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【反魂】



 橙が死にました。
 ぽっくり死んじゃいました。






 残された藍の悲しみは、それはそれは筆舌に尽くしがたき物でありました。
橙は彼女に大層懐き、彼女自身もまた橙をとても可愛がっていたのです。それはまるで、母親と子供のようでありました。
彼女達のそんな仲睦まじきは誰もが知っていることでしたから、ただひたすらに滂沱の涙に暮れる彼女を慰めることなど、
誰一人だって出来はしません。
 楽しかった思い出、面白かった思い出が走馬燈のように藍の頭を巡り、彼女は大いに悲しみました。
様々な記憶に思いを巡らせながら、そのまま三日三晩、彼女は枕を涙で濡らし続けました。

 そして明けた四日目の朝、藍は一つの決心をします。
彼女は夜明けと共に、手に入る限りで里中からありとあらゆる様々な材料を掻き集めてきました。
橙を生き返らせるための「術」を、藍は作ろうとしたのです。
藍はそもそも式神であり、それでいて自身も式神を従える身でもありましたから、他者の肉体を操るのは元来造作もないこと。
それを応用することで、彼女は誰よりも愛していた可愛い自分の式神を、この世に呼び戻せるんじゃないかと思い立ったのです。

 それでもなにぶん死者を呼び寄せるのですから、作業は当然に困難を極めました。
それでも彼女はその明晰な頭脳、また驚異的な発想力をもって、少しずつその術を作り上げていきます。
 知能もさることながら、途方もなく難しいその作業を支えたのはやはり何よりも、
大好きな橙にもう一度逢いたいという一念だったのでしょう。
不可能への挑戦と覚悟しながらも、彼女は淡々と、しかし着実に呪術式を組み立てていきました。

 やがてひと月ふた月が経ち、三月が流れすぎた頃になって、藍はとうとう悲願を達することとなります。
ついに、呪術式が組み上がったのです。
 藍は息つく事もなく、色鮮やかに縁を飾り立てた一枚の護符に呪文を書き、それを懐に偲ばせると、
胸の前で両の手の指をきゅっと結び、強く心に念じました。

 やがて藍の身体は光に包まれ、その場から霧のように消えてしまいました。





 次に藍の足が地面に着いた時には、そこはもう冥界でした。
彼女は自らの身体を一時的に冥界に送ることで、死と生の境界を一時的に飛び越えたのです。
 初めて目にする死者の世界に心を奪われつつも、藍は歩き回って、目的の相手を探し続けます。
そしてほどなく彼女は、寂しそうに背中を丸めていた黒猫の少女を、寂しい野の中に見つけました。

「こんにちはっ」
「え……ら……藍様……!?」
「橙、久しぶりだね」
「……らんさま〜〜〜!!!」

 予期せぬ再会に、橙は顔をくしゃくしゃにして藍に飛びつきました。
藍もまた、涙ぐんで彼女を抱きしめます。
生きている時には考えられないほど長い、三ヶ月もの離ればなれに終わりを告げる、嬉しい嬉しい再会。
気持ちの昂ぶりが落ち着くまで、二人はただ抱き合って涙を流し続けました。

 落ち着くと二人はその後、別れた後の互いの出来事を、我先にと喋り合いました。
悲しみに包まれていた三か月間の話も、まるで楽しかった思い出話のように、
二人の溢れんばかりの笑顔で紡がれていきます。
異なる世界の「土産話」に花を咲かせながら、二人はしばし、温かい時間を過ごしました。

 そして数刻が過ぎた後。
「橙、残念だけど今日はこれでお別れだ。私はまだ生きている身。世界に帰らなければいけない」
 後ろ髪を引かれる思いを堪えながら、藍は橙に、静かにそう言いました。

 彼女が生んだ呪術式は確かに冥界と顕界を自由に行き来するものでしたが、
藍自身が生きている以上、彼女が冥界に長く留まる訳にはいきません。
ただでさえ世界の掟の禁を破っている上、万が一死神などに見つかりでもすれば、
死者と扱われてこの世界に閉じこめられ、顕界に戻れなくなってしまうかもしれないのです。

