【メリーチョコ】 |
学生街の真ん中に軒を構える喫茶店は不景気を忘れたかのように、かしましの女子学生達で賑わっていた。
ボブ=ディランは聞こえてこない程度の能力を有す学生街の喫茶店で、ケーキの食べ放題バイキングなどという企画を出せばどうなることか?
血で血を洗う醜い取り合いを演じたのは何も蓮子とメリーの二人だけではない。
暖房さえも寄せ付けない熱気の中、そこかしこで昼下がりの空腹を持て余した学友の女の子達が、鵜の目鷹の目で種々のケーキを野性的に追いかけ回している。先ほどは瑞々しいメロンショートのラスト一個を巡って短髪のメガネと長身痩躯の両女学生が激突、2分42秒パワーボムホイップで長身痩躯がリノリウムの床に沈んだところで沸き立つ歓声、突き上げられる勝ち鬨の拳。
飛び交うパワーボムホイップクリーム。
それはまさしく戦場であった。食べ放題の「放題」という語句の響きは、日本人にとって、必要以上に購買意欲と食欲を喚起する言の葉であることは今更疑うまでもない。
吶喊の戦士達は雄麗に舞う。
その喧噪に今暫し取り残されながらちょっとおなかの肉をつまんで、しかし私がやっていることは皆誰かの猿真似でしかないのだ――
そう気付いた時に、胸のつかえがすっと下りたような安堵を覚えた。
ダイエットが何だ、体重が何だ。
気にするだけ損だ、すぐに右に倣うのは日本人の悪い癖だ。誰もが細身を希求するからといって、この私までもがダイエットに勤しむ義務など無い――
その次に、マエリベリー・ハーンは目の前の宇佐見蓮子を見た。
白いブラウスに包まれた、非常にスレンダーなその肢体。
眺めた時に、やはり負けられぬという理不尽な感覚が胸の中に蘇ってきた。どっちやねん私。
同じように甘い物大好き人間である蓮子だが、身体の中のどんな酵素や細胞が違うというのか、蓮子がウェストのウェの字さえ気にしているのを見たことがない。
「別に……好きなものなら好きなだけ食べたら良いじゃない」
なんてニクい言葉、それは体形が変わらないから言える台詞だ。
如何ともし難い体質の差で、人類には太りやすい人と太りにくい人の二種類が居る。それにしても、同じ女子大学生という身空でここまで差がありゃ流石に神だって恨む。
女の子としてはやっぱり痩せたくなるものだった。猿真似でも何でも良い、光の速さで冒頭の言葉を撤回しよう。
あと一個、その一口がデブの元。ケーキ一切れ腹一生。見た目だけでもスマートなスタイルを維持するためには涙を呑んで、この美味しそうなケーキの最後の一個、我慢しよう――
目の前のケーキという芸術品に、メリーは永遠の別れを告げる。
告げる。
告げようとする。
……告げようとした。
得てして「食べまい」と心に決めた途端、今まで以上にとてつもなく美味しそうな食べ物に見えてきて諦めがつかなくなる――蓋し、それがスイーツの魅力であった。
欲の果て無きは人間のカルマであるか。食べまいぞ食べまいぞと願えば逆に、目の前のケーキの魅力は幾層倍に増すものである。これではいけなかった。
「メリー、そろそろ60分になるわよ」
「分かってる。分かってるから貴方もちょっとぐらい太れば良いのよ!」
「……?」
蓮子はきょとんとしている。
60分、というのは、このケーキ食べ放題に設けられた、店による制限時間のことである。
メリーの脳裡に紫色の結界が迫ってくる。紫色に光を放つ結界の切れ目は秘封倶楽部のレゾンデートル、宇佐見蓮子にも見えなくてマエリベリー・ハーンの瞳にのみ映ることを許されたこの世に無二の代物、境界線。
世界の端境が見える程度の能力――
その紫色は嘘と現実を揺らめかせ、我ら秘封倶楽部を幾度と無く勇ましい冒険へと駆り立ててきたが今回、逼迫したその紫色の危険は何と信号音を鳴らしながら早足で迫ってきた。のこぎりで曳くような安っぽいビープ音、それはコンピューターによる合成の音である。
昨日お風呂上がりに乗ったヘルスメーターのデジタルグラフの目盛りには、あるポイントから紫色に塗られた領域がある。そこに到達した時だ。別にそれで軽くなるとかいうわけでもないのに無駄に大枚を叩いて最新機種の体重計を買って、メリーは風呂上がりに乗り初めを行った。一糸纏わぬ裸だった。そんなことはどうでも良い。
液晶セグメントの目盛りが、文字盤にプリントされた紫色の結界へと到達したその瞬間――私の耳は、世界が変わる音に制圧された。
お腹周り、要注意!
