【樹形図】


 冬が来る前に霊夢を植えてみたところ、芽を出したそうです。
 季節はようやく春ですねということで、紫さんが嬉々として庭先の鉢の萌芽を紹介してくれました。
 柔らかそうな赤土に混ぜたのは魔法力を込めた合成肥料だそうで、配分や要素等は企業秘密との返事をいただいています。でも企業が秘密にするだけあって大層効能が良く、おかげで鉢の真ん中から顔を出した霊夢は実にしっかりとした双葉を生やし、まこと健やかに見えます。とはいえまだ双葉ですから、表情は窺えません。窺えないのですよ。
 ところで見えている二枚の葉っぱ、というか葉っぱっぽいものは、見るも鮮やかにひどく赤い色をしております。ちょっと見慣れません。
 私は当然疑問に思ったので、どうしてこの双葉は赤い色をしているのですかと紫さんに訊ねました。世界の常から外れていますね。葉緑素はいったいどこに置いてあるのでしょうか。

「バカねぇ、霊夢は紅白の巫女だから赤い双葉が出るわよ」

 紫さまはそうお答えになりました。私ははあ、と頷きました。紫さんはすごく得意げな顔をしておられましたが、双葉の正体はどう見てもただのリボンでした。本当にありがとうございました。
 頭から芽生えを始めるので、最初は大きなリボンから生えてくるだけのことでした。慌ててはいけないそうです。
 ちなみに逆子だと、ケツから生えてくるそうです。要らない知識を聞いてしまいました。
 その逆子だと成長に妨げが出るんだこれがまた、と紫さんは続けてくださいましたが私には心底どうでも良く、百歩譲って仮に成長が妨げられるとどうなるんですかと訊いたならば出っ尻霊夢になってしまうんだ、とおっしゃったのでなおどうでも良く、そもそも逆子の話が本当なのかどうか、まったくもって誰にも分かりません。
 分かりませんがとりあえず、青い色をした鉢植えに芽を出した赤い霊夢は、非常に元気そうに太陽を浴びていました。可愛らしいですね。
 栴檀は双葉より芳しですね、と紫さんを褒め称えたら、匂いなんて嗅いだこと無いわあなた変態ねと言われました。ちょっと気に障りました。
 しかし言われたからには私もちょっと嗅いでみようかしらと、紫さんは霊夢の匂いをくんかくんか嗅ぎ回り始めたのです。ちょっとケダモノっぽい気がします。風格の消え失せた見事な見窄らしさに私が少しだけ後悔していると、不意に鉢から爆発的な光が溢れ出し、私の網膜を焼きました。さらに次の瞬間鮮やかな虹色の珠が現れて四方八方に展開、目に美しい色とりどりの爆発力でもって八雲紫さんを襲いました。紫さんは嬉しげに消し炭になられました。恍惚としておられました。劇終です。
 よく考えるとあのことわざは、文字通りの意味ではないような気がしますね。
 あと匂いを嗅ぐ人は変態だと思います。そしてしかし霊夢は、やはり双葉の頃より芳しいようです。これは将来が楽しみだ。
 私は赤い双葉を、手を触れずただ見つめるだけにしました。目で愛でるのです。
 赤い双葉はひょこひょこと、風もないのに揺れています。嗚呼可愛らしい、可愛らしいですね。
 ここからもっと可愛く成長するのだから楽しみになさいねと、横で黒こげの紫さんが念を押して下さいました。私は曖昧に相槌を打ちました。
 ところで鉢との色合いが悪い気がするけどあなたどう思うかしらと、紫さんは百八十五度話題を転換されて話を続けようとされます。もちろん黒こげで、ついでにアフロヘアーになっておられました。赤い双葉と青い鉢と黒い何かでした。黒い変態かもしれません。文句の付け所がないコントラストに見えます、私には。
 何はともあれとりあえずこの霊夢は、将来を嘱望される木だということは間違いないそうです。もう一度そんな感じで紫さんに世辞を言うと、当たり前じゃない霊夢は幻想郷のドラフト1位の希望枠なのよ、とおっしゃいました。希望枠ですか、と尋ねたところええ希望枠よ、とおっしゃいました。そして、希望枠はでっかく育つために栄養費がたくさん必要なのよねえと続けられました。割と危険球ギリギリなことをおっしゃいます。
 ふと私は思い立ち、この霊夢の木はどんな木になるのかなと思いました。今日最後にと、私は紫さんに訊きます。
 美人になるに決まってるわ、と、胸を張って紫さんは宣いました。
 ドラフト1位だから当然だそうです。夕日を背負い、紫さんの背中より黄昏色の後光が射しておりました。
 そのお姿は直視に耐えぬほど神々しかったですが、ただ返ってきた答えはたぶん答えになっていないなと思いました。というかいい加減なこと言いやがったんじゃないかと思います。
 あと、頭からまだ煙が出ていました。
 私はもう少し、具体的なことが聞きたかったのです。


 
 しばらく日数が流れた後に霧雨魔理沙さんのお宅へお邪魔すると、霊夢は茎もしっかりして結構育っていました。私が訪れた時は、鉢に魔理沙さんが水をやっているところでした。
 霊夢はどれくらい育ったかしらと思い私が覗き込んだところ、なかなかに大きくなった霊夢にお目に掛かることが出来ました。ところが目が合った途端、霊夢はくるりとそっぽを向いてしまったのです。植物のくせに人見知りでした。
 やるな、と思いました。
 思いましたが、植物にだって意地はあるんだろうと思います。だから仕方のないことです。
 樹齢を魔理沙さんに尋ねると、もう五歳くらいじゃないかな、と彼女は教えて下さいました。確かに見た目は五歳くらいでしたがなんでよりによって五歳なのか、と聞いたら、それくらいがやっぱさぁ一番おいしい年頃じゃないか、とおっしゃいました。意味はよく分かりませんでしたが、論旨からはちょっとだけ危険な香りがしました。
 私はそんなことより、知らない間に大きくなった霊夢を見て嬉しく思います。木が成長してゆく姿を見るのは、本当に楽しいものですね。
 ……ところで、紫さんはどうされたのでしょうか。

