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【水も滴るいい女】


■ Prologue. ■



「そろそろ溶けて水になっちゃったりして」
「だれがなるかっ!」

 それは流れた汗なのか、それとも本当にどっかしら溶けているのか。
 赤らんだ頬に水滴を浮かべ、日光を浴び続けるチルノ。
 快晴に恵まれた畑の上で、別段何をするでもなく、ひたすら直立不動を続ける謎の二つの人影。 
 暦は三月、間もなくその半ばに差し掛かろうという頃に風やや強く、春うらら。
「それにしても良いお天気ねえ」
「……」
「……ねぇ、ってば?」
「うるさいっ!」
 チルノが叫び、女性がくすくすと苦笑いを浮かべる。
 二人は、何をするでもなくただ突っ立っている。
 青い服と赤い服。青い服の方は頭一つ小柄で、頬を見るからに火照らせている。赤い服の方は文字通り涼しい顔をして、目の前でゆったりと揺れるのっぽな植物の茎を眺めながら、微動だにしない棒立ちをひたすら続けて表情は何故か少し笑っていた。
 変な光景である。
 並んで突っ立つばかりの二つの人影。彼女ら以外にそこには誰もおらず、声を掛けて行く人が居るわけでもなければ見ている観衆が居るわけでもない。
 
 青い服――チルノの心情は、こうである。
 曲がりなりにも妖精の中で自分が頭一つ抜けた力の持ち主であるという、ある程度の自負。
 故に、こういういけ好かない奴はきっぱり心胆寒からしめておかないと、その面目が立たない。

