【今昔幻想郷奇譚】

小さな衝撃を足に感じて、私は地面を見た。

  「豆…」

 そこに転がっていたのは、一粒の大豆だった。
 料理にでも使われたのか、ご丁寧に熱が加わったものらしい。

  「ったく。こんなものに弱いとはねえ」

 言いながら、私はその豆を、横に流れる川に向けて素足で蹴飛ばした。
 小さな音と輪を作って、粒は水の中へと消えていった。





-----

  「大寒?」
  「はい、ダイカン。一年の中で、最も寒いと言われている日ですね」


 晴れ渡る冬空の下、身を切る冷気が包む早朝の博麗神社。

 新聞配達員は、何とも律儀なものである。寒かろうが暑かろうが、こうして毎朝きちんと新聞を届けてくる。
雨が降ろうが槍が降ろうがばらまき弾が降り注ごうが、彼女の朝は変わることはないのだろう。
素晴らしく自律された生活である。


  「道理で寒いのね」
  「先輩の記者から教わりました。四季の変わり目を見るには、風や空よりも巫女を見ろと」
  「どういう意味よ」
  「そういう意味です。寒暖の変化とか、すぐに表情や行動に出ますから」
  「失礼ね。冬だって夏だって、私は衣替え一つしないっていうのに」
  「そういえば年中同じ巫女服ですね。寒くないんですか、それ」
  「寒いわよ、色々と。顔も首筋も、手も足も寒いわよ。風が直接当たるんだから!」


 風が直接当たる場所は、その服だともう一箇所あるだろう、一番目立って寒そうなところが…
というツッコミを飲み込みながら、文は空を見上げた。




 晴れという天気は厄介なもので、夏にこれだと暑く、冬にこれだと朝が寒いのだ。
文が図書館の魔女に教わったところによると、雲が無い分熱が逃げてしまい、寒くなる…放射冷却というのだそうだ。
おかしな話だ、熱が逃げているというのに、それではまるで冷気が外から持ってこられたみたいではないか。

  
  「朝は物凄い寒さになって、やっと暖かくなってきたかと思ったら、
   すぐに日が沈んじゃう。冬の晴れは、ありがたい物でもないわ」
  「吹雪よりはマシでしょう」
  「というか夏の晴れはもっとありがたくないんだけどね」
  「夏と冬では、こんなに温度が違うんですから、不思議です。
   太陽はいつでも、ああやって輝いているのに…どうしてなのでしょうか」


 思いついた疑問を口に出すのは、文の日頃からの習性である。
疑問を持って、それに答えを探すことが、良い新聞を書くコツなのだ。



  「教えてあげよっかー」 


 不意に霊夢の後ろから、子供っぽい声がした。


  「あ、珍しいお客様がいました」
  「ここのところ毎日ウチに来てるのに、珍しくもないわ」
  「あら珍しいわよ。幻想郷唯一の鬼よ私は?レッドマークアニマルよ」
  「アンタみたいなのが2匹も3匹も居ちゃ堪らないわよ」


 縁側に寝っ転がって肘付きという、怠惰この上ない格好で足をぱたぱたさせながら、
自称鬼…伊吹萃香は笑い、霊夢の食べのこした煎餅を齧った。





 昨年の、3日置きの宴会騒ぎ。
それを取材しようとして文は、会場を包む薄い妖気に気付いた。
暢気な…いや呑気な参加者達は、それに気付くそぶりを見せていなかったが。

 文は、それがただの妖気ではないと直感した。その上で、人間や妖怪達がどう出るか、黙って見ていたのだ。
理由は二つ。一つは、自分がアクションを起こしてしまっては記事に出来ないということ。
そしてもう一つは…途轍もなく恐ろしい力だ、そう直感していたからだった。

 ただ妖力というだけでなく、言いしれぬ重みを纏った力。恐怖さえ覚えた。
遙かな太古より流れ続けるかのようなその重い力。
 天狗がその力に敵う種族かどうかは別として、あまり関わりたくない力である、そう感じた。
だから、記事ネタにもなって一石二鳥とばかりに都合良く、宴会の参加者達に解決を任せた。







  「きゃっ!!?」

 不意に聞こえた悲鳴。つまみ食いしかけた煎餅を思わずを取り落とした文の視線の先に、
萃香の怒り顔があった。


  「やめてもう〜!」
  「威張ってるくせに、この程度を怖がるんだから」
  「煎った豆は天敵。ヤケドするのよ〜」
  「それを聞いて安心ね。本番までに実験しておかなきゃと思ってたの」


 ふふふ、と霊夢の目が光る。


 大寒とは本来特定の日ではなく、一年を二十四に分けた中で冬の最後の一節区を表す言葉である。
暦上ではこの「大寒」の期間を最後に冬は終わり、2月の初めには春が訪れる。「立春」である。
そして立春の前日に当たる日、つまり節を分ける最後の日が、霊夢の言う「本番」だ。

 その霊夢が文から聞いた話によると、節を分けるから「節分」であり、実際は立春前日でなくても節分はあるという。
他に立夏立春立冬の前日、計3回の「節分」があるらしい。
…もっとも文自身も受け売りの知識だそうで、これまたどこぞの図書館に住む暇人から仕入れてきた知識だそうだが。




  「鬼は外〜って、今の幻想郷には小鬼一匹しかいませんね。これでは節分の記事が書けないかもしれません」
  「たまには私の妖怪退治の武勇伝を記事にしてって、いつも言ってるじゃない」
  「誰が退治されるもんですか!」
  「ぶゆうでん、ぶゆうでん(わくわく)」
  「退治されないってば!!」


