【檸檬ヰエロー】

 幼い頃自分の求道について、ふかく懊悩を巡らすことがあった。そうなると夜も眠れなくなった。たとえば今ここに居る自分が倖せであるかどうかとか、じつにどうでもいいようなことがやたら気になって心が漠然と霞む。
 そうなると、どんな教えも同情も、励ましさえもが厭になって塞いだりするので厄介だった。だが、その悩みの答えは必ずや剣が教えてくれると師が云い遺してくれていたから、私は闇雲なまで、それを信じて育つことになる。
 幼年より剣の道を叩き込まれた。だが、そういう我が身の境遇に、暫くは懐疑を抱くこともなかった。たとえば年頃の女の子を見渡せば手鞠をついて遊ぶだとか、髪を結って簪を刺すだとか、とおりゃんせとかかごめかごめとか花一匁(はないちもんめ)とかであるが、それらにもまるで興味を持たず生きてきた。羨んだこともない、どこか違う生き物であるように、ひどく私は冷淡な目でもって彼女らを眺めていたように思う。誰かに同情を求めることもまずなかったし、逆に誰かの憐憫などに与ることもなかった。或いは、これがよかったのかもしれない。歳を重ねるにつれて昂奮は落ち着きを見た。私は特に卑しい妬みに苛まるる事も無く、ただ在るがままの身空ばかりを顧みて成長する。生来の頑固さゆえでもあったかもしれない。
 ところが――程なくして、師が姿を眩ました。遺す言葉の一つもなく忽然と消息を絶ったから、するとそれが、幼年期に縁を切っていた宛のない悩みを蘇らしてしまった。あらゆる修学や求道が堅く閉ざされてしまったようで、暗澹たる絶望が呼び起こされて私を苛んだのだった。
 それはつまり、先の悩みをも例外としなかった。
 たとえば不意に落ち込んだりであるとか、逆に気分が軒昂に過ぎて心が干魃に陥ったときであるとかに、それはふいと鎌首をもたげ上げて、私を仄暗い螺旋へと突き墜とすのだった。大人とはぐれた迷子のような具合、師が消息を絶ってはじめて、私は自らの幼さに気付いたのかもしれなかった。
 傀儡糸のように複雑な悩みであった。が、ひとまず、平素は心もじっとしていた。だからおおよそは平穏に見えつつに、どこかで割り切れぬ、まるで騙し絵のような間違い探しを、私は胸に燻らせて齢を重ねた。

 その日私は主人の寝所に活ける花を求めて、主人と二人、早朝の庭を歩いていた。靄がかって広大な庭は碁盤状に条坊が巡っており、周りを囲い込んで花や草木が点在した。早起きにつとめて歩けば風の心地よく吹き抜ける、只それだけで何がしかの徳をおさめた気分になるから、私はこの日課がなかなかに好きで堪らなかった。涼しさを肺腑に染み込ませて、抜けるような御天道様の光を薄目に受ける。すると、すっと身体が軽くなる。歩いている自分が風になったように思われた。鶲(ひたき)が高枝で囀れば、応じて吟じてやろうなどと気が起きてくる。自分自身が、そうやって朝を迎えるのだ。
 幼き日には苦痛であった早起きも今は愉しみになって、またその気持ちそのものが、自らの成長を思うようでくすぐったくもあった。
「知らない間に、綺麗になったものね。妖夢、貴方がこれをすべて?」
 前を歩む人――西行寺幽々子という、その人が、私の主人たる霊嬢であった。
「はい――僭越ながら」
「へえ――屋敷の主として御礼を言うわね、妖夢」
「勿体ない御言葉です」
 私は恭しい所作で、その言葉に応える。  
 花は千々に咲き乱れていた。蒼穹に雲雀が架かる。晴れ渡る広き庭の一面には、いよいよ、夏の訪れが香しかった。幽々子は、どんな花が枕元に似合うだろうかと言って歩く。彼女が花の品定めをし、それに時折説明を加えながら私が後ろに随った。夏の花の咲き誇るを見るにつけて、幽々子は笑顔を浮かべて揚々と上機嫌であるように見えた。ふわふわと、絶やすことなく笑っている。