 ユウカというこのあんぽんたんを、懲らしめてやるのは自分の責務なのである。





■ 1 ■

 
 事の起こりは、数十分前に遡る。

 若草色の絨毯に、土色の道がのたくる大平原。そこに、一角だけ金色に染まる場所を見つけてチルノは空から降りてきた。
 高い所から最初に見つけたとき、上空俯瞰ではその正体が判別つかなかった。飛行高度をずっと下げてくるにつれてその輪郭ははっきりと見えるようになり、金色の中にぽつぽつと茶色の細かい紋様が見え始める。更に地面は近づき、一枚の金色の幕に見えたそれが実は花の群衆であることと、茶色はその花の中で無数に抱え込まれた種だったのだという二つの事実に気付いてようやく、チルノの疑問は氷解した。
 赤茶色の柔らかい土に降り立った瞬間、自分の背丈がすっかり周囲の茎に埋め尽くされて思わず「うおっ」と口から零れる。匂いの薄い花なのに、数が多い分きちんと匂いがする。大輪の花、雲突く茎の長さ、太さ、瑞々しさ。そして凛然とまっすぐ太陽を見上げている金色の花びらが、下から見ると陽の光に透けて一層鮮やかな金色に変わって見えた。
 どの一部分を切り取っても、立派すぎるくらい立派な――向日葵(ひまわり)の花達である。
「……すご……」
 正直な感情の吐露を抑えられなかった。 
 幻想郷、広野、人里からはやや外れ。広大な向日葵畑がこんなところで営まれていたことにチルノはまず驚いたし、加えて、所狭しと咲き犇めいた花々に息を呑んだ理由が実はもう一つある。
「今って……三月、だよね?」
 思わず自分の頭の中に、暦を確かめるチルノ。正確な日付なんて妖精には無関係とはいえ、それでも今し方郷の小川に見つけてきた菫の花の色まで、まさか嘘ではあるまい。
 菫と向日葵は、共存しない。
 人の顔の倍はあるんじゃないかという大輪の向日葵は色もよく艶もよく、それだけに尚更、三月花まだきというこの時期に咲き誇る光景は異様としか言いようがなかった。狂い咲きといった程度ではなく、それにはある種の毒々しさがあった。向日葵達はまるで今太陽に向かって咲き誇るのが当然だと言わんばかりに、あまりにも自然な我が物顔で堂々と、開けた野の一面に挙って屹立しているのである。
 寒さの残る風が、向日葵の合間を縫うように吹き抜けた。
 何かがずれすぎているその光景に、チルノは感動よりも不気味さを先に覚えた。
 妖精だけに、この手の空気には人間よりも敏感に反応する。
 この花畑で向日葵が咲いているのは偶然ではなく、恣意であること。
 この向日葵は――この花畑は、季節よりもまず「自然」そのものが、どこかいびつに歪んでいると直感した。
「あらあら、お客様かしら」
 ……思った通り。
 振り向いたそこ、思ったより間近に人影があった。まるで感じられなかった気配の理由はこの女性が殺したものか、或いは花のように自然物として、生きながらにして生の気配を纏わぬ不気味な者か。
 緑髪、澄み渡った深い瞳は大きく、不自然に紅いその唇の端を、やたら嬉しげに吊り上げた女性が一人、無色純白の日傘を左手に添えてまっすぐ立っていた。
 チルノが向き直る。
 一見人なつっこそうな笑顔――その実、底知れない深みを湛えた笑みに、思わず尻込みをしてしまう。
 それを気取られぬよう、チルノはキッとその眉間を見据えて笑い返した。
「あんたの仕業ってわけね、これ」
「仕業? 何の事かしら」
 く、と小首を傾げる女性。手弱かな仕草だった。
 盛りの夏草を思わせる色に染まった髪と、赤や黄が複雑に混じり合った衣服。白い日傘がいたずらに春の太陽を反射させて明るく眩しく、彼女の景色を切り取ればそこだけで夏の花畑になりそうな、計算尽くとさえ思わせる破綻無い居佇まいだった。
「夏の花無理矢理咲かせて喜ぶたあ、無礼だし、頭の悪い奴だね」
「あ、私より無礼で頭の悪そうな人に言われた」
「減らず口を見逃した上でアンタに教えてあげる。自然ってのは季節あってこそ回るんだ。自分の場所だけだからって、夏の花なんて無理矢理咲かすもんじゃない」
「あらら」
「花が可哀想とか……ちょっとくらいは思わなかったのか? もっと言えば――」
 ちら、と向日葵の金色を視線でなぞった。
 手綱を緩めず厳しく詰り続けるその長広舌にも、女性は表情ひとつも変えず拝聴の姿勢を崩さない。それを良いことにチルノの“お説教”――チルノ当人は老婆心などという偉そうな気持ちで気持ち良く喋っているのだが、そこにまつわる使命感や自負が天井知らずに高まっていった。不届きな愚者を教化してやらん、という勢いである。
 チルノは、確かに氷の精である。だが氷の精である前に、一匹の妖精でもある。
 季節に逆らって無理矢理に花を咲かせる行為は、ともすれば人里に居る爺さんでも時々やらかす。難易で言えば比較的簡単なことなのだが、チルノは妖精として、自然の一員としてそれが好きではなかった。
 違う季節に萌した花は、どこか無理をしているように目に映るのだ。実際無理をしている筈である。暑い季節の花がこんなに寒い季節に咲いて、花が苦労しない訳はない。
 花はとても弱い――それを、チルノは知っている。
 チルノがカエルばかりを凍らせて遊んでいるのは、植物に同じ事が出来ないからである。花の茎を同じように一回凍らせてから元に戻そうとしても、例え氷が溶けたところでその花は間もなく枯れてしまう。カエルでさえ水に戻せばまた泳ぎ出すのに、植物は一回凍ったらそれっきり枯れてしまうのだ。
 植物はそれくらい、繊細で弱い自然の生き物だと知っていた。
 だからチルノは、三月に咲かされている向日葵に猜疑の心が昂揚した。
 余裕綽々の素振りで佇むその女性に、むかーっ、と腹が立ったのである。
「別に私は……可哀想とは思わないけどねえ」
 平然と女性はうそぶく。
「むしろ年中花を咲かせることが出来て、この子達も気持ちよさそうだと思わない?」
 鳩みたいに肩を揺らして、しかもまた遊ぶような口調で女性は言葉を継ぐ。
 チルノはますます面白くない。なあんとなく小馬鹿にされているのは自分でも分かったし、でもそんなことより、
「同じ妖精としてアンタみたいなのが居ると思うと、あたいは情けないね!」
「は?」
 ……という、チルノなりの正義感・使命感が根底にあったりするのだ。
「私が……何ですって?」
 女性の眉根が歪む。
「妖精でしょ、アンタ。花を無理矢理咲かせて喜ぶなんて、馬鹿な妖精のやりそうなことだ」
「……」
「そりゃ花芽を吹かせるくらい私らには簡単かもしれないけど」
「……」
「こうして時々いるんだよねー、アンタみたいに自分の力の使い方間違えてるおバカな妖精がさー」
「…………」
 女性は微笑みは崩さぬまま、蕩々と続くチルノの言葉へ何か挟みたそうに口を開きかけた。
 が、思い直したようにそれを引っ込めてしまう。
 行き先を失った言葉が、くるんと、日傘だけを回させた。
「アンタも同じ自然の者どうし――自然の花達が弱いもんだって知ってるでしょ。これからはあんまり無理させるもんじゃないよ!」
「……そうね。自然の者どうし」
 うん、とひとつ頷く。
 チルノはようやく胸の高ぶりが収まって、言葉を締めた。
 説教なんて好き好んでやる気はないが、妖精の中でも力の強い者として、多少以上の自負はある。
 波風を立てる気はないが、言いたいことはきちんと言っておかなければ気が済まなかった。
 ふうん、と、“妖精”と呼ばれた女性が一つだけ呟いた。
 ――やおら胸倉を、ぐっと掴まれた。
「なかなかお説教してくれるじゃない」
 ぎく、と緊張に高鳴るチルノの胸。
「な、なんだい」
「花と妖精は自然の者。そして自然に生きる花は弱い。なら……」
 ぐ、と、握られた衣服に力が伝わってくる。
 痛い。
 視線を合わせたままの笑顔がぐっと近づいてくる。思わず視線を逸らしそうになる自分を必死で叱咤していた。
 吐息のかかるほどの距離から呟かれた。
「――それってひょっとすると、貴方も弱いってことになったりして?」
 女性の微笑みが、本物の笑顔に変わるのをチルノは見ていた。
 澄み切った笑顔だった。快楽と愉悦に縁取られた百点満点の笑顔である。
 虚勢さえも凍り付きそうだった。
 背中を汗が流れる。
 或いはその汗の滴一滴さえ、すべて気取られているんじゃないかとまで思える深い瞳。  
「ふん。あ、あたいは妖精だけど、強いよ!」
「あら」
 女性は、目を丸くする。
「強いって、どれくらい強いのかしら」
「……さいきょう。」
「あらあらあら」
 更にそれ以上に丸くする。
 その目が――次の瞬間すっと細くなり、唇に冷笑が浮いた。
「じゃあ妖精さん、我慢比べでもしてみる?」
「が……我慢比べ?」 
 いきなり飛び出した稚い単語に、今度はチルノが面食らう。
 やおら胸倉が離され、微かに浮いていた踵が地面に落ちた。思わず後ろに蹈鞴を踏む。
 嗜虐心がとろとろ溢れてきそうな笑顔で、女性はチルノを横睨みする。
「貴方さあ、最強なんでしょ? 肉弾戦だか弾幕ごっこだか知らないけど、本当に強いってのはケンカだけのことじゃないの。分かるかしらー?」
「当たり前だ」
 胸元の服を直しながらチルノが睨む。
「じゃあ決まり。我慢比べしてみましょう、それで貴方が私達に勝ったなら、貴方が最強ね」
 やおら女性は、手に持っていた日傘をぱたんと畳んで足許に放り出した。
 そしてチルノを手招きする。
「……なんだい」
「ルールは簡単。ここにじーっと立ってるだけ。先に音を上げた方が負け」
 くす、と笑った。
「どう? 面白そうでしょ?」
「へぇ……それだけかい」
 チルノは頷いた。
 歩み寄り、女性よりも胸を張った「気をつけ」をしてその横に並ぶ。女性は満足げに笑う。
「なかなか上等ね」
「黙れっ!」
 いかにチルノの頭でも、完璧に小馬鹿にされているのは充分分かる。 
 元々向日葵達を隷属させてこんな寒さの残る三月に咲かせているというのが一番むかつくし、更に、出逢ってからこっち常に上から目線で話をしてくるのがむかむかむかつく。
 ついでにさっきの暴力。
 同じ妖精として情けないと、心底から思う。 
 自分自身のためと、妖精全体のため。そして、虐げられる向日葵達のためにも、常識を諭し上げてやらなければ気が済まなかった。我慢比べとは大変間抜けな呼称だが、それで勝ち負けを決めてくれるというなら乗っかってやれば良い。
 力量関係をはっきりさせて、相手の退路を完全に断ち切ってから言いたいことは存分に言ってやる。

