【Laplace】 |
満月が、黒い帯を纏う。
蒼白い月光は遮られ、深い闇が部屋を支配する。
長い永い年月を経ても、この月の光は尚変わることはない。
多くの生き物達は、気付く前に死んで行くけれど。
この光の毒気は、いつの時代も違わない、狂おしい美しさだ。
いずれ満ち、いずれ翳るが月の運命なら、また満ちるも月の運命。
遍く命は欠けては満たされ、巡る因果の果てに花は咲いては枯れる。全ては繰り返し。
貴方が死ねば、私が生まれる。それだけのこと。
500年の間、紅の館でこの私は夜を統べてきた。
月は、満ちては、欠けた。
花は、咲いては、枯れた。
命は、輝いては、散った。
地を見れば剣の木がはびこり、空を仰げば鳥が翼を広げる。
刃の枝は鈍色で地面を覆い尽くし、鳥の群れは光を遮り影を落とした。
だけど、ほんの僅かの季節が巡る内に、彼らの砂時計は最後の一粒を落としてゆく。
剣は錆びて朽ち果て、羽ばたきすぎた鳥達は翼が折れて地に墜ちた。
地平線に沈む夕陽がいつも、紅く血まみれ色に死骸達を染め上げていた。
枯れた薔薇も、腐った果実も。
燃え尽きた命も、驕りすぎた力も。
畏れられる者として、猛る者として。
自分が夜の頂に立ってきた500年という時間は、速く、でもゆっくり過ぎた。
長かったのか、短かったのか。
何千羽もの鳥が墜ちる中で、この翼だけは強く、夜の風を切り裂き舞った。
もちろんそれは、私の誇り。
だけどやっぱり、長かったのか、短かったのか。
月を翳らせた雲が風に飛ばされ流れて、満月が再び光に満ちる。
墨色だった世界が、冷たい蒼白さを取り戻してゆく。
荒んだ薄暗い道を、私は歩んできた。
誰よりも強い力と、誰よりも気高い美しさで。
周りの小さな者達は、私をあっさり覇王に祭り上げた。
あいつに関わるな、運命を変えられるぜ……人妖問わず、そんな囁きが周りで聞こえてきて。
結果、抗う刃の一太刀も、影に芽吹くたばかり一つも、今に至るまで私の身を脅かすことはなかった。
木々の葉擦れさえ、私の頭上では静かになった気がしたほどだ。
運命を操る。
人には、妖怪には、このことだけで私を畏れるには充分だったようだ。
数刻に散る定めの儚い命が、集まってたむろして、一瞬先の未来を恐れるという。
そんな滑稽な花達を眼下に、私は夜の世界を闊歩し続けた。
そんな、ある三日月の夜。
私に、月を満たしてみろと云った者がいた。
握れば折れそうなあのか細い弓張り月を、狂おしく煌めく満月に変えて見せろと。
私は無理だと、首を振った。
君は運命を操れると聞いたが? 彼はそう言った。
月の運命など、私には変えられぬと。私はそう答えた。
彼は高らかに笑い、嘲った。
運命を操る者といえ、所詮その程度か、と。
……今宵満月を見上げ乍ら、私はその夜のことを思い出していた。
目の前を早足で通り過ぎた、短い小さな命のことを。
ひとひらの記憶を残して散った、薄い花びらも。
ほんの一時現世にそびえた、虚空の威厳も。
全ては、砂のお城だった。
みんな時の波が蝕んで、小さな星の粒となって世界に還っていった。
朽ちぬ木など生えぬと。止まらぬ心臓など有りはしないと。
人の戯れ言は、耳を傾ける価値もない。所詮、小さな者達の言い訳。
「こうなることは運命だった――」
「私達の出逢いは運命なのよ――」
……可笑しくて仕方ない。人間が語る『運命』は、いつだって過去形だ。
運命とは未来の定めだと識っていながら、どうして彼らは未来のことを言えないの?
どうしていつも、過ぎ去った時に後から『運命』なんて名付けて、笑っていられるの?