 私は――主人のこの笑顔が、じつに好きだった。師でもあった祖父は厳めしく、笑顔というものをあまり見せない人だったから、彼に怒られた折などは幽々子に泣きついて、よくその笑顔に救われた。子供というやつはとても単純だから、ひとりの大人に怒られても、ひとりの大人に笑ってもらえればそれで救われた。彼女はとても爛漫に笑うから、また涙もひとしおに引いてくれた。幼い日に覚えた包まれるような安堵は、今尚脳裏に温かい。
「そうね……泣き濡れて項垂れて、私に縋って――あの日より、まだ時は流れぬと思えるのに」
「……」
「今はこうして、花まで育んでるなんてね」
 幽々子はまたにこりと笑い、それから風に乱した髪をすこし指で梳いて、その指を所在なげに眺める。そこに匂やかな艶を感じられて、私はなぜかどきりとした。
「妖夢ももう――大人なのですね」
 ふと幽々子がそんなことを呟いて、私はどきりとする。
「まぁ、中身はまだ埴猪口……かしら」
「――ええ、私はまだまだ青二才の身でございます」
 答えながら、時ならぬ心音の早鐘に汗が滲むのを感じた。褒められたことによるものではない。私の中に、そういう嬉しさだとかくすぐったさとは異質の、寧ろ闇色の霧じみたものが心を支配し始めるのが感ぜられる。
「いやいや妖夢――背丈だってもう、こんなに伸びて」
 言いながら、幽々子の掌が私の頭を撫でる。
「ん……」
 思わず私は、身を捩った。
 くすぐったかった。そして、雲の中を漂泊するように、不思議と浮つくような気持に襲われた。
「大人なんてすぐよ、ねぇ妖夢。例えばあなたがもっと大人になって――――ええ、その時にあなたが望むなら、この屋敷を」
「幽々子様」
 主人の言葉を、私は少し強い語調で遮った。花を選ぶ作業に没入しようとする。
 逃げ込んだ私に、しかし、幽々子は言葉を続けてくる。
「勿論、全て妖夢の自由ですとも。――貴方だけで決めればいい」
「――」
「妖忌はああいう人だったから、私の前で大それたことを言えなかったでしょう。でも私は、貴方という女の子に、彼も亦、同じことを赦すだろうと思うわよ」
 私はどこか、別世界で言葉を聞いているようだった。 
 幽々子は優しいのである。だが、それは私にとって息苦しい言葉になって朝を消すより他にならなかった。朝風の冷たさも花の鮮やかなるも、くすんだ湯気になって全て蒸発していってしまう。
 先の病気である。
 師が消え、私が白玉楼に仕える理由がいつしか失われていた――そのことに、私は実のところ気付いていたと思う。そしてそれ故に、それは私を螺旋に墜とすのだ。
 楼に留まる理由がないと考えることは即ち、歩みを違える少女達と私を、否応なく鏡映しにすることだった。少なくとも私にとって、違わなかった。
 師が去って以来の歳月を、私はふと思い返す。一滴の水で溶けてしまいそうな縁の紙縒、その華奢なる定めを猜疑することに、私はいつしか、どこか恐怖にも似た感情を覚えるようになっていたのだった。紙縒を千切った先にある壮大な時間と対手するには、私は蒙昧で、まだ幼稚に過ぎると覚えていた。
「――私は、西行寺に仕える者ですから」
 心とは違う場所が、幽々子に、そんな言葉を紡ぎ出す。
「あら、ありがとう。まぁいいか――ごめんなさいね、出し抜けにこんなことを話してしまって」
「いえ」
「私は先に戻ります。良いお花があったら、選んでおいて下さい。……貴方の選んだものに、文句はつけませんから」
 幽々子は誤魔化すように、また少し何かを含んだようで笑って、しかし背を向け、屋敷への戻り道を歩いて行こうとする。
 局は、こういうのが私のいけないところだった。賢しい誤魔化しが出来るほどの強かさも無く、つまりは師や幽々子に言われるのと違わず、やはり私は、生真面目にすぎるのだろう。
 すっかりと宿痾になった懊悩が、今日は弥が上にも、疼きに疼いていた。
 幽々子が珍しく切り出そうとしたその真面目な言葉は、彼女にとっても、必ず言い出しにくい話の筈であった。
 故に、私はまた螺旋へと足を踏み込んでしまう。
