し手を貸し手を焼いてみたが、十分な成果もなくていかにも満ち足りない。
博麗霊夢については、昏倒したまま丸一日目を覚まさなかった。今すぐにでも、あの大きくてくりっとした無邪気な瞳に逢いたい――そう思うのも、あの妖夢の一撃以来、霊夢の起きた顔を一瞬たりとも見ていないからだ。
身体中がむずむずするような不思議な感覚を持て余しながら、使い古した箒で三日三度目の博麗神社に降り立った。踏みしめた地面には、昨夜の通り雨が小さな水たまりを作っている。水たまりは空の色を映して美しく地面に輝く雨の置き土産であるが、今日のように真っ黄色に染まった空の下で同じ色を映されると何とも毒々しい印象しか受け取ることが出来ない。
霧雨魔理沙は空を見上げた、
赤から橙、と来て黄色に転じたとなれば、色の混ざり方としては何となく、規則性があるような無いような。
思っている内に、博麗神社の文字通りの呼び鈴を、がらがらと乱暴に鳴らしていた。
「……あっ……魔理沙!」
「へへー。れいむー、きたぜー」
締まりのない声に気が咎めたか、霊夢の頬がみるみる上気する――
上気?
「あ、あのさあのさ、魔理沙……」
「?」
「えと、えっと……おとといの事だけど……」
まっさらな新品のように洗われた赤い裳裾を、きゅっと小さな手に握りしめる霊夢。うつむく。頬を染めている。
「その……あの日は、その、ちょっと気分が、なんかほわーってなって、おかしくて……」
いつもの凛々しさなど欠片ほどもない。完全に紅潮した頬と合わせられない視線が霊夢の現在の羞恥を物語り、つまりはあの一日の出来事を当人が記憶ならびに露見せしめられたることを証明し、故にその際の相手である魔理沙を眼前に置いた只今の霊夢の心境はいかばかりかであり、ついて同日の淫らなる記憶を魔理沙の脳裏にも生々しく喚起する。
抱きしめられた時の体温。
手に頬にと降り注いだキスの雨。
「ほ、ほんとにごめんね……まりさ……」
めちゃくちゃ恥ずかしいだろう、魔理沙は容易に想像した。普段凛然としてこういう弱い姿を見せない霊夢が、虚勢も口実も全て忘れて素直極まりなく当日の非を認めている。普段片意地を張った姿を見慣れているだけに、素直に赤面した霊夢は想像を絶する魅力を秘めていた。魔理沙の中で理性が崩壊してゆく。今にも泣き出しそうなほど小さくなった霊夢を、放っておくことなんて出来なくて。
「……れいむー」
「ふひゃっ」
抱きしめたい、そう思った次の瞬間には抱きしめていた。
「いいんだぜー、あやまらなくても」
「そ、そんな……」
抱きしめられたまま硬直する霊夢。霧雨魔理沙は、その細い巫女の身体をより強く引き寄せる。
押しつけられた体温。うなじに降りかかる霊夢の吐息、あの日と同じ強さ同じ場所に押し当てられた胸の膨らみ、その柔らかさまで、あの日と同じ。当たり前だけど。
魔理沙はたまらず、霊夢の首筋にキスを見舞った。
自分が男だろうと女だろうと関係ない。
ただ霧雨魔理沙は目の前の可愛すぎる人に対して、純粋なる愛らしさをぶつける行為に没入してゆく。ゆけばゆくほど、目の前の霊夢を急速に「女」として意識してゆく。
「ちゅ」
「ふにゃっ!」
今度は頬にキスをした。霊夢のまるで震えるような小さな身悶えが、魔理沙には途轍もなく嬉しく、この女の子への愛玩欲は一層青天井に昇り続けて腕の力は緩まることを知らない。
「あやまらなくて良いのさ……れいむ……わたしも」
「え? ま、まりさも……何?」
「――ふふ、ひみつだ、ぜ」
「んにゃっ」
背中をさする魔理沙の手。耳を甘く噛む魔理沙の唇。固まるばかりだった霊夢の身体より、力がふと弛緩し――次の瞬間宙を泳いだか細い腕が、意を決して魔理沙の背中にくるり回される。右手と左手できゅっと引き結び、そっと、ゆっくり魔理沙の身体へ加わる抱擁の軽い力。
「ありがと」
「うん」
霊夢の声が、脳裏に心地よい。いつもより心なしか甘いその声が、悪戯に火照った心の敏感な場所をくいくいと擽ってきて気持ち良い。
「実は、私も」
緊張に震えた霊夢の声。
「ん? 霊夢も、なんだぜ」
「わ、わたしも……ま、まりさの……こと……す……」
消え入りそうに震える声で、霊夢の腕にすっと力が籠もり、くいとその身体が上がり、顔の傍に霊夢の唇が近づいてきて――
「おたのしみのところごめんなさーい」
「…………ぅぎゃーっ!!?」
今までで一番力の籠もった腕で、思い切り突き飛ばされた。これが霊夢の愛情だと思えば、幸せに逝けるのではないかと魔理沙は笑った。最後の瞬間まで笑顔だった。
木の幹に後頭部を激突し、魔理沙は泡を吐いて失神昏倒する。
* *
「ぜ、全人類がえっちになるって……どういう……」
「そういう意味よね、幽々子」
「ええ、そういう意味ね」
「……ふしだら、です」
いつになく大挙して押し寄せた客人に大きく狭められた六畳の客間を、霊夢は恨めしそうな瞳で睨んでいた。円卓に車座で四人が一つの煎餅皿を囲み、事態説明をいたしますとご大層な前触れで紫が切り出した話に、霊夢はひとまず紫の口八丁を疑った。その辺は紫が普段からあんまり胡散臭くしているが為の自業自得でもあるのだが、あまつさえ話の内容自体、霊夢も到底納得することが出来なさそうである。
空の色が変わったから人や妖怪がえっちになる。
信じられなくて当然といえば当然だ。
当然、だが――
「ま……まあ……異変は解決しなきゃいけないわよね、うん」
結論は意外と、しおらしいところに落ち着いた。
霊夢は誰あろう、最初の日に身を以てスーパーお色気ご観賞タイムを提供してしまった人である。先程から説明の間中、こっちの顔を、赤らめた頬でまともに見ようとしてこない。口も噤んでいる。そう、ついでに先ほど真っ昼間っから屋外で御披露しておいでだった房事まがいのあの痴態も、泣きっ面に熊ん蜂の大群であろう。見られたくないところに限って、人に見られる。霊夢は赤面したままいつもより遥かに大人しく、魔理沙ならずともちょっと抱き締めてみたくなる可愛さを誇っていた。
と、そういう沙汰はともかく、大人しく説明に聴き入ってくれることとなってこちらの話がしやすくなったのは便利だった。紫、ときどき幽々子による事態説明は恙なく終了し、霊夢は渋々ながら頷き、妖夢は実直な表情で正座して事態のお復習いを脳裡に結びつけ、魔理沙は現在隣の部屋でくうくう寝ている。
「まぁ要するに、幻想郷全体の気性が変化しているの。空の色が、その原因であり先導であり」
紫と二人で出したいい加減な結論を、最後に幽々子が締め括った。
「でも何で、その……私だったのよ」
「?」
「ほら……ああなったのが……」
「ああなった、って?」
「だ、だから!」
「ちゃんと口に出さないと分からないわ霊夢」
「…………え、えっちになったのが」
うん、と満足げに頷く紫と幽々子。
こういう大人になってはいけないという典型的な見本である。
とろけそうな幽々子の笑顔が答える。
「それは多分、空の色ねー」
「はぁ」
「赤い空になったから、赤の霊夢に症状が発現。二日目は蜜柑色だったから、」
「ウチの藍の式に発現したわ」
「アンタのところのって……ちぇん……ああ、『橙』か」
呆れたような顔で霊夢はこめかみを押さえ、そして自分で今日の空の色を思い出す。
「……だから魔理沙がああなってたわけね」
気怠げに立ち上がり、雨戸を全開まで開け放つ。禍々しい黄色の空は黄色の天つ光となり、博麗神社の広い庭を同じ色に染め尽くしている。古ぼけながらご自慢の赤鳥居も、霊夢の視線が追い掛けたその先に黄色と混じり合って、秋の紅葉を思わせる橙色に様変わりしていた。
青空が失われてからまだ三日ほどだというのに、乱れた自然の中でもう蒼穹が恋しい。それは恐らく、誰も同じ感情だった。振り放け仰げば当然のように頭上にあった青空が、姿を消して僅か三日でもう既に気持ちが落ち着かない。
妖夢が、横から口を挟む。
「幽々子さま」
「なあに?」
「空の色の変化に妖怪の気配は感じず、気性の乱れのみが感じられる。また同じ色の人に、その気性の乱れが及ぶというのは分かりました。しかしどうして淫猥になるのでしょう。その因果関係は、まだ確かじゃないような気がしますが」
「同感」
霊夢が同調する。禍々しい色を視界から遠ざけるように、今しがた広げたばかりの雨戸を、部屋が暗くならない程度にまた狭めてしまう。
幽々子は「何を今更」といった顔で、あっさり答えを口にした。
「決まってるじゃない。――色が変わるから、『色っぽく』なるのよ」
こんなんで良いのだろうか――妖夢と霊夢は互いに視線を交わし、それぞれ思いっきり溜息をついた。さしずめ明日は何色の空に変わってくるのかと戦々恐々しつつ、
■ 緑之日〜4th day〜 ■
空が白み始めたばかりの、早朝の頃。夏には遠く、放射冷却がまだ冬模様を残しながら身体に刺さるその朝をすり抜けて、西行寺幽々子は暗く狭い世界へ飛び込み、文字通りの真下へと目指していた。
飛翔というよりは、落下。もちろん揚力を働かせている分自由落下ではないが、暗く沈んで底の見えない行く手の光景には、自由落下よりも自由な落下を感じられている。空を目指すときのような朗らかな開放感など何一つ感じられない。その先に人知れぬ都があるとしても不思議ではないが、用が無ければ間違っても足を運んでみようと思わない。
地霊殿――
地底の都は、次第に熱を増してくる縦の隧道の最果てにあると、紫は言っていた。
「ゆ、ゆゆこさま〜」
「あんまりくっつかないで頂戴、妖夢」
