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【びいだま】


 びいだまを一つ口に含んだ。
 冬の硝子が、舌の表面を伝う冷たさ。
 緑と紫色の絵の具が、混ざり合い泳ぐびいだまの表面の色彩を味わっていた。まるく歪んで見える、びいだまの向こうの景色を味わっていた。
 阿求さま? と呼ぶ声が聞こえたのをほんの少しだけ脇に置いたまま、私はびいだまを嘗め続けている。
 色硝子の味がした。
 
 

 霊夢は納屋におり、魔理沙が肩越しに覗き込むといくつもの小さな壺が石床に並べてあった。
 それは絵の具だと、蔵の奥から霊夢が言う。
 先代以前の誰かが使い残した、相当に古いものだろうと教えてくれた。
 魔理沙は青色の入った壺を少し借り受けた。猪口に絵の具を少し出し、僅かに水を差してみれば、意外にもきちんと溶けて鮮やかな色を出したので面白く思った。
 急に悪戯心が胸に燃え上がる。魔理沙は自分で自分を止めようもなく、
「霊夢ー」
「何?」
「……えいっ」
 振り向いた小さなその横顔に雫を、魔理沙の指先が飛ばした。
「んっ……!」
 霊夢は驚いて小さく声を上げたあと、
「……ふぅん」
 手の甲で、雫が散った頬を拭った。真っ青な線が、白い頬にすうっと延びた。
「――やっちゃいけないことを――」
「へ?」
 霊夢がふっと、唇だけで笑う。
「えいっ!」
 刹那その指から、ぴっと、今度は赤い雫が飛んだ。
 咄嗟に顔を覆った魔理沙の白い袖、赤い斑点が大小に三つばかりついた。霊夢の手にも絵の具があった。彼女も既に、一度溶かしてみていたのだろう。
「それなら――そらっ」
 やおら魔理沙は笑い、手に持ったままだった猪口の中身を霊夢の胸元にぶちまけた。彼女の赤い装束の真ん中をまるで裂くように青は混ざり合い、紫色の太い筋がたらりと股先まで流れ落ちる。
「はっ!」
 霊夢の手には、猪口より一回り以上も大きな乳鉢だ。これは卑怯だと魔理沙は思った。避けられず、肩口からたっぷりと掛けられる。右肩から袖口にかけてびっしょりと被った真っ赤な絵の具が、まるで血のように毒々しかった。
「……この野郎!」
「ふーんだ!」
 絵の具には緑色も黄色も、白も黒も橙もあった。ちょうど蔵の掃除に使っていた水桶があった。二人で手当たり次第に壺ごと浸して、最初は魔理沙が緑色を掛けられる。先手を取られた魔理沙が反撃、藍色の壺を一杯丸々水に溶かして霊夢に頭からぶっ掛けた。程なくもみ合いになった。互いの色が互いに混じり合った。一番目立つ橙の壺は二人で散々奪い合った挙げ句、制した魔理沙が霊夢の顔面に思い切りぶちまけた。
 そこにあったのは、確かな恍惚だった。
 互いが互いの色を避けようとした、だがどうにもうまく行かない。やがて絵の具は蔵の棚にも壁にも散った。床は最早元の色が一つも分からない。何色もの川が床に流れをつくっていた。途中からどちらからともなく、声が枯れそうなくらいすごい声で笑い合った。水が浮いた床にやがて霊夢が足を滑らせて転んで、全身が滅茶苦茶な色に染まった。魔理沙がわざと床にどしーんと、背中から転がった。頭も顔も床にこすりつけて、髪の毛もほっぺたもぐしゃぐしゃにした。服に元々の色が残っている場所を見つけ合っては、二人でそこに何色と言わず絵の具をぶちまけた。声が枯れ、嗄れ声になるまで、滅茶苦茶に散々に二人で笑い合っていた。
 先祖の遺した、大切な絵の具であったという。
 噎せ返るほどの草葉や木の実の匂いが、狭い蔵じゅうに立ち籠めていた。
 やがて絵の具は底をついて、笑うのも疲れて喉が痛くなって、水に溶けた絵の具でびしゃびしゃの床に二人ごろりと仰向けに寝転がった。
 しばらくそうして、何も喋らずにじっとしていた。
  