「幽々子様」
 小さくなってゆく背中にもう一度だけ声を掛ける。
「何?」
「――いえ。花選びが終わったら、昼食の買い物で郷に降りてきます」
 幽々子は頷き、去った。
 その言葉は、嘘ではない。だが、本当の言葉はまた、別にあるつもりだった。
 私はもう一度奥歯を噛む。
 一人になって、花を眺めた。こういったときの一人は、便利であったが、私は嫌いであった。病のせいだった。
 たくさん、色々な花があるのだ。選ぶ手応えのある、華美な花ばかりであった。花は美しく、また株が同じでもその一つとして同じ花は無く、故に美しく萌える。目移りして迷うばかりで、すると私は珍しく、暫し現を忘れることが出来た。花は十重二十重の虹を描いていた。ここをせんどに萌え盛る。
 そういう花の品定めをしていれば、その色彩の渦の中へ、溶けてゆけるような錯覚を私は覚えるのだった。
 


 私は下町への小径を下っていた。
 二刻ほどの後である。朝、天候は晴天に六割の雲。温く、風は微弱であった。白玉楼の前庭から人郷へ通るこの径は、朦朧とした白霧を昼と云わず夜と云わず醸し出して、無用の人足を遠ざけしめている。さもなくとも、冥界に用を為す者は少ないから、平素は専ら、私一人ばかりが歩く勝手口のような径であった。
 宛もない思考を繰り返しながら淡々と歩いた。一歩下る毎に粘るような暑気が増える。時雨の様な法師蝉の声が降る。粗末な籐籠にありったけの憂鬱を詰め込んで、私は棒にした足を商店通りへひたすらに動かした。
 使いの用事が今日はあるにせよ、たとい何の用が無くとも、ふと気が詰まった時に私はよく人郷に下りた。なかなか、あの空気が好きだ。決して人逢いが得意ではない私でも、あの通りの喧噪にあるとひどく気が安らいだ。見聞きするすべてがやたらと、温ま湯のようにくたりくたりと心を撫ぜるのだった。ささやかな憧憬とでも云うだろうか、茅葺いた飴色の屋根だとか、蔵から漂う糀や醤醢の薫りだとか、工房の軒先に並ぶ色硝子の細工や、不躾な商人や不作法な女人達や遠慮も無い人いきれさえも、白玉楼のあの傲慢な佇みに比せば、幾らかに安息を感ぜられた。高貴な仕来りや作法に頓着しない村々人の生き様には、ある種の清々しさ、不思議な清潔さのようなものが感ぜられていた。
 砂利がちな径には間もなく人家がぼつぼつと現れ、更に程なくすれば村の大通りに出た。ここへ来れば、人足は目に見えて増した。雑踏の中へ足を踏み入れれば、光景は何時にでも同じであり、農夫が鍬や鋤と共に闊歩。行商、旅人が行き交い、遊女と紛うほど化粧じた女や皺深い老婆や草鞋で駆け回る童子達が居て、実に喧噪であり、そしてその凡て誰もは私を見ないのである。
 私は自然と、零れてくる笑みを堪えるのに必死となる。実に痛快ではないか。誰もが私に目も呉れず、しかしすらすらと左右に避けて通り過ぎる。この人通りの中で私はただの一石か、或いは泡沫をその身に弾く程度の流木か何かであり、つまりそれによって河という自然を為す、只の一要素としてだけ在ることが出来た。歩けば勿論たちまち河の水と成れる。此処に礫ほどの区別もない、ひたすら特異な身空も厳格な信念も関係なく、只私をひとりの人間として見てくれて、ひとりの人間として無視してくれるのがこの大通りだ。活きの良い掛け声や荷馬車の轍の音でひっきりなしに喧しいこの場所で、私はどこよりも閑かな、居心地の良さをいつもいつも覚えるのだった。
 ――ふと、足元にころころと転がってくる鮮やかな朱が目の端を掠めて、私はそこで足を止めた。足にこつりと当たった、それは毬であった。転がってきた方へ目を向けて、するとそこには四人ほどの童女が立っている。毬つき遊びのその途中につき損ねて、此方へとそれを転がしてしまったらしく、合計八つの目が私と、その足元に注がれていた。
 特段に何も想わず私は、ひょいと屈んでその遊び道具を拾い上げる。
「ありがとうございます!」