「だって……怖いですしー……」
「怖い前に暑いのよ! 離れてってば暑い、普通に暑い」
じたばたもがきながら抵抗してみる。銀色の髪を汗で艶めかしく頬に絡みつかせた妖夢は、熱に紅潮させたらしき頬で潤んだ瞳を幽々子に向けてくる。汗ばんだ身体、白いシャツがくしゃっと細い肩に張り付き、得も言われぬ色気を醸し出し、そのシャツを纏めるベストとスカートが緑色。
完全無欠の緑色。
「こわいです〜。ゆゆこさまー、だっこしてくださいよぅ〜……」
……効果はなかったかしら、と幽々子は嘆息。
幽々子が夜明けを待たず地霊殿への出発を敢行したのは、偏に空の色が理由である。白んだ空が、もちろん曙の紫色などではない、うっすらと「緑色」の気配を漂わせ始めた時点で幽々子は妖夢の手を引き、逃げるように地霊殿へ続く隧道へと飛び込んだ。赤、橙、黄と来た時点で察しが付いていたから早い行動を起こせたものの、空の色が遠く土の蓋に覆われて届かないこの地下道においても、あの空の『効果』は彼女へ及んでいると見える。
……最も、地底までは効果が及ばないとなったらそれはそれで、今後の計画に支障を来すのだが。
妖夢の気性は霊夢や魔理沙同様、やはりお色気側の方へ乱れを生じており、そしてこれは彼女の心身の幼さ故か、遊女のような淫靡な雰囲気よりは母親に甘えてくるような愛らしさがあった。影響を享受する当人の本来の気質にも、症状は多少左右される節があるらしい。
幼女のようにしなだれかかる妖夢を暑くない程度にあしらいつつ、幽々子は事実上一人きりで、地底の底の底をふわふわ目指して降下を続ける。
紫から言われた計画は、こうである。
空の色とはつまり光。八雲紫が、まず「空の境界」を作り出す。
そこへ、地底に沈んだ太陽の力を返す――
手順は紫の一撃から始める。彼女が空の光の境界を弄り、乱れて絡まった現在の光の束を一度切り解す。そして作り出した色彩の境界に、地霊殿のバカが呑み込んだ八咫烏の太陽の力を叩き込むのだ。ただし、太陽そのものを叩き込んでも翌日から暑くなるだけである。気性そのものが変化した現在の幻想郷の空には、物質的なものよりも気性による治癒こそが、必要である。物質的な乱れであれば、ただの旱や長雨で終わっていた話なのだ。
気性という単位で空が乱れたのは恐らく、自然の先天的なバランス感覚によって保たれていた気性そのものが、何らかの力の加わりによって崩れる要因があったからなのだろうと紫。その原因を辿るのに、そう時間はかからなかった。
間欠泉の異変と同じ頃、天界で、あろうことか気性を操る剣を使ったバカが居たのである。同時に起きた八咫烏の「地中化」と合わせたこの二つの騒動により、幻想郷全体の気質のバランスは完全に攪拌され、崩れた。しばらくは辛うじて回り続けて平静を見せていた幻想郷の空も、回り続けたコマがやがてふらふら傾いてコロっと地面に転がるあの様子のように、とうとう目に見えた乱れを呈し始めたのだろう。 丁寧に積み上げてあった積み木から、大きな一片を取り除いた上にそれをトンカチでコンコン押したようなもんである。
八咫烏の力――つまり太陽の「気性」だけを具現化させて幻想郷の空へと返すには、あの非想天のバカが持ち出していた緋想の剣の力を使うのが最も手っ取り早かった。毒をもって毒を制すという考え方ではあるが、それは同時に、気性の弱点をとる緋想の剣の力を逆用し、太陽返還計画による幻想郷の空への影響を、より覿面にする狙いもある。
その為には、況んや二人のバカを連れ出してくる必要性があったのだ。
眼前、ふと赤い灯りが灯り始める。汗ばんだ額を拭う。どけた掌のその後に、派手な装飾を施した荘厳な屋敷が見えてきた。
「ゆゆこさま〜、おっきなお家ですねー」
「えぇ――って、これ色っぽいってのとは若干違うんじゃないかしら?」
一人ごちて、幽々子は苦笑した。
地底の世界に、妖怪が行くのは好ましくない――先日間欠泉騒動の際にもボヤいていたその言葉を今回再び取り出して、紫は地上での居残り組を選択した。地底と地上が袂を分かったその来歴について幽々子は紫から大まかに聞かされており、紫本人が出動くことで無闇に波風を立てたくないというのが真意だろうと判断した(霊夢あたりは「今更そんなこと気にしてるのは紫くらいじゃない?」等とも言っていたが)。
緑の空の日、役立たずになった妖夢をわざわざ連れてきたのは、ひとまずの用心棒としての意味合いと、そしてもう一つ、重要な役割を背負わせる為でもある。
元々紫に背負わせてみようかと思っていたこの重要な任務、連れてきてみて分かるが、妖夢こそ適役といった感じもする。
「……どなたですかしら?」
玄関が徐に開いて、ひどく疲れ切った様子の少女が顔を出した。
「地上から、鴉を誘拐に参りましたの」
「それはそれはご苦労さまです。セールスはお断りしてますので、お引き取り下さい」
お経でも読み上げるように一方的に扉を閉めかけたそこへ、幽々子の左足ががつんと突き刺さる。
「……何ですか」
「セールスでは無いのです。誘拐しますが、お代は頂きません」
「それなら良いかもしれませんが」
気怠げに応対するのは、どこか老成した雰囲気を身に纏ってはいるものの、幽々子の見立てでは恐らくまだ少女と言って良い年端に見えた。水色のゆったりとした服を身に纏い桃色の髪はまるで少年のように、不似合いに短く刈られている。その前髪に手櫛をわしゃっと突っ込んで、身を少し捩って家の奥へ目を遣ったところでギロっと睨まれる格好になる、胸に引き結んだ目ん玉ひとつ。赤い瞼の中で充血し、でっかい黒目をぎょろつかせた目ん玉ときたら御世辞にも趣味が良いとは言えない装飾である。幽々子は嘆息する。宇宙人でも相手にしているような気分になるが、相手が地底人なのだからそれであながち間違いとも言い切れない。
「ふむ……どうやら本当にお金目的では無いようですが」
「最初っからそう言ってるじゃない」
「ふむ……でもどうやら本当に誘拐しに来たようです」
「最初っからそう言ってるじゃない」
「異変の解決のため――ですか。私達には直接関係なさそうな話ですが」
胸の中を擽られるような変な悪寒はそれか、と幽々子は察知した。相手はどうやら、心の中を読む力でも備えているらしい。
先ほど思い出しきれなかった、地上と地底の仲違いの理由を今更思い出す。紫が言っていた。
地底には、厄介な力を有して疎んじられた妖怪が石ころのようにゴロゴロ棲息していると。
「ええ。私には心を読む能力があります」
「あ、読まれた。やっぱりね」
「ですが、貴女の心は大変読みにくい。……人間ではありませんね?」
「黙秘しておくわ」
「……うん、本当に分からない。貴女が今思い描いている妖怪はなんとも思慮深く頭が切れるようですが」
紫のことだ。
幽々子はようやく、紫がこの地底行きを遠慮した本当の理由を理解した。
紫の能力の真髄は妖力ではなく、その頭の回転と智恵と知識、そしてその思索を悟らせない煙の巻き方にある。相手の心を読む妖怪が居ることを何らかの理由――それこそ間欠泉の異変の時にでも出逢っているとしたら、この相手の前に紫自身が出向いてゆくのはあまりにも得策ではない。
その点自分達は、幽霊と半幽霊である。人ほど明瞭な心はしていないし、正体を失った心は仮令他人に読まれたとしても、余計な情報を持って行かれない以上話を真っ直ぐ進めやすい。
「うつほのことですね……今呼んできましょう」
「あら、随分素直ですこと」
「お返し頂けるなら構いません。特に今日なら、無料でも喜んで貸し出しいたしますわ」
「誰を〜?」
その瞬間、お疲れ少女の姿がふいっと眼前から消えた。
「……どーん!」
「きゃああぁぅ!?」
一瞬の出来事だった。膝の力も弱々しく、闖入してきた客人二人へ気怠げな応対を見せていた心読みの謎の妖怪は、突如ぶつかってきた緑色の弾丸に抱きつかれて、というか組み伏されて、というか押し倒されて木目の床へとゴロゴロ派手に転がった。
軽く目を回したその顔、頬に、まるで躊躇いなく、もう一つの顔から唇が押しつけられる。
「んぅ、さとり様〜」
「やーめ、やめなさいってば!!」
ほとんど舐め回すように少女を貪る淫乱な緑色を、幽々子はやや茫然として見下ろしていた。こちらもなかなか、激しい。右手でこめかみ、左手で横のちっこい「あるもの」を抑え込みながら眺めていれば、組んずほぐれつの床に転がる「さとり」と呼ばれた少女と目が合った。
「……じっと見てないで助けて下さい!」
「いや、何か楽しそうだなーと思って」
「さとり様〜、んちゅっ」
「ふひゃっ! だ、誰が楽しそうですか! 今朝からうにゃんっ、この調子であはっ、んんっ、私達はみんなクタクタ、ひゃうぅうっ!!」
「うふふ、じゃあそろそろお助けと行こうかしら」
幽々子は、底意地の悪そうな笑みを浮かべる。左手で抑え込んでいた「あるもの」を解放すべく、込めていた力を抜いた。前のめりに色気を示していた「彼女」は、その桎梏が外れるや、思わず勢い余って玄関の扉に足をひっかけてどかん、という音を立てる。
さとりが振り向く。
抱きついて離れなかった緑色の少女――霊烏路空が、つられて振り向く。
「そこの地獄鴉。あなたに今日一日、“これ”をあげる」
左手を妖夢の背中に添え、くいっと前に押し出す。立ち上がった空はよろめいた妖夢を両腕で抱き留め、幼さの残る妖夢の瞳と小柄な空がほぼ同じ高さで瞳を見合わせる格好になる。
「あう〜」
「ふおっ!?」
