【道化】


「ふう。やっぱり勝手が違うわねえ…」


 縫い付けの針を動かす手を止めて、額に滲んだ汗を拭う。
目の前には今しがた完成した、風変わりな人形が一つ。



 飽きっぽい性格の私が、人形作りの趣味はずいぶん長い年月続けている。性に合ったというやつだ。
家を埋め尽くす私の「子供」たち。異様な不気味さを放つこの家はいつしか、人形屋敷の二つ名を戴いた。
 彼女たちは皆、ドレスを召している。私が着せた、仰々しいドレス。
欧州風アンティークドール、それが私の人形の「主流」のデザインだ。

 

 でも、今作り上げて手元にある、この人形は違う。
欧州風の人形たちの中で、紅一点異彩を放つ人形。
貴族然とした他の人形達にあって、完全に場違いな格好をした、この子。


「こりゃまた、可笑しな格好に仕上がったものねえ……我ながら」


 人形をテーブルに置き、大きく伸びを一つ。
柔らかい眠気に、欠伸が漏れる。陽気の暖かさは、もう春のそれだ。
 腕を下ろし、ふうと大きく溜息。なんだか、更に眠気が増した。
重くなる瞼に抗い窓の外に目を向ければ、微かな木漏れ日が揺らめく。



 遠く流れる雲。風に揺れる緑葉。
吸い込まれてしまいそうな深い森と、心臓の鼓動さえ耳に届く、静寂に満ちた部屋。

 何も届かない。この部屋には、何物も届いてこない。
人の話し声も、妖怪の足音も。
喜びの笑いも、怒りの罵声も。
外に蔓延るどんなものだって、何一つこの部屋には聞こえてきやしない。

 誰も寄り付かないこの家が天国に思えてきたのは、いつ頃からだったかな。
孤高の魔術師ってのに憧れたわけでも無いんだけど。
気味が悪いと皆が疎むこの家を、いつしか私は、むしろ好んで一層気味悪くするようになった。
その理由には、「なんとなく」より相応しい言葉が見つからない。
他の誰に話すわけでもなかったし、当然のことね。



 椅子に身体を預けたまま、テーブルの端に手をかざす。
その先には小さな椅子と、座って目を閉じる小さな少女。
閉じた瞼は睫毛一つ揺れず、口は僅かな寝息さえ紡がない。
つまり、人形。

 午睡の子供のような、曇り無い寝顔の彼女――蓬莱人形に手をかざし、
ゆっくりと、短い言葉を唱える。

 手弱かに開かれる、その小さな瞳。
蒼い双眸が揺らぎ、きょろきょろと辺りを見渡す。
まどろみから戻った子供のような仕草。艶やかな金髪が、微かに揺れた。

 思わず見とれていると、その視線が、私を捉えた。
躾の良いしとやかな動きで、彼女は音も無く、椅子からすっくと立ち上がる。


  『紅茶を淹れてきて頂戴……』


 その小さな頭に手を置き、心の中で命令を念じる。
回れ右をする小さな身体、髪が静かに肩を薙ぐ。
跳ぶようにふわりと宙に浮くと、彼女はそのまま風のようにキッチンへ消えていった。

  



 私は、自律人形を作ることを夢見る。
人形師の糸を切り離し、一人で自在に考え動ける人形。

 長い時間が流れ、私のノートには壮絶な量の文字が並んだ。試作の人形も、増え続けた。
それでも夢は、今も夢のままだ。
 今の人形は、命令に対する幾つかの行動をあらかじめ「インプット」し、その命令を出すことで
ある程度の行動をとることができる……という代物に留まっている。

 知恵と理性が合わされば、知性となる。
もし今の蓬莱人形に知性があったなら、インプットだのスペルだのと煩わしい手間は要らない。
座っていた彼女に「紅茶を淹れて」と口で一言ささやけば、彼女はキッチンへ行きお湯を沸かして、
美味しい紅茶を淹れて此処に持ってきてくれていたはず。
「結果」から逆算して実際の行動を導く……それが、知性のなせる業。




「変ねえ……?」

 紅茶の準備を命じたというのに、物音一つ聞こえてこないキッチン。
どうも気になって、キッチンのほうへ行く。

「……って、あれ?」

 呆然と立ち止まっている蓬莱人形が、そこに居た。動く気配が無い。
時が止まったように、紅茶を淹れる作業の途中で彼女は、ぱったりと止まっている。
 さながら発条が切れた玩具の人形のようだが、魔術人形の蓬莱には当然発条も何も無い。
何かスペルを間違えただろうかと、つい先ほど唱えたそれを自己確認しながら、
微動だにしない彼女の周囲を見渡してみる。

 テーブルの上には、私のカップ。いつもどおり。
火にかけられたやかん、傍にはティーポット。これもいつもどおり。
そして、紅茶の茶葉の容器。空っぽ。
 空っぽ……ああ、思い出したわ。
そういえば、茶葉を切らしていたんだっけ。


 隣の引き出しから、茶葉のストックを取り出し、容器に移し替える。
再び茶葉が満たし、空の容器から再びそれは、「茶葉の容れ物」となった。


  『紅茶を淹れて頂戴……』


 改めて、心で念じる。
光を失っていた蒼眼に、再び力が戻ってくる。
途端、何事も無かったように彼女は再び動き出した。
止めていた時空のストップウォッチを、再び私が動かしたかのように。