「霊夢の栽培にはもう飽きたそうだ」

 明快でした。

「それでは、どうしてそれを霧雨さんがお持ちなのでしょう」
「私が霊夢を、手塩に掛けて栽培したいからだ」

 手放された理由が明快なら、拾われた理由も明快でした。私は非常によく納得できました。できましたが、その一方で何となくですが、この人の手塩にはあまり掛からない方が良いんじゃないのかなという気がしました。手塩に掛けるというその御言葉から、心なしか少しわいせつな匂いがします。
 真実は闇の中ですが、何というか、せっかく葉っぱをつけ始めたばかりの霊夢がしおれてしまったら、そんなの霊夢さんが可哀想だと思います。健気に育ち始めた彼女が、まりもっこりさんに汚されていいはずはありません。 

「魔理沙、な」
「まりさもっこり」
「誰がもっこりだ」

 霧雨さんは怒っておられますが、ところで一人前に揃い始めた葉っぱの数々は、しかしあの双葉同様、赤い色をしていました。あと斑入りの葉でした。赤と白の葉っぱです。紅白です。まるで巫女服のような葉っぱです。というかどう見ても巫女服ですね。

「魔理沙さん」
「なんだ」
「ところでこいつをみてくれ。どう思う?」
「すごく……」
「いいですから」

 私は魔理沙さんに明朗な答えを求めます。何故ならこちらの疑問が明朗だからです。今日もニコニコ明日もニコニコ、明朗会計が基本です。
 私は、鉢の霊夢のスカートをひょいとつまみました。

「どうしてこの霊夢は、服を着ているのですか」
 なんとなくですが私は、植物が服を着ているという事実が許せません。だから魔理沙さんに尋ねました。
 これは服じゃなくて葉っぱなのですか。だとしたらそんな葉っぱは許せません。葉っぱは服ではありません。葉っぱを着て許される人はYATTAとか唄っていた人達だけだと私は思ってます。
 私が必死に問い質すと、魔理沙さんは勝ち誇ったように笑いました。

「これだからゆとりは」

 何ですと。

「服を着て生まれ出る。つまりこの霊夢は、被子植物だったんだよ!」

 あー。
 ……。
 …………。

「それもそうですね」

 魔理沙さんは少しずっこけました。納得しない方が良かったでしょうか。
 私はすごく深く得心が行って感心するばかりです。よくよく考えてみれば、被子植物は当然服を着て芽を出し、育ってゆくものでしょう。小学校の高学年くらいで習うべき事柄のはずです。迂闊でした。こんな簡単なことに気付かないのは、いくらなんでもいけません。やはり、ゆとり教育の弊害かもしれません。
 いけませんねやはり。伊吹萃香文科相にがんばってもらわねばなりませんね。幻想郷も格差是正に取り組むべきです。

「それでなそれでな、私考えたんだよ」

 魔理沙さんはしかしそこで急に身を乗り出してこられて、私は興味をそそられると共に、奇妙な不安を覚えました。

「本音で語ろう。私はどうにかして、霊夢を裸子植物にしたかった」

 ああ、やはりですか。明快です。先から思っていますがこの人は本当に明快ですね。分かりやすさが服を着て歩いてる感じです。
 五歳の植物をつかまえて裸子植物にしたいと宣える人類はそう多くないと思います。ちょっぴり危険な香りがします。

「したかった、というか、したい」

 これまた馬鹿丁寧に牢屋の方向へ針路修正です。叶いません。
 何というか直截に言うと、この方から危険な香りしかしません。

「そこで私は考えた」
「何を考えたのでしょう」
「子曰く、つまり裸子植物と霊夢を交配する」

 どこの子ですかそれは。そのりくつはおかしいですよ。本当におかしいと思います常識的に考えて。
 びっくりしました。私には到底及びもつかない発想です目からうどん粉がこぼれ落ちそうになりました。魔理沙さんはどうやら、生物の授業を習われなかったようですね。子房がどうとかいう領域は、既に悟りの彼方に置いてこられたようで、もうゆとり教育がどうとか宣えません。そういったものを超越しておられます。
 世界は明日から彼女を中心に廻るのかもしれません。

「というわけで実際にやってみた」

 あーやってみちゃいましたか。
 手遅れって奴ですね。

「もちろんだ。天才はな、99%のひらめきと97%の努力だ」

 いやはや仰天です。本当に実行に移したらしいです。結果はさておき、その見上げた行動力は賞賛に値するかもしれません。活路はひらめきと努力、渾然一体となった賜物であると言えるでしょう。
 しかし残念なことに、科学者としては致命的に数字に弱い気がします。何度足し算をしてもさっきの数字はおかしいです。おかしいといえば、もうこの人の実験姿勢自体が失敗すぎです。成功しても失敗に帰着する運命にあるという、珍しい実験のような気がします。
 にわかに張り切っておられる魔理沙さんは、やにわ家の奥から黒いヴェールを被せた鉢をひとつ持ってこられました。

「今週のビックリどっきりメカー」
「霊夢はメカじゃありません」
「ところでこれが、ソテツと霊夢を交配した鉢だ」

 あの無口で無愛想で、朴念仁ぶりには定評のあるソテツですか。
 私はソテツにあったことがありますが、この方とはお付き合いできないなと思ったものです。
 今ひとつ期待感が湧きませんね……。

「では。いいか、3,2,1……」
「ちょ、ちょっと待ってください」

 嗚呼、それでも不覚にも、ちょっとその改良品種に興味をそそられてしまいましたがしかし、ここでちょっと待ちませんかと、私の怜悧な理性が押し止めました。私はまだ生きています。
 そう正しいのです。強い声が今、心の中で叫んでいます。ヴェールが被せられたままの今、お前はまだ戻れるからと、見えない誰かが叫ぶのです。胸の片隅でちょっとだけ燻っていた、何というか、公序良俗に賭けて譲ってはいけない部分が最後の最後で警鐘を鳴らしています。
 ここにこそ正しさがあるのです。何故なら。

「魔理沙さん。ソテツと霊夢の交配は、全年齢対象の読み物として規制対象にかかる恐れがあります」
「…………そうか?」
「そうですよ。何と言ってもソテツと霊夢ですよ。多くの床の間で人気を博しているソテツと、将来のある霊夢のカップルですよ。その交配シーンですよ。青少年には刺激が強すぎます。木ポ禁法に違反する恐れがあります」
「キポキンホウ?」
「韻律的にありそうだから怖いですがしかし本当、ここはR指定になってしまうので何卒御自重を」
「んー。なんだよカマトトぶっちゃってー」

