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【ロンサム・ゲンジー】


 その日は割と暇で、アリスはぼんやりと池の畔の亀に腰掛けていた。

「……って亀!?」

 何の疑いも無く岩だと思い込んでいたアリスは素でびっくりした。十五分くらい日向ぼっこをしていたと思う。
 池の水面の端っこで揺蕩う白鳥の群れを遠目に眺めていたらケツの下の岩が微妙に動いた感触があって、しかもそれが地震みたいな大規模で重みのある動きでなく、例えば寝返りみたいな、いかにも軽くて「よっこらしょ」みたいな生物感のある動き方だったから初めて気が付いた。
 立ち上がってよく見てみれば四肢が備わっていた。珍しく気温が上昇していた冬の或る朝。
 まず最初に悲鳴を上げた。
 貴重な乙女の尻を十五分間、露ほども気付かぬままこの正体不明の生き物にどってりと預けていたというのか。
「……いやああああっ!」
 次の瞬間、アリスは本能が叫ぶまま腰を浮かせて飛び降りると何を思ったか、振り向きざまに正体不明の生き物を思いっきり蹴飛ばした。
 もう一度言うとそれは亀であり、つまり亀からすればとんだとばっちりである。右手に羞恥心、左手に八つ当たりを思い切り握り締めて臍下丹田からの力を結集、蹴り出す爪先の一点に籠めたものだから正体不明の亀はたまったものではない。重さもデカさも何のその、力一杯回転しながら大亀は物凄い速度を出し、気持ち良いくらいの一直線に腹這いのまま地面を滑り出した。
 伸びやかな回転と速度で滑っていった大型のそれは、蹴ったアリスがよくよく見直してみてもやはり亀だった。
 まさに岩の如き固さの背中は緑色で、確かな亀甲紋様が浮かんでいる。ようやくその事実を冷静に確認でき始めた頃に視界の先、亀は魔法の森に自生していたライトグリーンの土管一本に衝突した。
 神速の直線軌道がそのまま再帰性反射を実行する。摩擦係数が無視されている。まるで削がれることのない謎の勢いのまま、再びアリス・マーガトロイドに迫って来た巨大な亀。
「……ええぇえええ!?」
 矢も楯もたまらず絶叫した。土管が生えている理由も分からなければ、一切減速せずに跳ね返ってきた亀の甲羅の材質も謎である。
 そこからのアリス、判断自体は迅速だった。
 それはまさしく咄嗟の行動だった――としか言いようがない。考えるより先に足が動いた。横にすっと避ければ良いものを、無意識の脳裡で一体何を思ったのかアリスは思い切り真上に飛び上がったのである。いつも戦闘は人形達に任せて自分自身の肉弾戦を怠っていた勘の鈍りが、こういう逼迫した局面で間抜けな行動へと顕現する。そのくせ中途半端に人間じゃないから、身体能力だけは無駄に並外れている。
 悠々三メートルは跳躍したであろうアリス、上空から観る池の水面は青空を映し出してとてもとても美しかった。さっきよりも白鳥が小さく見えた。彼方には山並み、春まで今しばらく遠い銀色の峰。
 咄嗟の判断が少々「咄嗟すぎた」と気付いたのは、降下が始まってからだった。
 最高級の反射神経はちょっとばかり速すぎて逆に禍いし、引力に引かれてアリスの身体が落ちてくるちょうどその頃、着地点の地面を高速で通過する巨大な甲羅!
「ひいっ!?」
 思いっきり踏んづけた。
 そしたら甲羅は止まった。ぺこっ、と謎の電子音がした。
 地面に降り立ってバクバクの心音を抑え込みつつ、もっけの幸いで手にした100点のスコアを懐に忍ばせてアリスは亀に近寄る。

(あぁー……久々に運動させてもらったわい)

 心の中に直接響き渡る、嗄れ声があった。
 近寄りかけていた足が、はたと止まる。
 きょろきょろと、周囲を見渡した。
「だ……誰……?」
(どこ見ておる。御主の目の前で喋っておる)
 言われたとおりに前を見た。足許に視線を落とし、そこからずーっと視線を遠い方へ移してゆく。
 赤茶けた鉱石系の小石が群れを成している地面。ひょうたんに似た形の水溜まりがある。誰かの弾幕合戦の残り香か古い弾痕がある。亀の甲羅がある。広葉樹林がある。ハテナブロックがある。緑色の土管がある。