「ほんっとに、立ってるだけで良いんだな?」
「良いわよ」

 チルノには彼女なりの勝算がある。 
 妖精とは自然そのものである。その妖精の中で、さいきょうはあたい。
 自然の中で立っているだけの我慢比べなら、自分が負けることは絶対にあり得ない。
 この理屈が、どうして成り立たないことがあろうか? いや、成り立つ。
 チルノは反語の拳を握り締める。 

 二人は黙って直立不動、広大な向日葵畑のど真ん中に無言で立ち尽くし始めた。
 



■ 2 ■


「ううぅ……」

 そして、現在に至っているのだった。

 我慢比べ、の意味は、チルノの頭でもすぐ分かった。
 というか、妖精が自然の存在だからって言ってお天気が関係なくなる筈はなかったのだ。
 迂闊にも気付かなかった。
 実に迂闊だった。
 
 何時間くらい経過しただろうか。三時間くらいにも感じるし、十五分くらいに感じなくもない。
 向日葵の季節には未だ早いと雖もしかし確実に春であるからには当然、太陽は冬場より層倍に元気を増していた。
 否――畢竟、冬でも太陽は温かいものである。大地に二本足を踏みしめてその光を一粒残らず全身に受け止めていると、冬と言わず夏と言わず、太陽の持つ熱を年中いつでも身体に感じることが出来る。当たり前の事ながらどんな季節でもそれが熱線であるからには、いかに初春でも太陽だけを浴び続けたら必ず暖かくなるものなのだ。
 暖かい。
 すごく暖かい。
 …………暑い。
「いつでもギブアップして良いわよ?」
「誰がするか!」
「あらあら」
 幽香はくす、と笑い、両腕を真上にきゅーっと伸ばして、気持ちよさそうに首をこきこき鳴らしてたりする。
 余裕を見せつけているらしい。
「まっ、溶けちゃう前にはちゃんと言いなさいね」
 返す刀で、そんなおまけまで付いた。
 意地でも音を上げてなるものかと決意を新たにするチルノ。ぐっと大地に踏みしめる足に、今ひとたびの意地を込める。
 だがしかし暑い。
 正直なところ、とっとと降参して木陰や湖畔あたりに逃げ出したかった。所詮三月の気温なのでまさか溶け死ぬこともないだろうが、この無意味な立ちん坊に対する物凄いバカバカしさが心を何度も挫けさせようとする。無為なことに労力割いてるなあ、降参してしまえばそれで終わるのになあ、という甘い誘惑が常にもう一人の自分となって語りかけ、只管照りつけてくる陽射しの下にチルノは無言を貫く。曲がりなりにも氷の妖精たる自分が日光下で立ちん坊していることの滑稽さ、無意味さ、無益さ、色々に形を変えては訴えかけてくる種々の虚無感に心と膝が折れそうになっては、また足許に力を込める。
 なるほど、弾幕ごっこではつまらないとはこういうことか。
 これはこれで面白い、とチルノは思う。
 体力だけでなく、気力さえも比べられている。「耐える」というベクトルにおいて自分の強さを証明できるなら、それはそれで意義深い。面白い考え方である。
 そしてどうあれ、必ず負けるわけにはいかなかった。
(あたいは最強! あたいは最強! 暑い! あたいは最強!)
 やっぱり暑い。
 改めて思う、いくら温暖とはいえ溶けるまでには到底及ばない気温の筈で、だるくても汗がだらだら流れてきても気を抜いたら思わずポクっと死んでしまいそうでも、傲岸不遜なこの不届き花妖精の女に自分は絶対、ぜったいに負けてはならないという意地。
 静かにもう一度炸裂する。
 あたいはさいきょう。
 ぼんやりと靄がかかりゆく頭の中で、チルノは最強の座の保持をよりどころに、消えかかる彼我の区別を保とうと必死で歯を食いしばるのだった。
「それにしても良い天気ねえ」
「……」
「ねぇってば?」
「…………」

 ぅー、とチルノの口から低い声が漏れる。
 女性は苦笑混じり、横目で伺うとかではなく堂々とチルノの赤ら顔を眺めているわけだが、既に自分との戦いに没入しているチルノはそれに気付かない。傍から見れば、双方の余裕度合の差は瞭然である。
 天の神様はまさしく「うららか」と形容するに相応しくご機嫌麗しいが、じっと浴び続ければ春とてやはり滝の汗も流れるのだとチルノの気づきがそこにある。
 女性は穏やかに笑っている。
 チルノは太陽が見せる本気に、今更初めてお見それしていた。
 氷の妖精なんだから、太陽の下にじっと立っていたことなんて普通に考えたら、あるわけがなかった。