こいつ喋った。
まさか喋るとは思わなかった。最新型の体重計は人語を解すらしくて、そんなことは買って電源を入れるまで知らなかった。
ダイエット、がんばろう!
余計なお世話である。
なんでも最新鋭にすれば良い訳ではないという典型的な見本であった。どうして体重計にまでダイエットを唆されねばならんのだ。そりゃ確かに最近とみにゆとりを失ってきたスカートの締め付けに些か以上の自覚はあったとは雖も、これをよりによって体重計に言われるとなると無性に腹立たしい。
「ねぇ、メリーったら……」
「分かってるわ……」
あれから凡そ二十時間。舞台は60分一本勝負。
誓っておくがこれは蓮子に誘われたのだから仕方ない。気乗りはしなかったが蓮子に誘われたから仕方なく、仕方なく、仕方なく……
……最初は私が仄めかしちゃったような気もするけど……
とにかく仕方なく、店に入ったのである。
しょうがない。
今日は秘封倶楽部の、結成3周年なのだ。
「すごいと思わない? メリー」
「蓮子はいつもすごいわよ。それで、なにがすごいの?」
「三年間も存続してんのに一切練習も実体活動も無いサークルって、ウチの大学でもたぶん空前絶後よ」
「自慢げに言うことじゃないし……そもそも大学公認サークルでもないし、何より」
「何より私は確かにすごい」
「主に夜がすごい」
「何はともあれ結成3年おめでとぉー」
「実体活動は無いけど、幽体活動があるからこれで良いのよ。おめでとう蓮子、今日は夜も含めて無礼講よ」
無礼講――そう言ってかかった手前、私は蓮子の前で存分にケーキを楽しんだ。体重計のことはしばし忘れることにした。
最初は忘れていた。
後からだんだん怖くなってきて、そうなると体重計の声音まで思い出してしまって、
今に至っている。
メリーは改めて、手元の洋菓子に視線を落とした。
百花繚乱の洋菓子の百鬼夜行――その最後一個にしようかどうするか、制限時間に追い立てられながら迷っているそのプチケーキはこれまた奇しくも紫色だった。秘封倶楽部の結界の色だ。ブルーベリーのほどよい甘さを孕んだなめらかクリームをトッピングした魅惑的な洋菓子、何の因果かこの上なくすっげえ紫色。信じられないくらいパープル。世界はすべて紫色に染まるのか。
「私が食べちゃおっか?」
「……イヤ」
さっきから『迷っている』という言い方をするのは、こうして熱視線を向けてくる蓮子にケーキあげてしまうという究極の敗退戦術がまだ選択肢として残っているからである。実はこれが人気の品、紫色ケーキは数量限定生産品の最後の1個とあって遠慮会釈のない文字通りの骨肉の争いを演じた挙げ句に、3分18秒断崖式エクスプロイダーで蓮子を失神KOしてまで鹵獲したそれはもう、大変貴重なケーキなのである。
まだちょっと背中が痛い。
それ故未だに蓮子は残念そうな顔をしている訳で、ものすごいでっかいたんこぶをさすりながら未だ未練をありありと引きずっている。恨むなら己の非力を恨めば良いのだが、割れんばかりの大歓声とクラッカーテープの舞い散る中で握り拳を突き上げたメリーもまたメリーで、振り上げたその拳の降ろしどころに困っている。見事に惨めな両者の有様である。
ねぇ蓮子、やっぱり貴方が食べて……その一言だけで済むことである。ほんの軽い一押しである。そうすれば私は太らなくて済むし、ついでに蓮子に恩義も売れる。
お腹周り、要注意!