(行き過ぎ行き過ぎ……ここ、ここだって)

 心の中に蓄音機でも置かれたような感覚がする。
 糸のない糸電話を脳味噌に繋ぎ込まれたようでもある。

「……え? 亀?」
(名答。亀よ)  

 にゅ、と、そこでようやく亀が甲羅から頭を出した。滑り転がる時には引っ込めていた手足も面倒くさそうな動きで外に出てきた。姿形を考えるに亀である。上品な日本家屋とかに棲まうミドリ色の掌サイズのカメと絶対同じ種族の生き物の筈なのに、そいつらを餌にでもしてそうなこのデカイ図体と顔、偉そうに揺れる白髭も仄かに貫禄の薫りを漂わせている。
「亀……か」
(亀よ)
「今私に話し掛けてきてるのは、亀なのね」」
(おうよ、亀さんよ)
 問い掛けるアリスの声は、次第に先細りとなっていった。やがて不意に頭を抱え込んでしゃがみ込む。亀がにゅうっと首を伸ばしてきて、上から覗き込んできているのにもまるで気付かない。
 どうも自分の頭がそろそろダメになってきているらしい。
「ショック……さすがにショック……亀と会話できます、とかホント危ない人じゃん私」
(こらこら! ほんとに喋ってるからほんとに)
「人形の前に私がジャンクになったなんて……」
(あーあー。あいうえおーい)
 アリスはようやく顔を上げ、真上にあった老亀の顔を見て短い悲鳴を上げた。そのまま尻餅をついて、
「………………ほんとにこれ、貴方の言葉なの?」
(ほんとほんと)
 ゆらゆらと亀の顔が縦に揺れる。
 言語交換が媒介しているからだろうか、そんな動作さえまるで相槌を打たれているように見える。 
 一人、寒く笑うアリス。
「ご心配ありがとう亀さん――でも大丈夫、亀と心が通じ合ってテレパシーで会話できるとか既に充分危ない人だから」
(ってテレパシーでも無いし! ちゃんと喋ってるから)
「喋ってるって……なにで?」
「口で」
 口で? 
  
「うきもにこえびもおよいでる」

 亀の口が綺麗に動いている。
 冬の涼気が風になって駆け抜けた。
 湖の向こうには白鳥、銀の峰、はたと顔を合わせたまま動かない七色の魔法使いと亀一頭。

 亀は普通喋らないだろ、常識的に考えて―― 

 思わずアリス、天を仰ぐ。
「……ねぇ神様。今の状況を説明するなら?」
 まさか亀に掛ける言葉なんて用意してなくて、アリスは思わず虚空に問い掛ける。
「非常にシュールレアリズムであろう」
 返す言葉が無いのか、亀はそんなことを言う。

 *

「ここ最近、三口以上のメシを口にした記憶が無いんじゃが」

 彼がそんなことを言うものだから、思わず家まで連れてきてしまった。
 前庭周りでリビングに横付けしたテラスまで案内して、どの席でも適当に座って〜と後ろを見もせずに声をかけたは良いものの、常識的に考えたら亀が椅子に座ったりする筈もない。何も考えずに発されたアリスの優しい言葉は行き先を失い、亀は意に介す様子もなく日当たりの良い庭にぐでーっと這い蹲っている。
  
