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【阿礼少女】


 筆を持つ手が疲れてしまい、気散じも兼ねて阿求は久々に詰碁を広げた。角の潰れた、古い指南書が書架に埋もれていた。穿たれた窪みの数えきれぬ、少し黒ずんでしまった碁盤を黴臭い押入れの一番奥から出してきた。綿埃は灰のように積もっている。碁笥の渕はいつの間にか欠け落ちて、盤をどけたそこに黒曜石の破片がきらめいて棚板に細く散っていた。白石の破片は細め雪に似ていた。
 詰碁百題は、子供時分にさんざん読破した。それよりだいぶ年月は経ったけれど、やはりそう簡単に答えを忘れるものでもないようで、手始めに三問ほど、やさしいのから難しいのへ順番に問題と答えを並べていって結局何の役にも立たなかった。どれもこれも答えを丸々覚えており、すると元々が気まぐれだったから、当て処のなさで途端につまらなくなった。
 並べた詰碁をがらり崩して、阿求は行儀良く畳んでいた足を、ぽおんと畳の上に投げ出した。
 詰碁集は他に何冊か持っていた覚えがあるがどうだっただろう。毎の年の瀬に押し寄せる、大掃除の波に攫われてしまったかもしれない。あまり手をつけないままの本があった気もするが、何よりあの黴臭い押入れや書棚の奥を覗いてまで、そんなものを探す勇気が出なかった。
 黒石をひとつつまんで、阿求はぱちっと、盤上の天元に打ち込む。
 その音だけが、白と黒の石を使った知恵遊びの昔を、色鮮やかに蘇らせる。
この音を聞くと、何だかえも言われず心が引き締まるような気がして、昔は意味もなくこうしてぱちぱちと、ひとり石を天元に打っては拾い拾っては打っていた。それだけで楽しかった。
音を聴くだけでも碁はそう、楽しくて、心はわくわくし、そんなことをしていればそのうち大抵は暇なお爺たちが音を聞きつけて「やいやいひとつどうだ」と、相手を買って出てくれたものだ。
 遠い想い出に、阿求は目を細める。
 ふと思いを為して立ち上がり、壁に掛けた書簡差しに歩み寄った。

「……これだ」

 あまり多くもない手紙の束からそれでも割と難儀して、阿求は、赤茶けた粗末な半紙の一枚をついに探し出した。ふと零れた苦笑いは、その紙が未だ捨てられておらず、書簡の中でしぶとく残っていた事実そのものに向いていた。
 広げ、文面を眺める。
 誰も居ないひとりの部屋――阿求はひとり、赤面した。
 並ぶのは、随分と昔日の字である。気付くだけで漢字の間違いが二つあった。からかうような春風が吹き込んで、横様に髪を揺らした。火鉢の埋み火が僅かに、柔らかな熱を狭い部屋へ運んでいる。
 幼い頃の書き字というのは、どうしてこんなにも恥ずかしくなるものか。
 それはきっと、阿求が思うに単純な巧拙が一つあり、そしてその文字が綴る文章を読むにつけひたすらに稚い、まだ何事も知らぬままの自分がそこに霞みたく漂っているようで、正視に耐えぬせいだとも思われた。あまり古い手紙を漁るのは心によろしくないなあ、と、阿求は広げてしまってからそんなことを思った。
 出せずじまいのこの手紙を、書簡入れの奥の奥の奥に押し込んだのは、十二とか三とか、確かその辺の年頃だったか。
 阿求はそれを畳んで戻しかけ、――ふと思い直し、手に持ったまま十九路の盤面の前へと歩み戻った。
 今度は、足をきちんと正座に組む。
黒白ふたつの碁笥を、手元に寄せて瞑目する。

 ――小目。

「……おねがいします」

 瞑目。
 星、星、高目。
 阿求は石を取り、古い盤面の四隅へ順に、黒と白を交互に打った。
 続けてケイマガカリ。ハサミ。そこからツケノビ、定石が一通り――
 指が憶えているように、あの日あの昼下がりが、榧の木目に拡げられてゆく。
 ――求聞持。
 そんな名前の付いた強力無比なる生来の能力であったが、さもなくとも熟達の者であれば、棋譜の諳誦程度は容易である。彼が例えばそうであったように、手順通りに進行する巫術の儀式のように、一週間も前に打った碁の対局を順番通りに並べてゆく様子は傍から素人が見る分には手品でも目の当たりにする思いだが、確かにいた。
 阿求が遠い昔に打った、ある一局の対局の譜。
 ゆっくりと弥生花霞、ひとりの部屋に音を響かせながら、追憶は十九路の上へ蘇ってゆく。小目へのシマリは、あたかもその頃の「阿求という少女」の象徴であるように、「今の阿求」には見えていた。
 散々並べた棋譜である。

