【霖】 |
長雨は、かれこれ三日降り続いていた。
陽光も雨雲に遮られて辺りは薄暗く、香霖堂の壁のランプには日暮れを待たずして、すでに明かりが灯っている。
霧のような雨が包む小さな店の中、店主の霖之助は大きめの椅子に深く腰を掛け、日に焼けた本の古びたページを繰っていた。
ちらちらと、ランプの炎が頭上で揺れる。ページを繰り、ぱらり、と、紙が鳴る。
静かである。
聞こえるのはただ、しとしとという長雨の調べだけだった。元来自然の音は、押しなべて耳を騒がせない。人間がうるさい、と形容したがるのは、所詮その人間が出す音だけである。換言すると人間の物音はとかく、余計な音として耳に入りやすい。長雨は自然であり、雫が叩く葉も地面もまた自然である。耳を騒がせない類に属する音だった。
そんなわけで、店の中は静けさに包まれている。水を打ったような静けさではなく、穏やかな静寂である。霖之助はお陰で、古びた茶色のページの上に、穏やかに目を滑らせることが出来ていた。
なれば――その店に客が一人佇んでいることなど、ともすれば霖之助自身忘れてしまいそうでさえある。
店の棚をじっと睨むように眺める彼は、落ち着いた面持ちの老人だった。
『暫時、邪魔させてもらう』
来店するや一言、老人は時代がかった言い回しで霖之助に告げた。そしてそれ以来、彼はただの一言も発していない。時折ため息をつきながらもその場の空気に溶け込むように、じっと黙したまま品の並んだ棚を眺めている。
『ごゆっくり』
霖之助が発した言葉もまた、その返事が最後である。つまるところ出逢いから一刻近く、二人はすっかり黙ったまま過ごしていた。
店主と客――その関係の中にあっては、些か奇妙な空気が流れている。
それでも不思議と霖之助、居心地は悪くなかった。
息が詰まるような二人きりの店内でも、霖之助は何故か、その老人に話しかけようという気が起きなかった。彼が来る前も後も変わらず、まるで自分以外誰も来ていないかのように、霖之助は一人で本を読み耽っている。読み耽ることが出来ている。彼が来る前も来てからも、聞こえるのはただ雨音だけなのだ。
それはひとえに、品定めに没頭する老人の振舞いのせいだった。
さして人の気に鈍くも鋭くもない霖之助だが、老人の振る舞いが頭抜けて卓抜していることには気付いていた。歩くときも止まるときも彼は、その場にある、という存在を感じさせない。摺り足でもないのに音も立てず、呼吸はしているのに気配も殺し、さながらランプで揺れる炎のように静かな存在感を纏って、店の空気にしんなりと溶け込んでいる。夜闇の中なら、ともすれば真隣にいても気づきそうにない。
腰には、帯刀が二本。袴姿。古の武士のような佇まいである。
気配の消し方は或いは、彼自身が磨き培った武士としての技術であり、その無意識の露見なのかもしれない――そんな風に値踏みしながら、霖之助は読書の合間、横目にちらちらと老人を眺めていた。
その老人が不意に、赤い小箱を手に取る。
「ふーむ……」
店に入って初めて商品を手に取った老人が、そこで声にかかるため息を漏らした。
それは、化粧品の類を入れる箱だった。錦の縮緬で彩られた、年頃の少女に似合いそうな品である。或いは常連の巫女や魔法使いたちの興味を誘うかと思って置いていたが、生憎両名とも、洒落飾りに頓着しない連中ばかりだった。霖之助の目論見は外れ、そのままその小箱は棚に長らく鎮座したままとなっている。
渋く落ち着いた佇まいの老人の手に、縮緬の緋色がかった赤が載る。鮮やかな色が皺の深い手の中で、居心地悪そうにきらきらと映えている。
霖之助がぼんやり眺めているうち、老人はそれを結局、つと棚に戻した。そしてまた、違う商品を手にする。
続けて老人が取ったのは、小箱の隣に置かれていた柘植の櫛だった。多少の彫り物が施され、品としては悪くないものでもある。
それでも老人はわずかに首を振りながら、それを元の場所へと戻す。
「……贈り物、ですか」
さすがにこれ以上客をほうっておくわけにもいかず、霖之助は老人に声をかけた。
