【かーなこーさまっ♪】



「かーなこーさまっ♪」
 そんな声が、玄関の方から小さく聞こえた。




 * *




 守矢神社の神々と人間の少女一名が日頃愛用している急須は茶棚の下段、引き戸を開いたらすぐ目の前の場所にいつも座らされている。透き通る白磁に極彩色の細かい紋様を走らせたその柄は唐三彩の意匠だが、残念なことに科学的な印刷なので安っぽさしか感じられない。元の世界のディスカウントストアで早苗が買ってきたちんちくりんだから。
 しかしそれ故に気兼ねなく使えるという、日用品の理想的な姿である。
 この格式高い神社にあって、それ故九百八十円の量販品に過ぎないこれが長く愛用されている。肩肘張った桐箱付きの陶芸品などお呼びでない。古九谷や萩は蔵にでも引っ込んでろ。
 急須はいつも暇することがなかった。
 この神社のこの部屋を利用する二名の神々とそれに仕える少女が、いずれも日本茶に目のない、大変日本人らしい方々だからである。
 隙あらばお茶が入る守矢神社。茶棚の引き扉はいちいち閉めるほど出番が閑古鳥にならず、年中繁忙期で大抵開けっ放しになっていた。
 今日もそうだ。
 急須はのんびりと身を横たえながら、茶棚の向こう正面にある廊下とその出入り口にかかる暖簾の藍色をぼんやりと眺めている。

「かーなこーさまっ♪」

 不意に少女が現れた。
 にこにこ微笑んでいる。
 ……あれ? と、続けて口の中だけで呟くのが聞こえた。
 
 急須は黙って首を横に振る。
 ご覧の通りこちらの部屋には、大神、八坂神奈子様は不在である。
 どこかへ行かれたのだろう。
 洩矢諏訪子様も同様に姿が見えない。

 少女は首を傾げた。
 どこに行ったのかは急須も知らぬ。
 確実な事項として現在部屋の中は無人であり、暖簾を両手で掻き分けてちょっと恥ずかしいほどの無防備な笑顔で覗き込んできた東風谷早苗の表情を、急須が独り占めで目にしていたという事実。
 いないのかあ、と早苗が独り言。
 いないのです、と急須は、声なき声の独り言。
 早苗と急須以外に誰も居らぬ。
 それにしてもちょっと今の笑顔は可愛かった。大変上機嫌なのだろう、急須が今まで見たこともないくらい無防備で無邪気で、何があったのかは知らないがやたらに嬉しそうな東風谷早苗。
 
「えへへ……」

 鳩みたいに肩を揺らして、ちょっと下を向いて舌を出した。また笑った。
 なかなか子供っぽくて可愛いではないか。

 誰も見ていない。
 急須だけが見ている景色。
 暖簾にかけていた手を早苗が離して、藍色の布帛がダランと下がった。廊下の光景は茶棚の急須から遮られてしまい、足音だけがぱたぱた遠ざかってゆくのが聞こえる。


 * *


 薬箱は、金柑飴のような色に身を染めていた。
 ぷらすちっくという外界の素材は長年の湿気を吸うに連れて、最初は透明でも次第に黄褐色の濁りを生じ始める性質がある。湿気と共に空気中の塵を吸い込んでしまうのが原因だそうで、そうなっては別の顔料で別の色に染めでもしない限り二度と元の美貌には戻らないんだそうだ。
 ところがこの箱の色は、そういう経年のものではなく生まれつきである。
 びっくりするくらい橙色。
 これがトレードマークなのである。
 橙色の透明箱は薬箱、日本家庭では既に盤石の地位にある。引っ張り出すための取っ手の部分に、御体裁みたいな十字のマーク。

