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【禊ぎの河】



 頬を一発引っぱたく。
 それくらいやってもらってもよかった、と、そう小町は思っている。
 だというのに。
 河原の適当な草むらを見つけて二人ならんで座ったそのあとも、映姫はしばらく黙ったっきりだった。何かを考えている風でもあり、考えていない風でもあり、ただひたすらに無表情で、河の向こうをぼうっと見ている。
 小町は覚悟をしていた。ああいったことをしたのだ。罰は当然だと思っていた。閻魔様からどんなことを言い渡されようと、自分にできることなら、それを粛として受け入れるつもりだった。
 映姫は口を噤んで、相変わらず、遠い視線のままである。
 言いたいことをまとめているのか。それとも拳骨のひとつでも見舞いたいところを、自制でじっと我慢しているのか。映姫の顔に表情は浮かばない。何の感情も読み取れず、小町はその横で所在なく坐っている。
 ずいぶんの時間が、緩やかに風下へと流れていった。
 裁判長さまとしての職歴は伊達じゃないなとか、小町は、横にある鉄面皮にそんなことを思う。思いながら、一方で自分に、胸のわだかまりを確かめるのだ。自分に嘘はつきませんでしたと、閻魔様に誓うことが出来るかどうか。それが鍵になる。大きな事か小さな事かは偉い人が決めることだとしても、自分は自分として、心をひとつに決めたことだ。何も言い訳はしないつもりである。
 緩やかに吹いていた風が、ふと、凪いだ。
 会話は、かちりと、悔悟の棒を膝元に置く音が合図になった。
「……後悔は、していないようですね?」
「ええ、してませんね」
 さばさばと、小町は即答した。長い沈黙の後だったが、この返事には間髪を入れなかった。
 映姫の溜息が聞こえる。
「まあ、罰を受けても罪が消える訳じゃないですから、今更何を言っても仕方のないことです」
 やや投げやりな口調だった。
 さめざめとした蝉の時雨が聞こえる。風が戻る。からっと乾いた無慈悲な川風が、砂埃を巻き上げて吹き抜けていった。賽の河原の地蔵に当たり、かちかちと音が鳴る。
 映姫は面倒くさくなったのか、それ以上の説教は継がなかった。空を見上げている。そして、説教の代わりに、
「ことしの地蔵盆も、終わっていきましたね」
「――」
「忙しくて最近、執務室を片付けないままになってしまいました」
「――」
「ああ、そろそろお昼――ちょっと、お腹がすきましたか」
「――」
「……いい、お天気ですね」
「――」

 世間話みたいな口調で、語りかけてくるのだった。
 居心地の悪さだけが、小町の胸に淀んだ。何とも言い難い静けさの空気は、わずかな風の音によって辛うじて壊れることなく、保たれている。

 どうして。
 叱ってもらえた方が、どれだけか、自分にとっては楽だ。四季映姫様に、この賽の河原で、この小野塚小町は、厳しい口調できちんと説いてもらいたかったというのに。
 映姫の横顔は、凪の水面のように穏やかであった。

 大きな大きな空が拡がっていた。哀しく蒼いその空が、盆の前よりも少し高くなった気がする。
 鰯雲が流れてくる。
 夏はもう、山の向こうへ帰って行こうとしている。






■ 1 ■

 三途の流れは機を織るようだと、誰かが云っていたのを思い出す。
 青空は高い。山は碧色。そして桟橋から見下ろす水面はなるほど、白糸が布地へと織りなされてゆく様を想起させた。激しい流れではないが、ところところに立つ波頭が、そう思えば布の捩れにも見えてくる。
 人の命を織っているのだ、とその誰かが云った。
 この河がいくつの命を運んだのか、小野塚小町にもはっきりと判らない。自分以前の代の死神が運んだ数もあるだろう。どの桁を選んだらいいのかさえ判らない。老いも若きも、聖(ひじり)と言わず賊と言わずこの河に身を預けて、全ての魂は小町が主、あの閻魔のもとへと赴いてゆくのだった。
 水の音に、だまって耳を傾けてみる。
 急ぐ水があるのが分かる。ばしゃばしゃという音だ。
 緩やかな流れがあるのが分かる。さらさらという声だ。
 誰しもが一度きりの命を、やがて冥界という暗い海へ辿る河を、時間という流れのまま流れ流れてゆくのだ。人生という河の終着駅に、また河が流れを作っている――ということは、思えば不思議なものだ。
 いくつもの命が水になって、三途の河という大きな流れを為した。
 三途の河の流れは機を織る。生を縦糸に、死を横糸に、命の布帛を作り上げてゆくのだ。
 こんなにも穏やかに。
 穏やかすぎて、小町の口にあくびがひとつ漏れた。肩の骨がこきりと啼く。
 地蔵盆会の期間を迎えて、四季映姫・ヤマザナドゥは不在となっていた。この間、その部下にして河の渡し守である小町には、川浚え(かわざらえ)が申しつけられている。映姫が不在になった間は審判も中断され、ひとまず霊魂を彼岸へ渡す作業は小休止となる。その間を利用しての、いわば雑務だった。
『気は抜かないでください。三途の河は、この世とあの世を分かつ河。何もしなければ何も起こらないでしょうが、しかし全ての理屈は抜きです。概念や常識を捨てて、何が起こっても冷静に対処するように』
 映姫は何度も念押ししてから、盆の用事とやらで出掛けていった。
 何もしなければ、の何もとはどういう意味か、何も起こらないの何もとはどういう意味か、どちらも、少しだけ小町を不安にさせている。不安にさせているが、まあ映姫がそんな大層な仕事を自分に任すこともあるまいと高を括っている。情けない話であるが、否定できない事実である。
 桟橋から河原に降り、舫いを解いて、久々に死霊の乗らぬ船を出す。手には、すらりと長い木篦(きべら)を携えた。浚うための道具だが、これが櫂(かい)代わりにもなる。
 河岸には、大小交々のいびつな石が転がっていた。歩きにくい賽の河原だ。一歩目を跳んで、二歩目を跳んで、三歩目が躓いたその勢いのままで舟板に飛び乗って船が揺れた。

 何も起こらないとは思うが、何が起こっても不思議じゃないよと――つまりは、そんな意味なのか。
 頭を振る。
 面白くもない仕事だ、と、小町は思っている。



■ 2 ■


 「そうだ……あたし、四季様に少し、訊きたいことがあるんですがね」
 「……何でしょうか」
 「あの世に行くのに、何だってこんな広い河を渡らにゃいかんのでしょう?」
 「――河はすなわち水です。水は仏の唯一の飲み物で、また、生きてる人も水が無ければ死んでしまいますからね。
  そして、水は形を持たない。境界線もありません。水は、命そのものなのですよ」
 「……そんなもんですかねえ」
 「そんなものです。それが証拠に、」
 「……?」
 「命は霧にもなりましょう。また――氷に閉ざされてしまうこともあるわけです」
 「ああ――」
 「納得しましたか?」
 「まぁ――ちょっとは、ね」

 やや曖昧に、小町は頷いてみせた。
 彼の哀れなあの姿が、細く、脳裏を横切ってゆく。


 + +


 夏の陽射しは、顕界と言わず冥界と言わず、また三途の河と言わず刃のように鋭かった。
「暑……」
 汗がするりと頬を伝った。小町の眼下で、ぽたりと川面に輪を作った。輪は二重に拡がって、それが河の流れにつぶされて一角だけくにゃりとへしゃげるまでを、小町はついつい見届けてしまう。
 河は実に広大である。その、広大なままの河を一手に浚おうとすると、これは大変な時間がかかる。日が暮れる、等という表現では到底間に合わない。だから工夫をしている。今、闇雲な木篦を河面に突き刺しているように見える小町の所作だが、実のところ、僅かな動きで掃除が出来るよう、川底の幅が適当に弄くられてある。
 死神・小野塚小町の能力である。小間使いには実に便利な能力なんだろうと、小町がいつも舌打ちしている能力ではあった。
 舟には少しずつだが、成果として、掬い上げたものが山を為しはじめていた。
 ごみの山は、ひたすらに混沌としている。
 川浚えと云っても、藻屑だの泥濘だのを掬い上げる訳ではない。この御仏のおわします河に、そうやって掬い上げられるべき自然物は存在しない。
 積もるのは屑だけだ。
 運命、輪廻、因果――そういった、遍く仏法の理から外れた無縁――拠り所のない屑めいた「もの」が、河の底にはつらつらと堆積するのだという。 
 特殊な術式を施した木篦で水面を縦横に掻くと、篦の先にはたちまち、錆びた銭だの腐った卒塔婆だの、不気味に得体の知れない屑が面白いように引っかかった。すべて縁知らずのごみだ。銭は――例えばさしづめ、渡し賃がこぼれたものか。卒塔婆はせいぜい、どこかの仏のもとから用済みになった古い分か。ひとつひとつに、来歴があるはずだが縁不知。三途の川底にあるからには、色々な意味でまともな代物でないことだけは確かだった。
 ぱしゃりと篦で水面を掻く。
 不思議な河だと、改めて小町は思う。
 長く三途の船の渡し守で働いても、また仏学を齧ってみてもやはり、いかにもこの河には、或いはこの世界には、よくわからない理が多いものだった。河はいつも澄まし、しかし時には小町自身の意に囚われず、ふいと川幅を変えたりする気まぐれなものだった。この河を、本当の意味で随意に操ることが、未だ小町にはできない。できるようになりたいとは思う。自分の職場だ。しかし、死神の分限で実際にできるようになるのかは分からない。残念なことである。たとえ多少傲慢な考えだとしても、死神として、この職場を扱いきれぬことは沽券に鑑みても些かの屈辱ではあった。
 どかりと、小町は舟板に腰を下ろす。いくつかのごみが、山の上の方から振動で崩れた。
 ゆらゆらと傾いだ船の上、ふと小町は空を見上げた。
 自分が、誰かに見下ろされているような感覚があったのだ。
 上空には、空と雲と、風と暑さと――
 そこにふわりふわりと、白くて半透明の、煙の欠片みたいな珠がたくさん漂っていた。
「……お前らも、暑さで参ってるってか」
 珠は、それひとつひとつが幽霊である。
 彼らは、顕界の者ではない。さりとて冥界の者でもない。それゆえに幽霊なのだ。
 仮に小町が職務をさぼると、この幽霊の数はものの見事に増加する。死者となった魂が、たちまち行き所を失うからだ。そうなると職務怠慢のかどで、映姫様のきついお叱りを受けることになる。よくあることだ。
 だがその外(ほか)にも、幽霊はいつだって河の上空を漂っていた。これについては、小町の意で左右できることでもない。小町の勤務態度などにかかわらず、それぞれに理由を抱えて成仏出来ない者達が、行き場に困って、顕界でも冥界でもない、狭間たるこの場所に屯(たむろ)してしまう。
 ふわふわり。
 未練は減らず、それ故に、この河の幽霊は減らない。
「お前ら……今、あたしのこと見てただろ?」
 言葉も喋れぬ幽霊に向かって、小町はためしに、意地悪なことを言ってみた。
 白い珠はふわふわと揺れた。
 首を振って見せたのだろうかと思った。しかし、それが縦なのか横なのかが判らない。
 しばらく睨めっこする。
 やがて小町は諦めて、冗談だよとばかり、笑って手を振って見せてやった。すると幽霊、固まって、今度は何の反応も見てとれなくなった。小町、両手を広げてみせる。幽霊、くるくると、空中に円を描く。首を傾げてみせる。逆回りで円を描く。
 ……我ながら、莫迦なことをやっていると思った。
 やがて幽霊は、こちらもまた飽きたように、川下の方へと漂い流れて行ってしまった。
 幽霊は河の上に、まだ見えるだけでもぞろぞろと漂っている。何ともおびただしい数だった。一人ひとりが、断ち切れない未練を抱えて、この世とあの世の狭間で彷徨しているのかと思うと末恐ろしい。
 河面に映る影が、波の合間にさんざめく。
 人の世に蔓延る未練の数を、数えられるなら数えてみたいと、小町は思った。
 輪廻の環から外れ、休み、流れの止まった河の中を漂うしかない魂。彼らは悠久の時間を、そうやって浪費しているのだ。そんなふうに考える。
 そんなことを考えている間にも、無縁のごみは舟を埋めつつあった。幽霊達が、ことのほか物珍しげに、こちらを眺め降ろしてきている――ような、気がする。
 莫迦のように広大な河で、ちぎれ雲みたいな幽霊達に見守られながら、河底をひとりでこつこつ浚えている自分――そう考えていると、なんだかたっぷりと、自分が莫迦になったような気がしてくる。
 
