×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。



【缶コーヒー】

 石門に填め込まれた「滝水流中学校」の文字だけが、あの日と変わらない匂いを残していた。
 玄関に入ると、段ボールを切って作ったらしいお手製のボードがあった。御丁寧にも輪つなぎ飾りや銀紙テープで縁取られた板の中に、カラーマジックを贅沢にベタ塗りされて「ようこそ滝中へ」なんて文字が踊っている。下足場は生徒全員が自分の持ち物をすべて引き上げさせられて、来客仕様で丁寧に一つずつ、茶色のスリッパが入れてあった。
 僕は、どうせなら自分が使っていた番号のを使わせて頂こうと下足場を右往左往して、結局、自分の下駄箱がどの列にあったかさえ憶えていないことに気付かされた。毎朝靴を脱いで、毎朝靴を履いていた場所でさえこれだ。右から何番目で上から……なんて考えなくても使っていたあの下駄箱が、今は思い出そうとしても思い出せない。何だかすっかり浦島太郎だった。だから、校舎の壁が灰色から白のペンキに塗り替えられたことにしばらく気付かなかったのも仕方のない話だ。
 T都、その少し都心部から外れた、私立滝水流(たきずる)中学校。通称滝中。生徒達が一年で一番楽しみにするところのイベント滝中学園祭は、本日より三日間という、中学校にしては異例の大規模で行われることになっていた。
 中学校、つまり十三歳から十五歳という期間を過ごしたこの中学校に、僕はしかしさほどの感慨がない。小学校の頃からの友達は、ある者は公立、またデキの良い者はもっと良い私立といった具合で、見事に散り散りになった。慣れない面子に囲まれた僕は、よくあるパターンでたまたま席が隣り合っただけの奴と無理矢理友達になって、そして彼に誘われるがままにサッカー部に入って、そこそこ頑張って3年になったらそこそこ試合にも出て、そこそこ熱い汗と涙を流して、一方成績も中の中の上くらいで特に問題も起こさず難なく卒業し、身の丈にあった受験であっさり高校へ進んでいった。
 高校に入ったらサッカーも辞めた。件の友達とは違う高校になり、すぐ疎遠になった。何も始まらず何も終わらなかった十代前半の三年間が、せいぜいこの中学に残した「成績」だ。
 そんな僕がどうして学園祭なんかを見に来たかと言われると、気まぐれ以外の何者でもない。高校時代は忙しく、大学は親元を離れていて、卒業後の学園祭にはずっと縁がなかった。最初は未練もあったが、二年三年と重なるに連れ愛着も薄れ、そのうち日程も知らないような有様になった。だから大学を卒業した今年、正確には大学受験浪人を挟んだ結果二十四歳になった今年の僕は、近所の商店街に貼られたポスターの日程を母経由で知って、休日の暇つぶし程度で九年ぶりにこの学園祭に足を運んだという訳だ。
 足を踏み入れるとそこは近所住民および生徒の父母でごった返して、何だか懐かしの校舎という空気でもなかった。生徒も祭の間は私服姿で、懐かしい詰め襟だのセーラーだのといった格好の生徒は一人も居ない。委員長然とした眼鏡の生徒が前から走ってきて、そばの夫婦連れの客と一緒に慌てて廊下の隅に寄ったら妻の服から防虫剤の匂いがした。何だか、どこか違うような気がする。
 どこへ行くでもなく、僕の足がまず自然と向いたのは職員室だった。なぜだか、先生に顔を見せてやろうという気になったのだ。ご立派に育ちましたかどうかはともかく、年齢だけは無駄に九年分重ねているから、その辺が妙な自信になったのかもしれない。
 階段を上り、二階の職員室までの廊下をきょろきょろしながら歩きつつ、おりしも、その職員室にさしかかった途端扉が開いて、見慣れた先生の顔がこちらを二度見してきた。 
「んぉ?……ササキか? ササキじゃないか!」
 サッカー部顧問、岩倉隆造四十六歳……じゃなくて、あれから九年経ったから今は五十五歳か。現れた大男――岩倉先生は、そう思ってしまうほどに全然変わってなかった。名が体を表す豪快な笑いは、十年経てば老けるという社会の常識を疑わせるほどにあの日のままだ。
「ササキ! いやー元気にしてたか? 今二十三か? 四? そうかそうかーいやよく来たな! んっ、んんっ、あれか、大学遠いところに行ってたのか!?」 
 先生の大声に、僕はしばらく首を縦横に振るばかりで答えた。運動部仕込みのデカいダミ声も、また声を張るから喉にタンが引っかかる、その結果のヤニ臭い咳払いも、面白いようにあの日々のコピーだ。ここに至って僕はようやく、自分が"母校"に戻ってきたのだという実感が湧いた。
「いやぁーっ、ハッハそうかそうか! でもまあ、なんかササキを見て、んんっ、二十三だ四だって言われてもピンと来ねぇんだよなぁ!」
 それもそうだ。僕は卒業式以降、貴方と会っていないのだから。まして僕の名前――正確には僕は三崎(さんざき)というのだが、渾名のつもりなのか舌っ足らずなのか誰がどう聞いてもササキな、その名前だけでも覚えていてくれたことだけでも驚きだった。
「そんで、今お前は何してる」
「えっと……今年、大学から帰ってきて、それで」
 先生の記憶力に感激した僕は、嬉々として自分の境遇を言いかけた。そこへ、
「せんせい!!」
 不意に、どら声の女性が割り込んできた。生徒ではない、正真正銘のおばさんだ。
「すみません、あの、ウチの子が、あの、ジュースを廊下で……」
「あらら! わかりましたわかりました」
 岩倉先生は目を見開き、わぁっ! といった表情を丁寧に作ってから、大柄な身を翻し、手際よくモップを取り出してくる。
「んんっ、えっと、どちらですか!」
「こっちです!」
 おばさんの人差し指が階段の方を指すが早いか、岩倉先生は駆け足で廊下に飛び出してゆく。おばさんがその後を追ってゆく。
 あっという間の出来事だった。
 気付いたら岩倉先生は消え、僕はひとりで職員室の入り口前に棒立ちしているただのお客様だった。
「……」
 職員室の中を見遣る。若い女性教師が、薄い書類と睨めっこしている。他の先生は一通り、祭に駆り出されているようだ。
 少し廊下を歩く。職員室の外壁にはお決まりのパターンで、歴代の卒業写真が透明なパネルに入れてある。一分ほども自分の顔を探してから、縦二枚横四枚の八年分しかスペースがないそこに、九年前の卒業写真がもう貼られていないことを僕はようやく理解した。
 僕は、職員室の前を離れた。
