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【本読み少女に恋をした!】


「好きです!」

 とだけ言われて、まっすぐに突き出された白い封筒を咲夜はぼんやりと見下ろしている。恐らくは箪笥の中にしまってある中でも一番保存状態に秀でたやつを選んだと思しき、ちょっと不自然なくらい折り目も汚れも全くない、まるで花嫁のような純白の封筒が咲夜に勝負を挑んでいる。
 表書きは何もない。
 それが逆に、表書きで書き表せない中身を物語っていた。
 「好きです」という言葉。
 恐る恐る手紙から視線をあげたところで、少年と目が合った。
 思わず互いに赤面する。
 咲夜、はじめての体験である。
 なにげない昼下がりのことだった。お使いが終わって掃除が終わって、当主様が前日お召しになったよだれかけみたいな食事用ナプキンやら上着やら下着やらを洗濯にぶち込んで、どうせ暇つぶしに来ただけであろう魔理沙を適当に足で追い払って、そういえば大根買い忘れたわあららどうしましょ、と主婦みたいな悩みに胸を焦がしていたときだ。
「一目見たときから好きでした!」
「そ、そんな……ご冗談を」
 頬を染めて視線を右下に投げ飛ばし、俯き加減で口許に指を添え、上目遣いにちらりと男の人を見やって、
「本当です! あの紫色の髪の、本を読んでいた少女!」
 ――ってパチュリー様かい。
 なぁんだ、と咲夜、一拍置いて赤面した自分にむしろ赤面した。ふと気づき、遊女のポーズを慌てて元に戻す。
 夕食を腹に収めた直後のじじいみたいなバカでかい舌打ちを一発、しかし少年は意に介す様子もなく言葉を継ぐ。
「あの方に、是非一目お逢いしたく……叶わぬならせめて、この手紙を!」
「……えーっと」
 混乱の坩堝の中で、咲夜の頭は事態を飲み込めずにいた。
 ひとまず時間を止める。
 咀嚼する。飲み込み始める。
 だんだん一致してくる。
 呼ばれた名前と顔が、貝合わせのように互いに吸い付き合って咲夜は目を剥いた。
(パチュリー……さま、だと……)
 パチュリーさまに一目惚れ。人間の少年。ラブレター。
 せっかく咀嚼して呑み込んだのに、脳が事実に拒絶を示している。常識がノーサンキュー。世界の定理が揺らぐ。
 集中力が緩み、止めていた時間が再び動き出した。
 時雨のような蝉の鳴き声が戻ってくる。
 断じて夏の幻ではなかった。横で美鈴が見ている。空でとんびも見ている。蝉も見ている。蝉の抜け殻も見ている。
 残暑を容赦なく照りつけてくる死に損ないの真夏日に咲夜は変な汗をかきながら、場違いな少年と向き合っている。
「……一応、詳しいお話を伺えますか」
 堪えきれず一歩二歩と間合いを詰める少年を両手で制しながら、咲夜は呟いた。服装は粗末ではないが決して貴くもない。汚くはないが清潔と言うには程遠い。二重とそばかすとちんちくりんのにきび。坊主頭を坊主と呼べる余命は、あと二週間そこそこといった具合。
 咲夜は努めて冷静な接遇を心がける。横で聞き耳を立てていた美鈴がそっと寄ってきて、両手で筒を作って耳打ちする。
「――って、詳しい話を聞いてどうすんですか!?」
「そんなこと言ったって……このまま門前払いするのも忍びないでしょ」
 ひそひそ話の間にも、手紙はまっすぐ咲夜の胸の前に突き出されていた。哀しい哉、それがもし自分に宛てられたものだったらこんなにも青春のクライマックスの一ページなんてきっと無いのだけれど、単に他人宛のを託されてるだけだという事実が非常に虚しい。というか妙に腹立たしい。
「夕べ、自分はこの屋敷の通りかかったのですが――そのときにあの二階、あの、あの、あのテラスから」
 少年は必死に指さすが、あいにくと屋敷がでかすぎてどこのテラスが「あのテラス」なのかまるで分からない。
 まあそれはひとまず置いておくとして、
「……あの綺麗な女性。本を読まれる、紫色の髪の少女を見まして……あの方は、こちらのご家族ですよね?」
「まあ……家族っちゃ家族ですけど」
「居候じゃね?」
 美鈴のみぞおちに肘鉄が入る。
「ならば! スミマセンが、このお手紙を彼女にお渡しください!」
 少年は自分のペースを保ち続けていた。目を瞑って直角九十度のお辞儀をして、もっかい突き出し直された手紙を咲夜と美鈴は互いに複雑な表情で見つめた。
 はあ、と零れる吐息。 
 パチュリー様が人の目に留まるのは、確かに珍しいが全く有り得ないわけでもない。寝ても起きても図書館に根を生やし続けているパチュリーだって三月に雪が降るくらいの確率で、特に夜、屋外に出ていることが無いわけでもない。まあ滅多にあることではないが、そもそも月を見るのは嫌いじゃないとも聞く。
 つまりその、たまたま人目につく場所へまろび出てきた夜にどうやら、こんなにも純粋な少年の瞳を囚虜にしてしまったというわけだ。
 罪な。
「あんなにきれいな人を、ぼくは見たことが無くて……」
 ぼーっ、と自分の世界に飛んでゆく少年。ぼりぼりがりがりと、還暦過ぎの親父みたいに品無く頭を掻く咲夜。
 美鈴が再び顔を寄せてくる。
「……咲夜さん、とりあえずお渡しするだけなら」
「そうねぇ」
 少年に向き直り、
「まあ、うん。おあずかりしときますわ」
 逡巡の末、そう回答した。
 少年の顔に希望が爆発した。欣喜、雀躍、次いでなぜか咲夜美鈴と相次いで握手を求められ、つい反射的に応じてしまった手首が抜けそうなほどのフルスイングを上下四往復くらいお見舞いされた。
 十六夜咲夜、当然ながらキューピッドになる気は毛頭無い。
 ここで押し問答するよりは、いったん受け取ってしまった方が得策であると判断しただけのことである。そこから先の処遇はどうとでもすればよい。油とり紙にするのも良し、ケツを拭くに使うも良し。少年の慕情などを、まさか気遣う義理もない。恋愛なんてとんと無縁の生活を送るうらぶれた主婦業みたいな今日このごろに、世間知らずな青二才の初恋などむしろぶっ壊してやりたいとさえ思う。
 有頂天でお礼の口上を述べあげる少年の声の、半分も咲夜は聞いていなかった。代わりに美鈴が横で、ちょっと適当すぎるくらいお座なりな返答を返している。わざわざありがとうございます。またお越し下さいね。ええよろしく伝えておきます。ファンクラブの入会方法はこちらです。
 少年は最後に、最敬礼で回れ右をした。
 走り去ってゆくその足元はほとんどスキップだった。すごい速さが出ている。
 美鈴が、その背中を見えなくなるまで見送っている。
「……はきはきした性格は良いですが、顔は私の好みからすると七十点くらいですかねえ」
 まったく誰も聞いていない話である。
 目許がどうの笑顔がそこそこ素敵だのと止めどなく喋る美鈴に、目もくれず咲夜は歩き出す。「あ待ってくださいー」と、美鈴の声。
 後ろを振り返らずに、今受け取ったばかりの手紙を咲夜は無言で美鈴に突き出した。
 突き出しすぎてうっかり美鈴の顔面に裏拳を入れた。
 そんなに近いところに居るとは思わなかった。
 鼻を押さえてうずくまる門番、
「な……なんなんですか一体」
「これ。……あなたに任せるわ」
 涙声の美鈴をそれでも一顧だにせず、咲夜はそのまま地面へ無造作に手紙を放り投げた。
 行く末を見ずに再び歩き出す。
 無愛想なヒールが乾いた地面を蹴り飛ばし、中華な靴がそれに追いすがる。
「とと、とんでもない! 私、前にパチュリー様と逢ったのは4ヶ月前ですよ! 咲夜さんなら何かのついでもあるでしょうし、そのときにお渡しくだされば」
「めんどっちい」
「私の方が面倒ですよ、図書館までわざわざ」
「……って、本当に渡そうっての? これ」
 咲夜が振り返り、追随の美鈴が固まる。
 蝉がふと鳴き止む一瞬の静寂、
「あれ? ……渡さないんですか?」
「渡さないわよ」
 また歩き出す。
 蝉が唱和を再開する。
「……さくやさんの鬼ー!」
 鬼でも何でも良い。
 誰がそんなに暇なものか。汗と駆け足に縁取られたマルチスレッディングの月月火水木金金に、必要もない厄介事を背負い込むほど咲夜はお人好しではない。
 晩ご飯の献立を考えていた。
 喋って歩いている内に、玄関の框をまたいでしまった。門番の美鈴が理由無く持ち場を離れて歩けるのは、就業規則上そこまでである。
 咲夜だけが進み、美鈴がドアの前に取り残される。離れてゆくふたりの距離、埋まらない溝、
 名残惜しげに美鈴は溜息を落とし、

「んあー、残念ですねぇ。実際にパチュリー様に渡してみたら、これほど面白いことも無いと思いますのに」

 ――咲夜の足が、ピタリと止まった。
 同じタイミングに、美鈴は踵を返している。また夏の太陽の下に戻ってゆく。持ち場に帰ろうとした道すがらに蝉の抜け殻を思い切り踏んづけて、思わず落とした視線の先で地面の上に放り出されたままだった例の手紙にようやっとこさ気がついた。おお可哀想に少年の想いよ、ありったけの同情を地面の上に塗ったくり、美鈴は身をかがめてそれに哀惜の手を伸ばす。
 ――手紙は、そこで不意に消えた。
「は?」 
 間の抜けた声を美鈴が出す。美鈴の耳には恐らく前も後も地続きだったであろう蝉時雨が、そこで咲夜の耳に戻ってくる。
 晩夏といえども夏。或る晴れた昼下がりである。前夜は良い月夜だった。最近は夜もいくらか過ごしやすくはなり、日中の日向にだけ夏の残り香が滞る、暑さも終わりの九月の手前。
 いつしか咲夜の右手に握られていた件の手紙を、美鈴がぽかんと口を開けて、呆然と見つめている。
 時まで止めて何やってんですか。
 そう視線が語りかけてくる。
「あー……ま、まあ、最近焚き付けが足りないと思ってたところですわ」
「この屋敷に焚き付けの要るような竈ありましたっけ?」
「……」
「……」
「あー、外に出てきたら汗が出たのよ。だからちょうど」
「あ、ハンカチ貸しましょうか」
「いいから早く持ち場に帰りなさい!」
「は、はいぃっ!」
 キレた。
 弾かれるように気をつけ、休め、気をつけ、礼、ハイル咲夜、そして全力疾走で門口に戻っていく美鈴。転ぶ美鈴。立ち上がる美鈴。
 がるる、と吼える咲夜。
 その脳味噌の後ろっ側で思案していた。
 一人勝手に暴走してゆく脳内の妄想に、遠慮無く肉付けを施してゆく。脳内活劇のトライアルアンドエラー。綿密に先行き、起承転結を想定する。
 美鈴の走った後に土埃。 
 風に吹かれ、左半身がぐしゃぐしゃに潰れて泥まみれのアブラゼミの抜け殻が三馬身ほど転がった。とんびが大きな翼を広げて一羽、人間にはよく分からない言葉でぼやきながら空に弧を描いている。ぶっとい蚊柱ひとつ。おとといの夕立が置いていった水溜まりの跡地に、泥っぽいトノサマガエルのぶすくれ顔。
 とことこと、黙考しつつ咲夜は屋敷の中へ戻った。
 門口をくぐり、分厚い扉を後ろ手に閉めて暑気を遮断する。そこにどん、と、背中でもたれかかった。
 手に持っている、封筒越しの手紙を改めてじっと見つめる。
 うっすらと、唇だけで薄く笑う。
 
 ……余談だが咲夜は、人の困っている顔を見ると、なんかちょっと楽しくなる。 









■□■ 1 ■□■


「うわあ……」
「これは……」

 日は落ちて、夕刻。
 溜め息とも感嘆ともつかない声が、ふたつ同時に漏れた紅魔館の執務室。シャンデリアも万年筆もロッキングチェアーも、最近はすっかり埃を友達にしてしまった。
 たまに鍵を開けたかと思えば紅魔館の執務室をこんなことに使って、レミリア・スカーレットはご先祖様に顔が立つのだろうか。伝統と格式が塗り籠められたレッドカーペットの広間の行く末を、咲夜は我が事のように心配する。
 不意のお尋ね者に押しつけられた正体不明のラブレターを、宛先以外の人が勝手に開けて読んでいるところである。主人とメイドが頭をつき合わせ、執務室のデスクで他人の懸想文をご開帳。そして「うわあ」とか言った。
 思った。もう清々しいまでに最悪である。ここまで人道に悖るというのは、いっそ爽快で気持ちが良い。羊にかじられて死んだ方が良いとさえ思って、却って後ろめたさを完全に拭い去った真っ白な気持ちでラブレターを読むことが出来た。
 便箋二枚分に丸め込まれた文章は、ものの見事に青春の痛点を捉えている。
「…………『夜空のどんな星よりもきれいで、輝いていたあなたの横顔に』」
「お嬢様、お願いですから音読しないでください」
 咲夜はこめかみを押さえる。
 さっきから、噴き出すのを必死で堪えているのだ。
 予想はできたといえ、手に持っているだけで赤面しそうな言葉の羅列がまことに痛々しい。あの少年があと十年経って読み返したらきっと自殺するだろう。そっちのベクトルのクオリティが非常に高く、
 青春っておいしいなあ。
 咲夜は遠い目をする。 
「……で、これをパチェに渡すって訳ね。楽しみー」
「お嬢様も大概不届き者ですよね」
「何?」
「いえ」
 披瀝した手紙から判別したことは、あの少年が十三歳ということ。あと身長が……って、その辺のことまで書いて彼は一体どうしたかったのかよく分からないけどとりあえず155センチ。好きな色は水色。趣味は蝉の羽化を観察することで誕生日は十一月、あと和食派。ほんとにどうでも良いぞこれ。
 昨日の夜、彼は夜風に吹かれて散歩をしていたという。最近は妖怪がおとなしくなったから、ひ弱な人間がこの時間帯に出歩くこともたまにはある。紅魔館のテラスに翻る紫色の髪に彼は気づいた。気づいてしまった。
 伏された瞳。
 三日月の飾りがついた帽子、そこから豊潤に零れる藤色のしだれ髪の艶やかさ。 
 愁いを帯びた表情。
 整った目鼻立ち。
「『それはまさに、ひとめぼれでした』」
「だから音読しないでくださいってば」
 静かにページを追うメルヘンの少女、と、少年には見えてしまったのだった。
 そんなわけで、彼の青春は一夜にして最高潮を迎える。その夜の内にしたためた直球勝負の懸想文がこれだ。文机にかじり付く少年の背中の丸さと油行灯の光と、畳の上に丸めて投げ捨てられた失敗作の山がまるで透けて見えるようだった。
「で、どうやって渡すの? これ」
「どう……って。別に、正直に話してお渡ししますけど」
「ねえねえ、何かやってみない? 名前だけ偽装するとか」
 レミリアがむひひ、と身を乗り出してくる。その瞳は爛々と輝き、なんとも投網で千両箱を拾った漁師みたいなだらけきった笑顔をまるで隠そうとしない。
 罪悪感とか背徳感は砂粒ほども無いらしい。パチュリーとは筋金入りの友人だからこそ成せる技なのか、よもや真剣に彼女の幸せを案じているのか、単純に性格が悪いのか。生き物は長く生きれば、長さ相応に毒を溜め込むものなんだと聞いたことがある。
 咲夜からすればそんな奸計を挟み込んで、何か面白味が増えると思えなかった。
 こういう素の出来事は、素のままにやるから面白いのだ。こちらは別にイタズラをする気はない。必要以上に韜晦や脚色を施すことはなく、受け取った恋文を受け取ったままに渡して、ありのままの反応を楽しむから楽しいのだ。青春の少年と晩生の本読み少女、純粋な気持ち同士のぶつかり合いはまるで綿菓子で殴り合いをするようなもので、虚実のないどっきりビデオほどこの世に後ろめたくないイタズラは無いのである。
 あ、やっぱりイタズラか。
「じゃあさ、下足箱に入れておくとか」
「西洋住宅のどこに下足箱があるってんですか」 
「生写真を同封するとか」
「誰のをですか……」
「レモンの味を付ける」
「あの諺はそういう意味じゃありませんってか手紙は普通食べません」
「文末に『紅美鈴より』って書くとか」
「よし美鈴ころす」
 埒が明かなかった。
 手紙を手に、咲夜は図書館にずんずん歩き出す。「あ待ってー」とレミリアがついてくる。
 今日の茶葉は何にしようかなー、と思案しながら歩く緋色の廊下。生ぬるい暑さが背中にまとわりつくような窓際の夜。
「ちょうど紅茶の時間ですね。私がこれからパチュリー様に渡してきますわ」
「待ってってば咲夜ー。私も行くよー!」
 どどど、と行儀悪い足音がついてくる。
 横を見れば喜色満面、
「……はあ」
 何となく、ため息をついてみる咲夜だった。
 五百年も生きていれば溜め込む毒も飽和を迎える筈だ。彼女は本当に、躊躇なく下衆になれるのだろう。良心などは所詮、短命の人間が美徳と偽善で適当につよく抱き締めているだけなのだろうか。
 ひったくるように手紙を取られた。 
 さすがに少々呆れ始める咲夜の横で、紅潮したレミリアの鼻息がいよいよ荒い。
 もうほんとに楽しみでしょうがない、という顔をしている。