■ 3 ■


 
 それからまた何時間経過しただろう。
 一時間くらいだったような気もする。もう半日くらい立ち続けているような気もする。
 汗ばんだおでこに、吹き付ける風が心地よかった。
 遠慮会釈のない太陽にどんどん身体から排出されてくる汗は前髪を濡らしてぺっとり張り付かせたが、それをかき乱してくれる風は本当に心地よくて、それだけが心の安寧になった。一際強い風が吹いたりすると前髪ごとわしゃーっとかき混ぜられて、むき出しになったおでこにこちらは早春に相応しい、ひんやり冷たい風が吹き付けてくる。
 それだけで、身体中の熱を全部冷ましてもらえるような爽快さがあった。正しく自然の冷房で、上気しっぱなしの全身全霊を以て歓待するチルノにまるで呼応するように、風はひゅうひゅうと向日葵畑を吹き抜け続けた。
 おでこは大変よく冷え、やがて太陽も風神様の心意気に応えたか雲の向こうに姿を隠し、雲はどんどん暗さと厚さを増して風はどんどん強くなってきて、
「ねぇ」
「んー?」
「なんかさ……やばくない?」
 さすがに気付いた。
 というか、どう見てもやばい。
 同じ日の日中とは俄に信じられないくらい、周囲が暗転し始めている。ゆっくり漸進的に暗くなっていったから実感が遅れたが、我慢比べの開始時点と今の花畑の風景を二枚横に並べて比べたら確実に一目瞭然だと思う。太陽の光線も熱気も、最早一欠片だって残っていない向日葵畑。もう日暮れの時間なのかと一瞬本気で錯覚する。頭上の花も照りつけてくる日光が途絶えた途端に彩度が変わりすぎて、さっきとはまるで全然違う花に見える。
 勝負のお相手が、嬉しげに笑った。
「やばいと思うなら、降参しても良いのよ?」
「だ……誰が!」
 矢も楯もたまらず、声だけを張る。それも何度目かのやり取りだ。
 また女性が嬉しそうに笑う。
 そうこうしている間にも、頭上の厚雲はすごい速さで空の向こうへ吹かれていった。
 あんなに堂々と立っていた向日葵が、風にぐらぐら身体を揺らし始める。陽の光はとうとう雲の向こうへ完全に姿を消し、新たな熱気が到来することは無くなった。天井知らずに強まってゆく暴風に、目に見える色んなものが揺らぎ始める。遠くの山並みはまるで虫の大群でも蠢いているように緑の陰影が波打ってその山肌を走り、我慢比べの開始時に対戦相手が足許へ投げ出した彼女の日傘は、風を孕んでぶわっと襞が広がったかと思えば押っ圧されてばたばた音を立てて靡いてみたりと忙しい。花畑の中から飛び立った小鳥が一羽、風に煽られて信じられないくらい蛇行飛行した。口でそう言ってるんじゃないかと思うくらいにびゅうびゅう音がする。前髪と後ろ髪の区別も無くなって、向日葵の茎もぐわんぐわん撓り、それが支える金色の花だけが不思議な優雅さをもって大きな動きのまま、翩翻と頭上を泳いでいた。
 ぶおん、という衝撃音と共に一際腰の入った突風がとつぜん真っ正面から吹き付けて、チルノがたまらず蹈鞴を踏んだ。
 揺らめいたその影に、隣の女性がちらりと横を見て、笑う。
 キッと見返すチルノ。
「……まさか……今のであたいの負けとか無いよね?」
「そんな狭量は言いませんよ、御安心なさい」
 余裕綽々といった具合だった。
 柔らかくて優しい――つまりチルノの視界には慇懃無礼この上ない口調がいよいよカンに障るが、その優しさに縋るしかないからには言い返す言葉も無くて、チルノは黙って元の立ち位置に戻る。
 そして、横目でその余裕の顔を盗み見た。
 表情は、余裕という段階さえも通り越してどこか楽しげな風合いさえ残していた。寒風吹き荒び、こちらも前髪と後ろ髪の端境が既に吹っ飛ばされてひどいざんばら髪状態だが女の子のくせに別段気に留めるふうでもなく、叩き付けてくる風の塊をまるで今にも両手広げて受け止めるんじゃないかと思うほど、平然として薄く目を閉じて唯々吹かれている。
 そよ風にでも吹かれているのかと錯視する。
 チルノの胸に蘇るのは、この向日葵畑に着いたときと同じ感情。
 ――そこだけまるで、自然が歪んでいるように思えた。
「ねぇ」
 不意に問い掛けられ、
「なんだい」
「まだ名前を聞いてなかったわね」
 突然、そんなことを言い出すのだった。
 何を口にしても、どこかしら飄然としている。本当に変な奴だと、馬鹿っ風の吹き荒れる中でぶすくれる。
「……チルノ、だよ」
「ふうん」
「おい、名乗ったんだからアンタも名乗りなきゃっ!?」 
 必死で切った啖呵は、風に煽られた大判の葉っぱに顔を舐められたところで全てのカッコよさを失ってしまう。
 チルノの歯噛み。
 張り上げた声と精一杯の誰何はそのままチルノの意地であり、そして抵抗だった。
 底知れぬ不気味さ、
 余裕綽々の雰囲気に対する嫌悪感、
 目一杯の勝負における愉悦的な表情への総合的かつ抜本的な抗議。
 場違いに漂う妖艶さへの誰何であり、
 そして――すべての不気味さが渾然一体となった結果チルノへ襲い来る、名状しがたい恐怖感に対する抵抗。
 また一陣の突風が吹き抜ける。
 さっきよりも大きな蹈鞴を踏んだチルノににこっ、と、またむかつく笑みをそこで浮かべた彼女は、前髪をぐしゃぐしゃに乱されながら
「ゆうか」
 ぽつっと、それだけ呟いた。
「ユウカ、ね」
「そう」
「同じ三文字だね」
「え? ……あ、えぇ」
 チルノはまた元の立ち位置に戻り、我慢比べの席へ何事もなかったかのように舞い戻った。ユウカは時折風に身体を揺らされるがチルノのようにふらつくでもなく、向日葵の茎と同調して身体を微かに撓わせては文字通り受け流している風合いである。
 チルノはキッと前を向いた。
 ユウカはそんなチルノを、実は横目で伺っていた。その無駄にひたむきな視線にやがてユウカの方が気圧されたか、苦笑いして彼女もまた、前方注視の姿勢に倣った。
 馬鹿みたいな風に吹かれたぼさぼさ頭が二人、じーーーっと前を見ている。
 雲はぐんぐん暗さを増し、日没までの時間を待ちきれないように周囲も暗くなり始める。
 遠い山並みの上から、ごろごろと遠雷が聞こえた。
 向日葵だけが暢気げに揺れる。
「これは、一雨来るわねえ」
「……」

 勝負は、最終局面にかかろうとしていた。

  