 何度めかに篦を水に突き刺して……ふと、そのとき小町は不意に、かつ、かつ、と、篦の先に堅い感触を認めて訝しんだ。



■ 3 ■


 「そうだ……四季様、もう一つ、訊いてもいいですかね」
 「――」
 「賽の河原で、子供達は石を積み続ける。あの子供達は、ずっと石を積み続けてますが、」
 「父母の供養のためですよ」
 「いや、それは分かってんです。最終的に地蔵菩薩に救われる、とか仰ってましたね。いや、そんなことより、あの、」
 「?」
 「河の上を漂う幽霊達ですね。あたし思ったんですけど、あの中にはひょっとして、その子達の親御さんがたくさんいるんじゃないかなーって」
 「……」
 「幽霊は未練があるから成仏出来ないんですよね。でも正直、河の上にふわふわ漂われても迷惑で。視界にちらちらすると意外と鬱陶しくて……いや、顕界に飛んでくよりゃマシかもしれませんが。
 って、あ、失礼……でですね、もしかしてあの連中ってのは、この河そのものに未練を残してるんじゃないかなって思ったんです」
 「……それで?」
 「いや、それはつまり、河原で責め苦を受ける子供を想う、親の魂なんじゃないかなーって……子供が心配で成仏出来ない親が、ああやって漂ってるのかなって……そう思ったってゆう、ただそれだけの話です。その辺四季様、どうなんですか」
 「……」
 「あ、いや……あー……すみません。差し出たことを訊きました」
 「間違っているとは言いませんよ」
 「え」
 「幽霊は……未練があるから幽霊になっています。その未練が、賽の河原に向いていないと証する手段はありません。子が早世し、あとを追ってきた親が、幽霊になって河の上に留まっているかもしれない――それを否定は出来ませんね。
  ――なあに、難しい話ではありません。貴方の質問と同じ、ただそれだけの事です。
  いたって簡単なことです」
 「はぁ……言われてみれば、簡単なことですよね」
 「ええ。……簡単な、簡単なことです」


 + +


 何が引き上がってきたかと思いそれを一目、小町はすっかり肝を潰した。河からびしょ濡れで上がってきたのは、石で、黒くて丸くて、やたら重かった。そしてその石には、しかし自然物にあるまじき目と口がついていて、そしたら目線が合ってしまって此方を睨まれたなんて冗談でもない。石が睨むはずもないが、やはり堪らない。
 じっと凝らしてみるまでもない。
 紛れもない、それは、地蔵の首の部分であった。
「おいおい……」
 心の内が、自然と言葉になって口から零れる。
 すっかりと黒ずんでいる。元々は柔和な笑顔を彫られたであろうその表情は摩耗が進み、地蔵からまたただの石に戻ろうとしている途中だった。随分時代を経たものと小町は推察する。それでも、朽ちかけたその状態にして尚、何か曰く言い難い雰囲気を感じさせる品だった。地蔵といって堂の主から道祖(さいのう)まであるが、すべては等しく地蔵様で、またこの首もさして、卑しい風情を醸していない。時間の鑢(やすり)が掛かって尚も、高貴さを失っていない。
 小町は感心し、そして、ではそんなものがどうして三途の河の底に積もっていたのかと、不思議に思って首を傾げた。
 これもごみの一種か、それとも何か訳有りだろうか。
 さて、船の上はここまでに引き上げたごみが山と積まれてある。仮にも地蔵尊の首を、それと一緒くたにすることは流石に憚られた。
 ごみの山の裾にそっと首を置かせてもらって、小町はやれやれと溜息をついてまた甲板に座った。来し方は存じ上げないながらも、とにもかくにも御地蔵様なのだから、粗略な扱いは間違っても出来ないと思った。しかるべきものならしかるべき扱いが必要で、供養だのとなればそれは映姫の出番を必要とする。いずれにせよ小町は、引き上げたこのごみを、勝手に処理する分限にない。
 やっかいなごみ――と称して良いのかもまだ分からないが、ともかく、やっかいである。処する手段に、小町は困った。
 とりあえず陸(おか)のどこかへ置かせて頂こうと櫂代わりの篦を翻し、小町は舟の向きを変えた。今まで河の中心へと向かっていたのが真反対になって、今来た桟橋の方へと、舳先が向き直る。
 小町は、ずーっとその行く手を見遣った。
 ゆったりとした河の流れが手前にあって、そこから上へ、地平の線へ視線を移してゆくと、目指すその岸には、ごつごつとした石の河原が見える。
 俗に言う、賽の河原である。
 曰く。
 賽の河原には、子供達の霊がおわします。親に先立った子供達の霊が、そこで石積みをします。親を想い、石塔を積み上げる子供達のその手元に、しかし餓鬼がやって来て、せっかく積み上げた石を突き崩してしまいます。すると子供達はまた、一から石を積み上げ直すのです。それをまた、餓鬼が壊してゆく。子供がまた同じように積み直す。それが責め苦なのです。
 という、この話は、さして無名でもない。
 児(ちご)の葛藤は魂魄の動きであり、顕現せざるものだから、仏でない小町にはその姿を見ることは出来ない。だが、確かに河原はそういった具合の絵図で、いつも子供の悲嘆や泣き声に溢れているということであった。
 不憫で不条理で、あまりにも解せぬこの仏界の理(ことわり)を、小町は以前から納得できないと思っていた。いかにも承服しがたいところがあった。仏の為すことに文句を付けるのは厳に慎むべきと心得つつも、それでも、罪のない子供に対して、あまりに救いが無いじゃないかと憤った。
 ある日のことだが、じつに分知らずなことに、映姫に直接挑んでみたこともある。そして、
『地蔵菩薩様の意思のままに。』
 返ってきた答えは、その一言だった。
 之を救うは地蔵菩薩の御心(みこころ)なれば、口を挟むべからず。そんなことらしかった。
 そう言われると、小町の方が二の句を継げなくなった記憶がある。そこに理屈も情もあったもんじゃなかった。仕方がない、だとか、憤懣やるかたなし、だとかいう単語は、こういうときに使うのかと思った覚えがある。そう決まっているから逆らえぬと、それだけが答えと突き付けられて、納得出来ないままに生煮えで呑み込むより他はない。
 さて、舟は進み、河原の側へと戻りつつある。
 舟の揺れで端っこへと転んでいた地蔵の首を手繰り寄せながら、だんだんと近づいてくる河原を、小町は、右から左へずらり見渡した。
 地蔵と言えば、賽の河原には多くの地蔵がある。これは霊と違い、単純にモノとして置かれているから、仏ならざる誰の目からでも見ることが出来る。これが、なかなかの眺めだ。今ではこの光景にすっかりと慣れてしまったが、居並ぶ地蔵の数は結構な数にのぼる。無数の地蔵が――こう言っては失礼だが雁首を並べているその様は、忌憚なく言えば、不気味な絵でもあり、反面、荘厳でもある。
 地蔵菩薩様の垂迹(すいじゃく)として、責め苦を受ける子供達を見守るのだ、と映姫が言っていた。
 ――小町はふと、今しがた河底より拾い上げた地蔵の首の、格好の行き先を見つけた気になる。
 そうだ。間違っても外れにはなるまい。供養などが必要とあらばまた動かせばいいし、そうでなければそのまま置いておけばいい。三途の河に沈んでいたとはいえ、曲がりなりにも地蔵尊であれば邪(よこしま)なことにならぬだろうと考えた。
 小町は櫂を動かして、また川幅を操って、再び桟橋に取って返して接岸した。丁重に地蔵様の首を持ち上げたらばひょいと船から桟橋、そして河原へと飛び降りて、座りの良さそうな場所を見繕ってそこに首をそっと置いた。それから船に戻って、短い線香を一本持ってきた。火をつける。それを、この御前に供えた。
 微かな白檀の煙が、賽の河原から青空へと絹糸を引いて立ち上った。甘い匂いがした。
 少々乱暴な処遇ではあると思うが、ごみ浚えの最中に、お地蔵様を持ち歩くことの方が小町にはよほど憚られたのだ。ひとまずは、こちらにてお休みいただくのがいいだろう。ごみ混じりの舟で持ち運ぶよりは、こちらに置いてある方が尊げだ。気のせいか、地蔵様も落ち着かれたように見える。もちろん気のせいだろう。
 両手を合わせて拝み、また桟橋からの距離を見て大まかな場所を憶えてから、小町は舟に歩き戻る。
 賽の河原は、ごつごつとして歩きにくい。大きな石と小さな石が交々にあって、それに丸いのから尖ったのまでが不規則に並んでいる。よくつまづくし、さりとて跨ぐのも乗り越えるのも、なかなかに難儀する。
 これらの石こそに、子供達は幾度もつまづき、転んでは立ち上がり、また、この石を天にも届けと積み上げるのだという。
 小町は蒼天を仰いだ。
 天には、たくさんの幽霊がふわふわ、白く漂っている。
 この世でもあの世でもない、三途の河の底という珍奇な場所に、あのお地蔵様がおわしたのは何の因果かと考える。あのお地蔵様にだって、手を合わせて祈った人が居たんじゃないのか。
 例えば旅人が道々の安全を願ったかもしれない。家内安全とか商売繁盛とか恋の成就とか――もしかすれば傷病平癒とか。子供が病に倒れて、ひょっとしたらもう助からないとか言われて、それでもお堂の地蔵様に、藁にも縋らんと、せめて一日でも長くと、せめてもと、哀しい願いで手を擦った――そんな若親が、例えば居たんじゃないのかと想像する。
 或いは、そこまででなくとも。
 荒れた賽の河原。上空に留まり、どこへも行かぬ魂達。
 今しがた置いた地蔵が、河原で、柔らかに笑っている。
 どこにも行かず、この河の上で漂う幽霊がいるのはなぜか。なぜ河原の子供達が石を積み上げるのか、その積み上げられる、塔頭の先が目指す上空にあるのは何なのか。
 天国か。それとも。

 ふと小町の中で、それらの疑問に答えが出たような気がした。
 


■ 4 ■


 「――それでは小町。次は私から一つ問いを与えましょう」
 「え……」
 「大丈夫です、そんな構えるような質問でもありません」
 「難しいことは勘弁願います」
 「さっきの水に関することです」
 「……水」
 「そもさん。命は水、水は流転し、雲になり雨になり、雫になり霧になり、或いは氷になる。では、」
 「……」
 「……水にとって一番残酷なことがあるなら、それは何だと思いますか」