■ ■

「……アッサム?」
「はい」
 ノックをして、部屋に入ってすぐに言い当てられた。
 さすが、と思いながらメイドは一礼を挟んで部屋に入り、 
「……あと、ブラッディーレッド」
「うーんさすがね、パチェ」
 ティーセット搭載のカートの陰から、当屋敷のしょうもないイタズラ当主が顔を出した。
 本に埋まっていた魔女の顔が、そこでようやく上がる。
「どうしたの? ついてくるなんて珍しいじゃない」
「ちょっとね」
 文字通りの瞬く間にティーセットの支度を済ませた咲夜が、山積みの魔導書の横にほっかほかのアッサムを置く。
 これも文字通り同時に後ろ手で、手紙をレミリアから受け取る。
「……人里からの、預かり物ですわ」
 手紙をそっと、アッサムのお茶請け代わりに添えた。
「……何?」
「ラブレター」
「……ふうん」
 レミリアがひひひ、と笑う。パチュリーは再び、本のページに視線を戻す。
 す、とパチュリーの指が伸び、手紙――
「おお……!」
 ではなく、その向こうにあるカップの取っ手に到着した。
 一口だけ紅茶を舐めて、白地に紫色のラベンダー柄が嬉しいカップをすぐソーサーに戻す。
 レミリアの淡き期待は虚しく白い湯気に変わり、揺らめきふためき闇に消える。琥珀の水面が少しだけ震えながら、図書館の無表情な景色を映し出している。
 手紙だけが所在なげに、テーブルの上で佇んでいる。
「ねぇ、パチェ」
「何」
「なに、じゃないわよ。ほら、そこ。かの永遠の少年十三歳の想いの丈が詰まってるわ。ほらほら」
「わかったから」
 見事に無視だった。
 本を読んでるんだから邪魔するな。大人しくしてろ。つら見せるな。言われなくても分かれ。このタコ。
 レミリアはおろか、ラブレターと告げられたその封筒にさえとりつく島もないパチュリーは身体の芯から本の虫で、喋るのさえ面倒くさげなのが哀しいくらいいつも通りだった。 
 レミリアはもどかしげに羽をばっさばっさ揺らし、
「パチェも隅に置けないねえ。ひゅーひゅー!」
「その子供みたいな煽り方はやめてください」 
 そこでようやく、ぐい、とレミリアの襟首を咲夜がひっつかんだ。
 こっちも埒が明きそうにない。
 思わぬ邪魔者にむきー、と抵抗するレミリアを適当に室外に投げ飛ばしておいて咲夜はカートを下げ、カウンターテーブルに出してある前夜分のティーカップを拾い、もう一度深く一例をして部屋を出た。
 何事かと歩み寄ってきた小悪魔の怪訝そうな顔が、扉を閉める直前、こちらを見ていた。

 ぱたん。
 と扉を閉じて、静かに廊下に向き直るとレミリアのむくれ顔が待っている。
 スカートの裾を太股までまくれさせて地団駄のオーケストラを奏で上げながら、
「咲夜ー。つーまーらーなーいー」
「……一体どうやったらそこまで、人の純粋な想いを面白がることが出来るんですか」
 粘るレミリアに、とうとう咲夜までが背を向けて、カートをがらがら押してゆく。
「ねぇ咲夜! つまらないー!」
「分かってますって」
「つまら……はあ?」

 さて。
 ここで終わるなら、この戦に十六夜軍師は必要ない。 
 そんな分かりやすいことを、咲夜は最初から期待していなかった。感情を表に出さないことでは百戦錬磨の岩仏、ましてこのイタズラ好きな当主のもとで何百年という時間を過ごしてきて、これが恋文ですと突きつけられたところでパチュリーがそうそうわかりやすい反応を返すなんて思わない。聡明な咲夜には最初から分かっている事が一つ。
 感情は押し隠される。
 表面上、無表情を取り繕うまでは想定の範囲内で、紅魔館当主から直々に屋敷のメイド長に課せられた不言実行のミッションはここからスタートしてゆく。
「……お嬢様、こちらです」 
 カートを蹴飛ばすように給湯室へ押し込んでおいて、真反対側のレッドカーペットの上をずんずん歩き出す。その突き当たりを左に曲がって十八歩目ぐらいのところに咲夜の寝室はある。
 当惑と期待をちゃんぽんにした顔でレミリアがついてくる。
 自信満々な咲夜の横顔が窓に映り込んでいる。その遠く向こうで、夜番の美鈴が暇そうに大欠伸をした。
 意外としつこい残暑。
 とっぷりと暮れた森の中から、夜更かしの鈴虫が最後の意地を見せて夏を謳歌しているところだ。


■ ■

「――というわけで、監視カメラを図書館内に百三十台用意しました」
「さすが! 万全なところが確実に万全だわ咲夜!」
 本棚をスライドさせると現れる隠し部屋、これはどの時代、どの世界においても、メイドの基本的なたしなみで間違いない。
 無機質なモニタが一様に蒼い光を吐き出している。馬鹿げた台数の同じ長方形が放射状に雁首を並べている様は、どことなく魔女狩り時代の悪趣味な魔術実験が近代に降りてきたような、得体の知れぬ薄気味悪さがある。岩みたいなどでかいスイッチャー、ひしめき合うコネクタケーブルの奔流、記録用デッキの群れ、寒げに身を寄せ合うヘッドセット、何の冗談か後ろの棚には小型のワインセラーまでついて密着監視二十四時の態勢は万全である。
「咲夜、ここで一言」
「時間を止めてからカメラ設置余裕でした」
 もう当然である。メイドの仕事は常に一隅の欠けもなく、完全に瀟洒でなければいけないと思う。粗相があっては、御主人様に選んで使ってもらっている意味がないのだ。抜擢はすなわち信任。信じ任される職務に置いてやることなすこと、小さな穴一つ空いていても罷り成らない。メイドの宿命は厳格である。
 レミリアの瞳が輝きを増す。
「今のところは動きがないみたいね?」
「ええ。そう……ですね」
 スイッチャーを叩き、カメラ21番の映像を一際体格に恵まれたど真ん中のメインモニターに弾き出した。
 パチュリーが座ったお茶台の映像を目の前に大写しにして咲夜は椅子に掛け、分配機の四台重ねの上に肘つきした。同じ格好を隣でレミリアが真似ている。まるで蝋人形のように動かない魔女の無表情を、まるで蝋人形のように眺め続ける体勢に咲夜は入った。鷹の目をした鋭い横顔が、魔女狩りモニターの青白い光で染められる。ふと思い付いたように立ち上がり、ワインセラーに放り込んでおいてあった葡萄ジュースを持ってきてまた同じ体勢に戻って今度こそ蝋人形になる。機械が低く唸る。モニター達が容赦なく撒き散らす機械熱が、黴臭さに長けた空調に真っ向勝負を挑んでいる。レミリアが一つあくびをする。懐中時計を外して、咲夜はそれを手元に置く。

 ――やがて、映像に別の影が映り込んできた。
 

■ ■

「――開けてみられないんですか?」
「何を?」

 決して狭くはないマホガニーテーブルの飴色天板に、所狭しと我が物顔の魔導書がのさばっている。古びた本特有の赤茶けた匂いが周囲に充満し、淹れたてのアッサムが健気にそれと共存を試みている。公平中立の視点からその両方を嗅いでいるであろうパチュリーは、湯気の横で頑なに本を広げ、目覚めを待ち侘びる手紙に徹底無視を決め込んで現在抗戦中である。
 ――と、少なくとも小悪魔は、そう思っていた。
 パチュリー様ったら意地になってるんだから、もう。
 それが二分、三分、五分……と柱時計が急かし立てるにつれて自信がすり減ってくる。微動だにしない表情。ページ以外にまつろわぬ視線。そこに意地なんて要素が介在しているのかどうか。アッサムには何度か口を付けたが、横の白封筒は蔑ろにされたままいかにも寂しげに所在なげに、佇んでまさかひとりでに動くわけにもいかない。五十五秒間のページと五秒の紅茶とを幾度と無く往復したパチュリーの視線を、それでもしばらくは笑顔で追い掛けていた小悪魔が、
「――その手紙ですよ!!」
 とうとう、先に痺れを切らしたのだった。
 面倒くさそうにパチュリーが顔を上げる。
「そんなに中身が気になるなら、貴方が開けてみれば良いじゃない」
「あのねぇ――恋文ですよ。そういうもんじゃないでしょ」
「じゃあどういうものなのよ」
 二階から目薬を差している気分だった。
 これが本当に本気なのかもしれないと思うと頭が痛んだ。この人は本当に、恋文という二文字を辞書に掲載していないで今まで生きてきたのだとしたら超つまんない人だ。お伽噺の絵空事と捉えているとしたらとんだ傑物だ、晩生とかそういうレベルを超えている。なるほど世界にまるで女性しか居ないような錯覚に陥る東方シリーズだがしかしここに至っては小悪魔も隔靴掻痒、この魔女は本当に、この世に恋というモノが存在しないと決めつけて今まで人生を歩んできたというのか。
 拳を握る。
 無茶苦茶だ。
 そんなの、青春が勿体ない。
「――あ」
 百科事典のように分厚いエスペラント語の塊を、小悪魔が肩越しに取り上げる。
 椅子に座したままのパチュリーが反射的に伸ばした両手の、ギリギリ届かないところまで小悪魔はエスペラント語を持ち上げて、
「……むー。……むーむー!」
「って、子供ですか貴方は」
 振り下ろしてぼこん、とパチュリーの頭を叩いた。
 うめき声を上げるパチュリー。
「うう……そんなに面白いの……? この手紙」
「パチュリー様。恋文に向かって面白いとは何ですか」
「だってこいぶみったって……ねえ」
「ねえ、じゃないですよ。あなたは男の子の好意を、そんなに邪険に扱うんですかぁ?」
 そんなの哀しいな、と口を尖らせる小悪魔はパチュリーの視界の中、まるで恋愛の神様のようで、
「そもさん。こいぶみの意味って何なのよ」
 パチュリーは腹立たしげに問い、
「説破。パチュリー様のことを、世界で一番の女性と選んだ人が居るって事なんですよ」
 小悪魔は嬉しげに答える。
 ページに挟んだ指を本物の栞に差し替えて脇に置く。引っこ抜いた指は、代わりに唇にやって片目を瞑る。
 腰は、気持ちくねらせ気味に。
「男女の出逢い、その本当の素晴らしさは、体験してみないと誰にも分からない」
 小悪魔はささやきかけるように、
「良いじゃありませんか、読んでみましょうよ。ラブレターをもらうなんてこと、誰にもあるような経験じゃないんですよ」
 耳元で呟く。
 いい加減辟易したパチュリーの瞳に、ようやく、本と紅茶以外の光景が映った。
 白い手紙が頬を染める。
 魔女の瞳の奥底、僅かに迷いの色が帯び、そこに行儀良く座っていた封筒とその中身がやっと、パチュリーにとって背景以上の価値となって時間は動き出す。
 小悪魔の期待。
 咲夜の期待。
 レミリアの期待はモニタ越し。
「恋って……」
「?」
「食べれるの?」
 小悪魔は嘆息し、
「食べられますから、早く開けてください」
「ちぃ覚えた」
 のさばっている魔導書その二に手を出そうとして、机ごと小悪魔に没収される。
「読んでみてくださいよー。私も楽しみなんですから」
「……何なのよ、もう」

 さて。
 いつ果てるとも知れぬ、まるで腐りかけの豆腐みたいな押し問答を、米粒の大きさもないレンズが百三十個睨んでいる。モニタルームで、睨めっこのまま咲夜が小さく溜息をついている。図書館の住人は暖簾の役と腕押しの役に分かれて、いまだ何事かしゃべり続けていた。
 あまりにも緩やかに流れてゆく時間の中で、咲夜がメイド生命を賭して仕掛けたカメラには、綿埃と魔導書以外の誰も気づいていないように見える。ほんとうにゆっくり時間が流れる。

 もしカメラに気付いていれば、パチュリーは意地になって、手紙に無視を決め込んだかもしれなかった。小悪魔の方は案外察していたかもしれないが、こちらも全面的にパチュリーの味方という訳ではない。
 勝負はやがて決着した。
 カメラに気付く前に、パチュリーが折れたのである。
 長々と続いていた静止画が動画に切り替わるその瞬間、咲夜は、少しだけ腰を上げて椅子に掛け直した。船を漕いでいたレミリアが衣擦れの音に呼応して、ぴくんと反応して瞳の輝きを取り戻す。
 「いいぞっ」と、一声だけ合いの手がモニター越しに飛んだ。
 分厚い本に囲まれて息苦しそうにしていた手紙を、苦心惨憺のパチュリーが渋い顔つきと怠げな指使いで重たそうに拾い上げたその時、
 小悪魔はその手元をじっと注視していた。
 カメラもじっと注視している。
 はじめてみるおもちゃのように指が封筒を裏返して表返して、もっかい裏返して、パチュリーの口許が何事か小さく僅かな言葉を紡いで、小悪魔が丁重に手渡した銀色のペーパーナイフがまるで鎌鼬のように綺麗な一直線で明日への扉を切り開いたその時に、 
 咲夜も、
 小悪魔も、
 レミリアも、
 深更の紅魔館でギンギンに光っているすべての好奇心が、パチュリーひとりの横顔に注ぎ込まれているのだ。











■□■ 2 ■□■


 紅魔館に来てかれこれ何年になるだろう。
 「メイド長」という肩書きがついた日から、十六夜咲夜はその内実はともかく名目上、お嬢様の専属という立場を外れた。もちろんお嬢様のメイドという立場は不変で、従ってメインの仕事量は据え置きのままどうでも良い雑務ばかりが飛躍的に増えたし、部下も出来たし、屋敷のあまねく住人全員を掌握する立場になってつまりは色々とわずらいも増えた。聞きたくもない他人の陰口を耳にするたびに敵と味方が増えた。益体もない人生相談に乗ってやるたびに信任と不信任が増えた。それらが何度も攻守交代を繰り返して、さらにまたひっくり返って、やがて誰の敵か味方かも有耶無耶になり、そこにようやく“信頼できるメイド長”というつっかえ棒を押し込んで安寧を得る頃にはその代償として、気に留めたくもない些末な仕事にすら一々寿命を削る責任感の塊になっていた。
 余計に仕事は増えた。
 そして、メイド長としての立場から彼女はこうも思っていた――少なくとも我が儘放題の当主お嬢様に比べれば、まだ座って本を読んでそれ以外に何もしないだけ、あのパチュリー・ノーレッジって魔女の方がメイドにやさしいご主人様ではないだろうか。
 言えない本音である。誰にも言わない。まさかそれを二人に対する職務内容に反映する気もないし、これは誰かの世話をするというメイドの職業的な宿命でもあってつまり、言うなれば恋と一緒である。メイドという立場で誰かを相手にするからには、その人となりなんかは嫌でも隅々まで目に入ってくる。良いところも悪いところも見えてきて、その上で深々とした洞察と人物評を作成する。
 御しやすいかどうかとか、相手してて楽しいか辛いかとか、ことごとくがダイレクトなのだ。
 裏を返せば当然、完全に正確な情報として入ってくるものだと思っていた。その人の素性を余さず、正確なところを見過たず知っているものだと、つまり咲夜は自惚れていたのかもしれない。屋敷のメイド長として、誰一人の人物評をも間違えてなどいないと信じていたはずなのだ。