体重計がまた脳裡で喋った。
カロリー表示など飾りです、偉い人にはそれが分からないのですよとメリーは思っていた。
「お皿にとったからには食べないと、ペナルティ取られるわよ?」
「わ……分かってるんだけど……」
制限時間まであと6分。時間的に考えても、恐らくこれが正真正銘最後の1個、である。
満腹中枢にはまだ若干の余裕があるが、なかんずく糾弾されるべき問題点は満腹中枢ではなく中性脂肪、この最後の一個が招く結果は想像するだけでも恐ろしい。
一人暮らしも板につき研究も軌道に乗った大学生マエリベリー・ハーンであるが、生来数字に弱いことが災いした。ろくに計算もせずに皿に取ってしまったブルーベリーケーキ。カロリー計算などしたことがない頭は湯気を上げつつ、これまで食べたイチゴとかチョコとかレアチーズのケーキのカロリー表示を直列繋ぎに繋ぎ合わせて弾き出された1,900という数字、これが現実的なのかどうなのかが分かっていない。分かっていないが1,900「円」、1,900「枚」、1,900「本」……などと適当に単位を語尾にあしらってみると、結構どれもこれも大きな量を示している感じがする。
1,900Kcal。
つまりこれって……これってひょっとして、まずいんじゃないかしら?
片手を超える数字は苦手だと前々から思っていたが、食べたケーキの個数が片手を超えたところで危機感に気付いたのだからしょうもなかった。携帯の電卓を弾いて一言、
「蓮子ー」
「何よ」
「1,900Kcalってどれくらい?」
「ブタくらい」
「意味は全く判らないけど、とりあえずかなり失礼なこと言われたのだけは判ったわ。流石蓮子よ」
こういう期待を裏切らないあたり、やっぱり頼りになる相棒であった。とりあえずフォークでほっぺたを深めに刺す。
この頼れる相棒とずっと一緒にいたい。三年の節目を迎えてメリーは一層、今日という一日のケーキならぬ甘さを噛み締める。
つまりこのケーキ一個を腹に収めるかどうかがその秘封倶楽部の未来に亀裂を入れてしまうかもしれないと考えると、本当に由々しき問題であった。
蓮子はきっと言うだろう、ブクブク太ってしまったメリーと組む秘封倶楽部なんてスマートさが無くて死んでもイヤだわ! と。
「い……いや……別にそんなこと言わないけど……」
「嘘。もう貴方の瞳が嘘をついてる!」
「失礼ねえ」
世界はすべて紫色。
紫色の結界、なのである。
「残り4分なんだけど」
「分かってる……はぁ」
ぼて、とテーブルに肘を突いて頬杖、
「……どうしよ」
「食べずに後悔するよりも、食べて後悔した方が良いんじゃない?」
「あのねぇ。食べてからする後悔は長いのよ、週単位から悪いと月単位、最悪で年単位だったりするんだから」
「たかが体型、されど体型しかし体型」
「もう何が言いたいのか分からないわ蓮子」
いつまでも残しているコーヒーの残りをまた小さく啜って、
「美味しい物が目の前にあるなら、食べれば良いじゃない!」
ソーサーが割れるほどの勢いで、ジノリっぽいそれを乱暴に置く。
「貴方それでも秘封倶楽部? 目の前に結界があったら、取るものも取りあえず飛び込むのがマエリベリー・ハーンじゃなくて?」
……太る人と太らない人。決断力がある人と無い人。
時々秘封倶楽部が不公平に見える。
体脂肪率について何の苦労も知らないから、あんなことが言える。つまり蓮子は羨ましい。
厳密に襟を正しておこう。蓮子の今の放言には、些か以上の語弊が含まれていることを忘れてはいけない。結界を見つけ出してくるのは確かにいつもメリーだけど、飛び込むのは常に蓮子が先だ。カーナビゲーションは私が行うけれど、車のイグニッションキーは、振り返ればいつだって宇佐見蓮子が回している。
気が付けばクリープ現象で動き出している歯車。
カーナビだけじゃ旅さえ出来ない。そのままアクセルが踏み込まれて、急発進してゆく好奇心の欠片達。
そりゃ、私だって不思議は好きだけど……
たぶん私一人だとどっかで足が止まってしまう。そこに持ってきて最後の一押しを蓮子がキメて、秘封倶楽部の車輪はいつも動き出しているのだ。
要するに蓮子が無鉄砲で、私が良識派ってこと。
……或いは蓮子が積極的で、私が悲観的と言うのか?