 + +


 そう考えてみれば、意外と残酷な定めの世界だと――ふたたび河の只中へ舟を差し戻しながら小町の考えていたところへ、
『元気にしていますか』
 不意に河面から声が聞こえてきて、小町は飛び上がった。
「え……映姫様?」
『重労働ですが、さぼったりはしていませんね?』
 何のつもりか、冗談か、河面に上司様の顔が映っている。しばらく顔を合わせないで済むと思っていた地蔵盆の気楽さが、木の葉みたいに飛んでいった。
「さぼってませんよ……どうされましたか、こんな千里眼みたいな真似をして」
『そりゃあもちろん、部下の働き具合が気になったに決まっています』
「このごみの山が見えませんかあ? あなたの部下は、そりゃもう健気に、真面目に働いてまさ」
 あっかんべえ、としてみせた。
 映姫は、何も言わない。
「……まさか、ほんとうにこっち見えてないんですか」
『それは内緒です』
 何が内緒だというのか。
 小町は呆れる。
『まあ、真面目にやって下さってるなら、当然私としては文句もないですよ』
 いつもの済ました声が、河面から聞こえてくる。音が波になって、小さな縞模様を水面に作っている。そのたび、映し出されている映姫の顔がくしゃくしゃにぶれた。
「感謝してほしいくらいですね、こんなつまらない仕事に精を出す真面目な死神なんて、あたしくらいしか居ないんじゃないですかね」
 めいっぱい誇らしげに言ってやったところ、映姫の唇が、水面で不満げに歪む。
『莫迦おっしゃい。つまらないなんて罰当たりな。良いですか、仏の慈悲とは全てエニシによって結ばれるもので……』
 さて――しかし、自分は真面目なのだろうかと小町は自問する。
 エニシだか何だか知らないが、自分が映姫と組んでずいぶんの時間が経った。これもエニシだか何だか知らないが妙な試験を受けさせられ、そこで才女たる映姫の慧眼に見込まれ、しかし今に至るまでには小町、いくつも問題を起こした。口喧嘩だの叱責だのは後を絶たず、あるときは幻想郷の異変にまで繋がるほど仕事を怠けて大目玉を食ったこともある。
『――それでも、仏の加護というのは時を越えて尚、巌のように残存し続けるものなのです。例え無縁の川底での禊ぎがその罪を』
 そんな中で、自分は本当に死神に向いているのかとか、そんな懊悩は幾度と無くあった。優しすぎる、とは自分で言える言葉でもないが、さて、厳格厳戒な態度でもって臨めるかどうかという点に置いて、小町はこの死神という職に
『――小町。聞いていますか?』
 適格かどうか、自分でも疑わしいと思うことがしばしばである。何しろ仏法に傅いて行われる厳かな職務であり、そこに下手な私情を挟めないというのは、少々情に脆いところのある小町からすれば、不条理さですっかり窮屈になってしまいそうなことが幾度もあった。そういった性格的な面においても、こと映姫のような生真面目一辺倒の
『――こ、ま、ち?』
「あー、聞いてませんでした」
 上司とは、あまり合わないような気がするのだけど。
『ったく。もういいです。それで、川浚え自体は順調なのですか』
「ええ、順調ですよ――」
 そこまで言ったところで、小町はようやく、この際伝達すべき事項があることを思い出す。
 映姫と接触が図れるとは思っておらず、すっかりそのことが、思考から抜け落ちていた。  
「そうそう、あのですね。さっき、お地蔵様の首が引っかかったんですけど、あれもごみ、なんですかい?」
『――はい?』
 案の定。
 小町は、その事情の掻い摘んだところを水面に語りかけた。
「――そんなわけで現在は河原に安置してありますんで、あとの判断は四季様にお任せしようかと思ってるんですが」
『……』
 説明を聞き終えた映姫は、押し黙った。
 はて、と小町、首を傾げて映姫を覗く。
『妙な話です。そんなごみが上がることはそうそう無いはずですが』  
 映姫はそう答えた。
『地蔵はどうあれ、生(しょう)を抜かねば垂迹であって……まあつまり、自然に屑となることは無いと思う、のですが……小町、河に、何も異変はありませんか』 
 小町は、三百六十度の全体を見渡した。
「そうですね――そんなに変わったことはありません」
 実際、地蔵の首が上がって、何が起きたということもない、まさか首が動き出すような奇っ怪話も無く、お地蔵様はただ穏やかに河原におわし、
「ただ――ちょっとですね、河が、」
 少しずつ変化しているとすれば、今小町が映姫と話している、その間に、
「――心なしか、荒れ始めてるような気がします」
 轟々と、妙な、聞いたことのない類の波音を立てて、河が不自然に波立ち始めていることくらいか。
『……小町、』
 映姫が何かを言いかける。
 瞬間、水鏡に罅が入ったみたいになって、映姫の顔の半分だけが欠けた。
 くわりと、水面が飛びかかってくるように波立つ。
 波は瞬く間に高くなる。いたるところで渦ができる。
『――……!』
 何やら遠いところから、声にならないくらい映姫の声がした。そして、残っていた顔の半分が掻き消える。
 ひとりになった小町は、周囲を見渡す。  
 うねる河面、揺れる舟。山積みになったごみ。遠く賽の河原。立ち並ぶ地蔵の数々。
 
 どん、と突き上げる衝撃が上へ抜けて、小町の舟が、おおきく、水面へ傾いだ。



■ 5 ■ 
 

「一体どういう時に、魂は河底で眠るんですかね」
「さぁ。それは実際、仏の思し召しとしか言いようがないのです。輪廻から外れるというのが一つの責め苦としてあるのかもしれません」
「そういえば渡し賃を渋った者は、例外なく河に墜としてますね」
「ええ。でも、それは罰としてでしょう」
「?」
「ひょっとしたら――ひょっとしたらですが、罰とは違う、何か別の理由があって、河の底で凍らされた魂があるかもしれない」
「……」 
「私自身にも、それは、否定できないことなのです。――良かったですね、小町?」


 + + 


 弾かれた舟が、荒波の上で木の葉みたいに大きく揺れた。思わず喉から声が出た。手から滑った木篦が宙を舞って、甲板に落ちてカツンッと鳴った。今度は逆向きに傾いた舟がそれを跳ね上げて、軽々ぽおんと篦が宙を舞う。河面へ飛ばされそうになる。なったところを、辛うじて小町がつかみとる。
 急速に日の光が翳っていった。
 掻き乱される甲板の上で、辛うじて小町は後ろ斜め上をふりさけ仰いで、それを見る。
 さて。
 がしゃどくろ、という名前を、小町は聞いたことがあった。まずはその単語が真っ先に脳裏で思い当たった。
 長年舟守をしていた小町にも、それが現実の絵とは一瞬、見えなかった。見上げれば樫の木ほどもある、大きな骸骨。天に向かって聳えている。おんおんと何事か、声じみた声で唸りながら、叫び叫んで水飛沫が飛んだ。
 揺れる甲板の上で両手を張って、小町は舟の上に身体を支える。木篦を鉤に掛けて、代わって愛用の鎌を手繰る。揺れがやや収まったところで、身構える。
 得物はというとこれだけだ。少ない。こちらに敵意が向いてくれば、かなわないかもしれない。
 からからと晴れていた青空に、いつの間にか不吉な雲がかかり始めていた。冷たく強い風が吹いてくる。大髑髏の出現で荒れた波が収まらない。
 大きな大きな、それは大きな髑髏の化け物だ。それは這い蹲るような格好で、両の掌と両膝とを河の底についたまま、おんおんと唸る。
 さて何が起きているやら未だに掴めないままに、三途の河もまた謎多き世界であることを小町は思い出す。声も出ない。
 骸骨の頭蓋、その仄暗い空洞の目が、ふとこちらを見遣ってきた。
 小町も、きっ、と見返す。
「……何者(なにもん)だ」
 小町の低い声に対し、おんおんと、風が共鳴するような声が谺(こだま)した。骸骨に表情などありはしない。言葉もない。何とも、無意味な誰何になった。 
 ひとまず舟を飛び出し、宙を飛んで、髑髏様の前に回り込む。鎌を突き付ける。
 果たして轟音と共に、黒ずんだ灰色の腕が、骨だけの右腕が翻って小町を狙ってきた。
「おっと」
 身を捩って躱した小町の前を、ぶぅんぶぅんと、五本指がよく分かる骨の掌が駆け抜けた。蠅でも払うように二度三度と、往復で振り抜かれた。
 敵意というよりは、まさに蠅を相手にするような、邪魔者を追い払う趣の動きだった。小町には少なくともそう見えた。
 小町は、ひとまず死角に身を避ける。と、骸の更に全身が河面より上がってきた。顔や腕よりも更に黒く汚れた骨が、ぎしぎしがしゃがしゃと耳障りなほどに軋んで、持ち上げられた足や腕のそこかしこから盛大に滝が落ちてきた。ざばざばと音を立てて、何本もの白い水柱ができる。
 小町は、ふと、そこに、水ならぬ異質のものを見た。
 朽ち木から表皮の膜が剥がれるように、ぼろぼろと落ちてきた垢は――
 まず、粉々の硝子が落ちてきた。それから次に、夥しい烏(からす)の黒羽が舞い落ちてきた。漆黒の揚羽の死骸がぼとぼとと落ちてきた。巨大な蜥蜴の死骸が降った。枯れ果てた茶色の菊花が、腐臭に零れてひらひら、やたら不気味に舞い落ちた。
 腐りきった、種類も判らない果実が舟の舳先で腐汁を散らした。見たこともない長い蛇が水面に飛び込んできた。これも死んでいて、その身体には橙色の百足が絡んで蠢いている。
 三途の河底には地獄があるか。否、地獄はまた別の場所にある。
 地獄の絵図もかくやと思わせど、これは地獄のものでない。三途の河の、その底だ。骸骨の身体からは、あらゆる頽廃を凝縮したようなものがぼろぼろと零れてきた。
 凄絶な光景を見せつけられる。
 小町は言葉を失った。
 骸骨はひとしきり垢を落としたら、落としながら、やがて、ふと視線を遠くに投げた。そっちには、河原があった。賽の河原、居並ぶ地蔵が遠く見えている。
 ぎしぎしと一際大きな音がしたかと思ったら、次の瞬間、骸骨は水飛沫を上げて動き始めた。真っ直ぐ視線を――空洞の暗い双眸を賽の河原に向けて、ずしずしと河を横切ろうとしている。足元に大きな白波が上がる。
 茫としていた小町は、慌てて、眼前に回り込んで。
「……あんたがどんなお方は存じ上げません、けど、」
 鎌を突き付けて、骸骨の前に立ちふさがって動きを止める。
「あっちの方へは、ちょっとご遠慮願いたいんですがねぇ」
 彼が向かう先には小町の船着き場があり、つまりは賽の河原があり、引いては顕界が背後に控えている。何者かはともかく、河の上で決着なら決着をつけてしまいたい気持ちが小町にはあった。渡し守としての、ややもすれば本能である。
 おんおんと、何事かまた骸骨が唸った。何かを喋っているような気がする。しかし声にならず、ただ低い唸りを発すばかりで、胎内からは相変わらず万物の死骸が泉のように溢れだしている。
 がしゃがしゃと骨が鳴り、おんおんと骸骨が啼く中に、
 ふと、風切り音を聴いたような気が
「――うっ!?」
 がつん、と鈍い衝撃が右の腰から左へ抜けて、それが大きく振り抜かれた骸骨の左手であることに気付いた時には、もう身体が宙で逆さまになっていた。
 蠅でも払いのけるような造作のなさで、小町は叩かれた。そのまま真っ逆さ、広大なる三途の河面にぴしゃりと叩――きつけられるすんでの所で、体勢を立て直して宙に留まる。
 睨み返す。
 中で何かが燃えているみたいな痛みが、叩かれた患部に広がった。
「へぇ……」
 鎌を、がちっと握り直した。
 タガを外すには、まあ、ちょうど良い理由になる。気分的にも、だ。
 攻撃されてしまったからには、敵と見なすより他がない。こちらが黙っている義理もないだろう。
「……失礼!」
 言うより早く、小町は守勢から攻勢に転じた。
 大きな振りかぶりで鎌を一閃させる。まずは肩口辺りを狙った。外れる。打ち払いに来た右手の骨を避け、宙を大きく横切って、文字通りの返す刀で今度は腿の骨を払いに行った。
 がつん、という鋭い音と鈍い衝撃。
 鎌の刃は、小枝のようにあっさりと弾かれた。
 やや、気後れする。
 鎌を持つ手が、また少し鈍る。
 骨が存外に硬かったのもあるし、手が痺れていたのもある、そして加えて、実のところは、
(何ともまあ……やりにくいというか……)
 という本音があった。
 これは有事であり、間違いなくがしゃどくろ、小町自身に害意を向けて手を出してきた。小町は先に手を出された方だ。むろん反撃する権利はある。
 しかしである、実際のところ、ここは一応三途の河という尊びの場所である。
 困る。
 何がどうこうと雖も、がしゃどくろは紛れも無い化け物であるがしかし、河より現れたなら、すなわちは御仏に通じうるものである。あくまで可能性だが、仏に関わる者ならば、堂々と、刃を直截に立てることには慎むべきだ。そんな憚りがあった。
 実に困る。
 何しろこんな事態を体験したこともなければ、恃める教義も心当たり無く、如何ともしがたい。相変わらず気の抜けない相手の動きを牽制しながら、小町はこの化け物にどう対すればいいかを、必死で考えていた。
 ふと川中を漸進しつつあった骸骨の肢体、その右手が、ぐわりと撓って、賽の河原に伸びた。
 その先を小町は目で追う。
 残酷な河原の石を見る。
 また衆生護りし地蔵尊、先程の首の在処を一瞬のうちに思い浮かべる。
 まだ河原に手が届く距離ではない。だが、反射的に、河原へ伸された手に、小町の神経が反応した。
 死角から一閃に飛び出し、骸骨の眼前に回った小町は、手にした鎌に今度こそは力を込め、二の腕の骨を力の限りに薙ぎ払った。
 鈍い衝撃が、小町の腕から肩まで抜ける。
 響き、痺れ、弾かれそうになった刃を、それでも小町の膂力と気合いが押し返す。今度は骸骨が負けた。腕ごと身体が引っ張られ、傾いだ。そのまま、足を滑らせたみたいな動きで、河へと横倒しになる。けたたましい水飛沫が跳ね上がる。
「そちらはダメだと、言ったはずですがねえ!」
 気合いを込めたままに、眼下の敵へ、小町は一喝する。倒れた骸骨は、またおんおんと唸り声を上げるばかりである。鎌に弾かれた右手が宙を彷徨い、そしてまた倒れたままに、右手だけを河原の方へ伸ばさんとする。
「ち……」
 舌をひとつ打って、再び、小町は鎌持つ両腕に力を込める。
 次は脚か。それとも首か。
 ――ふと、骸骨は何やら遠くに目線を移している、その骸骨の空洞の視線を追いかけ、それが「あるもの」に向けられていることに。
 小町は、気が付いた。
 河原には、夥しい地蔵が建ち並ぶ。子供達の哀れな霊が屯するという。餓鬼がそれに意地悪をするという。
 その賽の河原、中程、桟橋よりやや河下に下ったところ。
 細く棚引く一本線香の紫煙が目印になる。
 骸骨との格闘に連れ、いつしか河原は、簡単に目視出来るほどの場所に近づいていた。 
 小町の木篦に引っかかった地蔵尊が、三途の河、ひいては彼岸の方を向かせた先程の地蔵の首が、じっと笑顔で、低い地面からこちらを見ていた。
 骸骨はこれに、手を伸ばさんと。
 おんおんと唸り、しかし先程の小町の斬撃に障害を負ったか、倒れ伏したままの格好で腕と視線だけを伸ばす。
 小町は、その様を、じっと観察する。
 否――実は、これも違った。
 骸骨の手は、次に大きく、左へ振られた。この動きを小町が舐めるように追うが、特に何も見えない。手は次に、また地蔵の首の方へと向いた。そこにしばらく、倒れたままの身体で腕だけを伸ばす。一際大きな叫び声。
 今度は、招くような手の動き。
 何かを呼び寄せるような、ゆっくりとした縦の動作をする。
「――おまえさん。賽の河原は児(ちご)が魂の集う寂しいところですぜ、あんたなんかが行って得する場所じゃあ、」
 そう言おうとして、小町は、そこで、言葉を継ぎ損ねた。
 河の上の幽霊。餓鬼、仏法、輪廻、生と死の境界、先立つ不孝と先立たれる不幸、生を終えての邂逅、その渇望――
 もしも、自分がわらべなら。
 地蔵の首そのものでなく、その地蔵の首に寄ってきている何かを追いかけたような手の先。
 突然現れた珍しいものに、なんでも興味を持つ年頃は確かにある。
 もしかしたら。
 胸に一針が刺さったような、とはいえ「もしや」というだけの、閃きじみた衝撃。
 小町には、この彼の、何たるかを知る由もない。当たり前だ。死神は死者の魂を運ぶだけで、浄玻璃鏡覗きは閻魔様のお仕事である。
 彼が、呼び寄せようとしているものは。
 彼が手を伸ばしたあの河原に、視ているものは――
 崩れてしまった身体で、ひたすらに、届くはずのない手を伸ばして、聞こえるはずのない声を上げる。
 彼は、 