「かーなこーさまっ♪ ……えへへ」

 ビタミン剤の瓶は現在、そんな薬箱と一緒に箪笥の一番上に置かれている。箱に寄り添いながら、唐突に部屋へ入ってきた早苗という少女を眺めていた。
 瓶の中身はもう服用しきってしまい、無い。もう空っぽなのにひとまず瓶だけはとっておいてもらっている。何かに使うかもしれないから、と、早苗が言ったからだ。
 空っぽの瓶から見て、二時の方向。
 鶴の一声で瓶の命救ってくれたその少女は、とても無防備に笑っている。
「……あれ?」
 いないのかー、と独り言。
 いないのです、と瓶が独り言。
 こちらの座間には現在、大神八坂神奈子は不在でおわします。
 無人の部屋に、まるで子供のように顔を突き出してきた早苗の笑顔にはまだあどけなさが残っていた。童女が母親に甘えてくるみたいな、そんな顔をまだこの子が出来るのかとビタミン剤の瓶。意外な一面を見た気がしていた。
 この子呼ばわりするのは、実を言うと瓶は少女より年上だからだ。
 硝子の表面は白くくすんでいた。ビタミン不足かもしれない。年月がもたらした汚れかもしれない。
 いずれにしても、プラスチックの橙色と同じだった。
 瓶も薬箱も、そして早苗も歳を取る。

「あれれ……」

 ラベルは日に灼けて、文字も読めぬほど煤けている。瓶は、もう随分と歳を取ってしまった。
 つまりこの人間の少女も、同じだけ齢を嵩ねたということになる。

 障子戸が、ぱたむと閉じられた。
 少女の姿は、日光に黄色く透けた障子紙の向こう側へと行った。


 * *


 そのラヂオはオートチューニングなんて便利技術は搭載していない。昔ながらにでっかい竜頭をぐるぐる回す構造で、長く回しすぎると指に金属の匂いが移り香するから気をつけよう。長年の指の脂で表面にはちょっと錆が浮いている。更に長く回し続けると、それが指紋の形に沿って指へ付着するので気をつけよう。
 ぼんやりとスチールラックの三段目から、部屋の隅に重ねられた布団をラヂオは見ていた。取っ手として一部が台形に切り取られたラックの前面パネル、そこから射し込んでくる白昼光のスリットと垣間見える部屋の光景をじーっと眺めるばかりで、最近暇で暇で仕方ない。誰も取り出してくれないで居る。昔はよく聴いてもらえたものだが、こっちに来てからはあれほどベタベタくっついてきた電波ちゃんが一体どこに行ったのやらラヂオにも分からぬ。それ以来、この神社での聴取率は崖崩れを起こした。
 隣の懐中電灯とのお喋りはもう飽きた。思いついたように最深部に棲まう朱肉だけが、時々神社のお仕事に出してもらっているようだ。
 ラヂオが性懲りもなくアンテナを伸ばして電波を探していると不意に、襖の開く音がした。

「……かーなこーさまっ♪」
 
 いないいない、ばあっ。
 そんな要領で現われた少女。

 ほほうこの子がそんな甘い声を出せるのかと、ラヂオは思った。
 ラヂオが早苗のことを「この子」呼ばわりする理由は、実はラヂオが少女より――まあ、今更説明するまでもない。
 昔に比べたら随分大人っぽくなったとラヂオは思う。だがそれは、無理に大人ぶっているだけだったのだ。
 たった今証明された。今の可愛い笑顔はなかなか貴重なショットだったと、ラヂオはノイズ混じりの拍手を送る。
 無警戒だと甘えんぼう。あまりにも隙だらけで、何やら見ている此方さえ赤面してしまう無垢で無邪気で無防備な笑顔。
 ああ。
 思わず単三電池が少し液漏れしてしまったではないか。
 長く使わないなら電池を抜いておけと、昔あれほど言ったはずだ。

「あれぇ……あ!」
 
 部屋に入ってきた早苗は首を傾げつつ、途中で思い立ったように直角にその進路を変えた。
 襖で間仕切りされた一連の畳部屋。
 早苗が向き直った向こう側は襖一枚を隔てて、別の者が起居する寝室である。退役軍人と化した古いラヂオを、思い返せばかつて一番よく触ってくれたのがその人であった。
 早苗は勢いよく襖を開けた。

「……すーわこーさまっ♪」

 返事は――無い。
「…………あれ…………?」
 ラヂオは、溜め息をついた。
 残念なことに現在、斎なる神八坂神奈子と洩矢諏訪子はこの部屋には不在である。双方とも姿が見えない。
 そんなに甘えた声で入ってきて、この結果はちょっと恥ずかしいか?
 ラヂオと懐中電灯は首を横に振る。
 神奈子がどこに行ったか、ラヂオは知らない。
 諏訪子がどこに行ったか懐中電灯は知らない。
 現在神々は、二柱そろって留守である。
 この部屋は、早苗一人しか居ない。

