【C78新刊『反魂蝶』 サンプル】


(※完成した本には振り仮名が振ってありますが、Web掲載にあたっては省略しています。)


 甘茶市の花参道は、浮かれ気分の郷人達で賑わっていた。陽射し降り注ぐうららかな好天に恵まれ、両脇を縁取った満開の桜が、うねるほどの人波を見守っている。
 甘茶市という愛くるしい名称は、正式な物でなく、市井の民が与えた俗称にすぎない。正しくは桜の市ということになっているが、それもまた喧伝や座の招集に用いるための、有耶無耶な呼称で、便宜上の名称といった趣が濃い。故事来歴を紐解けど、この華やかな市に結局、正式な名称は存在しなかった。
 始祖を問えば、灌仏会に肖って村人達が興した、有志による蚤の市とされる。その為古来からあるがまま、なるがまま、その時代その時代で好き好きに営まれ、格式張った運営細則が敷かれることなく今日へ至っていた。
 釈迦降誕の四月八日、瀬戸物屋も茶屋も呉服屋も、櫛比する出店の屋台や好立地の商店は、いつしかそれぞれ花祭りの風習に倣って客に甘茶を振る舞うようになった。このため、現在の愛称が定着している。
 郷はずれの古刹で、花御堂のお釈迦様に甘茶を捧げた郷人の服装は、陽気に誘われて気早にも夏物が目立ち始めていた。人波は、火の見櫓屹立する中央の広場から、東西にのびる商店街に向かって流れていく。七色の唐紙や羅紗紙で仕立てた燈明飾りが、街並み全体を春の装いに塗り替えている。風が吹きぬけるたびに、どこからともなく花びらが舞った。
「どうですか、何も変わらないでしょう?」
「いや――珍しい店が、増えたよ」
 妖夢の問いに、妖忌は言葉を選ぶようにそう答える。瞳はしかし裏腹に、しっかりと懐旧の色へ変じていた。知った人間はすっかり鬼籍か、と苦笑いで愚痴にしながら、色づく街並みに往時の面影を訪ね、何気ない風景に瞳を細める。
 背中を追って、妖夢も喧噪の中を泳いだ。唇が自然と緩むのを隠さないで、祭の愉しさと共に、懐かしき家族が帰参した静かな昂奮を噛み締めている。
 運良く日にちの合った甘茶市は、祖父の時代から変わらぬ村の催事である。郷に降りることを、そのためか祖父も快諾してくれた。断絶した団欒の日々が、そうやっていとも簡単に戻ってきたのだ。
 昔日の畏怖だけが、幼びて色褪せる。武道場で味わった静謐な緊張も、風雅や哲学の水で満たした問答ももう恐れたりしない。桜舞う街で、ただ無為に祖父と二人、歩いているだけで幸せを感じられた。一人の孫として、春風に吹かれていた。
「本当によろしかったんですか」
「ん?」
「幽々子さま」
「ああ」
 白玉楼に一人残してきたことが不意に胸を掠め、妖夢はその名を口にした。
「放っておきなさい。幽々子どのは元々、賑やかなのが好きに見えて、見知らぬ人の集まりには混じりたがらないんだよ」
 抑揚の薄い声で、祖父は言葉を落とす。その表情は翳りがあり、視線は僅かながらも険が差していた。
「幽々子どのが一番、昔のままだな」
「……迂闊でした。すみません」
 軽はずみな質問を、妖夢は詫びた。
 天衣無縫の渡世に見える西行寺幽々子が、その実赤の他人の集まりを厭がるのは、生者を死に誘っていた忌々しい己の能力が、意識を掠めるからだと聞く。
 勿論、幽々子自身がそう言った訳ではない。
 侍従として足下に仕える、魂魄の一族に代々申し送りされてきた……ひめやかな、内証事である。
 その身が亡霊に遷じても、罪の意識は払拭されていないのだった。まるで清冽な水底に墨を落とすように、爛漫な笑顔の奥底に、彼女はその小さな癌をひそめていた。