「……」

 並べ続ける手をふと戻し、阿求は手紙を今一度広げた。そして、また粗略な文面を紅い頬で眺める。
 今ならばもっときれいな字を書く。筆など闊達に滑らせて、また紙もこんな粗末なざら紙に書かないし、そして何よりもっと華美で高尚な文章に起こすことも出来る筈だ。自分の中で忸怩たる想いと、あと一種の証文と同じような存在感が、こんな駄文を捨てさせてくれなかった。
 自分がこんなにも恥ずかしい子だったのかと、乙女心に対面させられて阿求は思わず口元が綻んでしまった。だらしない表情が姿見に映り込み、肩の力が抜けてゆく。情けない話である。年を経るごとに嵩を増したあれやこれの手紙の束の、その一番奥に眠らせ続けたその古い手紙はその様の通り、心深くにぎゅうぎゅうと押し込んでなお燻り続けた、春の日の埋み火だった。
 手紙を横に置く。

「失礼いたします」

 部屋の襖が、す――と、小さな音と共に開いた。
 棋譜の続きの一手を、再び盤上にかざした瞬間である。
 表情を曇らせた家人はひどく掠れた声で、早口の小声で要件を言葉にする。

「家人の身内に、不幸がありました。……ご支度なさいませ」
「はあ。……分かりました」

 阿求は頷いて、膝を打ち立ち上がる。
 碁盤を片付けようか、と少し迷った。未だ完成を見ず手招きでもするような想い出の出来損ないを、阿求はしかし帰宅してからもうちょっと、並べてみたい気がした。
 出掛ける時には雨が降るといけないから、番傘を持って行こうと思った。
 それから、喪服の場所がどこだったかと、少しだけ気にした。
 それから、
 
「どなたですか」

 と、そこで問うた。

「は。…………あの、それが……」



 春はまだ、少しだけ遠い日だった。
 郷の雪は既に消えていた。黄緑に萌した若草、南風の息吹、花芽、わずかに顔を出し始めた土筆が愛らしく、野草の間を縫い染める穏やかな昼下がり。
 開けられた襖の向こう、はっきりと見えたのは青い晴れ空だった。廊下の遠く先から、ばたばたと人の走り回る音が聞こえていた。
 家人の口が、不幸の名を告げる。
 鴉が低い声音で、どこかいたずらに近い枝で啼いた。遠い遠い山の向こう、そのまた向こうのどこか遠くで、唸るような春雷の音が揺らめいた。
 家人が、広げられた碁盤をちらと見遣る。口許を覆った袖に、雫の痕がある。

「――」
 
 阿求の指から、白石が滑り落ちる。
 盤面に広げた棋譜を、鋭い音で砕いた。



 

* *


「求聞持という力を授かったのですから、阿求様も大変です」
「……そうでも、ありませんが」
 
 多少の敬意が込められた彼の声音に、阿求は気負わぬ答えを返して笑った。物を忘れぬことに優越を感じたことはなかった。ものを忘れられぬというのは、寧ろ時折不便なことでもある。
 幻想郷縁起を編纂しているといっても、歴史家をやっている気はない――と、密かにそういう思いもあった。それは、自分にだけ出来る生業に対する、阿礼乙女としての誇りでもある。だからある種、例えば剣玉をうまくできるだとかかくれんぼで絶対に見つからないだとか、お手玉を三つ回せるだとか四つ回せるだとか。
 そしてたとえば囲碁をうまくできるだとか、そういったものを特技と称するのであれば、求聞持などは所詮特技かもしれないと阿求には思われていた。周りの誰かがそやしてくれたとしても、当の阿求自身がそう思っているのだった。
 彼は、苦い笑いを零しながら、頭を掻く。

「――少なくとも碁打ちをされるに至っては、大変便利だと思いますよ」

 苦々しい表情が対局の戦況を雄弁に物語っている。碁は難儀な遊びで、定石などといった丸暗記の要素がある。彼はそれに言及しており、今度は阿求が頭を掻いて返す言葉に窮した。
 彼が笑っている。
 阿求は、碁盤の前から庭の向こうを眺めた。