「うむ……まあ、な……」
老人は短く答え、罰の悪そうな表情を浮かべた。
老人が手に取っていたのはことごとく、若い娘が気に入りそうな品ばかりだった。まさか老人自身が、それに興味があるとも思えない。入れ替わり様々な商品を手にしては、渋面を作り首を傾げる……老人は三十分近くも、そんなことを繰り返していた。
「拙者の不肖の孫娘が、明日誕生日でな。何か洒落たものでもと思ったのだが」
「はあ……」
拙者、などと久しく耳にしない一人称に目を丸くしつつ、霖之助は俄に老人に興味をそそられていた。
ぽんと本を脇に置き、椅子から立ち上がる。
「僭越ながら、ご相談に乗りましょう」
そのまま老人の元へと、霖之助は足を進める。ぱたぱたという靴音が、雨音の奏でに割って入った。老人が保ってきた静寂を壊したようで、霖之助は内心自分に苦笑する。
霖之助にとって、老人の用向きは少々意表を衝かれるものだった。渋い老侍という佇まいの彼が、いかに孫娘といえど、何ともお洒落な品物を手に取っている――
有り体に言えば、いかにも似つかわしくない。
それが故に、興味をそそられた。
「失礼ながら、お嬢様はどんな方ですか」
相変わらず渋面を崩さない老人に、つとめて穏やかに霖之助は声を掛ける。
「剣士」
「はい?」
予想していなかった単語に霖之助、思わず声が裏返った。
「ある者に仕える剣士……まあちと普通の者でないのだが、その者に剣の指南をしながら、その侍従として立ち働いておる」
「ほお……それは」
つっかえ気味の老人の言葉。聞いている霖之助にはしかし、心当りが無いでもなかった。
以前、幽霊との混血という風変わりな剣士が訪ねてきたことがある。その身空の覚えが、今の老人の説明とよく似ていた。
「どういった女の子ですかね、よろしかったら、良いお品を奥からお出ししますから」
「む……」
わざと知らぬふりのまま、霖之助は老人に問うてみる。その言葉に老人は、やや眉間の皺を濃くした。
根掘り葉掘りしようとしたことが少し気に障ったかな、と霖之助は思った。が、老人は拒む様子でもなかった。
顎に手を遣りながらぽつぽつと、その孫娘のことを話してくれた。
「まあ……あの子は……」
やや戸惑うような語調で、老人は霖之助に語って聞かせ始める。
外見の年齢、髪型、体格、果ては勝気な性格から剣腕の巧拙、そのいろはを自分が叩き込んだことに至るまで――その説明は訥々と微に入り細を穿った。
いくらの時間が流れたか――やがて老人が申し訳なさげに謝りながら独白を止めるまで、霖之助は蕩々と聞き入っていた。
(やっぱり、おじいちゃんはおじいちゃん、か……)
老人に悟られないよう、霖之助は苦笑いを浮かべる。
朴念仁じみた風体だったが、孫のことに口が滑らかになるのについて、どうやら身の貴賤や時代の関係は無いらしい。
無骨で朴訥に見えた老人の口調も、孫娘のことを話せば止め処なく、流れるようで、また実に楽しそうだった。
霖之助はどこか、ほっと安堵を覚える。
(さて……)
老人がまた真面目な渋い顔にもどったところで、霖之助も本題を思い出す。
説明を聞く限り彼の孫娘とは、霖之助が思い描いた少女で間違いは無さそうである。
ただ――そのことを老人に糺すのは、躊躇われた。
その剣士の少女から、その過去のことも少しだけ、耳に入れていたからだった。
「お言葉ながら……その化粧入れも櫛も、仰るような可愛いお嬢さんになら、きっと喜ば黷驍ニ思いますよ」
霖之助は控えめに、老人に進言する。その顔はしかし依然として崩れず、厳しいままである。
霖之助の言葉は、正直なところ世辞でもない。かの少女――妖夢という少女剣士なら、そう品に迷わずとも似合いそうだと思った。あどけないものの可愛らしい顔立ちだし、霊夢や魔理沙といった常連達に比べればまだ、そういう年相応の洒落っ気を楽しむ素地がありそうにも見える。剣腕の程までは与り知らぬものの、可愛らしい贈り物に素っ気も無いような少女には見えなかった。
「いや……やはりいかんな」