 今朝。
 咲夜はカーテンを開き、昇る朝日に向かって、心の声でこう語りかけてから部屋を出ている。

 パチュリー様には手がかからない――
 そんなふうに思っていた時期が、私にもありました。


■ ■

 気付くといつの間にか、昼夜の逆転した生活を送るようになっていた。しかる後に、昼夜そのものの区別を失った日々が続いて現在に至る。
 過去を振り返ってみるとその境界線には「お嬢様付のメイドへ」、それから「メイド長へ」という、ふたつの昇進イベントがのさばっている。
 夜行性の主人に合わせるには、咲夜もまた夜行性である必要に迫られていた。だが、昼間は昼間で下っ端のへっぽこメイドが雑用程度ですらやらかすボーンヘッドの尻拭いに忙しく、更には昼寝の悪癖がある中華風門番へ窓から44マグナム、折に触れてその門番を突破してくる闖入者の遊び相手、ついでに時折気まぐれで早起きしてくるお嬢様の子守も相まったらそうそう眠れるはずがなかった。時を止めて睡眠時間を稼ぐこともできたが、能力を使いながらの眠りは安眠にほど遠い。ましてほんの数分ならまだしも、一日を二十七とか八時間に引き延ばせば当然身体のリズムも崩れる。何より、メイドとしての職務中に自分だけ休憩をもらうのは主人に対して不敬、部下に対して顔が立たぬのではないかとここで、直情径行な咲夜の頭の硬さが仇となった。
 メイド長咲夜は眠らないことにした。
 簡単なことである。
 勿論べつに、人間を捨てたわけではない。
「ふぁ……ぁーあ……あふ」
 ただの痩せ我慢だった。
 忍耐、根性、努力に辛抱。時々大根おろし、奥の手の紅葉おろしである。
 いつの間にかモニタールームの外は朝になっていた。
 鉛のように鈍重な脳味噌を引きずってよろぼい歩く正午前の庭、逃げ水が道を空けてくれる。ぱりぱりに乾いた土が足許で踏みつぶされて砕け散る。油断すればすぐにでも睡魔に屈しそうな瞼をこすりこすり、お洗濯ものの取り込みにもまるで精が出ない。
 ――夕べは、てんで馬鹿なことに付き合ってしまった。
 結局小悪魔がそそのかして手紙の封を開けさせ、主従二人して「すわロマンスか」と俄然身を乗り出してはみたものの、パチュリーときたら岩で出来たお地蔵様である。
 ざっと一読、さくらんぼみたいに可憐な唇が小さく動いて
「なによ、これ。」
 それが最初で最後だった。
 戦迅の笛を鳴らし損ねた嚆矢は無関心の泥沼に墜落、しかる後に一瞬の隙をついてエスペラント語の鈍器を小悪魔から奪い返したパチュリーは今度こそテコでも動かない。小悪魔が必死で煽っても賺してもダメだった。なんかよくわかんないや、で恋文をただの紙切れ扱いに変えてしまった魔女はそこから心を開く事はなく、やがて生意気にも正体不明の結界か何かを張り、半径数メートル内から小悪魔を締め出す強攻策に踏み切った。不実の罪で投獄された死刑囚のような剣幕で結界を殴打し哀願する小悪魔を一顧だにせず、やがてモニタールームも集音マイクを切り、しばらくノントーキーの昼ドラのように分かりやすい涙と赤ら顔と押し問答が続いてモニタールームが気を抜いた頃に正体不明のジャミング電波、そしてミュートモードを突き破る爆音の高音ハウリングがヘッドセットから叩き込まれてきて椅子ごと引っ繰り返った。
 もう散々だった。
 目を回したレミリアを介抱して適当に寝かしつけ、火を噴いたチューナーに冷や水をぶっかけ、とるものもとりあえずところてん方式に溜まっていた雑務を意地と根性で蹴散らした頃には睡眠時間など雀の涙になっていた。
 無念である。 
「あ、おはようございますー咲夜さん!」
「……貴方は睡眠充分みたいね……」
「?」
 胡乱な洗濯から気怠い炊事に移ってゆこうかというフェーズ、道すがらに出逢ったのがこの紅美鈴である。
 最初の挨拶からものすごく元気だった。
 その事が、咲夜の機嫌を理不尽に損ねる。
 思い出す、すごく克明に鮮明に思い出す。元はといえば美鈴の持ち込んだ事態ではなかったのか。昨日のちょうど今頃のことだ。大変です咲夜さん、門の外に変な人がいます。咲夜さん、ちょっと来てくださいませんか。少年なんですけど、ええ、襲ってくるでもなく帰るでもなく、なんか知らないけどずっとこっち見てるんです。いや咲夜さんお願いしますって。咲夜さんが出てくださいよ。なんか私いやな予感がするんですもん。
 構図を説明しよう。
 不審人物を発見したから対処してくれと、門番に頼まれるメイド長。
 アホかと思う。
 そんなことにすらも結局手を貸してしまうから余計仕事量が増えるのだと、自分でも気付いているからもっとアホかと思うのだが、結局ついついお節介を焼いてしまう。
 ついでに当人がこんなに睡眠十分元気いっぱいだから、もっともっとアホかと思った。
 急速に腹が立った。
 思わず洗濯物を天空に放り投げ、理不尽な右腕がにやついたその頬に唸りを上げかけたところで、
「咲夜さん! あれ」
「……!」
 人の気配を感じた。
 美鈴が横を向いて指を指している。咲夜は思わず指し示されるままに、あっちむいてほいで負けてしまった。
 人影と目があった。
「……あ、あの」
 げ、と思った。
 胃のあたりに、何か重い物が蟠る。
 黎明から延々朝陽にいたぶられた庭の地面は早くも熱を纏っている。秋風も今日は凪いでいて元気がない。夏の最期の一幕、もやもや陽炎がしぶとく生き残り続けている。
 門扉の前で一歩を踏み出しあぐね、女みたいにもじもじした左手で服の裾をつかんで反対の右手には何かを持っている。どうしようかどうしようかと迷っていたのか、或いはこちらの動向を窺っていたのか、
 左手に掴まれた服はくしゃくしゃで、
 右手は綿さえも掴めぬような力無さで何かを持っており、
「あ……あの」
 和らぐ気配のない暑気に汗を浮かべた咲夜は瞑目し、溜息を一つ落とした。
 厄介事がひとつまた増えたことを、その時点で薄々悟っていた。
「あの……これを……」
 変声期の二歩くらい手前の掠れ声、小柄な背丈と鰯雲。
 はきはきした性格は七十点だ。
 勝負どころで物怖じのしない性格はなるほど見込みがあると思うが、こと今日の寝不足咲夜にとって少年の無邪気さは残酷という他はない。なんならもっと早く回れ右しておいてほしかった。或いは私の目に見つからなければ良かった。不審人物の対処は門番の職責である、しかるにそのまま美鈴の目にすらも見つからず諦めるか、或いは見つけちゃったなら見つけちゃったで邪魔者扱いで適当に追い払うか、なんならちょっと痛い目に合わせてションベンちびらせて帰らせてくれてれば良かったものを。
 なまじ美鈴がひょーろく玉で、
 なまじ咲夜が人間で、
 なまじ面識があったことが災いした。
 一方的とはいえ、相手から信頼されている状況で人間を邪険に扱うのは流石に咲夜、気が引けた。

「是非。あの女性に、お渡し頂くだけでよいので!!」

 しかるに、断り切れなかった。
 今度は恋文ではない。謎の小袋である。
 隣で美鈴が、まるで他人事のような苦笑いを堪えているのには気付いていた。そんな彼女に文句を言うのも忘れていた。
 時代遅れの蝉が鳴いている。
 夏の入道雲が堆く、天空を間もなく突き破ろうとしている。あまりにも立派な空のシュークリームについつい見とれていたらいつの間にか、次に視線を下ろした時、少年は眼前から姿を消していた。これには本当に気付かなかった。音も聞こえなかったのである。
 夏の幻ではない。まさか幽霊でもないだろうし、美鈴だって横から見ていたはずだ。
 蝉も見ていたし、
 蝉の抜け殻も見ていたと思う。
 みんなできっと、あっけにとられたと思う。

「……それ、一体どうするんですか? 咲夜さん」
「……」

 紫陽花の蝸牛を捕まえるより、ぜんぜん呆気なかったと思う。
 咲夜は思わず、受け取ったそれを、掌から一度地面に取り落とした。


■ ■

 手づくりのお菓子、でした。

「まあ……」
「悪くはない、かな」

 執務室。
 昨日に続いてまた、二人の悪戯っ子が集っている。
 くっきー、と洋菓子の名前を冠してしまって良いのかどうか分からないがとりあえずは焼き菓子の仲間だと咲夜には思われた。
「――まずくはないですね」
「――まずくはないな」 
 揃って首を傾げる主従。つまりはそういう味だった。
 はっきりしないお菓子は四十点。
 茶褐色の生地そのものにははっきりした味わいが無く、穀物と焦げ目の香りの中に仄かハチミツの風味が混じっている。想い人のために施されていた丹念な包装はこの際どうでも良かったため、残念ながら無惨に破かれ、砕かれ、引き裂かれてさながら惨殺死体のごとき有様で机に放っぽらかされていた。千切られた赤い結い紐が、なんだか流血のように痛々しい。
 止め処なく咀嚼してみるものの、お菓子はどことなくもさっとしていて歯ごたえも乏しかった。口の中の水分を無駄に奪ってゆく生地の中でやたらハチミツの味だけ浮いていて、たぶん不味くはないのだけれど、言わばまるで蜜蜂の小屋の中で湿気った煎餅みたいな塩梅である。どういったお菓子なのか咲夜にもよく分からない。オリジナリティを利かして自分で作ったお菓子というならいっそ見上げたものだが、どうせ村祭の屋台あたりで自分が気に入ったお菓子を見様見真似で模倣したものだろう。それでも、この程度にまとめられるのなら上等である。まだ思春期の男の子ということを勘案すれば、大健闘と言っても差し支えない。
 見た目を除けば。
 砂糖っ気と油っ気の付いた親指、人差し指となめなめしながら対処を考える咲夜の横、掌に乗るくらいの大きさの一切れを掌でころころ転がしながらレミリアは思案げに、
「……なんかうんこみたい」
「お嬢様!!」
 生まれてこの方ホームランスイングしかしたことがないバッターのような頭の悪い一言に、保護者も自任する咲夜の悩みは尽きない。男勝りな女の子を女手一つで育てているとこんな気分にもなるのだろう。ポロポロした表面で黒っぽくて歪な、まるで火山がしゃっくりした時にうっかり吐き出してしまった火山弾の失敗作みたいな、あるいは稚い子供がこさえた泥団子のような、球とも柱とも錐ともつかぬ浮世離れの名状しがたい物体がそれだったとしても、今しがた食べてみて味もある程度及第点だったお菓子に対してうんことはなんだうんことは。
 恥を知りなさい。
「それで、これもパチェに?」
「はい。美鈴に毒見させてみましたが、食べてどうこうなるような劇物ではなかったようです。味だって壊滅的にヒドイって訳でも無いですし、今日一日のお茶請けに使えばさほど不自然でもありません」
「まあ、パチェが人間に毒盛られたくらいで死にゃしないけどさ」
 大あくび一発、
「ぁふ。……それにしてもその少年ったら随分とお熱じゃない? 一目惚れってそんなに大層な物? 所詮パチェの見てくれだけでこのザマなんでしょ? 惚れっぽいの? こんな雷管入れ忘れた地雷みたいな物を寄越すなんて」
「いや、当人は別に地雷を作ろうとした訳じゃないと思いますが……」
 咲夜がこめかみを抑えて唸る。
 その会話の間隙、お菓子達はくるまれていた灰色の藁紙から咲夜の手で釈放された後、ライラックのイラストに縁取られた白磁の平皿へと四階級特進を果たして満足げである。皿の上で更にきれいに並べ整えつつ咲夜は、
「でもまあ、惚れた男の子なんて、大体こんなもんですよ」
「ふぅん」
 ベテラン顔でそう言った。
 不思議なくらい掌の上のうんこに興味を示し続けるレミリアだったが、その関心はむしろ別の所にあるのかもしれない。咲夜は気が付いた。
 恋愛? 何それ? 美味しいの?
 少年の想いの結晶を弄ぶレミリアの、まるで縋りつくような瞳が痛い。
「……お嬢様も少し、オトコとオンナの心の機微を嗜んでみてはいかがでしょう」   
「好きでもない男とベタベタくっついて何が面白いのかさっぱりわからない」
 それは恋愛ではなくて、娼妓といいます。
 レンアイですよ、レンアイ。
「好きな男の人とか、お嬢様にも、いっときくらい居なかったのですか」
「……うーん。いたような、いなかったような。半分くらいかな」
「何ですかそれは」
 散々弄んだうんこをレミリアが皿の上に寄付し、3個のお茶請けが4個に増量サービスを果たしたところで咲夜は苦笑いし、そして、遠い目をした。
 ぼんやりと思い出した蒼いシャツの残像。スターダストのように舞う汗の滴。バラのような笑顔。
 青春時代、響きの良すぎる言葉。
「私も、昔は……」
「ん?」
「いえ。何でもありません」
 わざと大きな咳払いをして、追憶の幻灯を思いっきり吹き消す。脳内映像に貼り付けられた虹色の点描シャボントーンをぐっちゃぐちゃにぶっ壊し、取っ手に菊花があしらわれたゴテゴテの装飾カップを乱暴にカートへセッティングする。なんでこんなに持ちにくい取っ手なんだ。突き飛ばすような勢いで重たいカートを押しながら、無言でずかずか歩き出す。キャスターに寿命が来ているカートは千鳥足でよろよろ進む。こいつももうオンボロだ。粗雑な扱いにキャスターがぎしぎしと不平を漏らし、レミリアがてくてくと小さな足音で背後についてくる。カーペットの上に埃のお団子がある。あとであれも取っておかないとなあ。
 ベテラン咲夜と素人レミリア、扱いに不満げなティーカートの三人が縦列になって退室してゆくのを見送っているのは万年筆だった。紳士然とした万年筆は執務台の隅で藍色の背筋をピンと伸ばし、在りし日を誇るような佇まいで三人を見送っている。夏の陽射しはすっかり黄昏色に染まった。部屋の赤いカーペットが、窓の形に切り取られてオレンジ色に変わる。喧噪は去り、かすかに残った香ばしさと紅茶の残り香と、紙と埃とインクの匂い。閉め切った部屋の蒸し暑さ。紳士たる万年筆と白の羽根ペンのアベックが、紅茶の湯気がお裾分けしてくれた甘いフレーバーでティータイムを楽しんでいる。
 緋色の廊下。
 何も言わずについてきたレミリアの表情には、相変わらず無邪気すぎるわくわくの色。
 まるで染み込んでくるような西日の通り口の窓達に、通りがかりすべて咲夜がカーテンを引いてゆく。陽射しの側に咲夜が立ち、日陰の側にレミリアが歩く。南から北へ順に屋敷が夜になってゆく。無数のひぐらしが窓の外、誰かに恨みでもあるかのような大声で喚き散らしている。暇げに突っ立つ美鈴の影が長い。
 ふと、思い付いたようにレミリアが口を開く。
「……ツェペシュの末裔筋で、そういえば二百年くらい前に割と格好良い奴が居たなぁ」
 懐かしむような遠い目をしたレミリアに、咲夜もまた目を細めた。
 それでこそ、である。
 ツェペシュの時代など咲夜には及びもつかない。しかし、普段忘れがちなことながらこの幼い吸血鬼は決して幼くなく、遥か咲夜の記憶など遠く及ばない時代から、この世界に確かに生きているのだということ。
 色恋沙汰の一つも無い方が、ひょっとしたらおかしい。
 いや、ひょっとしなくても不自然すぎることなのだ。愛らしい童顔で五百余年の時代を股に掛け、馬鹿な男どもを次々と馬鹿イヌにしてきたんじゃないのか。芳名録が二冊目に突入するくらいの紳士を手玉に取りながらバラの花束に囲まれて、うーだのあーだのと変な口癖だけで時代時代に浮き名を轟かせてたってこの少女、何らおかしくはない。
「……左様ですか。では一体、そのツェペシュ公のどの辺が格好良かったですか?」
 笑顔で咲夜は問い掛けた。それこそ、母親にでもなったように気分は穏やかだ。
 答えに逡巡する吸血鬼の幼女、五百歳。人を好けば痘痕も笑窪、うーんと難しげに眉を顰めるその困り顔も何とも可愛くて、思わず頭をよしよししてメイドの分限の一線を越えてみたくもなる。
 やがて、大輪の笑顔を咲かせた。
 母親の温かさで主人と向き合う咲夜に、本当に無邪気に、まるで世界中の幸せを射止めたお姫様のような声音のレミリアは嬉しげに一言、