 ◆ ◆

 急激に近づいた足音に気づき、妖夢の意識が旋回する。
「――くッ!」
 甲高い剣戟の音色が即座に奏でられた。鬼神の如き表情を浮かべた老剣士の、渾身の斬撃に妖夢の体勢がよろめく。身の丈の高低を利用し、真上から振り下ろされる独特の軌道が、咄嗟に天空へ翳した楼観剣の峰に高らかに激突し、鮮明な雷光を纏った。
 横溢する腕力で震える剣を、妖夢は自ずから見つめる形となる。視界の中央、暗幕の夜空に縦横に線を引いた二本の剣。互の目が読める間近の向こうに、苦悩を刻んだ相貌がある。
「……貴方は、幽々子さまの永遠の命など望んではいない」
 胸の奥底から声を絞りだす。
「貴方が本当にそれを望んでいるなら、貴方は最初から薬だけを探し求めて白玉楼に帰ってきた筈だ。私に追いすがる必要はない。答えろ。答えなさい、私は貴方に夢の中からずっと問い続けた」
 競り合った剣を、左手の白楼剣で力任せに払い飛ばす。再び距離を取る。息つく暇を与えない次の斬撃を受けとめる前に、妖夢は闇へと大音声を張る。
 ほぼ出鱈目とも思しき剣が降ってくる。
「貴様はなぜ、私を斬るのだ!」
 老熟の剣士にはあまりに不似合いな、無骨に過ぎる一撃が、銀色の光条にまとわりついて千々の雑念を物語るように筋を乱す。妖夢が交叉させた二本の剣の狭間を穿ち、その刃が力任せにぎちりと鳴かされた。
「大切な人を、守るためだ」
 言の葉は、その重みに長さは比例しない。
 浮かべて見せた妖忌の笑みは、今宵目にした中で初めて、歪み無き完璧なる笑みだった。
「……不満かね?」
「いえ」
 笑みは、妖夢の唇にも伝播する。互いに揣摩の間隙をも与えぬ戦陣は、音なき春風の如く攻守を返す。交叉させた二刀流の切っ先に力が宿り、唐突に同心円を夜闇に描き出す。対手の剣を挟み込んだまま腕ごとねじ切るように地へと誘い、そのまま妖夢が押し切るやと見えた瞬間、その手から剣が離れる。妖忌が僅かに刃を捻り、片方の剣に籠もる圧力を無理に妖夢自身の手へと返した。
 妖忌の名も無き古剣と、妖夢の白楼剣が、両の左手から滑り落ち、薄氷を割るようなか細い音が囁き渡った。双方の体勢がその上に折り重なる。身の小柄さを利した妖夢が相手の下を取り、その懐に飛んだのは、妖忌の手中に剣が戻るのと時をほぼ同じくする。臑を払われて妖忌が身を崩すも、無理な体勢から遮二無二放つ斬撃。老熟の一閃は地に突き立てられた蝋色鞘と経緯様にぶつかり、決定的な攻守の隙をそこに生じた。
 大きく空いた懐に、拾い上げた白楼剣を逆手に握りしめて妖夢の一太刀が閃く。
 微かながらも、空気以外を断つ感触が掌にあった。
(斬った)
 その感触は、妖夢の掌に確かに伝わっていた。
 ――次の瞬間、両断された丸薬が紙包みと共に、地面へと身を投げるのを見る。切り裂かれて枝垂れた妖忌の小袖が、運悪く鼻先を掠め、一瞬遮られた視界が形勢を即座に反転させた。
 雑な蹴撃ではあったが、躱すには距離が近すぎる。
 鈍く重い痛みと共に地面へ転がり、降り注いだ太刀筋は左手の楼観剣でで辛うじて払うのみとなる。長い剣の扱いは咄嗟に身から出たが、脇差しを握りしめていた右の手首が転倒の拍子に良からぬ方向へと捻れたのは痛恨である。瞬間的に大きな力がかかり、筋を違えた痛みが衝撃と共に手首に走った。細い悲鳴。それすらも、喉より外には出さない。
 牽制の太刀を入れて距離を取るとき、己の劣勢をはっきりと自覚する。誰に指弾されるまでもない断崖の如き力量差が、僅かな踏み込み足にも影響を及ぼす。
 老人の瞳は澄んでいた。殺戮の狂気に蝕まれず、正義のない怜悧で荒涼とした眼光。かつて底知れぬ憧憬を抱いた瞳は、今、刃で語らう相手としての私だけを見ている。そしてこの身を躊躇無く傷つけ、追撃の二手三手をその脳裡に追いかけている。
 ――大切な人を守るため。
 妖忌は確かに、嘘のない瞳で孫娘にそう誓った。
「……御免!」
 妖夢は叫び、またも走り出す。
 庭の蹲踞を睥睨、月夜の篝に銀の水面の如き枯山水の玉砂利を、固い飛沫を立てて横断する。
 逃げるな、と鋭い声が追い縋った。逃げても何も変わらぬ、と、間を置かずして更に続く。
 玉砂利の白い波紋を踏み抜き、緋鯉泳ぐ池の汀をなぞり石灯籠の立ち姿を闇の影武者に従えて、只管屋敷の奥の方へ妖夢は走った。つかず離れず足音が追ってくる。今日一日で負った無数の傷が身体中で痛んだが、勿論、立ち止まっている余裕はない。
「逃げるな! 逃げるべき戦いではない!」
 幼少期を思い起こす大喝ははっきりと耳に届いた。更に声は続く。
「そこに、幽々子どのはおらぬ!」
 幽々子が起居した寝殿の、ひっそりとした佇まいは、今もその懐に幽々子の寝息があるのではと錯覚させる。下を通り抜けられる高さで結ばれた廊下、母屋から橋を渡す渡殿の手前で立ち止まり、妖夢は跳躍してその床板に手を掛けた。
 幸いにして、痛みは少しずつ隠れていく。半人霊特有の治癒の速さでなく、昂奮の絶頂に駆り立てる得体の知れない衝動が、痛覚を麻痺させているのだ。
 床板から匂欄へと手を伝わせて力任せに旋転、小柄な体躯を翻して最後の舞台の壇上へと妖夢は躍り上がる。瞬間的に天地の返った視界を、鮮やかな望月の面影が縦断した。