■ 4 ■



 叩き付けてくる固い粒が、上唇の真上を思い切り直撃した。
「ぶはっ!」
 チルノは思わず声を上げる。
 その風体は、誰が見ても異様なものである。全身氷漬けなのだ。
 この珍妙な事態の起因だが、彼女ならではの特殊な能力にその端を発している。
 吹き付けてくる大きな雨粒は、しかし彼女の眼前紙一重のところで固く氷の粒となる。彼女が身体から発する冷気が、雫の大きさでしかない水分を瞬間的に凍結するためである。
 しかし、凍ったからって勢いが死ぬ訳ではない。
 別に物体としての移動まで凍らされる筈もなく、要するに速度と重量はそのままに固くなるだけ固くなった雨粒が全部彼女自身を直撃して「あたっ」とか「ぶはっ」とか言わせているのだ。大自然の嗜虐である。
 だがこれだけなら、身体中が氷の皮膜に覆われることはない。細かい青痣を拵えることはあっても、びしょ濡れの服を着たまま冬山の頂上にハイキングしたのかというその凍明人間状態は考えられない。鼻提灯がそのまま氷柱になっている現在の表情は、正しく馬鹿で間抜けっぽいと形容する他はない。
 この状態に至る経過は、チルノの作戦ミスである。
 一雨来るとユウカが呟いた通りなるほど確かに訪れた大粒の雨、しかしすなわち彼女にとってのみ霰(あられ)となるそれが顔と言わず腕と言わず胸と言わず足と言わず身体の全面にビシビシぶち当たったものだから「これはたまらない」と、しばらく冷気の発生を自制したチルノ。
 あっという間に下着までびしょ濡れになった。
 当たり前である。直立するのにも難儀していた風に大粒の雨が乗ったら横向きの滝みたいなものである。凍らさなければ滝、当然の事実だ。
 あっという間に身体がぐっしょりと重くなった。氷の妖精とはいえ、吹き付ける風で常に冷たく冷やされる水に頭も身体も晒されてはいつ倒れるか分かったもんじゃない。
 どうやら霰にしてでも、水気を水気のまま身体に近づけない方が長期戦には有利だと考えた。
 もう一度冷気を発した。
 そしたらびしょ濡れの服と皮膚が、一瞬にして凍り付いた。
 そのまま動けなくなった。
 今ココである。

「あぐふ……うぅ……あだっ!」

 相手がどうとかいう問題ではない。自分のせいである。
 身体の表面は凍り付いている。冷気には強いチルノでも、身体の表面から凍らされたらそりゃ痛い。冷たくはないが痛い。氷漬けにした蛙が氷ごと砕け散るのを何度も見てきた。あの光景を思い浮かべると、凍り付いた腕一本でも迂闊に動かしたくない。腕がぼろっと取れたりしたら大変である。
 ついでにチルノ、凍らせるのは得意だが溶かすのは苦手なのである。況んや、冷気と同じ要領で熱気まで出せるわけではない。カンバンは氷の妖精である。
 暴風雨によって釣瓶落としとなった向日葵畑の気温では、自然解凍も望めない。運ばれる厚雲の向こうにあるお天道様など天佑神助は今更希うべくもなく、氷が身体に張り付く痛みと僅かな身体の動きに呼応して氷ごと皮膚が引っ攣れる痛みの重層攻撃にチルノの意識は限界寸前だった。さいきょう、さいきょうと脳裡で反芻する声も、次第に弱く途切れ途切れになるのが自分でも分かる。寒い。痛い。痛い。
 寒い。
 ちょっとでも気を抜いてここで倒れたりしたら、その瞬間勝負ありと断じられるのは分かっていた。
 ユウカに負けたくない。
 その一念だけで膝に込める力には、春に咲かされた向日葵達の仇討ちを果たすのだというチルノなりの大義を編み込んで補強してある。意地でも今、この膝を折るわけには行くものか。
 季節を無視して咲かされし花達の労苦。本来は咲かずに済んだこの季節でこんなにも手酷い暴風雨なんて晒され損な、金色の健気な夏の花達を脇に置いてまさか自分だけが斃れる訳には行くまい。
 か弱い花達、言葉も発せない向日葵達では、このユウカとかいう傲慢には逆らえないのだ。
 あたいが何とかしなければいけない。
 そんな意地ばかりを考えていた。
「あらら、氷まみれ。ってか、ずいぶん寒そうだけどー?」
「寒いのは別にへいきだね。あたいは氷精なんだから!」
「ひょうせい? ……ふうん」
「さしずめ、アンタはかせいとかだろ」
「か天かせい?」
「花の妖精ってことよ」
「は? あ、あぁ、花精……かせい、ね」
「まっ、妖精の風上にも置けないけどな!」
「思いっきり風雨の風下だけどねえ、今の私達は」
「やかましい!」
 こいつ絶対に遊んでる。
 チルノは確信した。
 遊ばれているという言葉すら生温い。もてあそばれている、と形容した方がより真に近い。こんな馬鹿みたいな暴風と大雨に叩き付けられて、まるで出逢ったときと変わらない口調で平然と喋っている。三月、うららかに花風の舞う中で木漏れ日に抱かれながら歌でも吟ずるようなのろま足の口調が暴風雨の中でも変わらず維持されている。精一杯目一杯のチルノの会話を相手取って、つまりは余裕綽々でもてあそんでいるのだ。
 “愚弄”だとか、
 “侮蔑”だとか、
 欠片ほど知っていた小難しい単語がこんな時にだけ言語野の表舞台に颯爽と現れて暗躍する。チルノの脳裡でつむじ風のように高速で行きつ戻りつを繰り返して、そのたびに悔しさという単一の結果がもたらされる。饐えた不快感が蟠る。その端境のところどころで冷静が勝ち、頭が理性を取り戻せば取り戻すだけ、この花精に自分は叶わないのだろうかと伝えてくる。
 悔しさと、無力感の拮抗。

「……一つだけ」
「んー?」

 交戦から、交渉への転換。

「お願いがあるんだ」
「あら」

 意外げな色を帯びた声音は、それすらも芝居がかって聞こえ、譲ろうとした一歩の足をまたチルノの反骨精神にぶつけさせて鈍らせる。
 譲る一歩。
 譲歩。
 また一つ、難しい単語がチルノの脳裡でつむじ風。
「下手に出ることも出来るんじゃない。それで、どうしたのかしらおチビさん」
「――っ! ……ふん、向日葵達を虐めるのをこれっきりにしてくれるなら、今回はあたいの負けにしといてやっても良いよ」
「……」
 必死で突きつけた、それがチルノの最後の意地。
 気付けば難しい言葉だらけで支配されたチルノの頭にしかし、残念なことに「虚勢」という言葉については存在しなかった。
 誰が見ても明らかな現在の状態。
 虚勢。
 それでもチルノは、未だに啖呵を切り続けて見栄を張る。
 張り続ける。
 ユウカに対し、風雨に対し、花達に対し――そして、妖精の中でも力の強いそれが自分なのだという、張り子仕立ての矜恃に対して、紙で出来た剣を自分自身で本物だと信じて斬りかかってゆく。
 ユウカは、さもおかしげに笑った。
「なんだかんだ言っても、つまり貴方の負けってことねえ」
「ちがうっ! だから、これは条件付きの――」
 氷に引っ攣れる皮膚の痛みを、そこで一瞬忘れた。
 足を空中に蹴り上げて右足の氷の膜が割れ、左足を次に跳ね上げて両足が自由を取り戻す。スカートから除いた膝小僧や太ももが、ちょっと赤くなっているのが自分でも分かる。
 回れ右をした。足首の氷が割れた。
 チルノは瞳に凛然たる意志を宿し、頭一つ身長の高いユウカをキッと見上げた!