識ってるけれど、知らないからだね。
茎を折る荒れ風、花を散らせる雨粒、葉を齧り取る蠱達。
それさえ全て消し飛ばせば、ひ弱な花だって長く生きてゆける。
運命を変えることは、結局ただの力勝負。
人間も、妖怪も、分かってくれないけれど。
目の前の邪魔を、その小さな手で一つずつ振り払っていけば。
未来なんてものは私でなくても、人間にだって変えられる。
運命なんて、所詮この世界の何かが命に影響を及ぼす、その結果でしかないんだもの。
未来を変えてゆける力、勇気……それが、運命を操るということならば。
大きな力を持つ者が、より大きな運命を操れるのは必定。
だから小さな星達は、月が羨ましかったんだね。明るくて大きな満月が。
そして、怖かったんだね。自分達の運命さえ飲み込みそうな、輝きすぎる満月が。
無数の星達が満月に憧れて、畏れて、そして燃え尽きていった。
遙か大きな運命を変えて行く、気高く輝く紅い月の、強い強いこの力に憧れながら。
でも。やっぱり彼らは愚かだ。
大きな力? 小さな力? そんなもの、実は大して違わない。
確かな百年を計る時計なんて要らない。一秒を正しく刻む歯車が一つあれば、千年だって計れるもの。
一刻先を変える力と勇気があるなら。どんな人間だって妖怪だって、短い一生の間の運命くらい、
簡単に変えられる筈なのに。
そしてそれが出来る生物なら……私は彼らを、「小さな者達」などと呼ばなかったのに。
どうして、満月にだけ憧れるの。
どうして後から、変えられぬ運命だったなんて言い訳するの。
私だって、本当は……。
悪魔に聞いてご覧なさい。本当の運命は、どうなっているのか。
悪魔に教えて貰いなさい。世界の全てを知り尽くして、この空の果てに座っている、小さな小さな悪魔に。
風が泣き、木々が震える。
遠い夜空に、雷鳴が聞こえる。
今夜は、嵐になりそうだ。
私だって本当は、弱い。
世界には、止められない歯車もある。
きっと、そんな歯車の方が多い。
命を運ぶと書いて運命。この星が回り続ける限り、命はあらゆる場所へと運ばれて、
或いは栄え、或いは砕けるだろう。
風に斃れる老木が流す血も、雨粒に散る花弁が零す涙も。
時計の針が回る限り、喪われる運命に私の力など及びはしない。
花は、咲いては散る。鳥は、羽ばたいては墜ちる。
抗えぬ悪魔が、時と共に命を運ぶ。
月とは、満ちては欠けるもの。私には……そんなもの、変えることなど出来はしない。
私はそれを、あの弓張り月の夜に、彼に知らしめてあげた。
心臓を引き裂き、夜闇にその身体をバラバラに飛び散らせてあげて。
……これが、あなたの運命なのよ、と。
月を満たすという、あなたのお望み通りとは行かないまでも、そのお望みと同じように。
変わらなかったはずの運命を一つ、悪魔に代わって私が動かして見せたわよ、と。
貴方程度の運命なら……私は変えられるのよ、と。
だけど。
大きぎる舟は、風に動かなくなってしまう。
高すぎる塔は、登り切る前に疲れてしまう。
自分が強くなれば大きな運命を操れるけれど、自分の運命を変えるのに必要な力も、その分強くなってしまう。
私が強くなればなるだけ、私の運命は強く大きくなり、手の届かない所へ行ってしまう。
他人の運命はたやすく。己の運命は動かし難く。
悔しさと虚しさだけが、いたずらに膨らんでゆく。
月はどんなに輝こうとしても、太陽を追い抜くことは出来ない。
満月は太陽の光をその身に映して、輝いているのだから。
悪戯好きな悪魔がくれた、無理数の方程式。
答えが出ないという答え。夢幻の虚数解。意地悪な最終定理。
この錆付いた鎖を切り離すには……私自身が、究極の悪魔になるしかない。
天も地も何もかも知り尽くし、自分の身に降る全ての世界を、予測出来る悪魔に。
でも。なれっこないじゃない、そんなもの。
だって、バベルの塔は天に届く前に……だもんね。
風が運んだ黒い雲が、また満月を覆おうとしている。
月光が衰え、世界が再び黒に染まり始める。
ねえ、知ってる。名も無き星は月に憧れ、月は太陽をうらやむけれど。
その太陽さえ、広い宇宙の彼方にある、一つの星を中心に回っているの。
その星は、月や太陽なんかよりずっと暗くて見つけにくいのに。
一つ残らず全ての星を、自らを真ん中に、この夜空で回り踊らせているの。
悪魔はいつも、北の最果てに浮かんでいる。
目を凝らしてもなかなか見えない、意地悪に身を隠した姿で。
太陽が現れれば見えなくなるのに、太陽が死ねば……やっぱり悪魔はそこで、座ったままこっちを見ている。
夜が訪れる度、悪魔は空に現れる。
燃えては潰える数多の星を、あの北の果ての空から、きっと笑いながら見ているのだろう。