 今日またどこかで逢えたら、岩倉先生に言わなければいけない。
 僕はやはり、もう二十四なのだと。
 僕は二階の廊下を歩いて、教室棟と特別教室棟をつなぐ連絡廊下の付け根に来た。連絡廊下は校舎間の浮き橋みたいなもので見晴らしが良いが、特別教室棟側のここには非常扉があって、教室側を行き来する人間から死角になる場所がある。
 景色もよく、人の目を気にしないでぼーっと出来る場所だ。僕は知っている。
 部活が中止になった時とか、家に帰りたくない気がすると、僕はいつもここに来た。せいぜい特別教室を使ってる文化部の連中がたまに通りかかるだけで、放課後は面白いように人気が無くなる場所。それは学園祭にしても然りで、クラス出し物を教室でやっている今は、特別教室棟に足を運ぶ人間は少ないようだ。
 変に安心した。ここは聖地でなければいけないのだ。
「よぅ」
 不意に背後から声を掛けられて、僕は背筋が縮んだ。
 壁際沿いに飛び退いて振り向いたそこには、若い女が驚いた顔で立っている。
「……びっくりしたな、そんな驚くことでもないだろ」
 馴れ馴れしい口調で、女は話しかけてくる。何だこいつ、と僕は不快に思って、何を言ってやろうかこの女にと顔をまじまじと眺め、
「……葉桜さん……か?」
 ようやく、女の正体に気付いた。
「ははは! さん付けで呼ばれるのもひさしぶりだなぁ……三崎さん……」 
 少し躊躇うように言い淀んでから、女はひとりでクスッと吹き出した。
「ダメだ。何かこう、オトナになってくるとそういうのって違うな。三崎で良っか……ってことで、三崎も、ほら」
 女はそこで言葉を止め、こちらを見てくる。
「……どう呼べっての」
「名前でいいよ名前で。あ、もしかして忘れちゃったとか?」
「奈緒」
「憶えてんじゃん」
 鼻で笑って、女――葉桜奈緒は僕と同じように、隣の壁へもたれ掛かった。
「懐かしいなあ三崎。九年ぶりか」
 僕は頷く。
 葉桜奈緒は、つまるところ同級生である。
 中学校は四十人のクラスが五つあった。僕は計算したことがあるのだが、計二百人の生徒が五叉路のクラス替えを三年間繰り返すと、全く同じクラス割を辿る生徒が確率的に約二人いる計算になる。実際にはその他、所謂"教育的事情"があったりして、現実では大抵、三年間同じクラスになる腐れ縁のような奴が五人くらいは居るものだ。
 奈緒もまた、そういった人物の一人だった。
 背がすらりと高く、際立った美人でもなかったのに人気はある方だったと記憶している。バスケ部に所属していた。成績は僕の少し上で、得意科目は数学。手先が器用で、美術の粘土やら銅板やらの細工もそれなりにこなしていた。口癖は「オレ」で、言葉も男じみたことを好んで使った。そうやって蓮っ葉な性格を装っていたが、でも実際には割と繊細で気の小さい、ある意味で典型的な女の子然とした子。
 ……と、そんなふうに、僕は彼女のことを知っている。だがしかし今、僕はいやな奴に出逢っちまった、と思っている。
 これは、ちょっとした事情、というやつだ。
「三崎は、……悪いな呼び捨てで……三崎は、大学はどこ行ってたんだっけ」
「……Y大学」
「へぇ、国立じゃん。勉強したんだ?」
「別に。」
「そっか。ま、三崎はサッカー馬鹿だと思ってたのに」
「うるせぇよ……俺は別に、好きでサッカーやってた訳じゃねえしな」
 思わず僕が反駁すると、
「そうやって、オレ相手に乱暴な喋り方になるっての、変わってないな未だに」
 ぬけぬけと、奈緒はそんなことを言ってきた。
「バカ言え、俺はな――」
「『アナタのことが好きなんです。付き合ってくださいっ!』」
「――――!!!」
 肺の奥がでんぐりかえったような感触だった。噎せっ返るかと思った。
「おまえな……」
「ハハハ、悪い悪い、冗談だよ」
 奈緒はけらけら笑い、やはり馴れ馴れしく、僕の方をポンポン叩いてくる。
 基本的に、思春期の過ちというのは誰にでもあると思う。
 サッカーに打ち込んでいた僕が、ふっと一年のクラスの中で一番背が高くて、男の子みたいに短く髪を刈り上げた少女がちょっと気になったとして、それは何ら問題ではなかったと思う。ある日の理科の実験で班割が一緒になって、実際に話して、ちょっとだけ僕が言ってみた冗談で彼女がころころと笑ってくれたとして、それでハッキリ女の子という生き物として意識するようになったといって、そんなに責められるはずはないのだ。あとはお決まりで、おしとやかに見えたのに実際は快活な少女だったとしてもそれがまた良くて、あけすけなようで実は繊細なところもまた良くて、とこうなれば痘痕も笑窪の要領だったのだから仕方ない。それで自惚れた挙げ句の大恥の大失態が、粉雪舞い散る一年生の十二月の放課後という具合。
「悪い悪い、ちょっとな、あの台詞で今の三崎がどんな顔するか、見てみたくなっちゃってさ」
「……」
 少し、腹が立った。 
「……何しに来たんだよ。それだけなら帰れよ、お前どうせ友達と来てんだろ、一杯居たじゃねえか、仲良し倶楽部さんが」
 僕は顔を背ける。怒っていますよというパフォーマンスでもあったが、それ以外にも、面子というものがあった。
「いや、今日はオレ一人なんだよねー」
 背けた後ろで、奈緒が返事した。
「実咲は誘ってみたんだけどね、バイトが忙しいって。いっぱいメールしたんだけど、みんなソデでさ。茜も香奈絵も、香西も峰岸も白川もダメだって言われちゃった」
 奈緒の口から出てくる名前には、記憶にあるものと無いものが半々だった。
「まあ、みんな忙しいからな。社会人になっちゃってさ」
 当たり障りのない返事を、僕は返した。
 奈緒もうんうん、と頷くのが影で見えた。
「そうよそれ……もう社会人」
 奈緒がそう呟いて、口を止めた。
 沈黙が降りてきた。 
 遠く、朗らかな中学生達の笑い声が聞こえてくる。人気のない連絡廊下の入り口、この向こうは、学園祭のまっただ中にある。
 居たたまれず耳を傾けていたら、唐突に、壁にもたれていた奈緒が跳ね上がった。
「……一緒に行かないか?」
 奈緒の指は、まっすぐ、連絡廊下の向こうを指す。
「いいのかよ、フった男となんか一緒に回ったって面白くないだろお互い」
「いいのいいの、時効だから」
 またけらけらと奈緒は笑って、先に歩き出す。
 連絡廊下に足を踏み入れて、そこでくるりとモデルのように演技っぽく振り返って一言、
「……行かないの?」
「……」
 