「…………」

 ……そこで、息を呑んだ。

「貴方はどうやら、最後まで勘違いしてるわね」 

 そこに立っていた女性に――ユウカに、出逢ったときの麗らかな雰囲気は無かった。
 そこに立っていた女性は、今ここでチルノをもてあそんでいたユウカとは別人なんだろうとチルノは最初思った。すぐに、でもそんな筈無いよねと思い直した。
 その風采は、チルノに負けず異様たっぷりだった。
 そして、威容たっぷりでもあった。
 髪は凍っていないだけでチルノ同様、ざんばらにかき乱された上で大量の雨に打たれてぐしゃぐしゃになって頬に額にと張り付いている。そこから幾筋もの水が、顎先へと流れを作って白い頬を這っている。閉じた唇も河の流れの一部になっている。乱れた髪は方々の額に頬にと張り付き、長めの前髪は瞳のあたりまで張り付いている場所もある。
 醜いほどの、有様だった。
 薄く閉じられた瞼を縁取る、長くて美しかったその睫さえも雨にじっとり濡らし、濡れ髪が樋となった幾筋もの雨の河になすがままに顔を濡らされ、
 じっと瞳を閉じたまま前を向き、ユウカは暴風の中で立ち尽くしている。
 雨を吸い尽くした衣服も同様である、春の花畑を思わせた柔らかさや色彩も、すべて面影を失っている。ふわりと柔らかげだったスカートは見る影もない。濡れそぼって濃色に変化した衣服はすべて彼女の細身の身体に悉くまとわりついて、白いシャツの袖にはその細すぎるくらい細い腕の色が、水に透けて肌色に浮いていた。
 チルノはそっと、ユウカの表情に視線を戻した。
 ぐしゃぐしゃに濡れそぼった濡れ鼠の中で……今は少しだけ、笑っていた。

「教えてあげる。……花はね、弱くなんかないの」

 そしてチルノの方を向き、張り付いた前髪の向こう、薄く開けた瞳で睨み付けた。
 唇には笑み。しかしチルノは、完全に威を以て睨まれたとしか思っていない。
 ユウカはやがて完全にチルノと正対し、まるで母親が娘にそうするように膝をかがめて、チルノの視線に高さを合わせてきた。
 小首を傾げながら問い掛けてくる。
「ねぇねぇ、貴方が守ろうとしている花は何? 花の弱さって何?」
「……」
「どーでも良いんだけどさ、花が可哀想だとか、貴方どういう気持ちで口にした?」
 矢継ぎ早に問い掛けられる、花の質問。
 質問を咀嚼し回答を編成する余裕など、チルノに欠片も残されていなかった。ぱくぱくと口だけ動かしてみるものの、言葉が言葉にならないまま心が空回りする。
 雨風がそうこうしている間にも、容赦なく吹きつけ続ける。
 ユウカから、そして最後に笑みが消えた。

「……調子こいてんじゃねえよ? ガキ」

 初めて、氷のように冷たい口調になった。

 さいきょうと言っても、こちとら妖精である。
 呼吸するのも忘れた。
 強気を取り繕う余裕もなかった。
 正直チビるかと思った。
 氷云々を抜きにして、つまさきの先の先まで硬直した。
「………………」
 空気の塊を、からからに渇いた喉が呑み込む。
 重く、転瞬。
 ――まるでその氷が一瞬でにゅわぁっと溶けるように、ユウカは次の瞬間、ふたたび満面の笑みに戻った。
「うふっ?」
「ひっ」
「うふふ……ねぇ、ねぇねーぇ」
 そして桃色の媚び声。
「は、な……なんでございましょう!」
 従容とするチルノ。
「あのさ、一応私の勝ちで良いかしら?」
「え? ……え?」
「だーかーら、今日の我慢比べ大会よぅ。どう見ても貴方と私じゃ勝敗明らかじゃない!」
 視線の高さを合わせてくれていたその顔が、再び斜め上へと消える。
 膝を伸ばしたユウカは颯爽たる仕草で、濡れそぼった前髪を手櫛一発で掻き上げた。
「ね、ね、私の勝ちよね? 貴方の負けよね?」
「うぐ、それは……」
 刹那、負けず嫌いが呼び起こしたチルノの逡巡。
 すると不意にまた、片鱗を見せる眼前の般若さま。

「ま・け・よ・ね?」
「は、はい問題ありません!」

 いかにも満足げに、殿様のような笑みを浮かべられたユウカ様であった。
「はいおっけ、勝負おしまいっと……まあ十年後にもっかい来なさい。貴方じゃ私の相手は、まだ早いって事。そんな身体中氷だらけの有様で、こっから先夜通しの嵐にでもなったら貴方死んじゃうでしょ」
 そして華やぐ笑顔と楽しげな口調で、死者に更なる鞭を打つ。
 明らかにこちらを挑発する口調だとチルノは分かっていて――それでも、反論を返さなかった。
 返せるはずがない。
 相手が相手、般若か羅刹か獄卒か、である。

「さて、どうする? この向こうに私の家があるけど。なんなら温かいものでも」
「誰が要るか!」

 力量関係。
 ただ一点、そこに尽きる勝敗結果が否応なくチルノの理性に迫り来る。事実を拒もうとする意地と、その都度蘇ってくる般若の笑顔。
 絶対的に確定した劣位を悟ると同時に――やはり圧倒的な悔恨が、沸々と沸き上がった。
「……あたいの、負……」
 口にしかかった、その言葉。震えた羽根。透明な羽根。氷に覆い尽くされた羽根。
 涙腺の変わりに、ぶるり、と大きく震えた。
 一欠片だけ反応した、最後の最後に残っていた反骨。誰が要るか、の啖呵一声。
 それが最後の力を振り絞らせた。
 氷の礫となった雨がこびりついて、固く凍てついていた筈の背中の羽根が震えた。ごつい大きさの氷塊を弾き飛ばし、ばきぃんと音を立てて妖精の翼が桎梏から解放される。
 大きくひとつ、咳をするように羽ばたいた。
 ただ従容としかかったチルノの胸が、小さな反骨で静から動へ転じた最後の一瞬。
 次の雨で凍り付かされる前に行こう。
 心が次の怯懦で凍り付かされる前に飛ぼう。