「……寒くはありませんか?」
「それを言うなら、阿求さまの方こそ」
「私は大丈夫です。寒さには、割と強い方なのですよ」

 彼から観れば仕える家の若主。阿求から観れば年上の家人で、榧の碁盤を挟んで互いに型通りの敬語をぎこちなく使いながら、中身は何も中身のない、取るに足らないやりとりだった。昼間の柔らかい時間に、そんな会話がとても温かかった。
 晩冬。ようやく三月を迎えたばかりの季節に、二人は縁側の戸を開け放していた。碁盤の少し離れたところに火鉢を据えて、三方の襖を閉じ立て、そして縁側の一角だけを屋外に繋げた。新緑の薫りが、仄かにぽつりぽつりと枝で芽吹き始めている。この屋敷でもいっとうの年嵩である爺が、職域を超えてほとんど趣味半分の入念さで手入れをしている庭は、そう広くないものの品位と風格は大変良かった。畳の上から火鉢にあたって眺めた。日の光に照らされた葉の緑色、玉砂利の白、蒼い岩に濃緑の苔の紋様を見ると鮮やかでとても良かった。春を目の前にした陽射しがすべての色を際立たせていた。流れ込んでくる寒さも、まるでその清涼な景色の一部が風になって切り取られてくるようで、苦痛な筈もなかった。火鉢の小さな温もりと景色と碁の楽しさと、もうひとつの温かさが傍にきちんと在ったから、寒さなど一つも気にならなかった。
 しなやかな指使いで、彼の一手が盤上に返る。
 雄麗な太刀筋の様に勇ましい阿求の指使いが、応手を放つ。
 ……正座した足が痺れて、阿求は「すみません」と云い足を横に少し崩した。彼はくす、と柔らかく笑い、阿求は途端に赤面してしまう。
 慌てて足を組み直そうとしたが痺れでうまくいかず、あたふたよろよろとしていたら彼が「えいや」と、盤上阿求の模様の真ん中へ飛び込みの一手を打った。
 「うぐ」と、阿求が呻吟する。

「……ところで、阿求様」
「ちょっと待ってください。今考えておりますから」

 彼の話しかけが、何かの術中に嵌めようとする奸計に聞こえて無視を決め込む。その沈黙を抜けて、彼の声は集中力を研ぎ澄まそうとしていた阿求の耳朶を邪魔してくる。

「碁も良いですが――実は少し、本日は大切なお話がありまして」
「え……」

 しのぐ一手を必死で求めていた、阿求の手が止まった。
 
「えっと、その……それは……今でなければいけませんか」
「ええ、できれば」
「……」

 阿求の心音が、俄に高まる。そんなわけはないのだという自己否定は虚しいまま、力無く理性の地面へと堕ちる。
 大事な話など、別にいくらでもあるだろう。
 そう思っても、不埒な想像ばかりが風船のように膨らんでしまう。人の心を読める妖怪にでも傍にいられたら今すぐにでも舌を噛み切りたい恥ずかしい思考は、そういう思考の引き出しが自分の中にあったのだということだけでも驚愕に値する。
 乙女心。
 律動的な拍動を直截に聴かれてしまいそうな高い動悸が、急激に早鐘へと転じてゆくのが分かった。額に冷たい汗までが浮く。
 定石通りに進め、凪いだ水面に、彼の放った攻め込みの一手が細波を作る。現在進行中の対局はそんな戦況で、盤面序盤から中盤へと差し掛かる頃合い。
 阿求は二つの応手を同時に探っていた。
 からからと碁笥の石を指で弄む。喉も少し渇いた気がする。沈黙の長さに耐えかねた彼が、また一つ口を開こうとし、

「……阿求さまー!」

 その時不意に、幼い声がした。
 静かな座間に飛び込んだ小さな影を阿求は咄嗟に抱き留めて、跳ね上がった影の踵が碁盤に当たりかけたのを見た。どすん、と爪先が畳を打ち、震撼された盤上で石が今度は僅かにずれた。
 阿求の胸へ飛び込んだ小袖の少女を目の当たりにして、彼が、忌々しそうに眉根を寄せる。

「……碁の邪魔はするなと、前々から言っているはずですが」
「あ……ごめんなさい」
「いいのですよ。お構いなく」

 抱き留めた少女、茅の小さな頭を撫でながら阿求は安堵していた。不義理なことに、紛れもなく「ほっ」とした想いを感じていた。
 会話を妨げられた彼の顔は渋い。
 茅は彼の妹である。
 柔和な物腰が剣呑へと変化した場の空気は、それでも柔らかい。茅は嬉しげに阿求の腕の中にあり、その兄の渋面も、阿求からすればそれはそれで微笑ましくもあった。噛みつぶされた苦虫までも微笑ましきは、稗田の家に兄妹で出仕している彼の、無愛想な言葉とは裏腹の底意を思えばこそである。平素、茅には粗野で冷淡な接し方をしている彼の、その実妹に対する情愛は彼がいかに隠そうとも、最早屋敷の誰もに知れている公然の秘密である。
 碁盤の向こうで、兄が阿求に目を合わせ、非礼を伏し目で詫びた。
 阿求は首を横に振った。

「……茅。今は阿求さまと、少し大事な話があるのです。悪いですが、席を外していてもらえますか」

 兄はあくまで静かに、平素に無い丁寧さでもって妹を諭す。
 茅は頬を膨らませ、ふい、と阿求の視界から後ろに消えた。ゆったりした摺り足が畳の藺草に擦れ合い、気配は衣擦れのような繊維質の音を立てて阿求の背中側に回り込む。
 間もなくすとん、と、茅の顎が阿求の肩に落ちてきた。
 か細い腕が阿求の胸の前に回され、身を預けられた重みが背中にかかる。ふわりと温かく、無邪気な吐息が頬にかかった。