「――やえば。」


■ ■

 ティーセットと少年の恋心が図書館に運び込まれてからおよそ一時間。その間は、さして大きな騒擾もなく平和なものだった。
 一時間がきっかり過ぎた頃。
 ようやく事態は、図書館の住人二人によって紛糾していた。

「召し上がらなかったんですか!?」
「召し上がったわよ」

 まるで禅問答である。
 小悪魔はテーブルに両手をついて低く呻吟している。パチュリーは相変わらずどこ吹く風で本の虫、不意にどこからか紛れ込んできてテーブルに着陸した蚊の一匹を、魔導書ボディアタックで無碍に瞬殺した。
 食べ物の香りはもう消えている。
 たっぷり一時間も置いてから見に来てみれば紅茶もお菓子も空っぽのお皿が残っているばかりで、小悪魔はまるで我が事のようにほくほくと喜んだ。パチュリーの隣の椅子を引き、背もたれを抱きかかえて後ろ前に座った。
 想い報われた男の子のことをまず少し思った。
 それから感想を問い尋ねた。如何でしたか。ちょっと風変わりなお菓子でしたね。でもみんな食べられたみたいですから、きっと不味くはなかったんでしょうね。ささ、どうでしたか美味しかったですか。
 知らない、と答えが来た。
 ありえねぇー、と小悪魔が東北訛りでずっこけたのは道理である。
「食べたのか食べてないのか、どちらなんですか」
「食べたとは思うけどー」
「思うって何ですか!?」
 そこでまた数秒の空白が開く。 
 思い悩んだものか記憶の糸を手繰ったものか、或いは本に熱中するがあまり小悪魔の言葉に集中していないものか、いい加減まだるっこしくなるラグを挟んでパチュリーは面倒げに、
「――本に集中してたから、ぜんぜんわかんない」
 それだけ言い残した。
 唖然としたのは小悪魔である。
 パチュリーは再び本の虜に戻る。今日のお友達に選んだのは、見たところどうやら仏蘭西語の塊らしい。深緑色の表紙に、ミミズが書いたような筆記体でアルファベットの題名が記されている。
 頭痛を堪えて、小悪魔は皿を睥睨した。哀しいくらいに綺麗に片付けられたお皿が、困ったような表情を浮かべて小悪魔を見上げている。
 きちんと平らげてもらっているのに、なぜかとっても哀しい。
 魔女にとってこの「知識欲」という情動は、確かに人間とは異なる。それこそ食欲にも勝ることだってある。人間と根源的に違い、食欲と知識欲が同じステージで並び立つのが魔女という種族なのだ。だから今の暴言、「味なんて覚えてない」って言葉だって少なくとも異常とまで言い切れはしないのだけど、でも少年は人間である。つまり少年の視線で物を言えば「本に集中するがあまり食べた物の味も分かりませんでした」なんてのは、恐らく理解不能か、良くてせいぜい見え透いた嘘だと思うだけだろう。
 ところがこれが紛れもない本音なのだ。だからこそ、余計救いようがない。
 同情に寄せた眉根が軋む。
 越えられない壁を挟んでの慕情。コードレスの糸電話のような二人の関係も、お菓子に込められた純朴な期待感の無駄遣いを考えればあまりに不憫な話だった。
「そんなことより、四ヶ月前に頼んだ火性魔術書の分類整理。終わったの?」
「終わりましたよ、三ヶ月と二十八日前に」
「なら良いんだけど」
「よくありません!!」
 明らかに生聴きし、話題を散らそうとしているパチュリーに見かねた小悪魔が、ついにいつかのように、また分厚い本を取り上げた。
 高々と掲げられた仏蘭西語は、まるで天井の高さに挑み掛かるように勇ましく小悪魔の両手で突き上げられ、
「むーむーむー!!」
「むーもあとらんちすもありません!」
 返す刀でぼっかーん、と今度こそ思いっきり、パチュリーの紫色な頭を凹むほどぶったたいた。
 そこで、
「……何やら騒がしいですね」
「ほんと」
 ちょうどティーセットを下げに来た、当主ご一行様に見咎められたのだった。
 赤面し、ぱっ、と小悪魔が仏蘭西を手放す。どごん、とテーブルが揺れる。
「ねえねえパチェパチェ、食べた食べた?」
 レミリアがまた無邪気な声を上げて、ぜんぶの単語を二度ずつ繰り返した。
 パチュリーはぶっ叩かれた衝撃でくらくら揺れており、喋るな動くなじっとしてろ、と魔術書に労られており、
 小悪魔が結果として、その返事を奪った。
「それがですねー。食べたのに、覚えてないんですって!」
 これに小首を傾げたのは咲夜である。
「どういう意味ですか」
「本に熱中してて、覚えていない、って」
 咲夜もまた、同じように眉を潜めた。
「……本当ですか、パチュリー様」
「ほんと」
 当然、とでも言いたげに鼻を鳴らして、テーブルから仏蘭西語を拾い上げ
「うそつけ!」
 ……ようとしたところで、本が消えた。
 咲夜が時間を止めたのではない。
 小悪魔の仕業かと思えば、目を丸くして驚いているばかりである
 真犯人は単純だ。 
 萃夢想でも緋想天でも一番素早い動きを披露したあの吸血鬼が、神速のスピードで本を取り上げただけである。
「食べたものの味が分からない? 覚えてない? そんな見え透いた嘘が通用するとでも思ってるの!?」
 レミリアは勢いごんで怪気炎を上げる。
「あのねえパチェ、私は貴方の幸せを想えばこそよ。レンアイすると女はより美しくなる。男はより格好良くなるわ。日々の小さなことでも嬉しくなるわ。贈り物をもらったら変なお菓子でも滅茶苦茶嬉しくなるモノよ。さぁパチェ!」
「アンタに言われたくないことばっか」
 頬を風船にしたパチュリーが、レミリアの言葉を奪った。
 負けじとレミリアが意地を張る、
「だからもうちょっとありがたがって食べなさいよ!」
「ありがたく頂いたわよ」
「味も覚えてないのにどこがよ!」
「だからいつも通りありがたく食べたってば!」
 気心の知れ合った仲のせいか或いはようやく言語野と精神のエンジンがかかってきたお陰か、喘息の肺腑も現在はひとまず大人しくなってくれて代わりに頬を紅潮させるパチュリー、
「ならレミイは、今までに食べたクッキーの数を覚えてるの!?」
「それと何が関係あるのよ今の質問と!?」
「だーかーらー、本に集中してたって言ってるの!! 大体今更何よ、私はいつだって食べたお菓子の味も紅茶の味も覚えちゃいないわよ!」
「せめて今回くらい覚えてなさいよ!!」
「なら事前にちゃんと」
「あの、」
 暫し黙りこくっていた咲夜が、そこでようやく口を挟んだ。
 二つの顔が、くわっと一斉に振り向く。
「なによ咲夜!」
「いえ……」
 レミリアとの諍いの勢いをそのまま持ち込んできたパチュリーに対し、咲夜のテンションは信じられないほど奈落の底にある。
 これについてひとまず、解説しておきたい。
 まずコーヒーと紅茶は、おしゃれな嗜みだと咲夜は思っている。
 無頓着に作っていれば良いものではない。お湯を注げば味は同じ、ってんならそれこそメイドなんて立場は要らない。ご主人様の事を思えば、メイドとして、より一層美味しい紅茶とお菓子を召し上がってほしいと思うのがメイドとして普通の感情であり、最近のメイド喫茶に一番欠けていると咲夜が思うことである。誰だって知ってることだが、茶葉にはいくつかの種類があるのだ。そして、その各々に合うクッキーの味もケーキの種類も違うし、葉の蒸らし方やら温度から、カップのデザインとの融和性とか、お出しする時の温度とか、何をお茶請けに選ぶかとか。
 そのお茶請けにしたって、スポンジに練り込むハーブの量だとか焼き時間の長短、加水の匙加減などで幾種類もの味の分岐点がある。蓋し料理は算数である。選択肢と選択肢と選択肢、十重二十重の選択肢をすべて加減乗除した数だけ味の種類があるわけで、その一つひとつを組み合わせながら決して辿り着け得ぬ“絶品”の境地へとアプローチしてゆくものであり、
 つまり、
「……あ」
 ここに至ってパチュリーも失言に気付いたが、時は既に遅かった。
 口許に手を遣った後悔色が通過するのを待ってから、咲夜が深いため息をつく。

「思いっきり『食べたもんの味なんて覚えてない』って断言されますと、メイドとしては微妙にショックですわ……」

 気まずい空気が流れた。
 パチュリーも、なんとなくまずそうな顔をしている。
 時間が尺取り虫になってゆーったりと流れ、
「……咲夜……」
「はい」
「なんか、ごめん」
「いえ」
 咲夜は無表情に首を横に振った。
 まあある程度分かっていたことだし、今更そんなことでパチュリーを責める気もない。
 はあ、とパチュリーが溜息をつき、
「それにしても、なんでみんな恋愛レンアイって」
 苛立たしげに呟いた。
「……慕ってくれる人がいるだけ倖せなことですよ、パチュリー様」
 失望と落胆をオトナの配慮で胸に収めて、咲夜もひとまず、仕方なくレミリア側の助太刀をする。
 正直なところまったく進まない事態に加えて要らぬ罵詈雑言まで聞かされ、当初のイタズラ心はいい加減萎えきっているのだが、この際押せる方に押しとかないと、超過労働が延々嵩み続ける羽目になりかねないのだ。
 大きく深く、鷹揚に小悪魔も頷いて、
「そうですよ、さ、御子孫繁栄のためにも是非」
 加勢するのだった。
 パチュリーの旗色はいよいよ悪く、
 ――子孫、繁栄。
 ぶっ、と咲夜が噴き出した。
「貴方ねぇ……何気なく聞いてれば」
「良いじゃありませんか。この際ですから何でもアリですよ」
「それにしたって、言い方があるでしょう」
「おい咲夜」

 ふとレミリアが口を挟んだ。
 咲夜が振り向き、


■ ■

 ――その時に咲夜は一瞬、確かに気付いていた。難解な数式に挑みかかる数学者のように、ごく自然な思案顔をしたレミリアの静かな瞳はきっと嵐の前の静けさ、眉根を寄せ、薄目に鋭い眼光を光らせて、見せかけの沈思ではなく正真正銘本物の思考に一辺倒となった真面目なその横顔に、
 結果から言えば気付くべきだった。瀟洒なメイドは、気付かなければならなかったのかもしれない。
 気付いてたってどうしようもないけど、それが彼女が未来に踏み出す一歩へと確実に繋がっていて、その一歩の真下に大きめの地雷が埋まっているとあれば咲夜はメイドとして身を挺すべきだった。話題を散らすなり、お鉢をパチュリーに戻すなり、紅茶をわざと零すなり、突然裸踊りをおっ始めるなり、逃げ道はいくらだってあったのかもしれなかった。
 すっとレミリアが純粋な瞳をした。
 発言を遮る暇が無かった。
 純粋に呟いた。

「――男女がレンアイすると、子孫が残るのか?」
 
 身体が凍った。
 小悪魔が空気の塊を呑み込んだのが音で分かった。咲夜は「はぁ?」と呟いたきり、口の形が元に戻らなかった。
「咲夜、レンアイと子孫繁栄とどう関係があるのだ?」
 まっすぐな瞳にまっすぐに向き合う。
「――お嬢様は、人間がどうやって子を為しているかご存知ではないのですか」
「パチェ知ってる?」
「知らない」
 小首を傾げる。
 咲夜はそこ迄言って、ようやく、
「あ……いや、あの、お嬢様」
 地雷どうこうを考えている時にはまだ戻れる余地があったことと、
 クエスチョンとアンサーは必ずセットであるということと、
 レミリアは愚かパチュリーまで首を傾げたことと、
 自分が「知らないのか?」と聞いてしまったこととで、
 最後の地雷を踏んだことを悟った。
 況んや、自分が口にした言葉こそが、本物の地雷だったことに気が付いたが時は当然、既に遅い。
「何だ咲夜、教えてくれ。人間はどうやって子供を作るのだ?」
「何? でーとと何か関係があるわけ?」
「パチェに子供産ませたいのか咲夜は?」
「それは違う」
 きっぱり。
「だったら教えてくれても良かろう。パチェも知らないみたいだから教えてやれ」
 レミリアの瞳に射竦められる。背筋にひとしずく、冷たい緊張が伝う。
 冗談では無さそうで、咲夜の顔からますます血の気が引く。
 矢継ぎ早に射掛けられる好奇の視線から命からがらかいくぐらせた視線で手探りした、小悪魔の小柄な姿はいつしかどっかに雲隠れしている。ずるい。きょろきょろしてやっと見つけたらパチュリーのだいぶ背後にいて、心なしかさっきよりずいぶん遠ざかっていて、群衆から三歩引いた場所の椅子に深々と腰掛けて幻想郷のジェーンマープルを気取りつつワイングラスをくるくる、首は明明後日の方を向いて降りてこない。
「……ずるい!」
「ずるくない」
 マープルに投擲した批難の言葉は、眼前指一本入らぬ距離のレミリアの顔に遮られる。
「咲夜、ここまでの騒ぎを起こした罰ね。私にも教えて」
 パチュリーが椅子から立ち上がる。
「貴方達はどうしても、私をでーとに引き合わせたいみたいだけどそれはどうして? 子孫繁栄と何か関係があるならこの場で言ってみなさいよ。良いわよ、私も興味があるわ。人間が子供を作る方法なんて」
 額はもうぐっしょりである。
 脳の全てで必死に言葉を探していた。挨拶で使う日用品の言葉が、
 食べ物の美味しさを形容する美辞麗句が、
 白砂青松を愛でる鮮やかな表現が、
 傾城の美貌を語り上げる艶やかな文句が、
 意味も判らぬ古典の単語の大名行列が、
 頭の中を次々に飛び交っては意味を持つ前にぐちゃぐちゃに崩れてゆく。言語野はたちまち枯渇し、埋もれた日本語のゴミの中で咲夜は発する言葉を失った。こめかみを汗が伝う。どうしようもない。どうしてこんな風になった。神様のバチだろうか、誰の発言が引き金を引いたのか、なんで私は今この変な人達に子供の作り方なんてことをティーチングしようとしているんだろう。普通に考えて超展開だ。いやいやひょっとして、パチュリー様もレミリア様も私のことをからかっているだけじゃないのか?
 んなことはない。あの視線は、哀しいくらい混じりけがない。正々堂々の直球勝負、彼女らは本当に知らないのだろう、じゃあやっぱり教えないといけないのか、だいたい長生きしてて何でそんなことも知らないんだ、明後日の夕ご飯は何にしよう、ニラレバとレバニラの違いって何だろう、海王星と冥王星って今どっちの方が遠いの、鳥取と島根はどっちが左にあるの、神様って本当に居ると思う居ないと思う?
 居ないに決まってる。
 こんな恥ずかしい仕打ちをしてくれる神様なんて死ね。死んじゃえ。
 神が死んだ世界は暗く闇に閉ざされた静謐だ。さすれば黙秘なんてどうだろう。
 何も喋らない。訊かれたことについて何も否定しない、代わりに何も肯定しない。ごく自然にこの会話から的を外せば良い。川の本流が嫌いなら、支流を作ってそっちに水を流せば良い。人間が子供を作る過程を一から十までここでレクチャーするくらいなら時を止めて死んでやるからな。
 何も気負わなければ良いんだ、そうですねえ、あまねく生き物は子孫を作るために生きていると昔の偉い人は言いました。ですが、それは魂魄の理論からして些か語幣がありますね。輪廻転生が実在する以上は、我々自身が子々孫々のパズルを組み立ててゆく必要は無いのですよ。すべては仏の御心のもとに。神の思し召しのもとに。
 死した魂はやがて巡り、誰か別の新たな生命の息吹となってこの地球上で再び生の祝福を受けるのです、それが運命なのです。その膝元で、人間の営みなど微力に過ぎます、運命を操るお嬢様はその辺きっとよくご存知ですよね? 知ってますよね? 知ってるね? 釈迦に説法ですね? 男女が共同作業として子孫を残す方法なんて、ほらこの通りどうでも良いじゃありませんか。その実態なんて悠久なる輪廻環の只中にあればこんなにも、取るに足らないモノなのです。些事です。どーでも良いのですよそんなこと。神様の思し召しによって子供はコウノトリが運んできて、我々は繁栄を続けるモノであります。誰かが死すも生まれるもすべて魂の輪廻の果てであると考えたらば、悠久四十数億年たる地球の命の営みにしたってまるで連綿と続く物語のように神秘的で、幻想的で、そして夢想極まりありません。妖怪や魔女や吸血鬼なんてちっせえちっせえ。ましてミジンコくらいちっぽけな私達人間サマなんて生き物では何せ到底決して及びもつかない、到達し得ない境地にて繰り広げられる生命のユートピアそれが子作りよ!
 よし、これで行こう。
 心を決めて、咲夜は迷いの断ち切れた口を開こうとした。