 童子達の声は、快活の限りであった。あまりに快活で、そして、胸がちくりと痛んだ。
 鞠の錦糸に掌が触れていた、それはほんの数秒であったものの、その時、例えばこれも女の子であるのだと――そう鈍い考えが、私の中に蟠る。私が仮令僅か程でも、定めを違えばこの子達と一緒に錦糸織りされた無邪気な毬をつき合って遊べたであろうとか――
 いつもの病気であった。益体も無かった。
 毬は程なく童子の手に返り、彼女たちは私と離れて家並みの隙間に消えたし、私はそこに立ちつくしてまたすぐ河の一石に戻っていた。河は流れ続ける。だが、暑いほどのお日様の温かさはもう、戻ってこなかった。温度の違う汗が、一筋、こめかみを薄気味悪く伝う。悪い考えは、それが次の悪い考えを呼び起こすのだった。臍を噛んだ。
 今朝方の尻尾を引き摺って、こうなると、私の暗鬱な思考は止まってくれなかった。掌に残った、薄ら氷のような毬の、その細い感触がひりひりと痺れるようで、治り始めた心の痣が又疼いて、そうなると通りも居心地が悪くなってくる。
 気づけば、河の水は酷く濁ってしまったようだった。
 私はとうとう足を速め、心地よい大通りの中をやたら早足で、逃げるように歩み進める羽目となった。尖っていた鉛筆がだんだん禿びて行くような、焦躁じみて、不愉快極まりない胸の痺れであった。
 味気ない足取りのまま河を泳ぎ切って、いいことをひとつも考えられず、やがて気付けば目的の青果屋に達した。師の代より得意にしていた店である。暖簾を潜り、わざと足を踏み鳴らして三和土(たたき)に音を立てたらば、見慣れた店主の顔が眠たげに奥から此方を覗いてきた。
「今日も遣いか」
「はい」
「ご苦労なこったねえ」
「別に……苦労はしておりません」
「あ……は、いやーご苦労ご苦労」
 五十を少し通り過ぎた小柄な店主は、少しきょとんとした後、耳を刮ぐ様な攣れた笑いを上げて、まあ決まったら声を掛けてくれと云い遺したら、すいと奥へ引っ込んでしまった。
 ……それがつまり私の人物評であった。真面目が服を着ている奴に、番をつく手間など不要という塩梅である。
 また溜息が出た。
 褐色の天板が三段に拵えられていた。よく躾けられた野菜達が、整然とおとなしく並んでいる。嗚呼、と私はつぶやき、果たして今朝の遣り取りの一連を、また先程の通りの喧噪を、足下に転がってきた朱い毬を思い浮かべるのだ。あの人並みで蓄えた俄な昂奮が、たちどころ逃げ水のように醒めていって、代わりに乾いた笑みが、或いは自嘲じみて止まらなくなる。
 店を埋めた野菜は緑に赤に茶にと瑞々しく映えて、自然の色で洪水を為す様は実に健やかに見えた。そのいくつかを籠に取り上げていても、しかし、やはり私の慰みにはならない。没個性的な野菜がごろごろと棚を埋めている中に、どこかで私は、そんなつまらないものに望んで成らんとする淡い憧れと、それが叶わぬと理解する故の寂寞を感じていた。私を白玉楼に縛った運命への遣る方もない怨嗟があり、一方でその縛りを甘んじて受けようとする魂魄の矜恃であるとか、最早捨て鉢に全てを擲(なげう)ってしまいたい衝動だとか、果ては世捨てをした我が身を想像してみたり、畢竟そのすべてを妄念であると斬り捨てる怜悧な理性の一面であるとかが間断無しに去来して、ふと、朝見てきた花畑や幽々子の屈託無い笑顔がなぜか思い起こされた。白玉楼に咲く花の色はどれも綺麗だった。そして私の心は暗鬱に沈んだまま、野菜の色とりどりたるを見つめる他はない。
 ――その時、ふと、その原色の奔流の中に、明々たる異質の色が混じった。
 私はそこを見直す。
 それは、檸檬だった。郷には珍しい出物で、「遠方の行商が持ち込んだんだ」と主人が云った。私は思わず見とれた。なかなかお目にかかれない品だったこともある。