「………………」

 ……思えばこの少女の母親の姿を見たことがないなと、ラヂオはそんなことを唐突に思った。誰も見ていないと思い込んでの無警戒な甘えた仕草が――不意に、彼女の親についての想像を掻き立てさせたのだ。
 況や父親も、どこへ行ったかラヂオは知らない。
 子供っぽい仕草がひどく目新しいものに映ったのは、親に対する早苗のそういう姿を、思えば見たことがないからだ。

「………………」

 少女は、ふと俯いてしまった。
 黙って、そっと部屋を辞去していく。横顔は前髪に隠れて、伏した目許は影になり見えぬ。
 落ち込んで項垂れているようにも見えた。
 入ってきた時の威勢の良さなど――どこへ行ったかラヂオも知らぬ。


 * *


 現代の人間は一見してそれが何なのかさえ分からない筈だが、長細い金属の板を上向きに何本も突っ立てている彼にはイナコキセンバという立派な名前が付いている。
 稲穂を扱くから稲扱き千刃。
 昔の農具である。
 辣腕を振るったその刃は、しかし今や名刀赤鰯。納屋に放り出されてから、果たしてもう何十年になるか。

「♪かーな…こ…………さま……」 

 膨らんでいた風船が飛んできて、いきなり一瞬で萎んでいくような様子だった。

 ご紹介しよう、少女は早苗という。イナコキセンバから見ると孫娘みたいな具合である。現代では目にしなくなったイナコキセンバを、八坂神奈子という神様がこの早苗に対し真剣に説明していた一幕はまだ覚えている。
 当時まだ3歳くらいであったか。
 イナコキセンバなんてこの子に教えてどうするんだろうとイナコキセンバは思っていた。なんせイナコキセンバだぞ? イナコキセンバは主張したものだ。
 ちなみにお問い合わせの八坂神奈子様であるが、現在こちらには来られていないよ。
 というか納屋には滅多にお見えにならない。常識的に考えればそれくらい分かるだろう。
 こんなところを探しに来られたということは他はきっと探し尽くして、なお旦夕に神奈子様を探しておられるようだが残念、納屋にはおいでではありません。
 どうもお久しぶりの出会いでしたね早苗さん。
 ですが他を当たっていただきたい。

「……かーなこ……さま?」

 だから居ないと言っている。
 
 納屋の扉が、ぱたんとしまった。
 長く伸びていた早苗の影が、その後ろ姿ごと切り取られる。一瞬だけ黄昏色に染められていたイナコキセンバは再び闇に戻り、夕焼け色は納屋の外へと追いやられてしまう。


 * *


 深紅に萌える薔薇の花は、よくよく見ると化学繊維で出来ている。いつぞ早苗がクリスマスケーキを買ってきたときに、真ん中に刺さっていた飾りを、わざわざ洗ってこの洗面所の一輪挿しに挿したのだ。
 薔薇は今でも、あの時の複雑な胸中を覚えている。
 クリスマスケーキに乗っかって跨いだ敷居が神社だったと知ったときは薔薇も度肝を抜かれた。火炙りにでもなるかと戦慄し薔薇は顔をご覧の通り真っ赤になるまで紅潮させたが、ケーキは何事もないかのように、巫女さんと神様二人が仲良く啄んで平らげた。
 日本ってのは……どうやらそういう国らしい。

「かーな…こ……さま……」 

 そんな巫女さんが、いきなり現われる。
 ですがここは洗面所。
 残念なことに、大神・八坂神奈子はおられませんですよ。


 * *


 そのひよこはいつまで経っても鶏になれないでいる。なぜなら彼はぬいぐるみだからだ。
 神社に奉納された一品。餅や米ならいざ知らずひよこのぬいぐるみとは群を抜いて奇天烈だったが、ある年の正月の賽銭箱に放り込まれた品物である以上、ぞんざいに扱うわけにも行かなかったらしい。
 処遇に困った末、当時まだ幼かった早苗という少女の持ち物となった。
 それなりに気に入られた。