先に組み付いたのは妖夢だった。奉公関係からか幽々子に対しては辛うじて働いていた遠慮の理性も、ようやく「同好の士」の発見に至ってとうとうタガが外れたと見える。本日緑の日、ここまで辿り着くほぼ半日の旅程を我慢し続けた魂魄妖夢はもう限界だった。ボリューム豊かな黒髪に挟まれた意外と可愛らしい童顔の鴉さんに、しなだれかかるように抱きついたらあとは、霊夢や魔理沙が見せてくれたあの光景を上映するばかりである。こちらも負けずの童顔を精一杯花街の色に染め変え、成長途中の胸を無理矢理くいっと相手の腕に押しつけて、混乱に固まる空の頬をまるで解きほぐすように唇言語で語りかける妖夢。
「ねぇねぇ、遊びましょーよー」
「…………」
鴉は無言で瞳を伏せている。威圧を発するような黒髪が少し険を孕んだ雰囲気を発し、すっと幽々子を身構えさせる。
そして次の瞬間、キッと上げた瞳。
「かわいいいぃぃぃっ!!」
「みょんっ!?」
押し倒していた少女が押し倒される。押し倒されていた少女が逆にマウントポジションを奪回し、攻守交代でこれから一回の裏へと入る両者である。八雲紫によれば霊烏路空という名のついた地獄鴉は頬を紅潮させて表情は喜色満面、今までの倍返しとばかり妖夢にたっぷりの愛情を注ぎ込む。
「んん〜。あったかーい」
「ふにゃっ、そんなこと、ひゃあっ」
降り注ぐキスは恐らく色んな意味で熱烈なのだが、お楽しみの二人にそんな突っ込みは野暮である。直前までのお相手を司り、余韻に忘我の態だったさとりがようやく、押し倒された際に打ち付けたと思しきお尻を痛々しくさすりながら重い腰を上げる。
幽々子はにこやかに訊いた。
「てゆうわけで、アレが収束するまでペットさんをしばらくお借りして良いかしら?」
「……どうぞご自由に」
ぽつりと言って踵を返し、さとりはふらふらと屋敷の奥へ歩き出す。足まで挫いたのか少し右足を引き摺りながら、幽鬼の虚ろさで暗闇の邸内へと消えてゆく。
幽々子は、妖夢と空のお団子をひょいっとつまみ上げた。
「さて、帰りますよお二人とも」
「うにゅー」
「みょーん」
「うにゅ、うにゅにゅ?」
「みょん? ……みょん!」
「うにゅっ!」
妖夢を連れてきた本当の理由――霊烏路空を現地から地上まで持ち帰る際の、エサ代わり――
そんなことを知られたら、さすがの妖夢でも怒り出しそうな気はするからこれは紫と幽々子の二人だけの秘密である。最も、お互いがお互いのエサになるのだから利害関係は一致しており、エサなどという卑しい言葉よりは「賢い使い方」とか、もっと前向きな表現を用いてみたい。妖夢とハサミは使いようである。
霊夢から借り受けてきた陰陽玉に向かい、目の前でもぞもぞ転がる霊烏路空の特徴を事細かに喋りかける。
威勢の良い声で、陰陽玉が嬉しそうに答えを返した。
「オッケー、そいつで間違いないよ!」
「あら、紫じゃない――」
「紫ならさっき『明日に備える』とか言って寝ちゃったわよー。そんで私がアンタの報告待ちってんだから人使い荒いよねぇ〜」
「まぁ獲物が間違ってなければ誰でも良いわ。ご苦労さん、もう帰っても良いわよ」
「むきー! ひっどい扱い! 意地でも待っててやるからー!」
こっちはこっちで呂律が回っていない。それは妖夢のように色気に蕩かされた呂律ではなく、恐らくは酒に蕩かされた呂律である。
「優しいところあるじゃない。じゃあ帰るまで神社で待っててくれるかしら。交信終わり」
「え? いや嘘よ嘘、ちょっ――」
慌てた伊吹萃香が泡を食うのも聞き耳を持たず、手に持った袱紗を玉に被せる。
ぶつっ、という電波の音がして、地霊殿前の広場は再び静寂に戻る。
その横で相変わらずいやんばかんを繰り返す空と妖夢を、幽々子はちらりと見遣った。
そろそろ、お茶の間では放映できないレベルの火遊びに発展し始めている。
■ 青之日〜5th day〜 ■
せきとうおうりょく、せいらんし。
「……何ですか? それ」
惚けたような顔で、藍が小首を傾げて紫は苦笑。頭脳明晰な式神。やれ三途の川の距離を計算式で出しただの、幻想郷随一の秀才だのと持て囃されてたっぷりお墨付きをもらっているこの狐の式神も、妙なところであっさり知識を欠損させている事がある。その辺が、式神の弱みといえば弱みである。
「せきとうおうりょく、せいらんし」
今しがた口にしたばかりの、呪文めいた言葉を鸚鵡のように復唱して紫は笑う。
「虹の色を、外側から順に音読みしたものよ」
「はぁ、なるほど」
天気は良い。
取り留めもない話をしながら、二人で「青空」を、高く高く飛翔してゆく。
青の空とはこんなにも気持ち良かったのかと、紫の実感にも新たである。空が色を変えて、昨日まで四日間。赤、橙、黄、緑と変遷した空の色が五日目の今日に青へと戻ったその光景に歓喜の手を打ち鳴らした八雲藍、その喜びに遠慮無く水を差したのが紫である。
思えばこれを発見したのは、幽々子だった。あの子はあれで、森羅万象の沙汰には非常に気が回る。気性の乱れをいち早く察知して動き回っていたことにしても、優れた観察眼を認めざるを得ない。
勘働きではあっただろうが、三日目、博麗神社に集った先で幽々子が言った事。
『赤、橙、黄――って、これひょっとして虹じゃないかしら』
計画の進路は、それで定まったのである。幽々子がくれた推測は、明けて四日目の快晴の空、まるで夏の深緑を日に透かしたときに見えるようなあの深みと明るさを兼ね備えた、得も言われぬ美しいエメラルドグリーンを眺めて確信に変わった。
「それにしても、どうして虹なんですかね?」
「空の色は光だからねえ――この辺はあの小鬼あたりが詳しそうだけど、寄り集まってる光を解いてばらばらにすると、虹の七色になるのよ」
「それが、せきとうおう……ですか」
「そうそう」
「つまり今日の『せい』ってのは」
「青のこと」
故に、今日は青空である。一見何の変哲もない――本当に何の変哲の欠片も見えない美しい青空は雲一つ湛えることなく、澄み渡って頭上を覆い尽くしていた。その中をふわふわ、高く高く昇ってゆく。昨日の幽々子が辿ったであろうあの道とは上下真逆方向への、しかしこちらも一風変わった方向への長旅。雲があるべき高さよりも遙か超え、やがて見えてきた白い、たった一つ高すぎるあの雲の上に目的地は存在している。
藍が、ふと思い出したように言う。
「青……って、あの亡霊嬢は大丈夫なんですかね」
「大丈夫じゃないかしらねぇ、幽々子だもの」
紫は暢気に答えた。口ではそう言いつつ、今日の行脚に幽々子が留守番役を買って出たのはそういう背景もある。
反面、あくまで推測ではあるながら八雲紫は、あの幽々子は恐らくこの異変の影響を受けない種類ではないか――そう当たりをつけていた。幽霊という、彼女の特殊な肩書きをその理由とする。
「大丈夫じゃないかしら、ってそんな適当な」
「だってまぁ、いざとなればあの半人前の剣士を一日おもちゃにして暇つぶししてるでしょうし。地底から持ち帰ってきたペットの鴉も傍にいることでしょうし」
根本的に幽霊とは本来、気性を有さないものである。気性とは魂に宿る性質のようなものであり、人にも妖怪にも虫けら一匹を捕まえたって確かに保有しているものの、魂そのものが抜け落ちた幽霊は本来気性を宿す器がない。西行寺幽々子のように強く永く存在する幽霊は、自我も意識も保有してやがて僅かばかりの気性を後天的に再度身につけてしまうこともあるが、例えば緋想の異変の際に彼女の気性を発現してみれば結果は「雪」であった。人と同じように振る舞い、人三倍くらい朗らかに見える彼女でも、気性を天候へと変えて表現してみせるあの緋想の剣にかかってみれば、あんなに色のない答え。幽霊とはそんなもんである。
幽々子は、今回の作戦にうってつけである。
虹色――せきとうおうりょくせいらんしを持ち出して法則性を見出してはみたものの、推測に過ぎない見通しで幻想郷の自然に抗うには怖さが残る。その点、気質の影響が出にくいであろう幽々子のような人材は――否、霊材は、司令母艦を任ずるにはいかにも頼もしい。
紫は改めて、自然と対手することの畏怖を思い知る。陰陽五行や七曜の属性を超越して支配される「空」という自然の産物に、自分達は思えば為す術をもたない。四苦八苦しながらこの異変を解決に導いたところで、問題の連中に言うべき事は山ほどある。要らぬ揉め事を嫌って地底の連中と対面する機会を避けてみた昨日だったが、もしお節介を焼くのであればやはり早晩、彼らとも何かしらの接触は必要なのかもしれない。
普段は気恥ずかしく、滅多に口にしない決意を改めて胸の中、確認する。
自分とて幻想郷を、誰よりも愛しているという自負がある。
この幻想郷を根底から揺るがすような事態に――自分だって、黙っている気は無い。
「そろそろですね――って、何か異様に静かですが」
「そうねぇ」
自分の中のスイッチが、久々に切り替わるのを紫は感じていた。退治すべき妖怪が居るわけではないこの異変は、近年あれこれと起きた異変の数々などとは腰の入れ方を変えてかからねばなるまい。
今や眼下に見下ろすその下界では、今日の青空に歓喜している者も少なからず居る。四日ほど続き、長いように見えた空色の異変も、たった四日で終わった暁には喉元を過ぎてあっさりみんな、熱さを忘れ去ってゆきそうな気がする。
自分達の予想が正しければ、明日また、空の色は変調を来す。
ひとまずは帰納法――今日の青空が異変の一部であるという証明を得るべく、明日はまだ身動きをとらない。
勝負は七日目。
禍々しい罪の色に染まる時――であるから故に、