 デート、というと絶対に違う。ただ、デートとの相違点を見つけろといわれたら、困るのもまた事実だった。
 クラスの出し物は、変化に富んでいるようで在り来たりだった。当人達は斬新なことを思い付いたつもりでも、なかなか難しいのだ。精一杯お化け屋敷に仕立てた黒ビニール張りの教室とか、無駄に人海戦術でインタビューだのアンケートだのをとった町内調査だとか校内ランキングだとか、クラス総出で大がかりな恐竜の模型を造ったがそこで力尽き結果的に殺風景なシュールさを醸す羽目になったクラスだとか。一つひとつが何だか、ほほえましくて懐かしかった。
 奈緒はというと、それにいちいちそれにきゃーきゃーと騒ぎ……というのは僕の思い込みだったらしく、彼女もまた比較的冷めた目でそれらを見ているようだった。
「こんなこと、必死にやってた頃があったのよねえ。オレ達にも」
 ごもっともである。
 町内会が出したフランクフルトで昼食を済ましたら、体育館で昼から演劇があるというのでそっちに行った。滝中紅蓮祭なんて、真っ赤な文字の染め抜き横断幕がある。この学園祭に名付けた愛称がそれだ。紅蓮の炎、の紅蓮。中学生時分は、この格好良い名前が一致団結のカリスマみたいなものだった。今思えば暴走族か何かしか思い浮かばないようなその恥ずかしい単語に、僕たちはずいぶん必死になったものだ。
 やがて演劇が始まった。ドラマを見慣れた僕たちに、その演技は正直噴飯でしかない。それでも演じている彼らは必死で、また見守る生徒も必死だ。
「葉桜は、演劇とかもやってたんだっけ」
「うん、端役だったけどね」
 時折気遣って僕が話しかけて、奈緒が短く答える。その逆もときどきある。そんな調子だった。
 微妙な空気が断続的に続いて、だけど僕は、それが不思議と居心地悪くなかった。そして理由もなく、それは奈緒も一緒なんじゃないかなと思っていた。僕と同じ二十四歳になった、あの日恥ずかしい告白に顔を赤らめてくれた葉桜奈緒という女の子が考えていることも、ふと、僕とだいたい一緒なんじゃないかと思えていた。
 やがて、演劇が終わる。