 それを見届けて、私は部屋に戻る。
折角キッチンに来たなら自分で淹れれば良かったかしらと、戻りつつ少しだけ後悔しながら。





 紅茶を作れという私の命令、「インプット」に基づいてキッチンへ向かった蓬莱人形。
カップを置きお湯を沸かし、茶葉の容器の場所までたどり着いた。
ところが、あるはずの茶葉がなかった、加えて、替えの茶葉の在処を知らなかった。
蓬莱人形は、私の命令を遂行出来なくなり、止まってしまった。

 それが、今の私の人形。自律など、夢のまた夢。
トラブルに機転さえ利かせられない人形を、誰が自律人形などと呼べるだろう。
 


 しばらくの時が経ってようやく、安楽椅子に凭れた私の前に、
かちゃんと音を立てて細い指がカップを置いた。
ふくよかな香りが、ふわり鼻腔をくすぐる。

  『もう戻って良いわ……』
 
 彼女はこくりと頷いて、元居た椅子に戻っていった。



 夢の魔法の実現を目指し、最近は時を忘れ研究に没頭する毎日。
ちなみに人形はあくまで容れ物であり、それを作るのは工作の腕。器用な私には、特別な苦労も無い。
肝心の魔術、言うなれば「魂入れ」の方を、対照的に私はまったく編み出せずにいる。

 進まぬ研究には、ストレスが溜まる。 
なのに夢だけが一人歩きし、「こんな子が動いたら可愛いな」などと想像するたびその人形作りの方ばかりに勤しんでしまい、
気がつけば家は「ただの」人形だけが並ぶ人形屋敷になってしまった、というわけだ。

 研究段階の実験台に使うから、それらも全く無駄というわけではない。
現に私は研究最先端の魔法を、特に可愛く作れたと自信作の、2体の人形に施した。
一体がさっきの蓬莱人形であり、もう一体が……

 



   がちゃっ。
  


 不意に玄関が開く。
ふわりと音も無く、アンティークドールが私の元へ飛んで来る。
これがそのもう一体、上海人形。

「……来たのね」

 思わず独り言を呟く。

 『家の前で見張り、誰かの気配を感じたら私の所へ来なさい…』
それが、上海人形に与えていた私の命令。

 警備員のような真似を彼女にさせていた理由。
それは、ここ最近ほぼ毎日―― 「アイツ」が来ているからである。





「ようアリス、いるかー」
「…」

 ……この黒い迷惑者。

「あーいたいた。居なかった例が無いんだから、返事くらいはしてくれよな」
「はああ……」

 聞こえよがしの大きなため息をつく。
が、意に介する様子は無い。

「どうした、浮かない顔して」
「魔理沙。ここ、誰の家だか分かってるの?」
「知ってるさ。人形の家だぜ」
「間違ってはいないけど……ってこら」

 思わず納得しかけてしまった自分を、少し責める。



 ぽかぽか陽気に誘われて、待ちきれないと言わんばかりに魔理沙が春を謳歌している。もちろん幻想郷中大迷惑だ。
この私の家も、遊び場の一つ。いつも適当にちょっかいを出し、適当に帰って行く。
 啓蟄のあたりで塒から動き出す辺り虫と大差が無いが、その迷惑ぶりも虫と大差が無い。文字通りのお邪魔虫だ。
あちこち同じように気まぐれに訪ねてみては、同じように迷惑をかけて帰って行くらしい。

「あ〜もう、勝手に上がって。誰が家に入っても良いって言ったかしら?」
「いつも来てるんだから、お茶のひとつも出してくれよ」
「いつも迷惑なんだから、お茶のひとつなんて出せる訳が無いじゃない」
「いつも来てくれている人間に対する、それが態度か?」
「いつも勝手に押しかけてくる人間なんて、客人でも友達でもないわ」

 勝手な言い分に、鼻を鳴らして外方を向く。

 他人の視線などわかりはしない。もしかしたら、私を友達とでも思ってくれているのかもしれない。
思ってくれているのかもしれないが……もちろん、私にとっては冗談じゃない。

「お、友達じゃないってのは割とショックだぜ」
「何よ、勝手に友達ぶってたわけ?」
「そうかそうか、お前さんは人形だけがお友達、ってか?」
「……」


 ぷい、と魔理沙から視線を逸らす。

 私は、友達が嫌いだ。
おかしな言い方だけど、私にぴったりな言葉だと思う。
私は、「友達」が嫌いだ。

 顔色を伺って、機嫌を取って、相手を楽しませる。
途中でどんな嫌な奴に見えても、関係を勝手に壊すことは社会(モラル)が許さない。
一生縛り付けられる牢獄のような関係だ。
 我慢や妥協を押し通して誰かと付き合う意味が、私には分からない。
独りきりなら、ありのままの自分でいられる。その方がどれだけ楽で、有意義で、自分という存在を活かすことが出来るだろう。


「人形だけがお友達か……なるほど、そうかもしれないわ」


 人形は違う。ギスギスした煩いを心配することもない。
人形なら、気を遣わないですむ。感情を持っていないのだから。
私が一人でいたいときには、いつでも「スイッチ」を切ってしまえば良い。

