【香霖、香霖】


私はそっと、その厚い胸板に顔を預けた。
無骨な温度がほんのり伝わって、私の頬をぬくもりでそっと包んでくれた。
狭い世界の中で更に小さな、たった二人だけの世界に私は……甘美な酒に酔うように。


儂はそっと、その彫刻を思わせる胸の褥に顔を預けた。
繊細にして彫りが深く、艶やかな彫刻を思わせる……それはまさしく、美と称すに相応しい。
かすかな鼓動と息づかいの中で、儂は泡沫の夢を見るが如く、その圧倒的な存在に酔いしれておった。


「すばらしい筋肉です、妖忌殿……」
「御主とて、なかなか大層な御身体ではないか、霖之助殿――」





+ + +




   〜最初からこうなることが 決まってたみたいに
   〜違うテンポで刻む 鼓動を互いが聞いてる



「私めなど、まだまだ猪口才な青二才……」
「なんの、儂の目にはそなたの胸筋、歴戦の武勇伝を鎧とする英雄……或いはさながら名工による、その塑像を思う」
「斯様な胸板の中で誉められますと、まこと言葉がない……」
「高価な玉にも優る輝きに、水晶の透き通るにもまさる清冽な肉体美……」
「身に余るお言葉」
「なんの、正直な儂の、御主への思いよ……」



   〜どんな妄想を選んでも どこか本当っぽいんだ
   〜左腕に甘えた永遠 ぐちゃくちゃに丸めて捨てる



香霖堂の主人というこの年端も行かぬ青年と、対面したのは何の因果か。
力と技の修道を大義と据える儂のこの人生にあって、よろず屋と思しき斯様な店が何ぞの役に立とうか。
……恥ずかしながら初見、儂はそう思っておった。

だが――


 「私、脱ぐとすごいんですよ……」


静かに地を撫でるような声が、儂の皺の一つひとつに染み入ってゆくようであった。
剣が啼く。嘶く。その漢を見よと、白刃が叫ぶ。
御主の求道は何ぞやと、剣が問い掛ける。いずくんぞ、その漢の映像を瞳に刻まんやと。
正道は剣が教える。剣が導いてゆく。
魂魄の教え。剣が全てを導いてくれる。
儂はその剣の誘うままに――漢の蟹腹を、舐めるように見つめあげていた。


胸が震える音が聞こえた。二つの胸が、同時に音を立てた。
儂の胸で、感動に打ち震えた心が悦びの声を上げる。
漢の胸で、痙攣に打ち震えた大胸筋が勝ち鬨の武者震いを見せつける。
ぴくん。ぴくん。ぴくぴくん。
儂の目から雫がこぼれ落ちるのに、長い時はかからなかった。

儂は身を傾ける。左からの美しい腹筋の皺が、儂の脳裏に焼きついてゆく。
儂はしゃがみ込む。眼前に屹立する雄々しき肉体美が、網膜に焦げついてゆく。
右からの迸る筋肉が、斜め下からの上腕二頭筋のふくよかなるが、後ろからの背筋の隆々たる瘤が……
全てが儂の心を揺さぶっている。

股間に僅か一枚の細布、間口からの風にひらりと揺らしながら、漢は笑うた。
その布さえも疎ましいと、儂は唇を噛んでおった。

何も……何一言として儂は、感動を言葉にすら出来なかった……

 

   〜心の声は 君に届くのかな
   〜沈黙の歌にのって



   香霖……、香霖……

   色んな角度から、君を見てきた――

   そのどれもが素晴らしくて 儂は愛を思い知るんだ……


   「半身半裸……=モロ出さない為の予防線」を……

   今、微妙なニュアンスで……
 
   君は示そうとしている……




+ + +



転瞬。
小次郎の抜刀もかくやと思わせる迅雷の動きで、気付けば儂は衣を打ち捨てておった。


「この店は、玉の一つも置いてはおらぬ……おなごの一人も見惚れさせ得ぬ店よと、鼻に笑うていた行きずりの旅人……」
「それが、御老体であると?」
「そう、今しがたまでの儂よ。だが……」


落ち着け儂。落ち着くんじゃ魂魄妖忌。
もちけつ儂。餅ケツは眼前の漢。
昂ぶり、軒昂に迸るまま逸る心を、そしてこの手を――儂は辛うじて自制に納める。
整息一つ。明鏡止水の境地の中、儂は最後の襦袢の結び紐を解き――幽玄の厳かさで、おもむろに床へとそれを脱ぎ捨てた。