 永琳の眼前に置かれた団子は白と、緑と赤があった。
「月見団子、って言わなかったかしら」
「はぁ……実は、その」
 兎達の悪戯ですと、そういった旨のことを鈴仙が告げる。申し訳なさそうなその顔に一つ苦笑いをして、永琳は全てを赦しに変えた。
 空を見上げる。項垂れた鈴仙の頭上に月はあれども星はなく、今宵、暗い夜だった。厚ぼったい雲は闇を闇で覆い、弓形の僅かな雲の裂け目に、これぞ何の悪戯か、ちょうど中秋の名月が浮かんでいたのである。
 何気なく赤い団子を半分だけ齧り、――永琳の顔色に、影が差す。
 近頃、月都の記憶を何かが蝕んでいる。最近はまるで安い瓦版のそれのように、白黒に変わり果てた太古の記憶ばかりが脳裏に去来している。
「レイセン」
「はい」
「これ、食べてみた?」
 鈴仙の肩が、小さくぴくりと震える。、
「あ、いえ……お師匠様が召し上がったあとにと思いましたが」
「そう」
「あのまさか――変な味が」
「いえいえ――」
 狼狽する鈴仙を素っ気なくあしらい、囓り余した残りの半分を頬張る。
「ねえ……今日の月は、何色に見える?」 
 せっかくの名月の日に、意地悪な雲が夜空を蝕んでいては台無しだった。
「……白、ですかね。さもなくば薄い黄色」
「うん」
 永琳は立ち上がり、問いかけを縁側に置き残したまま背を向けて歩き出す。
 せっかくのお月見も、今ひとつ気分が昂揚しないのではいけない。
「どちらへ?」
「レイセン。その赤い団子、食べてみると良いわよ?」 
 平和な時が、少しばかり長く続き過ぎてしまったのだ。
 ――罪人が罪人である所以は、裁かれ購う罪だけが罪とされて、誰も裁かぬ本当の罪に気付かないからだ。
 本当の罪は、時が裁いてゆく。
 赤い団子は、悪戯にしては、度が過ぎていた。
 長すぎた平穏の終わりを、永琳は何となく予感する。気付かぬ罪はその毒々しい色を上に上にと塗り重ねてゆき、やがて全てを呑み込む黒へと戻ってゆくのだろう。
 
 
 少女の指が、おはじきを一つ弾いた。薄紅色の顔料が溶けた硝子の雫は床を滑り、眼前に座すもう一人の少女のおはじきにぶつかる。
 それだけの遊びなのに、何故、上白沢慧音の胸に愛おしいか。
 冬空は木枯らしを連れてきていた。冬枯れの庭の片隅には愛らしくも、冬を好んで咲く花、その僅かな色に、枯れ果てた枝の褐色が嘆き掛けている。
 少女がおはじきを弾いた。縁側には現在、数えて七つのおはじきがある。
「私、うまくなったでしょ?」
「ん? ああ」
 無垢な瞳の茶色い光彩が慧音を覗き込んでいて、それは青にも赤にも緑色にも見えた。慧音を敬するその瞳に、よもや新月の夜の慧音が映ることは、無い。
 少女達は次第に、互いのおはじきを競って強く弾き合うようになっていた。間もなく休憩の時間が終わる。
 競い合い速度を増してゆく硝子の煌めきについて、自分のふたつの役目について、慧音は時折、まるで熱に浮かされるように、果てない虚しさに襲われるのだった。
 少女達のおはじきは、縁側を滑って何処へ行くか。
 休憩が終わる間際の緑のおはじきが、とうとう今までで一番したたかに、薄紅のおはじきを文字の如く弾き飛ばした。
 縁側から土間へ宙を舞ったその硝子の色を、またぞろ宿痾に苛まれていた慧音の瞳が見送る。
 やがて、この子達も宙を舞う日が来る。
 ――私はそれを、生業と呼ぶのだろうか。こんなにも愛らしい、教え子の未来のどこかで。
 ぱん、と、ひどく軽い音がして、薄紅色の硝子はまっぷたつに割れた。 
   