「――小町!」

 冴えた声が頭上から飛び込んで、小町の思考を引きちぎった。天を仰ぐ。
 分厚い鉛雲、舟を出すまでからりと青空だったはずのそれを背負った、影。天命は文字通り降り注いでくる。小柄な影、その腕が伸びて悔悟の棒が指し示すは河原の一端。骨の腕と同じ方を向く。燻る紫色の糸煙。
「地蔵の首を、河の中に戻しなさい! 早く!」
 映姫の言葉が終わるより一瞬早く、小町の両腕が地蔵を抱えた。備えていた線香は燃え尽きかけていた。煙が、俄に強まる風に掻き乱れる。
 なかなかに重く、抱えて走るのにそれは少し難儀した。つまりは石であるところの地蔵の首は、しかし、やはり、当然ながらいたって柔和である。河原を掻き乱す骸骨の擾乱もどこ吹く風、嵐が大きくつむじ巻く河原で悠然と、自らを河底より掘り起こせし小町の両腕に抱かれて、仏の笑顔を湛えている。  
 空には閻魔が居た。その形相が、相対的に、鬼に見えた。
 邪魔になって、鎌を、その場に投げ捨てる。
 首を右腕にしかと抱えて小町は、頭から河に飛び込んだ。
 河の水は、冷たくも温かくもなかった。そして水の浮力以外の、えもいわれぬ奇妙な浮遊感があった。清冽というか、やたら遠くを見渡せる。三途の河は明るいんだなとか、水が綺麗なんだとか、そんな場違いなことを考える。
 爪先に捉えた水底を蹴って、余った左腕で水を掻いて、ついでに川幅を水中から操った。
 目指すのはあの深瀬だ。
 あの木篦で、首を刈ってしまったあの瀬へ。
 頭上、光が泳ぐ水面の上から、また咆哮が聞こえる。苦しげな声に水音が混じり、白い泡の柱がいくつも水面から沈み込んできた。白骨の脚が水底をうねる。光の天壌をぶち破って、泡を纏い、太い腕の骨が突き出されてくる。
 藻掻くようなその動き、その骨が掠めてゆく、見窄らしい、川底の祠。
 ――祠。
 縦横無尽に足掻かれる腕の骨、或いは脚の骨、その向こうで、小さな祠が怯えるように佇んでいた。
 腕を伸ばせば抱えられてしまいそうな大きさである。しかもほとんど屋根と壁だけみたいな粗末な作りで、しかし、水の中にあって奇妙に綺麗で、藻屑の一片もなく、建てたばかりみたいにぴかぴかである。ああ、これが三途の河という河なのかと、小町は奇妙に実感する。
 そしてその手前――奇妙に上方へと聳える、楕円形の石があった。
 抱えていた腋の下から、右の掌に、首を移動する。
 待っていたかのように、水の流れが起きた。
 奇妙な水流が、小町の肢体を運ぶ。首の使者が、祠へと招かれる。瞬く間に、地蔵尊の胴体は目の前に来た。
 そのまま右の手一本で……気が咎めたのでお体裁程度ながら左手もちょいと添えて、小町は丁寧に、首を、その上に戻した。
 二つの石が一つに戻る。
 お地蔵様に、なった。
 置いた首をそっと回して、その尊顔を、こちらへお向けする。
 地蔵菩薩がそこで微笑んでいた。
 河底――この世ともあの世とも違う河の水に抱かれて、じつに高貴な祠を背負い、愚昧な死神に笑いかける地蔵菩薩。
 仏の笑みだった。
 何を思ったわけでもない。
 まるで何かがそうさせたように、小町は恭しく手を合わせ、無意識のままに拝礼をした。
 顔を上げ、もう一度地蔵菩薩を見る。
 その、次の刹那。
「――!!」
 猛烈な衝撃が身体を貫いた。
 地蔵は視界から消えた。地蔵が弾き飛ばされた訳ではない。がしゃどくろの、大きく振るわれた右足の骨、鈍器になって数多の白い水泡とともに抉ったのは、地蔵尊ではない。
 その手前にいた、小町自身の脇腹だった。
 水の抵抗も何もなく、軽々と小町は吹き飛ばされた。見事なまでにあっという間に、その場から吹き飛ばされた。
 鉄槌で殴られたみたいな重い衝撃の、次の瞬間には身体が水を突き破っていて、気付けば木の葉みたいに宙を飛んでいて、上も下も水も空気も判らぬまま、飛ばし飛ばされて賽の河原へと小町は身を叩きつけられた。
 痛い。
 どこが痛いとか、そういうことを超えた痛みがある。呑み込んだ河の水を吐き出す。
「……さて」
 ううっと悶えるその頭上で、映姫の、腹が立つくらい凛とした声が聞こえてくる。
 見上げようとした身体の、節々が痛む。痛むが、小町は気を張って無理矢理に背中を起こした。
 上空の閻魔を見遣ろうとして、その前に、反射的に、河のほうへ視線が向く。
 ――苦しげに藻掻く骸の姿を、小町はそこに見た。
 なにやら身体中に冷たい雫が降り注いでくる。おんおんと骸骨の唸り声が聞こえる。騒々しく水を叩く音、がたがたと岩がぶつかり合う音――
 ざばざばと河面には十重二十重の白波が架かり、また飛沫が散った。その背には、曇天鉛色がある。落ちてくる水滴が、川水も混じりながら、実はただの雨であることを小町は知る。
 大雨だった。
 黄泉中有の大粒の雨に、河面がしとしとざわざわと啼いて、そこに、骸の断末魔が重なる。
 その悲痛な声に小町は、思わず映姫を振り向いた。彼女が加えたらしい何かしらの制裁――骨の、ちょうど額の部分に貼り付けられた御札から、強い光が放たれる。
 骸骨は、いよいよ苦しげに暴れた。
 さっきの自分はどうやら、攻撃されたのではなく、藻掻くその足に偶然蹴られたのだと、小町は悟る。
 骸骨が暴れる。
 苦しげに、そして転がるように、河原の方へと吶喊するのが見えた。
 再び、河原へと伸ばされる骸の手、近づいてくる水音。
 小町は、河原をぐるりと見渡す。
 餓鬼は見えず稚児も見えず、ただ巌のような河原の道に、ぽつりぽつりと地蔵菩薩がある。大雨にしとしとりと濡らされて、涙のような水の流れがその頬を伝ってゆく。
 頭上を仰げば、たくさんの幽霊の混乱に囲まれて、雨に打たれながら、尚威風堂々と、裁判長の姿があった。 
 その悔悟の棒が、ぴたりと、骸に向けられる。
「……因果応報」
 また、小さな棘を、小町は胸に感じる。
 こういうことは考えられないか。つまり、輪廻の果てに子を失い、子の輪廻を追った親が居るとする。ただ親子も一期一会とて、儚いその希望を、ただ骸になるまで――
 何故、骸は河に居たか。その身も体内も朽ち果てるまで水に沈み、起きあがった雨中の黄泉路で、夜摩の裁きを受け、今、彼は悶絶している。
 映姫の手から、最期の一撃が離れようとしてる。
 河の中で暴れる、ひとつの骸。ひとつの化生。ひとつの――
 びゅうびゅうと、風が強まってくる。大粒の雨足が、やがてどんどん横殴りになってくる。骸骨が暴れる。飛沫が散る。
 びしょ濡れの小町の髪に、三途の雨が溶け重なってゆく。
「やめて……」
 口から零れた言葉の正体に、小町は自分でも気づけなかった。
 阿呆かと思う。
 得体も知れず、自分を襲ってきたその化け物に、自分は何を夢見たのか。見てしまったのか。
 それが妄想か、直感かなどどうでも良かった。胸の中の小さな棘が、必死で何かを叫んだ気がしたのだ。
 小町は、ひたすら、それに正直になった。
 さっきの河底、お地蔵様の前の拝礼と同じだ。何かが、小町の心に在る何かがそうさせた。
 縋る目で、小町は映姫を仰ぐ。
 映姫は、――最後まで、小町の方を振り向かなかった。
「……散!」
 気合一声、発声と共に映姫の元から、切り裂くような笏の一閃が飛んだ。胡乱な空気を横ざま切り裂いて、その先端が過たず骸の喉笛に突き刺さる。
 小町は息を呑んだ。
「っあ……」
 冷酷な仏罰は、喉元に滞った後――わずか数秒無音の後、光と共に爆散した。
 断末魔が、河の空気を千々に引き裂いて谺した。
 耳を劈く悲鳴、轟音。茫然と見送る小町の向こうで、骸の節々が黒い煙と共に砕け、支えを失った大小の骨が次々に河へ落ちていった。ばきばきと砕け、折れ、破砕されるその肢体に、また虫の死骸や朽ちた卒塔婆が混じる。
 小町は見る。滴り落ちる頽廃を、頽れる白骨を、空洞の眼窩に溜まった河水の、頬骨に流れ落ちる滝を見る。
 虫の死骸が血に見えたなら、腐った果実が肉に見えたなら……では、眼窩の滝は何であったか。
 骸は叫び尽くしたかのように、最後は無言で、骨の音だけを立てながら河の中に昏倒した。
 すさまじい水音が上がる。水が柱になる。
 力尽きたがしゃどくろが、ただの死へと還る音を小町が聴く。
 まあ、それを死というべきなのか、小町には判らなかった。判らないままに、小町はただ徒に、その終焉を見送った。
「……怪我はないですか?」
 茫然と、小町は声のした方を見た。
 いつしか河原に降り立った閻魔様が、しかし言葉の割に小町の方を見る訳でもなく、まっすぐに、崩れゆく骨を見守って立っている。
「あたしは、大丈夫ですが……」
「なら良いです」
 ですが、の先にかかずらわず、やはり視線を合わせぬままに映姫は言った。
「雨が降ってきました。この雨は……そうですね、しばらく止まないでしょう。私は閻魔庁に戻ります」
「――あの、」 
 待ってください。
 おなかに、そう力を込めたつもりだった。その瞬間、岩にぶつけた身体が痛んだ。
 まるで力にならないままに、吐息は掠れ、声は声にならない。
「何ですか」
「…………怒って、ますか」
「別に」
 くるりと踵を返し、それ以上何も言わずに映姫は彼岸の方へと飛び去った。
 突っ慳貪で無愛想で。
 だけど、彼女は、本当に、怒ってはいないように見えた。そんな気がした。
 ひとりになった小町が、雨の落ちてくる空を見上げる。
 雨足はいよいよ強くなり、風も轟々と音を大きくした。嵐に包まれた賽の河原。骸と化した骸。それが横たわる、鉛色の河面。
 精一杯の力を込めて立ち上がり、びしょ濡れの服と身体を引きずって、小町はとぼとぼと、桟橋の方へ歩いた。何も考えられず、何も思うことが出来ないままに歩いた。
 びしょ濡れだった。
 じとりと重い。
 波は変わらず荒々しい。雨はひたすらに降り注ぐ。
 河原に、色んな水の音がしていた。
 全てが祓われるが如くに嵐は吹いて、世界はざんざんと水に洗い尽くされていた。
 小町は、ただ歩く。滴った雫が足元に落ちる。
 川水も雨も少しだけの涙も、顔のどこかでごっちゃになった。
 水に浚われた川底。水が浚った骸、地蔵尊、渡し守の小さな胸。