 ワイワイとふざけ合っている今の状態では、まあある意味鬼退治など論外だろう。
 そうこうしている間にも、丁寧によく煎った自機狙い弾が大量に萃香めがけて飛んでいった。





-----

 昨年の春、ひょんなことから萃香はこの幻想郷に戻ってきた。
鬼にとってそこはもはや縁の無い場所とされていて、萃香が仲間を誘っても誰一人、首を縦には振らなかった。
それほどこの地は、見捨てられた地だったのだ。
 
 結局半分は物見遊山程度のつもりでこの地へやって来た萃香だったが、それでもその現実を目の当たりにした時は、
そんな脳天気な萃香もさすがにショックを受けた。

 幻想郷の住人達は、ほんの一部を除いて、もはや鬼など忘れていたからだ。
長い時の流れが想像以上に、幻想郷から「鬼」という存在を奪っていたのだ。

 萃香が幻想郷を訪れた、もう一つの隠れた動機…それは、人と鬼との仲直りだった。
萃香は、遠い昔に仲違いしてしまった人と鬼との関係のほころびを繕い、もう一度幻想郷に仲間を連れ戻そうとしていた。
しかし、意気揚々と乗り込んだ萃香を待っていたのは…仲違いよりも残酷で、哀しい現実だった。





  「…そういえば、あれから一年が経つんですね…」
  「そ。ああ、また宴会、花見酒の季節ね〜。また頑張って萃めなきゃ」
  「それも良いですが、今年の宴会を始める前に、去年のこと話してくれませんかそろそろ」



 文は萃香に、上目遣いの目線を送る。



 昨春の大宴会の真相が文々。の一面を飾ることは、今日に至るまで遂に実現していない。
犯人が何も語ってくれないからだ。
萃香はこの事件について、惚けた事ばかり言って、本音を語ろうとはしなかった。

 それならばと記者は、犯人を暴いた張本人である霊夢にも取材を申し込んだ。
ところがその問いに霊夢もまた、口を貝にした。
お陰でせっかくの美味しいネタが、今の今までお蔵入りしていたのだ。


  「貴方でも良いです、話して下さいよ」
  「貴方でも良い、って、随分失礼な記者ね」


 霊夢はむくれるフリをして、文から視線を逸らした。  

 霊夢も事件を語りたがらない理由。それは、どうしても分からないことがあったからだ。
霊夢を悩ませる、疑問。

 何故あの騒動は、「失敗」に終わってしまったのだろうか?



 結局萃香を倒したのは霊夢自身である。
しかし、あの騒動が何を目的としていたのか…というか、そもそも失敗だったのかどうかさえ判らない。
 今こうして神社の境内に現れ、横で子供のように無邪気に遊ぶこの鬼が、
一体何を目指していたのか皆目分からないのだ。
なにしろ本人が幻想郷に居着いてこの調子だから、まったくもって、成功とも失敗とも言い難い。





  「ねえ…アンタ、何が目的だったの?」

 答えが返ってくるはずもないと思いつつ、ぼんやりと独り言のように霊夢は呟く。

  「そうだなあ…ねえ、鬼は今どこに行ってしまったか、知ってる?」

 そんな霊夢の質問を、萃香は逆に質問で返した。

  「こっちが質問してたんだけど…」
  「ねえ、分かる?」
  「そんなの、貴方が知ってるでしょ誰よりも」
  「それはどうかな?」

 萃香はクスッと笑った。

  「幻想郷の外にあることなんて、私には分からないわよ。私は幻想郷の結界に住む巫女なんだから」
  「じゃあそこの鴉天狗のねぐらなら知ってるのかしら?」
  「知らない」
  「ほらごらん、幻想郷の内も外も関係ないじゃない!」
  「何が言いたいのよ」

 いい加減焦れて、霊夢は苛立った声を上げた。



  「意識しなければ知ることさえ出来ない、そういうことよ」



 不意に後ろから、声がした。
 同時に空間に裂け目が出来、スキマからひょっこりと金髪頭がそこからのぞいた。



  「質問を変えるわ霊夢。なぜ鬼は、この幻想郷から去ったと思う?」

 幻想郷随一の古株妖怪が、妖しく笑う。

  「変えるも何も、質問してたのはアンタじゃないわよ」
  「そうだったわね。萃香だったわね」
  「最初に質問したのは私だってば!」
  「じゃあ間を取って私の質問に答えて頂戴、霊夢。ここから鬼がいなくなったのは何故だと思う?」


 はあ…霊夢は大きく、聞こえよがしにため息をついた。


  「萃香が言ってたわね。鬼は乱獲されたって」
  「そう、それが正解よ」
  「言っちゃ悪いけど、私が生まれた時には、幻想郷に鬼なんていなかったわよ。だから乱獲なんて、少なくとも私は」
  「本当にそう思う?霊夢」


 紫は相変わらず、胡散臭い笑みを絶やさぬまま、胡散臭い言葉をかけてくる。
 ここまで首尾一貫して胡散臭い輩も珍しい。

  「霊夢。鬼の乱獲ってどういうことか、考えてみたことがある?」
  「妖怪を2,30匹まとめて消すくらいの術、いくらでもあるわ。
   弱い鬼の有象無象が、それにやられたくらいの事でしょ」