 カマトトぶっていません。
 常識的に考えて、ソテツのような裸子植物と霊夢とがまぐわいあうシーンというのは、少年少女達の健全な心身の育成にかならず悪影響を及ぼすと思います。間違いありません。表現の自由という御旗をふみにじって制圧してでも、私は、ここは引くべきではないと思いました。青少年の夢と霊夢の貞操はレッドマークアニマルなのです。夢を壊してはいけません。

「しょうがないなー。じゃあソテツ霊夢の鉢はお蔵入りかー」

 ソテツ霊夢って言わないで下さい。

「略して袖霊夢」

 略したらちょうど意味が通じたからって略さないでください。
 本当に大丈夫でしょうかこの人。

「仕方ないな霊夢ー。ごめんな霊夢」

 というわけで彼女は結局諦めて下さいました。魔理沙さんは悄然としてヴェールの鉢を元に戻し、そして元の青い鉢で行儀良く植わっている被子植物霊夢をおーよしよしと撫でるのでした。霊夢は少し迷惑そうでした。迷惑そうでしたが、一方で安堵しているようにも見えます。
 そりゃ安堵するでしょうね。あのままいけばあのヴェールがご開帳だったのですから、霊夢も植物といえど戦々恐々だったに違いありません。あと一歩でヒョギフ大統領の産卵シーン並の貴重な映像が公開されていたのですから、そりゃあ安堵もしようものです。
 そんな霊夢に魔理沙さんが真剣に謝っているのは、実に空気が読めていないと思います。あなたのせいです。

 ですが……
 うん。
 しかし、まあ、霊夢の鉢のことはずいぶん大切に扱っておられます。一見ぞんざいなようで、今の通り変なことに付き合わせたりもしていますが私には分かります。奇想天外な振舞いの中で、この人は、霊夢の鉢を大切にしておられます。
 手塩に掛けるその手塩はかなり劇薬のような気がしてなりませんが、しかし、鉢に注ぐ愛情は強く感じます。ていねいに水をやります。歪んでいますがきちんと愛を注いでいます。色んな意味で他の方に比肩せざるものが、ひしひしと感じられます。
 だから私は、この方ならまあ、たぶん恐らくまあ、きっと、大丈夫じゃないかなーとか、そんなふうに思わないでもないことにしました。そりゃもうすごく怖いですが、まあ、まあ大丈夫じゃないかなと思います。この魔理沙さんは愛に溢れていますから、この人間なら、まだ小さい霊夢に立派な花を咲かせてあげられることでしょう。
 ラフレシアみたいな花が咲いたとしても、たぶん枯らしはしないと思います。
 たぶん。

「では後学のためにお聞きしておきますが」

 私はまた、最後に訊いておきたいことがあって、魔理沙さんに声を掛けました。

「ソテツと霊夢の交配した木の様子を――詳細に語られると大人の事情でまずいので、ずばり一言で簡潔に教えてください」

 私はあらかじめ釘を刺して、魔理沙さんに答えを求めます。私はどうでもいいんです。……本当にどうでもいいんですってば。多くの読者が気になっていることでしょうから、と思ったのです。
 ……気になっているでしょう? 

「ふ、そうこなくっちゃな」

 魔理沙さんはにやりと笑いました。実に嬉しそうです。
 そしてすでに仕舞った件の鉢の方をちらりと一瞥してから、朗々と、演説のように大きな声でこう仰いました。

「あのソテツ霊夢はな」
「はい」
「ソテツもないものになったのだ!」

 ……げぇ。
 どうでもよかったです。すみません読者のみなさま。
 本当にむかつきました。
 この人の人生をボッシュートにしたくなりましたが、しかし幻想郷には山田くんすらも来ませんでした。
 きっと審議中なのだと思います。
 
 

 また日が経った頃に私が訪ねたところ、時を同じくし霊夢の鉢を求めて、吸血鬼さまがお越しになりました。吸血鬼は寵愛のメイドと一緒に、日傘を差してお越しになりました。

「やあ、霊夢は今日も立派に光合成しているかしら」

 レミリア・スカーレットお嬢様は、御機嫌麗しいお声で魔理沙さんにお尋ねされました。「ああ、今日も蒸散がバツグンだぜ」と魔理沙さんが答弁なさいました。あまり意味が分かりません。

「何よりね」

 何よりなのでしょうか。

「それにしても羨ましいわー、木肌のツヤといい葉緑素のハリといい」

 レミリア様は本当に羨ましげな目で、霊夢の鉢を愛でておられます。横で魔理沙さんが、無駄に得意満面な顔でその様子をご覧になっている、という構図です。私はその魔理沙さんの肩越しから、久々に見る霊夢の鉢を覗き込みました。
 霊夢は今、実をつけるようになっていました。
 前に来た時五歳だった霊夢は、きっとその三倍くらいの年齢になったのでしょう。すっかり植物っぽさが増して、素敵になっています。ちょっと見ない内に大きくなったわねー、と、私は魔理沙さんに言いました。
 幹も葉も、そして実る果実も大きくなっていました。
 果実は二つだけ実っていました。
 たわわに実っていました。
 まあそれ以上の紹介は必要ないでしょう。そういうことです。

「その実を触らせてくれないかしら」

 レミリアお嬢様が憶面もなく魔理沙さんにおねだりです。

「断る」

 却下された模様です。

「どうして」

 不服そうなレミリアお嬢様の顔です。みるみる不機嫌に歪んでいきます。

「お前は果実が目当てだからだ」

 魔理沙さんは、にべなく突っぱねられます。

「失礼な!」

 レミリアお嬢様が憤慨。

「何を証拠にそんなこと!」
「何故ならお前は、年齢の割に御自分の果実が不作だからだ!」

 レミリアお嬢様の顔が固まり、
 あ。
 あー……。

「495年も生きてなんだその、何というか果実のその、貧しさ」

 いやいやはやはや。
 それは何というか、割と言ってはいけない類の言葉だと思うんですがどうなんでしょうね。
 あぁっと、レミリアお嬢様の爪が翻りました。魔理沙さんが紙一重で躱して空へ舞い上がります。
 はじまってしまいました。
 当然と言えば当然ですね。