「どの店にもありはない無二の宝玉を、持っておったとはのう……」
「ほう……これはこれは……」


眼前の漢と同じく、涼やかに股間より直垂れる薄い孤城を一枚に残し、儂は老熟の裸身を外界に晒した。
倦まず弛まずの修練が磨き上げた肉体、眼前の漢の息をはっと呑ませる音が聞こえた。
文字通り双璧の肉体が二つ、我等と同じ裸の電球の紅光に、静かに熱く照らされる――

漢が笑った。
儂も笑った。
理由はない。何かが可笑しいでもない。ただ二人は身じろぎもせず、向き合ったままで不敵に笑い合っておった。
微動だにしないまま、力強く据わった瞳と山渓の墨絵を思わせる肉体の陰影、そして……もののふの笑みと股間の白布をひらひらと薄闇の中に浮かべ合って。
二人は静寂の中、只雄々しく聳立していた――



   〜「同じ顔をしてる」と、誰かが冷やかした二人
   〜儂らは似ているのかのう それとも、似てきたのかのう……



店を覗き見た行きずりの妖精は、ぽつりとその一言の後に、絶叫を残して戸外の蒼天に消えた。
張り詰めた棘を思わせる空気が二人の漢の間に流れておった。それが余人には、恐怖にさえ見えたのであろうか。
時も止まりそうな空気の中、鬼気にも似た肉体の矜恃が二筋、目に見えぬ煙のようにゆらゆらと揺蕩うていたのだ――


「御老体……なかなか良いお体をしていらっしゃる……」
「世迷い言……儂は若造にはまだ負けぬと、己を信じておったというのに……」


儂は茫洋として、眼前の漢の蟹腹の段を数えておった。理由は儂とて存ぜぬわ。
うわすげえ……いとおかし、げにうつくしや、まめまめし……
天下無双、満開の桜もかくやと咲き誇る、黄金色の壮観五段腹……


「私めこそ、狭い了見に溺れておりました……この矮小な世界において尚、御老体ほどの傑物が残存健在であったとは――」


感服している儂の前で、その腹筋の持ち主は潔い言葉を呟いておった。そして儂と同じ茫とした視線を、儂の大胸筋に向けておったのだ。
漢もまた、この老練の肉体美に見惚れているようであった。
その視線が、漢に負けず深く谷を刻んだ我が腹筋に落ちる。また一つ、感嘆の息が漢の口から漏れ聞こえた。
視線は更に、おもむろに下へ這う。臍、下腹、そしてさらに下へと下り――


「そこは見んでも良い」
「失敬」


薄い白布さえ見通すかのような漢の眼を、些かの狼狽を隠しながら儂は辛うじて制しきった。
そこは禁忌。無双の漢二人の間においてであっても、それを見せつけ合うはまかり成らぬ。
神聖にして侵すべからざる、漢の標野であろうが戯け者が。

「それにしても御老体の肉体……すばらしい均整……傷さえも勲章とするかのような、その逆三角形流線美の旭光――」
「世辞を言うでない」
「御世辞などとんでもありません。本当に素晴らしい、美しい。幻想郷の芸術だ……」

漢の言葉に、熱が帯びる。
堪えそこねた僅かな誇りの笑みが、儂の唇を微かに吊り上げた。
嬉しいことを言ってくれるではないか、この若きもののふよ……



  〜面倒くさいって思うくらいに、真面目に向き合っていた。
  〜敵知らずだった自分を、うらやましくなるほどに……




「……止そうではないか」


 儂は手を挙げ、それを制した。


「儂は儂として、この身体に誇りを抱く。ながら御主の肉体もまた、世界に誇れる珠玉の芸術だ」
「恐悦至極――」
「なればこそ、そこに優劣など要らぬ。互いに、無双の美術ではござ轤ハか」


 儂は笑って見せた。
 飾り立ての気さえ無かったものの、ともすれば殊勝だったやもしれぬな。


「僭越ながら、御意にございますな、御老体。ここに上下を決するは、何の意味もありません。邪魔です。無意味。無価値――!!」
「ふふふ、御主はまこと、もののふよ……」


 ほっと、儂は息をつく。それは漢の、良識への感服であった。
 求道の精神。修羅の鍛錬、そして肉体美。それを達観出来る、若きもののふ。
 斯様に若いのに、この漢…………出来るっ……!!