 暗幕に囲まれた体育館から一歩を出ると、もう夕暮れという頃合いだった。
 僕たちは体育館から吐き出される人並みに押され、結局下足場まで押し込まれてしまい、学舎の余韻に浸ることも出来ぬまま、そのまま前庭へと弾き出されてしまった。
「あーあ。何だか慌ただしく過ぎちゃったな」
「充分出し物とか、見回ったじゃんか」
 奈緒がふくれっ面をして、僕はそれをなだめた。
 夕陽がやけに朱い。人混みが校庭の駐車場へ向かう。陳腐な演出のようにがやがやと人の声が聞こえ、その上を鴉が啼いて飛ぶ。
「……九年ってさ、長いんだな」  
 僕は、思わず呟いた。
 これらの時間を考えてみることが、僕にはなかった。なんだか流されるままに、でも人並みには熱い想い、挑戦、そしてレンアイをしながら過ごした中学校の三年間――もっと言えば高校の三年、浪人を合わせた大学卒業までの五年間を、僕はこんなに想ったことがなかった。
 走り続けたマラソンの中腹で立ち止まった。僕はそのとき、二十四歳の社会人になっていた。
 社会人になった僕は、先生にも敬語を使い、だけど別の来客によってあっさり無視される昔の卒業生程度になっていて、演劇や出し物や祭の名前にまでシケた考えばかりを乗せて、挙げ句、告白をしてフラれた女の子と、デートみたいなことをしている。
「なあ葉桜」
「奈緒で良いって言ってるのになー」 
「……オトナになるって、なんだろな」
 僕は、何も考えずにそう問いかけた。
 奈緒は黙って、茜色の夕空を仰ぐ。
「ありがと……今日は、楽しかったよ」
 奈緒が呟く。
 唇が、笑っていた。
「あのね、廊下で三崎を見つけた時は、無視しちゃおうかなって思ったんだ。やっぱ気まずいし。だけど、まあ昔のことだし良っか、って、そんで話しかけちゃった」
 空をなぞるように、奈緒の目が校舎の方を向く。僕もそっちを見た。夕陽が反射して白く光る窓の奥で、生徒達が後かたづけでドタバタと走り回っている。踊り場の窓から、一足飛びで階段を上る男子が見える。
「つまりさ、オトナになるって、そういうことだよ」
 奈緒が言った。
「熱かったものが冷たくなって、何であんなこと思ったんだろうとか、何であんなことに熱くなれたのか分かんなくなっちゃって」
「葉桜はバスケ部、がんばってたじゃん」
「三崎のサッカーと一緒。上手くもないスポーツに一所懸命になれたのは、中学が最後だった」
 奈緒は、手の動きだけでドリブルをしてみせる。
「……告白されたオトコの子とさ、こんなデートが出来たりする。それがオトナだよ、きっと」
 思わず僕は笑った。
 乾いた笑いだった。
「それがオトナ、ですか」
「うん……今日は楽しかったですっ!」
 身体を九十度以上に折り曲げて、奈緒はおじぎして見せた。
 父母達が帰っていく。
 紅蓮祭はあと二日ある。でも僕たちにとっての学園祭はもう終わる。この夕陽と一緒に、全ての行事が終わろうとしている。
 あの日のままの奈緒。蓮っ葉で男勝りなようで、実は繊細な女の子。僕だけが知っているとあの日思っていた、奈緒の素顔。
 化粧しても、奈緒は奈緒のままだったというのに。
 僕は。
「奈緒、」
 すべてが消えてゆこうとしている。
 その最後の残像、尻尾をつかむような長い影。