「藍さま、帰っちゃうの……? 嫌だ、もうちょっとだけここにいて」
「ごめんね、時間があるんだ」
「そんな……待って、お願い、行かないで!」
「大丈夫、心配しなくて良いよ橙。同じ術を使えば、いつでも来られるんだから」
「ほ、ほんと?」
「ホント」
「じゃあ……ずっと待ってるね。きっとだよ、またすぐ来てね! お願いね!」
「分かってるよ。大丈夫、私は嘘は吐かない」

 少しだけ駄々をこねた橙を、藍は静かに慰めました。
その台詞は、橙以上に時間の過ぎゆく速さを惜しむ、自分自身を慰めるものでもありました。

 藍は再び指を結んで、小さく呪文を口にしました。
次に目を開けた時、藍は再び、八雲亭の庭に戻っていたのです。





 以降、橙と藍の不思議な交流が始まりました。
藍が術を使って冥界を訪れ、橙がそれを迎える。
客人とそれを迎える家の主人のように、二人は冥界で時々会っては、短い時間の会話を楽しんでいました。
 生者が冥界を頻繁に訪れていることについて、やはり藍自身も背徳感を感じずにはいられませんでしたが、
橙の顔を思い浮かべるたびに、どうしても堪えきれず術につい手を出してしまうのです。

 紫は藍に、何も言ってはきません。
怒られることを恐れ、藍はこの行動のことを紫にひた隠しにしてきているからです。
もっとも紫のことですから、とぼけたふりして実は全てお見通しかもしれないな、と
藍も覚悟はしていましたが、取りあえず少なくとも、藍の行動を止めることは彼女はしませんでした。



 そんな日が続いた、何度目かの来訪の時のこと。
 藍は、いささか困った事態に遭遇することになります。

「紫さまに会いたい」

 橙が、そう言ってきたのです。





 多少予想していたことでもあるとはいえ、藍は悩みました。
というのも、それがあながち単なる夢物語に留まらないからなのです。
 実は、藍が顕界から冥界への道を作って橙の元へやってくる、という術を使っている以上、
今の藍と橙の関係を逆にする―― つまり橙の方を顕界に招くという術も、
ちょっと応用を利かせさえすれば可能になってしまうのです。
頭の回転が速い藍の中には既に、橙を顕界へ一時的に帰らせる術式が、早くも朧気に形を成していました。

 とはいえ、いくら愛しい橙とはいえ、簡単に死者を生の世界へ返す訳にはいきません。
そんなことがバレれば、夜摩天やらお釈迦様やら、色々な神々しき者達の怒りを買うことになりかねません。
 死者には死者の住まうべき世界があり、基本的にはそこから戻れないのが、揺らぐことなき世界の定め。
生者と死者の存在する世界は違う―― それが、厳しい幽明境の掟なのです。

 藍は、真剣に悩みました。
 世界の掟は固い。自分自身が冥界を訪れるだけならまだしも、
たった一人だけとはいえ死者をこの世に連れ戻すのはいかがなものなのか……一時はそう考えもしました。
 しかしその反面、橙が紫との再会を願う気持ちが、胸に痛いほど突き刺さったのです。
橙が自分と同じくらい紫を慕っていたことを、藍は当然に知っています。
そして、自分がそれを可能にするすべを持っているということが、さらに頭を痛めました。



 結局、別れの涙の時と同じく三日三晩悩んだ末、やむを得ず藍は、橙を顕界に招く決心をしました。
ただし、決行に至っては払うべき大きな注意点があることを、藍は忘れませんでした。
 もし顕界に戻れる手段があるなどと死者の間に噂が広まりでもすれば、
死者はまず正気では居られなくなるでしょう。冥界の秩序がどうなるか、想像に難くありません。
万が一そんなことになれば、自分の身にもこの世界にも、何かしら取り返しの付かないことが
起こるかもしれない……と、藍はそう考えたのです。

 決行の日、いつも以上に緊張して訪れた冥界の野原で、藍はそっと、橙を身の傍に引き寄せます。
霊気漂う中、藍は橙以外の誰にも悟られないように細心の注意を払いつつ、
彼女の衣服にそっと、術を込めた護符を忍ばせました。
そして橙の肩を抱くと、自分が冥界に来た時と同じように、指を結んで呪文を唱えたのです。
誰にも悟られぬよう素早く、一息で。