 己が生活を厳粛に振り返ってみると、確かにここ一週間……そろそろ二週間にもなるだろうか、人逢いを経験した記憶がない。
 誰も来ないなら来ないで家に閉じこもってしまうのが余計いけないのだろうが、生来の出不精はすっかり習慣化し、愛し憎しの霧雨魔理沙あたりが御無沙汰になってしまうと即、アリス邸の門扉は固く閉じられっぱなしになる。
 それが寂しくないと言えば嘘になるが、
「……美味しい?」
「うむ」
 数週間ぶりに一人きり以外で食べる食事の相手が亀ってのも、これはこれでなかなか傷にしみてくる。
 どんな会話をしたら良いのか分からない。というか亀を相手にしてどんな料理を作って良いかも最初は分からなかったが、人が食べるような食事なら概ね亀も食べるだろうと、あり合わせの残り物を適当に使って適当なメニューを拵えた。一人暮らしが長いと、無駄にこういうところまで小器用になる。
 亀は感涙に噎んでいた。
 ウチの巫女とはすげえ違う、これは格差社会だと涙ながらに天に叫ぶ。
 アリスの耳は言葉の本旨よりも、その言葉に含まれた違うところを聞き咎めた。
「……巫女? ……ってもしかして霊夢?」
「うむ」
 少し瞠目する。巫女の食事とは違う――それはつまり、霊夢にエサをもらうような環境に棲息していたということかB
 満足の行く食事を与えられなかった事情についても、それならば察しが付いてしまう。人間さえ窮屈にひもじそうなあの神社で、まさか亀に腹一杯喰わせる余裕はあるまい。
 博麗神社にこんな妖怪半分の亀が居たなんてアリスは聞いたことが無い。幾度とない神社訪問の折にも、霊夢がこんなでっかい亀と戯れていたところに出くわした記憶は無かった。ぼんやり考えていると思い出す、そういえば神社の裏手に猫の額ほどの池があったはずだが、
「そうそう、それそれ」
「それなの!?」
 ということで、それらしい。
「昔はよくあの子にこき使われたもんだが……自分が空を飛べるようになった途端ただのカメ扱いにしおったんだよ」
 まるで知らなかった。
 霊夢が昔空を飛べなかったことも知らなければ、空飛ぶ亀が霊夢を背中に乗せていたなんてことも知らない。やっぱり一回ウィンドウズに移植すべきじゃないかしらとアリスはぼんやり思いつつ、年老いたその亀は他にも色んなことを教えてくれるのでじっと傾聴している。
 普段は霊力を使って身を小さくし、あの池の底で細々暮らしているのだと彼は続ける。
 一体どうしてアリスに腰掛けられるような場所に居たかと問えば、
「三日に一回麩菓子の欠片だけ――あんな池で、健康かつ文化的な生活なんて出来るか」
「平たく言えば家出ってことね」
 種族は?
「ガラパゴスゾウガメ」
「ガラパご……ごめんなさい、何ですって?」
 名前は?
「玄爺だ」
「げんじい……変な名前」
「ジョージという生き別れの弟が居る」
「聞いてない聞いてない」
 話に打ち興じる脳裡の片隅で、お爺さんっぽいけど名前もお爺さんなんだ等と失礼な思念が去来している。もうちょっと身を乗り出して会話出来れば良いものを、亀の姿形を相手にしていてどうも臨場感に欠ける。
 ただの亀ではないのは確か。
 人語を解すだけではない。文字通り人並の知識、もっと言えば「感性」が備わっており、つまりは人を相手にして会話するのと何ら選ぶところが無かった。亀だった生き物が何かしらの神力や妖力を得て、長年を経る内に妖怪化したものかもしれない。最初はただの亀かと思っていた。だが亀であって亀じゃない。もし亀がそういう遍歴を辿った亀だというなら幻想郷に山と棲息する中・下等の妖怪と何ら境遇は変わらない亀妖怪だ。
「亀、亀、亀ってさっきから五月蠅いのう」
「だって亀だし――」
 やっぱり亀なのである。
 亀なのだが、アリスの中に蟠っていた居心地の悪さや夢遊感、そして何より虚無感や自分の頭がオカしくなってしまったんじゃないかという猜疑やらの感情が、アリス自身で気付かぬうちにどこかへと消えていた。
 人間のような会話の心地よさ。深く腰掛けて揺れる椅子、ぼへーっと陽光に身を委ねている巨大な亀の背中を眺める。戸棚の向こうに上海人形。ソファに座った蓬莱人形。
 アリス邸の門扉は一週間以上開かれていない。
 人形達が、自ら動くことも無い。
 魔理沙は長期の実験にでも没頭してしまったのだろうか。
 本当に誰も来ない日々である。誰かが所用で訪ねてくるくらいはあっても良いようなものを、その所用のきっかけすら平素から作っていないのだ。蒔かぬ種は生えぬ。
 気付けば亀と普通に話をしている。 
 知人ではないことが寧ろ安寧をくれた。まぁ亀になら話しても良いかという――彼には大変理不尽な、別の意味での安心感が胸を支配するようになっていた。