「もう……」

 私は興味を失し、霊夢の鉢の元へ近づきます。鉢の横ではぼんやりと、特に何をするでもなく咲夜さんが霊夢を見おろしておられました。

「あの……あなたはあなたで、ご主人さんたちのこと、止めなくて良いのですか」
「良いのよ。私もお嬢様の喧嘩よりは、霊夢を観ている方が楽しい」

 咲夜さんはそう言って、限界に挑んでいるご主人様の姿を顧みようともしません。ある意味で、一種の信頼なのかもしれません。
 咲夜さんの目は、霊夢の美しい成長にすっかり奪われているようでございました。果実という卑俗なテーマで拳を交えている上空お二方に比べると、このメイドさんの、まあ何とも落ち着かれている物腰であることでしょう。
 瀟洒の看板を背負っているのは伊達ではありません。霊夢の美しさを、静かに、あますことなく受け取ってくれているのでしょう。
 何だかこれには、私まで嬉しくなってきてしまいます。

「咲夜さん、霊夢はどうですか」
「ええ、とっても素晴らしいわ」

 霊夢のすばらしさを分かつことが出来る人と共にいる。
 それは幻想郷にあって、ある意味光栄すぎる幸せなのかもしれないと私は思います。

「素晴らしいわ……」
「本当、きれいですよね」
「ええ。形も大きさも、身体に対する全体的なバランスも完璧……」

 そうですね……バランス?

「色んな意味で参考になるわ……この赤と白の、魅惑のフェロモンに包まれたパッションフルーツ」

 あ、あれー。

「さ、咲夜さん」
「何かしら」
「単刀直入にお伺いします。……あなたは今、霊夢の何をご覧になっているのですか」
「……。」

 咲夜さんは少しだけ沈思され、

「……だってほら、植物にとって果実ってのはもっとも美味しい部分じゃない」
「そういう問題じゃありません」
「果実は植物にとって非常に重要な存在であって」
「そういう問題でもありません」

 まったくもう。
 こちらのメイドさんは立ち振る舞いが非常に慎ましやかで、言葉遣いも定規で測ったように丁寧でした。それはつまり瀟洒と形容するに相応しい成りだったのですが、ただ唯一、今気付いたのですが、よく見るとその双眸に炯々と宿された光が、えらいこと並外れて禍々しいような気がします。
 邪です、ヨコシマ。

「あー! おーい!」

 瀟洒なメイドさんの変貌に目を奪われていた私の後ろから、不意に魔理沙さんの声がしました。

「何でしょう」
「そのメイドならもう手遅れだ。末期だ。吸血鬼のお嬢なんかより、よっぽど病だぜー!」

 魔理沙さんが知ったような口で、レミリアお嬢様の切っ先を交わしながらこちらに叫び、笑いかけました。
 咲夜さんがすいと、魔理沙さんの方へ向き直ります。かちゃり、と、何か音がしました。
 私は意味がよく分からず、問い返します。

「魔理沙さーん、どうして咲夜さんが病なんですかー!」
「当たり前だろー。だってそこのメイドの胸はパッ



 またある日、発芽から随分と長い日が経ち、この日は月の人達が訪ねてこられました。お姫様と、薬剤師さんの二人連れでお越しでした。
 彼女らは霊夢を見にこられたということでした。私は霊夢のもとへと、お二方を案内します。
 霊夢は今、樹齢も四十を超えて、立派な木になりました。もうこの木何の木なんて言わせません。気になる木ではありますが。
 さて、お二方はやってくるなり座敷に正座しました。雰囲気がそれっぽかったので私が勝手にお茶をお出しします。魔理沙さんはというとお二方がいらっしゃったときから一貫して渋い顔をしておられましたが、特に何もする訳ではない月人ふたりの姿にしばらく警戒の眼差しを浴びせた後、本当に何もする素振りを見せない二方に飽きたらしく、どこか奥の部屋へと消えてしまわれました。魔理沙さんには少々つまらないお客でしたか、しかし本当に月の二人は本当に、本当に何もしようとしません。黙って、黙ーって、ただ霊夢の植わった鉢を見ておられます。あまりに動きがないので、私はたまらず問いました。

「何をしておられるのですか」

 答えを返して下さったのは、永琳さんのにこやかな声でした。

「風流を解しているのです」

 ほあー。
 風流、ですか。
 これは少々驚き桃の木霊夢の木です。発芽からずいぶんの長い時間が流れ、いつしか霊夢は、風流人の嗜みへと昇華していたのですね。苔の生えた盆栽みたいなものでしょうか。

「輝夜の君」
「はは」
「こちらの霊夢は、こんなところに枝毛がございます」

 そういって永琳さんは懐から鋏を取り出され、霊夢の美しい濡れ羽色のストレート枝をお手入れなさっていました。枝のお手入れが必要というのは、盆栽らしくて良いと思います。風流です。

「永琳どの」
「はい」
「木肌にしみがございますね」
「本当ですね。これはいけません。いけませんの中のいけませんです」

 輝夜さんの方が今度は、木肌のシミを気にされています。盆栽というのは一種の芸術ですから、小さな瑕疵でさえも風流人の興を大いに削いでしまいます。芸術として、確かにそれはいけませんのかもしれません。日本語が変かもしれません。

「あと鉢が見窄らしいですね」
「色目が合っていませんね」
「ただし纏う葉は、枝の付け根が裸のままという扇情的なもので、大変風流な枝振りです」
「おっしゃるとおりにございます」

 お二人は滔々と、和の空気を全身より醸し出しながら霊夢の盆栽を眺めておいでです。ところで扇情的ってのは風流なのでしょうか?
 いえまあ、風流なのかもしれませんが。
 分かりませんものね。知識人の嗜みというのは、得てして俗の人間には理解しがたいものであります。