 幽々子はその日、白い服を着ていた。
 濃緑のお茶を一口啜って、妖夢は縁側から青い空を見上げた。
 銀杏の落ち葉が黄色い絨毯になった白玉楼の庭に、慣れ親しんだ箒を仕事の半ばで投げ捨てている。
 もう一口お茶を啜った。
 さしたる意味もなく、空をまた眺める。
「……何か見えるの?」
「いえ。早く春が来ないかなーって、思いまして」
 小川の淵に咲く菫。薫る蓮華草。幻想郷、博麗神社の裏手、山裾に根差す白詰草の群生のまるで匂い立つかのように犇めいて、その場所は妖夢のお気に入りでもある。
「幽々子さま」
「ん」
「幽々子さまは冬が、お好きですか」
 幽々子は珍しく、薄い笑いを浮かべた。
「……大好き」
 今年の初雪は、まだ訪れる気配が無かった。
 遠山、峰の上も未だ銀化粧を纏いきれず夏色の蒼さを未だ山肌に残す。山野の銀杏ばかりが冬枯れている。まるで黄色の雪が降りしきったような白玉楼の昼下がりに、妖夢は笑顔で首を傾げてまた少し、お茶を啜る。
 そして、横にある身体に凭れた。
「えへ……幽々子さまー」
「ちょっと、どうしたのよ妖夢」
「そうやって、白いお着物を着ているとー」
 妖夢はじゃれ続ける。箒を拾い上げてくれる庭師の幼い手は、未だ幽々子の肩から動く気配がない。
「なんだか――幽々子さまがまるで、本当に幽霊みたいです」
 何年かぶりに妖夢、幽々子に冗談を言った。
「――」
 幽々子は笑ってくれない。別に怒ったわけではないのだろうけれど。
 だから唯、その儚げな姿が怖かった。雪のように白い着物を召した幽々子が、妖夢に本当に、死者に見えてしまったのだから仕方ない。
 花のような笑顔やあの空色の衣のお陰で、私は貴方が幽霊であることを忘れていられる。貴方がそんなに白いと、桜を愛した桜のような貴方が、いつか本当に桜になってしまうのだと思い起こしてしまう。
 そう思えば不意に、貴方に、なぜだかとても甘えたい気分になったのだ。
 土に埋めた古の約束が、いつしか戻らぬ花を咲かせて。
 そして、散ってしまう怖さを。

 冬枯れの西行妖に、錯覚の白い花が咲いている。
 青空から舞い落ちてきた花びらは、よくよく見れば風の花。
 







 いつの間にか、眠っていた。
 蔵の明かり取りから射し込んだ茜色の光に霊夢は瞼を開け、そっと身体を起こした。魔理沙はまだ、横で眠っている。
 ぐっしょりと重い装束を引きずり、のろのろとした足取りで扉から外に出た。すっかり乾いた絵の具が、一歩を踏むたびに身体のどこかから、ぱりぱりと剥落の音を立てる。
 すっかり夕焼け色に染まった強い陽光に瞳を細めて、郷の景色を見下ろした。
 一日を終わらせる黄金色が、見渡すすべてを染め尽くして輝いている。
「……」
 大きくひとつ、息を吸った。
 博麗霊夢の夢は今ひと色に染まり夕焼け色、やがて降りてくる夜の黒色をまるで拒んでいるように見える茜色。秋は冬を拒んでいるように見える。今日が明日を拒んでいるように見える。
  
 いつしか迎える終わりがあると、知っている。

 だからこそ、――どうかとこしえに、幸せであれと願える。
 この世界を、私は確かに愛している。



 くちびるから、びいだまをそっと取り出した。
 文机に広げたままの幻想郷縁起、窓から朧月、頼り無きは行灯、縁起を綴れる手もとの墨の匂い、仄かに舞う。 
 指でつまんで、くちびるからびいだまを取り出す。
 きらりと一筋、くちびるから唾液の筋が引いた。
 そのまま、またそっと引き寄せて、ぺろっと舐めた。やわらかく口づけた。

 今、この一瞬をこそ、稗田阿求は誰よりも愛していた。

 びいだまを一つ、口に含んだ。
 硝子の夢の味がした。



(了)




 私が自作の中で、屈指に気に入っている作品です。
 自分の作品に対し自分でファンになれた、数少ない作品。
 何事も言葉に表さないと気が済まない私が、珍しく言葉以外の言葉で物語を書き綴れた気がします。

 いつかまたこういう作品書きたいです。
  
(初出:2008年12月13日 東方創想話作品集64)