「ねぇねぇ」
「なんじゃい」
「誰にも言わないって条件を呑むわね?」
「……呑まない、と言える雰囲気ではないな」

 アリスは席を立ち、テラスからリビングに入り、更に歩き抜け、寝室まで到達してからその更に一番奥の戸棚を引っ掻き回す。
 もうもうと綿埃の欠片が舞う。黴臭さが空気を泳ぐ。固い人形の部品に指を突いて、爪が少し痛んだ。目的外ながら懐かしい人形の顔が見えて思わず頬がほころぶ。
 二分。三分。
 やがてアリスは、一体の人形を探し当てる。


 *


「ほらほら、貴方のご主人様ってこれでしょ」
「おぉ」

 視線を向けた亀は、目を丸くした。
 アリスが持ってきたのは、原寸に比べて1/7くらいに縮んだ博麗霊夢である。
「おんし――人形師か」
「そこまでご大層なもんじゃないけどね」
 作ってから、もう五年以上になるだろうか。
 亀は首を伸ばし、じーっと超小型の博麗霊夢を矯めつ眇めつ眺めている。その光景も、正直言えば些か以上に滑稽である。
 博麗霊夢に出逢った、ほんの直後に縫い上げた代物である。
 亀はいやいや、とその長い首を振り、
「器用じゃな――大したものじゃないか」
「ありがと」
 苦笑いして、アリスは受け答えた。
 霊夢には内緒で、もちろん魔理沙や他の人にも内緒で作った。この人形の存在を知っているのは、アリスとその人形達の仲間だけである。
 “身の代”という考え方があり、魔術の寄り代とするのに、実在の人物を模すとより効果的であると信じていたことがあった。その中で、霊力に長けた霊夢を代に選んだ。

「……べ、別にそれ以上の意味なんて無いんだから!」
「?」

 結果からすると、霊夢人形は実際の魔術の舞台には、出番を迎えることなく終わった。身の代という考え方自体が、やがてアリスの中で沈静化したのである。人形に宿る魂のこと――生きている者を模した人形を何かしらの魔法材料に使って、まかり間違って呪詛化して本人に累が及ぶ可能性がある――そんな看過しがたい副作用を見出して、最終的には意味もなく本人に似せた人形だけが残存した。
 ならば、捨ててしまっても良かった。
 けれど、捨てなかった。
 最近は戸棚に押し込みっぱなしになって――あの戸棚の三番目の引き出しの中で、真っ暗なおしくらまんじゅうをかれこれ年単位で続けていた。

 人形を捨てる気がしなかったのは二つ理由がある。
 実在の人物に似せてしまった以上、下手な処分方法で灰燼に帰しめるのは気が引けた事。
 そして、もう一つは――

「――べべべべ別に、だからそれ以外の理由なんて無いから!」
「さっきから一人で何を言っておる」

 じょうびたきが、甲高い声を挙げて森の上枝から飛び去る。掻き乱される冬の涼気、白く濁った遠い山並みの上空。薄暗い雲が峰にまた新しい雪を降らせている。雲を弾き飛ばした青空は幻想郷全体を覆い、今日は日本晴れ、道端に蟠る残雪をゆっくりと水にして流し出してゆく。
 暖かな木漏れ日の中でアリスはあたふた、一人慌てながら――ほんの少し、霊夢の人形を見せてしまったことで気が晴れた気もしている。
 長年に亘って霊夢と付き合ってきた。魔理沙とも付き合ってきた。
 最近誰も来ない。普通に寂しい。
 誰とでも一緒にいられるなら、今は良いと思えるのに自分が素直になれない。一人きりで居る時間が増えて、誰にも言えないような日々ばかりが肥大し続けた。
 何もしてない日々を人になんて話せない。
 何かをした日々さえも人になんて話せない。
 誰とも逢えない日々が続いて、余計人に逢いづらくなる。気付いた時には取り返しがつかなくなっていて、素直さをどこかに置き忘れている。偶然逢えばつまらぬ意地と見栄。偶然逢わなければ強がりと言い訳。
 年老いた亀はもたもたと、食事の残りを皿に嘗めていた。
 「まだ食べる?」 と何気なく問い掛ける。
 「遠慮しておくよ」と、霊夢に捨てられた老爺が答える。