 一目散の速度で羽根を振った。
 地面と向日葵とユウカが、そのたった一閃でびっくりするくらい一気に小さくなった。

「約束通り十年後に来てやるかんねっ! 待ってな!」
 せめてもの負け惜しみを、後足振り上げてひとつ地面に落っことした。
「十二年目くらいまで待っててあげるわ。じゃあまたね〜」
 びしょ濡れのユウカは、ひらひら掌まで振りやがった。

 大空は暗いまま、本物の夜へと転じようとしている。吹き付けてくるその風圧は相変わらず強いが、妖精の翼を妖精の意地が根元から支えて強く強く羽ばたかせる。強いその風圧を切り続けてチルノの身体を、その心ごと闇空へ浮かせる。
 何も考えられないでいた。
 場を後にしてみたところで、どこへ行こうという訳でもない。このまま自分の塒に帰ってしまったら敗北感に間違いなく打ち拉がれるが、どこかで時間を潰すにしたって今日のことを忘れられる筈もない。蛙で遊んでみても惨めだし、どっかの弱い人間を捕まえて虐めてみてもそれはそれで惨めになりそうな気がする。
 風は相変わらず嵐。
 雨は止むどころか、夜を前にして更に雨足を増している印象さえ受ける。

 風が吹く方へ翼を合わせ、チルノは一気呵成の速度で花畑を後にする。後からユウカの大声がもう一声追いかけてきたように聞こえた。正確には、聞こえた気がしたと言った方が正しい。一日中聞き続けていた話し相手の声音が空耳となって蘇っただけかもしれないし、或いは最後に死者への一鞭が入ったのかもしれないが、いずれにしても何を言ったのかは、巻き起こる風切り音と千々に乱れた心のせいで一切聞き取れなかった。
 びゅーっと逃げた。
 追っては来ないだろうと思いつつも、勝負の相手から、いくら逃げても逃げても逃げ足りない気がしてぐんぐん逃げた。
 一体どれだけ逃げただろう。
 ちょっとだけ、チルノはまた花畑を振り返った。
 雨も風も吹き荒び続けるその中で向日葵の金色は、曇りの鈍色に沈みつつもこうして上空に舞い上がってみるとやはり、紛れもない金色の絨毯だった。くすんでも金色。嵐に打たれても花は花。
 暴風でも何故か優雅に揺れていた大輪の花が、不意に鮮明に網膜へ蘇った。
 あの茎のお陰なのだろうか。
 金色の絨毯は風に揺られ、茶色くぽつりぽつりとその狭間に模様が見える。あれだけたくさんの種が、すべてまた次の世代で向日葵になったら、あの野原は一体どうなってしまうんだろう。
 幻想郷が滅んでも残るんじゃないのかと思う。

 快晴の空から見下ろした今朝の光景よりも、嵐の夕まぐれに見下ろした今の花畑の方が綺麗に見えた。
 勝敗は決していた。
 雨に打たれても風に打たれても優雅さを失わなかったのは――あたいでもなかったし、そして、ユウカでもなかった。 
 








■ Epilogue. ■ 


 轟音を身に纏いながらその風は、夜の帳を引き下ろしてなお衰え知らずに荒び続ける。黒一色に呑まれた世界から叩き付けてくる粒は、瞳を見開けど掌に受けど、ただ固く冷たい感触があるだけで雨か霰かの判別もつかない。
 ひどく冷え込んだ広野。
 向日葵畑で風に犇めき、風雅に揺れ続ける大輪の花達と……一人の女性。
「……」
 足許に投げ捨てられた傘はいつしか泥水に浸食され、元の純白の布地はその面影さえも残さない。畑の土が象ったいくつかの足跡の襞に沿い、夜色の泥に染まり抜いた水溜まりが沸き立った。やがてはそれも水と土との境界を失い、そして足跡形の堤を失い、峻烈な暴風雨の支配下で黒い一本の奔流に埋め尽くされた。それは更に闇に溶け、畦を這う池と変わり、引いて嵐の夜という自然を形成する一要素へ変転する。
 変わらず撓い続ける向日葵達。
 風見幽香は、チルノと別れてからもずっと、雨に打たれ続けていた。
「……」
 チルノと勝負していたのと同じだけの、或いは既にそれ以上の時間が、チルノの立ち去った後に流れている。
 服はもう、普段に比べて濡れたとか重くなったとかいう感触すらも感じない。水分を吸いすぎて飽和した生地が止め処なく叩き付けてくる雨粒をその表面に溢れさせ、髪から上着へ、纏ったスカートへと順に伝い流れてぱしゃぱしゃと足許へ滴り続けている。
 胸が不自然なほどに高鳴っていた。
 あの勝負の余韻は胸に埋み火を残し、凍みた夜になっても未だ燻り続けるその火照りが、延々風雨へ立ち尽くし続けた手足の悴みさえも忘れさせる。
 負の感情ではない。
 寧ろ、この火照りは愉悦や希求に近い心地よさ、暖色の色彩と軽やかな温度を帯びていた。
 純粋に、この雨に打たれていたいと望んだ。
 花と同じ気分をこの身で味わいたかった。時に日照り、時に風に打たれ雨に打たれそれでも撓いながら揺れる向日葵達のあの健気な美しさを、今宵激しすぎる雨を材料にして、風見幽香は自らをその再現下において楽しんでいた。
 幾度と無く、心が挫けそうになった。享楽的なこの行動にはいつでもピリオドが打てるという背後の余裕は気分を逆説的に落ち着かせた。当然ながらいつでも切り上げて、屋敷に戻ることは可能だというのに幽香は、それをまだする気になれないでいる。
 心が挫けたところで屋敷に戻っては面白くない。花達と並んで雨風に打たれたこの何時間かの「意味」が最終的に味わえるまで、何時間でも何日でも、風見幽香はそうやって立っているつもりである。妖精ではなく妖怪なのだ。それを知るために使う時間ならいくらでもある。
 頬が冷たい。
 指は悴む。
 耳の端っこからじんじんと痛みが伝わり、冷え切った体温で身体中の感覚が頼りなく凍てついた中に妖怪の知性だけ、はっきりとした意識に変わってぽかぽか火照り返っている。冷えてゆく身体の感覚を、客観的に眺めているもう一人の自分が居るような塩梅がとても心地良い。
「…………」