 霊夢は本当に、鬼が幻想郷にいたことを知らない。
記録にも残っていなかったから、当然といえば当然だ。


  「馬鹿言わないで。あんなチャチな『現代術』じゃ、小鬼さえまとめて倒せる訳が無いじゃない」
  「まあ萃香、落ち着いて」


 ムキになって反論する萃香を、紫がなだめる。

 妖術の強さや性質といったものは、時代に比例して進化していく訳ではない。
まるで生き物のように、時代によって隆盛がある。時代に連れ進化する科学技術などと、決定的に異なる点だ。

 妖力は当然ながら、本来人間が持っているモノではない。修行を積んで、周りの世界や妖怪から吸収し、
それを操る技術―それが「人間の妖力」だ。
 平たく言えば、周りの妖怪が強ければ強いほど…世界が妖怪に満ちていればいるほど…存在する妖力は強くなる。
鬼が存在していた時代には、現代よりももっと強力な術があったことだろう。
その意味で、萃香の「現代の…」という言い方は、正しいものだ。


  「確かに、今の術じゃ鬼を倒すのは難しいわね。霊夢は知らないと思うけど」
  「ええ知らないわ。ということで乱獲は私の責任じゃないわね」
  「ああ、さっきの貴方の意見なら、間違いよ?」


 紫はあっさりと断言した。


  「確かに、力の強い鬼に対して、人間は卑怯な手段で乱獲した。これは確かよ。
   でも、それは罠を張ったとか、強力な術を仕掛けたとか、そういう意味ではない。
   そんなことよりも、もっと卑怯な手段。それは、鬼と向き合わなくなることだった」
  「力の差が有りすぎたってことですか?」


 横から文が口を挟む。
それに一瞥もくれず、紫は続けた。


  「確かにそうだけど、それならまだ良かったのよ。
   …霊夢も知ってると思うけど、妖怪と人は、喰われるか倒すかの関係。
   同じように鬼と人間の関係というのは、人攫いと鬼退治だった」
  「なら乱獲されたのは、人間の方じゃなくって?」
  「人間はそれが我慢出来なかったの。喧嘩だろうが飲み比べだろうが、負ければさらわれるというルールが、
   人間には理不尽に感じられてしまった」
  「そりゃあ飲み比べなんかされたら理不尽ね、あんなザルと比べられたら」



 言いつつ霊夢は、今日も酔っ払っている萃香を見る。
紫もつられて萃香の方に視線を向けながら、言葉を続ける。


  「命を賭けて戦う、ってよく言うじゃない。
   妖怪は文字通り命を賭けていた。だけど貴方達人間はそれが出来なかった。
   そして…人間達は、鬼を無視し始めた。鬼を倒すことではなく、人を守ることに重点を置き始めた」
  「どこが違うのよ」
  「人を守る為なら、鬼と戦う必要はない。鬼と向き合う必要はない。
   分かりやすく言えば、鬼に勝つのではなく、鬼との勝負を起こさない手段をとれば良かったんだから。
   人は隠れ、鬼を嫌い、鬼と戦わなくなった」


 紫の口調が、どこか寂しげになる。
 しかし反面、霊夢は納得がいかない。


  「でも鬼は、その分人に狩られることも無くなったんでしょ?
   鬼としても、安穏と棲めるようになるんじゃないの?」
  「それじゃああの娘は、なぜ今頃貴方達の前に現れたのかしら?」


 そう言って紫は、萃香の方を傘で示した。
話に置いて行かれて退屈になったのか、一人手酌酒を傾けている。


  「鬼も妖怪も本当は、人間が大好きなの。
   真剣に鬼と向き合ってくれる人間が、すごく大好きだった。
   大好きだったからこそ、その分変わってしまった人間への失望も大きかった。
   だから彼らは人を見捨てたの。

   繰り返された『乱獲』の、哀しい末路だった。
   …遠い遠い、遙か昔のお話。」



 そう結んで紫は、ふっと小さく笑った。
かすかに自虐的なその笑み。
霊夢には、その理由を掴めなかった。



  「分かってくれたかしら?霊夢」
  「全然」
  「でしょうね」
  「…意地悪」
  「光栄ですわ」


 紫はまた笑う。その笑みはさっきのような寂しさはなく、
いつも通りの胡散臭い、妖しい笑いだった。




  「だって、アンタの言ってることは矛盾だらけだもの。
   人が自分の命を惜しむことって、そんなに責められるべき事な訳?
   鬼は大体人間より遙かに力が強い。そんなのに直接向かっていく方がどうかしてるわ。
 
   それに、当の萃香は人を襲おうとはしなかったわ。紫の言うとおりなら、
   アイツはその辺の人間を襲っていたはずじゃない。
   アイツがやったことといえば、宴会を招集したくらいだった。それはなぜ?

