【或る盲いた兎】

 或る盲いた兎は物憂げな声で、月は今夜も綺麗かと、実に所在無げに問うた。少女の兎は目を伏していた。短い沈黙を挟み、長い髪を風に梳きながらようやく空を見上げて小さく、はい、と答えた。
 夜鳥が竹林の深くで、ほんの微かな羽音を震わせる。羽のようにはらはらと闇に散った小さな音の欠片を、盲いた彼はすうっと首を伸ばし、耳を澄まして拾い集めて、見えぬ瞳でその鳥の姿を見ているようだった。少女は横目にそっと彼を睥睨した。
「良い月夜らしいな」
 夜の静寂に馴染み込む、罅割れた小声ながら彼はどこか歓んだふうに見え、その閉じられた瞳に今度は月の景色が映っているのかな――と、想い少女は眺めた。この兎の柔らかな仕草と、乱れ解れた毛並みに、古びた口調と、その横顔が少女は取り分け好きだった。
 或る盲いた兎は柳のように枝垂れた耳を揺らしながら、不意に気怠げに縁側より降りた。そして、庭石の連なる通りに歩み出した。
 少女が追いかけた夜更けに足と同じ速さで月が往き、星もまた同じ速さで夜空を動いた。少女は足元を気にするよりも、頭上を見上げていた。間もなく月が、頭上の枝振りの向こう側へと身を隠した。
「……姫君は元気か」
「はい」
「あれから、何年経つ」
 問われまた少し沈黙を挟み込んだ少女は、
「――もう、忘れました」
 そう、答えた。“あれ”とは何かと、問うことはなかった。
 そういえば老兎は嘗て、月に住んでいたと少女は聞いていた。
 遥かな文明を手にした都のことを、少女もまた憶えている。この星とは違う色に包まれていたあの古の都を、しかし、屋敷に於いて知る者はもう多くない。
 明るい都だった。活気軒昂、文明の萌芽ヘ著しく、それが平和かどうかを別としても、満たされた時代であったことに間違いはなかった。少女は幸せを感じていた時期を確かに憶えていた。その後、罪なる薬が引き起こした一連の擾乱で自らもまた地球へ下ったとしても尚、あのときの幸せが消えるはずはないと信じていた。
 日の繰り変わる間際の刻限、時は晩春、屋敷に植わりし桜に躑躅も幾度めかの花の既に散り終えて、郷には夏の気配が匂い始めていた。五月を過ぎれば筍の姿も消えた。新緑、そして入梅、あと二度満月が巡る頃になればこの竹林をまた、新しい青竹が覆い尽くすと思われる。
 するとその中には一度くらい、一と月よりも早く過ぎてゆく満月があるのではないか――と、少女は思っていた。
 蓋し、月は一と月に一度逝く。
 そういった考えは痛快でもあった。月の都が幸せだったからに他ならない。而るに一方、自分自身で厭っている八つ当たりめいた愚行でもあり、或いは小さく戸惑うことでもあって、時折過去の楽しさを哀しさに塗り替えてふさぎ込んでしまう、そんな端緒にもなるのだった。
 遠い昔の甘さは、やがて相対的に瑕へとすげ替わり、長い時間を経ても尚疼いた。いずれ忘れるのかと楽観していた過去の罪が、往事の都会の景色を含めていつまでも、胸の痛い場所にばかり去来し続けるのだった。幸せすぎた罪なのだろうと思っていた。遍く月人から敬愛された姫君と共に異国の地で起居する生活になっても、姫君の事より寧ろ、自分の悔恨ばかりに心を奪われる自分が時折情けなく思えた。
 盲は歩みを留めること無く、庭の石から石を渡っていった。渡りながら呟いた。
「儂の目にはもう、月は見えぬ」
「……」
 彼に見えぬ月は、頭上で再び顔を出していた。二羽の頭上にやがて月光は再び時雨れて、頭上の笹の輪郭には蒼白い光が纏われた。
 少女は足許よりも、やはり頭上を気にしていた。
「良いことを教えてやろう」
 盲いた兎は呟いた。
「儂はな、月を眺めすぎたから盲になった」
 少女は返す答えに窮し、また少し前と同じように沈黙を挟んでから。
「そう……ですか」
 とだけ答えて、眉を潜めた。また同じように睥睨した。年寄りに特有の享楽的なその表情から、本音とも嘘とも、少女には掴めなかった。
「月の光は、網膜を灼くぞ?」
 老爺は後押しを加える。
「――御冗談を」
「冗談ではない。儂の眼は、月の光が持つ毒で灼けてしまったのだよ」
「本当ですか」
「本当だとも」
 蓋し美しすぎる物や強い妄執は、人心を惑わす。
 その月の光に、果たして網膜を灼くことは出来るのだろうか?
「御主は――波長を操ることができると言ったな」
「申しました」
「何かを見せたり、見えなくしたり」
「はい」
 盲はここぞ、とばかり、見えぬ瞳を閉じたままで笑った。