 人間は恨み、妬む。どす黒い心の汚い部分を、みんなが持っている。
人形は、持たない。生ける罪も業も無い。
私は人形となら、一緒に生きていられる。


「人形だけがお友達……哀しくないか?」
「捻くれ者を相手にしているよりは、ずっと楽よ」
「そうか? たまには人と話でもしてみろよ。楽しいぜ」
「はいはい、いつまでも言ってなさい」


 今こうしている時間も、魔理沙が鬱陶しい。
鬱陶しくても狭い幻想郷の中では、今後も顔を合わせる相手。無碍には扱えない。
ご近所さんというのはそれゆえ、友達じゃなくても結局友達と一緒になる。

 テーブルを見れば、冷めてしまったダージリン。
一番美味しい瞬間を逃してしまった。淹れてくれた蓬莱に申し訳ない。




「お? お〜いアリス、これはなんだ?」

 魔理沙の声に、私はまた我に返る。

「なんだ、いっつもゴシックドールなのに、今日はずいぶん珍しいもの作ってるじゃないか」
「ちょ、ちょっと! 勝手に部屋のものに触らないで!!」
「良いじゃないか、ちょっとくらい」

 無神経な指がつまみあげた、モノ。
それは、例の人形。
魔理沙が来る前の今しがたまで、私が製作に勤しんでいた物。



「こりゃあ……ピエロか?」
「……そうよ。悪い?」


 
 魔理沙の手で揺れる、一体のみすぼらしいピエロ。
やたらにぴかぴかする衣装。顔に施された、星型のアクセサリー。
目と口の周りに、おどろおどろしいメイク。それ以外は真っ白に塗られ、素顔も分からない貌。

 滑稽な衣装、奇天烈な表情。
人を笑わせるためだけに作られた、ピエロという人形。


「へえ、お前アンティークドール以外の人形を作る趣味もあったんだ」
「バ、バカ言わないで。試しに作ってみただけよ」

 何とか強引に、魔理沙の手から彼を引っ手繰る。





 魔理沙は鬱陶しい。
 でも本当に嫌いなのは、魔理沙じゃない。

 周りを見渡してみるとどうだろう。
誰も彼もを惹きつけては、どんな奴とも平然と渡り合っている巫女がいる。
常に主人の傍につき、己を滅して仕える従者がいる。
魔理沙だって、こうして積極的に誰かと付き合う。

 誰もが、誰かの傍で笑っている。
私だけが、こうしていつも、孤独で暮らしている。

 内気なことへの劣等感ではない。
私の傍で笑う誰かがいても、私だけが笑えない。それが腹が立つ。
紛れも無い、私自身の問題。誰かの笑顔の糧になるだけの存在。
誰かの笑顔のその横で、私がいつも一番嫌いなのは―― 私自身だ。

だから、ピエロを作っていた。



「一人で深い森、家の中にこもって人形作り。暗いと思わないか自分のことを?」
「一人でいる人が暗くて、みんなと一緒にいれば明るい性格だなんて、誰が決めたのかしら?」

 魔理沙は素直だ。いつも邪心無く、言葉に悪意があることは無い。
だから余計、言葉が心に痛い。だから余計、強がってしまう。

「お前捻くれてるなあ」
「アンタみたいな単細胞よりはマシだと思うけど」
「人と一緒に笑おうとか、何かを楽しもうとか、考えたこと無いのか?」
「無いわね」

 人と一緒に居たいと思ったことは無い。
だけど、一緒にいたらどんな風な自分になるか、何度も考えたことがある。
そしてそのたび、私は胸に問いかける。
深い森の暗い家が、本当に幸せかどうか。

 それって、自問して答えを探すようなものなの? ……意地の悪い人はそう言うだろう。
だけど冗談でもなんでもない。
今の私が幸せなのか、私には分からない。

 折角他人を遮って、一人で暮らしているのに。
どうして、自分の幸せ一つ、分からないんだろう。

 



「やっぱり寂しい奴だな。寂しい奴すぎて退屈だから、帰るぜ」


 じっと押し黙ってしまった私に呆れたらしい。
ぶっきらぼうに言うが早いか、玄関の扉を乱暴に開ける魔理沙。
ほっと、思わず一つため息が溢れる。

「でもなアリス、周りの奴らはお前が思ってるほど嫌な奴らじゃないぜ」

 そんな私を弄ぶように、玄関を出たところで、魔理沙が小憎らしい顔で話を蒸し返す。

「誰も嫌な奴だなんて言ってないでしょ」
「じゃあ何で、こんな森で一人引きこもってるんだ。たまには人形以外と付き合ったらどうなんだ」
「大きなお世話よ」
「ああそうかい。じゃあ、また来るぜ」

 来なくて良いわ、という私の台詞の前に、箒が高々と森の空に舞い上がる。
頬を撫ぜる一筋の風を残して、箒はあっという間に空の彼方へ消えて行く。
嵐が過ぎ去った草原のように、静まり返った冷たい空気だけが、呆然と見送る私のまわりを包んでいた。





〜〜〜

 霊夢や魔理沙みたいに笑えない。
誰かの笑顔を見て、一緒に笑うことが出来ない。
誰かが私を見て笑うことはあっても、私自身が「笑う」ことが出来ない。

 まるで、ピエロのようだ。
素顔を化粧に隠し、誰かを笑わせて、自分の笑顔と素顔を忘れたまま、
運命に縛られ続ける人形。
ピエロと私は、よく似ている。

 自分に嫌悪感を抱くたび、この指はピエロを作った。
まるでヒトガタの鏡に、冷めた心を映すように。
 いくつのピエロを、誰に知られることも無く今まで作ってきただろう。
いくつの哀しみを、それに託してきただろう。