   まだあるわ。鬼と妖怪を同じようにアンタは言った。だったら、何故この幻想郷に
   妖怪だけいるのかしら?
   今こうして妖怪と共生していることは、どう説明を付けるのかしら。

   大体、襲っておいて『実は人間が好きでした』なんてねえ。そんなゆがんだ愛情は、
   ハッキリ迷惑だわ」 




 一気にまくし立てた霊夢に、紫はしばし押し黙る。

 そして一呼吸置いて、遠くを見るような目で紫は呟いた。





  「ねえ霊夢。来週ね、その豆を使うのは」



 紫の手の扇が、霊夢の横を指す。


  「なに?豆程度でやられるからそんなに強いヤツじゃない、
   だから望み通り鬼と競争してやれって言うの?」
  「違うわよ」
  「じゃあ何?」


  「…その豆が、鬼が人間を愛した、証の一つってことよ。
   ねえ、そうでしょ萃香?」



 紫の声につられ、霊夢は後ろを振り返る。

 しかし、そこに萃香の姿はなかった。ついでに、さっきまでメモを取っていた文の姿も無かった。

 一枚の鴉の羽が、ひらひらと冬の風に舞っていた。




  「…アンタの話が長いから、帰っちゃったじゃないの二人とも…」



 声が止まる。
 不満顔で霊夢がそう言って向き直った時には、紫の姿も消えていた。
吹き抜ける寒風、神社に残されたのは、一人の人間だけ。


  


  「あとは貴方で考えなさい。鬼のこと、妖怪のこと、天狗のこと。人間のこと。

   そして…幻想郷のことを、ゆっくりとね」

 

 冬の空から、最後の紫の声が、聞こえる。


  「ちょっと、そこまで言って教えないのは卑怯よ!」

 叫ぶ霊夢に、


  「じゃあ一つだけヒントをあげるわ。
   つまり、『平行な二本の直線』ってことよ」



 姿の見えない紫は、そう告げた。








-----

  「…良いんですか、あの巫女のこと放っておいて」
  「放っておいたのはどっちよ?」
  「…確かにそうですね」
  「アンタが見つけた店だから、今日はアンタのおごり!」


 酔いに顔を赤らめながら、二人は互いに酌を交わした。
以前文が萃香に取材を申し込んだ時、約束していたお店…というか屋台である。


  「アンタが言ってた『名物』はまだなの? 確か焼き夜雀とかって言ってたじゃない」
  「今そこで網に乗ってるじゃないですか。もうすぐ出来ます。それに、焼きヤツメウナギです」
  「ああ、ゴメンゴメン。…それにしても、天狗とこうしてゆっくり酒を飲む機会があるとはねえ。成り行きだけど」
  「私も驚きです。取材抜きで鬼の貴方にゆっくり話を伺う機会があるとは。成り行きですけど」
  「そう、成り行き。本当は、天狗とはあまり関わるなって言われてるんだけど」
  「飲み仲間には代えられない、と?」
  「あ〜、もう店主遅いよ〜!焼き夜雀はまだなの〜〜!?」
  「…もうそれでもいっか」







 私にとって、幻想郷とは何だったのか…萃香は盃を傾けながら考えていた。

 萃香自身、実は鬼が幻想郷から去った理由を詳しくは知らない。
いや、知っているのは知っているのだが、理解が出来ていなかった。
その理解度合い自体は、霊夢とさほど変わらぬものだった。

 紫の言った言葉自体、間違いはない。
闘ってこそいても、鬼に人間を憎む感情はない。信頼さえしていた。




 じゃあなぜ失敗したんだろう…萃香はふと、昨年の騒動の時を思い出した。

 遠い昔に仲違いしてしまった鬼と人間。
萃香は、ここらで一つ仲直りさせてやろうと企んだ。
鬼が大好きで、しかも幻想郷の住民が大好きな物とくれば…お酒である。
萃香は策を弄し、度重なる宴会を開かせた。

 最後は見破られて、宴会自体は終わってしまった。
しかし、幻想郷の中に鬼という認識を植え付けたという点では、萃香の意図はある程度成功と言えたはずだった。



 ところが、幻想郷に鬼は戻ってこなかった。
折角住民達を一同に萃め、存在を知らしめたのに。
萃香自身は幻想郷に馴染んだものの、他の鬼達を受け入れようとする姿勢が、幻想郷に作られることはなかった。 



 頭を悩ませていたその疑問。
しかし、今日の紫の話に、萃香は、ぼんやりとした考えを見出した気がしていた。





 鬼と人間の関係は、人間同士がワイワイ騒ぐ、ああいう交わりではなかったのだ。
紫の言うとおり、人攫いと鬼退治という関係が、鬼と人間の信頼関係であるべきだったのかもしれない。

 宴会を開けば、一夜二夜は盛り上がるだろう。鬼と一緒に飲み比べでも、楽しめるかもしれない。
だが、それでは鬼は結局「お客様」だ。
「今時珍しい者が来た」くらいで止まってしまう。

 本当に幻想郷に鬼を戻すには…萃香は、「人攫い」をすべきだったのだろう。
太古の昔に根付いた妖怪達との関係を、今一度蘇らせなければならなかったのかもしれない。



 だけど。

 だけど。









   「どうしたんですか、押し黙って」

 不意に文に声をかけられ、萃香は我に返った。


   「酔いでも回ったんですか?」
   「バカ言わないでよ〜!」
   「でしょうね。この程度で酔いが回るような鬼はいませんよね」
   「違うわよ〜、いつだって私は酔いが回った状態なの〜!!」
   「…」
   「さあ飲もうよ!まだ夜は始まったばかりよ!呑ま呑まイェ〜イ!!」


 あきれ顔の文に、萃香は自分の瓢箪から酒を注ぐ。


 大はしゃぎする萃香。文にはしかしその萃香が…どこか寂しげに見えていた。
 騒ぐのが好きで、お酒が好きで、そして力は強くて…そしてどこか寂しげで。
それはまさに―お伽噺に出てくる大昔の鬼達の姿、そのものだった。