……さて、あの天人くずれのバカをとっとと引っ捕まえてくることにしよう。
* *
「ぺろ……んふっ。ちゅ……」
「………………」
永い。
永い永い。
永すぎて永遠にすら感じる時間。偶然通りかかった竜宮の使いのお仲間が先ほどこの状態を垣間ご覧になり、ぴぴぴのぴー等と口笛を吹きながら「俺は何も見なかった、見ていなかったぜー」的なオーラを全開にして帰って行ったのがもう何分前か。
永江衣玖は耐えていた。
永遠に続くかとも思われる愛欲の嬲りの雨、一見幼いように見えて非常に年齢を重ねている比那名居天子というこの厄介な少女の、熱烈にして濃厚なる愛情表現に歯を食いしばってひたすら無言で耐えていた。
――よく考えると、誰も居ない雲の中、こんなにも空気を読む必要があるんだろうかと今更悩む。
もこっ、と、目の前の雲がふんわり盛り上がった。
無警戒な衣玖は、天子を特に引き剥がすこともなく首だけ下を向く。
「よっこらせっと……あらあら、お楽しみでしたわ」
「うおっ、激しっ」
「あら」
雲を割って現れた人影二つ。現れた顔は別に敵でもなく、怪しい者といえばまぁ怪しい者だが、完全なるお尋ね者という訳でもなかった。
八雲紫。
衣玖にとっては、一度きりとはいえ邂逅を経た妖怪の顔である。隣に侍る狐については面識の覚えは無いが、竜宮の使い永江衣玖はそれについて根掘り葉掘り問い質すような無礼なマネはしないのである。いきなり現れたとはいえ初対面の相手に一も二もなく誰何する行為は、本来大変失礼なものだ。素性の分かっている人が連れてきた客人であれば、遠くとも知り合いの知り合いという間柄である。危害を加えられる可能性は赤の他人よりぐっと低い。ならばいきなり、素性を明かせと求めることはしない。
永江衣玖、長年に亘って培った超一流の対人交際術である。
「それでさ、そんなキスマークだらけで棒立ちしてると軽く不気味なんだけど」
「いえいえ、仮にも総領の娘御であらせられる比那名居天子様にこうされておりますと、わたくし、ええ、決して吝かでは――」
「膝が震えてるし唇も震えてる」
さすがに限界があっただろうか。
「……すみません。今日は朝から、ずっとこの調子なのです」
「お盛んですね」
「ですが一応総領娘様ですし、ぞんざいに扱えなくて……対応に苦慮していたところです」
ありのままを、衣玖は話して聞かせる。そこで紫と、ようやくに視線を合わせた。
相変わらず深い色の瞳である。思慮深そうな、それでいて相手に感情を読ませない瞳。天子の異常の沙汰に疲れ切り、この胡散臭い地上の妖怪に今日は対手する元気が残っていない。そして、その痴態と突然の来訪が、全くの偶然ということもないだろう。
最近の異常気象とも、何ら無関係とも思えない。
「お預かりしてもよろしいですか?」
「は?」
「天人の娘さんをです。大丈夫、粗相の無いようお取り計らいしますから」
紫を代弁するかのように一歩前に歩を刻み、厳めしく顔を歪めた九尾狐の方がそう尋ねる。
「はぁ」
衣玖は一瞬逡巡し、程なく頷くと、未だ絡みついてじゃれつく天子を数時間ぶりに、力ずくで引き剥がした。名残惜しそうな涙目に少しだけ罪悪感が駈け巡り、もう充分耐えて尽くしたじゃないかという自画自賛に基づいてその身柄を相手に引き渡そうとする。
「あ、ちょっとお待ちを」
「は?」
雲の隙間が、もう一度だけ盛り上がった。同時に、聞き慣れない声がする。
「……ぷはっ!」
「ほえっ!?」
「んお」
「遅い。」
紫だけが冷静に、呟いた。突然現れたその顔に衣玖が記憶のページをめくる頃には、闖入者の右手に黒いカメラのシャッターは押され稲光もかくやの青白い光一閃。思わず目をつむった衣玖と天子の目の前で、ジーっという音と吐き出される一枚の紙。
「すみません、雲の中は飛び慣れておりませんでして」
「貴女に担わせた役目も大事なんだから。頼むわよ?」
息せき切らしたいつぞやの鴉天狗――名前は確か射命丸文とかいう華奢な天狗さんからそれを受け取り、満足そうな顔の八雲紫。茫然と眺めていたところで、腕に抱き留めていた天子の体重がふっ、と消える。
「では、お預かりしますね」
「え? ……あ、はあ」
九尾の狐の、整った凛々しい目鼻立ちが気付けば目の前に寄せられていた。真面目に口許を引き締めたこちらも怜悧さを匂い立たせ、八雲の大妖怪の従者には相応しい威容と端整さを兼ね備えている。
永江衣玖は、最後まで二の腕に絡まっていた天子の左腕を、振りほどいた。
「……ご協力、感謝します。あとは、我々を信じて下さいとしか」
「ええ。まぁ、信じております」
衣玖は素直に頷く。
普段慎重な永江衣玖をあっさり判断させたのは、瞬間的に考えを巡らせた結果生み出された、二つの事情。
一つは、紫の人格をそれなりに信用している点。見た目はいかに胡散臭くとも、下界で恃まれるその力と存在感は、それらを割り引いて尚一目を置ける。
常識的に考えて幻想郷の高位にある妖怪が、よもや天人をいきなり取って喰って永遠の命を得て万歳三唱――なんてゆう、頭の捻子の緩んだ馬鹿げたマネをすることは流石にあるまいという、信用貸しのような、若干根拠の薄い、希望的観測混じりの理由がこの判断の理由の一つ。
そして、もう一つ――
「もし、お客人どの」
「?」
足早に帰途へつきかけていた客人を、重く口を開いた衣玖が呼び止める。
「随分お急ぎですね」
「ええ――これからちょっと、寄らなきゃいけないところがあるし」
八雲紫の、楽しそうな声。地上の大妖怪。首だけを少し、後ろへ振り返って此方を見た。
それに付き従う従者。
空の色に似た青い髪をたわわに翻す美しい少女――総領娘様を、大事そうに抱きかかえた金髪の九尾の狐。身体ごと振り返る。
「――我々の仲間が、騒ぎ始めております」
短く、そう告げた。
首だけ振り向いた紫の瞳が、すっと細くなる。
衣玖は頭を下げる。
竜宮の使いとして、である。
「お気づきとは思いますが、今日もまだ気性は乱れたままです。先日から続いた空の色の異変で、天人は……大半は暢気な気構えですが中には、地上の者がしでかした仕業ではないかと穿った見方をする者もおります」
「……」
「これは恐らくご存知のこととしてお話ししますが…………この異変は恐らく、明後日に大きな節目を迎えます」
「ええ」
「天の住民の中には、それに気付いている者も居ます。竜宮の使いは、哨戒も兼ねております故、神経を尖らせてここ数日飛び回っています。私達自身忸怩たる想いですが、私達は一人ひとりで天人に物を進言できる立場ではありませんし、況んや、異変を解決するような知恵も力も持ち合わせておりません」
永江衣玖は黙って、指を差す。仰角およそ三十五度。二時半の方向。
「貴方達がこれから向かわれる場所は、これでも分かっているつもりです」
「……さすが空気を読む人々ねぇ。話が早い」
紫は満足そうに笑い、そして踵を返し、ひらひらと手を振った。
もう見ていない彼女に向かい、ふ、と、ちょっと気持ちが緩んで誇らしげに微笑みかける。
「宝物殿はあちらです。緋想の剣はあそこに収納されている筈――天人は基本暢気ですから、余程下手を打たない限り気付かれますまい」
残った九尾の狐にそう告げた。分限を超えたこの賭けが、成功してくれるかどうかは分からない。ただ、暢気な地上人やそれ以上に暢気な天界人に、竜宮の使いとして業を煮やしていたのも事実。悪事に左袒しているつもりはない。
衣玖なりに、ある程度自身と信頼を混ぜ込ませて、弾き出した一つのよすが。その結論。
全員を代弁するように、天子を抱えた藍が一つ頷いた。何ぞの術でも使用したのか、狐の御胸に抱かれて天子はすうすうと寝息を立てている。或いは単純に、気持ちが良すぎたのか。
衣玖はもう一度頭を下げる。
「――必ずや総領娘様を、ご無事な状態でお返し下さいませ」
「分かってるわぁー、竜宮の使いさん」
紫が気の抜けたような声を返し、藍の肩を叩き、三十五度二時半の方向を指さす。藍が頷き、飛び去る。
最後に身体ごと衣玖の方へ向き直って、紫は嬉しげに言う。
「キスマークだらけで言うにはちょっと格好良すぎたわね、今の長話」
彼女らしくなく、深々とお辞儀をして見せた。横で成り行きを見守っていた文に目で合図を送ると、自分はスキマの中へ面倒くさそうに転がり込んで消えてしまう。
「あの写真、どうされるおつもりで?」
「作戦に使用するのだそうですよ」
両手を広げ、文は肩を竦めてみせる。
その仕草が可笑しくて、衣玖は、ふっと柔らかい笑顔を零す。
それからハンカチを取り出し、十五分かけて頬のキスマークを完全に拭い去ったら頬がひりひりした。
痛い。
とても痛い。
■ 藍之日〜6th day〜 ■
「どうして私達がそんな手間のかかること……」
「私なんて地底だから何も関係無いしー」
紫と幽々子は、そろって深く二つずつ頷く。
「まぁ、そうよねぇ――」
おうよ、ふん! と、調子よく鼻を鳴らす天と地の果て二人の住人であるが、図にに乗って胸を張るその向かいで当の紫と幽々子、意味深げな微笑を浮かべているのに彼女たちはまだ気付いていない。愚鈍なものである。今この場で気付いているのは射命丸文と、彼女らのとっても良い性格をそれぞれ嫌というほど熟知した、魂魄妖夢ただ一人である。
「それじゃあしょうがないから、これは全幻想郷公開ねぇ。……記者さん」
「あいさー」
横に侍していた文が、呼応する。やおらその白い指より、ふわっと何かが宙を舞った。