満月は明るくて美しくて、こんなに沢山の畏れを惹く星なのに。
いくら輝いても、そして満ちても欠けても、それは悪魔の掌の中。
針が回る。星が回る。夜空の文字盤の上、漆黒の大時計が回っている。
この時計が、止まらず回り続ける限り。
運命の輪は回って回って、星達は逆らえぬ河の流れに、涙を流しながら溺れていくしかないんだ。
私の塔は、もう天には届かない。
燃え尽き灰になるまでのこの命を、無力感に苛まれながら愛していくしかないのだ。
残酷な、慈悲のない、哀しい哀しい道だ。
いっそ、忘れてしまいたかった。
自分が強いことなど。
いっそ、知らなければ良かった。
空で笑っている、悪魔がいることなど。
壊れてしまいたい。狂ってしまいたい。
砂時計の中揺れ墜ちる白砂は、大きな砂のお城の欠片。
崩れ消え去ってゆく、私自身の欠片達。
星が壊れてゆく。花が壊れてゆく。
止まらぬ時計盤の上から、命が零れてゆく。
とめどない世界なら。操られるままの満月なら。
いっそ狂ってしまえたなら。
どんなに楽かな。
地下室に閉じこめた、あの子のように。
運命を知らない、力の塊。
夜空のルールを知らぬまま、回るでもなく巡るでもなく、星達の中を流れゆく。
頭上を仰いでも悪魔が見えない、小さな部屋の中のあの子。
冷たい地下室に閉じこめた、無邪気で無垢なほうき星。
私は月でなくても、太陽でなくても良い。ただほうき星のようでありたかった。
強い光を放ちながら、この夜空の闇の中、塵となって消えて行きたかった。
たとえ悪魔の掌の上であったとしても。
輝く星空にこの羽根を広げ、広い広い世界を気ままに駆け抜け、誰よりも強い光で一瞬夜空を彩って。
そして、何にも知らないまま……儚く美しく、消えて行きたかった。
それさえほうき星の、紛れもない「運命」だったとしても。
そんな運命ならきっと、私は愛せたというのに。
誰よりも純粋なほうき星を知る、この世でたった一人の、彼女の姉として。
誰よりも誇らしく、美しく輝く星であれたというのに。
雲が流れてくる。月の光が、また弱まっていく。
どんどん増えていく暗い雲。だけど何故かあの悪魔だけは、未だしつこく
夜空に光り続けていた。
輝く満月を覆おうとする雲さえ、まるでその星を避けて流れているかのように。
北の果てにあるあの星は、太陽さえ自らの周りに回すというのに。
地上の小さな紅い月は、虚ろな六等星ひとつ操れはしない。
大切なほうき星を守り乍ら、消えては生まれる小さな星を、ただ見ているだけしか出来ない。
変えられぬ運命を知ってしまった、哀しい哀しい、短い命の紅い花。
大きな雷鳴と共に、世界が蒼白く輝く。夜空から、月の涙が落ちてくる。
花が燃える。草が燃える。水が燃える。人が燃える。
山が燃える。河が燃える。城が燃える。剣が燃える。
迸る稲光。世界の全てが、蒼く燃える。
満月の冷たい涙の中で。みんなみんな、灰に変わってゆく。
大きな世界で紅に咲いた小さな私は、あといくつの星空を見届けることが出来るのかな。
黒い時計の長針が、いつか時という濁流の中へ私を押し流してくれる時。
可憐で愚かな小さな花は、世界を、時間を、そして変え難い運命を、きちんと愛して逝くことが出来るのかな。
悪魔よ、教えておくれ。
この薄い掌に、永久に消えぬ痣を刻み乍ら。
悪魔よ、導いておくれ。
小さな紅い一輪の花を、苦しみのない運命の輪の外側へ。
いつまで苦しむの。
いつまで悲しむの。
雲が、どんどん満月を蝕んで行く。
強くなってゆく風。頬を打つ、冷たい雨の滴。
それでもまだ、悪魔は夜空で笑っていた。
輝きたがる地上の満月を、嘲笑うかのように。
暗い地下室のほうき星を、固く閉じこめていくように。
世界が容赦なく、暗黒に変わってゆく中で。
悪魔よ、あなたは知っているのでしょう。
か弱い花の、流れ着く行き先を。
悪魔よ、あなたは知っているのでしょう。
鋼の果実が彩る、回らぬ世界の在処を。
悪魔よ、私に教えておくれ。
大きな世界に小さく咲いた、この紅い花の運命を……。
強い女の子ほど、弱いときが魅力的じゃないですか。一見優等生然とした双子のツインテールお姉さんがクラス替えで寂しそうな表情を見せる時とか、ベースギターを担当するバンドメンバーがコードを足に引っかけてステージ上で転んで が見えちゃった時とか。 かといってへたレミリアとかあんまり書かない気がしますが、誰かが言ってた「いつも大人っぽく振舞ってるけどさ、ふと油断した時に思わず幼さが出るんだ」ってのが実は一番正解じゃないかと思います。 それくらいがちょうど良いや。幼女っぽいし。 |
(初出:2006年4月29日 東方創想話作品集28) |