 私は唐突なまでに、その明るい黄色の果物へ強烈な興味を惹かれていた。紡錘形の奇矯な形状も、他の柑橘と異なる鮮やかな発色も、棚から匂い立つ酸い香りも、左右前後へ退屈に積み上げられた青果の中にあっては飛び抜けた異彩がある。私はそれを手にとって眺めた。それから鼻に持っていって匂いを嗅いだ。
 冷たく清かな薫りがしていた。弄び、冷たい果皮の肌を掌で舐め、窓の光にかざし――「良い品だろう」と、店主の声がかかって気を引き戻された。
「ええ――珍しい物を見ました。久々に目にします」
「上物だよ」
「はあ」
 私は生返事ほどを返し、また檸檬に見入った。泥濘んでいた今しがたまでの思考を忘れ、恰(あたか)もそれがどうでもよくなったように、代わりに甘美な恍惚が私を満たしてきた。得体知れず、しかし紛れもなき安寧で、頭がからりと雨上がりになって、その掌中には今檸檬の実がある。
「どうだね、ひとつ」
 主人が声を掛けてくる。
 私は首を振った。
「申し訳ないですが……」
「そうかい」
 幽々子の命(めい)に無い物は買えない。
 主人は承知顔であっさり頷いて、私にそれ以上の商売っ気も見せてこなかった。そうして算盤も使わず、私の籐籠の中身を横目でちらりと洗ったら、私が差し出した小銭を受け取るや、数えもせずに天井の笊へとそれを放り込んでしまった。
 それきり彼がまた店の奥に引っ込んだから、私は所在を失って、居たたまれず店を出ることになった。
 通りの日差しはいよいよ強く、じりじりと背が汗ばんだ。湿っぽい熱気が絡みついて、またぞろ頭が靄に包まれてくる。檸檬、あの涼しさは何だったか。凛とした香りの美味も、氷のように冷ややかな堅さも、岩のような野菜の洪水にあって尚平然としていたあの紡錘の佇まいも、あの果物は全てを達観したような目で此方に語りかけていた。後ろ髪を引かれる。あんな孤高を、私は知らなかった。
 私は迷ったまま立ち尽くす。
 人の波は、相も変わらない。
 幽々子様の望まぬ物を勝手に買って帰っても仕様がなかったし、用もない果物に銭を使うのも憚られた。だから、糸を引いてくるその不思議な物欲を私は幾度も理性で断ち切ろうとする。それでも彼の檸檬は私を誘って、脳裏にその像を幾度も結んできた。鮮やかな色彩も薫りも粘稠に思い出され、ふいと消えたかと思えばおばけのように生々しく現れて、私の五感をしつこくくすぐってくるのだった。
 ほとほと悩み乍ら――すると、道の端にまた先程の童女らが居るのに私は気づいた。思いがけず目が合い、彼女たちもこちらに気がついたようだ。興味深そうな瞳で、私を射留めてきた。
 紺地に紅葉の柄を抜いたのが居る。不器用な切り方をされたおかっぱ頭が居る。鼻緒の切れかかった下駄が、化粧っ気もない蓬髪が、膝に大きな擦り傷が、此方をじいっと見つめてきていた。
 その一人がついと、握っていた毬をこちらに差し出してくる。
「……一緒に、する?」
 彼女は、抑揚の薄らいだ口調で、ふとそんなことを云った。
 言葉通りの意味だったが、私を誘ってくれているのだと気付くまでに随分かかった。そして――私は、咄嗟に言葉を返せなかった。小さな童女の掌にある朱色の毬が、私にはどこか毒々しく、まるで蠢く蠱のようにさえ映った。
 彼女らを恨んだ訳ではない。その時に、頭の奥で何か、軽い音を立てて壊れた物があった。
 ああ。
 これで分かった、と思う。
 こんなにも鮮やかな毬に、嗚呼もう駄目かもしれないと、私は少しだけ何かを諦めた。そのときに小さな痛みが頭にあった。分かっていたことなのだ、それにしてもなんと、こんなにも、残酷な無邪気があったものだった。
 街で偶然出逢った私を遊びに誘ってくれている彼女たちが、あの朱い毬が、例えばそれも河の水の一握りであるとするならば――何のことはない、所詮絵空事と、私はとうの昔に自覚していたのではないか。
 私は今、河の石にも水にも、成れてなどいなかった。
 妄想と欺瞞を着込んで、私はずいぶんと人生を誤魔化して、不埒な得をしてきた。しかし、その得には訣別して私は進まなければならないし、亦、それは能動であるべきだ。