「茅」
 
 兄の顔がいよいよ険しくなる。

「――いいえ。茅が同席でなければ、私も話を聞きません」
「阿求様?」

 言葉は止める事が出来なかった。心の中に不意に灯った逃げ道は気付いた次の瞬間、明確な音とあやふやな意思を持って、静かな部屋の空気の中で声になっていた。
 わたしの、ばか。
 阿求は咳払いを一つ挟み、視線を外に逃がした。
 
「阿求さま、――本当に居てもいいの?」

 茅がもう一度、最後の選択肢をくれたというのに、
 
「もちろんだ」

 ――ばか。

「――さすが! 阿求お姉様は優しゅうございます!」

 頭の悪い妄想に塗れた「大切な話」を耳にすれば、自分の痴態を自分で噛み締めてしまう。
 彼がそんなことを、私に言うはずが無いじゃないかと下らない自省を施し、阿求は茅の残留を許した。無邪気に跳ね上げられた幼い声は甲高く、庭の鳥のふためいて、僅かに柿の枝が揺れる。
 茅は嬉しそうに阿求の背へ凭れたまま膝立ちになっており、ぱたぱたと足を跳ねさせた。
 弾む声は阿求にふと笑みをもたらし、他方で兄をいよいよしかめ面にさせ、茅の無邪気さに息を抜いた阿求はそこでふっと閃き、盤上の攻め込みにキリ返しの一手を放った。
 「ほう」と、今度は彼の方が唸る。
 大事な話は、開け放した家の果てにある山並みみたく、手の届かない向こう側へと遠ざかってゆく。
 「大切なお話」というそれだけの言葉で、彼と二人きりになるのを阿求は怖くなってしまった。どうしてこんなにも怖がるのか、阿求にもよく分からなかった。分かっているから分からなかった。
 躊躇いがやがて後悔に変わると分かっていても、今の関係を崩したくない等という生意気な気持ちもあった。素直になりきれない想いが、闖入者の茅を場に繋ぎ止めた。碁を打つ手を留めさせず、彼の話の切っ先からこそこそと逃げ隠れようとした。
 自分は茅と、そして碁盤の上の一手に大役を押しつけてしまったのだろうか。
 違うだろう。
 茅は良い子で、自分より四つほど年下になるこの童女を阿求は普段から妹扱いにしていた。茅も阿求に良く懐いていた。奉公先の主人である阿求を「お姉様」などと呼ぶ無邪気さが赦されているのは、偏に阿求の善意そのものである。兄がいくら改めるよう諭しても、聞き入れない理由でもある。
 
 
「――郷を、出ることに致しました」

 前触れもなく、そう彼が言った。
 あまり重みのないどこか拍子の外れたような軽々とした声音で、「大事な話」は告げられた。
 瞬間的に去来した思いは、慕情に絆された甘い言葉でなかったことの安堵と、発せられた埒外の言葉に対する理解障害である。

「え……」
「出ます」
 
 間の抜けた返事を返した阿求に、念を押す強い語調が返される。
 茅は予め知っていたのか、黙って笑顔のまま、特異な表情を繕うでもなく平然として阿求に甘え続ける。いつものお転婆がしかしそこで陰に隠れて、背中に預けられた身体がすっと静かになる。
 きいきいと夏虫のように騒ぎ立てる普段のお喋りも無く、心なしか強い力で阿求の背に凭れ掛かる。居心地の悪そうに足だけをひょいひょいと動かして、揚浜を載せた碁笥の蓋にぶつかった。三つほどの石が畳に散った。
 阿求がそれを無言で拾い集めた。
 ごめんなさいをきちんと言えるはずの茅が、ぴくりと驚いたきりで、何も言わなかった。