しかしそんな霖之助の意に反し、老人は黙って首を振った。
「どうも儂はいかん。なんというか……」
「可愛いお孫さんなんでしょう?」
「無論だ。だが……訳あって、顔を合わせる訳にはいかんのでな」
存じ上げております、という言葉を、霖之助は心に呑み込む。
「大丈夫と思いますがね、これらの品なら若い娘さんに……はは、商魂を見せて申し訳ない」
「いや……」
厳然としていた老人の目に弱気が浮かぶのを、霖之助は見る。
店内に入ってきた時の凛然とした雰囲気が、今の老人からは感じられなかった。
「どう見ても、似合う品がないな……」
「いや、とてもそうは……」
「あの子は、剣士でしかないのだ」
不意に老人の声が、暗い響きを帯びる。
「小さい時からずっとだ。剣の師として在り続けて、侍従としての師で在り続けて、人間としての師で在り続けて……
気が付いたらあの子の元を、儂は去っておった」
「……」
「思えば叱った記憶しかない。誉めた日の数など、片手で足りるやもしれん。ひたすらに、道ばかり教えておった。
儂はあの子をなんとか一人前にして……なってくれるよう必死に教えて……あの子の元を去った」
「厳しいお爺様だったんですね」
「お爺様、でない。儂はただ、師でしかなかったのよ。
儂が教えたことに、間違いはない。良い子に育ってくれたという、嬉しさもある。なればこそ今日、儂は贈り物の一つでもと、ここを訪ねたのだが……
今になって分かるものよ。儂にとってあの子は、いつまでも弟子なんだとな。男でも女でもない。ただの弟子――それだけなんだと」
老人の長広舌は、砂を噛むような響きを帯びていた。
それは恐らくは――自嘲を隠す響きであったに違いない。霖之助にはそう思えた。
老人の目が、うら寂しげに細くなる。
「この櫛も、この鏡も、この小箱も……どれ一つ、あの子に似合う姿が想像出来ぬ。儂はあの子を結局、娘として見ていなかったんだな。
色香も出て、年頃の女の子になっても尚……儂にとってあの子は、弟子にしか見えてくれないのさ」
その目のまま、老人は唇の端で嗤った。そして、窓外に視線を投げる。
雨はただしとしとと、窓を濡らし続けている。降り止む気配はない。
冷たい雫が一筋、窓を切るように線を作った。
「笑うかね」
「いいえ」
老人の言葉に、柔らかい声で、霖之助は答える。
「すまぬな、無駄話だった。訳の分からぬ話に付き合わせてしまって」
「いえ、よく分かりましたよ」
少し切ってから、霖之助は言葉を継ぐ。
「何だかんだで貴方が、御孫さんを大好きだってことが」
聞いた老人の皺深い目が、すっと細くなる。
「はは、いや、これは尚更にお恥ずかしい――」
「恐縮されないで下さい、私が同じ境遇にいる訳でもないのです。ただ……」
語尾を濁した霖之助に、老人は訝しげな視線を送る。
その視線を受け流し、窓の外に目を遣りながら霖之助は言った。
「女の子ってのは案外、女の子ですよ」
老人は訝しげに眉をひそめる。霖之助が敢えて難解な言葉を選んだのは、人生経験の差を考えたからだった。
老獪とまでは言わないが、若輩の舌先三寸で踊らされるほどこの老人は単純でない。ならばと霖之助は、わざと曖昧模糊に言い換えた言葉を彼にぶつけた。
「この幻想郷の女の子が何人か、ウチの店に屯することがありましてね。まあ女っ気も無いし腕白な奴らばかりだし、本当に迷惑ですよ」
笑いながら霖之助は、老人の顔を見遣る。
その表情は依然、硬い。硬いまま、霖之助の目を見つめ返す。
「その子たちもいつかは大人になる、と言うのかね?」
「もうなってるんですよ」
「……」
老人は少し俯き、じっと眼を閉じる。
「バカなことばっかりやってるような子達です。目の中に入れても痛くないような貴方の孫娘さんとは大分違う。むしろ僕のほうが、馬鹿にされてるんじゃないかと思うことさえありますからね」
「いや、儂の孫は……」
語気を強めて、霖之助は諭すように言う。
「昔のことは関係ありません。貴方が御孫さんを見なくなって、もう随分経つのでしょう?」
「それは……」