「……お前さ、今、カレシとか居るの?」

 奈緒は笑った。
「おかげさまで」
 ああ。
「……そっか」
「うん」
 それだけ言って、奈緒はくるっと、背中を向けた。
 あの頃より伸ばした髪が、やたら艶っぽく、肩を払ったのが印象的だった。
「じゃ……またな、三崎」
「ああ」
 奈緒は歩き出す。僕の車と逆の方へ、スタスタ歩き出した。
 溜息は、思った以上に熱く、また、震えてしまった。
 あの十二月の放課後と今と、どっちの僕が、朱い頬をしていただろう。
 きっ、と真っ直ぐ前を見る。
 携帯電話を開きながら歩く奈緒の、後ろ姿が遠ざかってゆくところだった。
 どこからか岩倉先生の大声が聞こえる。
 夕陽が沈んでゆく。
 奈緒の姿は、すぐに見えなくなった。

 気付いたら、やたらに喉が渇いていた。
 変な汗を、かいたせいかもしれない。
 僕はとぼとぼと歩き、職員用玄関に行った。先生のための自販機に硬貨を押し込み、そして缶コーヒーを一本買った。力任せにプルタブを引いて、渇いていた喉にぐっと茶色の液体を流し込む。
 やたらに甘くて、僕は思わず噎せっ返った。
 校舎を見上げる。
 夕陽が、建物の陰に隠れる。影が差す。
 飲み残した缶を屑籠の横にそっと置いて、僕は車のキーをポケットにまさぐった。 
 





 正式名称web小説コンテスト、通称「おりこん」の第4回出展作品です。
 大沢氏という方が企画されていた16KB上限の掌編オリジナル小説のコンペですが、この第4回を最後に現在は行われておりません。

 東方から離れての作品ということで、目一杯現代世界に視線を転じました。出来映えはともかく我ながら生き生きと描けているのは、普段妖怪云々ばっかりを書いている反動だったような気がします(苦笑
 このあと某イベントで再び筆を執るまで、オリジナル創作からは長く離れることになりました。機会があればもっと書いてみたいのですが……。
 
(初出:2007年8月20日 「おりこん」web小説コンテスト掌編部門 99作品中28位)