 魔理沙に弄ばれたピエロを抱き上げて、部屋の隅に持っていく。
そこに置いてある、一抱えほどの大きな木箱。
魔術刻印を記し、私以外誰にも見えないように細工した、魔法使い版の「秘密の隠し場所」。
抱いていないほうの手で、私はその蓋を開けた。

 夥しい数のピエロが、姿を現す。
今まで作ってきた、色とりどりの沢山の道化人形たち。
この箱は、その入れ物。



 どうしてそんな自虐的なことをするのかと、他人が見たら言うだろう。
或いは、気づいているならピエロを辞めようと頑張れと、促されるかもしれない。
日の当たる棚に並ぶ、可憐なドールになれと。
その美しいドレスで、みんなを魅了すればいいと。

 でも哀しい哉、道化にはそれも出来ない。
ピエロが化粧を落としても、美しいアンティークドールになんてなれない。
化粧を落とせば、彼はもう誰も知らない、何の特徴も無いただの人形になるだけだ。

 華やかに着飾って、日向で愛され続けるアンティークドールたちとは、生まれから違う。
それは、人形師の私が……道化の私が、一番良く分かっている。



「何体あるのかしら……いつか数えてみないとね」



 箱の中に出来立てのピエロを入れ、蓋を閉めた。
いろんなことを考えて、箱にまた一つ、ピエロが増える。
 魔理沙と会った後は、いつも色々考えすぎてしまう。
箱にピエロが増えるたび、この心にも同じように、一つずつピエロが増えてゆく。


  『上海、アッサムを淹れてきて頂戴。
   蓬莱、今度は貴方が見張りをお願い』


 二体の人形に、それぞれ新しく命令を出す。
 蓬莱人形の方が平均的に紅茶作りは巧いが、どういうわけかアッサムだけは上海人形の方が
達人的な腕前を発揮する。作った私にも分からない、妙な特性だ。
 魔理沙に掻き乱された気分を落ち着かせるため、ともあれ今はその極上のアッサムが飲みたかった。
ついでにラベンダーのクッキーが棚にあったことを思い出し、蓬莱の後を追うように席を立つ。

 気がつけば、あちこち物の配置が動いている。
見ていない間、人形以外にも魔理沙はいろいろと部屋のものを触って行ったに違いない。
魔理沙のことだ、或いは何かが無くなっているかも知れない。


「いろんなものを引っ掻き回すだけ引っ掻き回して。いい気なもんだわ」


 引っ掻き回されたのは、部屋だけではない。
それが魔理沙の性格だとは言え、今日はなんだかいつにも増して気分が悪い。



 それは、ピエロを見られたせいだろうか。
道化の小さな心、その弱いところを、見られたせいだろうか。





〜〜

 そして気がつけば、夕陽も沈もうとしている。
 
 アッサムを楽しんでも、部屋の整理をしても、ささくれ立った気持ちはなかなか落ち着かなかった。
片付け、手につかない。読書、文字が頭に入らない。
何をしても、何も捗らなかった。

 いらいらした気持ちに苛まれ暗鬱に悩んでいるうち、いつしか森の木々の葉は茜色に染まってしまった。
遠く、夕を告げる烏の鳴き声が谺していた。

 気分転換を諦め、私は日が沈むと共に眠ることにした。
ありあわせの食料で夕食を作って空腹を満たし、軽いシャワーで入浴を切り上げた。



 自分に言い聞かせる。
今日のことは、忘れよう。
気が緩めば魔理沙だけを嫌ってしまいそうだけど、彼女だけを憎んでも仕方が無い。
でも、自分だけを憎んでも仕方が無い。
 そう、二人平等の問題ね。アイツも大いに嫌いで、自分も大いに嫌い。
だから今日は全てを忘れて、早く寝よう。それが一番。


 心を決めて、玄関の戸締りに向かう。
真鍮製の重厚な金具に手をかけ――





  ガチャッ!



「!!――……」


 目の前の扉が、急に開いた。
思わず飛び退いた私の目の前に、蓬莱人形が、音も無くするりと入ってくる。


「なんだ、貴方か…… ああ、びっくりした。おどかさないでよ」


 うっかり命令を解かぬまま、鍵を閉めかけたのは自分。
なのに口をついた不満が、つい蓬莱人形に向かう。
普通の人間が聞いたら怒りそうな私の言い分だが、この人形たちには知性が無いからそんな気遣いは無用……
……って、あれ?