 同じ瞬間に、扉も開いた。

 そこにいた全員が振り返った。

 扉は最初、躊躇いがちに音もなく開かれた。おっかなびっくり動いてゆく扉は、言うなればまるでここに何年ぶりかに来た客で、扉の向こう側に広がる景色を何年も経つ内に忘れてしまったのでドキドキとした緊張と、ワクワクとした逸る気持ちと、ある程度の警戒心を孕みながらその全てを両手で押さえてゆっくりと、
 風なんかではない。
 扉は、明らかに人為的な動きで開いた。
 結果から言えば、来訪者は、確かに意外な人物ではある。咲夜からすれば、ここに来る人間として一番考えられる人材でもあった。
 そして、

 ――同時に、泥沼の中に泥を継ぎ足す、歩く災いの元でもあったのだ。
 来客、紅美鈴が図書館に入るなり咲夜は気付いた。
 その右手に握られた、哀しいまでにプレゼントとしては好適品のサイズと形の、銀色の、小さな宝飾品を不自然なくらい大事そうに持ってきたことに気付いていたからだ。
 どうしてそれを美鈴がこんなトコロまでわざわざ持ってきてくれたのか、と考えれば、それが何なのかくらいすぐに分かった。











■□■ 3 ■□■


 門番の詰め所は雑然たる有様である。虫押さえの間食の残骸と三日間返却し忘れた皿。ひっぺ返されたままの布団、出しっぱなしの温熱機の上に昨冬から居座るみかんの皮のミイラ。動かなくなってから二年以上経過する壁時計、白い脳味噌の飛び出た座布団、薄汚れたぶち猫のぬいぐるみ、誰かのパンツ。
 その凄惨な戦場の一番玄関寄り、トンファーやらカンフーやらどうせ使いもしない武具が手狭なモスグリーンの壁で磔刑に処せられているその下に、門番日誌は最新ページを開いた状態で放り出されていることが多い。
 傍には鉛筆が転がっている。
 怠惰に蝕まれつつある美鈴の最後の砦として、この日誌だけは欠かさないと心に決めていた。内容自体は他愛もない。その日に訪れた人、起きた事件、詰め所から見えた屋敷周辺の異変、天気、風向き、美鈴の体調とトゥデイ’ズ・ポエム三行以内。貪婪に吸い込んだ湿気やこぼしたお茶なんかでページの端っこが盛大に波打って、本来の厚みの倍以上に膨れあがった灰色の日誌によるとその日はこう伝えられている。

 ○月×日。晴れ時々ぶた。二十九度シーくらい。ちょい便秘気味。
 △時。
 件の少年が来訪。髪留め1個を受け取る。
 パチュリー様への贈り物として。
 要、咲夜さんに相談。

 日がまだ少し暮れなずんでいるか、という頃合いだった。店仕舞いのミンミンゼミに代わってひぐらしが幅を利かせ始めた時間帯の紅魔館に、美鈴はいつも通り延々とした暇を持て余していた。
 驚嘆すべき事である。
 小さな髪飾り一本を嬉々として持ってきた少年の健気さは瞠目に値した。さきほどのお菓子から、まだ五、六時間と置いていない。
 すみません度々。
 実はあの――これをどうか、あの方に。
 いえ、お渡し頂くだけで良いので。
 いえいえ、ほんとに。
 気に入ってくださると嬉しいです。
 ほんとうに。
 ありがとうございますっ。
 美鈴はようやく、五時間前の咲夜の心情を理解するにこの時至っている。あの時の咲夜と同じように、発する言葉を失って沈黙に呑まれた。あの十六夜咲夜ともあろう女傑が片手で翻弄されて、謂われ無き恋の片棒を担がされたのは紛れもない、少年の純粋すぎる想いが、回りの全ての時間を怪力乱神で薙ぎ払ってゆくせいだった。時を操る咲夜ですら敵わない時の使い手。中国四千年の歴史も風前の灯火である。少年恐るべし。
 言い換えよう。
 最強のマイペース。
 どうあったってまさか、美鈴程度のうらなり門番が立ち向かえる余地は無かった。
 十三歳の少年が手にするにはあまりに恥ずかしい、少女チックな装飾の施されたごてごてしい髪飾りを手柄杓で受け取った後、美鈴はその体勢のままでそれをしばらくぼぅっと眺めていた。不思議なデザインであった。何とは無しに魅了されていたその間に少年はまた、神速の足裁きでもって薄暮のどこかへ溶けている。美鈴が首を上げた時にはもう蜃気楼か何かになって消えていた。誰そ彼ぞと声掛け合う黄昏時。浴びるようなひぐらしの時雨の中。
 薄れゆく夕日の切れっ端を掌に受けとめながら、目を凝らして矯めつ眇めつ髪飾りを眺めた。
 一見して銀細工は古びたものであり、年代物と伺わせる。少しくすんだ色をしている。黄褐色のストーンが、お体裁のように寒々とあしらわれている。石の大きさ自体はごく小さなものだが、ひとまず色と光は貴げで宝石に見えた。プレート部分には月桂樹だか野苺だか薔薇だか、とりあえず何かのツタがいい加減な軌道で這いずり回っていてその一番先っぽに黄色の宝石がある。小指の先ほどの大きさではカットも何も分かったものではなく、加えてそもそも宝石の類に明るくない美鈴、そのいい加減な見立てではひとまずトパーズの粗悪品みたいな感じに見えた。粗悪品に見えるのは、髪飾りそのものが古びた風采をしていたからかもしれない。いやこれ鼈甲か? んぁ、琥珀?
 うん、よく分かんないなあ。詳しい鑑定はまあ、当事者達にお任せすれば良っか。
 美鈴の結論は、そこまで考えたところでひとまず落としどころを見た。
 そして日誌に今日の出来事を書き綴った。
 蝉の抜け殻が見ていたところによるとその後間もなく、行きずりの妖精メイド二人にしばらくの留守番を頼み込み、美鈴は持ち場を離れている。日誌はいつも通り、トンファーが睨みを利かせている詰め所の壁際に放置された。 
 2B鉛筆による丸字は二度ほど消しゴムに消された後、三度目の浄書で文面が確定している。美鈴が迷った末に 「要:咲夜さんに相談」 として鉛筆を置いたたのはやはり、内心でこの騒動が更に次のフェーズへと足を突っ込むのを、彼女自身も期待していたからに他ならないだろう。
 少年の熱意にどうしても断り切れませんでした――ということにしておけば相応の美談にも出来たのだろうが、門番日誌などはそうそう他の誰かに見せる代物でもない。故に、美鈴の偽りのない本心の吐露が文字となって書き記されてしまっていた。残念ながら、美鈴自身も好奇心が勝ってしまったのである。
 慌てるパチュリーさん見てみてぇ。
 とはいえ――美鈴、天地神明に誓って、少年の恋心を愚弄するつもりは全く無い。ましてたいせつな家族達を愚弄する気はもっと無く、だからこそ、この髪留めをイタズラに直結させず敢えて「咲夜さんに相談」としたのだ。根っこの部分で真面目な性格の門番は、しかしそれがゆえにこそ、地雷や貧乏籤からうまいこと身を躱してこの伏魔殿で生きて来られてるのだ。それは他者評価のみならず、ことごとくの連中が圧倒的魔力を持つ紅魔館の末席にあって、美鈴自身が自認するところでもある。
 咲夜を通じ、最終的にはパチュリー様の元に届けてみようと美鈴は思った。別段気負いは無い。見知った女友達がレンアイしてると耳にして、その鞘当てを取巻き一同、外野からこっそり面白がってる程度の具合である。
 咲夜が成し遂げられていない、脚色無しの恋のシナリオ演出を美鈴は追ってみたかった。
 それでこそ面白い、と思っていた。

 昨日の今頃には、咲夜もまたそう思っていたものである。
 門番に勤しみすぎた美鈴は、咲夜が、レミリア当主の気まぐれと恣意にすっかり呑み込まれてしまっているなどちっとも知らなかった。
 あ、お久しぶりです。お疲れさまです。
 お疲れさまです。
 すみません、咲夜さんはどこにおられますか。
 えっと、今頃はちょうどティータイムで、図書館ですね。
 ああ、それはちょうど良い。ありがとうございました。
 いえいえどういたしまして。
 よし、パチュリー様の反応を、ひょっとしたら直に見られるかもしれない。ラッキー。

 教えられた道でもう二回ほど道を間違えてから、美鈴は何年かぶりに巨大な屋敷の巨大な図書館のドアに手を掛けた。
 ぶっとい真鍮の取っ手が、珍しい客人の掌に今ひとつ馴染もうとしてくれなかった。しばらくぶりの図書館の光景を想像しながら、ちょっとだけワクワクして扉を開けた。
 紅魔館で唯一、真剣にキューピッド役を買って出てみようかと検討していたのは紅美鈴であった。よもや自任したわけではないが、その人間関係と職業柄、一番キューピッドになりやすい立場だったのも事実である。
 扉の向こうの景色はちっとも変わっていなかった。昔日の淡い記憶に抱いていた光景そのものが繰り広げられる。
 変わり映えのしない、しなすぎる、どこまでも続く本の洪水と黴と埃の匂い。これに混じり、微かな紅茶の芳香。
 禍々しい魔導書が放ち出す無形の膂力に押し潰されそうになる。扉の内と外でまったく異質の空気。腹腔の奥底に轟かすような得体の知れぬ共鳴音と、本棚越しの曲がり角の向こうから聞こえる話し声。

 ――そこに目的の人物以外が揃いすぎていたことが、美鈴のプランにおいて、唯一最大の不運だった。

 
■ ■

 恐る恐る入ってきた門番の姿に、眉を一本潜める間もない。
 射竦めるような八つの目が彼女を待ち構えていた。美鈴はゆっくりと見渡す。説明も何もなく凝視されてただ立ち尽くす。その場にいる誰もが決め手に欠ける四すくみの膠着状態の中で、気怠げな蝶番の軋み声と来客。ダムの一角だけ突き崩されたような急激な鉄砲水に、タガの緩んだ門番詰め所で日夜昼行灯をこいている温室育ちがまさか太刀打ち出来る筈もなかった。
 可哀想なくらい顔色を失い、表情を強張らせ上顎が下唇を完食し、きゅっと口を引き結んで恐らくは背中に潤沢な冷や汗を流しながら、それでも怖々と咲夜に首を向ける美鈴の仕草はほとんど健気ですらある。
「あ……あの…………何かあったんですか」
「それはこっちのセリフ。どうしたの、こんなところまで」
 咲夜はわざととぼけた。
 高飛車な背表紙達に囲まれた図書館の中、光に乏しい中でも光無く光るその小さな媒体。時には千里眼時には顕微鏡、平素から部屋の片隅に落ちたビスケットの屑欠片ひとつ見逃さない咲夜の両目3.6という無駄な慧眼が、よもや左手の掌からはみ出した、小さな銀色を見逃す道理は無かった。
 レミリアが時折呟く言葉を思い出してみる。
 運命を操ることは出来るけど、逆らうことは私にだって出来ないよ。
 そこを勘違いしてる奴が多くってねえ。
 而るに、あのクッキーもどきの時と同じである。運命はこの図書館の外で、夜の帳と一緒に降りてきていたのだ。事件は現場で起きている。
 また厄介事が増えた。美鈴が持っているとあからさまに不似合いな、無骨な掌には居心地の悪そうな、銀色の腐ったような銀色をした、髪留めと言うには何とも鈍重そうな、頭のパーな細工人が中世西洋文化を勘違いして彫ったとしか思えない野暮ったいデザインな、古びて手垢だか錆だか何やらよく分からないもので黒ずんだ、黄色い宝石があまりに小さすぎて却って見窄らしい、髪留めと言って髪留めに使うのも憚られる、アンティークとボロが三対七くらいのそれを美鈴が持ってきたという時点でもう、咲夜は悟った。
 そして、幻滅した。
 一方レミリアとパチュリーはその頃ひそめた声で、
 ねぇ。誰だっけ、あれ。
 確か門番か何かじゃなかったっけ?
 ああ、門番。……え? うちの門番……ってええー。あんな顔だったっけ。
 言われると違うような気もする。
 言われるとあんな顔だったような気もする。
 うん、そういえばあんまりちゃんと見たこと無いわ、そういえば。
 ところで名前なんだっけ?
「咲夜さん、例の少年からの預かりものです」
 家族達の冷ややかな言葉にも慣れたものか、或いはそれが却って入室当初の緊張感をほぐしてくれたものか、美鈴はあっさりと用件を口にした。咲夜さん、と冒頭に名指しで伝えたのは、事情を知っている者に用件を託してしまう横着精神だ。ただ、現時点でこの場に居る全員が事のあらましを知っているとは、現時点で美鈴、まさか知る由はない。
 小悪魔は横目でパチュリーを睨み付ける。
「パチュリー様――かくも熱心なことですよ。そろそろ応えて差し上げては如何ですか」
 言いながら髪留めを、美鈴の手から受け取る前に咲夜が急かす。
「面白いじゃありませんか。にんげんがここまでパチュリー様に好意を寄せるなんて」
 さらに再び小悪魔が加勢し、ペースを握ろうとしたところでパチュリーがふん、と巻き返す。
「それは私の質問に応えてからにして頂戴」
 ちっ、と咲夜が舌打ちする。
「忘れてませんでしたか」
「忘れないわよ」
「忘れないね咲夜。いくらあそこで ■□■ 2 ■□■ と ■□■ 3 ■□■ に分かれたからって、舞台自体は地続きで一分も経ってないもんね」
「何かあったんですか?」
 美鈴が怪訝げに眉を潜める。
 そこでぽん、とレミリアが手をたたいた。
「そうよ、門番に訊いてみれば良いじゃない」
 咲夜は思う。
 ――あ、やばい。
「いえ、でもお嬢様……」
「だって咲夜答えてくれないんだもん、それならこの子にでも訊いてみた方が早いわ、ねえパチェ」
 パチュリーは満足げに頷き、
「それが良いそれが良いと太郎さんも花子さんも言いました、マルッ」
 と言う。
 はわはわ、と慌てる咲夜を横目に、レミリアは「門番よ」と啖呵を切り、「美鈴といいます」との返事に聞く耳も持たずとうとう言い放ってしまった。