「色香という意味なら、霊夢や魔理沙には欠片ほどもありません。女っ気なんて言葉は産湯の中に忘れてきたような連中です。
それでも笑えば可愛らしいし、乱暴に振舞ってても髪の一つくらいは手入れもしてくるし」
「……」
老人は押し黙ったままである。目をくっと閉じ、何事かを沈思するように腕を組んで、微動だにしない。
その佇まいはまるで彫像のように、生き物の存在感を失していた。彼が無意識に、消してしまっている。
今に至るまで彼が積み上げてきた心の鍛錬が、そこに透けて見えるようだった。
そしてそれは逆に――老人の心が、平常を失している証左に他ならなかった。
霖之助は苦笑を堪えつつ、棚の上の櫛を取った。
それを、老人の前へ向ける。
「ご心配なさらずとも、時が経てば女の子は、知らない間に成長してゆくものですよ。
お爺さんならそのお孫さんのこと、弟子としてだけじゃなく、ちゃんと――女の子として、見てあげてください」
霖之助はそこで、言葉を締めくくる。差し出されたその櫛を、老人は薄目を開けて見ていた。
その手がそっと伸び、霖之助の手から櫛が離れる。手に取ったそれをまた一頻り眺めてから、老人はもう一度眼を閉じた。
(やっぱり、お爺ちゃんじゃないか――)
目の前で、老人の顔から少しずつ、険が消えてゆく。思わず霖之助は、苦笑いを零した。
老人の頭の中で、妖夢は今おかっぱの銀髪に櫛目を入れているはずだった。
恐らくは彼が別れた、幼い日の妖夢の姿のまま。それでも無骨な彼が思い描く――彼なりの精一杯の、孫娘の少女らしさを纏いながら。
だから霖之助は、黙ってその場を過ごした。
老人が妖夢のことを孫と思ってくれるまで――待っていてあげようと思った。
そのまま、暫くの時が流れた。
「……のう、店主殿……」
そして沈黙を破ったのは、老人である。
それまでに似ず、困ったような声だった。
「はい?」
「やはり、もっと他の物はないか。剣の鍔とか袴の帯とか――」
「お客さん」
お化けを怖がる子供のような老人の声に霖之助、思わず苦笑する。
「孫娘さんに、贈り物をしてあげてください?」
だからつい子供を諭すような声で、霖之助は言った。見かけでも干支三回り以上違う老人に、である。
彼もまた苦笑を浮かべ、心なしか小さくなったように見えた。霖之助の振舞いは些か失礼な態度だったが、老人が怒る気配はない。
逆に、しずしずと恭しく頭を下げて見せた。
「かたじけない」
霖之助もそれに、笑顔で返す。
「どうぞ、ごゆっくりお選びになって下さい」
それだけ言って、霖之助は老人に背を向けた。
元の椅子に戻り、また深く腰掛けて本を手にし、栞の場所を探る。
再び降りた静寂の幕。しとしとという雨音が、再び染み入ってゆく。
「……店主殿」
霖之助が本のページを開くより僅かにはやく、老人の声がかけられた。
晴れやかな声だった。
「すまぬ……すまぬが今回はやはり、買うのは止めておこう。せっかく勧めてくれたのにかたじけないが、儂は儂で、もう一度考えてみたい、だから――」
老人の顔は、心底申し訳なさそうである。
霖之助、それを笑顔で手を上げて制す。
「お気になさらず」
「申し訳ない、店を冷やかすつもりではなかったのだが――」
「分かっております。要らぬという人に物を売りつけるほど、私も悪人じゃない。でも、その代わり――」
「は――」
下げていた頭を上げて、老人は霖之助を見遣る。
そこにいる店主は既に本を開き、椅子にゆったりと身を預けて、ページの文字を追い始めている。
その目を離さないまま、店主は明るい声で言った。
「妖夢さんを、必ず笑わせてあげてくださいね」
「――!」
不意に店主の口をついた孫の名に、老人は瞠目して慌てる。
当の店主はこともなげに、本に目を落としたままである。
すっと、老人の顔に笑みが浮かんだ。
「……そうですか、妖夢を知ってくれているのですね」
「ええ、可愛い女の子……可愛いお孫さんじゃないですか――」
淡々と、興味を失ったかのように店主は呟く。