つまり、こんな小さなケーキさえも、同じなのか?
癪に障る。ああ癪に障る。
蓮子ももうちょっと太れば良いんだ。
「……あーあ、もうっ!」
「きゃぅ!?」
深くついていた頬杖を苛立ち紛れにテーブルへ振り下ろした瞬間「こつん」と、衝撃が手の甲に感じられた。
悪い時は悪いことが重なる。
あっ、と思った時にはもう遅い。
なみなみと注がれていたお冷やのグラスはメリーの無意識なる裏拳によって、57分23秒でテクニカルノックアウト。次の瞬間甲高い音を立てて仰向けに倒れ失神、ド派手な勢いで氷混じりの中身をテーブルの上に一滴残らず飛び散らせた。
まるで透明な血飛沫に見えた。
その先には宇佐見蓮子。
生憎と――そこに、遮蔽するものは何も無かった。
「きゃぁっ! ……ごめん!」
「ふふ……女の子の白いブラウスに水を掛けるなんて流石やらしいわねメリーやらしい」
蓮子は不敵に笑いながら微動だにしない。怒りを精一杯押さえ込んだが故のものなのか、それとも本当に泰然としているのかは分からない。
宇佐見蓮子なのだ。
どこでだって止まれて、どこへだって走り出せるスーパーカーだ。
「…………」
「どしたの?」
テーブルを拭き回していたおしぼりをはたと止めて、とすん、と自分の椅子に力なく座る。
テーブルにはまだ、メリーが拭き残した水溜まりが残っている。
「なんか……馬鹿らしくなってきちゃって」
「何が?」
「ケーキよ、ケーキ」
色々なことで悩んでみている。
一つひとつを汲み上げれば実はどうでも良いことである。頭ではきちんと理路を整然と組み立ててそれを分かっているのに、時々無性に不安になる。
押してはいけないボタンを蓮子が押そうとしたら、その時は制動する自信はある。けど、押すべきボタンを押させないカーナビゲーションになってしまう日が、来ないとは言い切れない。
どうせカーナビをやるなら、ドライブが趣味なスーパーカーに装備されたカーナビでありたい。
宇佐見蓮子と一緒に、世界の秘密を眺めていたい。4年目も、5年目もだ。
ならば――せめて。
せめて私だってどこか一点でも、光り輝いていられる秘封倶楽部メンバーで居たい。
「蓮子」
すっからかんになってしまったグラスを取る。
「結成3周年おめでとお!」
「は?」
蓮子はきょとんとしている。
しょうがないので独りで掲げる。
独りで空っぽのグラスをくいっと前に突きだして、
「……ちーん!」
「それ口で言うモノなの?」
「ごめん」
「ちょっと卑猥」
「うん」
ウェイトレスが歩いてくる。左手首の内側に巻いた小さな腕時計をちらりと見遣る。
あ、今確実にマニュアルの接客台詞を思い出そうとする顔をした。
右手に持った伝票に入店時刻を確かめて、エプロンのポケットにボードごとねじ込む。でもまだマニュアルをまだ思い出しきれないらしくて、テーブルの間近まで来て二の足踏んで無言で立ちつくす。
確かこうだろう。
お客様そろそろ時間です。延長なさいますか。延長の場合は十五分単位からですがよろしいでしょうか。ちなみにお値段は……えっと、