* * *


「ゆ・か・り・さ・ま!」
「橙……」

 その瞬間、紫の眠たげな眼がお月様のようにまん丸く見開かれました。

 多少心配があったとはいえ、術は無事成功。結果こうして久方ぶりに、橙は八雲亭の床を
踏むことが出来たのです。
 暫し庭の景色や家の様子を懐かしんだ後、橙は早速、紫の部屋を訪ねました。
神の情けかそれともただの偶然か、寝ている事の方が断然多い紫が、
橙が部屋に入った時はなんと珍しく起きていたのです。

 久しぶりに目にする橙を、紫は舐めるようにためつすがめつ爪先から頭まで眺め、
そしてもう一度視線を落としました。橙に足があることを確認したようでした。
しかし目の前にいるのは正真正銘冥界から物理的に連れ帰った橙ですから、当然幽霊でも何でもありません。
紫の驚いた表情を見て、橙と藍は互いに得意気に胸を張りました。

 ところがひとしきり眺め終わると、紫はまた眠たげな目に戻り、

「お帰り、橙。まあゆっくりしていきなさい」

 それだけ言って、あっさりと障子を閉めてしまったのです。

 一瞬呆気にとられた二人でしたが、それはある意味でこの上ない、実に主人らしい振る舞いでありました。
閉まってしまった障子の前で二人は同じ思いを抱き、声を殺しながら、クスクスと笑いあったのです。





 その後、幾度と無く橙は八雲亭を訪れるようになりました。
あくまで死者である故そうそう頻繁ではないにしろ、橙のせがみに藍が堪えられなくなるたび、
藍の術によって橙は「里帰り」をするようになったのです。

 しかし。
そんなことが、何度と無く続いたある日のこと。
とうとう、恐れていたことが起こってしまったのです。





「なあ狐のお嬢さん。アンタのこと聞いたぜ?
 すんげえ術を使えるんだってなあ。
 そんで相談なんだけどさ……なあ、俺も元の世界に連れて行ってくんないかなあ?」






 いつものように術を使って冥界の橙の元を訪れた藍に、通りすがりの死霊が話しかけてきたのです。

 どこでどうやって藍の術のことを知ったのか、それは藍にも分かりません。
ただ、橙を里帰りさせた頃から、藍自身実は密かに、少しずつ不安を覚え始めていたのです。
 既に死んだ橙が頻繁に顕界を闊歩するのは、やはりおかしいと藍は思い直しはじめていました。
橙や自分自身の身に直接何かが起こるということは無いにしても、世界の定めから考えれば、
死者が生の世界を訪れるなど到底許されないということは明白なのですから。

 それでも、毎度毎度自分や紫との再会を楽しみにしている橙の事を考えてしまうと、
藍はどうにもその頼みを断り切れなかったのです。
橙を再び独りぼっちの冥界に閉じこめることなど、別れの時三日三晩泣いた藍にはとても
出来るはずがありませんでした。
 橙の期待感に満ちた嬉しそうな表情を目にすると、藍はいつでもそれに負け、
もやもやとした気持ちを抱きながらも、なるがままに橙を顕界へ連れて行ってやっていたのです。

 その結果、今目の前に藍の術を知ってしまった死者がいます。
あれだけ回数を重ねていたのですから、最早誤魔化し通せるものではありません。
少しの間しらばっくれはしてみたものの、結局藍は、自白せざるを得ませんでした。

「へっへっへ、思った通りだぜえ。
 さあさあ御狐様よう、なあにせいぜい一日で良いんだ。
 俺をさ、元の世界に帰しておくんなよう」
「いや……だけどあれは、橙のためだけの術で……」
「あれぇ〜、そんなこと言っちゃって良いのかなあ〜。
 アンタのこと、閻魔様にバラしちゃうよお? それでも良いのかな〜?」
「ま、待て、それは……」
「へへっ、話ゃ決まりだなあ」