古びた卓袱台にばさっ、と投げ捨てられた正方形の写真数枚。紫と幽々子はにこやかに見守る。けらけらと笑いながら覗き込んだ霊烏路空と比那名居天子が、ふと黙る。
その血の気が、音でも立てそうな勢いで一気に引いた。
「……いやぁーっ!?」
「うぎゃぁーあ!?」
「……ってぎゃーっ!!?」
しかし叫び声は三つ上がった。お客様達の悲痛な声二つと、若干聞き慣れた幽々子の剣の指南役による金切り声一つ。
「こういった写真が流布するとどうなるか……」
「悪事千里を走ると言いますからねぇ……三日経てばハレンチ鴉とインラン天人として全国を駈け巡るに違いありませんわ……よよよ」
「ちょっと待って下さい、私関係ないじゃないですか!」
――写真は言わずもがな、一日ずつのお楽しみタイムをつぶさに撮影した、射命丸文とっておきの激写スクープである。性格が大人しいのを良いことに竜宮の使いの少女へ散々絡み回した挙げ句キスの嵐を見舞っている比那名居天子と、初対面にもかかわらず報道管制ギリギリの溌剌プレーを見せる地底仕込みの地獄鴉、及び白玉楼の庭師。
「しょうがないじゃないですか、どうカメラを構えても妖夢さん見切れなかったんですもん」
「こ、この悪魔!」
「鬼!!」
「あくま! おに! ねぼすけ! 食いしん坊!」
「誰がよ」
口々に汚い言葉を選び抜いては、権謀術数の限りを尽くす幻想郷の策士二人を心のままに罵倒しまくる三人。
説明役は、幽々子が担うことになった。
理知的なイメージのある紫がスポークスの任を担った方が良さそうな気もしたが、紫が遠慮したのである。
「とりあえず、配置はこう。良い?」
「はーい」
「はーい。本当に、これが終わったらあの写真返してくれるんでしょうね?」
「大丈夫だいじょうぶ、我々天狗は嘘だけはつきませんから」
幽々子は筆と硯、それから和紙を手許に引き寄せる。
「配置はこう……こう、こうね。まず紫が、空の光の境界を弄って虹を出現させる」
「うん」
「それから次はそこのバカ鴉」
「バァーカァー! ……って誰がバカ鴉かしら!」
「アンタが八咫烏の力を顕現させる。八咫烏は太陽の気質を帯びている。それは本来、空にあるべきもの」
「知ったこっちゃ無いけどね――まあ、私が弱くなる訳じゃないってんなら別に良いけど」
ふんぞり返って、空は天井を睨む。不服げではあるが、先ほどの脅迫は想像以上に効果があったらしい。この地獄鴉がここまで素直になったなら、話も進めやすくて気分も楽だし労力もかからない。
「もちろん貴女の力はそのままよ、『気性』を貰うだけだから――それで、バカ天人」
「やっぱりバカ扱いか」
「貴女がこの緋想の剣で、バカ鴉の中にある八咫烏の力を気性として顕現させるの。この鴉に込められた力は、太陽のそれと同じ物――こんなものがそっくりそのまま地下に潜ってしまったから、今回みたいな異変も起きるの。分かるかしら?」
「はいはい。鴉はこちらも知ったこっちゃないけど、ひとまず天人に睨まれるのはいい加減鬱陶しいしね――」
「良い心がけ。じゃあ、お願いするわ」
「幽々子様、私はどうしましょう」
「いざという時の為に控えておいてくれるかしら? 多分、そんなに不測の出来事は起きないと思うけど」
「御意」
妖夢は静かに頷く。剣の鞘を持ち直したのは、襟を引き締めた気持ちの、無意識なる行動への現われか。さながら、気性を天候として顕現させるあの剣のように。
「私はどうしましょー?」
挙手で割り込んだ射命丸文に、幽々子は優しく微笑んだ。
「貴女は写真でも何でも撮りながら取材してると良いわ。今回の事件に巻き込む代わりに一番良い場所で取材って約束だしね」
「わーい」
「邪魔だけしないでいてくれれば良いわ――これで良いわよね、紫」
一頻りの説明を終えてお茶を一啜り、満足して幽々子は親愛なる相棒を顧みた。
あれ。
意外と、渋い顔をしている。
「四十点」
「あら」
じっと閉じていた瞳をすっと開け、いつになく真面目な顔で面子の全員を見渡す。その首が、ふと止まる。
「妖夢」
「はい」
いきなり呼ばれた妖夢が、慌てて居佇まいを正す。
「貴女は幽々子よりも、天子の傍を離れないで」
「はい。……え?」
「剣の扱い方が不慣れで、暴発でもされると困るじゃない? 念のため貴女が天人をサポートしてくれると有り難いわ」
天子が、少し頬を膨らませる。
「そこまで下手じゃないけど――」
「いいから」
「うーん」
同じく今ひとつ納得のいかない妖夢と、天子が思わず互いに瞳を見合わせる。
同時に小首を傾げる。
「……へんなの」
「……へんですね」
「次に文」
紫の視線は、部屋の右隅へと移る。
「何でございましょう――取材許可の剥奪は契約違反ですのでお受け致しかねますよ?」
「取材はどうぞ御勝手に。但し、扇を忘れないで頂戴」
「へ?」
「いざという時のためよ。風が吹いて計画に差し障りが出たらいけないから、風を操る貴女の力はとても重要」
「お褒めいただいたのは光栄ですが――今回の計画、風に影響されます?」
「念のためよ」
「はぁ」
不承不承、文が頷く。
幽々子が訝しげな目で紫を眺めているのに、文も、妖夢も気付いている。
何かを言いたげにしながら、今はまだ言葉を選んでいるか。
「それからぁー」
不意に、紫が欄間の掛け軸に向かって声を張る。
「萃香ー、貴女もねー?」
「……………………んー、もう面倒くさいなあ」
ふっと、空気が萎むような感覚。
掛け軸の前の空気に色がついてゆく。眺めていた天子と空が、目を見開いてぎょっと腰を抜かす。
「貴女も補佐に回って頂戴。念には念を、ね……」
「あいあい」
「以上」
「って、紫さんってばー!」
たまらず文が口を挟んだ。
はいはいしつもーん! の要領で、いかにも取材者らしい挙手をする。取材を受けた紫はしかし、これを、取材慣れした有名人のように悠然と無視して見せた。
ぐ、と文が怯む声。
唐突に始めた独壇場を唐突に打ち切り、紫は満足げに一つ伸びをした。うーん、と気持ちよさそうに薄目をつむり、伸びきった腕が「……ふはぁー」とだらり弛緩したその時には、纏われていた威圧感も一緒にどこかへ流れ去って跡形もない。
いつも通りに含み笑いを浮かべた、意地の悪そうな八雲紫がそこに居るばかりである。
「……紫」
「ん?」
幽々子が、徐に口を開いた。
「……何か、隠してる?」
そして訊いた。
「特に」
「そう……それなら良いけど」
幽々子はにこにこ笑っている。
紫もにこにこ笑っている。
……笑っていないのは、他の列席者ばかりである。賑やかな事が好きな連中も多々混じっているというのに、一瞬訪れた硬い剣幕にどこか気圧されて、すっかり黙りこくった会場。妖夢も押し黙る。剣呑というほど棘を生やした雰囲気では無いが、紫の言葉には必要以上に歯切れの良さがあった。
「じゃあ、これにて今日はお終い。ウチの部屋を使って良いから、ゆっくり休んで頂戴な。藍が今日はお色気全開モードでさっきから使い物にならないけど――代わりに私から、久し振りに私から料理でも振舞おうじゃないの」
そしてぬけぬけと、とんでもないことを口にする。
あまりにも優しすぎるその言葉、明日の計画のことも吹っ飛びそうな様相である。
いつになく賑やかな人数の客間。八雲紫の号令一下、口々に歓喜や猜疑や確認事項が飛び交う喧噪の中で、幽々子だけが、首を傾げながら無言で居た。
話し掛けてくる天子達と話を合わせながら、妖夢は脇目で、そんな幽々子の顔をそっと盗み見ている。次いで、明らかに普通ではなかった紫の様子を垣間見ようとした。
紫色のスキマが開き、ちょうど、禍々しいその口を閉じるところだった。
* 幕間 〜Before the daybreak〜 *
夜風に冷やされた縁側から、墨色の景色を眺め仰いだ。いつもと何も変わらない色。今は僅かばかり星明かりの降下に輝きを得て、吹けば消えそうな黒の陰影が辛うじてそこを、マヨヒガの庭だと判別させる。沈めて失わせた輪郭を、そっと闇に描き出している。
数々の色に染め変えられたここ数日の景色も、夜が来るたび、同じ黒の色に戻る。移ろってはまた黒に返る。返ってゆく。空がいかなる色に変わっても、夜は常に夜色を纏って降りてきて、何色を混ぜても黒で在り続けるその色のように、一日に一度世界空の光を駆逐してそこに墨を混ぜてゆく。黒なら何事も無いように見え、そして、何が起きていても気付かないようにも見える。
さながら、嵐の前の静けさと思われた。
今宵獣一匹の咆哮さえ耳に届かない幻想郷の夜。誰の息吹も届かない暗闇の中、相対的に大きく聞こえる自分の息吹だけを少し殺して、果ての見えない闇に耳を傾けてみる。風に乗って運ばれる、幻想郷の音に心を研ぎ澄ませる。
声なき声も聞こえない。鵺の一羽も啼かない。色と共に失われた幻想郷の感情。世界は今、きっと眠っていて、負った手傷の痛みを夜と名の付く麻酔に忘れて、束の間の平穏に気を安らげている。寝静まった世界の片隅、このマヨヒガで、哀しいほどに穏やかな幻想郷の気性と歩調を合わせて、静寂にゆったり身を任せてみる。小さな星を一つ眺める。
「……ゆゆこさま?」
恐る恐るの声に、律儀に振り向いた西行寺幽々子。
「……まだ起きておいででしたか……」
「別に寝ないなら寝ないでも良いし――昼間があの調子だから、夜の間だけでも『普通』を味わっておこうと思ってね」
頭が働かず、特に捻りもない答えを返す。
それなのに、また、魂魄妖夢は難しい顔をする。
「今回のこと、楽しんでおられるくせに」
「くせに、とかつけるなら敬語にするのはよしなさいって」