 花が弱いなんて、絶対に有り得ない。
 口にしてみれば一言で片付けられるこの簡単すぎる摂理にあの妖精は、こんな間抜けな勝負ではあったがきちんと気付いてくれただろうか。
 強くして強き者は沢山居る。
 弱くして弱き者はもっと沢山居る。
 では、弱くして強き者は?
 ――そういう存在があるという、実感を持っている人からして少ない。何十年も前、この自分さえも最初は知らなかった。花の匂いを吸い込み、蜜を舐め、最後に地上の太陽と形容されるこの花の魅力に取り込まれるまで幽香でさえ、花に宿る新種の「強さ」の意味を知らなかったのだ。

 だから幽香は、花を愛する。
 強大な妖力を手にした今この歳になっても、向日葵の美しさと強さに惹かれ続けた。
 夏にその身を尽くす健気な地上の太陽は、その雄麗さをとって風見幽香の澪標でもあった。あのような生き方を必ずや目指すのだと意志に保ち続けては――しかし気付けば、力の世界に自分を求めてしまう。
 向日葵の強さは、今でも憧れの存在のままである。
 だから花が弱いだなんて、まさか言えない。
 向日葵よりも弱くしてそんなことを人に説教する資格が自分にあるのかと自問する。その一方で、このことを断言できるのは妖精妖怪ひっくるめてこの自分だけだという自負もある。
 この界隈で「さいきょう」の妖怪と人妖に言わしめ畏れられているこの自分でさえ――向日葵達に、未だ一度だって勝てたことが無い。
 チルノとやらが……そりゃそうか。
 この花達の強さなんて、まさか知るはずは無かったのだ。

「さていつまでこうしてようかしら……ねぇ」

 問い掛けた。一寸先には既に闇が広がる広大な野、嵐の夜にまさか月明かりが有るはずもなく、当て所ない問い掛けに答えをくれそうなのは風切り音と向日葵の花びらくらいだった。
 摘めば簡単に折れる花である。
 傷つければあっという間に地に斃れて土に還る。
 暴風に叩き付けられ雨粒に濡れる。
 見窄らしく風に傾いで時には折れてしまい、そいつらはつまり雨風に負けて、枯れてやっぱり土に還る。
 こんなにも沢山の花一輪ずつには、それぞれ脆弱でみっともない負けが籠もっている。
 それでも花は、折れるときも咲いている。咲きながら折れるし、咲きながら誰かに摘まれる。
 それでも花は、気付けば次の花が咲く。
 花は花を呼び、呼ぶ花は花を眺めて花を作り花へと継いでゆく。
 連綿たるその流れの中で、本物の「勝ち」を拾い続ける。
 雨に打たれて風に傾いで、斃れて摘まれて踏まれて枯れて尚、咲く向日葵が向日葵として幻想郷に在り続ける。
 
 こんなにも強い花だから、愛せた。
 一年中向日葵を咲かせてみてその強さを人一倍味わっている贅沢絢爛な向日葵畑に、自称フラワーマスターの影がひとつ。
 この花畑に一万輪の向日葵が一年中咲き続けるというなら――私だって必ずいつか、一万一輪目の向日葵になって見せる。
 気高く美しい、幻想郷さいきょうの妖怪になるのだ。
 大輪の花を咲かせる妖怪。
 雄麗な茎を空に伸ばす妖怪。
 強い風に吹かれて茎が折れそうなくらい撓っても、天に掲げた金色の花だけは悠然典雅に揺らし続ける向日葵、その強さと美しさに、風見幽香は誰よりも憧憬という花を咲かせ続ける。

 降り止まない雨に、風見幽香は両手を広げた。
 濡れそぼって重くなった服。
 張り付いた袖に通った腕を両横へぐっと広げ、ぐっしょり垂れた前髪の奥で無理矢理瞼をこじ開けた。
 忽ち水流が目に浸みた。
 滝のような雨水に、しんしんとした痛みが眼球の表面で蟠る。
 耐えられるか。
 雨を雨とせず、風を風としない強さを求めがちな自分を諫めてくれる、泰然たる金色の花。
 雨を雨として、風を風とする花の強さ。
 こんなに雨に打たれて、こんなに風に打たれて自分は、こんなにも今見窄らしい。惨め過ぎる有様である。
 品が無い。
 まだ花ほどに、私は気高くない。


 あの我慢比べの先にひょっとしたら、至極簡単な、自分の求める本物の強さがあったのかもしれない。
 誰かとの勝敗でしか得られない強さとは違う「強さ」。
 美しく咲くという、その一点で決まる優劣。
 他の花が干渉しない、自分の咲く姿で決まる敗者も勝者も無い「強さ」と「弱さ」が確かにある筈だ。
 

 私が花になれた時――私は、さいきょうの妖怪になれる気がする。
 

 それなのに今日もまた、何だかんだで弱い者いじめをしてしまった。
 せめてあのお馬鹿な妖精の目に、自分の姿が少しでも美しく映ってくれたなら救いようもあるのだけど。

 ずぶ濡れの嵐に立ち尽くすのは、いつまで経っても大人げない自分への、ちょっとした罰という意味合いを籠めていたりもする。  
 一人立ち尽くした夜が、轟音と雨粒の中でしんしんと更けてゆく。




(了)





 当時例大祭の直前、穂積名堂さんが風見幽香の合同小説本を出すと盛り上がっておられたので、「幽香か……そういえば書いたことないなあ……」と思いました。
 「思うなら自分でも書いてみれば良いじゃない!」と、胸の中で誰かが叫びました。
 そんなわけで「幽香書いてみよう!」と思って書いた作品です。明瞭。

 さでずむ全開にしながらもうちょっと享楽的な感じでも良かったかな、と今では思わなくもないですが、これはこれで当時の幽香像を出せたかなと。願わくば今度はもうちょっと、物語を大きくして書いてみたいキャラです。
   
(初出:2009年3月9日 東方創想話作品集71)