「腋よね」
「腋ね」

 風流、なんですってば。

「輝夜さん、」
「何かしら俗人」

 うぐ。

「俗人で結構ですがところで、この鉢にはいかほどの価値があるのでしょうか?」
「あー。これだから俗人は」

 ですよねー。
 しかし個人的には、やはり気になってしまうことです。

「非常に価値があるわよ。私の見立てでは」

 輝夜さんは穏やかに、そうおっしゃいました。   

「あら、先ほどは何やら、随分と欠点が多いようなことを口にしておられましたが」
「完璧なものも美しいわ。けどね、完璧じゃないものはもっと素敵なものなの」

 輝夜さんはふと、遠い目をされます。

「お椀のひとすみを凹ませる。望月よりも十六夜。少しだけ欠けているならば、そこにこそ美しさがあるものなのよ」

 輝夜さんは訥々と語られ、まん丸いお茶碗でお出ししたお茶を一口口にされました。
 私は改めて、木としてすっかり一人前になった霊夢を見遣ります。

「輝夜さん」
「何かしら」
「それではこの霊夢は、美しいということでよろしいのでしょうか」

 私がそう尋ねると、輝夜さんは少し目を丸くされ、隣の永琳さんと顔を見合わせました。
 そして、二人して苦笑いをされました。

「何か違ったでしょうか」
「いいえ、別に」

 輝夜さんはそれでもやはり少し笑いながら、もう一口だけお茶を飲まれました。

「私から言わせれば、霊夢なんて、欠けすぎてて呆れるわ」

 輝夜さんはそのまま、つとに黙ってしまわれました。
 丸いお茶碗が、ご気分を損ねてしまったのかもしれません。
 彼女はそのまま、えらく長い時間霊夢を眺めておられました。言葉もなく、機嫌を損ねてしまった原因かもしれない私は、ちょっと居心地が悪かったです。
 輝夜さんが何を想われているのか、或いは永琳さんにしても、私には読めませんでした。
 読めませんでしたがただ、不機嫌そうなお顔のその割に、ずいぶんと本当に長い時間、優しげな眼で霊夢を愛でておられたのが印象的でした。



 その日霊夢の鉢の元へやってこられたのは、能天気なお転婆亡霊少女の底抜けな明るさと、付きそう緑色の従者の重苦しいため息でした。
 ご主人様の道楽に付き合わされる従者の苦悩という、それだけで一枚の絵画が作れそうなうまい雰囲気でした。これほど分かりやすい方々もそうそう居ないと思います。

「こんにちはー。今日も私の霊夢は元気に光合成しているかしら」
「幽々子さまの霊夢ではありませんので悪しからず」
「あら妖夢、なかなか隅に置けないことで」
「そういう意味ではございません」

 妖夢のしかめ面は、年月を重ねてもあまり色を変えることがありません。彼女が人よりも緩やかに齢を重ねる性質であることを、私はどこかで聞き及んでいました。未だにどこか幼さを残しておられるのは、偶然ではないのだと思います。

「本日はどういった御用向きですか」

 私はつとめて明るく、できるなら妖夢さんの御機嫌を少しでもほぐせるようにと話し掛けてみました。

「今日はこの白楼剣と楼観剣で、霊夢の枝の手入れをしに参りました」

 昔いにしへの武士の侍が馬から落馬しそうな口調で、妖夢さんは仰々しくおっしゃいました。ずいぶんと骨の折れることです。
 ですがお手入れは良いですね。そういえば以前枝毛とかは切ってもらってたような気もしますが、妖夢さんはこちら本職です。霊夢もたまにはお手入れが必要でしょう。樹齢をたっぷりと重ねておりますから、悩みとか迷いとか、あと剪定とか間引きとかしてもらったら大変気持ちが良いんじゃないでしょうか。その二本の太刀で。

「幽々子さん、お任せしてもよろしいのでしょうか」
「うーん、妖夢なら大丈夫だと思うわ」

 幽々子さんが私に言います。「と思う」という節が若干引っかかりはしましたが、まあ曲がりなりにも庭師であらせられる方ですから、そうそう下手なことはされないと思います。腕の立つ庭師さんに手入れされて、霊夢も喜ぶでしょう。

「それでは、霊夢をお見せ頂けますか」
「ええ、こちらです」

 私はお二方を、霊夢の鉢へと案内します。
 お二方は鉢を一瞥されるなり、ああ、と感慨深げな嘆息を漏らされました。
 お二方とも苗木だった頃から霊夢を知っておられますから、今現在齢を重ねた霊夢の鉢に多少、感じるところがあるのかもしれません。
 貫禄さえついてきた老木の霊夢に、妖夢さんはやおら一太刀を振るいました。ひとひら、茶色いものが舞い落ちました。剣腕に長じた庭師は風格の動きで剣を鞘に収め、ひらひらりと舞い落ちた薄い木片を拾い上げます。
 割と豪快なお手入れをされます。

「これが霊夢さんの……霊夢さんの……」
「霊夢の、何ですか」

 悩みでしょうか。迷いでしょうか。憂いでしょうか、怒りでしょうか。
 白楼剣で切り落とされたその部分がいかなるものなのか、私は興味を惹かれます。

「霊夢の何なのですか、妖夢さん!」
「アンチエイジングです」

 あぁ……?

「アンチエイジングです」

 いや二度おっしゃらなくても分かりましたって。
 ちょっと気が抜けましたが。
 ええ、植物と言えど寄る年波には抗いたいものなのですね。よぉく分かりました。ある意味で悩みでも迷いでもあり、憂いでも怒りでもあったわけです。それらをひとまとめにしてそぎ落とすとは、やはり伝家の宝刀という白楼剣は生半可な切れ味ではないようです。感服です。
 シミとかもとれるんじゃないでしょうか。あとたるんだ木肌とか最近白髪が多いてっぺんの葉っぱとか、その辺も適当にお手入れしてもらうと霊夢は喜ぶんじゃないかと思いますが。

「問題はこの木片ですが」

 妖夢さんが思案しておられます。手のひらには、今しがた霊夢から切り落としたひとひらが弄ばれておりました。
 彼女の興味は、どうやら霊夢本体よりも、もっぱらそちらの木片に注がれているようであり、

「貴重な霊夢さんの欠片です」

 貴重……?