「楽しすぎて寝られないんですか?」
「そういう貴女はどうなのよ、妖夢。貴女も眠れずにここに来たんじゃなくて?」
答えず、逆に訊き返す。
「や、私は……私は、厠に立っただけです」
一度目と二度目の「私は」の間に、彼女は、少しだけ右の斜め上へ視線を走らせた。嘘をつくときの、どうやら本人も気付いていない妖夢の癖。
「じゃあ私の答え。私は楽しんでるわよ?」
「……もう……」
「でも残念、嘘」
「はいはい」
そう。
もう少し、誰もが上手に嘘をつけるようになれば良い。
嘘は誰かを傷つけぬための方便である。誰も傷つかず誰も痛まず、いつもの異変のように酒を酌み交わしている内に通りすぎてゆくかのように見えた今回の空色異変も、平穏と異なった以上は平穏以外の何かの痕跡は必ず遺してゆく。それを塗り隠してくれるのが嘘である。時には酒であり、時には夢であり。
幻想郷は不思議な顔を見せ続ける。時には間欠泉が吹き出してみたり大地震が神社で起こってみたり、竹の花も咲くし、紅い霧や明けない夜もあった。それらはしかし、すべて人為であった。今回の事件は、複数の人為が絡み合った幻想郷において、幻想郷そのものが起こした天変地異である。博麗霊夢が身を乗り出して興味を示さなかったのもそのためだ。結局は力を貸してくれるのだから素直じゃない、と見えもするが、あれはあれで誰よりも素直な行動なのである。結句、異変を起こした今までの誰もが、根の部分では素直だった。だからそいつのせいに出来た。
捻くれた者の多い幻想郷にあって、その誰よりも素直さを見せてくれない一番手なのは、他ならぬ幻想郷そのものだという痛切な実感を夜空に噛み締める。この世界は不思議と夢と、ある種の酒精を内包している。唯一平静を保ち続けるこの夜だけが、正直な表情で幽々子の瞳に映ってくれている。人も妖怪も嘘つきで、私も嘘つきで、その嘘は人のせい妖怪のせい私のせいに転嫁できるから楽。ついている嘘が、下手だからだ。
世界は、嘘が上手い。
幽々子はこの異変を、未だ嘘か誠か信じ切れずにいる。
この幻想郷も、しかし人と同じ。眠っている間だけ私達を欺かない。夜を見ていれば、あの空の色がすべて嘘だったようにも見える。その風は、涼やかである。
「幽々子さま、空の色が変わるというのは大ごとだと私は思います。僭越ですがあまりへらへらせず、明日は――」
「妖夢に説教されるとなんか違和感があるけど……そういえば、剣の指南役なのよねぇ、貴女」
そんなことを呟いて、幽々子は従容と頷いた。妖夢は、黙っている。
幽々子は立ち上がる。手にしていた紫色の大きな扇を口許に当て、根付けの翡翠に指を触れ、房から紐を辿って扇の要へ。小さな鵐目のように飾った責(せめ)へ這わせた指。
そっと、唇に寄せる。
「心配しなくても、明日は真面目にやるわよ」
「そう、ですか」
「だって、明日限りで幻想郷が終わるかもしれないのだし」
「……は?」
妖夢の声音に、俄に緊張が張りつめる。
「幽々子様、それはどういう――」
「嘘よ、うーそー」
幽々子は笑う。そして妖夢に背を向け、寝所の障子に手を掛けた。「お待ちくだ」と妖夢が放った追っ手の一言は、背中を掠めて暗闇へ消える。色を失った夜の世界、マヨヒガの庭、幻想郷、音も光も失われた世界が妖夢の悲壮な一声を余すところ無く飲み干した。
自分の言葉が本当なのかどうか、幽々子自身にさえ分からない。
世界は嘘が上手だ。人を誑かすのが上手である。
空の色が、虹色に変わる。これほどの異変を経た幻想郷は一体どうなるのか、西行寺幽々子にも、恐らくは八雲紫にも分からないはずである。
この異変が、世界による「真っ赤」な嘘なのか。
それとも――
幻想郷が終わる瞬間を、私達は、本当に目にしようとしているのだろうか。
* ?之日 〜morning〜 *
「……以上で大丈夫?」
「あいあい、了解了解。一人を除いてね」
不満げに零したのは、霊烏路空。朝の早起きには慣れていないのか、声に濃い眠気の色が混じっている。
「んで、アイツはどこなのよ……偉そうに私達に指図してたアイツは」
「申し訳ないです、今確認してきますので」
何故だか知らないが妖夢が謝っている。
きょろきょろ、と周囲を見渡し此方を見つけるなり、ものすごい早足で近づいてくる。
「幽々子さま、紫様ですが」
「うーん、考えられるのよねぇ、寝坊とか――紫ったら本当にお寝坊さんだから」
「いえ、そうではなくて」
妖夢が言葉を濁す。
「……もうお分かりでしょう、絶対今日は『アレ』ですって」
「あらあら妖夢、そんな大人っぽいことを口にするなんて淑女に失礼」
「ち、ちがーう!! って冗談言ってる暇ですか!?」
言葉とは裏腹に羞恥心で染めた頬、可愛らしい妖夢のおかっぱ頭が憤怒に揺れている。
おおよしよしと宥め賺して当座の場を繕い、集合した作戦参加者の面々に大音声を張る。
「ひとまず上空に向かいましょー。紫が到着次第、作戦決行で良いわね!!」
渋い顔で、それぞればらばらに頷く参加者達。荘厳な装飾と婉曲な造型に彩られた八雲の住処マヨヒガ、その奥まった一角にあるという紫の臥所を、幽々子は心配に満ちた瞳で眺める。
計画に抜かりは無い。
あの紫が、ここに来て計画をすっぽかすとも考えづらい。
胸騒ぎはしつつ引き締めるべき襟は引き締める。
ぐ、といつになく気合いの入った拳を握り、西行寺幽々子は主戦場の舞台を見上げてその色を瞳に宿す。
「昨日は藍色、今日は――紫色、か。どんどん毒々しくなってゆくじゃないの……なかなかやる気が出るわね」
地面を蹴り、上空へと飛び出す。
■ 「し」 〜The Purple day〜 ■
永い眠りから目覚めた私を、あの時迎えてくれたのは八雲紫だった。
今より心なしか若い顔で私を見下ろすその笑顔は、しかし今と何ら変わらず底知れぬ深みを湛えたいやらしい笑みである。あの頃はまだ、彼女に恐怖しか覚えなかった。
『紫色は、罪の色』
憎らしいくらい気楽な声で、あの時彼女はそう言ったと思う。
そして私の頭上に咲きほこっていた白玉楼の桜を見上げ、「……ほんとにきれい、ちょっと青みがかった紅色で」、そんなことを言っていた。
力を持ちすぎた妖怪、或いは度を超した天人が施した悪戯に、幻想郷が怒りを示す――未だに、明確な答えと信じる根拠はない。現実に、自然のまま時を受け流す幻想郷にそういう心の機微や表情が「あるさ」と、誰かに教え諭されても俄に信じ切れないかもしれない。どこかの変な妖怪の仕業なんじゃないかと、未だに見えない影を探し回る無意識の自分が居る。
それでも、幽々子にはこの空の色が、幻想郷の叫び声に聞こえる。そんな気がする。
運命の七日目、あの日彼女が罪の色だと教えてくれた、この紫色に毒々しく染まった空を一路に目指す。
彼女が何かを意図して、人員配置に口を出したのは明らか。
幽々子は敢えて、それに口を噤んでみる事にした。それに足るだけの信頼を、八雲紫には寄せている。
必ず来てくれると、信じている。
* *
「――準備完了ですよ、幽々子様」
そう声を掛けられて、はっと我に返る。
伝令役を果たした妖夢が、知らぬ間に傍に寄りそって来ていた。
「ああ、お疲れ様――まっ、気楽に行きましょ。大丈夫よ、自然の御機嫌直しなんだからそんなに固くならなくても、いきなり爆発したりはしないから大丈夫」
「それもこれも、紫様次第ですが」
「うん」
妖夢はどこか、もじもじともどかしげにしていた。幽々子はしばらく、眼下に小さくなったマヨヒガの屋根に視線を移ろわせていたが、その妖夢にふと気付いて扇で「ぽこ」と、頭を叩く。
「みょん……」
「そんなにそわそわしなさんな。大丈夫だってば」
「いえ、そうではなくて紫様のことですが」
すっと、近寄る妖夢。
「何? 紫がどうしたって?」
「あの……本当に気付いておいでではないのですか」
「だから、何に」
「その……紫様って、確かお名前を漢……」
その時、だった。
「ゆーゆーーこーーー!!」
もわん、という音。「ひっ」と、傍に飛翔していた妖夢がよろめく。天子の細工と思われる足許の飛翔石からバランスを崩してあわや真っ逆さま、というところで、そのスキマからにゅっと突き出てきた白い腕に身体を支えられた。
「うふふー、お嬢ちゃん、お空を飛ぶときは気をつけましょうねー」
「ゆ、紫」
ようやく姿を現した大妖怪、その名は八雲紫、西行寺幽々子はほっと安堵に胸を撫で下ろし、そのままキッと陣を振り返って臨戦態勢の心に火を付け――
ようとした、その瞬間。
「うふん、ゆゆこってばー」
「にゃっ、ちょっと紫、貴女遅刻なのに何――――んふぅっ」
その言葉は、強制的に遮られた。瞬間の光景は間近の妖夢を始め、距離の近い順から射命丸文、伊吹萃香、霊烏路空、比那名居天子と全員が目撃していた。
「んっ――ちゅっ――」
「むっ――ん、んんっ! んむっ!」
お子様が目を背けたくなるほどの、熱烈なるディープな接吻であった。
「異変解決とかどうでも良いからぁー」
きゅっと、スキマから半分以上身体を乗り出してその身体を押しつける紫。
「今日は一日ぃ」
「やっ、紫……」
それは犯罪級の威力である。名は態を表すの紫色に染め抜かれたドレスは豊満な身体を覆い尽くして見事な膨らみを保持し、そのボリュームは秋の五穀豊穣を連想させる実りである。
「遊びましょーん♪」
「て、遊ぶ訳ないでしょ!?」
妖夢が、呆れ果てた目でこちらを見ている。
「ですから言いましたのに……」
「訊いてないわ妖夢! 何よ、これ!」