「ねぇねぇ! 今の『ちーん』っての可愛かった『ちーん』っての。もう一回やって! そんで二回続けて言ってみて」
「こら宇佐見蓮子」
メリーの眉が震えている。
一方ウェイトレスがとうとう記憶の糸を結びつけた。反芻を終えて息を吸い、声を上げ掛けた彼女を、
右手を挙げて残酷に制すメリー。
……その紫のケーキ、残したら罰金ですからね。
思い出し作業を無駄にされた腹いせに、渋すぎるウェイトレスの顔がそう告げた。
無視してメリーは、蓮子に向き直る。
「蓮子、三周年おめでとう。それと、今までありがと。蓮子が居るから、秘封倶楽部はどんどん見えない場所へ進んでゆける。蓮子が手を引いてくれるから私は嬉しい」
喉がからからになった。
蓮子のお冷やを、メリーは前触れもなく奪い取った。この時メリーは自分のお冷やだと思い込んで手に取っているのだが蓮子がそれを知る由はない。今しがた自分で引っ繰り返したばっかりなのに、まさかもう忘れているなんて蓮子も想像しない。
七割くらい喉を鳴らして一気飲みして、
「ねぇ、だからさ、蓮子」
にかー、と笑ってみせる。
「……いっつもいっつも突進すんじゃないわよバカでマヌケでアンタイノシシじゃねぇだろが!!
たまにゃ人の迷惑も考えやがれっ、この無鉄砲野郎」
58分49秒。
唐突に上がった切り裂くような声に、店中の喧噪が止んだ。ケーキを取り合っていた一年生もお喋りしていた二年生も逆エビへ入ろうとしていた三年生も、みんな水を打ったように静まり返って秘封倶楽部のテーブルへ視線を注ぐ。
蓮子はきょとんとしたまま、固まっていた。
お冷やを取られたっきりの格好で、絵みたいに固まっていた。
59分、02秒。その時間が、普段の一秒よりもずっとゆっくりに感じられた。
蓮子の相好が、ふと、ようやくに崩れる。
「メリー……か。ううん、マエリベリー・ハーン」
今まで見たこともないくらい嬉しそうな顔をした。
「良い名前」
うっとりするような表情で、今更すぎる言葉を呟く。
「良い? メリー。夢も現実も大好きな私が、どうして秘封倶楽部なんて呼んでこのサークルを結集したか」
「……」
今度は、蓮子が振り返る番になる。
冒険――とか言っても、生きるか死ぬかみたいな冒険じゃない。紙切れみたいに揺らぐ現実の中で、消えかかる夢を眺めては冒険と称した恙ない日々。
宇佐見蓮子は、空を見上げれば居場所と時間が分かる。
けれど場所と時間はどちらも、現実に冠される情報なのだ。
夢と現を行き交うには、別のエンジンを必要とした。
「世界の境界が見える、なんて羨ましい能力よ。
私はあなたの力があれば幻想を探せると思って、この秘封倶楽部というサークルを組成したわ。
メリー、あなたがいるから秘封倶楽部は、秘封倶楽部で居られるの」
すうっと、クリームのついたフォークを持ち上げて、メリーの眉間に据える。
そして、メリーの手元に一つだけ残された紫色のケーキをちらりと一瞥し、
……劈くような声で、啖呵を切った。
「グダグダやってないで早く食べやがれ! いつまで悩んでんのよこのタコ、結界を見るその目ん玉さえ太らなきゃ構わないわよ!