 彼の右手が、今も――つまりは最期まで、河原に伸ばされていたこと。
  

 





■ 6 ■


「――そこに、神も仏もないのですよ」 

 
 + +


 膝を抱えて眠ってしまうなんて子供じみたことを、今更になって本当にやった。誰に観られたでもないが、何やら気恥ずかしさを感じる。
 ちょっとだけ腫れた瞼を開いて、かーんと晴れ渡った空を瞳に迎え入れる。雨雲は消え、風もすっかり凪いで、ついでに夜もいつしか過ぎ去って、おかしいくらいにいつも通りの眩しい朝がある。
 雨を避けるために前夜入り込んだ桟橋の下から、そっと、小町はよろぼい出てきた。
 ふと、こう、面白いことを考える。仮令、手品みたいに全ては演出かまぼろしで、夢から醒めたら虚構虚実ではいおしまいという、じつに後腐れのない結末。或いは、たとえば彼自身が、小町に想像も付かない形で自ら決着をつけていること。
 小町からすれば、その方がずっとよかった。無力な自分がどうせなにも出来ないのなら、いっそ幻術か何かであった方が救われると思った。 
 河原を見る。
 結局は、当然の現実が当然のように、逃げも隠れもしてくれず、そこにある。
 何が変わることもない。もちろん流されるでもなくて、実に昨日のあの姿がそのままで、彼はそこに横たわっていた。昨日と少し違うのは空が明るくて河面が穏やかで、大きな太陽が空にあること。そしてその下で、彼がもう――暴れないモノに、変わっているということ。
 言い換えれば、河の景色にちょっとおまけがついた、いたっていつもの朝でしかない。しかしそのおまけが、小町に、まことに胸の空かない日和をもたらしてくる。
 小町は腰を上げて、桟橋の上へ架けた梯子を昇った。昨日は随分したたかに身体を打ち付けたはずだが、今はもう痛みを感じない。すっかり治ってしまったらしい怪我は、あまりにあっさりと治りすぎており、却って不気味でもある。眠っている内に誰か医者が治療でもしてくれたのだろうか。そんな者に心当たりはないけれど。
 舫いを解いて、舟を出す。
 昨日の木篦は元々映姫から預かったもので、事が終わったら映姫が持ち帰っていった。だから、今日の櫂は備え付けにしている、手に馴染んだいつもの舟の櫂だった。いつも通りはまことに清々しい。手が進む。
 いつも通りのその成りで、小町は昨日の残骸へ近寄っていった。
 くいくいと小気味よく漕ぎ回して、ほどなく、彼の手元へと辿り着く。
「……よう。昨日は乱暴して、悪かったね?」
 小町は、耳元で話しかけてみた。
 声が返ってくる筈もない。
 骸は行き倒れみたいな格好で、河の中にどさりと横たわっていた。随所に骨や関節が欠けたり、折れて無くなってしまったりして、見窄らしく痛々しい骸骨になってしまっている。小さな骨片は流されてしまい、静かな河面の上に彼の大きな躯だけが鎮座していて、山渓画に描き込まれた巌か何かみたく、河の光景にあって不思議とそれは居着いてしまっている。昨日、確かに「これ」が動いて自分に牙を剥いてきた、そのことが信じられないくらいに、それはもう、死としての匂いだけしか発していなかった。
 その右手は――やはり、まっすぐ賽の河原に伸びている。ここにだけ、彼が生きた証を見て取れるような気がする。
「……さて、と」
 櫂を放り出して、その代わりに小町は、持ち込んできた鎌を携えた。
 昨夜のこと。
 昨夜は、実に長い夜だった。もうずっと朝陽が昇らないかもしれないと思うくらい長かった。曙、明け滞み、いつまで経っても昇らぬ朝陽が恨めしかった。
 しかし、夜が長かったから却って、のろのろ足だったけれど、ぼうっとながら考えることができた。何をすべきかとか、何をすべきでないとかでない。ただ純粋に、自分の感じたままに行動してみようと――結局は、ひどく単純な想いに行き当たった。
 それが過ちであっても、それが彼を救うなら――
 さて、義理があるかと言われれば何もない。格好良い偽善と言われれば返す言葉もない。それでも、泥濘のようにむず痒く蟠る疑念だとか悔しさだとか、ひたすら、何かをしてあげられないかという希望――それが浅薄な考えであったとしても、今ひととき、自分の理性に直情径行な行いをしてみたくなった。それだけだ。
 それが夕べ、泣き腫らした心で紡ぎ出した、小町なりの結論だった。
 鎌を、水面越しの彼の腕に宛がう。
 腕に力を込めて、小町はそれを、引き斬りにかかった。
 途端、舟が大きく傾いで、あわや、転覆しそうになる。骨は存外に丈夫だった。浮いているだけの舟では、いかにも力を入れづらい。
 空が高らかに青い。粘りけのある残暑が、額に汗となって滲んでいる。真っ盛りを照りつけてくるお天道様。こんな暑いならちょうどいいやとか、酷く不謹慎な考えが頭に浮かんだ。慌てて理性で振り払う。
 意を決し――
 小町は、ざぶんと河の中へ飛び込んだ。水の深さは胸ほどまでにあり、小町は手に握った鎌を掲げ上げた。諸手で握ったそれは、腕を頭上に伸ばして構える格好となる。
 ばしゃばしゃと水飛沫を立てながら、小町は骸の手に近寄って、鎌を振るう。
 改めると、これは、解体ではない。壊すと雖も、尊い想いを込めてこの行いを果たそうとしているのだ。事は優しくせねばならない。
 慎重に鎌を入れる。これ以上無駄に身体を傷つけてしまわぬよう、華奢な花でも摘み取るような慎重さでもって、そっと手首、橈骨のあたりにかつん、かつんと――
「……みだりに三途の河に飛び込むのは、あまり感心しないことですね」
 背筋が凍った。
 びしょ濡れになった自分の服や前髪を一度ちょっと気にして、それからそぉっと、後ろを振り向く。
「ああ――あの、これは」
「まあ、どうせそんなことだろうとは思ってましたけどね」
 冷ややかな視線が痛い。
 ふわふわと空を飛んできた上司様は、今しがたまで小町が乗っていた舟に呆れ顔で着陸した。
「あー……申し訳もありません」
「謝るくらいなら最初からそんなことしないでください」
 ふん、と鼻を鳴らされる。
 小町は慌てた。
「あ……いや、これは私が決めたことなので、謝りますが、やり通させて頂きますよ」
「ほう」
「ええ、そうです。いや、律に背くってのは判ってるんですが――それでも、彼に何かをしてやりたくて、それで、河の真ん中にさらしとくのは何か切ないなーって、それで」
 少々――少々以上にしどろもどろな長広舌を、映姫はじっと、瞑目して聞いていた。小町の言葉が一段落をつけ、それを待っていたように二度三度と頷いてから、ふと目を薄く開き、
「――それで、貴方一人で何が出来るというのですか」
 その一言で、小町を射竦めた。
「え……えっと……」
「結局、私に力を仰ぐ気だったのでしょう? そうしないとなにも出来ないくせに、偉そうなことを言うもんじゃありません」
 図星。
 完膚は残らなかった。
 重く、溜息がこぼれ落ちる。
 すべては、映姫の言うとおりである。何だかんだ言って、何もしてやれることがない小町だった。
 深いことは考えないようにしていた。私が救うとか、彼をお守りしますとか、そんな大それた誓い立てをした訳ではない。ただ何かをしてやらないと、自分の虫が治まりそうになかったという衝動。だからこうして服を濡らしてまで骨を拾おうとしたし、それが死者へのせめてもの礼儀でございますなんて勝手なことを思ったし、何より――それで何かが報われると、その「何か」が分からぬままに、根拠もなくそう思っていた。このお骨だけでも拾いましょうと、そしてそれはそんなに場違いな考えでもありますまいと、行き当たりばったりで自分を納得させた。そしてその上でちょっとだけ――四季映姫ヤマザナドゥ様に相談したらなんとかしてくれるかもしれないとか、ちょっとも考えていなかったとか言ったら嘘になる。
 他力本願。
 それ以前に、結局、誰でもない、自分のための気休めだったのかということ。
 御仏だの救済だのは都合の良い方便で、畢竟他ならぬ自分の勝手な同情心を報うために、こんな真似をしていたのかもしれないということ。
 そんなことに、今更向き合わされる。
 違う、と言いたかった。映姫の言葉に反駁する術、或いは自分の心を形容出来る小綺麗な言葉を、必死で見繕った。
 何も浮かんでこない。くる筈もなかった。
 自分に嘘をつくまいとこんな行動に出てみたら、自分に嘘をつくための言葉を探している自分が見つかった。
 自分がいよいよ、荒唐無稽で莫迦で、間抜けで無力に見えた。
「……おばかもの、ですね」
 今度こそ呆れたような口調で映姫が呟く。気持ちがしゅんとなったが、それでも、言葉のきつさの割に、不思議なほど険は感じられない。
 少しだけ、小町は顔を上げた。
「なんともはや――報われない事よ」
 途端。
 ざぶりと音がして、水面が大きく揺れた。
 びくりと小町は振り返り、舟の上から飛び込んできたその人影に仰天して、思わずまじまじと不躾に見つめてしまう。むっとしたようなふくれっ面で、映姫が見返してくる。
「……まあ、一つの仕事として、ですね」
 河はなかなか深い。小町の上背でさえ水嵩が胸までほどもあったから――まさか溺れる道理もあるまいが、何やら心配になるのは、肩まで水に浸かってしまった小柄な上司様の安全である。
「……ご心配なく」
 見透かしたようにそう言う映姫。
「……すみません」
 思わず小町は縮こまった。
「別に、貴方を助けたくてやってる訳ではありませんから」
 さあっと潮が寄せてくるように小町は感激して、それから、何とも不思議な感覚に駆られた。四季様がこんなことをよもや、と思った。不自然な肩入れ、奇妙な協力。
 なぜそこまでして下さるのか。
 おどおどとする小町を横目に、映姫は水音を立てて、そろそろと骸の近くへ歩み寄った。そして彼の全身をひととおり見回してから、水中に没している骸の右腕あたりに乗っかった。
 刹那。
「失礼」
 ごとり。
 鈍い音を立てて、骸の右の掌だけが、その腕の元から切り離れた。
 どんな術を用いたのかはともかくとして、水面から突き出ていたその骨、小町が難儀していたその太い骨が、唐突に支えを失って水中に落ちた。盛大に水飛沫が上がり、そのまま河の中へ没してゆく。
 映姫の頭がぼちゃんと水中に沈んだ。
 慌てて手を差し伸べようとした小町、しかしその先にもう映姫は居らず――そうこうしている間、立ち往生していたほんの数秒の後には、その骨を手にしたびしょ濡れの映姫が、水面からぷはっと顔を出してきた。
 胸に白骨を抱いている。
 大きな骨だった。
 小町を驚嘆せしめ、苦しめた巨大ながしゃどくろ――手の一つだけでも抱きかかえるほどある大きな骨を、映姫は羽根でも掴むように軽々と捧げ持っている。
「まあ、全身のお骨は無理ですから――せめてこれだけでもね」
 小町の方を顧みることもなく、独り言のようにそう言って上司様は背を向けた。
 実にきびきびとしている。
 これなんだよな、と小町は切なくなった。
 なにも出来ない自分と、なんでも出来そうな閻魔様の差がここにある。思うだけだった自分と、実行力を伴った映姫との違いをそこに見つける。
 ご立派な上司様の、自分より小柄な上司様のその背中が、掴みようもないくらい大きく見えた。
 悔しい。そう思ってはいけないのだが、悔しい。
 しかし、悔しいが、ここで立ち止まる余地は無い。思っていてはいけない、何故なら救うべき人は彼であって、自分ではないからだ。彼を巻き込んだこの喧噪、辿り着いたここに、自分の小さな後悔だの自責だのなんかが挟まっていてはいけないのだ
 小町は思う、自分で何も出来ないのであれば、せめて映姫に随いて行かねばならない。不幸なる彼、三途の河底で眠り何かの衝撃で暴れ、昨日閻魔様に再び鎮められてしまったあの不遇の魂の行く末――他ならぬひとつの命に対して自分が掛けた情、その行く末を、せめて見届けなければいけない。
 死神たる自分ではどうしても救えない魂があった。でもたとえ自分に救う力が無いとしても、救いたいと思ったその気持ちまでを壊してしまいたくはない。壊してしまってはいけないと、小町は強く思った。これに限れば尊大でも他力本願でもない、自分が彼に差し伸べようとした手の、その正しさや清(さや)かさまでを、自分で疑ってしまいたくなかった。
 何も出来ないなら、せめてその情にけりをつける。小間切れの痛みが重なり合って形になった、千切り絵みたいなこの思いを、無くさないよう必ず持ってゆくと。この河の先に答えがあり、それが自分への禊ぎになるべしと。
 縁、運命の果て。
「何してるんですか。行きますよ」
 閻魔様が振り返ってくる。