本当に興味を失してしまった訳ではない。それは、老人を急き立てているのだ。
弟子ではなく、孫娘に会いに行け――穏やかな眼差しの店主が、自分にそう告げている――老人はそう思った。
そんな優しい店主の言だからこそ、妖夢の評がまた心に沁みた。妖夢の成長した姿が老人の中で、抑えようもなく楽しみに染まってゆく。
(何年経ったか……)
妖夢は、半人半霊である。人よりもなお、年をとる速度は遅い。
だがそれは、見かけだけの話だ。人と交わり、人と同じように生きる妖夢は、人と同じ歩幅で成長してゆく。
歩いてきた人生が長くなるにつれ、同じ一年は次第に短くなってゆく。自分が過ごした孤独な年月は、或いは妖夢にとって、もっと長い時間だったかもしれない。
いつまでも半人前の弟子、いつまでも無邪気な子供でいるのは――或いは、自分の中の妖夢だけなのかもしれない――
「失礼した。お暇させて頂こう。何か良い贈り物をしたくなったら、必ずや――」
「ええ、お待ちしてますよ」
店主は変わらず本に視線を落としたまま、簡素な返事を口にした。そして、もう何も言わなかった。
店の中が、静寂に包まれてゆく。
ただ長雨の音だけが、しとしとと二人だけの空間を包んでいる。
不思議なほどに、静かな空気だった。
穏やかな顔の店主にもう一度礼を送り、老人はそっと扉を開ける。
きい、と音がした。身を外に、そっと滑らせる。
まだ雨は、降り続いていた。氷のように冷たい雨だが、むしろ上気した頬には心地よい。
扉を左手で閉め……老人は濡れるのを好むように、笠も着けぬまま雨の森へと消えていった。
ぱたん、と扉が閉じるのを待って、霖之助は本から目を離す。
静寂はさして、老人がいた間と変わらない。そこに誰かが居たことさえ、忘れ果てたような空気でもある。
(お爺ちゃんはいつの世も、お爺ちゃんか――)
妖夢のことを喋っていた老人の嬉しげな顔が、また脳裏に浮かんだ。
弛まぬ鍛練を重ねた老侍をもってして、なお孫娘は可愛いのだ。弟子だなんだと言っていたものの、その顔は正しく、孫娘を愛する好々爺だった。
変な目で見ずとも、妖夢は美しい子だと霖之助は思う。まだどうにも乳臭くはあるが、気の強さの裏に時折見せる笑顔は、普通の少女らしさを充分感じさせる。
それでいてその芯は、並大抵のことでは折れそうにもない。彼女はきっと祖父にとって、弟子としても孫娘としても――
(……可愛くて仕方ないくせに)
去ってしまった祖父に、霖之助は内心で毒づいた。
長雨が、しとしとと窓の外に香っている。
明日は止むだろうか――そう思いながらも、どこか止んで欲しくないとも願う。
窓外のそんな静かな雨に、霖之助はぼんやりと目を向けた。
不意に店の扉が、きい、と音を立てた。
* * *
まだ夜も明けきらない、白玉楼の庭の中。
三日続いた雨は、その日も夜通し降り続けた。月光も雨雲に遮られ、世界は墨に浸したように冷たい黒に染まっている。
しとしとと、雨の葉音が囁くようにさざめいている。
そこに、暗い影がぽつりと佇んでいた。
魂魄妖忌である。
幾度と無く剣を振るっていた庭を、滑るように歩き抜ける。暗闇であっても、慣れ親しんだ妖忌からすれば問題はない。目を瞑っていても歩ける場所だった。
庭の対岸まで歩き、そこの縁側に腰を掛ける。草鞋を解き、着けていた笠と蓑をそれに重ねて置く。
足音を殺しながら縁側に上がると、妖忌はそっと障子戸に手を掛けた。
(…………)
音もなく開かれた障子の奥に、ぽつりと布団が敷かれている。その中から、すうすうと、小さな寝息が聞こえている。
妖忌は思わず、目を細めた。
静かである。
聞こえるのはただ、しとしとという長雨の調べだけだった。元来自然の音は、押しなべて耳を騒がせない。人間がうるさい、と形容したがるのは、所詮その人間が出す音だけである。換言すると人間の物音はとかく、余計な音として耳に入りやすい。長雨は自然であり、雫が叩く葉も地面も、また自然である。
ただ――何も知らぬまま眠っている少女の寝息なら、或いは自然の音と変わりはないと妖忌は思う。