「……理由を訊いてもよろしいですか?」
「ええまあ……かねがねお話ししていた事ではありますが――」 
「絵」
「そんなところです」

 阿求は一つため息をついた。既に彼の一手は碁盤上に返っている。応手を淡々と探りながら阿求は瞳を閉じる。対局の最中に拮抗した盤面が、ただ白と黒の模様にしか認識できなくなっている。
 次の一手、趨勢を左右しかねない微妙な彼の一手に対する応手はそう容易に浮かぶはずもなく、かといって彼の言葉を真っ正面から受け止められるだけの力もなくて、混乱したままの頭が外気に冷やされた。
 噂話をかねてから聞いていた。青年は西洋の絵に志を開き、そしていつしか屋敷の家人などという自由の利かぬ身を厭うであろうと、それは別段秘密裡になっていたこともなく、噂好きの家人の口々にも彼はいずれ巣立ってゆくのだろうとあり、遥か昔に兆候を見せていた予定調和である。家人衆の無責任な噂に、阿求は自分でも好奇でそれに耳を傾けながら、しかして何の準備もしていなかった。
 それはいけなかったのかもしれない。が、それで良かったのかもしれない。
 大切な話が大切だったのだ。彼に告げる言葉が、今の自分にあるのかどうか。
 ”心”の面で布石を疎かにした阿求の陣形が、彼の不意の一手によって大きく切り崩されている。囲碁の基本を疎かにした阿求の心は攻め手を受けて千々に揺れ乱れる。まっすぐで緩やかな日常のぽかぽか下り坂が、下った分だけ昇る時があるのは必定だ。確かに実在した日々と、それが恒久に続いてゆくと錯覚された、あまりにも穏やかな日々。
 彼を招いている今この部屋の壁には、阿求の書簡差しがある。
 その一番奥に押し込んだ――ただ書き散らしただけのような、粗末な気持ちを乗せた粗末な紙を、阿求はふと思った。
 ――あの文は、一体誰が受け取るというのか?

「おつかれさまです」

 阿求が悶々としていると、家人が廊下にひょいと現れた。
 三十を少し超えた年増は、活動的に小袖を襷掛けしたまま手に桶を持ち、三人の姿と碁盤の光景を一瞥して微笑んだ。

「……どちらの方がご優勢でございますか」
「阿求様の方が、がんばっておられます」
「嘘ですよ嘘。互先で打ったのは今日が初めてなのです。そうそう歯は立ちません」
「はは……それではまあ、双方拮抗ということでお預かりしておきましょうか」

 家人の楽しげな茶々が、蟠っていた緊張や毒気を抜いてくれることを期待した。
 茅は相変わらず、何も面白いものの無い場所で尚楽しげで、盤上を眺めたり、庭の景色に移り気してみたりと忙しない。
 ようやくそれを、にこやかに眺めることができた。雪兎の柄を染めた茅の小袖は見るからに無邪気で、小柄で健気げな身体によく似合っている。
 阿求が何気なくその髪を撫で、茅はまたくすぐったそうにした。家人がふと、笑みを漏らした。

「阿求さまと茅殿を見ていると、姉と妹みたいですね」
「あー……あ、はは」

 阿求は苦笑いするし、茅は嬉しそうに顔を綻ばせて、より強く阿求に抱きつく。

「私も、阿求さまはお姉様だと思っておりますよ」
「……そうか。ありがとう、茅」

 哀しいほどに心ここにあらざる言葉は、言霊としてだけ強い力を持っていた。
 彼が真剣な瞳で此方を見つめている。
 どことなく、気まずい空気に変わる。
 茅は姉に寄り添い、家人がふと、笑った。

「ちょっと茅。洗濯物が今日は多ございまして」
「……?」

 家人の手招き。

「茅。悪いけどちょっと、働いてもらいましょうか」

 それまでの無邪気な振る舞いが、茅の表情からすっと消えるのを阿求は見た。立ち上がった茅の背中はあっという間に阿求の許から遠ざかる。
 止める間もなく、阿求の意思などには元よりかかずらうこともなく、家人の手招きに乗じられた茅は部屋を後にして障子を閉める家人の瞳、最後に片方だけ閉じられて、そして悪戯っぽく微笑んで障子は閉じられる。
 家人のお節介を、そこでようやく阿求は察した。
 摺り足のようにして廊下から立ち去る二組の足音が、がんばれがんばれと無責任に応援する姿の見えない野次馬になる。
 腹立たしいほどに、部屋が静寂を取り戻す。
 開け放して庭の見えていた障子も今は家人が閉めてゆき、閉じきられた四角い空間に二人と一局だけが、同じ空気を吸っていた。
 火鉢の炭の匂いが鼻をくすぐっていた。いつしか停滞していた盤上の対局が、いくつもの目で二人の行く末を眺めていた。
 止まりかけていた白黒の時計を、阿求の一手が再び動かし始める。

「茅はどうするのですか」

 ぱち。

「郷に残します。願わくば、阿求様のお膝元でしばらくご厄介になれればと思いますが」
「私は構いません。ですが――」

 ぱち。

「私も構いません。阿求様が見ていてくださるのであれば、私は何も心配しておりません」

 ぱち。

「そうですか――」

 ぱち。

 五つ上の彼は、それでも家人では阿求ともっとも年端が近かった。面倒を見ていた茅のこともあり、そして何はさておき碁打ちとしての才腕を磨き上げた阿求が最後に攻め残した城が彼である。名刀求聞持を手に爺達のことごとくを撫で切りに附した阿求が、最後まで越えられずにいる壁。
 想いを思えば想うほど、恥ずかしい気持ちが膨らんでくる。
 三手先も考えられない。
 縁側からの寒気は字に書いて通りのどこ吹く風、会話の途切れた和室は空気が痛く、盤上には静寂が降りてくる。
 