   「なにかあったんですか?」
   「何もないよ〜」

 萃香は笑って否定する。
そんな萃香を見ながら、文は盃を口に運んだ。



   「ねえ…」

 不意に萃香が、急にしんみりした声を出した。

   「やっぱり。どうしたんですか?」

 盃の手を止めて、文が聞き返す。

   「私は、間違ってたのかな?」

 か細い声で、萃香は切り出した。


   「何がですか?」
   「幻想郷に鬼は戻ってこなかったじゃん。ま、どれだけ本気で仲間を連れ戻そうと思った訳でもないけどね。
    私はそんなに偉い鬼でもないし。
    …だけど、これだけ大騒動を起こしてやったのに、結局鬼が戻れる土壌は作れなかった」
   「そうでしょうか、今戻ってこさせてもあの人間や妖怪達ならうまくやっていってくれそうな気もしますが」
   「気、じゃダメなの。やるからには確実に戻ってこれるようじゃないと」
   「殺し合いになるからですか?」

   「そう、私もそう思ってた。だけど、今日の紫はそれで良いと言った。

    …アンタはどう思う?人間と妖怪が闘う幻想郷が、本当に欲しい?」





 萃香の言葉に、文は答えることが出来なかった。
それはついこの間、文にも突きつけられた課題だったからだ。

 自分が書く記事が伝えられるモノ…それを文は、映姫に色々と説かれた。
そのペンの力で、人間や妖怪の闘いを止めることが良いことなのか悪いことなのか。

 事実と真実の違いについては、今は関係ない。
問題は、私が新聞を書き続ける理由だ。




 妖怪にとって、人は襲う対象でしかない…それは文も重々承知している。
その上で文は、人間との交流を深めている。
それは、人間と妖怪が共に暮らしていける幻想郷を実現する為、ということに他ならない。

 今日の紫の言葉は、治まりかけていた傷を再び疼かせた。
忠実に事実を伝えることが、究極的には荒んだ心を変える力になるのかもしれない…
あの騒動の後、文はそういう結論に至っていたからだ。

 紫の言葉が本当なら、「文々。新聞」で実現しようとしていることは、端から間違いということになる。
…まあ結局理念が違った所で、事実を伝えるという新聞記者としてのつとめは変わらない。
だがそれは、新聞を書き続ける文の生き甲斐に関わる問題である。


   「どうでしょうか…私も、あまり、そういう幻想郷は望まないような…」
   「だけど、それじゃあダメだったって、さっき偉い妖怪が言うんだもん」
   「人と妖怪が仲良くすれば…」
   「鬼は戻って来ない」
   「闘いあえば…」
   「鬼は戻ってくるかもしれないけど…」
   「不満ですか」
   「不満ね」
   「私も不満です」



 二人で、小さく頷いた。
 そして今度は、文から質問を投げた。



   「貴方は、また鬼の里に帰るのですか」



 萃香の盃が止まる。

   「どうしてそんなこと聞くの?」
   「だって、結局貴方の望む結果には…」
   「そうね」
   「じゃあ…」
   「帰らないよ」

 さも当然と言うかのように、萃香はニッコリと笑って言った。


   「私は、幻想郷が気に入ったもん。
    仲間は連れて来れなくても、私は今の幻想郷が好き!」






 子供のように無邪気な口調。

 文は、自分の気が晴れていくのを感じた。






   「そうですね、私も好きです。
    今の幻想郷が。」



 文の返事に、萃香はまた、ニッコリと笑った。





   「さて、呑みましょうか」
   「飲み比べなら、鬼たる者、負けないわよ〜!」
   「私だって望むところです。でも最後に一つだけ。

    …幻想郷の妖怪達は、どうして幻想郷に留まったのでしょう。
    私はそれだけが分からないのです。
    幻想郷で過去に起こった出来事が鬼を失望させたなら、同じようにこの地を去っていてもおかしくは…」


 文は飲み比べの前に、最後の疑問を口にした。
その文を見て、萃香は得意気な顔になる。


   「ああ、それなら私には分かるよ〜!何せ私は鬼なんだから」
   「?…どういうことですか?教えて下さい」
   「まあ良いじゃない」


 萃香はいたずらっぽい笑いを浮かべた。
その顔を見て、文も、それ以上追及するのはやめた。
今は、この素敵な飲み仲間との、素敵な時間を大切にしたかったから。
 






   「さあ、呑も呑も!焼き夜雀も冷めちゃうよ!」
   「…本当にどっちなんでしょう、この料理。さっきから店主の声も聞こえないし…
    うん、まさかね。」
   「何ぶつぶつ言ってるのよ〜!」
   「それにしても上機嫌ですね。何か良いことあったんですか?」
   「あったんじゃなくて、これからあるのよ。来週は年に一度、私達が主役の日!」


 ああ、そういえば…霊夢が豆を持ってたっけ。
 …って。


   「アレは鬼が退治される日ですよ?良いんですか?」
   「良いんだよ!だって鬼は退治されるもの、人は攫われるものなんだから!」





 …そう。私が言った「仲良し小良し」なんて、甘ったるい見せかけの結論だ。
それに納得したように見えて、この鬼は実はちゃんと、すべて分かっている。
溢れんばかりの矛盾を抱いたまま、この鬼は本当に、幻想郷という場所を愛しているのだ。