完全に殺しきった気配のまま、妖忌は畳の上を滑り、枕元に歩み寄る。
そこに、少女の寝顔があった。
「すう……」
可愛らしい寝息が、わずかに布団を上下させている。
じっと目を凝らして、妖忌はその顔を覗き込んだ。
(可愛らしく……なったのかのう)
一人苦笑する。
薄暗い中では、顔立ちの変わり様までは分からない。何より顔そのものは、何年かに一度、しっかり見に来ていた。外見の成長そのものには、いわれるまでもなく気が付いている。
――ただそれを、弟子として見ていただけだ。
(全く……儂ごときに出し抜かれるとは)
内心で、妖忌は独り言を零した。無論、本当に寝首を掻きに来た訳ではない。
剣士たる者、余人を枕元に立たせてしまった時点で失格なのだ。たとえば妖忌にその気があったなら――今一刀のもと真っ二つに斬り殺すことさえ出来てしまう。
忍び込んでおきながらもその警戒の甘さに、妖忌自身忸怩たる思いでもある。かつてなら、寝ていようがなんだろうが怒声を張り上げて叩き起こしたところだった。
それは、絶対に許されないはずの、軽々しい油断。それでも――
何故か今は、怒気さえ覚えることが出来なかった。
暗闇の中にひっそりと片膝をついたまま、ただ不出来な弟子の顔を……未熟者の孫の顔を、じっと見入っていた。
すうすうと、何にも気付かぬまま、少女は気持ちよさそうに眠っている。
(……儂もつくづく、馬鹿か)
怒りもせず、呆れもせず。
ただ少しだけ――
――可愛い孫だと、思えてしまった気がした。
そっと、懐に手を入れる。
取り出したのは、小さな花だった。
正しくは、花ではない。多少雑な作りの、他愛もない人工の花飾りだった。
もう一度、妖夢の寝顔に目を遣る。
まだまだあどけなく、幼い顔。それでも――可愛い少女だと、今度は素直に思えた。
花は、初めから花ではない。最初は土に顔を出した何げのない葉っぱであり、それが水をやり雑草を抜き、手をかけて育てている内にやがて、美しい花を咲かせる。
庭師を兼ねていた妖忌からすれば、分かり切ったことだった。手が掛かるんだといくら嘆いた植物でも、花を咲かせたその時には、その苦労も忘れてしまう。
妖忌は、笑った。苦笑いではなく、自嘲でもない。
どんな笑みなのか、まるで分からない。
誰あろう妖忌自身が……自分が笑ってしまっている理由が、分からなかった。
何だかわからないままに、何故だか知れないままに――
何かがとにかく、嬉しいと思って。
妖忌は孫の寝顔の上で、優しい笑顔を浮かべていた。
(さて……)
手に収めた花を、どこにつけたものかと思案する。
一度は辞去した店に、もう一度恥を忍んで足を運び、手に入れてきた花飾り。
その白い花飾りを、しかし一体どうするのか――今になって妖忌は、それを考えていなかったことに気が付いた。
闇の中、俄に妖忌は狼狽する。
枕元に目を遣る。着替えの衣、刀、黒い髪飾り……
髪飾り……
慌てて彷徨った視線が、そこで留まる。
“お誂え向き”なことに、その髪留めには黒い遊び布が飾りとして付いている。
そこに花を付ければ、つまり――花の髪飾りになる。
(それも……年頃の少女らしい、かの?)
すっかり煩悩に覆われたその老人の目は、もう師匠ではない。
少女を誰よりも愛する、たったひとりの祖父の顔だった。
髪留めを手に取る。
震える無骨な指で、妖忌はそこに、花飾りを――
§ §
時間の流れの速さは、その瞬間の楽しさに反比例すると誰かが言った。
ならば自分は、今、良い時間を送れたのだろう。
あっという間に過ぎ去った邂逅の時間を思い返しながら、妖忌はそんなことを思った。
そっと、枕元から立ち上がる。
孫娘は、未だに目を覚ます気配がない。人が立ったり座ったりしている横でここまで無防備なのは、さすがに剣士としてどうかとも思う。それでもまさか、ここで叱る訳にもいかない。
最後にまた一目寝顔を見遣り、妖忌は入ってきた障子戸の方へ足を向けた。
そっと滑るように畳を歩き、来た時と同じく、音を立てないよう戸を開け――
(――!!)