 朱い毬を丁重に断って、ごめんねと云い、可愛らしい童女達に私は微笑んでみせて、私は今先程の来し方に踵を返した。女の子達は皆可愛らしい顔立ちをしていて、そこに残念の表情が浮かぶのを、最後に私は見た。
 喉が渇いた気がする。
 世界の全てがあの黄色に染まるような錯覚が見えた。
 掌にはもう、あの涼やかな感触が蘇ってきていた。堪えきれず疼くように、私の渇いた脳髄はそれを求めた。
 強いて理由を言うなら、心が自分勝手な満足を求めたということだっただろう。ただそれがどこかにおいて足りなかったのか、或いは逆に満ちすぎていたのかは分からなかった。ひとまず昂ぶった心に、あの冷ややかな柑橘の触感と薫りの記憶は、溶けない氷のように蠱惑的であった。
 私はようやくに、理解するに至る。
 全ての色を呑み込みそうなあの青果店の中で、尚埋もれずにいたあの檸檬ヰヱローこそが、私の受け取るべき毬の色だった。

「――戻ってくると思っていたよ」
 店に入るや、音を聞きつけた主人はさも面倒そうに、建物の奥からよろぼい出てきた。
「申し訳もありません」
「ははっ、難儀なお客様は大変だ」
 彼は悪い口を紡ぎ、亦人の悪い笑みを浮かべたら、しかし私の籐籠を引き寄せて、乱暴に檸檬をふたつ、そこに放り込んだ。私が小銭を出すと彼は笑って、私の肩をぽんぽんと二度叩いた。そして頷き、小銭に目もくれぬまま、店の奥へと引っ込んでしまったのだった。
 私は、また、ただ一人取り残された。
 通りよりも閑かになった店の中で、黄色く光るその実を、私は籠から摘み上げる。
 ずっと求めていた清涼が、存在感が、そこから身体中を駈け巡ってくれた。何年もはぐれていたような、弥に懐かしい大きな安堵に私は包まれた。理屈の沙汰でなく、どこか酔狂のように、これでようやく私は白玉の楼閣に戻ることが出来るのだと思った。
「――ありがとうございました!」
 奥へ下がった主人に、大きな声で礼を云い遺したら、今度こそ、私は揚々たる気持ちで通りに歩み出た。
 河を切り裂いて、通りを貫いて、凡ての水の中を私は泳ぎ切って帰り道を進んだ。
 爽快であった。私は意気軒昂に、人の河の流れを泳ぎ切ってやった。皺の老婆が居た。化粧の遊女まがいが居た。皆、陽を受ける飛沫の如く美しかった。
 目の端を、不意にあの童女が駆け抜ける。こちらには気付かないままに、家路なのか早足で通り過ぎてゆく。その手にした毬は相変わらず朱くて、目に映えて、やがて人混みに紛れて私の視界から消え去っていった。
 あんなに朱い檸檬などあるものかと、私は自嘲する。
 親切な八百屋が遠くに離れた。小さく法師蝉の声が聞こえた。檸檬は黄色かった。暑気は、相変わらず時雨れていた。



「へぇ……珍しいですね」
 膳を見て溜息一つ、幽々子が目を丸くする。思いがけず油を売ってしまった私は、戻るや否や昼食を大急ぎで拵え、
「ええ……勝手なことをして申し訳ないです」
「構わないですよ。献立は妖夢に一任してますから」
 ときに日頃、彼女の食事には果物を一品つける慣例がある――その小鉢の上に、真っ黄色の果実を載せてあった。
「檸檬がデザアトというのも初めて見ました」
 幽々子が意地の悪い笑いを浮かべて、私は小さくなる。
 件のそれは、輪切りにして皿の上に並べた。白玉楼の廚に辿り着いたらすぐに、私は檸檬を、事もあろうに白楼剣で輪切りにしてやったのだった。剣術の修行に身を置いて長いが、食に供する果実を斬ったのは初めてだなあ、と思った。
 だが、どうしても白楼剣でこれを斬ってやりたかったのだ。それでようやく、私はそれをも、斬ることが出来る。
 果肉を露わにして、果物はいよいよ瑞々しかった。
「でも……どうして、林檎と一緒に?」
 ひとしきり感心していた幽々子が、ふと不思議げに問う。
「はぁ――檸檬は、それのみでは酸い味が強すぎるかと存じます。甘い物と供になれば、互いが美味になりましょう」