 今なお残る鬼のしたたかさに文は、天狗として少しだけ、嬉しかった。

 そして、あの宴会騒動の記事は…このまま私の手帖だけに仕舞っておこうと、決めた。







----- 

   「あ、お帰りなさいませ、紫様」
   「藍、今日は何日だっけ」
   「31日ですが」
   「そう。そろそろ豆を用意しておいて頂戴」
   「豆…ですか?」
   「そう。よく煎った豆をね」
   「…私は鬼役は御免ですからね」
   「分かってるわ。ウチにはもっと適任者がいる。『赤鬼青鬼』なんてスペルを使う子がねえ」
   「…また目も当てられない状況になりそうですね、あの子が」
   「それまで一眠りするから、その日には起こして頂戴ね」
   「起こしたくないですが、お起こしします」
   「頼んだわ」

 紫はそう言って、自室の襖を閉めた。





 あの鬼が幻想郷に現れた時は、目を疑ったものだ。
まさか鬼が、この幻想郷の地に戻ってくるとは、全く予想していなかったから。



 なぜ鬼だけが、幻想郷の地を去ってしまったのか。
 なぜ妖怪達が、人間達と共存出来たのか。

 それは、鬼が誠実だったからである。
鬼は、他のどんな妖怪達よりも誠実だった。
人間の決めたルールに従い、人攫いも鬼退治も、そのルールに則ってやっていた。

 誠実な鬼達は、自らルールを破っていく人間達に我慢が出来なかった。
それが例え、退治されてしまう危険を減らしてくれる「副作用」を生んでくれようとも、
それ以上にルールを破ることを…人間と妖怪のあるべき信頼関係を崩してしまうことを嫌った。
そして鬼達は、人と鬼お互いが傷つかないよう、永遠に人間を見捨て、鬼ヶ島へと移り住んでいった。





 今幻想郷に残る妖怪達は違っていた。
その「副作用」の方を重んじたのだ。

 幻想郷で生きている妖怪達は、種族全体から見れば非常に妖力の弱い連中である。
魔女だろうが鴉天狗だろうが同じ。本当は、もっともっと強い妖怪などいくらでも居た。
それこそ人間がどう抗っても勝てないような妖怪達が、ごまんといた。

 力の弱い妖怪達は「人攫いと妖怪退治」という信頼関係の形を崩し、普通の人間同士のような
友好関係をもって「信頼」としようとした。つまり、人間への融和策である。
その弱さ故彼らにとっては、人間に退治されるリスクの方が大きかったのだから。



 強い妖怪達は鬼と同様、人間を見捨てこの地から去っていった。
そして幻想郷には多数の弱い妖怪と、強いことを隠すほんの少しの妖怪だけが残った。

 そして周りの妖怪が弱くなれば、当然人間の妖術も弱くなる。
萃香が言った「現代の術じゃ…」という言い分は、ここに根拠があるのだ。






 そこに現れた萃香の力。
 それは既に、幻想郷の定規では測れないものだった。

 鬼としては弱い彼女だが、それでも幻想郷に来れば突き抜けた力を持っている。
彼女はそれを知らずに、無理矢理力ずくで野望を達しようとしていた。
 人間の企みによって退治されたのは、ある意味自浄作用だったと言えるのだろう。
私の言い方をすれば「TILT」、もっと凝った言い方をすれば、幻想郷の良心…だったのかもしれない。



   「鬼は〜そと〜…か」

  

 幻想郷は既に、昔の幻想郷ではなかった。
妖怪と人は闘いこそすれ、そこに鬼が求めていたような、命がけの姿勢は残っていなかった。
萃香の策が失敗した一つの理由は、そこにある。
鬼は既に、幻想郷ではイレギュラーでしかなかったのだ。


   「何か言いましたか、紫様」

 廊下から声が聞こえる。


   「独り言よ、藍。
    …それより豆の準備、ちゃんと頼むわよ」
   「はい。出来れば橙ではなく、本物の鬼にぶつけて貰いたいですが」
   「どこにいるのよ」
   「いるじゃないですか、一匹だけですが幻想郷に」
   「あんなのは鬼とは言わないわ」


 紫は笑って、襖の向こうの藍に答えた。



 そう、萃香の企みが失敗した理由のもう一つ。それは、萃香自身もまたイレギュラーだったことである。
あの娘は鬼にしては不誠実で、浅慮で、そして優しすぎた。
頑固と言えるほどに誠実な鬼達を本気で連れ戻そうと思ったのなら、彼女は人を攫わなければいけなかった。
それが鬼の考える、鬼と人間との信頼関係だったのだから。
 人を襲えない優しい萃香は、その意味で鬼とは言えない。
どのみち不釣り合いな目的だったのだ。



   「よく分かりませんが、橙いじめは紫様といえど許しませんから」
   「いじめたりしないわよ?」
   「本当ですか?」
   「嘘」
   「…紫様も、鬼と同じくらい誠実になって欲しいです…」



 その不誠実さのせいで、萃香は結局幻想郷に馴染んでしまった。
彼女にとってはそれなりのハッピーエンドだっただろう。しかしそれは、
幻想郷での人妖関係が、既に取り返しが付かないほどに変わってしまったことを意味している。

 彼女は鬼としてのご多分に漏れず、煎った豆が弱点だという。
本当は、その程度でやられるほど鬼は弱い存在ではない。
ちょうど、吸血鬼が日光を弱点としているようなものだ。





 なぜわざわざ命の危険を冒してまで、妙な弱点を自ら作らなければならなかったのか。
それは、「妖怪退治と人攫い」を創り上げる為である。
 弱点を作れば、人間は「勝てるかもしれない」という希望を抱く。
その希望がある限り、妖怪退治と人攫いという「信頼関係」は続いていくことが出来る。
 命の危険を増やしてまで、作った弱点。それは、人間との決闘が大好きだった鬼達の、
人間への心遣いだった。