「人間ってどうやって子供つくるの?」

 美鈴はきょとん、とした。
 パチュリーが少年のような瞳を向け、
 レミリアが好奇に満ちた瞳を向け、
 小悪魔がはらはらどきどきの瞳を向け、
 咲夜が
(空気、読みなさいよ)
(はあ……)
 目配せの瞳を向けた。
 お嬢様の前で不貞の言葉を口にしたら貴様の命はないぞ。
 目と目で通じ合ったと思う。
 美鈴は、一つ小さく頷く。
 レミリアに向き直った。
「なんだ……お嬢様、そんなことでしたか」
「うん」
 にこっ、と美鈴は微笑んだ。
「人間が子供を作るには、まずですね」
「うむ」
 聴講生を二人従え、満足そうな美鈴は胸を張っている。笑顔を絶やさず、むしろにこやかな表情に尚拍車をかけて超にこやかになって、蚊でも叩くような簡単さで事もなく口にした。


 「まず、男と女が裸で抱き合います。」



■ ■

 ……。

■ ■


「……ったく」

 いつもに無い賑やかな図書館がやっと落ち着いたところで、パチュリーは定位置の椅子に深く掛け直していた。
 その姿が遠くに見える。
 小悪魔は、部屋を出て行くレミリア、咲夜、美鈴とを出口まで律儀に見送りに出てきていた。ずるずると引きずられてゆくレミリアに、威厳はもういの字すらも残ってない。
 小悪魔は、ふと考えている。
 パチュリー様にとって幸せな結末とは何か。こちらは、はっきり言って考えるまでもないことである。あの人の場合、あれだけ朴念仁ならどうあっても人畜無害なのは目に見えているからだ。
 では、
 レミリア、というこの屋敷の当主である少女にとって、
 咲夜、というこの屋敷のメイド長にとって、
 一体今回の事件がどういう結末を迎えたら、彼女らは満足したのだろう?
「あ、あの……」
「はい?」
 美鈴、と呼ばれた門番から先ほどの髪飾りを差し出され、ようやく小悪魔も本題を忘れていたことに気付く。
 咲夜はレミリアを引きずって、部屋を一足先に辞去している。
 小悪魔は小さく噴き出し、やれやれ、と想いながら、
「……お預かりします」
 それを受け取った。
「……ねえ、美鈴さんでしたっけ」
「はい?」
 誰かに問いたくて、小悪魔は美鈴に話してみるのだった。
「咲夜さんって、結局レミリア様の味方なんですか?」
「う……さ、さぁ……」
 美鈴は首を傾げる。
 こちらもまた人畜無害な笑みを浮かべて、
「あ、いやいや! ただ、咲夜さんも悪い人じゃないんですって」
「なんですかそれ。それはまるで、レミリア様が悪い人みたいじゃないですか」
「……はわ!」
 はっ、と口を噤む美鈴。
 つられて、小悪魔ももう一度噴き出した。
 なかなか可愛い人だな、と微笑み、
 ――同時に、とても誠実そうな人にも見える。
「……少年は、きっと貴方みたいな人なんだと思いますよ」
「へ? 私……ですか? なんで?」
「あ、いや……何でもありません」
 声の大きすぎた独り言に小悪魔は苦笑いし、美鈴は目を白黒させている。改めて、受け取った髪飾りを眺めてみた。
 古めかしいデザインだが、一応純銀で出来ているような雰囲気である。少し前のデザインだと思うが、それにしてもあまりセンスの良さを感じる逸品ではない。元々さほど高貴な人間に作られた物でもないのか、ブリッジはちょっとひん曲がってるし、時代を経て黒ずんでるし、のたくったツタの彫刻の先っぽには薄汚れたトパーズが、
「あとこれを……あの、」
 聞こえぬはずの蟋蟀の鳴き声まで聞こえる気がする。夜の帳が降りきり、暑かった夏の陽射しがまた急速に冷やされているだろう。少しずつ夜の涼しさが夏の暑さを浸食していって、やがて秋になる。逃げ水は本当に逃げ、水なんて最初から無かったのに、元通りの地面に戻ってしたり顔をしているのである。
「あの、すみません? どうかされました?」
 美鈴の声もしばらく聞こえなかった。
 小さなトパーズの光無き輝きの中に、小悪魔の瞳は吸い込まれる。
 脳内で変換器が動いてゆく。
 知らない人にはただの宝石で、
 知ってても知らない人にはただの紋様で、
 それを自分が預かっていて、
 変換器が稼働し終わり、ふと我に返ったところで、

「是非。パチュリー様に、お渡し頂くだけでよいので!!」

 美鈴の声がもう一度戻ってきて、小悪魔は顔を上げた。
 そこに差し出された白い手紙に「これは?」と問い掛けようとして、
 美鈴の人差し指が、口許に当てられていることに気が付いた。
 ちらっと背後、咲夜達が帰って行った廊下の方に目配せをする。
 一つ頷く。
 小悪魔は言葉を発さずにそれを受け取り、美鈴は満足そうに微笑んだ。そして、踵を返し、振り向くことなく帰って行った。

 小悪魔は思う。
 レミリアは、咲夜は、一体どんな結末を望んでいたのだろう。自分にはよく分からない。でも今、自分の手にはようやく鍵が舞い込んだ。へんてこなラブレターなんて関係ない。味の分からないお菓子なんてもんじゃ太刀打ち出来ない力を秘めている。恋文に無反応で、お菓子の味を忘れたパチュリー様が、朴念仁のパチュリー様が、咲夜さん達が油断した隙に監視カメラを潰して鼻高々だったパチュリー様が、きっとこれから最後の一幕に動いてゆくという時に、
 どうすれば、一番幸せか。
 
 パチュリー様。
 例の髪飾りです。
 それと……これも。

 それだけ言い残して、小悪魔は一度図書館を離れている。
 背後、ちらりと一瞥を送っただけでまた無視を決め込みかけたパチュリーが、
 先ほどの小悪魔と同じように食い入るように宝石を見つめ、
 それから、傍に置いてあった白い手紙を開く。
 
 小悪魔はひとまず、事態を動かすだけ動かしてみることに吝かではなかった。
 イタズラである。
 そう、イタズラだったからこれは盛り上がったのである。
 人の恋愛を眺める中に、真剣な気持ちを盛り込めと言う方が土台間違いである。イタズラ心がすべてのモチベーションとなって、事態をここまで運んできた筈なのだ。ならば、最後までイタズラ心でレッツゴーだ。
 一番満足する結末とは何か?
 純白のブライダルドレスにライスシャワーでブーケをぶん投げるパチュリー様の光景を見て満足するような詩美的な感性で、この事件を測ってはいけなかったんだ。
 そう思うと、馬鹿馬鹿しい事件がより分相応に馬鹿馬鹿しくなってくる。
 図書館から出ようとしたまさにその瞬間、パチュリーが後ろから声を張った。

「……誰にも言わないって、約束出来る?」

 小悪魔はその場で振り向いて、最高級の笑顔を作り、ひとつ、頷いた。
 パチュリーは、どうやらそれを信じたようだった。
 小悪魔が背を向けたところで、何かを決心したように椅子から立ち上がる。



■ ■


 いつもより少し黄色めの月が窓に昇るのを、咲夜は小山みたいな食器のすすぎ作業の合間で眺めていた。やがて彼らを捌ききり、ようやく水周りから解放されて身体をあちこちパキポキな鳴らしながら廊下を歩いてもう一度夜空を眺めれば、更に月は黄色さを増していた。
 琥珀――いや、トパーズの色に似ているだろうか。
 赤みが少ない月は、最近にしては珍しい光景である。最近の月は、とても紅い色をしていることが多いものだ。それが今日はさて、何かしら明日の天気の変調でも予言してくれているのか、湿度とかその辺の違いなのか、月の兎達が御機嫌斜めなのか単なる偶然か、それとも鼻血を出したっきり自室に籠もってしまったレミリアお嬢様の神通力か何かが弱っちゃった結果として月が紅くなくなっちゃったとか、そういう事情なのかもしれない。
 馬鹿馬鹿しい一連の出来事だったと思う。
 美鈴の猥談に僅か頬を染めたパチュリー様はきっと稀少な光景だったが、艱難辛苦と絶望的な労力を注ぎ込んだ見返りがそれだけでは骨折り損に過ぎる。少年の想いは今もパチュリーや、咲夜やレミリアや美鈴のあずかり知らぬところでひとりでに燃えたり盛ったりしてる筈なのに、咲夜自身が情熱を持て余している。不完全燃焼に終わった粗大ゴミの捨て場を探すのに、紅魔館はいささか閉塞的すぎた。
 三歩向こうで、小悪魔がいつの間にか、眼前でにこやかにこちらを見ておすまししている。
 行儀良く両手を身体の前で組んだ小悪魔に、咲夜は何か適当な挨拶を言った。こんばんはーだかご苦労さんだか、口から零れた言葉は喋った二秒後にはもう記憶に無い。
 それくらい疲れていたのだ。
 すれ違いざまのことである。
 小悪魔の言葉だけが、咲夜の耳朶を掠めて刀傷のように言葉を刻み込んだ。

「パチュリー様は、現在魔法実験中です」

 ?
 と最初咲夜は思い、うん、ととりあえず小さく頷いて、横を通り抜けようとする。明日の味噌汁は赤味噌にしよっか白味噌にしよっか、えのきにしよっかしめじにしよっか、そういや門番の夕食もまだメニューさえ考えてないや、まあいいや、巨人阪神戦の結果はどうなっただろう、
 咲夜が通りすぎる瞬間に小悪魔は向き直って、追い越してから振り返った咲夜と目線がばっちり合った。
 もう一つ小悪魔が笑う。
「咲夜さん」
「何」
「パチュリー様は、現在魔法実験中です」
 にこっ、と妖艶な微笑み。

「――ですから、決して図書館の中に入られたり、図書館の中を覗き見したり、しないでくださいね」

 饒舌に蠢く小悪魔の唇が別の生き物みたいに見える。紡がれる言葉が別の生き物みたいに聞こえる。時を止めてないのに時が止まる、がっかりしたような気持ちと捲土重来の昂奮、それらが半々くらいで胸を支配する。
 言葉は意味にならない。思考上のクロスワードパズル。
 小悪魔が呟いたほんの小さな声、その可愛らしさ、愛嬌、いたずら心、茶目っ気、あからさまに関係の無いことを二度も呟いたのはどうして?
 簡単なことだ。
 大事なことだから、二回言ったに決まってる。

「……ご苦労」
「どう、いたしまして」

 どちらからともなく礼をして、小悪魔の方はそのまま廊下から立ち去ろうとする。咲夜はちょっとだけ立ちん坊になる。
 思い直して踵を返し、レミリアの部屋を目指しかけた咲夜はそこでもう一度、吹っ切れないようにはたと立ち止まり、立ち去りそうになっていたユダを鋭い声で思わず呼び止める。
 ……なんでしょうか?
 律儀に身体ごとこちらへ向き直った小悪魔に、咲夜は唇の右っ側だけで笑い、率直に尋ねる。
「……パチュリー様には、口止めとかされなかったのかしら?」
「されましたよ」
 人差し指を立て、唇に添えて小悪魔がウィンクする。
 腰は、気持ちくねらせ気味に。
 咲夜はやれやれ、と首を振り、
「裏切り者は長生き出来ないわよ。パチュリー様も可哀想に」
「残念ですがこれは、裏切りじゃありません」
「ほう」
 じゃあ、何かしら。
「――いたずら、ですよ」
 それが小悪魔の、短い答えだった。
 どこにも曇りのない、一隅の欠損もない完全な笑顔で小悪魔はまた小憎らしいくらいにっこりと笑う。
「レミリアお嬢様にお付き合いされた、咲夜さんと同じじゃないですか。私も、私の仕事を果たしたまで」
「……仕事?」
 音もなく、流れてきた時間が二人を分かつ。
 意味もない心と心の探り合いの中で、咲夜が悪鬼のような笑み混じりに問い掛けたその一言を合図として、時の均衡が破れた。小悪魔が、再び咲夜に背を向けて歩を刻み出した。小悪魔とメイド、二本の針が再び時を刻み始めて距離はだんだん離れてゆく。
 その先の廊下を二カ所曲がった向こう側、大口を開けて待ちかまえている汗牛充棟の図書館に小悪魔は悠然と歩みを進めながら、また一つ囁くような含み笑いの声を闇に溶かして消えてゆく。

「――いたずら好きだから『小悪魔』って呼ばれるんですよ。咲夜さん」
   
 爪先まで暗がりに呑み込まれるまで、咲夜はそこで見送っていた。
 そして、痛感するのである。
 レミリアお嬢様に手がかかるのは分かっていました。
 パチュリー様には手が掛からない、そう思っていた時期は私にもありました。
 
 そして。
 メイド長として相手する必要が無くても、やっぱりこの紅魔館は、悪魔の館なのです。
 紅い悪魔が猥談に屈したって悪魔は、他にも沢山いるのです。

 小悪魔が去ったのと逆方向へ回れ右をし、彼女に遅れること一分弱、咲夜もまた歩き出した。
 廊下を三カ所曲がった向こう側に、レミリアの寝室と例の執務室がある。
 胸のリボンを整える。
 扉の向こうが、最後の戦場になる。 


 
■ ■


 すっかり暗くなってしまった屋敷の庭を、美鈴はぼんやり歩いている。
 恋の顛末を見届けてみたい気持ちは強く残っていたが、事態はどうやら膠着を見てしまったらしく、美鈴は場を辞すことにした。興味本位で引き続き観察してみたくはあったが、自分がそんなお買い得な役目にあずかれるとは思っていない。所詮しがない門番の自分は、「恋のキューピッド候補」までを果たしたところでお役御免だろう。
 髪留めに結わえ付けてあった一枚の紙切れを、図書館に入った途端咄嗟に後ろ手で剥がした。
 掌の中に隠した。
 咲夜以外に、レミリアがその場に居たからである。
 美鈴は思っている、パチュリーにとってレミリアの立場は力がありすぎるのだ。だから話がややこしくなる。従順なメイドたる咲夜だとか、はなっから歯牙にも掛けてないであろう自分とは違い、レミリアとパチュリーは吸血鬼と魔女であり、なおかつ古来からの友人である。そんなん余計頑なになるに決まってる。そういう相手に自分の色恋沙汰を知られたら、晩生のパチュリー様でなくたって躊躇してしまう。まして、稚気まみれで享楽的なレミリアのことだ、からかい放題からかって、話の美味しい展開をみすみす逃してしまって気付きもしないのだ。ウチの当主は鈍感である。
 秘密の手紙を、誰に手渡すか少し迷った。
 レミリアは最初から論外だし、咲夜はレミリアに付き添う役割だからレミリアの目を盗むのは難しい。パチュリーはあの場で全員から最も注目を集めている立場だし、自分が紙切れ一つ渡したところで、それこそイタズラか何かだと思われたら恋の物語はそこで終わってしまう。
『松の木の下で待ってます。来てくれなくても構いません』
 そんな健気な手紙をパチュリーに渡して、ごく自然に物語の歯車を動かしてくれる可能性があったのは、あの小悪魔みたいな図書館の……メイド? ペット? ともかく、あいつだけだったのである。
 代償として美鈴は、その恋の顛末を見届けるチャンスを失った。
 秘密裡に手渡すからには、自分は表面上、この事件の表舞台から消える。美鈴はしかし、それもまた自分の宿命かとも思っている。とりあえずイタズラ心抜きで、真剣な恋の想いをしかるべき相手に伝播出来たのだからそれだけで重畳である。
「あ、こんばんはー」
「コンバンハ」
 二人組の妖精メイドが、どこへやら駆けてゆくところだった。
 こんな深更に、
 ふと美鈴は訝しんで事情を問い尋ねる。
 どしたの、そんなに急いで。
 サクヤさんに、呼ばれましタ。打ち合わせ、だそうデス。
 妖精達は可愛らしい声でそんなことを言って、夜色の翼をはためかせてどこかへ消える。
 彼女らが走ってきた方には、長らく開かれた形跡のない一枚の扉があった。
 詰め所に埋もれている筈の、屋敷の見取り図が記憶から呼び起こされる。
「図書館の……出入り口か」
 正確には裏口か。
 屋敷の中に通じる出入り口と、元々どっちが正門でどっちが裏口だったのか美鈴にはよく分からない。しかし、あの図書館を根城としている彼女の生態系を考えたら、屋外に通じるこの扉が正門になんて成り得ないことは自明の理である。蝶番が錆びてるなー、と美鈴は眺めていた。
 あの妖精メイドは、この扉の見張り役も兼ねていたらしく、そこらには湿った土を踏みならしたいくつかの足跡が残っていて、
 ちょっと不用心だな、と思う。
 二人を二人とも咲夜さんが呼び出してしまったら、この扉を見ている人は皆無である。いくら中の人が引きこもってるからって、