「どのくらいで帰ってこられるのですか」
「分かりません。五年になるか、十年になるか。でも――」

 そこで彼は、ふと言い淀む。
 じっと瞑目していた。からん、と、指にしていた碁石が碁笥に落ちる。張りつめた糸のような空気はやがて針にまでなり、言葉を挟めずにいる阿求の肺腑を刺す。
 彼は目を閉じ、口を真一文字にして、何か大事なことを考えている風情だった。
 庭からまた一つ、鳥の羽音が聞こえる。

「……この場所に戻らぬ覚悟で、参るつもりです」

 くっと、阿求の息が詰まる。針はより急峻に刺さる。
 阿求はじっと、彼の眼差しを真正面から見つめる。
 
「あ、いや――」

 視線をはずしたのは、彼の方だった。

「戻って来ぬ、という意味ではありません。そういう決意で、という意味ですので」

 誤魔化すような声音を繕ったことに、逆説的な真実味を阿求は感じてしまう。声は笑ってさえおり、表情はいつも通りの柔和さである。
 笑顔が、しかしどこかひどく脆そうだった。
 守るべき物や失いたくない物の未練を捨ててゆく第一歩は、力強さと堅さの引き替えに、脆さと危うさを孕み込んで阿求の耳朶を打つ。
 阿求の中に、今まで萎んでいた現実感が急速に沸き上がってきた。

「必ず帰ってきてください。茅も悲しみますし――あなただって茅のことは大切なのでしょう」
「ええ、もちろんです」
「茅はこれから毎日あなたを想うのですよ。何年経ってもずっと楽しみにしてくれています」
「はあ……」

 想いのままに溢れ出る言葉は自制も利かない。平静を繕った阿求の唇から、味のない言葉が零れ続ける。
 からかうような春風は静かに盤上を吹き抜けて、遠く茅の話し声の方へゆっくりと駆け抜けた。
 壁に掛けられたままの名も知らぬ軸がゆらゆらと揺れ、鳥はぴいと小さく鳴き声を残して空の上。
 彼は従容と聞いていた。
 
「分かりました。茅のことは、私ももちろん心配です。元気で帰ってこようと思います」

 ――こくん、と一つ阿求は頷く。
 いくつかの別れを覚え、人を悼む涙を流した阿求は知っている。
 春が過ぎ、冬まで時間が駆け抜けて再び巡り来る季節がある中で、とこしへに戻らぬ者もあると知っていた。現実になりえぬ夢と、現実に返らざる夢の違いを阿求は知っていた。
 止められるものなら止めたかった。
 話を聞くことを恥じ入ったりしている暇など無かったはずだった。
 必ず戻る――その言葉を信じられるほど、阿求はもう幼くない。

「――さて」

 からり、と碁笥の一つ泣いて、阿求の一手が盤上に翻る。
 家人を捕まえて、楽しげに遊んでいるらしき茅の声が遠い向こう側から聞こえる。 
 縁側に、ひらりと黄色い蝶が飛ぶ。

「では、私からも最後にお尋ねしてよろしいですか」

 気まずい沈黙を破ったのは、また彼であり。

「――阿求様は、望んでくださらないのですか?」
「は?」

 またしても強い言葉を、碁盤越しの少女へ放り投げてくる。
 急所にキリを入れた一手も忘れて、阿求は彼の顔を見た。

「阿求様は今、茅が私の帰りを待ち望んでいるからとおっしゃいました。では、」

 す、と彼の瞳が、真剣な色を帯びる。
 吐息に高い温度が混じる。心音勇ましく、掌に、汗が浮く。

「阿求様ご自身は、私の帰りを望んではくださいませぬか」
「私は――」

 二本の指で拾った碁石を、碁笥の中に滑り落として軽い音になる。弛緩した指は二の句を継ぐ前にふわりと宙を掻き、言葉を呟きかけて開いたままの口許へやって、零れ掛けた科白を柔らかに覆い隠す。
 隠してはいけない。
 だけど、言葉に迷う。
 どきどきと、むやみに高鳴る心音を聞きとがめられないか心配だった。
 言葉にならぬ頼りなさに、よすがのない想い。自分の気持ちが、自分で分からなくなるような錯覚を覚えている。