 * 

「世話になった」
「どういたしまして」

 ど派手に真っ赤な夕焼けの太陽が、邂逅の池の水面を照らし出す。
 家路に就く亀の背中は黄昏色に染まり、嗄れた声で別れの仁義を切った。声を出さずにアリスは笑った。必要以上に堅気なその口調を合わせても、やはりシュールの極地としか言いようがない。
 こんなにもあっという間の一日は久しぶりだった。
 夕焼けに煤けたあの背中を、岩だと思って腰掛けた瞬間からおよそ三時間と経っていないはずである。早回しのメリーゴーラウンドのように色んな事が通り過ぎた。何もなかったここ二週間を取り戻すように、三日分くらいの濃密な三時間を過ごしたようにアリスは感じていた。
 どこか新鮮な疲労感を覚えながら立ちつくす。外套も羽織らずに出てきたフロントポーチで、湖面から流れてくる風が肌に冷たい。
 今夜になればまたまた静まり返るであろう家の中が、まるで嘘のようだ。いつも通りだった今朝と同じ静けさが、もう戻ってくるなんて冗談だ。
 すっかりと馴染みきった、パンと紅茶以外に口を開くことのなかった朝。
 すっかりと馴染みきった、夕食とお風呂だけの夜。
「……久々に人と話をしたような気がするわい」
「奇遇ね。私もよ」
 思うより先に口が動いた。
 ふと思い立って、アリスは目を閉じてみる。視界の半分以上を埋め尽くしていたでっかい甲羅も、もう半分を埋め尽くしていた黄昏色もすべて闇に閉じこめて深い息を吐く。
 人の声だけが聞こえる。
「この借りは、どこぞでお返ししよう」
「気にしないで。私も楽しかったし」
「喋り好きの爺々のカメを相手させて悪かったと思っておる」
「別に。周りには河童も妖精も居るし……近場にいる喋り好きの連中はみんな揃って騒々しいだけだし、こういう静かな饒舌ならいつでも歓迎よ」
 目を瞑りながら、また強がってしまって自省する。
 暗い視界の中では、老爺との会話にしか聞こえてこない。年長者に対する反射的な畏怖の念か。自分でも驚くほどの言葉がころころと零れだしてゆく。
 妖怪を相手にするのは慣れっこである。幻想郷には、人語を解す妖怪なんてよく考えれば沢山居るのだ。人間なんかよりずっと理知的であったり享楽的であったり、生き方そのものを楽しんでいる妖怪は山のようにいる。
 目なんてつむらなくても良かった。
 こうして奇っ怪な出で立ちをしていようと、実は何にも関係ないことに気付く。
 そんなん逢って三時間もすれば慣れる。
 ――三時間すれば、慣れてしまうものなのだ。 

「霊夢はあの通りだから……年頃になったらすっかり口を利いてくれなくなって……ひぐぅ」

 くすくすと肩を揺らしてアリス、

「そんなことを言ってると、まるで貴方が霊夢のお爺――」

 そこでふっと、口を噤む。
 別に、このカメが本当にお爺ちゃんだと思ったわけではないけれど黙った。
 閉じた瞼の向こう側、夕陽の最後の一かけが沈んでゆこうとしている。影が伸びてゆく。
 これで……と、思った。
 最後の一ピースである。
 今日という一日を確かに構成し、それなのにアリスに不思議な物足りなさを教えていたパズルの足りなかった最後の一ピースが、かちりと今脳味噌に落ちてきた。閉じっぱなしの瞳の向こう側、歩を刻み始めた重々しい音。
 瞳を閉じて、暗い視界の中に満足を思う。
 足音に語りかける。

「寂しいという訳では無いんですよね」
「直接話はしなくても――人の傍にいるだけで、幸せになれることもあるものよ」  

 心を全て、見透かされたような気がした。
 お年寄りはこれだから、怖い。
 重い重い足音が、ふと消える。
 アリスが瞼を開いたそこに玄爺の姿はなく、夕陽の色を丸く黒くくり抜いたように影だけが落ちており、