どんな体形だって秘封倶楽部ぁ秘封倶楽部なんだから早くそれ口に入れろウスラウスノロ!」
59分44秒。
店のパティシェールやギャルソンまでもがカウンターの向こうで注目している。客は今や一人残らず固唾を呑んで見守り、遠く無粋な客がラウンドを囃し立てるのだけ、嘘みたいな小ささで耳に聞こえる。
「……ウスノロとは何よウスノロとは!」
「ならイノシシって何よイノシシって!!」
「ブタでもイノシシでも関係ないのね!?」
「関係ないわよ!!」
「じゃぁいただくわよ!」
「どうぞ!」
59分58秒!!
「…………ぅあぐっ」
「一口!! ウソでしょあの大きさを一口!?」
「んぐっぐむ、むっぐんんぐぐ」
「バカよメリーあんたばかよ、あんた絶対天才的にバカ!」
「んぐむー!」
引き裂くようなギャラリーの歓声が上がる。
両雄どちらからともなく椅子を蹴って立ち上がらんとしたところで、喧噪は一段とパワーを増し、そしてこの騒動の最中に不気味なくらい無表情なウェイトレスが伝票板でメリーの肩を叩いた。
未だマニュアルを思い出していたのであろうか。
汗の滲んだ掌をぎゅっと握る女子学生、営業をばっくれたサラリーマンのフォークが床から滑り落ちる。
誰も彼もがケーキを選ぶのも忘れて、じっと二人を見守る店内。
くわっと振り向いたメリーの鼻先に、紫色のボードがずいっと突き出されてメリーは後ろに蹈鞴を踏む。
聖職者のように、厳粛に呟くウェイトレス。
「お客様。お時間です」
■ ■
こうして60分のラウンド勝負は幕を閉じた。
慌ただしく会計を済ませ、雑居ビル特有の狭い階段を蓮子に押しつ押されつ外へ出る。
もう黄昏色が支配される時間になっていた。
今しがたまで滞在していた喫茶店の窓を、地面の繧ゥら見上げる。
置いてきた熱気に曇らされたか窓は白く濁り、店内の蠢く人影に蛍光灯のタングステンの青みが混じり、そこに燃えるような茜色が外から照りつけて幻想みたいな色に変わっていた。
「……うぷっ」
「ちょっと」
後ろから出てきた蓮子がつんのめる。
「どしたの?」
「うー……食べすぎた」
「あれしきで」
あれしきとか言うな。七個だ七個。
歩き始めると、一歩一歩がお腹に来る。思ったよりも満腹になってしまってびっくりである。
変なお喋りに打ち興じている間に満腹中枢が熟成されてしまったか、やはり無理矢理一口で突っ込んだあのケーキがよろしくなかったか。せっかくの限定品というのに、時間と蓮子の啖呵に急かされてろくに味わう暇もなかった。
とっても勿体ないことをしたような気になる。
「蓮子ー」
「何よ? おぶってはあげないわよ、重いもの」
「重い? 何か今重いとか言った蓮子?」
「聞こえてんなら聞き返さないの」
けらけらと蓮子は無邪気に笑い、メリーの背中をぽんぽん叩く。
「うぷっ」
「ちょっと、メリー?」
また満腹中枢が成長を遂げて、思わず歩みを止める。
蓮子も立ち止まり、行き交う人々だけが歩みを止めず、川の中州みたいに取り残された二人が黄昏に染められて立ちつくす。
「蓮子ぉー。私、」
「やっぱ芸能人になりたい?」
「うん。って、違うってば」
「違うのか」
「違わないけど違う」
誰も気にも留めず通りすぎてゆくいつも通りの喧噪で、蓮子の声だけがしつこく頭蓋に木霊している。
あんな事を言わせてはいけなかったと思うのに。
「よし。私、明日から芸能人並みの体形目指す」
「メリー。私がさっき恥ずかしいこと言ったのもう忘れて……」
「違う。忘れてない」
腹ごなしもかねて、てくてくと歩き出すメリー。蓮子は飲み込みの悪い顔をして怪訝そうにしていたが、やがて渋々ついてくる。
これは自分との戦いだ。
蓮子とテリトリーの違う場所に居る中で、持てる自信ならいくつか有った方が勝負には分が良いはずだ。
相手はスーパーマンの蓮子。
少しくらい自分が魅力的でなければ、いつか蓮子という名の幻想に取り込まれてしまいそうな気がした。
「分かった。じゃあ明日からメリーを芸能人扱いにするわ」
「お願い」
自分はやはり、紫色の結界を見る瞳がある。