「かなこさま……!」

 残念、とひよこは首を横に振る。
 ここは早苗、貴方の部屋です。
 ひよこを早苗にあげると昔貴方に言ってくれたのは、確かに神奈子様ですね。
 でもこちらの部屋には現在、お探しの神奈子様はおられませんよ。
 

 * *


 釣瓶落としとはよく言ったものだが、井戸の釣瓶は手を離すとすごい速度で滑車を回して奈落へ落っこちてゆく。
 最初にこの井戸の釣瓶に手を伸ばした人はだいたい驚く。
 遙か下の方からどっぽーんと音が聞こえて、みんな五秒くらい笑い転げるのだ。

「かなこさま! すわこさまー?」

 もうちょっと滑車の抵抗を固くしておいても良いようなものだが、どうせ神社の巫女さんが早朝の禊ぎに使うくらいの井戸で誰もその辺の利便性や安全性まで気に留めてくれない。

「かなこさまー!? すわこさまー!?」

 禊ぎのお客様である早苗が、何やら焦燥の表情で走って行った。刻は別に朝ではない。
 もうすぐ日が暮れるような黄昏時。
 綺麗な茜に染まる庭。
 広い広い庭を、ばたばた走ってぐるぐる見渡しておられる。

 しかし釣瓶は知っていた。

 残念、お二方とも、庭には不在であることを。


 * *


 古びた鏡台は、本当に古いものである。
 持ち主は八坂神奈子様という、この神社の神様だ。
 お歳だからお化粧に時間がかかるのねーとか迂闊に言ったら殴られるよ。
 一回殴られたから鏡台は分かる。

 神様と鏡は切っても切れない関係にある、と、本人によればそれだけの理由だそうだ。言われてみれば祭壇の真ん中とかに、よく鏡が置いてあったりする。
 自室に鏡があるだけで落ち着くから、と、以前鏡台は神奈子に聞いた。

「…………かなこさ! ……ま……」
 
 残念でした。
 神奈子様かと思って貴方が声を掛けたのは、鏡台の鏡に映った貴方自身ですよ。



 そしてその鏡の膝元に咲いている深紅の薔薇は、よく見ると造花だ。
 数年前のクリスマスケーキに刺さっていた、二本の内の一本。もう一人の姉妹は現在、洗面所に出仕して静かにその余生を送っていると聞く。
「かなこさま……」
 見つめられてそんな風に呼びかけられ、薔薇は思わず身を固くした。
 私は神奈子様ではないってば!
 私は薔薇だ。しかも偽物の。
 お訪ねの神奈子様は――すみませんが今ちょっと、お姿が見えない様子ですよ。

 踵を返す早苗。
「かなこ……さま……」
 虚空に声を投げていた。
 先細りで消え入りそうで、ひどく弱々しい声だった。

 ……薔薇は知っている。
 ここは神奈子様のお部屋。
 ……薔薇は知っている。
 しかし神奈子様も諏訪子様も、現在お留守であること。

 薔薇は知らない。
 神奈子や諏訪子が、一体どこへ出かけたのかを知らない。
 薔薇だけじゃない。
 誰も知らないのだ。

「ケーキ……」

 ふと立ち止まった早苗が、ぽつりと呟いて振り返った。
 薔薇は知らない。
 早苗がどうして、そんなに寂しそうな顔をするのか。
 どうしてそんなに縋るような目で、鏡と、薔薇とを交互に見つめてくるのか。

「……そういえばあのケーキ、かなこさまと一緒に食べましたね」
 そうですねえ、と薔薇は頷く。
「……美味しかったですよね」 
 そこまでは知らないけど。


 それだけ言い残して、早苗は改めて、踵を返してしまった。
 風なき風に、花びらが少しだけゆらゆらと揺れた。


 





 * *






「……かなこさまー?」

 すっと顔を出した早苗の不安げな瞳を見上げたのは、玄関の下駄箱の片隅で眠る、白い雪駄の一足だった。

 その雪駄は――とても小さいものだ。子供用にしても尚小さい。つまりはずっと幼い――3歳や4歳の子供向け。
 通草や無花果みたいな足の裏を乗っけるのだろうなという、踏み板。
 雪駄は、いつの間にか大きくなったあの日の童女を見上げた。結んだ赤い鼻緒が、年月の流れでもうすっかり汚れてくすんでいる。
 東風谷早苗の、今の姿を雪駄は見上げる。
 この神社にはもう、こんなに小さな雪駄を履いてくれる者は一人も居ない。 

「すわこさま……」

 もう履く者はいないのに、どうして下駄箱の中に収まっているのか?