 見上げた茜空に浮かんでいた、巨大な亀の腹。
 そういや、空飛べるんだこの亀。

 その滑稽すぎる景色にもう一つ、アリス・マーガトロイドが今度は声を上げて、笑った。
 

 *


 余り物のさらに余り物を使った夕食になった。
 量も少ないその料理をいつもより長い時間かけて食べてその足でお湯も浴び、夜なべ仕事の針を持つ気にもなれなくて、喋りすぎて疲れたしとそのまま寝室へ向かおうとしていた。
 最初は妖怪の咆哮だと思っていた。
 よく居る手合いである。何かに憑かれたように見えない敵に虚勢を張り続け、暗闇に向かって雄叫びを上げ続ける獣めいた妖怪。大した知能も無く、ほとんど野獣と変わらない連中からの防護策ならこの家は盤石である。仮にも魔法使いの住まいだし、寝込みを襲われるような甘いガードはしていない。
 耳を傾けているとしかし、それが言語を形成しているのに気付いた。
 その声にも聞き覚えがあった。
 こう聞こえた。

 だれかたすけてー。
 
 頭に巻いていたバスタオルを放り投げて、サンダルを蹴飛ばしながらつっかけて夜に飛び出す。

 



「……で、しばらく飛んでなかったから飛び方忘れてしかもガス欠と」
「めんぼくなーい」

 魔法の森の空中に自生していたハテナブロックに引っかかり、金色にちかちか光っている灯りに照らされた間抜けな巨大亀を見上げる。
 甲羅の腹の部分で引っかかったせいで、身動きが取れなくなっていた。
 アリスは言葉を失っている。
 ワンピースのネグリジェを吹き抜ける夜風が理不尽なまでに寒い。洗い髪が凍る前に片を付ける必要性に迫られる。というかものすごく寒い。ここまで来るとちょっと長すぎる一日だった。
 亀に腰掛けて、亀が不時着し、亀を救出して終わろうとしている冬の一日。
 重すぎる甲羅を持ち上げられる膂力はなく、アリスはハテナブロックの下に立ち止まる。
 身体能力そのものには自信があった。
 玄爺が呟く。

「……赤い亀ならブロックから降りられず、緑の亀ならブロックから降りてくる」
「……で? っていう」

 少し屈み込んで、夜の森に高く飛び上がったアリスがハテナブロックに見事なフライングアッパーカットを決めた時、月はもう遥か高い空へと昇っていた。更けてゆく夜。戻らない昼間の楽しさを残り香にして、穏やかな光に換えて降り注がせる月の色。
 大きな亀がハテナブロックに突き上げられ、赤い斑点模様のキノコ一個と一緒に裏返しになって虚空に吹っ飛ばされる。
 残雪が染み込んで泥濘んだ地面にサンダルが着地、その勢いを素早く膝のバネで吸収減殺、角度をつけて今度は斜めに跳躍したアリス・マーガトロイドの眼前に、
 舞い落ちてくる巨大な甲羅。
 爪先に、力を込めた。
 
「……空中で亀を蹴飛ばすと、8,000点ー!」
「どわぁあぁああ!!」

 ぺこぉん、と、派手な動作の割に軽い軽い電子音が響いた。蹴撃の勢いは亀甲を竜巻の勢いで弾き飛ばし、すっぽ抜けた右のサンダルが宙を舞う。ゆったりとした動きの赤キノコが、三分の一くらいの速度で亀を追いかけてゆく。
 片足裸足でアリスは着地する。はあっ、と、溜めていた気合いの息を夜風に吐き出した。
 長すぎた一日に、完全な幕を下ろす。
 舞い落ちてきたサンダルは小さな音を立てて地面に転がり、表向きで地面に吸い付いたように止まった。
 怒濤のような疲労感が押し寄せてくる。湯冷めした身体、もう一度シャワーを浴びなければ寒くて死にそうだ。