 弱いところを突かれ、さすがの藍も観念するしかありません。
やむを得ず藍は、懐に持っていた護符を一枚、死者の男に手渡しました。

「これを適当な岩にでも貼り付けて、そこに出来る道を通れ」
「どうもどうも、毎度あり〜」
「待て! このことは断じて口外御法度。必ずや、他の誰一人の耳にも入れるんじゃないぞ!」
「へっへっへ、分かってますよ〜、へへへ」

 死者はニヤつきながらそう言って、どこかへと走り去っていってしまいました。
それを見送り、大きなため息を吐いたところでようやく、藍は目の前に橙が居たことに気が付きます。

「藍様、どうしたの?」
「わっ……あ、い、いや、なんでもない」
「嘘! 顔、蒼いよ?」
「ん、ああ、ちょっと疲れてるのかな。きっとそうだろうな。
 あ、ああそうだ、橙。あのさ、聞いてったら可笑しいんだよ、実は一昨日紫様がさあ……」



 藍はどうにか、橙を誤魔化すことが出来ました。
まだ心に引っかかる物はありましたが、まあ軽そうな男一人くらいなら、
世界に大きな混乱を与えることはあるまい――
希望半分でそう思いながら、嫌らしい男のことを、半ば無理矢理記憶の彼方へと追いやったのです。







* * *


 「なあ、俺にもあの護符おくれよ」
 「一枚で良いんだ。是非是非、俺にもひとつ」
 「ちょっと待って、私にもお願い出来るかしら」
 「待て待て、なら俺にもくれないと不公平だぜ」


 甘い考えでした。
 事態は程なくして、最悪の方向へと進んでしまったのです。

 藍の術の噂は、瞬く間に死者の間に広がっていました。
原因は探るまでもありません。あの死者の男が、そこいら中で吹聴し回ったに
違いありませんでした。

 男に護符を渡してから数日後。
橙とおしゃべりを楽しんでいた藍のところへ、突如大量の死者が押しかけてきたのです。
 その様子と口々に叫ぶ言葉の内容から、藍は程なく最悪の事態を察しました。
会話の途中だった橙に、さようならも告げぬままいち早く立ち上がると、
餅を撒く庄屋に群がる農民のように我先にと殺到する集団から何とか走り逃れ、
全力であちこち逃げ回った挙げ句這々の体で八雲亭に逃げ帰ってきたのです。
 走り回ったことと、とんでもないことになってしまったという恐怖で、
藍の呼吸は喉が破れんばかりに荒っぽく乱れていました。


 以降数日、藍は自室に篭もり、必死になって考えに頭を巡らしていました。
なにしろ彼女の不安が、最悪の形で現実となってしまったのです。
やはり橙を顕界に連れ戻したりすべきではなかった―― せめてあれ一度っきりにしておくべきだった――
いやむしろ、元々自分がこんな術を使って死者に逢いに行ったのがそもそもの間違いだったかもしれない――
様々な思いが浮かんでは消え、藍はほとほと困り果てていました。

 ついには、紫にすべてを打ち明けて相談もしてみました。
しかし紫は話を聞くだけ聞くと、私眠いからと一言残して、ぐっすりと寝込んでしまったのです。
 それは果たして本当に眠かったのか、それとも問答無用の紛れも無き自業自得であると背を向けたのか……
恐らく後者なのだろうと藍は思い、ますますもって打ち拉がれるのでした。

 こうしてまたも三日三晩、藍は悩みに頭を痛め続けました。
そして悩み抜いた挙げ句、ひとまず冥界に呪文の紙が無い以上は事件は起こらないだろうと思い成し、
しばらく橙に逢いに行くことを自粛することで、ひとまずの安寧を得ることにしたのです。
橙が冥界で酷い目にあってやしないかと心配ではあったにせよ、彼女も曲がりなりに妖怪である以上
人間よりは強い力を操れるので、きっと大丈夫だろうと思うことにしました。
いざとなれば黒猫の姿に身を窶して人の目を誤魔化すことが出来ることも、藍を安心させていました。


「何とかなってくれ……ると良いけどな……」


 床に寝転がったままぼんやりと、天井に向かって言葉を零します。
その独り言を呟いて藍は、ようやく何とか胸が落ち着いた気がしました。
引き起こしてしまった騒動は大きいけれど、そのうち彼の世でも静まってくれるだろうと思いました。