「かなこ……さま……」

 雪駄は、彼女が神様にもらった最初のプレゼントだった。
 それを少女は、こんなに大きくなってもまだ覚えてくれているのだ。だから今でも雪駄は、捨てられず下駄箱に住んでいる。

 雪駄は早苗に訊いた。
 神奈子様のお姿が、見えないようですが。

「居ないよ……」

 雪駄の方を見ないで、早苗が独り言を呟いた。
 雪駄は訊いた。
 どこに行かれたんですか。

「神奈子様が……居ないよ」

 どこへ行かれたんでしょう。
  
「どこ行っちゃったのかなあ」
 
 雪駄は不思議に思います。
 どうしてそんなに、哀しげな顔をするのですか。
 さっき「かーなこーさまっ♪」と、貴方が上機嫌で玄関にやってきたのを雪駄は覚えておりますよ。

 きっと、良いことがあったんでしょう?
 きっと、嬉しいことがあったんでしょう?

 きっと神奈子様に伝えたいことが、貴方には沢山あったのでしょう。
 きっと諏訪子様に話したいことが、貴方には沢山あったのでしょう。
 
 さあ。
 探しましょうよ、早苗。
 呼びましょうよ、早苗。

 雪駄も大好きですよ、早苗のことも神奈子様のことも。
 贈ってもらえた貴方のことと、贈ってくれた神奈子様のことが大好き。

 貴方が探している神様、どこに行ったのか。
 貴方がそんなに哀しそうな顔をするなら、雪駄も一緒に探しましょう。
 
「けどさ」

 けども。

「居ないんだ」

 さっきまで居られましたのに。

「さっきまで居たのに、今は居ない」

 そう。
 そんな事実だけが、確かにあって。

「居ないんだ」

 居ないのですね。

「……帰ってきてよ」

 ……帰ってくるかしら。

「帰ってきて下さいよ、神奈子様」

 ほしい。

「帰ってきて下さいよ……! 諏訪子様!」

 かえってきて、ほしい。

「どこへ、」

 どこへ。

「行って、」

 行って、

「しまわれたのですか! 神奈子様!」

 
 嗚呼。

 誰も知らないのですね。

 心を引き裂くような、その問いの答えを。





 雪駄には分からない。
 早苗にとっての神奈子様。
 「かーなこーさまっ♪」と呼びかけたあの神様は、早苗にとっての何なのか。
 そして今、どこにいるのか。

 雪駄にとっては、自分を贈ってくれた贈り主。
 だけど早苗にとって、神奈子様は?
 雪駄が察するに恐らく神奈子様は。

 母親? ちがう。
 姉妹? ちがうちがう。
 家族? ぜんぜんちがう。
 
 神奈子様はね――神様なんだ。

 早苗と共に、幻想郷とは違う世界に生きた神様で、
 早苗と共に、その世界から消えてしまった神様だ。



「神奈子さま!!」

 叫んでも、

「諏訪子さま!!」

 届かない場所に。

「かーなこーさまっ!」

 ぜったいにぜったいに届かない場所へ、

「すーわこーさまっ!」

 届かない場所へ消えていったあの日の世界。
















「どっか行っちゃった……」
「誰が?」
「かなこさま……が……」
「あらあら、そりゃあ大変だ」





 神様がこの世界からも消えないなんて、誰が言った?