「私は――」
「はい」
「もちろん、私もお待ちしています。大切な囲碁仲間が居なくなってしまうのは、口惜しいことですから」

 ――。
 ――わたしの、ばか。

「そうですか」

 にこりと、憎めぬ笑顔が悔しかった。 

「休憩時間も終わりますね」
「あ」
「この碁は、打ち掛けということにしておきましょう。次に逢う日までの」

 彼は席を立つ。打ち掛けは、途中止めの意味を持つ。
 打っていた盤面が止まる。時計の発条が尽きてしまったように、盤は今から、長い眠りに入る。
 阿求は見送るしか出来ない。
 華やかな未来が、旭光のように輝いて彼の行く末を照らし出しているのが見える。大きな夢に導かれる彼の時間はきっと、時計も約束も振り切っていつかひとりでに走り出してしまう。
 自分みたいな子供に目も呉れず。
 迷わぬ足取りの中に見えた、小さそうで大きな、彼と自分との違い。
 自分はどうだ。
 御阿礼の子としての幻想郷縁起は、私にどんなかけがえのない物をもたらしてくれるというのか。私はどうしてあの本を作るのか。
 一つの記憶も無くさない私が、どんなものを得られた時にそれを、心の底から大切だと想えるというのか。
 
「……阿求様」
「うらやましいです」
「は?」
「――必ず」

 彼の言葉を振り切りながら、阿求の中で遅巻いた想いが形を作ろうとしてゆく。当意即妙の単語を選抜する余裕は心にも時間にもなく、直情的に溢れ来る想いが最低限の思考を通過して、躊躇の口腔を空過して声を紡ぎ出す。
 ――失ってはいけない物が、目の前にある。それも忘れて、碁や茅に逃避した臆病風も今は恨めしく、勇気を凛と絞った馬鹿馬鹿しいくらいの掠れ声が、精一杯の気持ちを伝えようとする。
 伝えなくてはいけない。
 喉が乾いてくっつく。
 けれど、それでも伝えなくてはいけない。

「かな、らず帰ってきてください」

 こんなこと、物語の中のことだと想っていた。慣れてなんていないが、しょうがない。
 長大な幻想郷縁起の編纂作業の中で読書はよくする。好色げな文藻が滔々と煌びやかに語りかける想いと想いの紙縒のようなあの、極めて娯楽的な夢物語の要素だと信じていた気持ちをこそ、私が今、かけがえのないものとして抱きしめている。
 大衆小説をもっと読破しておけば良かった。
 今男の人を眼前に置き、いくつの季節を越えても決して消えぬものが、記憶以外にもあるのだと気付いたなら。
 神様なんて信じないにしても、想いが力になって、どこかで奇跡を起こしてくれるというなら。

「貴方に必ず、もう一度――私も、あいたいです」

 とても恥ずかしいけれど。
 本当に恥ずかしいけれど私は、高鳴る心臓と上気した頬、掌を風に吹かれながら。
 その心を、恋と呼んでも良かっただろうか。

「はい。…………必ず」

 花霞の春、冷涼な空気が時間を止めて、二人の影が静かに重なりゆく。
 まだ幼く、言葉を何も知らず、繋ぎ止める為の叫びも別れの言葉も満足に紡ぎ出せなかった若い唇に、そっと彼の同じ場所が触れる。
 庭木の枝にひたきは一羽、羽を休めて、静かに揺蕩う昼下がりの風は冷たく温かい。陽気に追い立てられた冬風の残り香が、茹でられたように上気した頬を冷やしに来る。

「この棋譜を、忘れないでください」

 唇が離れて、彼は言った。

「この続きを、またいつか打ちます。その時には、」
「分かっています」

 彼の微笑みの真っ直ぐさが、何よりも阿求の心を安堵させた。
 柔らかく触れ合った互いの大切な約束が、言葉の代わりに石の記憶を焼き付けて、長い旅へと勇ましい彼を送り出してゆく。
 阿求自らも誓う。
 この棋譜を、自分は忘れない。
 忘れないだけではない。必ず勝ってみせると、心に誓った。

 そして。
 もし勝てたなら、あの手紙を。

「道々お気をつけて」
「はい」

 棋譜と同じように、忘れずにいよう。
 あの手紙を、私は、彼に。










 ――確かにそう、私は誓ったはずだった。








 
 