 そして、最近おろそかにしていた家の掃除でもしようかと、よっこいしょと身を起こして
その場に立ち上がった瞬間。
目の前の障子が、そっと開けられたのです。
藍が振り向いたそこに立っていたのは、思いも寄らない者でした。







「もう、藍さまったら。最近ちっとも来てくれないんだから〜」
「ち……ち、ち、橙!!?」




 有り得ない来客でした。
幻覚でも蜃気楼でもなく。それはまさしく、一番あってはならない来客。
せっかく落ち着いた藍の頭が、また混乱の渦を巻き始めます。

「えへへ、久しぶりだあ、らんさまのしっぽ〜」
「ど、ど、どうやってここに!?」
「あのね、向こうの世界に大きな扉が開いたの。
 それをくぐってきたら、元の世界に戻って来れちゃったの〜」
「な〜〜〜!!???」

 まとわりつく橙を振り切って慌てて庭に駆け出し、すぐさま上空へと飛び上がった藍。
急上昇した空の上から世界を見下ろしたその目に飛びこんできたのは、まさに信じられない光景でした。


 夥しい数の死者達が、里を闊歩していたのです。
或いは嬉しそうに、或いは戸惑うように、ぞろぞろと歩いていきます。
もし百鬼夜行と名付ける機会があるならば、その光景はまさしくそれでありました。

 自分の顔が蒼くなっていく音が、耳に聞こえるような気がしていました。
ふらついて墜落しそうになる自分を懸命に励ましながら、藍は蟻の行列のような
死者の群れの源流を、血走った眼で必死で辿って行きます。

 そしてそれは、ほんの数分ほどで見つかりました。
ある山の麓に、洞穴のような大きな穴が開いていたのです。

 一目散に藍は、そこに降り立ちます。
それは紛れもなく、藍のあの術によって作られる、顕界と冥界を繋ぐ道そのものでした。
 しかし、結局藍自身、どうしたらいいのか分かりません。
何しろ自分が打った術ではない上、事前に考え得る大きさを遙かに超える道を作ってしまっているのです。
原因も判りません。犯人も判りません。今後何が起こるのか、判るはずがない上に考えたくもありません。

 数多の死者が通り抜けてゆく様を、藍はただ為す術もなく、呆然と見送っていました。
頭は最早、何も考えることが出来ませんでした。



 自分の衣服の懐に仕舞っておいた護符が何枚も無くなっていることに藍が気付いたのは、その晩のこと。
 その直後、藍の視界は瞬間的に暗転していました。それから三日三晩のことを、藍は覚えていません。

 冥界で死者に追われた時落としたのか、はたまた手癖の悪い死霊にやられたのか、それは知る由もありません。
しかし、あの際どく強力な術がたっぷり込められた護符が、もし何枚も重ねて使われたとすれば……
術の暴走が引き起こす結果は、仮に藍の頭脳で予め考えたとしても、とても及びも付かなかったでしょう。
 意識を取り戻してから数日、藍は必死であらゆる手を尽くしたものの、穴は塞がる気配すら見せません。
その間にも、冥界の死者は止め処なく、次々に顕界へと流れ出して行きました。







 こうなった以上予想出来たこととはいえ、程なく世界は大混乱に見舞われました。
何しろ死んだ者が突然玄関から帰ってきたのですから、あの家この家その家で、驚き桃の木山椒の木。
 仲の良かった夫が帰ってきて泣き崩れる妻、夭折した子が戻って歓喜に震える父母、
親孝行してやれなかった親が再び現われ喜ぶ息子、二人揃って顕界に還り喜びを分かち合う親子や夫婦等々。
誰も予想だにしなかった事態に、世界は主に歓喜と歓迎の声を中心に、凄まじい喧噪に包まれていきました。

 藍はといえば、その後しばらく布団に臥せっ返り、すっかり八雲亭に居着いてしまった橙の看病を受ける毎日。
紫は以前と何ら変わらず、寝たり起きたりの繰り返し。
 白玉楼の連中が血相変えて顕界を走り回り事態の収束に努めるも叶わず、死神が鎌を片手に怒声を飛ばすも
聞く耳持たれず、閻魔は手に余る状態に静観を決め込み、ただ西行の亡霊嬢だけが紫とつるんで
珍しいことになった世界を暢気に見物し、横で従者が怒鳴り気味に事態の異常を告げるのを笑って見ているだけ。
みんな喜んでるから良いじゃなあい、などと構えている始末でありました。