「――盲というのはな。それと同じだと儂は思っておるよ」


■ ■


 竹林の深くより梟の鳴き声が、代わる代わる少女を嗤っていた。鳴き声は嫋々とし、長く夜闇に谺するかのように、重ね重ね鳴き続けていた。
 程なく二羽は、元居た縁側の席へと戻った。ぐるりと一回りしてみれば、この邸宅は広いようでいて、猫の額のように狭かったのだ。長らく邸内で起居する少女にとって一種の楽園のように見えていたその屋敷がひどく小さな物だということを少女は忘れることがあった。
 夜の帳は竹を覆い尽くして、古びた邸宅の漆喰の塀へ、脱ぎ捨てられた黒い外套のよ、に凭れ掛かっていた。そこに淡い月光が射して来て、白い筈の漆喰が蒼さに染まっているのだった。蒸し暑い夜だ。間もなく夏は盛りを迎えんとし、にもかかわらず庭のその寒げな色合いが、少女にはひどく不気味な物に思われた。嫌な汗をかいているのが分かった。見慣れた景色であるはずの場所がひどく荒涼として、時の流れに廃れ落ちてしまった零落の屋敷のような錯覚を与えた。
 奇妙にそれが何かしら、凶兆めいた暗喩であるように見えた。
 少女は一つ、大きく頭を振る。
「よいか若いの、」
 老人の声は、次第にか細くなっていった。夜は更けていた。先細りの語勢はまるで、満月から始めて次第に欠けてゆく、月の翳りの理に似ていた。
「……御主の姫君を、儂のようにはしてくれるな」
 盲いた兎は、哀願の口調でそう言うのだった。
 少女の方を顧みることなく、ただ首をもたげた前方、そのまっすぐ水平に先の方だけを彼はじっと凝視めていた。
 少女は問い掛ける。
「姫様の目も――すみませんあの、貴男と同じように……いずれ見えなくなってしまうのですか」
「さて」
 失礼を承知して投げた質問だったが、答えを呉れることはなかった。
 少女は、急激に不安に襲われた。
 不気味なほどの蒼い月、今宵も姫は窓際のあたりで、この鮮やかな月を見上げているのだろうか。
 満月は夕べに通りすぎていた。淵を微かに翳らせた、雫のまま凍り付いた真冬の樹氷のように冷涼とした、十六夜の歪な月鏡が静かに少女を怖がらせていた。今宵珍しく話し掛けてきた老兎、その唐突な話の切り出し方も、少女の胸に黒々とした月影を投げ込んでいた。
 盲はひどく簡単に、そのことを口にしたのだった。

「――間もなく、月から禍が来る」

 少女の胸がどきり、と高鳴った。
「どういうことですか」
 縋るような声になる。
「さて」
「あの……、姫の身に、何かが起きるのですか」
 少女は更に追い縋り、
「……御主にも、聞こえんかね」
 哀しげな老いぼれ兎の声に、はっとさせられた。
 盲は、老い切った表情でまた、暗い夜空を見上げていた。
 彼は今宵、幾度も幾度も空を見上げていた。
 彼は嘗て、月に暮らしたことがあるという。少女よりも長い年月を彼は、あの古の都で過ごしていたという。
「儂が御主に言えるのはひとつ。月の光は毒になる」
 それだけだよ、と老爺は付け加え、少女はそれ以上何も聞くことが出来そうにない老爺の面影へ静かに従った。
「――なるのですか」
「なるとも」
 老人は頷き、少女が彼が来る前に用意していた杯を舌先で舐めた。
 盃には、少しの酒を容れてあった。
 酒には月が映っていた。彼が舐めると、煌々とした月の輝きは波紋の上にさざめいて、刀で寸々に切り裂いたように細長く、ばらばらに散った。
 少女の脳裡を支配していたのはその時、月の姫の長い長い黒髪と後ろ姿だった。姫は、月を見上げるのが好きだと云った。例えそれが月に対する怨嗟、或いは皮肉や嘲笑であったとしても関係ない気がした。関係なく、それがひどく危険なのではないかと少女は直感していた。
 姫が背負う髪は、とても黒くて美しかった。美しく、そしてどこまでも黒かった。彼女はいつも背に闇を背負っているのだった。飛び込めば底なしの闇へ堕ちてゆけるようなあの漆黒の闇を彼女は背負って、満月の夜を見上げているような気がしていた。
 姫が月に抱く想いのことを少女は、何一つ知らない。
 ただ、漆黒の髪は、恰も桎梏ではないか。
 未来へと唯流れ続ける、深い深い闇ではないかと、少女には思われるばかりだった。
「――姫君のこと、気を付けておけ」
 脅かすように盲は、言葉を加えて最後に欠伸をする。自らの開かずの瞳をひとつ、愛おしげに前脚で撫でた。
「あの姫だけ――どうか、儂と同じにはしてくれるなよ」
 月を見る姫は雅やかにも、途端に儚げとなる。暗く静かな湖面に漂う月へ、水面を掻き乱しながら手を伸ばしてそして壊してしまうような錯覚を、少女は思い描いた。とても下賤な想像だと想いながら、その想像を自ら抑することが出来なかった。
 呵々とした笑いの、身の横より淡く立ち上り、静寂を分けて夜空に消ゆる先は見果てず、風は恰も虚勢のように弱々しく、終いに時よりもゆっくりと南へ下った。下る頃に、老いた兎は身を縁側に横たえた。