 互いの矜恃に、傷は要らぬ。富士は何も一つでなくても良いのだ。
 並び立ち蒼天に聳える、幻想郷の二つ富士であればいいではないか。
 この漢は、それを知っておる。

 この芸術に先後を決するなど愚の骨頂と、過たず心得ておるではないか……




   〜心の声は、誰が聞くことも無い。
   〜それもいい、その方がいい……





「では、改めて……」
「ふむ」
「ええ」

「「貴殿の肉体、味わわせて頂き申します」」





    香霖、香霖……

    色んな美を持つ君を、知ってるよ……

    どこを見て過ごしていたって、息呑んで苦しくなるんだ……




「なんと素晴らしい肉体……」
「はうう……」



    胸板に固くなった、二つもの乳首より――

    小刻みに 鮮明に 儂の理性を埋め尽くす――




+ + +


 幾許の時が、そうして過ぎたであろうか。
 気付けば窓から差し込む黄昏の光が、店を仄かに紅く照らしておった。


「夕の刻か――」


 眼前の漢は、静かに余韻に浸っているようであった。
 恍惚の二文字を双眸に浮かべながら、ただ黄昏の光に身を任せ、静かな面持ちで静寂に座している。

 二つの筋骨の城は窓外の光に、仄かに赤みを帯びているようであった。
 だがそれは果たして、夕の朱染めに浸されただけの理由であっただろうか……


「御老体……」
「む……」
「これは、この世の至福と思って良いのでしょうか……」
「求道に果てはない。されどこの泡沫の時を、儂は生涯忘れ得ぬ。老境の我が身、まだまだ枯れることは出来ぬとな」
「素晴らしきお答え」


 漢の瞳に、またも笑いが浮かぶ。


「こうなると、この布さえも、邪魔になりますねえ……」


 漢はそう言って、己の下腹に垂れる白い布を摘み上げる。
 儂は瞬、呆気にとられる。それでも漢の純粋な想いが、それを笑うだけの度量を儂に与えてくれたのだった。


「戯け者が。我等は衆道に走るために出逢うたのではあるまい」
「はは、これは失敬」
「この芸術の共演に於いて、男色など外道よ。これに色沙汰の余地はない、ただ天地の狭間に於いて聳えし、静と動の純粋なる美の結晶……違うかね」


 儂の口舌に、漢は只言葉もなく、静かに頭を下げて寄越した。
 やはり漢は、漢だった。
 その思念の正しさ、武士道の正しき理解に儂は只、感服を覚えるのみであった。

 そう、儂の理想は、邪心のない、曲がることなき肉体への追求……しかし……



「だが、まあ……」
「何でしょう、御老体」


 こほりと、咳払い一つ。

 
「一枚の布の邪魔さえ無い、ありのままの美しさもまた――雨上がりにかかる虹を映した、葉先の露の一滴に似たるかもしれぬな……」


 儂は零すように呟いて、漢に笑みかけた。
 それに応えて、漢もどこか嬉しげに微笑んで見せる。
 儂もそれにまた、武士の微笑みで返す。二人の漢が立ち上がる。
 互いに歩み寄り、互いの手をがっちりと握る。意味もないのにうんうんと、二人で三度ずつ大きく頷き合う。
 すごく笑顔のままで。

 そして今一度、二つの筋骨は互いを抱擁した。
 布は無論、そのままである。それは命尽き果てるまでの、生き旅の輩に連れ往けば良いと儂は思っていた。

 抱擁は間違っても、男色の心ではなかった。
 そう、それは美を見せつけた勇者への――互いによる精一杯の、称賛のしるし。


 そして、互いを認め合う……
 二人のもののふの想いの燃え上がり――




 それは果てしなく、美しく、甘美で、何物にも代え難く――
 漢は二人そのまましばしの時を、強く、強く抱きしめ合っていた。


 微かに身を震わせる二人の間で。
 二本の白い布が、唄うように揺れていた……









    揺れたり、めくれたり……不安定な布だけど…… 

    それが、君と僕の――しるし……

 


    香霖、香霖……!!

    色んな角度から、君を見ていた――

    ともに服着れない日が来たって、どうせ構いやしないと思うんだ……



    香霖、香霖……  おお大胸筋…………!!

    狂おしく――! 鮮明に――!

    儂の記憶を、埋め尽くす…………





    香霖、香霖……




    嗚呼……

 
 




霊夢「……アンタ達、何やってんの?」
霖忌「「え」」
(初出:2006年12月11日 東方創想話作品集35)