「ですから……やくもゆかり様、ですよ」
絡みつく紫の唇、頬、その向こうから、妖夢がこめかみを抑えている。
そこでふと、幽々子の思索が思い至る。
恐る恐る、干支で数え切れないほど年下の妖夢に向かい、悠然とした笑顔で幽々子の方から尋ねた。
「……『ゆかり』ってもしかして、『紫』って漢字で『ゆかり』だったりする?」
知らんかったんかい。
誰もが無言で、幽々子を針のように睨み付けてくる。
――ふ、と幽々子は笑った。
「何がたのしいのぉー、ゆゆこー。ほら――もっとアタシのこと触ってってば」
弛緩しきっていた幽々子の腕を拾い上げた紫、やおらその手先を自分の胸に宛がう。
「っふ」
っふ、じゃない。
ここに来てようやく、幽々子の胸に芽生えた軽い殺意。
「ゆ、か、り」
「な、あ、に?」
ぼがっ。
精一杯の謝罪の念を込めて、紫の延髄に愛情の拳を贈り物した西行寺幽々子。体術は元々あまり得意ではない。何しろ生前から割と病弱っ子だったし、だから今の一撃で気絶させることが出来たのはきっと愛の成せる業である。八雲紫よ、ありがとう。
貴女の勇姿と痴態を、世界の人々は忘れないだろう。
「さて――ここからよ」
幽々子の脳は、全速力で回転し始める。
紫の意図には気付くことが出来た。
紫は当然自分で、今日この日にこうなることを分かっていたはずだ。だからこそああして、人員配置に大幅な変更を加えさせたに違いない。
大丈夫。
紫は全てを分かった上で、あの変更を作っている。彼女が変更を加えた場所を一つずつめくってゆけば良いだけの話である。有象無象を文字通り天の果てから地の果てまで駈け巡って寄せ集めたこの集団。
陣頭式を取るのは、私の役割。
信頼してくれたからこそ、紫はきっと何も言わなかった。紫が幻想郷の命運を賭けて、私に託してくれた究極の「遊び」なのかもしれない。
その意味を、一つずつ解いてゆこう。
「……萃香!」
「はーい?」
「水を萃めて」
「は?」
扇を、右手に持ち替える。ぐっと握り締め、紫色に染まる頭上へ突き上げて大音声を張る。
「……空気の中にある水を萃めて頂戴! 思いっきり萃めて、雨雲を作るの!!」
「なるほど――おやすい御用でぃっ」
たぁ! と、気勢一発萃香が両の拳を天空へ突き上げる。紫色の空、ふわりと細波のように空気がうねった。
音もなく、紫色に薄い灰色が覆い被さってゆく。はじめは軽そうな、綿菓子のような雲。それがやがて厚みを増し、色を濃くし、程なく灰色になり鈍重な鈍色に姿を変えて、さぁさぁと糸のように細い音。
――息つく暇もなく、地上を洗い流すかのような大豪雨が空中の一団を突き刺し始めた。
「ご苦労さま! 次は……」
あっという間にずぶ濡れになる身体。枝垂れてくる髪、ぐっしょりと重さを増す衣服を少しだけ気に掛けながら、幽々子は記憶の糸を手繰る。
昨日。
マヨヒガ。
客間の一つ。全参加者を集めて開いた作戦会議の終末に、八雲紫が提案した『変更点』。
そこに答えがある。
「……射命丸文!」
「は、はいっっ!」
厖大な雨音に掻き消されそうになる幽々子の甲高い声が、しかしそれでも冷たい驟雨を切り裂いて天狗の耳朶を打つ。
「この雲をあっちに飛ばして! 霊烏路空と反対の方!」
「がってん承知!」
萃香共々、反応は素早かった。頼りになる手駒達である。
「けど、これちょっと時間がかかりますよ! 何せ雨雲一つ丸々ですからね!」
「構わないわ。どんどんお願い!」
その返事を待ってか待たずか、葉扇が翻る。紫色から次第に鉛色へと転じてゆく空を背景として、緑色の鮮やかな天狗の舞が雨風を景気よく一閃した。
二閃――三閃。
重苦しくのさばった雨雲が、次第に東側の空へと動き始める。
雨雲はその間にも、肥大化を続けて止まない。萃香の蒐集能力は既に栓を閉めている筈だが、雨雲は雨の気を呼び、周囲の空気に滞る水気を次々と吸い尽くしてはより大きな雨雲へと凝り固まってゆく。それこそが、天の気性の正体なのだと幽々子は知った。
自然には水の気がある。木の気も、金の気も、土の気も火の気も。
――そして、日の気と月の気も。
それらは互いに共鳴し合い、反発し合って複雑な幻想郷の『気性』を作り出す。今回のような人為的な歪な雨雲とは違う、もっと大きく美しく、端整で荘厳で『当たり前』の存在感を身に纏う雨雲、快晴、日照雨に満月や蒼穹。
太陽の気を地中に埋め込んだり、剣で好き放題誰かの気性を天候として顕現させたり――
そりゃ、幻想郷も怒る訳である。
「こ、こんなもんでいかがでしょ!?」
「ごくろうさま! 危ないから、ちょっと下がってて!」
「わっかりました! じゃあ取材に戻ります!」
調子の良いもんである。カメラがびしょ濡れになるだろうが、構わないのだろうか。
「霊烏路空! 比那名居天子!」
「はいさー」
「いやーん、びしょ濡れ――」
最後に幽々子は、主役の二人に声を張った。
「霊烏路空が、八咫烏を一瞬だけ吐き出す。天子はそれを、緋想の剣で……!」
「あいさー」
「うにゅー」
こうして幻想郷の大自然に逆らって、
無茶で無茶を押し通すようなマネをして。
「いいのかしらねぇ」
幽々子は、小さく苦笑いを零す。
次の瞬間霊烏路空から放たれた莫大な光に、視界を灼かれた。
「はいはいみなさーん! これが噂の八咫烏!」
光の中から声がする。光に必死に目をこらした幽々子に、その誇らしげな声は聞こえてくるものの残念ながら姿まではちっとも見えない。さぞ大見得を切って得意に肩をいからせているのだろうと推察するが、生憎ご自身で出した光が強烈すぎて姿も何も見えたもんじゃない。
幽々子は一瞬で、目をつむる。
その直前、しかし、ようやく一瞬だけ見えた。霊烏路空の姿ではない。光溢れ、白一色に染まった視界の中心。
――黒く大きく翼を広げた、雄麗な三本足の鳥の姿。
「幽々子! 見えたよっ」
天子が、見えない光の向こうから声を放つ。つむったばかりの双眸を再び、今度は光に背を向けた方向へと見開いて、そこに広がった空の弓に幽々子は唇をつり上げた。
黒く沈んだ空。止まぬ雨の音と、背後から零れて飛んでくる圧倒的な光。
その向こうに、くっきりと描き出された七色の空の橋。
虹。
それが、「空の境界」である。
「緋想の剣……発動っ!!」
そして振るわれた、剣の風切り音。
太陽の気質を身に纏った緋の砲撃が、幽々子の背後から唸りを上げて虹へと一直線に向かった。太陽に光り輝いていた雨粒がそのまま爆風に軌道を変えられ、強烈に歪んだ弧を描きながら緋想天の道を造る。雨粒を弾き飛ばして作った雨の隧道を貫いた気質の塊は、凄まじい破裂音を立てて虹へと衝突する。
「あ……あれ?」
「ダメじゃん! 幽々子って言ったね、ちょっと! おーい!」
声が耳の遠くから聞こえる。今の破裂音に耳が一時的に遠くなったのかもしれないし、心なしか一層激しさを増したかのような豪雨に掻き消されたのかもしれない。
「どうして……いや」
茫然としかかった頭に、再び火を入れる。
まだピースが足りない。
最後の一欠片を握っている人員を幽々子は、作戦会議の記憶に探し求める。あの時紫が指示した人員変更を、普段の何倍もの速度で回転させる頭で必死に検索。あの場に名前を挙げられた中で、今日まだ動いていない人は誰だ。折角こんなに連れてきたのに。萃香も、文も、天子も空も文も天子も萃香も文も萃香も空も天子も空も
「あ…………」
ようやく気付く。
気付いて、思わず自分で吹き出した。びしょ濡れの髪を手櫛で掻き上げ、ぶんぶんと頭を振って犬のように雫を飛ばす。またすぐに濡れ鼠になるのも構わずにぶんぶんととにかく頭を振って、今この瞬間の晴れやかな気持ちを一思いに噛み締める。
「さて、ご苦労さまね幽々子」
スキマがすっと開き、八雲紫が顔を出した。なんだか何年も逢わずに居た、生き別れの知人のように思えてくるから不思議だ。こんなに小憎らしい微笑みで、すべてを仕組んだような顔をして「ご苦労さん」なんて、とっても上から目線。この困った横柄な友人の策略に、まるで自分まで巻き添えでハメられたような被害者感情が急速に芽生えてくるものの、今回はその功績に素直に寄っかかるしか道は無い。
「もう大丈夫なのかしら? お色気は」
「ええ、あれは巫山戯てただけだもの」
「嘘。空の色が雲で隠れて、天候が『雨』になった。お陰で気質が影響されることがなくなった――と、これが真相ね」
幽々子は、水をやればそのまま花が咲くような笑顔で紫に笑いかけた。
「……でも私の結論としては、前者にしておくわね」
「あらひどい」
「嘘よ。そうでないと、アイツの使い方に説明がつかないものね」
「随分賢くなったわね、貴女も」
「うふふ、ありがと……妖夢! 魂魄妖夢!!!」
そして、八咫烏太陽の向こう側に向かって、声を掛ける。
八雲紫の作戦会議、その声が蘇る。思えば一番最初に声を掛けたのが、幽々子自身の従者その人だったのだから忘れたというのも失礼な話だ。
幽々子の傍に補佐役を当初命じ、
――紫の命令の上書きにより、比那名居天子の傍に付き添っている自分の従者。
「幽々子様! 呼ばれましたか! 私はここに」
「天子の前に立って、叩っ斬られて頂戴!!!」
「……………………は?」
いやいやそれは困るでしょ、と妖夢の早口は、まさか聞こえない。
幽々子は、大声で命令を飛ばした。
それが、最後の一ピース。
千変万化、今思い返せば美しかった空の七変化のフィナーレを飾る、明日の青空へと放つ気質の伝播。
「比那名居天子、そこにいる妖夢の気質ごと虹を撃ち抜きなさい!