 そうだ、知性が無い彼女たちは、命令以外の行為は絶対にしない。
命令主が眠るから見張りもお仕舞いと、鍵をかけられる前に戻ってくるような自発行動を
彼女たちがするはずはない。
 その彼女が戻ってきたということは、命令遂行の「条件」が揃ったということ。
ってことは……



「よぉ、アリス。約束どおり、また来たぜ!」
「……」



 あっけなく破られた、夜闇の静寂。
自然と、膝の力が抜けた。
崩れかける身体を、両腕で壁に支える。

「私は『また来る』と言ったぜ。しかも今日の内にもう一度来ないとは、誰も言ってないからな」
「……ぶっ飛ばすわよ」


 思わず直球勝負で感情をぶつける。
おお怖い、と呟きながら肩をすくめる魔理沙。
もちろん素振りだけで、悪びれた様子はまったく無い。

「何しに来たのよ」

 粗暴な言葉を気にする様子も無く、魔理沙は明るく言い放った。



「なあアリス、これから一杯、飲みに行かないか?」
「却下」

 また眩暈が起こる。
胸倉でも掴んで、バーカ!の一言で帰してやりたいがそうもゆくまい。
開けた玄関の隙間から流れ込む、冷えた夜風が洗い髪に染み入る。

「なあ、ダメか?」
「魔理沙。貴方の目は節穴かしら? 私の格好、分かる?」
「ネグリジェだ」
「そうそうネグリジェ大正解。それが分かるなら、とっとと帰りなさい。
 見てのとおり、私はもう寝るの。まさに寝る直前なのよ。そんな時に押しかけて、今何時だと思ってるのよ」
「まだ8時にもなってないぜ」

 ポケットから取り出した魔理沙の懐中時計が、玄関照明にチラリと光る。

 ああそうか、早く寝ようとしていたのだった。
普段の感覚なら、まだまだ夜になったばかりか。


「さあ、早く着替えて行こうぜ」
「ちょっと。いつ私が行くなんて言ったかしら?」
「酒、嫌いなのか」
「大好きだけど……」
「じゃあ決まりだ。せっかくこんな月の綺麗な夜だし、早く寝ちゃうのは、もったいない」
「今日は疲れてるの」
「疲れるほどのことは何もしてないだろ?」
「アンタのせいよ!」

 あんまりな態度に、思わず怒鳴る。
魔理沙一人への嫌悪感が、また蘇って私の脳裏を支配する。

「……とにかく、今日はもう帰って」

 しつこく頭を擡げてくる想念を首の一振りで払い除け、言葉を精一杯絞り出す。
扉のノブを、冷えた指先で手繰り寄せる。

「じゃあね」

 ドアを閉める…



 ガッ。

 瞬間、ドアと壁の隙間に、魔理沙の足が挟まった。いや、挟み込まれた。

「な〜、良いじゃんさ〜」
「もう一度言う、私はもう寝るの」
「そんな事言わずにさぁ、な〜?」
「いい加減にしないと、そろそろ本気で怒るわよ」

 がっくりと俯く魔理沙。
少し申し訳なく思い、でもすぐに思い直す。
無礼なのは、あっち。



「さ、帰ってちょうだ……」
「アリス、たのむ。一緒に飲もうぜ。今夜だけでいいからさ」
「……?」


 それまでにない響きが、魔理沙の口調に帯びた。
自分勝手ないつもの彼女より、ずっと大人びて落ち着いたトーン。
頭を下げて相手に頼むような口調。

「な、今夜だけで良いんだ。帰り道は送るから。
 ……えっと、てなわけでそこまでやるんだから有無は言わさない。一緒に飲もうぜ?」

 気を取り直したかのように、いつもの口調と態度に戻る魔理沙。
ドアの向こうのその目には、だけどいつになく真剣な光が宿っているように、私には見えた。
というか……見えてしまった。





「……遅くまでは付き合わないわよ」
「オッケー、そうこなくっちゃあ」
「支度するから外で待ってなさい。ドア、閉めるわよ」


 嬉しそうに綻ぶ魔理沙の笑顔を、ひととき扉の向こうへ追いやる。
閉まると同時に、自然と大きなため息が出た。

 また断りきれなかった。本当に、何をやっているのだろう。
いつもと眼がちょっと違ったくらいでこれ。我ながら本当に呆れる。
ピエロだとか何だとか以前に、単なるお人好しじゃないか。

 いつも自分の本音を出せぬまま、気づけば誰かの流れに乗っているだけ。
本当の私は、一体どこにいるんだろう。



 しかし、自己嫌悪してばかりもいられない。
誘いに頷いてしまったのだから、いまさら反故に出来るわけもない。

 私は諦めて、先ほどまでの服を着直す。
明日用の着替えを使おうかとも思ったが、こんな無礼な誘いに身支度を整えるなんて、
それこそ癪だった。





〜〜〜


 思いの外、その部屋は小奇麗に片付けられていた。


 とはいえ、あくまで「思いの外」。
山のようなマジックアイテムが所狭しと床に棚に並び、開きっぱなしの魔導書が
決して小さくはない机をほぼ全て覆い尽くしている。
更に冬とあって、部屋の真ん中に炬燵が鎮座し、足の踏み場を狭めている。
花も恥らう年頃の少女の部屋だとは、どう間違っても考えられない。

「狭い部屋だが、くつろいでくれよ」
「部屋が狭いんじゃなくて、あなたが散らかしすぎてるのよ」
「何かご希望の酒はあるか?」
「赤ワインがあれば」
「赤ワイン…魔術実験に使った、開けかけの残りでよければあるぜ。ほとんど減ってない」
「どんな実験したのよ…… まあ良いわ、それでお願い」
「よし」

 ぽんと膝を叩いて、魔理沙が立ち上がる。
ほどなくして、彼女らしい大きめのワイングラスが二つ運ばれて来た。
適当に片付けた炬燵の天板にそれを置くと、実験の残りという言葉通り、机の隣の棚からワインの瓶を取り出す魔理沙。
炬燵に置かれたワインという奇妙な和洋折衷が、なんとも滑稽に感じられる。