 誰か保証してくれたのか?
 元の世界から、神様が消えた――あれと同じ事が、二度と起こる事は無いなんて。

 誰か断言してくれたのか?
 ねえ、東風谷早苗。
 永遠に永遠に神様達が、貴方の傍に居てくれることを。






「……か……かなこ……さま?」
「うん。ただいま」

 
 

 
 普段通りの笑みで、八坂神奈子はそこにいた。
 早苗の瞳が、まるく大きく開かれる。
 白い雪駄は溜息ついて、そっと早苗に微笑んだ。

「か……か……」
「?」
「神奈子さま! 一体どちらへ!」
「ん、いや、ほら」

 神奈子は誇らしげに、手に提げた袋を早苗に見せる。
 その瞬間びびった。
 なんかとんでもない大きさ。
 何これ。ケーキに乗っかっていたサンタさんが、そういえばこれくらいの袋を担いでいたような気がする。
 ふわりと漂う緑色の香りも、生クリームの匂いとはだいぶ違う。

「ウチってさほら、早苗も含めてみんなお茶好きだろ?」
「は?」
「この間は山ほどあったと思ってた茶葉が、今朝見たらもう切れちゃっててさあ――」
「うん。そうそう」

 後から玄関に入ってきた諏訪子が、適当に頷いて家の奥へと消えてゆく。
 神奈子が笑った。
 ニコリと、優しく笑った。


「早苗の分もと思って、いっぱい買ってきちゃった」



 言われるままに袋を覗き込んだ。
 いやいや、ちょっと待って下さいよ。
 ものすごい量ですよこれ。
 これが全部お茶の葉だと思うと気が遠くなる。どっからこんなに集めてきたんだろう。幻想郷中の茶畑を焦土にして、幻想郷中のお茶屋さんの在庫を払底させたんじゃないかと思うと涙が出る。明日からお茶の時間、ずっと罪悪感と後ろめたさを感じて湯呑みに口づけることになるだろう。
 さすが神様だ。
 やることのデカさが、いちいち違うね。

「これ……呑みきれるんですか?」

 くす、と諏訪子の笑い声。
 
「いつかは無くなるさ、いつかは」

 そう言って神奈子は誇らしげに、また茶葉を顔の高さまで掲げる。
 いつかは無くなる。
 神奈子はそう言った。
 それは事実だろうなと、早苗は想った。



 お茶の葉はいつか無くなる。
 形あるものだもの。
 日々使っては、使った分だけ消えてゆく物だもの。

 けれど、早苗は安心した。
 
 そんなにお茶の葉を買ってくる神様が……
 たぶんしばらく、この屋敷から消える事は無いから。






「………………かーなこーさまっ」
「お、わっと」 



 不意に、神奈子の胸に飛び込んだ早苗。神奈子が目を白黒させる。
 ちなみにその頃、雪駄はというと眠気に襲われていた。
 神奈子と早苗の抱擁を、今更目に留めて何かを思う事もない。
 おやすみなさーい。
 私は寝るよ。お幸せに。
 
「かーなこーさまっ♪ かーなこーさまっ♪ ……えへへ」
「な、なんだ気味が悪いな。何か良いことでもあったか? 早苗」

 雪駄が、ふともう一度だけその言葉に目を覚ます。
 おお、そうだ。
 昼間っからかーなこーさまっ♪ かーなこーさまっ♪ と五月蠅かったね、東風谷早苗?
 


「んーと、良いこと……確か何かあったんですけど」
「?」
「…………えへ、忘れちゃいました」
「何だいそりゃ」

 ……何だいそりゃ。

「神奈子が何も言わずに出て行ったから、早苗寂しかったんだよきっとー」
「……そうなのか? 早苗」
「かーなこーさまっ♪」

 真相は夜の闇の中。
 雪駄は、改めて眠ることにした。
 開きっぱなしの玄関から夜闇の彼方、開き始めの夜桜が最後に見えた。

「珍しく甘い声を出して、」

 甘えている東風谷早苗よ。

「何かと思ったら、」

 何かと思ったら、

「良いことがあったと」

 良いことがあったのですね。

「それなのに」

 なのに。








「かーなこーさまっ♪」



 それを忘れちゃうなんて、もう。

 ――仕方の無い子だねえと、神奈子が笑った。



(了)





 自分でも、ちょっと面白い作品が書けたかなーと思います。
 それもこれも早苗さんが可愛すぎるからいけないんだ。

 遊び心をたっぷり使って書いてみた作品で、こういうのを書くあたり自分もSS書きとして薹が立ったのかなあと思います。それが良い評価を頂けたので素直に嬉しかったですし、今後も色々書いてみたいなあと思える一幕でした。
(初出:2009年3月25日 東方創想話作品集72)