 + +

 
 上司と部下、ふたり並んで立ったそこで、
「――本当に、ここで良いのですか」
「はい」
 小町は、迷うことなく頷いた。
 彼が伸ばした手の先。惨めな骸になって尚、その手が触れようとした尊びの場所。
 賽の河原。
 その端に立って、映姫と小町はふたりで大事に、大きな骨を置いた。
「……四季様」
「何ですか」
「この骨に宿る魂……いやまあ、どうでも良いんですが……」
「言ってみなさい」
「いや、その……」
 風がひとひら。
「――このお骨はお父さんなのか、それとも、お母さんなのかな、って」 
 訊いてしまってから後悔が滲んでくる。それは興味本位でしかなかった、それ以上でも以下でもない目的だ。そも学術としても、掌の骨だけから性別を割り出すなんて芸当が出来るのかどうか、小町は知らない。
 たとい男だったからといってどうということもない。女だったからといって何か思うわけでもない。結句、それがどちらの親でも構わない。
 強いて意味を挙げるなら、これから弔うこの骸、この見知らぬ哀れな誰かについて、自分の想像の中で情にまみれたどうしようもない像を結ぶ時に、
「……男性ですよ」
 はっきりとした輪郭が欲しかったという、実に大人げない性だった。   
「ありがとうございます」
 小町は礼を言い、手に持った線香に火をつけた。
 映姫は、骨の四隅に置いた蝋燭に炎を灯す。
 手を合わせる。
 手を合わせる。
「…………良いお父さんだったんですかね」
「…………判りません。三途の河底に沈んでいるということは、輪廻の輪から外れたということ。少なくとも仏法上では、何か特別な罪過を犯したと考えられますが」
 すっと、息を吸い、それを溜息にして。
「……今は、ひとまずどうでもいい、ということにしておきませんか」
 鬼の上司様は、意外にも、笑ってくれた。
 理由もなく、胸がきゅっとなった。
 映姫が、笏を、骨に向かって突き付ける。たちまち笏が光り出す。細かい泡のように、繊細な光の紙縒が放たれてくる。それは踊るように骨片へと移り、五指の末端までを綿のように包み込んで、大きな手の形の光になった。
 その表面に、ぷくりと一球の泡が立つ。
 それは丸いままの形を保って、ふわりと骨から浮かび上がった。河の上に幽霊達が集まってくる。自分たちと同じ形をしたそれ、夜摩天の御前にひょいと生まれ出たその幽霊に、好奇の視線を投げかけてくる。
 浮かび上がった白い珠は、二度三度小さく震えた後、映姫の手元へ身を寄せてきた。
 がしゃどくろになって、河の渡し守に牙を剥き、空洞の眼窩に涙を浮かべ、挙げ句の果てに引き斃されながら尚、その手の先に透け観た何か――
 この漂う白い珠が、即ちは、今の彼なのだ。彼の魂は、大きな骸に代えて、今、ここで大きな宙を漂う自由を取り戻した。
 自由。
 それが本当に救いになるのか、小町には判らない。
 氷結された彼の時計が今もういちど動き始めて、しかしながらそれが彼を歓ばせているかどうか小町には分からない。分かるはずがなかった、何故ならこれは小町の独善で起こした行動で、彼自身は、その小町の我が侭に巻き込まれただけでしかない。
 映姫なら、それも縁と云ってしまうのだろうか。
 そして――つまり、恐らくは仏法に反するのではないかというこの作業にその映姫が何ゆえ左袒してくれているのか、それが小町の抱く違和感の理由でもある。
 賽の河原で、何はともあれ、彼はもういちど、今、閻魔の手で魂になった。
「あなたは」
 映姫が口を開く。
「あなたは――あなたが、何を理由として見窄らしい三途の屑に堕していたのかは存じ上げません。私が今、輪廻の闇に封じられたあなたの魂を、ここに掬いました」
 なんだか仰々しい映姫の口上を、小町は右から左に聞き流している。お経みたいなそれを脳裏からどかした、その思考回路の余白で、ふと、彼が今どう思っているだろうと、今一度考えてみる。
 悲か喜か。驚いているか。さもなくば絶望しているか。
 三途の河に沈められた運命が――これもまた運命と称されるのか――今賽の河原で静かに反魂する、これを小町は、複雑な思いで見る。
「地蔵菩薩様に賜った縁に、深い感謝をなさい」
 恭しく、映姫が宣っている。
「これより、あなたを浄玻璃の裁きに命じます。輪廻の定めを、しかと受け止めますよう」
「……」
 ふうん、と小町はひとり頷く。どうやら裁判長様は、この彼を、死者と同じように裁判にかけるらしい。
 彼はその瞬間、動かなかった。敢えて推察するなら恐らく、彼は粛然としてその旨を受けたように見えた。喜びでも悲しみでもなく、深い畏怖を持って、目の前の裁判長どのを仰いだと思う。映姫がまた何事か宣い、幽霊が何か訴え出るように身を捩らせ、それに映姫が鷹揚に頷いている。
 小町は、映姫の後ろでお辞儀をした。
 ありがとう。
 そう、口の動きだけで一人ごちた。
 彼を本当に救えたかは判らない。判らないが、冷たく河底へ閉ざされていた彼の魂が、今再び、閻魔の掌中に戻る――彼が幽霊の形を取り、宙を飛ぶ珠の姿になって、小町の胸の痛みは陽炎みたいに消えた。この一連の事件が立て起こした波紋、その片翼については、漸くけりがついた。
 片方が潰れた波紋は、しかし同時に、留まらなかったもう一方について広がり続ける。換言すれば、小町自身にとって自らの慰みは第一義でない。
  