 一つの言葉も舞わぬ、静謐の森の夜が降りてきた。
 転がったサンダルだけが、明日も晴れだよと告げる。




 *



「これだけのために、わざわざ来たってのか?」
「……悪いかしら」
「お前らしくないから、悪い」

 表面上笑顔を取り繕いつつ、魔理沙に見えない角度でぐっと拳を握り締める。煮えくり返る腹の中をそれでも笑顔の奥底に納めて、一言二言ほど自分でも覚えていない言葉を残し、逃げるように霧雨邸の扉を閉めた。
 はぁ、と溜息をつく。
 見えない誰かに手を引かれて、アリスは玄関から遠ざかる。その敷地を一歩出たところで、改めて魔理沙の住処を振り返った。
 久々に見る魔理沙の家は、相変わらず表面上は綺麗に見える。白亜を意識したと冗談交じりに言っていた玄関の石段、ロココを意識したと冗談交じりに言っていた真鍮のドアノブ。門の支柱の根っこに、芝生や草が永遠に生えなくなった十円ハゲがある。とんでもない薬品を一滴零してしまった結果だといつしか言っていた。扉の真ん中やや右寄りには昔から大きな凹み傷がついている。幼い頃箒で空を飛べるようになる練習をしていて、箒だけが勝手に飛んでいって激突したという。どれも嘘か本当かは知らない。話の風呂敷を大きくしただけの可能性も捨てきれない。
 魔理沙にも、飛べない時代が有った。
 そして霊夢にも、飛べない時代が有った。
 彼女らがそれをどうやって克服していったかは知らない。今までは特に、知りたいとも思わなかった。
 知りたいと思えるようになりたいと思う。
 あの亀はかつて、霊夢を乗せて空を飛び回ったと言っていた。霊夢が精進したのか、はたまた年齢を重ねて博麗の血のままに飛べるようになったのか――彼女が彼を必要としなくなった時に、彼は何を想ったのだろうか。
 そして、何を想っているのだろうか。
 人に忘れ去られた神社の小さな池の中で、大きな身を小さく寄せながら。

 用件をでっち上げるのに困って、十五分もそんなことばかり朝から考え続けていた。
 料理を作って「余り物だけど」なんて言いながら一皿持って行って――というのが当初の有力案であったが、必要以上に冷やかされそうな気がしたので廃案とした。起きてから火さえ点け忘れていた暖炉に薪をくべて、着火剤にと取った古いメモに魔法式が書かれていた。二ヶ月くらい前に必要に迫られて勉強して知った魔法式で、忘れないようにと手近な鉛筆で紙に書き残していたものだった。
 思わずメモを握りつぶして立ち上がった。
 気が変わってしまわない内に、すぐ玄関を飛び出した。

 ――お前が魔法式を教えてくれなんて、珍しいな。
 そんな風にからかわれたけど、アリスはひとまず最後まで、にこやかに耐え切った。
 
 人と一緒に居る。
 その意味や理由や温度について自分は、もう一度考えてみる必要があるのかもしれないと思っている。

 待たせたなー、とのんびりした声が聞こえる。
 外出支度と言った割には普段と何ら変わらない出で立ちのまま、小さな包みだけを右手にぶら下げた魔理沙が出てくる。
「何よ、それ」
「おやつだぜ」
 にこ、と笑って魔理沙は言う。

 思わず視線を逸らして、そらをみあげた。



 

 家に帰ってリビングに入ると、テラスに出る窓口に、長細くて白い包帯が引っかかっていた。
 どこから飛んできたのか想像も付かない。近隣に家なんてどこにもないし、そもそも怪我をした人間がうろつくような場所でも無い。
 冷め切ってしまった暖炉の前を横切り、アリスはテラスに出てそれを手に取り、踵を返す。
 湿り気を帯びた風に乱された前髪を少し気にしながら暖炉の口へ来て、焚き付け代わりにそれを放り込もうとする。

『……御礼じゃ』

 心の中に、直接響く嗄れ声があった。
 息を呑み、天井を、廊下を、テラスを、リビング全体を慌てて見渡した。
「……おれ、い?」
 恐らくはその白い包帯に、言伝の巫術が籠められていたのだろう。昨日より耳に染みついた声はそれ以上聞こえる事は無く、ただ一言のメッセージを翻した術式は即座に霞へ転じ、目に見えぬ煙を纏って虚空へと消えてゆく。
 この包帯が、彼によるどんな御礼だと言うのか。
 角度を変えて眺めても裏返してみても、どう視点を変えたところでただの白い布でしかない。メッセージ性を探ろうにも籠められていた魔術はさっきのが最後で、布の先っぽまでを指でなぞっていっても特に他のメッセージは、
 ……最後に有った。

(へ?)