 だから、煎った豆は「鬼が人間を愛した証」なのだ。






 藍の言うとおり、私達は不誠実だったのだ。
喧嘩さえしなければ、それは平和に見える。

 安易に人間との闘いを止めたことで、幻想郷は何かを失い、変わってしまった。 
頑なだった筈の絆。不誠実な私達のせいで薄れていった、その絆。



 最後まで鬼達は、「疎」と「密」を操って、この幻想郷から消えていった。
まるで人間だけでなく、妖怪をもあざ笑うかのように。






   「今夜も寒くなりそうね…」


 窓の外を見ながら、紫はまた独り言を呟いた。

 温かい時も寒い時も、世界に存在するものは何も変わらない。
熱もまた「モノ」なのだ。萃まれば温かくなり、広く散っていけば寒くなる。
太陽はいつでも、空にあるのだ。

 幻想郷も同じだ。
人間も妖怪もいるのは、昔と同じ。
ただ違うのは、昔萃まっていた大切なモノが、広まって薄くなってしまっただけ。



 だから私は、この幻想郷を憂うことはしない。
世界の変化は全て、モノの性質の変化だけで説明が付く。
 要素や力は、すべて姿形を変えながら、決して消えることはない。
エネルギー保存の法則、なんて名付けているくらいだから、人間もきっと気付いているのだろう。


 どうあれこの幻想郷は、人間と妖怪をともに内包したまま、長い時間を流れてきた。
そして今、人間と妖怪達は、ともすれば一つ屋根の下で一緒に暮らしている。
それを「信頼関係」と言わずして何と言うのだろう。

 本物の絆は失われていったかもしれない。
それでも代わりが作られれば、それは長い時を経ればいずれ本物になる。
かといって、昔の「本物」が「偽物」になるわけでも無い。

 二つが同時には存在していられないだけだ。
それが人と妖怪の関係の、哀しき定めでもあるのだ。何故なら…





 人間と妖怪は、どうあっても違う生き物だからである。
理解し合うなど、絶対に出来ないのだ。所詮共存というのは、妥協の産物でしかない。
妖怪は本能では未だ人間を襲ってやろうと思っているし、人間もまた本能で
妖怪は退治すべきものだと思っている。 

 新しい「本物の絆」を手に入れてなお、古い「本物の絆」を忘れられない理由。
それは、人間と妖怪両方に、まだちょっぴりの未練があるからなのだ。




   「紫様、失礼します」

 不意に藍が襖を叩く。

   「何?」
   「ゆたんぽをお持ちしました」
   「気が利くじゃないの」
   「寒い、と聞こえたので」
   「地獄耳ねえ」

 
 紫は襖を開け、藍を招き入れた。


   「紫様、知っていますか」
   「何を?」
   「節分の時は、歳の数だけ豆を食べるそうです」
   「知ってるわ」
   「あれは何故なんですか?」
   「アレはね、人間の古い習わしなの。
    鬼が体の中に入ってこないように、ってね。
    鬼は妖怪の一種でありながら、人間の恐怖心の象徴でもあるのよ。
    まあ今の人間は、面白がって食べてるだけみたいだけど」
   「外の世界は、もう『妖怪』という概念自体無いんでしょうね」
   「ねえ藍…」

 紫は湯たんぽを脇に置きながら、話しかける。

   「どうして外の世界は、妖怪という存在が失われたと思う?」
   「空想力の欠如ですか」
   「半分はそれ。もう一つの大きな理由は、解り合おうとしてしまったことが原因なの」
   「どういう…意味ですか」
   「人間と妖怪の立場を、弁えなかったということよ。そこが幻想郷との違い。
    分かりやすく言えば、二本の直線と、二本の平行な直線ってところかしら」
   「それはさっき、巫女に向けて仰ってましたね」
   「地獄耳ねえ」


 紫は呆れて、優秀な式神に笑顔を向けた。






 直線が二本あったとする。
その二直線は大抵どこか一箇所、必ず交わる所が出来る。

 しかし、それには例外がある。二直線が平行だった場合だ。
平行な直線は、絶対に交わる場所が出来ない。
 


 人間と妖怪は、「平行な」直線であるべきだった。
だから私はヒントとして、この言葉を巫女に告げた。

 あの巫女なら、分かってくれただろう。
何しろ彼女は、萃香の行く末を決定づけた、第三の理由そのものだから。





 霊夢だけが、鬼の力を平坦化した。彼女の前では、力の差は無きものになる。
その上で彼女は、人と妖怪をきっちりと区別し、その立ち位置を理解して行動している。

 天賦の才である能力と、その分別能力。
長い間博麗神社の巫女を見てきたが、霊夢ほどにその「資格」「センス」がある者も居ない。



 霊夢は生まれるべくして生まれた、幻想郷の「現代人」である。
妖怪と人間の力量差を対等なものにしてしまい、そのくせ妖怪と人間は違う生き物として区別する。
霊夢の考えはまさに、現代の幻想郷その物なのだ。
逆を言えば、霊夢が存在するからこそ、今のような幻想郷が出来上がったとも言える。

 誠実な鬼達が望んでいたのは、力を比べぶつかり合う、「昔の本物の」信頼関係だった。
最後の最後に萃香の野望を決定的に妨げたのは、「現代人」であるその霊夢の能力だったのだ。