 「禍。慫慂に黙し難し、則ち業。――或いは満つれば欠ける、理の如くに」



 ――その老いた瞳が、月でも姫でもない、別の“誰か”を睨んでいたことに、少女は気付かないで居る。

 不安の雲が胸に垂れ込める少女の耳朶には、老爺の吟ずる声が獄卒の祝詞のように聞こえていた。風にささめく枝葉は恰も幽鬼の手招きのように揺れて見え、そして月だけが雲に隠れる事もなく、漆黒の天蓋の中で煌々と輝き続けていた。
 夜の雲が月光に縁取られて、まるで空に浮かびながら蒼い炎に灼かれる燎原のようで、地上の屋敷も夜にして蒼く、それらがすべて、ひどく陰惨な景色に映っていた。
 少女は到底黙っていられず、隣の老人に言葉の真意を糺さんとし――気付けば静かに眠ってしまった、老い果てた兎の小さな背中をそこに見る。
 音のない寝息が、月影に溶けて消えようとしていた。
 やり場を無くした焦躁はやがて抑えきれず、心臓の音になって静かな夜に轟き渡り始めた。少女の敏感な耳は自らの心音と、そして月から巡り来た――或る小さな情報を、そこで確かに捉えた。
「――!」
 安寧の日々が、間もなく月によって壊されるとしたならば。
 少女は更に耳を澄ました。研ぎ澄ました心の中に古の都と、そして薄く、姫君の後ろ姿がちらついた。
 禍が来る、と知らせた当の彼は、その言葉と裏腹に安らかな顔で眠っていた。明らかに色を変えていた月の波長は、明確な異変の予兆を、少女の耳に告げてきていた。
 少女には、空に浮かぶ月の中に何も見えなかった。都の絢爛たる灯火、高度に育まれた文明、渺茫たる月海原の海平線も今や幻だった。
 今宵少女の瞳に、月が儚く見えていた。
 そして儚い月は、蒼く、白く、少女が今まで見た中で一番美しい月だと思ったのである。
 幻の都がもたらす異変の悪寒を、瞳に映せているのは今、自分でもなく、また姫君でもなく――冷たい時の褥に身を横たえている、老いた一羽の兎のみであると少女は思っていた。少女は焦りを感じていた。
 姫だけは、必ず守ってみせると――
 大切な人達を裏切ったあの日、心に決めていた筈だったからである。

 或る盲いた兎は、少女の隣であくまで静かに眠っていた。
 ただ少女だけが音の消えた夜の中、抑えきれぬ胸騒ぎに心を埋め尽くされていた。静かすぎる月夜は更けていった。
 蒼い光は屋敷に燦然と降り注ぎ、盲いた兎達を悉く濡らし尽くしていた。


 やがて起こり来る、擾乱の手前。
 本当の盲が誰なのかを、罪深き少女だけが、知らずにいるのだった。
   




 時々、破滅寸前の永遠亭を描いてみてることがあります。それを物語にするのではなく、駆け落ち同然に転がり込んだ人が住み暮らす永遠亭の危うさ、みたいな。擾乱の火は決して消えていないのだよ、みたいな。
 本気で物語にするととんでもなく長くなるであろう上、影を背負ったキャラがどす黒く染まり返りそうで怖いです。
 鈴仙はうさ耳っ子であって、それ以上でも以下でもないっ。

 作品としては、私自身絶不調の時に書いた作品です。
 SS書きを始めてから、多分初めてぶち当たった本格的なスランプの時期でした。
(初出:2008年6月24日 東方創想話作品集56)