八咫烏の気質に混ぜ込んだその子の気質が、元通りに直すカギになるの!!」
雨が次第に弱まってゆくのを、幽々子は感じていた。
空の水気といえども、無限ではない。それは空の気質が、これも無限ではないということを示している。森羅万象の木火土金水は輪廻循環の果てにやがて再び巡るものとしても、循環すれば無限という訳ではない。
循環、輪廻にも弱点がある。それは、再生産性を持たないということだ。輪廻が再生産性を持ってしまえば、やがてそれを回す器の方が破裂してしまう。循環する全てのものは宿命的に、エントロピーと質量保存の法則から絶対量を予め決定づけられている。その意味で、水も空気もまた、無限の産物とは言えない。
幻想郷は、やはり思いの外重症だったのではないかと幽々子は思う。虹のように一日一枚ずつ七色に空を変化させ、失われた太陽エネルギーの絶対量の不足をこうして充足させようと頑張ってみても、取り戻せなかった青空。当たり前の存在の筈だった、「青空」という自然。
元の色を、自力で取り戻すことが出来ないほどに傷ついた幻想郷の空。
健気に毎日を送りながら、それは正しくコマだった。一見安定して回り続けているコマでも、やがてバランスを失ってふらふら揺らめいた挙げ句に転がって回転を停止する。その床を揺さぶる者があったなら、余命は余計圧縮されてしまうだろう。
自分達がこうして手を下さなければ、幻想郷は滅んだ――その答えはイエスかもしれないし、ノーかもしれない。
今更答えは不要である。
失われた気質を補完して、幻想郷の異変は再び安寧を取り戻す。
原因を突き止めてグー一発で連れてくるのは、結局今回も一緒だったな――と、幽々子は最後にちょっとだけ、反省した。
原因は二人と、協力が一人。
太陽の気質を呑み込んだ、霊烏路空。
気質全体の調和を乱した、比那名居天子。
そして、我が信頼の庭師。
その気質に『蒼天』を持ち、失われた蒼穹の気質を再び自然に叩き込む偶然の主役、魂魄妖夢。
天子が、勢いよく剣を振り上げる。
「緋想の剣……全ての気質を知る緋き刃よ、天の不条理と地の不義理を洗い流して天の世界に平穏を!
……なーんてね。
ってなわけで、気質、発動!!」
剣は、緩やかな軌道を描いて一度、真上の非想天の方向をまっすぐに指した。――そして次の瞬間、妖夢の真横を掠める勢いで敢然と振り下ろされる。
無言で硬直した妖夢の横、気質を絡め取った緋い弾丸が風の塊となって駆け抜ける。弾丸は緋色に青を綯い交ぜにして太陽の光芒を鮮烈に一閃、緋に蒼に加えて七色を内包した強力無比な太陽光の恩恵を得ていよいよ加速、雨粒は果敢に衝突して何ら形を留めずに砕け散り空気を引き裂き、鉛色の雲を縞模様に動かしてカメラを向けた射命丸文の真横を遠慮の文字を知ることなく薙ぎ斬る。誰もの懐を薙いだ。誰もが抱いた、強い願いと泥臭い渇望、天界の人間の我が儘と地底の人間の愚行をさながらその激しき驟雨で洗い流すかのように帳の降り注ぐ中を貫いた弾丸は、
――美しすぎる七色に激突。
音もなく破裂し、猛烈な光の瀑布にて陣の全員を呑み込んだ。
眩しさに耐えながら。
紫と幽々子が、最後までその顛末を見送り、やがて耐えかねて瞳を固く閉じる。
「おお、おお――」
八雲藍は、その全ての始終を地上で見届けていた。
二発目の緋色の弾丸には、細い絹糸のような青い色が縫い込まれていたように見えた。それが高空――見たことも無いくらい高い位置に架かった虹に激突した瞬間、全てが光に変わって粉々に弾け飛んだ。
不思議と音は聞こえなかった。
ただ地上にあっても目映すぎるその光に、掌をかざして八雲藍は始終を眺め続けた。具体的には、風無き風、つまりは光そのものが風になったように鉛色の雲を虹の形に切り裂き、その雲間が僅かに裂けるように押し広がり、その向こう側、ちらりと見えた懐かしい蒼の空色が輝くまで。
やがて、紫達が作り出した人工の太陽は消滅した。
それと引き替えに、虹の形の裂け目から降り注いだ本物の日光。
藍は懐手をしながらマヨヒガに戻る、その道中、笑いながら呟いた。
おお。
これぞまさに、狐の嫁入りではないか。
……なんちゃって。
■ 虹色之日々〜Epilogue〜 ■
幻想郷とは、結局どれほどに知力を持つのか。
騒動が収束して以来幽々子は、時間が余っては一人ぼんやりと、そんなことを考えるようになった。
桜の下には死体が埋まっている――それも考えようによっては、死体が花を咲かせていると見ることも出来る。だが花が咲くという行為もある種では気質・気性の成せる業であり、その根源が死体だとすると、幻想郷が作り出す自然もまた、リンネの輪の中に乗っかって動いているような方式も成り立たない訳じゃない――と、そういう具合である。
比那名居天子も霊烏路空も、一仕事を終えたという顔で帰って行った。
彼女らが究極的には引き金だった今回の事件も、もっと大きな視点――それこそ全幻想郷的な視点で考えてみたら、そういう矮小な括り方で納まらないような気もしてくる。
思い上がったとか、身に余る力を幻想郷住民が使いすぎたとか、そういう謙虚さの問題では無い。いずれにせよ力を使うときは使うし、使うなと言って使わないほど聞き分けの良い奴ばかりではない。
ただ幻想郷が唯一救われているのは――
そのほぼ全員が、遊びだということだろうか。
よっこらしょ、と、縁側から腰を上げ、青空を眺める日向ぼっこを終了とする。
空の色が変化したあの騒動の中、大半の住民が毎日昼間っからの宴会を開いてどんちゃん騒ぎをして楽しんでいたという非常に腹立たしい情報を、射命丸文から先日伝え聞いた。
あの異変を放っておいた時、一体どうなったのかは幽々子にも分からない。恐らくは、紫にも分からない。ひょっとしたらせきとうおうりょくせいらんし、と流れて行って再び「せき」に戻っただけかもしれないし、せきとうおうりょくせいらんし、と流れて行ってとうとう全ての色を失い、幻想郷の世界は闇に冷たく閉ざされた――なんて、そういう破滅的な結末も考えられる。
どっちにしても、恐ろしいことだと幽々子は思った。
だって。
だって晴れやかな青空の下で桜を眺められないなんて、そんな不幸なことはない。
桜には、青空以外考えられない。緑や紫の空の下で、桜の薄紅色など眺めたくないから。
恙ない日常に、感謝を捧げて今日も日向ぼっこを終わる。幻想郷がくれた、ひょっとすれば警告だったのかもしれないこの一連の騒動で幽々子の手許に残ったのは、世にも珍しい雲のど真ん中にかかるスナップ写真が一枚。そして僭越ながら一面を飾らせてもらった文々。新聞が一部。
そして、数多くの厄介な妖怪達が魅せてくれたあられもない「えっち」な日々を文字通り赤裸々に納めた、ネガフィルムが両手に一抱えほど。
こいつは美味い。
しばらく暇つぶしには苦労しなさそうだ、と、幽々子は満足げに一人頷く。
(了)
少年マンガ的な何か。 この作品について問題なのは、えろいシーンを書いているとストーリーが進まなかったこと。いやっほう、お色気シーンだぜ! と一人盛り上がってパカスカとキーボード叩いてたら、足踏みしたまま文章量が鰻登りになってゆくのを止められない! いやだって書きたいんですもの……主に私が…… 崇敬祭や夏コミの原稿執筆時期と重なっていたため、「黄」以降の段は、実は投稿締切り最終日に一気に書き上げました。たまに神が降りてくる日がある……でも急いだ割には、頭で思い描いていた以上の作品に出来たと思います。発表前に色んな人から優勝候補と言われてて、ひそかに喜んでました。 お題「色」のこんぺに出したことも踏まえて、これも自信作です。 |
(初出:2009年5月7日 第7回東方SSこんぺ 全82作品中12位) |