外はすっかり、白んでいた。
雲のせいで、朝陽が降り注ぐことはない。それでも部屋に比べれば、世界はどうしようもなく明るくなっている。
開けた障子の隙間から、さぁっと、妖夢の寝顔に光が降りかかった。
「んっ……」
「――!!」
§ §
(どっちが未熟者なのか……まったく)
柄にもなく高鳴ってしまった心の臓を落ち着かせながら、妖忌は今宵何度目かの苦笑いを浮かべた。
慌てて蓑と笠をひっつかみ、草鞋を片手に束ね持って、辛うじて築地の奥へと隠れ仰せたのが数瞬前。慣れ親しんだ家で不覚を犯し、慣れ親しんだ庭でこんな真似をしているのが、何とも滑稽に思えてくる。
だが同時に――可愛い孫と言葉すら交わせぬことを、寂しいとも思った。
互いに出逢えぬ事は分かっている。それについて、弟子を叱れぬという理由で嘆いたことは何度もあった。
しかし、孫を愛おしく思ったことは……相まみえることさえまかり成らない己が身を、祖父として恨んだことは……
果たして一度でも、自分にはあっただろうか。
閉める間もなかった障子から、程なく寝惚け顔が覗いた。
それでも枕元の刀をきっちり手にしている辺り、侍従としての自覚は充分と見る。
辺りを見回す妖夢の顔が、少しだけ大人びたように妖忌には見えた。
別れた頃よりも、伸びた背が。
別れた頃よりも、落ち着いた表情が。
別れた頃よりも、少しだけ長くなった銀色の髪が。
妖忌の目の前で少女は、確かに時を刻んでいた。
今まで気付くことの無かった――少女として成長した妖夢が、そこにいた。
(店主殿……本当に、感謝する)
ただ一度逢っただけの、物静かな風情の彼に妖忌はそっと、ありがとうを告げる。
孫を孫にしてくれた、一期一会のあの店主に。
曲者を探すように辺りを見渡した妖夢だが、やがて諦めたように首を傾げ、自室に戻ろうとした。その動きがしかし、そこでぴたりと止まる。
妖夢の目は、刀の鞘の先っぽで揺れる物に釘付けになっていた。
……白い花が、そこに咲いている。
(妖夢、すまん――)
妖忌はそっと、額をぽりぽりと掻いた。
花やかな髪飾り――それを作ろうとした指がどうしても照れてしまって、仕方なく妙なところに括り付けてしまった花。
お陰でとんでもない所にぽつりと咲いた、滑稽な花。
……本当に他に場所はなかったのかと、妖忌は一人黙って自問する。
見れば案の定、訝しむような視線を妖夢は花に向けていた。心底訳が分からないという様子である。突然刀の鞘に花が咲けば、それも当然だ。
(儂の……儂の馬鹿……)
またも柄にもなく、妖忌は頭を抱える。
せっかくの贈り物を――
(……!!)