 スクリューをコルクに突き刺そうとする魔理沙。
つるつるした表面で滑ってしまって彼女は上手刺すことが出来ず、結局私の手が栓を引き抜いた。

 天鵞絨の様な光沢で、グラスを満たす深紅の液体。
私のグラス、そして自分のグラスと順に、魔理沙の手がワインボトルを傾けた。
葡萄の香りがふわり、フランス貴族のイブニングのような優雅な雰囲気を醸し出す。
 さほど良いワインでもないだろうが、芳しいその香りは、
石のように固かった二人きりの空気を、ほんの少しだけ解してくれた。



「それじゃあ、乾杯だ」
「え? ええ、か、乾杯」

 ぎこちない指が支える二つのグラスが、二人の真ん中で触れ合う。
チン、と微かに冷たい音を立てて、艶やかな紫の水面が、ほんのわずかに揺れた。





 その後しばらくは、静けさだけが部屋を包んだ。
会話は続かず、視線が合ってもどちらからともなく互いに逸らすだけ。
 ただグラスを置く音と遠く聞こえる鳥の夜鳴きだけが、
壊れそうな硝子の空気を繕うように、ささやかな響きを奏でていた。

 気まずいようないたたまれないような、居心地の悪い空気。
性格からして魔理沙のほうからこの張り詰めた空気を壊してほしいのに、
どういうわけかいつもの元気が無い。
頬に散った紅色が、それでもほんのり酔っていることを示してはいる。

 というかそもそも、こんな風に自分の家へ酒に誘うなんて、それこそ普段の魔理沙からは考えられない。
ワインまで振舞って、一体どういう風の吹き回し……



「なんで私がお前を呼んだのか、考えてるのか」
「へっ……?」


 考えていることを不意に見事に言い当てられて、思わず私は間抜けな声を出した。

「そ、そうよ。人を招いて酒を振舞うなんて、アンタらしくもない」
「やっぱりそうか」
「何か理由があるのね、言いなさいよ」
「まあまあ、良いじゃないか」

 軽い口調で答えると、魔理沙は自分のグラスの中身をぐいっと一気に呷った。

「もう、はしたない飲み方をしないの。ビールじゃないんだから」
「酒ってのは酔うために飲むんだ。飲み方くらい、人の自由にさせてくれよ」

 すでに呂律が怪しい口調で言いつつ魔理沙は、何杯目かのワインをグラスに注ぐ。
お節介だったかしらと反省しつつ、不思議な気持ちはそのままに私もグラスを口につける。





「今日のこと、怒ってるのか」


 数秒とおかず、またあっさりと静寂を破る魔理沙。

 だけどその言葉、まあ、予想はしていた。
案の定という感じだ。


「ははあ、やっぱり。昼間に私を怒らせたと思ってこんなことしたわけ?」
「さあて、どうだかな」
「ふん、柄にも無いことしないの。アンタらしくもないんだから」
「……そうか」

 小声で呟く魔理沙。
そのトーンの低さに、ちょっと言い過ぎたかしら、と顔を覗き込む。
彼女の顔は、しかし意に反して、落ち込んでいるようには見えなかった。

 

「アリス」

 不意に顔を上げた魔理沙と、視線が合う。

「な、何よ」
「お前、お酒は好きか」
「はあ?」

 一瞬ドキマギし、そしてかけられた言葉の意味不明さに、戸惑った。

「え、ええ好きよ。どうしたの」
「お酒って良いよなあ」
「だから知ってるわ」
「いや、お前は知らないんだよ」

 グラスを口につけながら、魔理沙は呟く。

「お酒ってさ、人を素直にするんだぜ。
 どんなに格好つけてる人でも、内気な人でも、酒に酔えば素直になる」
「急に何よ」
「酒ってのはさ、『そいつをそいつにする』んだ」
「……アンタ酔っぱらってるわね」
「ははは、酔ってないぜ〜?」

 またワインを口に運ぶ魔理沙を見ながら、少し呆れた。
そういえば確かに、人間には四パターン居ると聞いたことがある。
酒を飲むと黙って眠る奴、酒を飲むと怒りっぽくなる奴、酒を飲むと何故か泣き出す奴、そして最後に、酒を飲むと説教臭くなる奴。
どうやら魔理沙は、最後のパターンだったらしい。

「魔理沙が酔うところをじっくり見るのは、はじめてかもね」
「そういうお前の酔った所、私は見たことが無いなあ」
「当たり前でしょ。崩れきった自分を、誰が好き好んで他人に見せるのよ」

 魔理沙のグラスが、止まる。


「崩れきった自分、か……」


 小さな独り言を漏らし、火照った顔をこちらへ向ける。


「アリス、お前本当の自分が何かって、考えたことがあるか」


 魔理沙につられ、私のグラスも手が止まる。

「どういう意味かしら……」
「他人に会うときなんて、みんな建前の完全武装さ。
 怒らせないように、機嫌を損ねないようにってな。
 そんな『仮面』を被っててさ、本当のそいつの素顔なんて分かるわけないぜ」
「何よ、柄にも無いこと言って」
「酒はさ、その仮面を剥ぎ取ってくれるんだ。本音の本音、直球勝負さ。
 酒に酔ったら、そいつは本当に『そいつ』になるんだ」
「……お代わり、頂くわよ」