「わ……私は……私はあああ、なんてことをおお……」
「らんさま〜しっかり〜」
「取り返しがつかない大罪を犯し〜……世界をめちゃくちゃに……あああ……」
「大丈夫藍さま、みんなありがとうって言ってたよ」
「ああ、橙〜、殺してくれ〜。いっそひと思いに私を殺してくれ〜……」
「えっと、うん、殺してあげても良いけど、今ならすぐにこの世に戻って来れちゃうんじゃない?」
「うわあああ〜〜〜〜〜〜んんん!」
「わあ、らんさま〜」


 悲痛な藍の唸り声の中で、再会を喜ぶ生者と死者の歓喜の声が、あちこちで響き渡っていたのでした。









 ところが。

 それから五日十日と経って、事態は妙な方向へと変化し始めました。
それは図らずも、藍が一番最初に心配したことが、再び現実になっていったのです。



 そう、元々死者と生者は住まう世界が違うもの。
いくら時代が移ろっても世界が異常時代を迎えても、この道理は生きとし生ける全ての者に、
骨の髄まで染み込んでいたのです。
 生きていた人間は次第に、死者が我が物顔で歩いている世界に違和感と疑問を感じ始めました。
何年も昔に永遠の別れを経験した者が平気で目の前にいるのですから、不自然に思うなと言う方がどだい無理な話だったのです。

 今の橙がそうであるように、念願叶って戻ってきた現世に、死者達はすっかり居着いてしまっています。
生者達は日増しに、居心地の悪さを感じるようになっていきました。
 一度は喜びに胸震わせた彼らも、拭いきれない違和感と胸のもやもやに、だんだんと気付き始めていったのです。
それはまさに、術を使って橙と交流していた頃の、かつての藍の胸の内そのものでした。


 しかし、生きている人間達に、藍のような知能や巫術力などあるはずもありません。
そこで生きている者達は、何か良い方法はないかと、知恵を絞って考え始めました。
死者と生者が一緒に住まう今の世界を、なんとか元通りの秩序に戻す方法はないのかと。
もう一度、「この世」と「あの世」を切り分ける方法はないのかと。





 その答えは、ほどなくしてあっさりと弾き出されました。
 それもその筈。死者が全くいない世界へ通じる入り口が、山の麓に洞穴のように口を開けて待っていたのですから。










* * *


「紫様、本当にこれで良いのですか?」
「良いに決まってるじゃない。死者と生者が別々に暮らす世界。
 昔と全く同じ。どこに問題があるというの?」


 こうして、世界は再び、彼の世と此の世に別れることとなりました。
それまでと同じように、生者は此の世の世界で生きて、死んだら彼の世へと旅立って行きます。

 藍は紫の話を聞きつつ、どうにもスッキリしない想いを抱えていました。
事件の結末への疑問もさることながら、今横にいる自分の主人が結界を操る能力を持っている
老獪な妖怪であるということが、どうも頭から離れません。
 当の本人は、引っ越して一新された窓外の景色に上機嫌。
心の隅で湧き上がる得体の知れないモヤモヤを、藍はどうしても、拭い去ることが出来なかったのでした。






 もっともそれは、些細なことに過ぎません。
幾星霜の時が流れ、ずっと昔に起きたそんな騒動のことを覚えている者は、もう誰もいないのですから。

 ただ唯一、藍達一家の越境引っ越しに同行した、たった一人の「死者」を除いては。


                                       《おわり》






  ちょっと不思議、みたいなこのタイプの作品は、しかし実はもっと書いてみたい分野でもあるのです。でもなかなか、上手い具合にアイディアが降りてはこないもの。
 評価に関して言えばさほど恵まれなかった作品であり個人的な印象も薄いのですが、短編を書くときは専らこれくらい無茶をしてみたいな、と思います。
(初出:2006年8月12日 東方創想話作品集32)