「妖夢、わたしに考えがあるんだけど」
「何でしょうか幽々子さま」

 とそこで、しばらく遠巻きに様子を眺めていた幽々子嬢が、ひょいと顔をお出しになりました。

「幽々子さん、」

 私はふと奇妙な胸騒ぎを覚えて、にこやかな亡霊嬢の笑顔に尋ねます。

「それを……どうされるおつもりですか」
「いえちょっと……香炉でちょっと炙って、その煙を楽しむの」 

 香木か。
 木々の中には生態や細菌の自然作用によって芳醇な香りを醸すものがありまして、それを薄く削り取って燻すことで豊かな香りを楽しみ心を落ち着けるという文化が古来よりありまして、なんでこんな説明をせねばならないのか分かりませんで、とりあえずそんな木のことを香木といいます。
 いやいや霊夢を燃やさないでくださいってば。
 そりゃちょっとだけなるほどって思っちゃいましたし、面白そうとか思っちゃいましたし、すごく風流な遊びを知っておられるあたりはさすが、曲がりなりにも良いところの大和撫子お嬢さんだなあと感心しました。感心しましたが、
 霊夢は結局また匂いを嗅がれるのですね。
 久方ぶりです。二度目まであるとはつくづく変態に愛される植物です。霊夢の使った縦笛とかがあったなら、今頃舐め尽くされて飴のように溶けて消えているんじゃないかと思いますねえ。木が笛を吹くのかまではよく分かりませんが、リコーダーなんて外せるところみんな外して奪い合いながら舐めてたんじゃないですかね。とてもじゃありませんが、全年齢では無理な情景描写だと思います。

「幽々子さま、香炉です」

 いつの間にか声がして、いつの間にか消えていた妖夢がいつの間にか戻ってきていました。そしていつの間にか準備の良さを幽々子さんにアピールしておられます。
 健気なのは妖夢さんでした。
 不憫なのは霊夢でした。
「……メラゾーマ」
 幽々子さんが幽玄に呟かれると、木片に小さな火が灯されました。
 間もなく、紫色の煙のほそくたなびきたる。
 幽々子さまの手のひらがひらひらと扇になって、やがてくんかくんかと煙を嗅ぎ始められました。よく分からなかったのか、終いには顔ごと煙に突っ込んで空気を貪っておられます。いつしか見た光景に非常に似ておいででした。やっぱりちょっとケダモノっぽかったです。幻想郷はこんなのばかりなのでしょうか。

「いかがでしょうか」
「うーん」

 反応は芳しくありません。これだけ嗅がれてそんな微妙なリアクションをされても霊夢は困ると思うんですが、まあひとまず何とも困った表情を浮かべながら、幽々子さんはぽつりと呟かれました。

「妖夢ー、加齢臭がするわ」

 な、何ですと。

「それはしょうがないのでは――老木ですし」

 妖夢さんも困った顔をされており、そしてこちらは燻る煙を嗅ごうともしません。興味すらも湧かないということでしょうか。従者の謙虚さかとも思いますが、純粋に興味がないんだと思います。それが正常ですよね。
 ここで私がまとめたところによると霊夢がやられたこととして、その老骨を太刀によって削り取られ、火をつけられ、変態っぽく匂いを嗅がれた挙げ句の果てに老樹っぷりをバカにされました。散々な気がします。植物は誰かに愛でてもらってこそだと私も思うのですが、晩年に至ってこういう仕打ちというのもなかなかに過酷な気がします。
 やがて幽々子さんも飽きてしまわれたのか、まだ火種の残っている香炉を

「もういいわ。妖夢、片付けといて」

 と一蹴し、ご自身はまた鉢の方に向き直ってしまわれました。
 妖夢さんはといえば何とも慣れた感じで、幽々子さんの気まぐれをどこか遠い方へと片付けに行かれます。やはり健気です。
 そして私と幽々子さん、二人だけがその場に取り残され、私はこのおかしな亡霊お嬢様に、何ともうまい言葉を継ぐことも出来ずにおり、



「……そのうちまた、すぐ来るわ」


 
 ふとその瞬間、幽々子さんがぽつりと、そう零されたのです。
「妖夢さんですか」
「違うわ。私」
 幽々子さんは、こちらを向こうともしません。背中を向けたまま言葉を続けられます。
 どうしたのですかと、私は問い尋ねました。
 幽々子さんは、首を横に振られました。 
「わけなら今度――わかると思うわよ」
 彼女からの答えは、短い言葉で終わります。そして、彼女が次の句を継がれることは、それきりありませんでした。
 二人きりになった庭で彼女は黙ってしまい、そして鉢の上に輝く元気なお天道様とどこまでも昇ってゆけそうな高い高い青空を、遠く細めた目で、風のように眺めておられたのです。






 その日は唐突にやってきました。

 私はまたいつものように、霊夢の鉢のもとへ向かいました。庭を通り、冬ごしらえの柿の木の横を抜けて、鉢の置いてある場所に向かったのです。
 するとそこには、すでに先客がおいででした。
 吸血鬼のお嬢様とそのメイドさんでした。いえ、彼女たちだけではありません。月のお姫様と薬学者がおられ、そして桜の亡霊嬢と庭師さん。ほかにも色んな人がおいででした。

「……遅かったわね」

 その中のどなたが、私におっしゃいました。言われた私には、その言葉の意味するところを暫し迷いました。彼女らが集まっている理由も分からず、そして遅かったと言われたことがよく分かりません。
 分かりませんでしたが、意味が分からないまでもその言葉に、私は、察するものがありました。
 濃い人垣を掻き分けて、私は夢中に霊夢の鉢へかけよりました。そこに答えがあったのです。
 みんなの前で、霊夢は、枯れてしまっていました。
 そこにもう精気は無くて、朽ちてしまった時間の重なりだけが、しわしわの幹になってそこに横たえてあったのです。鉢の中で、霊夢が時を止めてしまっていました。私は茫然と眺めました。
 すべてが蘇ります。赤くて小さかった双葉、人見知りだった苗木の頃。どんどんきれいになっていった少女の頃と、大人になってゆくまで。
 今見る霊夢は、色も変わってしまってしわしわで、もうどうしようもなくて、すべてを知っている私にはどうしても、あの霊夢とそれが、同じ木だなんて思えないのです。
 ですが、霊夢という木は枯れてしまったのです。枯れてしまったので皆さんが来られたのであり、つまり、枯れているのは霊夢なのです。
 その鉢植えは、終わりを告げているのです。

「――そうだ」

 私は、大切なことを思い出しました。色んな方々が霊夢を囲う中に、一番霊夢に近かったあの方の姿が見えません。ざっと探しても、その顔を見つけられない。
 私はとっさに、隣にいた誰かに声をかけました。