「ずいぶん……不用心な」

 美鈴は首を傾げながら、自分がそれ以上深く考える意味も無くて、
 そのまま詰め所に戻ったのだった。
 代打をお願いしていた妖精達をばか丁寧なお辞儀で見送ってお引き取り願う。詰め所に入る。脱ぎ捨てた靴は弧を描く。床面積を征服していたがらくたをとりあえず右足で薙ぎ払って、跪いて左手でもう一発薙ぎ払って美鈴はどっこらしょとケツを下ろした。
 深い溜息をつく。
 別に疲れてはいない。
 静かな夜の遠くから、日増しに大きくなってゆく蟋蟀の声が聞こえる。
 蓋を失くして以来使っていない湯たんぽを枕代わりにしてごろりと横になり、目を瞑り、瞼の裏に浮かんだのは無人になった図書館の裏口だった。そして、何年ぶりかに見た、その向こう側の景色だ。
 空気を圧殺してくる本。淀んだ空気。それは舞い散る埃のように。
 水気も無いのに湿った絨毯。

 子供の為し方を回答した時の咲夜の、まるで射殺すような強烈な視線の意味だけが分からなかった。
 仰向けのままぶるっ、と背中を震わせる。 
 なんとなく明日以降、嫌な予感がしなくもない。












■□■ 4 ■□■


 ――小さな花束の一つでもくっつけたらもっとデートの気分だったとも思うが、そういうのがまるで似つかわしくないからこそのパチュリー様、なのだろう。

 恋愛は小説だと誰かが言った。あの図書館の本と同じくらいたくさんの恋の道筋がある。近道回り道、一方通行に通行止めと色々ある。好きになった人が自分を好いてくれるとは限らないし、愛と気付かれぬ愛もあるし恋でないつもりの恋もある。だれかを好きになることは素晴らしいけども、歪みの無さ過ぎる想いは時として哀しさや、空しさやつまらなさやバカっぽさやお笑い草を生んだりする。今回はたらふく笑わせてもらった。それもまた、純粋な恋心と犯罪級の朴念仁が生んだ一幕だ。
 恋は崇高だ。だから構わない。どれだけ自分が恥ずかしいことをしているのか当人が分かっていなかったとしてもあまりにもバレバレでも、それに指をさして、物笑いの種にするのはとってもデリカシーが無いのだ。
 胸のリボンが決まらなくて悪戦苦闘していたのを小悪魔は知っている。たぶんここ数十年の人生の中では一番長い時間かけてやたらのっぽな姿見の中の自分と背伸びして睨めっこして、首を傾げて不満げに眉を歪めながらそれでも何とか図書館を出て行った。体裁と度胸一発だけ繕って衣裳が普段着のままだったのは、小悪魔が土壇場に来てそうそそのかしたからだ。着飾るような外出着がなしのつぶて、という事情もあるが何より、その普段着のままで行くから価値があるんですよと念を押した。あの少年はその姿に見惚れたのです。紫色に揺れるゆったりとした、いつも通りの姿の貴方に恋文を送ったのです。いつもの服を着ていつも通りに本を読みふける本読み少女に恋をした。だからそのお姿で良いのです。惚れてくれたときの格好で行ってやれ、ほら。
 それが叶ったので、小悪魔としても大いに頷くところである。
 恐らく当の御本人は、そんなことまで考えちゃいないと思う。
 ドレスアップする材料がないから。ドレスアップして赴くほどの用件でもないから。別に。何でもない。どうでも良い。とりあえず。
 それでも、お相手の少年の恋は恋だ。相手の魚心に向き合うだけの水心がパチュリーの側に無かったとしても、無意識からだって義理は生まれる。たとえ結実しない恋でも一時さえ夢が見られれば、甘いレモンのような香りでもって大人になるまで彼の胸に漂い続けるだろう。
 あのパチュリー様が。
 想い人として、だ。
 いやもう、本当に痛快。おもしろい。
 小悪魔は、ひとり静かに頬を緩ませる。静まり返った図書館に一人きりになっていた。広すぎる図書館の中で、苦笑しながら背伸びする空気は埃と黴の匂いが混じる。
 普段、こんなにも寂しい場所に住んでいるのだ。

 パチュリー様もたまには、レンアイくらいするべきなんだ。


■ ■

 その真相。

 単純な話、力加減が分からなかっただけである。小悪魔の推察は、よって大体正しいが若干不正解と言わざるを得ない。
 もっと重症だったのだ。
 でーとのやり方を書いた本が図書館の中に見つからなかった。おかげでどれくらい着飾ったら良いのか分からなかった。あくせさりーとかした方が良いのかなと思った。客人をもてなすくらいの身なりは必要かもしれないが、必要じゃないかもしれない。第一生憎と、自分にそんな気の利いた拵えはない。後ろ髪が長すぎる気がする。前髪がだらしない。わたしって背ぇ低いなあ。このままの出で立ちで出てっても良いのかしら。
 パチュリー・ノーレッジには間違っても、世間一般のような恋愛に対する気負いは無かった。
 ただ逢うだけで良いなら、まあどうせ暇だし――という、恋の神様が聞いたら卒倒しそうな場当たり的なモチベーションだ。人心を弄ぶにもほどがあり、あまつさえ当人にはその自覚すらもない。
 恋愛よりももっと遥か手前のところでサイコロを振っているのだ。それはとんでもないことで、殊更少年にとってはいたく残酷な行為にパチュリーは第一歩を踏み出そうとしていて、ところで実は小悪魔はそれに気付いていてしかし止めなかった。別に悪意ではない。更に一方、レミリアと歩調を共にして戯れているようだった咲夜もまた、薄々ながら事の酷たらしさに感づいてはいたのである。彼女もまた、最低限のところで人の子だった。にんげんの心を読み取れず、恋が恋とも分からずにふざけた茶々と相槌ばかりで事を捉えていた真の馬鹿者は、結局のところそんなに多くなかった。当主レミリア・スカーレットと、パチュリー本人の二人だけである。
 小悪魔が、咲夜が、そんなパチュリーのお出かけを敢えて止めなかった理由はただ一つ。
 人ならぬ相手の恋は、道ならぬ恋。
 少年の想いは、絶対に実らない。
 ならば、パチュリー本人が出て行って幕を引いてくるのが一番手っ取り早いのだ。そもそも無理だって話なのだから後腐れも無い。後は野となれ山となれ、少年が泣こうが喚こうが所詮は他人事である。別に青タンのガキ風情、放っておいてまさか自分達に悪さをすることもないだろうが、無下に袖にするだけ袖にして寝覚めの悪さを残すよりはまだそっちの方が真っ当だろうと思った。絶てる後顧の憂いは、綺麗さっぱり絶っておくのが良い。
 魔女と人間、決して交われぬ運命にある二人の生き物は、されど決して互いの心を深く抉ったりはしない。十三歳、そんな年代の一目惚れなど早い話がハシカみたいなものだからと小悪魔も咲夜も軽く考えている。パチュリーは況んや、はなっから傷つく理由もない。
 だから彼女を見送った。
 要するに結局、誰ひとりもパチュリーを心配していないのだ。おお少年よ適当に夢やぶれて適当に落ち込んで、三日も経てば風向きは変わっているだろうさと男の方ばかりに気を遣う紅魔館の不届き恋愛術師達だが、反面究極的に言えば、パチュリーの行動をある程度先読みした部分も確かにある。
 どう転んでも、パチュリー様は間違いなんて起こしゃしない。
 唯一の懸案事項も、この無駄に絶大なる信頼によって杞憂で確定した。
 あの魔女が、まさか人間相手にハダカにゃなるまい。
 子供を作るには〜云々で、鼻血吹いて倒れるのは誰かさんだけで良い。
 季節も移ろう。いつもいつまでも、同じ恋ばかりが生き残り続ける訳はなくて、それはきっと大人になった後の少年の方が詳しく実感することだろう。早くフられて、早く立ち直れば良い。それが咲夜と小悪魔、二人ともがそれぞれ独自に出した結論だった。
 月夜である。
 少年がいつか、魔女に見惚れた時と同じ色の光が紅魔館に降りしきっている。その畔、山裾の道を夜色の魔女が歩いている。
 家族達が尾行してくるのではないかと疑心暗鬼のパチュリーだったが、だんだんとそれも薄れている。神経を研ぎ澄ませど、背後に人の気配は感じられなかった。暗く塗り潰された足許に歩みは遅い。顔の前に飛ぶ虫をうるさがっている。
 不安を抱いている。
 恋愛というものがまるで分からない。誰かを愛するというのはどういうことか。おみくじとどの辺が違うんだろう。恋が自分に当てはまる日は来るのか。恋と愛の違いって何だろう。
 ――とりあえず、逢って話をすれば良いのかな?
 と、逢った後で当の少年本人に『わたしゃどうすれば良いですか』なんて問い質そうかとまで考えていたのだが、事ここに至ってそれは憚るつもりでいる。流石にそこまで空気を読み取れない訳ではないパチュリーだったがしかし、どうあれ結末に大きな差を生むことはないのだ。のろのろと沈思黙考の末にいつしか辿り着いてしまった御指定の場所で、佇む小柄な人影を前にしてそれ以上の思考は働いてくれなかった。
 待ち詫びた少年が、笑顔に花を咲かせてパチュリーを見ている。
 ひたすら当惑を表情に浮かべながら、パチュリーは理論と損得勘定だけで、対応を決めてゆこうとしている。
 夢が壊れる音がする。 
 その頃小悪魔はお留守番の図書館でぼんやり、司書まがいの仕事をして暇を潰している。


■ ■

「意外と……やりますね、パチュリー様」

 窓に頬をくっつけながら咲夜が呻いた。窓硝子、吐息のかかった部分が白くなっては消えたりする。
「ねえねえ。どんなことを話してる? 分かる? 咲夜」
「さあ……これからあの辺に盗聴器なんて仕掛けたところで、あっという間に気付かれて潰されますわ」
 身を乗り出すレミリアの好奇心を、淡々と押し潰す咲夜。
 ってだから、執務室をこんなことに使うなというのにっ。
 『こんな時間に執務室で灯りをつけていたらダメね。そんなの盗み見してますって言ってるようなものだわ!』と、まるで電球を発明した瞬間のエジソンみたいな顔で拳を握ったレミリア・ホームズの発案により、手駒のワトソン咲夜が動いた。紅魔館の現在はルミナリエである。トイレから踊り場、屋根裏部屋や物置一つに至るまで、全部屋全廊下に鮮やかな室内灯がぜんぶ灯っている。カモフラージュ、という言葉をレミリアは嬉々としてこの十分の間に三回も使った。
 これなら必ずバレまい、とレミリアは言う。
 これなら必ずバレます、と咲夜は思う。
 夜、あまりにも不自然に全室の灯りが煌々と灯ってしまった馬鹿馬鹿しい紅の屋敷から、二人の野次馬が恋の行方を占っている。
 少年が屋敷の方を指して、何事かを言っているのが見える。きれいな夜景ですね。湖に窓の光が映って、ああとてもきれいだ。本当に大きなお屋敷ですね。そうそうあそこ、あの、あの、あのテラスでぼくは貴方を見つけたんですよ。
 指をさすテラスは、最後まで誰にも分からない。
 パチュリーは相変わらず、ほとんど何も口にしていないようだった。言葉の方もろくに口にしていなければ、食べ物も口にしていない。少年が持ってきたらしきでこぼこ山のお弁当の片半分にもまるで手をつける動きは無く、別段照れている様子もないし、緊張というわけでもなさそうだし、邪険に扱っている様子もなければうっとりなんて間違ってもしやしない。
 頬も染まらなければ、笑顔もない。
 咲夜の知っている、「レンアイ」の光景ではなかった。
 思わず苦笑する。
(ここまで初心者というのは――さすがに、罪ですねえ)
 次第に少年が可哀想に思えてきた咲夜を余所に、レミリアが退屈げに欠伸を漏らす。
「さくやー」
「なんですか」
「パチェはさ……明日から、恋をするの?」
 ……その言い草の時点でこの当主も初心者のほぼ同類項と判断しても差し支えないのだが顔にはよもや出さず、あくまで瀟洒に、代わりに苦笑を横顔に貼り付けて咲夜は返答する。
「なさるかもしれませんよ、レンアイ」
「……なさるのか!」
「なさるかもですねー。明日から、レ・ン・ア・イ」
 窓外、屋敷の正門から南南西に延びる小径を百歩ほど下った場所の木陰で、小さな小さな二つの月影が揺れる。パチュリーの長髪と少年のにきび顔の上に、上空どこまでも続きそうな黒い空が拡がっている。
 十三歳の鼻タレと、恋愛のレの字も知らない魔女。
 どこをどう間違っても間違わない二人。
 月夜星空の下で甘美な恋愛ムードに惚気るまでには恐らく、咲夜の目が黒い間を全部注ぎ込んだって足りないだろう。
「レンアイ……するのか……パチェ……」
「するでしょうねえ」
 密かな優越感のもとに、レミリアをそうやってからかった。ちょっとだけ、人生のセンパイになれたような気がする。
 レミリアは青ざめている。
「じゃ……じゃあ…………パチェは明日から子供産むの!?」
「ぶふっ」
 窓の曇りが、一際大きくなる。心なしか遠く離れたパチュリーが、こちらをジト目で振り向いた気がする。
「あー……」
 安全に見守る恋愛がこんなにも楽しいというのを、咲夜自身、初めて知ったような気がしていた。少年も少女も、悪魔もメイドも傷つかぬまま、何となく吸血鬼だけが微妙に傷ついているような予感はする。
 背徳感少なめ、優越感多め。
 申し分ない火遊びである。

「……明日どころか、今夜から産むかもしれませんねー。子供」
「な……あ、じゃ、じゃあ今夜から……ふ……ふたりで…………あっ……んああ……!!?」

 月がきれいだ。
 風がすずしい。
 昼間だけでは遊び足りなかった蝉が一匹、灯りにつられてすっ飛んできて窓の外側にへばりついた。だいたい同じくらいのタイミングで仰向けに倒れる当主。
 執務台が僅かに揺れ、万年筆のインクの匂いが漂ってくる。