「よろしい。では早速、閻魔庁の方へ赴いて頂きます。ただ、」
 ぼんやりと聞いていた映姫の御説法が、ふと、途切れた。
「その前に――」
 小町は、顔を上げる。
 そこに、刹那。
 映姫と向かい合っていた彼の魂――その背後に、光が湧上がった。
 彼の幽霊とはまた違う、まったく別の光源が、賽の河原に現出する。からからと、人も居ないのに河原の石を踏み鳴らす音。居ないのに。
 いや、見えないのに。
 小町は驚き、慌てて、光の中にじっと目を凝らしてみる。
 賽の河原に、水のように溢れてくる光。
 映姫の、荘厳な声がする。

「裁きは御仏の法に依ります。一切の情は受けません。
 ですので、今、言い換えましょう――情けは、これを以て、最初で最後になりますからそのつもりで」

 光が、一際強くなる。
 時間がなんだかゆっくりになってゆく。
 その光は、紙風船みたいに膨張したあと――次第に小さく収斂してゆき、やがて。

 頭が出来る。胴体が出来る。手足が生えるように形作られる。
 光が、一つの、小さな人影の姿へ変わってゆく。
 表情も何もない、ただ光の輪郭だけだけど、それは、確かに、稚い人影であり、
 それがゆっくりと、ゆっくりと、その形を、為していって。
 
 ――……







■ Epilogue ■


「……さて、答えが出ないようですから、教えて差し上げましょう」
 沈黙に耐えかねたように、映姫が口を開いた。
 件の問いから、少し沈黙が長くなってしまっていた。
 夏の終わりの風が、涼味を帯びて、ひやひやと頬を撫でてゆくところ。
 小町は首を横に振る。
「あ、いや……」
「なんですか?」
「これが答えじゃないかな、ってのは、一応」
 実は、出ている。
「言ってみなさい」
 映姫に促されて、小町は曖昧に頷いた。
 正直に言えば答えに自信がない。よもや過たず正答を言わねばならぬというわけでもあるまいが、より正しく言えば、映姫に向かって自説をひけらかすことそのものが、小町には今ひとつ恐ろしい。あっさり否定されるのが怖くもあり、下手なこと言って怒られたりやしないかと怖じ気づいているのもある。
 返事しておいてなおそんな具合に逡巡してから、小町は結局、重く、口を開いた。

「――説破。水にとって一番残酷なのは、霧のまま、水のまま――氷のまま、で、在り続けることではないでしょうか」

「……」
 風が凪ぐ。穏やかな河の流れ。ひとつ、映姫が首を縦に振る。
 周囲に訪れた柔らかい沈黙が、映姫の無言の返事が、小町に対する答えを告げていた。
 ほう、と、妙な安堵が唇から漏れる。
 並んで座った映姫と小町は、今、先ほどの御骨拾いの結果で、ともにびしょ濡れのままだった。平素から大雑把な性格の自分はともかく、いつも丁寧で厳しい上司様が、ぐっしょりと濡れそぼっているままを見て――妙に背徳的なような、どこか堪えきれず可笑しい気分になる。 
「まあ、今更あなたにこんなことを説いても仕方ないですが――命の輪廻は水の流転に似ています。生があり、死がある。人として生きる道があり、修羅の道、地獄、天人がある。色々状態があります。水と同じですね」
「はぁ」
「命にとって残酷なこととは――輪廻、運命、縁、その他諸々からすべて外れ、何もかもが停まり留められることです。もっといえば、尚残酷なことに――人は往々にして、哀しくも過ちを犯すということが」
 映姫の言葉は、砂を噛むような響きがあった。ただそれは厭世じみた拗ねた物言いではなく、何かもっと深い――むしろ言葉面に対して逆説的な意味合いを含んだ、ある種の優しさのように小町には感ぜられている。
 閻魔庁の前、つまり彼岸側の賽の河原は、心なしか、顕界側の岸よりいっそう涼しげに感じた。庁舎の前ということで、空気が尖っているせいか。そうして思えば、こちらの河原でのんびり座るのは小町にとっても久しぶりだった。日々の仕事を倦怠するにも、映姫の目が届いてきそうな彼岸側の河原はいつも避けていたからだ。
 桟橋には、小町の舟が接岸してある。鎌もそこに投げ捨ててあった。
 今小町は、彼らを閻魔庁へと送り届けてきたところであった。その帰り際を、映姫に引き留められた。
「あの地蔵は――あなたが頭の部分だけを刈ってしまったあの地蔵は、そういった魂を河底で鎮守するものなのです。生きることも死ぬことも許されず、悲嘆や怨嗟や未練や暗鬱や、そういった爆ぜそうになる魂の感情を鎮める。それがあの地蔵の役目」
「ああ……じゃあ、やっぱりあれは、」
 屑じゃなかったんですか。
「もちろん屑とは違いますよ。さっきも言ったでしょう、あんなものが篦に引っかかるはずは本来ありませんから」
 呆れたような口調で、映姫はそう言った。
 ――ならば。
 ならば、やはり、あれは奇跡と称すのが正しいのだろうか。
 小町は思う、自分が振るった木篦が本来宛がわれる筈のない地蔵の首を薙いでしまい、鎮め込まれていた古の霊魂がひょっこり起きあがってきた。いや小町からすればひょっこりだったが、彼本人には何年……という尺度さえ及びもつかない、遠い時間を経ての解放であったに違いない。
 先ほど、映姫は、彼の想いの強さがそうさせたのかもしれないと言った。小町にはそれが、冗談とも本気とも判断つかなかった。
 本気であったら、どんなに幸せだろうか――とは、望んだけれど。
「ねえ小町。どうして、あなたは彼を救おうと思ったの?」
 いつにない、肩肘を張らない口調で映姫が訊いてきた。少し戸惑う。友達にでも話しかけるような気軽さで――少なくとも小町にはそう見えた――映姫は、横で笑顔なんてものさえを浮かべて、小町の方を見てきている。
「なんか気味悪いですね」
「失礼な……別に、重い意味はないということです。どうして、彼にあんなに情を移したのか、単純に訊きたいだけ。あなたに手を出しさえしたあの骸骨妖怪に、どうしてそこまであなたが肩入れしたのか、純粋に興味がある」   
 映姫はそう言って、膝を抱えていた両手をほどき、小町の肩をぽんぽんと叩いてきた。
「はあ……実は、自分でもよく分からないんですよ」
 たどたどしく、小町はそう答えを述べた。
「いちいち同情してたらキリがない事も判ってます。河に沈んでたなんて、せいぜい渡し賃を渋って河に突き落とされたか、地獄にも行けないような何かひどいことをしたか――まあ、ロクな奴じゃないとは思ったんです。ただ――」
 小町はそこで、また言葉を切る。映姫が身を乗り出してくる。
「ただ、何ですか? 私が聞きたいのは、そこから先なのですが」
「分かりません。あたしが知りたいのも、実はそこから先だったりするんですよ」
 小町がそう答えると、映姫は薄い溜息をついた。そして、
「そうですか」
 ぽつりと言った。
 沈黙が訪れる。
「質問を変えましょう。小町、」
「なんでしょう」
「命を運ぶ作業は、きついですか」
「ま……正直言って、つらいと思うことはありますね」
 これも率直に、小町は答える。
 答えるその背中が、むず痒く感じる。
 映姫は、笑顔でひとつ頷いて見せた。
「輪廻とか氷とか河の底とか、そんなこと人間は誰も知らない。人間からしたら、死んだというそれ以上の事実にはならないですから。知っているのは私達だけです」
「……」
「何も知らないのに、何も知らないから、未練を生んで、お地蔵様に手を合わせて、」
 つくつくつく、と、法師蝉が唄い始める。
「――罪をかさねる」
 噛み締めるような声。
「まったく……どうしてでしょうね、死んだ者は還らないというのに、いつまでも未練を辿って哀しんで――あまつさえ、その人と何の関係もないのに、自分を殴ってきた骸骨姿のおばけに同情して助けを乞うようなお人好しの死神まで居る始末」
「……」
「世も末です」
 くすくすと、映姫は笑いを零した。これがなんともかわいらしい、女の子みたいな笑いだった。別に他意はない、それはつまり、間違っても――自分への嘲りではなくて安心したという、小町の感覚である。
「申し訳も、ありません」
 小町は、自分が出来るいちばん丁寧なお辞儀で、映姫に頭を下げた。
「結局は、私のわがままです。どうでもいいことでした。関係ないことに首を突っ込んだんです。この罰は、自分にできることなら、なんでも」
「そうですか」
 特に何の感情を込めるでもなく、映姫は淡々と頷いてみせる。そして、
「では、これを」 
 しずしずと小町が顔を上げたらば、そこに映姫から木篦が差し出されていた。促され、それを手に受け取る。寄越されたそれは昨日川浚えをした、何だかよく分からない術符が貼ってあって河底の屑を集めていた、あの不思議な篦である。
「掻いてみなさい」
 静かな口調で映姫が継ぐ。その顔は河を向いて坐ったまま首だけで小町の方を向いていて、膝の前で繋いだ手から指だけ立てて目の前にある河の流れを指し示している。小町は頷いて、河原を歩き河面に近寄った。顕界側よりも数段歩きやすい河原の石の感触が、草鞋越しに新鮮だった。
 訳も判らず映姫に言われるがまま、小町は三途の河面へ篦を突き立てた。しゃぷん、と低い水柱、小さな雫、散って、篦の先が空色の水に吸い込まれてゆく。
 かつん、と、小さな衝撃が小町の手に届いた。
「え……」
 少し訝しむ。小さくて堅いものを捉えたであろうその感触は、まだ小町が忘れ得ぬ手応えだ。確かめるようにくいくいと掻き回したらば、しかし今度はかつんかつんという衝撃がごつごつ、と、もっと重く複雑な衝撃になってきた。
 地蔵の首でなく、何かもっと他のものが、ずいぶんたくさんの数、篦に当たっている。
 手首を返しながら匙の要領で、小町はそれを水の中から掬い上げる。
「っうわ――」
 声にならない声の先に、髑髏がこちらを覗き込んでいた。小町は驚き、篦を手にしたまま思わず蹈鞴を踏み、後ずさりをする。映姫が静かに、坐っていた河原から腰を上げる。
「もう一度。」
 映姫の言葉が聞こえない。
「もう一度、やってみなさい」
「――」
 無言で、小町はもう一度同じ動きを繰り返す。同じ結果が水から揚がってきた。今度は三ついっぺんにだ。言葉を失って、小町はからっぽの頭で、もう一度水面を掻く。今度も三つ、骸骨が引き揚げられてきた。
 どれも皆無表情で、薄汚れたようなしゃれこうべで、仄暗い目鼻の孔が苦悶しているように見える。薄く黒ずんだ歯や頬骨がまるで痩け落ちているように見えて、小町の背筋をそわりと粟立たせる。
 骨が怖いのではなかった。三途の河より次々と引き揚がってくるその骨が、つまりは元々、泣き笑いしていたひとつの命、
 ……そこまで考えて、もう怖くなって、小町は茫然として映姫を顧みた。
 焦点の定まらない視界の中で、映姫が頷いているのだけ、辛うじて見えた。
「まあ、深くは言いません――ただ、あまり同情をかけすぎては身が持ちませんよ」
 そんな言い方を映姫はした。
 この世に蔓延る未練の数を数えてみたいと思った昨日のことが脳裏に蘇る。
 怖かった。
 骨を浚い揚げて、ひとつふたつと未練を指折り数えれば、そのたび指が引き千切られるのではと思った。輪廻さえ救いであるという、地獄でさえ報われるという凄絶な悲哀を知る。つまりは小町自身の、映姫に「待ってくれ」と呟いたあの同情の浅薄さ。その罪深い虚無感。
 行き場を失った幽霊が、上空に滞っている。時の刻みを奪われた魂が、氷のように冷たい河底で、骸骨になって永遠に近い時間を眠る。
 この世でもあの世でもない世界なのだ。
 ふるふると視界が水に滲んできて、小町はきゅっと、強くまばたきをした。
 哀しくてでもない。悔しくてでもなく、怒りでもなく、唯自分の情けなさだけで涙が零れそうになった。未だ幻影を映していた自分――霧めいた優しさ、それは所詮泡沫であるというのに、童女みたく、いつまでも夢だけを見て性善説を嘗めている死神の端くれ。
「――あの魂には、これからまた苦しみが待っているかもしれません。仮に責め苦を受けるとして、それが彼にとって、河底より居心地が良いと保証することも出来ません」
「……」
「何も思わず、何も苦しまず眠り続けているのが良いか――八熱八寒の只中で、それでも苦しみを味わいながら、希望を探して輪廻の道を辿れるか――」
「……すみませんでした……」
「あなたが……まあ判ってるのでしょうけれど、あなたが謝ってどうこうなるものでもないでしょう」
 突き放すように映姫は言って、茫洋と立ちすくんでいた小町の手から篦を取り返した。
「人を想う、それがゆえに人は罪を犯す。犯した罪は雪がねばならない。――――そこに、神も仏もないのですよ」
 映姫は踵を返し、凛然と閻魔庁の方へ歩き始めた。ひとり取り残された河原の上で、小町は小さくなってゆく閻魔の背中を振り返った。
「あたしを、叱ってくれないんですか」
 小さくなりきってしまう前に、小町は声を張った。
 映姫は足を止め、こちらを振り返る。
「あなたを叱る権利など、私にはありませんから」
 その顔は笑顔だった。
 相変わらず乾かない、びしょ濡れのままの格好で、映姫は笑っていた。
「私は化生に情けなんてかけませんが……でもあなただけの力では、今の結果は有り得ませんでした。何故ならあなたは無力で――私がいなければ、あの彼は今、閻魔の部屋で座ってはいなかったでしょう」
 濡れた衣服が心地悪そうに微か身を捩りながら、
「――情けという言葉は、仏心と置き換えられる。つまりはそういうことですよ」
 妙に恥ずかしそうに、そう言った。
「閻魔様の、優しさですか」
「昨日は地蔵盆でしたからね」
 その答えに、小町は気になっていたことを、最後に一つ、訊いてみることにする。
「そういえば四季様、昨日は丸一日、どこへお出かけだったので?」
「幻想郷中のお地蔵様を磨きに行っていました」
「…………はあ?」
 なんだそれは、と小町は思う。尤も、一方で、この閻魔様は案外やりかねないなとも思うのだった。人も通らぬ山道で苔生したお地蔵様の足元に両膝をつき、水に濡らした布か何かで丁寧にお地蔵様の尊顔を吹いている。そんな映姫の笑顔が想像される。
「それは……お疲れ様でした」
「お地蔵様にお祈りする人にはいつか報いがあるのですよ……っと」 
 どこか冗談めかした軽い口調でそう言って、映姫は今度こそ帰り道を歩き始めた。そのからかうような口調が多少引っかかったが、それ以上のことを訊く勇気は小町に無かった。小町は結局ひとり河原に取り残された。映姫同様のびしょ濡れた服を持て余している。ずっしり重い腰帯が気持ち悪い。風が吹いてくると、そのたび薄い布地越しに、肌がひんやりとする。
 映姫が河原を戻り、土手の階段を登り始めてだんだんと小さくなってゆく、その後ろ姿を小町は、見えなくなるまで見送っていた。
 怒鳴られることも、引っぱたかれることもなかった。だけど、想像していたより何倍も怒られてしまった。
 傍らに係留していた舟に乗り、櫂をとる。
 最後に小町がもう一度振り返ったのと、土手の陰へ閻魔様の背中が消えるのは同時だった。禊ぎの水に濡れた背中は、世界で一番格好良い背中に見えた。
 人の心を扱う職務は人の心を失っては勤まらないと、そんなことを言えば詭弁か何かのように思えてしまう。でももし、閻魔様がそれで良いと言って下さるなら自分は喜んで、そりゃあもう歓んで、この心を大切に持っていたいと思う。
 舟を漕ぎ始めると、彼岸はあっという間に遠くになっていった。まあ、また明日には見る光景だ。次からまた大勢の死せる魂を乗せて往復するであろう航路を、小町は戻る。
 彼岸が遠のく。法師蝉の声が、だんだんと離れてゆく。
 やがて死ぬけしきも見えず蝉の声、とて。