 私はそんな風に答えて――檸檬に寄り添わせた、一切れの林檎を見つめた。皮をぴんと跳ねて残したうさぎ林檎、その側に張り付く、抜けるような黄色の一片をぼうと眺める。
 俗に伍する生き方を、賤しく見下げるつもりはなかった。だが例えば自分が多少なりとも高貴な身であるとか、引き剥がすように俗と距離を置いているのだという実感を噛み締めるときに、その鮮やかなる色は誇りであり、また同時に毒でもあったのだと思う。檸檬は薬毒であった。結局、私はまだ幼い身なのだと痛感していた。師は何も教えてはくれなかったが、何も言わずに消えた彼の振舞いが、――或いはそれも教えなのかと、私は今に至って思うのである。
 そして、私の側には、いつも甘い林檎が在るのだった。
 眺めていた檸檬と林檎が、ひょいと、白い指に摘まれる。
 幽々子がそれを口に運んだ。うさぎの耳を少しどける指、檸檬の露に濡れた唇が、何とも妖艶に映る。それが何だか、大人の香りを見せつけられるようであった。
「なるほど――美味しいですね。酸いものはあまり好きではありませんが――甘いものと合わせれば、こんなにも違うものですか」
 幽々子はそう言って、私を見てから少し笑った。
 私は僅かに頷く。
「幽々子様」
「何でしょう?」
「――私は、私の好きなように、生きさせていただきます」
 力を込めて、私は、心の中に白楼剣を振るった。
 幽々子はふと表情を真顔に戻し、しかし何の言葉を言わず、もう一度、ただ笑った。
 私は、黙礼で応えるに留めた。
 幽々子の頬が、林檎の色であった。



 許しを得、私は先に食卓を離れ、幽々子の寝所に立ち入った。
 畳の上を辷り、枕元の花瓶に花を挿す。
 「任せる」と幽々子が云ってくれたので、花の取り合わせは私が選んだ。時は既に午後になっていた。私は花畑から二輪の花を摘んだ。もう、迷うことは何もなかった。
 何故あんなにも沢山の種類の花を植え続けてきたかと改めて考えれば、私は、自然と笑みが零れてくるのである。花は色々があった。色々があって、集まって、そしてより美しくなるものがあるのだと、私はとっくに知っていたはずだった。
 今の目の前には、愛する主人の寝床――その傍で紅い花と黄色い花は、よく溶け合って咲いていた。目を閉じ、すべてを忘れて眠る幽々子の枕元で、この真新しい二輪草が揺れてくれる。
 二輪は、実によく似合っていると見える。
 ――祖父の呆れ声が、空耳になって聞こえてくる気がした。
 酸い味の果物に齧り付く潔さは、或いはそれも蒙昧なことなのかもしれなかった。甘い果物と酸っぱい果物は、合わさって互いが美味になるものであった。
 私は、静かに寝所を後にする。そしてその襖を閉じる間際に、もう一度だけ、花瓶を見遣った。
 花の甘い薫りが漂う。
 黄色い花は、檸檬の色にとてもよく似ていた。
 
    
 
 (了)

                                             原典:『檸檬』




 純文学を目指したのではなく、あくまで純文学「テイスト」を目指して作った作品。本物の純文学が自分に書けるなんて思わないし、なら雰囲気だけでもそれっぽく楽しんでもらえたらなーと思って書きました。
 原典の「檸檬」は国語の教科書でもお馴染みの高名な作品ですが、実はさだまさしがそれを原典にして書いた『檸檬』という曲があり、気分としてはむしろ曲の方にイメージを近づけて書いた記憶があります。

 他方創想話のあとがきでは「なのはを観ていて思い付いた」なんて書いてますが、これも実に本当。
 知人の某氏から嘘か誠か「うん、確かになのは」と言ってもらえたのは今でも憶えている。こんなに長いこと忘れないなんて当時よほど鮮烈だったんでしょうね。……なのはの面白さ(そっちか
(初出:2007年11月18日 東方創想話作品集44)