 ゆうべはお楽しみでしたね――
 メイドの自分がそんなことを言えた日には、さて、この首一体どこまで飛んでいくだろう。
 

■ ■

 這々の体で屋敷にやっとこ帰り着く頃になって、あろうことか雨まで降り出した。
 土の匂いがあっという間に巻き立った湖畔を早足で抜けて、いつもより重く感じた図書館の扉へ体重を預けて、押し開けて、逃げるように本の香りの中へ身体を滑り込ませたところでものすごくほっとした。
 そして、どっと疲れが押し寄せた。
 恐怖があったわけではない。
 緊張も別にしなかった。
 だが、確実に何か目に見えない力から解放された安堵感を感じた。ひたすらに浮ついた、恐らくは咲夜あたりに言えば笑い草に使われそうな落ち着かない胸の高鳴りも、この図書館に入りさえすればやがて平常に戻ってゆける自信がある。今はまだ胸が高鳴っているけども、もう少しの辛抱だ。
 小悪魔が、慇懃なお辞儀で迎えてきた。
「おかえりなさいませ」
「……貴方、咲夜達にしゃべったわね? じろじろやってたわよ、あの子達」
 てめえこんにゃろう、とすごんでみるが、小悪魔はただ柔和に笑うだけだった。
「言わずとも、どうせ見つかってましたよ。あんなところで逢っておられるんじゃ」
「――――だって。だって、相手が、だってあそこで逢おうって書いてきたから」
 抗弁してみたものの、小悪魔はむしろ今度は吹き出すくらいに笑って、
「……本当に、もう!」
 心底おかしそうに、肩を揺らしているだけでした。意味が分かりませんでした。ばんばんと肩を叩かれました。本当に意味が分かりません。
 首をくるくる回して、肩を鳴らしながら、パチュリーは指定席の読書机に腰を下ろした。
 もう一つ嘆息、整息、つぶやく。
 お茶。
 はい。
 別にメイドと言うわけでもないが、命じられた小悪魔は素直に図書館の片隅へ歩いていった。
 咲夜が気を利かせてくれたらしきレモンティーのセットが壁際で待ち構えているのには最初から気付いていた。時間の落とし穴みたいな静寂が生まれる。いつまで経っても変わらない小悪魔の不器用な手つきが、やがてそれを怖々と机に運んできてくれる。
 それまで、パチュリーは何も考えずぼーっとしていた。
 そして、運ばれてきてもパチュリーはなんとなく、そんな小悪魔をぼーっと眺めていた。
 ポケットから例の髪飾りを取り出す。
「……貴方は気付いてた? シールド・スペル」
 背もたれに深く身を預けて髪留めを眼前に翳し、乗っかった黄色い石越しに小悪魔の顔を見遣る。
「ええ。一応これでも、悪魔属の端くれですから」
 よそ見せず紅茶に集中する、小悪魔から返ってきた答えは肯定だった。やっぱり、と思った。
 ゴールデンドロップを入れようとすらしなかったカップとソーサーを、パチュリーの前に置くのにも盛大な音が立つ。咲夜の有能さが骨の髄までわかる。黄金褐色の水面が必要以上にさんざめき、書架に棲まう厖大な背表紙を細やかに揺らめかせた。
 パチュリーはカップを手元に引き寄せながら、
「『ダクティ・エモンスト・ノイア』……“想いよ届け”ですって? 馬鹿馬鹿しい」
「でもその馬鹿馬鹿しい言葉に応えて、パチュリー様は赴かれたんですよねー」
 くすくす。
「ちがうわよー。相手が魔法でも使える奴なのかって、ちょっと興味が湧いただけよ」
 くすくす。
「何よ」
「いえ」
 くすくすくす。
 ひとしきり鳩のように小悪魔は笑い、そして、
「で、首尾は?」
 と、短く問うた。
 その横で自分の分のカップを、パチュリーに対するよりもずっと乱雑に置いたので余計盛大な音がした。
「人里で手に入れた品物だそうよ。別にあの子が自分で刻んだんじゃなくて――ってまあ当たり前なんだけど。大方、零落した魔女の持ち物が人間の市に流れたくらいのことね。随分前の話だけど一時期流行してたのよ、こんなんが」
 悠々と嘯いて、パチュリーは髪飾りを机に投げ出した。
 やっとこさティーセットを成敗し終えた小悪魔の指が、野暮ったいデザインのそれをつまみ上げる。
「古・キャルキア系のコードですね」
「ええ。トパーズは木性に属する魔力の帯鞘やら発信子になる宝石だから、エスペラント系よりはキャルキアの方が向いてるわ。……まあ、こんな馬鹿なものにキャリーを使う奴は大抵ミーハーなだけ。あとエスペルは、うっかりすると魔理沙みたいに片言でも読めちゃう人間がまだ時々いるけど、キャリーならもう純血の人間にはほぼ間違いなく気付かれることは無――って、何よ」
 パチュリーの言葉は、それ以上続かなかった。
 不意に背中を這った温かな感触に、途切れた言葉が行き先を失った。落とした視線はティーカップの水面に身を投げる。そこに、柔らかい笑顔の犯人がゆらゆらと映っている。
 ふ、と、パチュリーの背中越しに腕を回してきた小悪魔の温かさが、衣服の薄布越しに伝わる。肌の柔らかさ、息遣い、鼓動、と順番にパチュリーの意識が小悪魔の情報を捕捉してゆく。
 すべてが心音の高鳴りに変わる。
 カップの水面の中に、わたしとあなたのふたつの顔がくっついて、並んで揺れている。
 思わず間抜けな声が漏れた。
 後ろから抱きしめられたその格好をつい俯瞰構図で想像してしまい、見ている人なんて誰も居ないというのになぜか恥ずかしいという気持ちが先立った。
「……人間には気付かれないコードだったからって、それが何なんですか?」
 頬にかかる吐息が、へんに温かくてくすぐったい。
「何が」
「ちがうでしょ?」
「だから、何がよ」
 うふ、と吐息のかたまりがまたパチュリーの頬をくすぐる。
「すみません。私が聞きたいことは、コードのプロパティじゃないんですよ」
 囁くような声で、耳元の小悪魔が呟いた。
 心底から素直な声。
 飾らない声。
 気取らない声。
 だからこそ、不思議なくらいに蠱惑的な響きがあった。性欲を伴わない淫らさのような、つまりはまるで思春期の、矛盾まで感じる清らかな好奇心が背中から伝わってきて掌が粟立つ。小悪魔を小悪魔と称すなら、なるほどこれが「小悪魔的」という属性――プロパティ、なのだろう。
 パチュリーは思わず身を固くして、
「ねぇ。楽しかったですか? 初デート」
「デっ……!?」
 カウンターパンチをお見舞いされた。
 ストレートな単語に、一瞬とはいえ隠しようもなく狼狽し、
 ――ふと、覚えのある気持ちを取り戻すのだった。
 今しがた味わってきたばっかりでまだほやほやの、後味のへんな胸の高鳴り。
 月光に濡れながら会話した、それはそれは長い時間だった。実際は僅かなはずなのに永遠ほども長く感じた時間だった。ドーナツの中のトンネルに入ったみたいに、登れど回れど出口を感じられない不思議な時間。
 居心地の悪さの中に同居した、未踏破の感情。
 あのとき言葉に置き換わってくれなかった気持ちの居場所は、一体どこにあっただろう。咲夜達が言う、レンアイとかという甘美な感情ではきっとないのだけれど、実はもっと、ひょっとしたら普遍的な感情。
 誰かと同じ空気を吸っているという事実を、こんなにも意識したことなんて今まで一度も無かった。

「ねぇ。パチュリー様。彼と逢っている間、どんな気分でした?」
「……アンタに言う義理は無い」

 破れかけの強がりで、辛うじてそれだけ絞り出した後はもう、気持ちが言葉になってくれなかった。
 普通にしてれば良いのだと思ってたけど、普通にはしてられなかった時間は三十分? 二時間? よく分からない。
 その中で、もし自分に正直であれるなら。
 自分の中でもし、あの時間を強いて正直に言葉に置き換えるなら――少しだけほんの少しだけ、自分が、まっすぐになれた気がする時間だ。
 図書館の中では狭すぎて、曲がるしかなかった自分の心が広い世界で久々にまっすぐになった。図書館の中では考えられない世界が拡がっていて、久々に夜空がめちゃくちゃ広く見えて、数少ない星もすごく綺麗で、少年はひとまずさておき風の冷たさまで何だかこの世界のものじゃない、どこか違う星から吹いてきた新品の風みたいで、おかげでとっても心がまっすぐになった。
 とろけそうな記憶が脳蓋にこびりついてくる。
 浮ついた気持ちが後遺症を残している。
 どういうわけかえらく嬉しそうな顔をした、少年の笑顔の意味がひとつだけ分からない。
 記憶を手繰る。
 あの瞬間だ。とりあえず感想を伝えた直後のことだ。たったあれだけの事でどうして彼は、あんな嬉しげな顔に変わったのか。誰かに聞いてみたい。
 理由がどう考えても思い付かない。
 不等価交換だ。
 どうして君はそんなに嬉しそうなの。さして益体もないことを言っただけじゃない。
 君が色んな事を言うから、こっちも少しだけ喋った。月が綺麗だと言うから頷いて、夜景が輝いていると言うから頷いて、今日は星がちょっと少なくて寂しいねと言われて、寒くないですかと聞かれてううん、って答えて、お弁当食べませんかと尋ねられたからそれでふっと思い出したんだ。

 パチュリーは思う。
 まっすぐすぎるのは自分にとって、たぶん普通の気持ちじゃなかった。
 無菌室の図書館で日々生きながら、それが不健康だなんて思いかけてしまったけどそんな必要はない。
 パチュリーは思う。
 不健康なんかじゃない、と思っている。

 ――もう、外の世界なんてこりごりだ。広すぎる。
 ――図書館の方が、絶対良いもん。

「……可愛いですね、パチュリー様は」
「ひゃうっ」

 薄紅色の桜のように可憐な小悪魔の声が一段と近づいて、突然はむ、と耳を甘噛みされた。 
 パチュリーは、また少し情けない声をあげてしまった。
 夜は更けてゆく。
 黴臭い闇が胸の中で反撃を開始した、その相手は虹色の感情。



 ――あのお菓子、割と美味しかったよ。



 それだけ言っただけなのに、どうして君は?













■ Epilogue. ■ 


「……コード?」
「ええ、平たく言えば呪文のハリボテみたいなものです。辞書の紙と同じような禁呪処理が施されてて、ストーンや呪具のレプリカなんかにアクセサリー感覚で直接刻印するもので」
「それが、あの髪飾りの宝石に?」
「はい。そういう代物だったそうですよ。あの図書館のペットに聞きました」

 紅魔館に、また気怠い日常が復活している。
 ルーチンの昼下がりに咲夜はいつも通り忙しい。レミリアの気まぐれは、別にパチュリーのスキャンダルが有っても無くても普遍的に存在しているイベントである。運命的な本読み少女の逢瀬、その翌々日には「ねぇ咲夜、でっかいカブトムシの観察がしたいわ」と切り出だされた。これに伴う人事権の濫用、及びレミリアの御前でやらかした失言の責任を取らされる形で美鈴は三日間門番詰め所から放逐され、代わりに虫カゴと樹液とクヌギ林とランニングシャツを誰よりの友達にして七十二時間の昼夜を貫徹浪費、戦果はコガネムシ実に三十七匹。ぶん殴られていた。更にその四日後には突如「ナタデココって食べ物があるらしいんだけど食べてみたいわ咲夜!」と喚きだして、世界中の食材と微に入り細を穿つレシピが揃っているはずだった紅魔館厨房を正体不明の試供品が飛び交う戦場に変え、咲夜をもってしても材料が一体何なのかとうとう分からぬまま五日後にギブ・アップの平謝りをした。その頃レミリア自身は並行して「中世ヨーロッパにおける平均的な女性のバストサイズ」について知りたいと図書館に日参しており、パチュリーにとても嫌がられていた。日めくり暦は七曜を投げ売りにし、好奇心の罪過が貴重な時間を湯水に変えた。
 誰があの恋文騒動のことを覚えていようか。
 咲夜にはそんなことも、最初から分かっていたことだった。
「なんでも、魔法使いの間で使うラブレターみたいなものだったらしいですよ」
「どうりで、パチュリー様があっさり出て行ったなあと思ったのよねえ、あのとき……はぁ、つまんない」
 だらしない生あくびを隠しもしないメイド長。持て余す眠気で、目尻に涙まで浮かべるメイド長。
「いやいや咲夜さん上々ですよ。ラブレターにパチュリー様が出て行った――このことに間違いはないじゃないですか!」
「違う違う。どうせ『人間でこんなマジックアイテム使ってくるやつは見所があるんじゃないかー』みたいな、もっと詮無い理由よどうせ。……パチュリー様も、あれで結構気まぐれなのよね」
 涙に潤んだ青い青い空を咲夜は見上げる。夜になれば昇る月も、昨日見たら、いつの間にか紅い色に戻っていた。
 昼間の風はもうだいぶ涼しさを増した。ミンミンゼミがツクツクボウシにメインヴォーカルの座を禅譲し、間もなくそれも絶え絶えになって九月に入り、黄葉づ銀杏の麗しく、天高き秋は間もなく本番を迎えてゆく頃。過ごしやすい気候の季節はきっとまたあっという間に誰かに奪われていって、やがてお買い物さえも億劫な白銀の季節がやって来るのだ。
 そういえば、この空の向こうにある宇宙へ行きたいなんて騒いだのは何年前だったか。
 あれも結局は、あの二人の好奇心が為した出来事だったような気がする。
「――ねえ美鈴、」
「?」
「微妙に生産性が無いわよねえ、私達」
 その言い草に、美鈴が思いっきり吹き出す。
「ちょっと、今更どうしたんですか咲夜さん」
「いや――美鈴なんかはまだ変な客が来たりして、色々気分転換にもなるでしょうけど」
「咲夜さんだって色々あったじゃないですか。監視カメラの設置からパチュリー様の説得に、お館様の介抱まで」
「バカ」
 くそ真面目な顔をする美鈴のおでこにデコピンを一発。
「……それが、生産性が無いって言ってるの」 
 きゅん、とおでこを押さえて涙目になる美鈴をきつく睨む。
 その向こう側に、夏が置き忘れた陽炎の行方を眺めた。
 思わず、小さく苦笑い。
(――ま、なるようにはなった、ってことか)
 秋の日に薄らいだ逃げ水の向こう側、少年の姿はもうどこにも無い。
 門番日誌の誌上、美鈴がクヌギ林で昆虫相手のマタギに身を窶していた時期を含め、事件以降あの少年が屋敷周辺に出没した記録は無いという。咲夜も咲夜で野次馬根性の燃えカスを使い、手下のメイドにしばらくパチュリーを観察させてみたが目立った報告は上がって来なかった。
 あれから二週間近くが経過する。
 つまり、なるようになった、のだ。
 二度と戻らぬ今この年この夏と同じように、あの逃げ水のように、不意に空気の中へと消えた現実。
「あ。咲夜さんほら赤とんぼが飛んでますよ! ほらあの、あの、あの葉っぱの上!」
 はしゃいだ美鈴が指さした先は、心なしか、あのときの少年と似たような方角だった。
 いやぁ秋ですねぇー、と美鈴の評論家口調。
「美鈴」
 対して鉛のように重い頭と、へどろのような声。
「帰るわ」
 ――あの夜パチュリーが伝えた事はつまり、少年をひとつ大人にしたということで間違いないのだろう。
 踵を返して、屋敷に戻る足も軽くて重い。煮え切らぬ結末だが、収まるべき鞘に収まったとも言える。
 自分達は逃げ水を相手にしていたのだと思う。そこに水たまりなんて有りはしないのに、有りもしないと分かっているのにそれを見て、夏のハイテンションのまま事態を楽しんだ。
 その材料にしたのは恋である。恋なのだが、それははなっから定義矛盾を起こしている恋だった。種族を越えた、結ばれぬ恋と言えば何となく雅やかだが、断じてそんなロマンチックなものではない。少女の方が、そもそも乗り気でないから至極当然である。
 それこそ、雲になってしまった夏の逃げ水を捕まえに行くようなものだ。 日々の楽しさなんて、実体の無い恋を肴にしてだって生み出せるのだ。
 流れ落ちてゆく滝のように過ぎ去ってゆく一日一日の中で、圧倒的なまでのこの間抜け感の正体は何か……これを咲夜は自問する。変わり映えしない日常というのは何か。十六夜咲夜という人間から見て、少年が少しだけ羨ましいのは何故か。
 漸進的にでも良い、薄紙を積み重ねるような少しずつの変化でも自分自身にもたらされる結果がほしい。変わり映えだけで良いなら変わり映えしまくっている日々だ。その中でなお退屈さを感じるのは恐らく、誰かが味わっている愉悦や喜怒哀楽からの自分へのキックバックが無いせいだ。
 移ろいゆく日々の片隅で起こったへんてこりんな出来事も一夏を彩り、つまるところは当主のワガママと性悪さと気まぐれを一回り増長させるだけさせておいて、あとついでに少年を微妙に傷つけて幕を引いていった。また同じ日々が戻ってくる。変わり映えしすぎる日常の中に、変わり映えしないラップを刻むメイド長が今日も、孤軍奮闘の紅い戦場に戻るしかないのである。
 さいならー、と手を振る美鈴がなんだかとんぼのようだった。
 とんぼは、どこに飛んでゆくのだろう。
 聞こえないようにそっと呟いた。
 

 あーあ。
 わたしも、恋してえなぁ。








 この咲夜さんは良い具合に萎びた主婦になれる!

 ……さておき、私の中ではめちゃくちゃ気に入ってる作品です。こんぺ作品はかなり力を入れるためいつもお気に入りの作品にはなるのですが、その中でも自分では好きな作品。
 全こんぺ作品の中で一番遊び心があって、作者としてはこういうのが自分で面白くなってしまうものです。
 長い作品ですが、その長さを楽しめるような作品になっていれば幸い。

 お題は「水」でした。うーん。
 結果発表は紅楼夢打ち上げを行っていた京都市内のカラオケボックスで迎えました。他人の携帯で結果だけ見せてもらってました。
(初出:2008年8月14日 第6回東方SSこんぺ 全64作品中8位)