 河靄の向こうに彼岸の光景が消える頃、小町は、送り届けてきたあの魂達の事を想った。
 菩提の幸せを小さく祈る。
 
 
 
 




■ 7 ■


 君が言葉を喋れたら良かったのにと思う。君に身体があって、この子をぎゅっと抱きしめられたならと思う。君に、この子へ笑いかけられる表情があったならと思う。


『その方達は、死者です。あなたの舟で、是非曲直の場へ、過たず送り届けてあげて下さいね』
 映姫はそう言い残したら、ふわふわと宙を飛んで自分だけ彼岸の方へ帰ってしまった。
 取り残されたのは、小町と、舟と、河原に置かれている沢山のお地蔵様と――大小二つの魂。
 一つは、珠の形のまま、もう一つは、子供くらいの身丈の人影になった。小町は珠を先導し、また、子供の方の手を引いている。
 河の骨はいつしか消えていた。同じように、映姫が切断し河原へ持ってきた右手の骨も、いつの間にか河原に横たえたそこに無かった。いつも通り静かな河原の上で、在るのは小町と、小町がいつも通りに渡し守としての任を仰せつかった二人の魂だけになった。
「……さあ。どうぞこちらへ」
 何かを話そうと思ったが、彼には言葉を喋ることもできないから小町はやめた。伝えたいことはたくさんあるが、それを呑み込んだ。
 小町は二人を舟へと案内する。その二歩後ろから、何事もなく二つの霊がついてきた。
 賽の河原は、やはり歩きにくかった。色んな石が歩み足の邪魔をする。舟までの距離は、近いようで遠く遠くて近い。誰かにとっての短い道、あっという間に着く筈の距離が、他の誰かにずいぶん長かったりするかもしれない。夏は暑く、冬は凍り道でどちらも倒れそうになるだろう。そのうちに黒髪にさえ霜が降る。そんなこともあるだろう。
 二つの霊のうち人型を保った子供の方の霊は、どうやら河原を顧みているようであった。この子もまた河の中の彼同様、苛烈な責め苦を長く永く受け続けていたのだと想像する。立ち並ぶ地蔵の一つひとつに、いちいち気を取られているようであった。そういえば地蔵様は不思議だ、動く訳でも話す訳でもなくそこにいるだけなのに、やがては苦しむ衆生をお救いしてくれるという。地蔵菩薩の加護を受け、やがて賽の河原の子供にも光が射す日が来るという。
 それがゆえ、地蔵菩薩はつまり閻魔である、といわれる。
 地蔵閻魔とそういえば、四季様はどこへ、何をしに出掛けておられたのか。昨日は地蔵盆だった。河の異変を察知して駆けつけて下さったのは良いが、ああいったことがあるならもう少し、事前に言っておいて下さっても良かったのだが。まあ、それは我が侭か。
 小町には分からないことばかりだ。
 三途の河は不思議で、彼がどうして河に眠る羽目になったのか。考えれば、得体の知れない相手によくあんな情をかけたものだ。つまりはあの、映姫の行動を止めようとした自分の言動の意味さえ分からない。ただ何も知れずとも、巡り会う誰かの痛みがときどき、妙に自分の胸へ刺さる。困ったものだ、それで映姫を巻き込んであんな騒動を起こし、挙げ句、今彼を反魂してもらった。もらってしまった。
 そういえばお地蔵様の首も弾き飛ばしてしまったのだ。
 大きな罰でも覚悟しよう。 
「…………ん?」 
 ふと気付くと、横に霊が居なくなっていた。
 小町は慌ててあたりを探し、子供の形と珠の形、二つの霊が今来た道の途中で立ち止まっているのをほどなく見つけた。
 少し安心して、同時に、何をしているんだろうと戻ってみる。
 ――そこには、地蔵がひとつあった。
「ん……特別にお世話になったおじぞうさま、とかか?」
 小町が問うと、子供が首を横に振る。珠の方が、よく見ろと言うように地蔵の上をくるくると旋回する。
 言われるがままに、さて小町がそれを見たらば――
 地蔵の首は、少しずれていた。
 他のどんなお地蔵様も身体の中央に載っかっている首の部分の石が、このお地蔵さまだけ少し左に傾いている。よく見れば目線もずれていて、まっすぐ前を向いていない。
 まるで。
 まるで、一度首の部分だけが落ちて――誰かがそれを、手荒に直したようではないか。
 小町は思わず、襟を直して姿勢を正した。
 霊達は、何かを訴えるように小町の回りをうろうろする。子供の霊は、地蔵の首を指し示している。彼らはどうやら、これがずれたままであることを、ひどく気にしているようであった。
「――はいはい、ただいま」
 気になってしょうがないといった風情の彼らの前で、小町は鎌を足下に置き、お地蔵様の首に手を掛けた。両手でていねいに首の部分を持って、きちんと胴体の真ん中真上に置き直した。それから、お顔の向きを整える。
 微妙な誤差が気になった。まっすぐ前を向くよう、置いては持ち上げ、置き直しては持ち上げ――をなんども繰り返して、ようやく納得がいったところで小町は、そっと手を離した。
 寸分の互いもない、まっすぐの前を向く、お地蔵さまがそこにおわした。
 小町は一つ息を吐き、それから少し長い時間、お地蔵様に手を合わせた。霊達は、これを黙って見ていた。
「……さ、お二方。行きますぜ」
 やがて閉じていた目を開け、小町は何事もなかったように足元の鎌をとってすたすたと歩き始めた。すると、二人は素直についてくる。彼らは満足したようであった。子供の霊がはしゃぐように跳ね回り、彼は親として、それを窘めているようであった。
 小町も、どうやら満足した。
 河を見る。流れは、いよいよ穏やかだった。

 諸行無常の河の上、こうしていろんな命が織り為されてゆくけれども。
 何とまあ――人の想いの、温かいことよ。

 十歩ほども進んで、小町は後ろを振り返った。広い河原が視界一杯にある。すると、そこに今しがたのお地蔵様は、もう見当たらなかった。代わりにそこの石だけ、じっとりと湿って色が変わっているのが見えた。土台になっていた石の角から、ぽたぽたと雫が滴っている。
 音もなく、ただそよ風だけが流れている。
 小町は少し微笑った。それから、先に舟の方へと行った二つの霊を早足で追いかけた。見るともう、気の早いこと、舟には二人の乗船客となっている。
 命の河が雪いだ罪、そして小さな奇跡を小町は想った。
 名も知らぬ二人の再会劇に、今更ながら涙をちょっとだけ流して、歩いた。
 これから彼岸へと運んでゆく。小野塚小町は、その温かさを大事に乗せて、三途の河に舟を出すのであった。

 ここは河、彼岸行き、片道通行。
 ほんの僅かな時間の船旅を行く。



(了)

 




 重い。

 それしか言い様がありませんね! 着想のきっかけは、小町が髑髏を背負った一枚の絵でした。作者も出処も存じ上げませんし、今となってはそれを調べようもないのですが。

 作中で色々書いた仏教っぽい何かしらは全部私の創作ですので真に受けないでくださいねっ。
 その辺の書き込みに注力することが楽しくなった時代なので、結構それっぽく書いてあるけど嘘八百万の神。
(初出:2007年4月14日 東方創想話作品集39)