「魔理沙さんを……霧雨魔理沙さんを呼んでこなくてはいけません」

 振り向いた彼女は、よく見れば、妖夢さんでした。

「何をおっしゃいます――魔理沙はもう、居りませんよ」

 不思議そうな顔で妖夢さんはこちらをご覧になり、一言だけ私にくれました。そして、霊夢の鉢の方へまた視線を戻してしまわれます。
 私には、妖夢さんの言葉の意味が、しばらく分かりませんでした。
 そして少し考えて、ようやく、この鉢の置き場所が、あの日から変わることも無かった、魔理沙さんのお宅だったことを思い出すのです。探すまでもない、そこは魔理沙さんの家。
 だから、いの一番に見つけられるはずの家主さまの姿が――しかし、人並みの中のどこにも見当たらないのです。
 妖夢さんは、私に背中を向けておられます。

「……そうか」

 私はやっと、気づきました。
 私の知らない間に魔理沙さんは、いなくなっていたのです。
 彼女は、鉢を残したこの家から、もう出掛けてしまっていました。もうここにはいないのです。いつも霊夢の鉢の隣にいて、手塩にかけて、何度も変なことに付き合わせて――あの霧雨魔理沙さんという人は、今、もう、どこにもいませんでした。
 霊夢が歩みを止めたその時間の中に、霧雨魔理沙さんはもう、待っていてくれなかったのです。

「そうなんです……ね」

 肩の力が抜けてゆく感じがしました。
 霊夢と一緒にいた魔理沙さんが、知らない間にいなくなっていたこと。
 私はそんなことにも、気付かなかったのです。年老いてゆく霊夢をこうして眺めていたというのに、本当に、気付いたら彼女は、霊夢の隣から居なくなっていたのです。
 信じられませんでした。
 こんなことが、自分で信じられませんでした。

「賑やかねえ」

 後ろから声がして、私は後ろを振り返ります。 
 人垣がにわかに分かれ、そして――久しぶりに目にする姿が、そこに現れました。

「紫さん……」

 私が呟くのを合図にしたみたいに、紫さんは静かに歩んでこちらへ近づかれました。そして私の横を行きすぎ、霊夢の隣で足を止め、枯れてしまった木をちらりと睥睨します。

「あれからもうそんなにも、時間が経ったかしら」

 さばさばとした口調で紫さんはおっしゃいます。
 人だかりのところどころから、同調するようなうなり声が聞こえました。

「――でもまあ、枯れてしまったものはしょうがないしね」

 そして続けざまに、ひどく淡々とした口ぶりで、紫さんはそうおっしゃいました。
 私の胸が、ぴくり、と高鳴りました。
 人垣からはこれにも、調子を合わせる呻吟が聞かれます。木を枯らす木枯らしが、ざわめきの中に混じり込みます。
 我慢の出来ない何かが、少しずつ私の中に湧き上がりました。

「――待ってください皆さん」

 私は思わず立ち上がります。真後ろにいた紫さんと、正対する形になりました。
 見つめ合った紫さんの横には、私の気づかない内に、レミリアお嬢様と輝夜さん、幽々子さんも立っておられます。そして私たちのその真ん中に、霊夢の鉢があります。
 霊夢を挟んで、私と彼女たちは、見つめあいます。
 その彼女らは、皆一様に、視線を逸らさずこちらを見ています。

「皆さん、残念じゃないのですか――ずっと花を咲かせてきた霊夢が、枯れてしまったんですよ」

 うまい言葉が思いつかず、私は思ったとおり、率直な感想を言葉にして、彼女たちに投げかけました。

「哀しくないのですか……」
「哀しくないわよ?」

 言葉を換えた私に、間髪を入れず、レミリアお嬢様がおっしゃいました。
 私は、そのまま次の言葉を失います。
 レミリアお嬢様は、瞑目して、私を諭しくるめるようにおっしゃいました。

「それが、運命だからだよ」

 輝夜さんは、頬に手を当てておっしゃいました。

「永遠に生きる生き物なんて、生き物じゃないんだから」

 幽々子さんが、風に乱れた髪を掻き上げます。

「まあ、この花はすごく美しく、散ってくれたんじゃないかしら」

 そしてお三方は、――私の目が間違えていなければ、うっすらと笑みを浮かべているように見えました。実際に笑っていたわけではないと思います、しかし、そのあまりにも穏やかな表情が、私に笑っているように見えたのです。そしてそれは、あまりにも酷薄な笑みに見えたのです。
 私が彼女らに視線をぶつけつづけ、すると困ったように誰ともなく、彼女らは後ろに控えていた紫さんをご覧になりました。

「……うーん……」

 最後に残った紫さんは、答えに困ったように、うなりながら頭を掻きます。唇には――しかしこちらははっきりと、薄い笑みが浮いています。
 彼女は本当に答えに窮したというわけではありません。そんなことは分かっています。私の言動に対して、わざとそんな態度をとっているのです。そのくらいすぐに分かります。本当は、簡単に言葉を見つけている筈だということくらい、私には分かるのです。そしてそのことを、紫さんがまた、分かっているはずなのです。分かっていて、八雲紫はお芝居をするのです。

「……まあつまり」

 どれほど黙ったか、ようやく紫さんが口を開きます。そして、

「そんなもんだから、ってことよね」 

 紫さんはそれだけおっしゃいました。
 私は何も返しませんでした。
 たくさんの息吹が集まった霊夢の鉢の周りが、水を打ったように静かになりました。時が止まりました。

「……そう、ですね」

 私の予想は当たっていたのです。紫さんは、私の反駁を根元から摘み取ってゆく一言を、やはりきちんと持っておられました。
 誰の顔も見ることが出来ず、私は足元へと視線を逃がしました。
 結果私は、すべてを理解してしまったのです。理解してしまった気がしました。紫さんのその一言はひどく簡単で、幼稚で、それゆえに、とっておきの一言だったというわけです。私にとって。 
 この人達は妖怪。
 そんなことも分からずに今彼女と睨み合った、そんなわけはなかったはずなのです。