今回、逼迫したその紫色の危険は信号音を鳴らしながら早足で迫ってきた。
蓮子がたとえ気にしないと言っても構わない。これは私の中にある蓮子との、一対一の戦いなのである。
いつでも自分に自信を持てる、自分で居たいと思う。
■ ■
大学はいつも通り、週明けも変わらない。
たまたま土曜日に当たってしまった記念すべき待望の一日を、休学の日にぶち当てられて凹んでいる女学生は多々あった。そんな人々の項垂れた頭を横目に見つつ、今更そんな甘い恋に現を抜かすような年頃でもないでしょ、と、蓮子はスカして読書に耽る。
うららかな、すっかり春模様を通りすぎて少し暑いくらいの陽気。
待ち人は、まだ来ない。
大学のベンチで本を読むなんて、思い起こせばすごく久し振りだった。時間があれば例のアイツとくっついて行動していたし、一人でゆっくりするために充当する時間なんて普段は無い。
こうして一人になってみて、日常に深く食い込んでいた少女の存在を強く感じる。彼女と話をしていないこの時間は、どこか宇佐見蓮子という存在から主体性さえ奪ってしまったような、悔しいほどの空虚感を感じた。
彼女はいつも蓮子の隣にあった。
体形がどうとか本気でどうでも良いんだけど、何だかんだで気に病んでしまうのが女の性というものなんだろうか。
ムキになられても困るから、コンプレックスという単語をそこにぶち込むような無粋な真似だけは避けておこうと、蓮子はぼんやり思っていた。
携帯が震えている。
ぱかっ、と開く。
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題名:無題
本文:結界を飛び越えました
しばらく現世には戻りません
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ううぉ、と蓮子は口の中だけで呟いた。
ムキにならないよう黙っているつもりが、黙っていたら無期欠席を宣言されてしまった。困ったもんである。現世に戻らないというが、戻れないの間違いじゃないだろうなと携帯を閉じた。
本に栞を挟み、ぼふんっとでっかい音を立てて閉じたら通りすがりの人が振り向いた。
膝にかけていた女の子っぽいショールを畳んで鞄に入れ、本をその上に置き、椅子に置いていた綺麗なラッピングの小箱をその上に乗せてファスナーを閉じた。膝を打って立ち上がり、やがてスレンダーなるその大学生はキャンパスの人混みに紛れて消えてゆく。
とうとう来なかった待ち人を、少しだけ体温に温められた白いベンチだけがぽつり、いつまでも待ち続けている。
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題名:Re;無題
本文:渡したいものがあったんだけど
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題名:Re;Re;無題
本文:脂肪分の分解酵素を分けてくれるなら伺います
それ以外の用件では鍵を開けません
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ううぅ、と人混みの中で誰かが呟いた。
チョコレートと言えばメリーなのになあ、とか、どうでも良いことばっかり喧噪の中で考えてたらしい。
ここは都内の一角。カーテンを引かれた暗い部屋の中でその住人は膝を抱え、2,300Kcalという数字の意味をじっと考え続けている。
――お腹周り! 大警告!
――めざせ! 芸能人並の体形!!
やかましいわ。
Fin.
意外にも、創想話で書いた秘封倶楽部はこれで僅か2作目です。 プチに1作、こんぺで2作品あるとはいえ、思ったほど秘封倶楽部って書いてないんですね私…… 秘封倶楽部を描くときはいつも時代考証に迷います。 迷い迷った末に、ある程度現代世界の描写に近づけることで安定した書きやすさを実現しています。 誰にも分からへんもん、未来なんて! |
(初出:2009年2月15日 東方創想話作品集69) |