 ◆ ◆

「あれは……!」
 ――朝焼けの空。まるで、そう見えた。
 奇矯な紫色は、罪を宿した桜の色。面積が小さいのは、その光源が比較的近距離にあるからだ。青みがかった紫色の光が、濃い闇を裂いて逆向きの滝のように空へと昇る。測れない夜明けまでの時間の中で、未だ暗く静まり返った空に向かい、確かな宿命が伸びている。
「幽々子どのが、待っているのだ」
 罪色の光に、妖忌は目を細める。
「――急げ! 時間がない」
 西行妖。
 その場所には、白玉楼でもっとも大きく、古い、荘厳な一本桜が佇んでいる筈だ。
「……急いでくれ」
 吐息と共に吐き出すような老爺の言葉は、ついに哀願の口調になる。二本の剣を握りしめたまま立ちつくす妖夢に、背後から焦燥の声が突き刺してくる。
「行きなさい!」
 早く、早く、と、妖夢の胸の中、気持ちだけが先走っている。無意識の内に足は動きだし、
 幽鬼の如き歩みながらも、妖夢は祖父の元を離れていく。
 その瞳には、表情が無い。
 紫色の光以外、何も映っていない。映らなくなっている。ようやく見つけた残酷すぎる真相が心を覆い尽くし、真っ白に塗り替えられた心に、巨大な使命感だけが流れ込んでいる。
 忘我の衝撃。心は、感情の濁流で全て洗い流された。ただ足だけが歩き始め、掠れた祖父の
 声がその背中を最後に押す。
「……頼んだぞ。七十五年前から、お前に託したことだ」


【本文情報】
 版型:文庫版
 ページ数:244ページ
 文字数:約11万文字
 登場人物:魂魄妖夢・西行寺幽々子・魂魄妖忌など。