「あんたも大概ねぇ」

 幽々子さんがあきれたように、私を眺めています。

「まあ――花は散るから美しい。それくらい、分かるわよね」

 幽々子さんがふと、一歩、人波から前へ歩まれました。
 私は、地面からゆっくりと、顔を上げます。

「そして――いつか満開を見るために、いつまでもお花見をするの」 

 その足取りで、ゆっくりと、霊夢の鉢へと歩み寄られます。

「お花見、ね」

 もう動くことのない霊夢という花を、いとおしげに見つめられました。
 人垣がほどけてゆきます。



「またできると良いわね――綺麗なきれいな、花の下で」



 そして静かに、幽々子さんが、お水を鉢に注ぎました。
 その水やりは、ほんの僅かな量でした。その雫が空の色を映して、鉢の中に注がれます。

「次の芽が、きちんと出ますように……っと」

 幽々子さんはそう呟きながら、小さな水を注ぎ終えました。

「次の芽が出るように、か……まあ、そんな運命かな」

 レミリアお嬢様が、水を注がれました。
 静かに、鉢の中で眠る霊夢に、温かく水を注いでゆきます。

「まあ、どうせすぐに咲くわよ。待っていれば、時間なんてすぐに巡り来るわ」

 輝夜さんも、水をやります。
 霊夢を起こしてしまわぬようゆっくりと、穏やかな水をやるのです。
 そして――やがて、皆が、水をとりました。誰もが憚ることなく水をもち、それを鉢に注いでゆくのです。ほんの少しずつでしたが、みんなが注いでゆかれます。
 途中同じ方が、二度注ぎに来られました。すると別の人が二度目に来られました。三度目が来られました。
 やがて何度も何度も、誰もが繰り返し、水を蒔くようになりました。一人ずつ、少しずつだった水は、最後は誰ともなくとめどなく、たくさんの方によって鉢へと注がれてゆきました。枯れてしまった博麗霊夢の上に、たくさんの水が注がれてゆきます。
 その水に、虹が架かる幻想が見えました。
 私はひとりだけ、立ちつくしていました。
 確かな場所で確かでない、まるで風に舞う木の葉のような、だけどいつかまた花を咲かせるかもしれないその鉢と、絶え間なく注がれてゆく誰かしらの水また水を、私はただぼうっと眺めているのです。
 嬉しいとか哀しいとか、侘しいとか切ないとか、何にもなく、ただ眺めているのです。
 霊夢が育った、そして霧雨魔理沙さんが育ったこの場所で。
 みんなが水を、こんなにも分けてくれています。
 振る舞われゆく光のような如雨露を、私はただ眺めています。

「……哀しくないって、みなさん、おっしゃったじゃないですか」

 私は零しました。
 言葉はあまりにも小さく、果たして皆さんに聞こえたのか、私には分かりません。
 ただ、確かに言えることがひとつふたつ。
 あなたたちがあげた水の、今のその温度を、霊夢はきっと、忘れないと思います。
 そして必ずその鉢は、いつか違う花が咲く時を迎えるんだと思います。あなたたちは、それを迎えるんだろうと思います。

「――まぁ、時なんて割と早足なものよね、意地の悪いくらい」

 いつしか口数の絶えていた庭で、水音だけの沈黙を破り、紫さんが静かにおっしゃいました。
 私はゆっくりと、幻想郷の大妖怪を顧みます。
 私は思います。或いは皆さんが「哀しくない」とおっしゃった、その言葉に偽りはないのかもしれないと思います。
 ただ小さな時間を慈しむ、それ以上でも以下でもない水に過ぎなかったのかもしれません。
 そしてさりとて――その上で、冷たくない水であったように思うのです。
 だから私は、紫さんを、静かに眺めました。私が皆さんに、八雲紫さんに言うべきことは、恐らくもう、何も残っていないだろうと思ったのです。

「……散会」

 紫さんの一言が、最後の合図になりました。寄り集まっていた人垣が、くずれました。
 鉢を囲っていた十重二十重の人波は、やがて名残惜しそうにしながらも、風に溶ける煙のように散り散りになってゆきます。
 冬の風がひとつ吹きました。
 吹かれて、たくさんの足音が家路に棚引いてゆきました。
 枯れてしまった霊夢の周囲に蟠った熱気は冬空へと消えてゆき、どこか緊張の無い、とても穏やかで緩やかな音になって、止まっていた庭の時間がまた動き出しました。

 鉢は、たくさんの方々の水でいっぱいでした。
 私は取り残されたように、この庭にいるのです。
 妖怪たちも、霧雨魔理沙も、霊夢も居なくなったこのちっぽけな場所で、私は何をするのかも分からないまま、どうしてここに立っているのかも分からないまま、そこでぼんやりとしていました。
 私もすぐに、この庭を立ち去らなければいけません。ですが私はレミリアお嬢様を、輝夜さんを、幽々子さんを――他、水をくれたたくさんの方々をここから見送ることを選びました。
 この場所から立ち去ってゆく最後の一人は、今回、私であってもいいだろうと思ったのです。


「……今回の木は、ひさびさに、良い枝振りだったわね」


 他に誰もいなくなった庭で、紫さんがぽつりと、そう呟きました。
 私はもう、何も思いません。
 彼女に聞こえない声で私は、ありがとうと、告げました。 
 冬の風が北から吹いて、南へ流れてゆきます。風の冷たさが頬を冷やします。
 新しい春を迎えるまでの真っ白な時間が、今年ばかりは少しだけでも、早く過ぎてくれればいいなと思います。

 私が踵を返し、目を切ってしまうその最後の間際、紫さんは珍しくか弱げな仕草でした。
 誰も見ていない幻想郷の小さな庭で、彼女はほんのちょっとだけの水を、霊夢の土へと振りまかれたのです。



                             (了)




 未だに私の作品の中で、最も遊び心に溢れてる作品かもしれないです。いや、全ての作品は何かしらの遊び心を籠めてはいるのですが、遊びを遊びのまま置きながら、あまり湿っぽくならず、真面目くさらず、心地よい作品に出来たかなとは思っています。
 人が生まれ続けてゆくと、木の根っこの形になる。
 
 繰り返しになりますが、あまり真面目くさらなかったのが個人的には気に入ってます。こういう作品で、しみったれたことをやりすぎると心に余裕がないようでどうしても自分で気に入らなくなってしまうので。
 水のようにするっと流れる形の無い作品として伝われば良いなと、私は思っています。
(初出:2008年2月10日 東方創想話作品集48)