 
 魔理沙が頷くより先に、勝手にグラスに酒を注ぐ。


「まあいいや、続けるぜ。
 酔っ払ったお前はな、崩れたお前なんかじゃないんだ。
 それが紛れも無い、本当の、お前自身なんだよ」
「……」


 注いだワインを、半分近く一気に飲み干す。


「おいおい、さっきビール飲みするなって言ったのはお前だろ」
「うるさいわね。酔うために飲むのよ。飲み方くらい、勝手にさせて」
「朝令暮改ってか。呆れたぜ」

 本当に呆れた顔を浮かべる魔理沙。
そしてまた、グラスの水面に視線を落とす。

「酔わなきゃ見えてこない自分ってのもあるんだ。
 お前自身に自分が見えてこなきゃ、いつまでたってもお前の人形は動かないぜ?」



 胸の中で、何かが割れる音。
人形の足を縛っていた重い枷が、外れる音。



「……ごめん、帰るわ」
「もうか」



 早く帰りたい。
折角壊れてくれた何かが、また形を成してしまう前に。  

「じゃあ、最後に一つだけ教えてくれ」 

 自らも立ち上がり、玄関に歩いて来る魔理沙。
扉に手をかけながら、ぽつりと呟く。


「お前今日、あのピエロ触ったとき怒ってただろ。
 どうしてあんなに怒ったのか、教えてくれないか」
「人に見られたくないものだったからよ」
「なんでそんなものを作ったんだ」
「アンタには関係ないでしょ。ただのストレス発散よ」   
「あ〜、私もよくやるな。研究が行き詰ると、裏山に行って魔砲を一発、ドカーン!ってな。
 だけどそういう時ってさ、全然綺麗に打てないんだよなあ。
 ぶっ放すそばから拡散しちゃってさ、パワーが分散しちゃうぜ」
「……何が言いたいのよ」
「何も考えずに憂さ晴らしするとな、心のお天気がそのまま表れるぜってことさ」


 クックッと、鳩のように喉を鳴らして。


「あのピエロが寂しそうだったから、今日お前を呼んだんだ。
 質問の答え、これで良いか?」
 

 そう言って、魔理沙は笑った。




〜〜〜

 自分を変えたいと思えるのが向上心なら、ありのままの自分でありたいと思う力は勇気だろう。
勇気は人形と違って、簡単には作れない。だからほんのひとときでも、恐らくはありのままの彼女自身で
目の前の私と向き合ってくれたこと。
それだけがただ、嬉しかった。 

 わざわざ玄関の外まで見送りに来た魔理沙。
並んで歩く二つの影が、満月に照らされて長く伸びる。
冷たい夜風が、火照った頬に気持ち良かった。



「本当に今日のアンタ、らしくなかったわ」
「そうかい」
「酔ってる所為なのかしら」
「ああ、そうだな。酒の所為だ」

 酔いが回っている所為か、魔理沙あまり照れる様子もない。

「そう、じゃあお礼は言わないでおくわ、ご馳走様」
「おっと、忘れ物だぜ」

 振り返った目の前に、ワインの瓶が突き出される。

「良いわよ、アンタが飲みなさい」
「もう一杯分くらいしかないんだ。それに、私は焼酎派だぜ?
 ワインなんて飲まないさ」
「……そう、じゃあ頂いておくわ」

 遠慮なく、魔理沙の手からすっかり軽くなったビンを受け取る。
 
「お礼に、最後に質問させて」
「お礼に質問されるってのも変な話だが、なんだ?」



 酔い切れなかった私は、今夜はまだ素直になれない。
だけど、精一杯の勇気を込めて、一つだけ訊いておきたいことがある。



「貴方が言うとおりなら、酔って私の前にいる今の魔理沙が、本当の魔理沙だってことになる。
 そうなの?」


 歩いていた足を、はたと止める魔理沙。


「さあ、それはどうだかな」
「じゃあ勝手に考えておくわ」
「そうしてくれ。お詫びの酒席を『柄にも無い』なんて言われちゃあ、
 今の私を本当の自分だなんてお前に言えないだろ?」
「……本当にアンタらしくないわね、今夜は」
「酒の所為だぜ」
「そうね」
「そうだ」
「ああ、そうそう。最後に一つ言い忘れたことが」


 夜風が一層強く吹いた。二人の金髪が、激しく揺れる。まだ冷たい、冬の風。
柔らかく二人を包む霞の月光の中、髪を払う仕草が重なった。

 ……悔しいけれど、本当に素敵な夜だった。
きっといつまでも忘れない、春も間近な冬の夜。
だから、最後に言っておかなきゃ。


「魔理沙」
「なんだ」


 深呼吸を一つ。



「私、アンタのことが嫌いだから」



 俯く魔理沙。垂れた頭が、しかしすぐに前を向く。


「私もだ。お前のことが嫌いだぜ、アリス」


 そう言って、ニヤリと笑った。
それはいつも通りの、小憎らしい魔理沙の笑顔だった。 




「じゃあな。また明日遊びに行くぜ」
「来なくていいわ」
「今日はこっちが酒を振舞ったんだぜ」
「自分で誘っておいて、見返りを期待しないの」
「期待するぜ」
「アンタらしいわ」
「お前ご自慢の人形、紅茶淹れるのが巧いんだってな。明日一杯ご馳走してくれ」
「馬鹿言わないで。アンタなんかの紅茶に、大切な人形の手を煩わせられる訳無いじゃない」
「そうかい」