 萃香はどちらかといえば、そういう「現代的な」感覚の持ち主だったから、こうして幻想郷に馴染んでしまった。
他の鬼なら、こうは行かなかっただろう。



 紫には分かっていた。どうして霊夢が最後に、ああして分かり切っているであろう疑問を敢えて口に出して私にぶつけたのか。
霊夢が叫んだ4つの疑問は、矛盾を指摘しているように見えて、実は一つもおかしな所はない。
幻想郷が、そういう場所だからだ。
霊夢が口に出してくれたお陰で、きっとあの鬼はためらいなく、幻想郷で暮らしていけるに違いない。


 あの「フォロー」は、きっと、私では出来なかっただろう。
私は本当にあの鬼の悲しみを、霊夢ほどに理解していたのだろうか。




   
   「今回ばかりは、霊夢に感謝ね…」



 部屋を出て行った藍に、今度は聞こえないよう小さく独り言を漏らし、
紫は床に就いた。

 足下には勿論、ゆたんぽを置いて。





-----


   「う〜…」
   「結局コレなんだから。天狗が鬼に飲み比べを挑んで、勝てる訳がないって!」
   「くやしいです…」
   「それにしても酒に弱すぎね、あれっぽっちで酔うなんて。仮にも天狗でしょう?」
   「普通の人間だったら10回は死んでる量ですよ…」


 寒い冬の夜道を、二人の酔っぱらいがよろよろと歩いていく。
 文をからかってこそいるが、萃香自身も、こんなに一気に飲んだのは久しぶりだった。
いつも以上に酔いたいほど、嬉しい気分だった。





 鬼を連れ戻す計画が成功しなかった理由、それは色々とあるだろう。
だけど、私はこうして、人間と暮らしていける場所を手に入れただけで十分だ。
結局鬼は、人間が好きなのだ。


   「アンタ達はどうして、私達みたいに幻想郷を出て行かなかったの?」
   「さあ。新聞のネタに困らないということじゃないですか」
   「嘘。本当は、幻想郷の行く末を予想出来たからでしょう?
    人間と妖怪が、どういう形であれ共生していくなら自分たちは問題ない…そう考えた。
    天狗は昔っから狡賢くて打算的で、そのくせ本音を喋らずに惚ける。変わらないわね」
   「またそんな酷いことを言う。…あまり外れてもないですけど」


 しくしく、と文はこうべを垂れた。





 人間が大好きなのは、きっと天狗も一緒だ。萃香はそう思っていた。
彼らは彼らなりに、人と共存する道を望んで、この幻想郷に留まった。
打算的な彼らのことだ、隙を狙って人攫いなんて事も考えてたのかもしれないが、
記事のネタを探すには人に危害を加えない方が良いとでも思って、「現代人」化したのだろう。
やっぱり打算的である。




 どう足掻こうが、人間と妖怪、二本の直線は交わり続けることは出来ない。
外の世界では無理に交わろうとした。つまり二直線が交わる為に、平行でない直線にしようとした。

 そして遙か昔、外界では晴れて人と妖怪が一緒になれる時代を迎えた。
その頃の話は未だに、「神話」として外の世界に沢山残っている。
書かれ方も、妖怪としてではなく「神様」として書かれているのだ。



 ではその後、一箇所で交わった直線はどうなるのか?当然、二度と交わることはない。
どんどん離れていくだけである。
 事実、外界に残る物語は次第に変化した。不思議な神様は消えていき、
それらがはっきり妖怪として描かれるようになり、やがてそんな「神話」さえ作られなくなった。

 そんな中でただ一度、500年ほど前、妖怪達をもう一度連れ戻そうと人間達が働いた時代がある。
ちょうど今の萃香のように。
 それによって妖怪の存在は再びクローズアップされたものの、一度離れた直線はやはり二度と近づくことはなかった。
これもまた、今回のケースと同じである。
 ちなみにその時にその手段とされたのが、膨大な妖怪や鬼達と人間のふれあいの「記録」を綴ることであった。
人々はそれを、「御伽草子」と呼んだ。




 幻想郷から妖怪が去らなかった理由は、二本の直線が平行のまま時間が流れたからだ。
平行な二本の直線は、絶対に交わることはない代わりに、絶対に離れては行かない。
そもそも違う生き物である妖怪と人間が共に生きる道。
 それは、「平行」であることだったのだ。
ただ鬼だけが、その誠実という頑固さゆえ、この幻想郷の平行軸からズレてしまっただけ。




 失われてしまった力、失われてしまった絆は、確かにあっただろう。
しかし、変わらないモノも必ずある。

 それが分かったからこそ、私は、鬼ヶ島にはもう戻らない。
幻想郷が創り上げた人と妖怪の関係が、二本の平行線が…今は、何よりも愛しいから。








   「霊夢、ありがと。アンタって、すごい人だね」



 夜空に輝く星達に萃香は、生き生きとしていた太古の人間と鬼の姿を思い浮かべていた。


                                   《完》




 萃香は可愛いよ!
 明るいけどちょっと寂しげなところが特に可愛いよ!

 当時の私が、随一の想いを込めてしたためた作品でした。そして初めての多大なる評価を頂き、改めてSS書き反魂を発足させてくれた思い出深い作品でもあります。
 自分の作品で書いている内に情が移るようなことは無かろうと思っていたのですが、この作品を通じて萃香の像が変わりました。同時に東方の世界と改めて向かい合い、その輪郭、空気感、溢れる魅力とを、じっくり感じ直せた作品だったと思います。
(初出:2006年1月30日 東方創想話作品集25)