転瞬、妖忌は息を呑む。
見遣った先に、妖夢の笑顔があった。
妖忌が何年ぶりかに見る、孫娘の笑顔だった。
その目は、かの花を見ている。そして嬉しそうに、微笑んでいる。
誰が付けたとも、何故付けたとも知らぬ花。突拍子もなく咲いたその花に不思議がりながらも――
その花の美しさが、それを愛でる少女の心が――彼女を温かな、笑顔にしてくれていた。
(妖夢……)
朝風が吹き抜ける。雲間から微かに陽光が零れ、前髪の揺れるその顔に、眩い光が射し込んだ。
朝陽に気付いた妖夢のその顔が、更にぱあっと明るくなる。
弾けんばかりの笑顔が、四日ぶりの朝陽を浴びて輝いた。
長く続いた雨の止む気配を喜ぶ、心の底から嬉しそうな笑顔。
朝陽と風と、不器用な花の綺麗さを浴びて――輝きに溢れたその笑顔。
本当に嬉しそうだと、妖忌は思う。
そして、生まれて初めてその時……妖夢のことを、美しいと思った。
『時が経てば女の子は、知らない間に成長してゆくものですよ――』
香霖堂の店主が言った言葉の意味が、そこでようやく、妖忌は理解出来たような気がした。
* * *
長雨は未だに、しとしとと降り続いている。
朝陽こそ顔を覗かせたものの、昼間頃まではまだ止みそうにもない。
手に笠と蓑を束ね持ったまま、妖忌は森の中を歩いていた。
何故か今日は、雨に濡れていたいと思う。
冷たい雨だが、不思議と寒くはない。
雨が暗鬱と思い込むのは、人間だけだ。
雨は自然である。自然は自然として、暗くも明るくもなくそこにある。
待たずともいつかは晴れに転じるし、どう願おうといずれまた雨は降る。
自然とはあるがまま、そのままに流れてゆく。人間もまた、自然の一つである。
ただ人間の心だけが、降り続ける雨を好きになったり嫌ったり、歓迎したり疎んじたり、願ったり忌んだり――
……気付いたり、気付かなかったり。
自然が自然としてある限り、時は流れ続ける。人はずっと、成長してゆく。
ならば照れることはなかったのかと、妖忌は思う。髪飾りに花を結べなかったその指が、今更になって口惜しい。
――まあ、花の髪飾りをつけた孫娘などという姿が、どうしても思い浮かばなかったのだから仕方ない。鞘の先で彼女が気に入ってくれたなら、それが最善とすべきなのかもしれない。
可憐な花を一輪目に焼き付けて、妖忌はまた長い旅に出る。
願わくばその花が、鞘に宿った名も無き花のように――誰かを魅了し、笑顔に出来る花になってくれたならと願いながら。
* * *
香霖堂は、今日も暇だった。
誰も訪れぬ店の中、霖之助は静かに、古びた本のページをめくる。
雨が止みそうな気配には、霖之助も気付いていた。
それが良いのか悪いのか、霖之助にはよく分からない。雨が続けば品物が湿気を吸うし、かといって晴れれば、迷惑な客人達が暇つぶしに飛んでくることになる。
天気の善悪……それは物の価値に似ていると、霖之助は思う。
物の価値の単位は、値段ではない。値段は供給と需要の単位であり、価値の単位ではない。
高価な宝玉でも粗末な襤褸でも、晴れでも雨でも――それは物には違いない。その価値を最後に決めるのは、それに触れた者だ。
だから迷うまでもなく、迷惑な贈り物など本当はない。それは物が迷惑がられているだけであり、人の気持ちまで消される訳ではない。
消されたとすれば、その人間の方に問題があることである。
そして……あの少女はきっと、そんな汚い心はしていない。
なればこそ、彼が買っていったあの商品には、何よりも尊い価値があったはず――
そんなことを霖之助は、窓外に香る長雨に想う。
そしてまた、ページの文字に視線を落とした。
すっかり夜が明けた白玉楼の化粧箪笥の前で、ひとりの少女が嬉しげに髪を梳いている。
いつもよりずっと長い時間、彼女は鏡の前に座っていた。
その手には、真新しい柘植の櫛が握られている。鞘には奇妙な花が一輪、朝風に揺れていた。
誰かが二つ並べた、不器用な気持ちのしるし。朝陽が淡く照らしたその顔は、とびっきりの笑顔である。
長く続いた雨も、そろそろ上がろうとしていた。
《了》
東方で男を書くとすると、当時霖之助か妖忌か神主(!)しか居なかったんですよ。拳骨親父とか居ませんでしたからね。 しかしこの二作。特に最初の方はまあ――よくもまあ、こんなとんでもないのをと自分でも思うところ。 最近流行の空耳歌詞とか嫌いなのに、一方でこんなの書いてるとか実にタチが悪いですね! 二部作みたいな感じになってますが、実は香霖香霖を出した当初この作品は構想に無く、「香霖、香霖」を書いた三日後、雨が降った大学構内でふと思いつき、帰宅して六時間ほどで一息に書き上げたのがこの作品です。 ところで「霖」は訓読の「ながあめ」という読みを意図してるんですが、周囲からは割と「りん」と言われる。 |
(初出:2006年12月15日 東方創想話作品集35) |