 また、深呼吸を一つ。

「……私が自分で、淹れるわ」
「楽しみにしてるぜ」



 まだ魔理沙が何か言っている。けれど、そのまま魔理沙の家に背を向ける。
さあ、振り返らずに、まっすぐ家へ帰ろう。


 …部屋の片づけを、しなくっちゃ。






〜〜〜

 思い出しても笑いがこみ上げる。あんなしおらしい魔理沙は、二度とご免だ。
傍若無人で粗暴で、私を指差して失礼に笑う。やっぱりそんな魔理沙でなくっちゃ。



 化粧をして生きているのは、ピエロだけではない。
美しい乙女人形も道化人形も、社交的な人も内気な人も、みんな化粧を塗って生きている。
化粧を塗り重ねるうち、本当の自分はいつしか、自分にも分からなくなってゆく。

 自律とは、本当の自分を律することではない。
その化粧で、周りの奴らと生きていくこと。生きていくためのそれを、うまく整える力。
それが、「自律」ということ。

 森の中では本当の自分には辿り着けないらしいと、今日私は知った。
自分しか居ない世界は安全なようで、誰かに自分を見せるチャンスが無い世界。
結局いつしか、自分に自分を見せることも忘れ、本当の自分は森の中に迷ってしまうだろう。
他の誰かが居て初めて、自分に「自分」を見せることが出来るのだ。


 今はまだ、私には私が分からない。
けれど、無の中に「自分」を作り出す夢を持つ人形師には、避けて通れない自分への宿題だ。

 そう、いつか、私が私自身に気づくことが出来たなら。
その時こそ、私の人形たちが、本当の「自分」を手に入れる時なんだろう。





「ただいま〜……って、誰も居ないわね」

 つまらない独り言を呟きながら部屋に灯りをともし、
座りなれた安楽椅子に凭れる。
上海人形と蓬莱人形が、ひょこひょことテーブルの上を歩み寄ってくる。

 『帰ってきたら、出迎えるように……』
人形たちにインプットした命令の中で、たった一つ、実益の無いものがこれだ。
誰にも「お帰りなさい」を言ってもらえない寂しさだけは、何年過ごしても慣れることが無い。



  『蓬莱、アレを持ってきて頂戴』

 魔理沙に弄られた、あのピエロ。
それを、一番目立つ戸棚に置く。

  『上海、これをキッチンの棚に』

 寄ってきた上海の腕に、ワインの瓶を預ける。
重さによろめく上海。それでも腕に力を込めて、何とかかんとかキッチンへ運んでいく上海。
その健気な姿に、思わず微笑が漏れる。



 誰も知らない、本当の魔理沙。
あのワインのおかげで、私は「本当の」魔理沙に、ほんのひと時会うことができた。
 間違いなく、今でも魔理沙は大嫌い。
大嫌いだけど……きっとこれで、言葉も要らぬ友達になれた。そう思う。

 本当の魔理沙は、案外優しかった。
実験の残りだなんて嘘をついて、ワインまで用意してくれていた。
封も切って机の隣に置き、本人は上手く実験の残りに見せかけたつもりでも、
持ってきたその瓶は、コルクに穴が開いていなかった。
焼酎派の彼女らしい、うっかりだ。

 魔理沙も、十分に化粧をして生きている。
悪ぶって粗暴に振舞うことで、必死に本当の自分を隠している。
彼女は彼女で、相当に照れ屋で臆病なんだろう。
 素直になれないのは、私と同じ。
だから私は、魔理沙が大嫌いだ。



 明日には、優しい少女はもう居ない。代わりにきっと、傍若無人な迷惑者がやってくるだろう。
また散々、私の家も心も引っ掻き回して帰っていくに違いない。

 でも、明日やって来る彼女は、きっと戸棚のピエロに気づく。
そして、誰かを笑わせて生きる意味に気付くことが出来た、生まれ変わったもう一人のピエロを目にするだろう。



 もう、ピエロを恥じるのはやめにすることにした。
逃げないで居よう。友達からも、魔理沙からも、私自身からも。

 そして、もっと沢山の誰かと一緒に、酒を飲もう。
一緒に酔って、化粧の無い素顔の「アリス・マーガトロイド」を知ってもらうために。
誰かが私を知ってくれれば、私もきっと、見失ってしまった本当の自分に気づくときが来るだろう。






 今はまだ、お帰りなさいも言ってくれないけれど。
いつか私の人形が、一人で私に話しかけてくれたなら。

 それが出来た日の夜には、あのワインの最後の一杯を戴こう。
大切なことに気づかせてくれた、大っ嫌いな友達を想いながら。



 そして、その酒に酔うのだ。
この胸のどこかにいる本当の私に、夢心地の中で出逢えることを願いながら。





 第一回こんぺの時代は、まだSSを作っておりませんでした。どういう経緯でこんぺの開催を知ったのかは忘れましたが、その後沢山の自信作を送り出すことになるSSこんぺの、これが私にとっての第1回目です。
 お題は「酒」でした。
 
 昔の私らしい作品だなあ、と思ったりします。
 今では意識してこういう作品を書くことは無くなっており、その意味では貴重なのかもしれません。
 そしてもちろん、今となっては恥ずかしい作品。若かった……
(初出:2006年4月20日 第2回東方SSこんぺ 全90作品中15位)