 掌から仄かに温かさが伝わる。
 布の最後に留められた古い和紙の切れ端が、よく風に飛ばされずに居たと思う。

 霊夢の実使用品

 無駄に渋い草書体だ。
 そんな一言だけ筆書きされても、とアリスは思ったのだが、
 ――掌に伝わる温かさと総合して、アリスはそこに籠められた真意を見つけ出す。
 心臓が不思議なリズムを刻み始める。
 これは、玄爺からの贈り物。
「アリスー」 
「ひゃうっ!?」
 真後ろに魔理沙が立っていた。
 アリスの手を覗き込んで一言、
「そんなもの――どうしたんだよ」
「あ、えっと……これは……」

 謎の老いた亀、玄爺。
 霧雨魔理沙。
 博麗霊夢。
 ふと思い返して、いくつものキーワードが舞い散る今日という日に気付く。
 昨日までずっと「アリス・マーガトロイド」しか存在しなかったこの家のリビングに、今朝は三人もの名前が漂っている。

「霊夢の実使用品、ですって」
「なっ……!」

 この掌にほんわかと伝わる温かさは、確実に霊夢の体温だと思う。
 それが、あの年老いた亀からのメッセージだったに違いない。
 使用済みの包帯ってことは無いだろうけど……それにしても何だろう、手ぬぐい? ハンカチ代わりの長細い布?
 霊夢の温もりが感じられるなら正体は何だって良いんだけど、それにしてもちょっと気にはなった。
 強いて言えば、そうやって伝えてくれる霊夢の体温そのものこそが、あの老いた亀からのプレゼントなのだろう。

「アリス」
「何?」
「ゆずってくれ、たのむ」
「な、なんでよ」

 ぎゅっと、布を掌に丸め込んで頬に当てる。
 頬に感じる、霊夢の身体の温度。

「これは私がもらった物よ。私だけの物なんだから」
「な……なっ! なぬっ!?」

 今朝の温かさについては、心の中で言葉が形を為してくれない。
 霊夢の体温に頬刷りしながら、たった一つだけ言える事があった。
  


 ひとりぽっちはもう、嫌だなって思う。 
 なんだか知らないけど魔理沙が横で、きーきー喚きながら地団駄を踏んでいる。
 
 

 




■Epilogue.


 池の真ん中に浮かんでいる岩は日当たりが良く、玄爺のお気に入りの場所である。そこから見る博麗神社の光景は何一つ、変わりはしない。かつて少女がまだ幼く、亀の甲羅に乗って空を飛び回っていたあの時代から今に至るまで、幻想郷の結界の境目に位置するこの神社は全然変わっちゃいない。
 文字通りの甲羅干しに身体を温めながら、ふと神社の方を見遣ればどたどたと近づいてくる紅白の影。
「ねぇ、ちょっと」
「何じゃい」
「私の――」
 巫女はそこで、はっと口を噤む。
「ま……まぁ、貴方に訊くようなことじゃないわね。ごめん、なんでもない」
「そうかい」
 巫女は一方的に話し掛けておいて一方的に切り上げ、再び境内の方へと踵を返してしまう。
 玄爺はそれを、ぽつねんと見送っている。
 霊夢の様子は、誰がどう見ても変である。
 早足で苛立たしげに歩きながら、その割に腕を振るでもなく寧ろきゅっと腋を締め、向かい風で吹いてくるそよ風の一吹きにさえも大仰に反応し、慌てて服を抱きかかえるようにして抑えながら歩いている。

 にゅー、と伸ばしていた首をぐにゅーと戻し、陽光に温められた岩にぐでーっと全身を預け直した。
 小鳥が飛んできて、その甲羅に止まった。

 ――粗食の仕返しじゃい。

 靈夢が見えなくなった頃、にやりと微笑む老いた亀。
 



(了)




 お題SSです。「アリスと玄爺で一本書いてくれ」。なかなかに無理難題が来ますね最近の日本は。
 タイトルの元ネタは、ガラパゴス諸島に生き残る伝説のカメから。
 そしてアリスとか霊夢とか出すにあたって諸説ある旧作の解釈に迷いましたが、この作品において魔界のアリスだけはひとまず別人として扱いました。

 玄爺については神主がどっかで、「神社の池に居ますよ。今でも普通に生きてるんじゃないですかね」とか言ってたのでたぶん生きてるんだと思います。某氏の作品で128人まで霊夢を増やしたのも玄爺が居たからこそでしたし(ぁ
 でも現在を基準で考えれば当時まだ小学生くらいの年齢だった霊夢ちゃんを、背に乗せて空を飛んでたってことなんですよねこの亀。
 なんだよ亀のくせに。
   
(初出:2009年1月19日 東方創想話作品集67)