 ――当たり前だけど。
 ――こんなに早く嘘になることを、想いもしなかったから。












* *


 打ち掛けた碁盤の向こうを出て行く彼の姿が、遠い時間を駆け抜けて、記憶の中に蘇る。
 いくつもの季節が気付かぬ間に通りすぎて差し伸ばした手は届くことなく、彼は阿求の脳裡の中で最後に微笑んで、二度と戻らない旅に消える。なんどもなんども、彼は旅立ちをする。繰り返し脳裡に阿求を訪ねては、別れの言葉を告げ、打ち掛けのままの碁盤を一瞥し、――接吻をして――そして、目の前の襖から揚々と出て行くのである。
 夕陽色に染め上げられた文机の上に届かぬ手紙を広げたまま、阿求は顔を伏し、声を殺した。涙よりも先に吐き出したい想いは言葉を形作ることなく、奔流のような嗚咽のみで喉を震わせる。
 この国にある百万の言葉が、どれ一つも役に立ってくれない。
 靴を脱ぎ散らかし、紅茶の飲み残しを弾き飛ばした。その人を思い出せても、考えることは出来ない。考えるというのは理屈の道筋をつけることだ。なぜ哀しいか、なぜ泣いているか等という思惟的な道筋などある筈もない。
 思い出していると言っても言葉が違う。その人を想うための思考が今は紡げず、輪郭を得ない現実は浮遊感ばかりを阿求に伝えた。夢のようだ。悪い夢を見ているのか。
 いたずらな記憶だけが意地悪な紙芝居のように繰り返された。今でも嘘だと思った。
 嘘であれば救われただろうか。
 真実であれば救われなかっただろうか。
 残酷な夢は、阿求の胸の中で真実になろうともがき続けている。その羽化を拒む阿求の涙が、ついに届かなかった手紙を濡らしている。砕け散ったままの棋譜は夕暮れ色に染まり始め、間もなく訪れる夜の帳を静かに迎えんとしていた。
 冷たく光り続ける碁石だけが、駆けて倒れたままの小さな部屋主を見つめていた。
 小刻みに、時に大きく震える阿求の肩の向こうに迫る黄昏、そして闇を、確かに見つめていた。

 駆けつけた棺の前、祭壇には、寒村の朝を描いた一枚の絵が掲げられていた。
 蒼天に白雲。遅い時間の流れの中に、人々の闊歩と笑顔。
 爽やかな絵だった。
 私もあの村に、こんど、一度行ってみたいと思う。


 小さな物音と共に、様子を見に来た家人が去ってゆく。
 声を掛けられる様子ではありません――と、誰かに話す声だけ、阿求には聞こえる。
 
 盤上に広げた対局は、その片隅が砕けている。
 比翼の片方が壊れたままの対局は、嗚咽のさんざめく部屋の中で――永遠に、その終局の可能性を失った。











* *


「……違います」

 冬が、間もなく終わろうとする。
 如月は山並みの彼方へ去り、ふと気の早い黄色の蝶がひとつ、ひらひらと庭を舞っていた。
 蝶は、ようやく開いたばかりの花から花へ、品定めに飛んでみているところである。季節の早さを知っていた。仲間はまだ誰も飛んでいない。風に吹かれても些か冷たい。
 花の蜜を味わってみたが、どれもこれもあまり甘くなかった。やはり寒く、季節は遥か遠く空にある。
 蝶は更に大きく、ひらひらと舞った。庭石を二つ向こうへ飛び行き、心字の池を視界に入れながら――ふと、行く手に人の気配があるのに彼は気づく。
 縁側に二人の少女が、真剣な顔をして座っていた。
 春の色を滲ませた日向が、郷をぽかぽかと暖めている。ふとふわり木枯らしの残り香、梅の香、どこからか河のせせらぎの音。
 ――ぱちっ、と、石を打つ固い音が響いた。
 蝶は驚き、冬模様もまだらな北風に乗って、空の遠く遠くへと、逃げ去ってゆく。

「――だから、そこで継がないのがいけません。覗きに継がぬ馬鹿はなし、この間そう教えたでしょう」
「はい――っと、じゃあ、こうですね」
「ああ」

 今しがた指を離したばかりの黒石をまた打ち直す茅の、まだどこかしら歪でつたない手つきが、遠い昔の阿求を思わせた。
 茅の手筋が、とみに阿求と似てきている。かつて兄に師事し、彼の柔和な碁風を受け継いでいた茅が変わってゆく。それはある意味で二度と得られぬ、何か掛け替えのないものを失ってゆく過程とも阿求には思われたのだが、時間というものはしかし、必ず止まらぬものだった。いつの間にやらお転婆が止み、声音が落ち着いて髪が伸び、自然と紅をさしたような朱い頬に少しずつ色香が混じり始め――そうやって茅が成長しているように、いずれは消えてゆく昔の光である。いずれは消え、そしてそれでも消えぬものはどこかに残る。まだ阿求には置き石四つを下らない腕前の茅が、この春で、あの時の阿求と同い年になる。

「阿求さま。兄は、強うございましたか」

 ふと、茅が穏やかに言った。

「強かったよ。あの年で、郷一番の手練れ扱いだった」
「そうですか……」

 温い風が、茅の前髪に寄り添い揺れる。

「……私も、今もう一度、兄と打ってもらいたかったです」

 そう言って、茅はぱちりと次の手を打った。
 紡がれる声に暗さはない。それがたとえば強がりだとしても、強がれるだけの茅の強さが阿求には嬉しかった。随分前に投げ出していた碁を今更教わり直す気になったのは、やはり、聞いてはいけない理由がある筈である。
 じょうびたきの甲高い囀りが、庭の左から右へ翔けた。鶯は地啼きにもまだ遠い有様、冬枯れのままの枝に花芽も固く、真っ白な残雪が遠い嶺で緩やかに滞っている。いくらか曇り気配のある今日は、冬の残り香を感じる底冷えの日となった。別れてゆく冬が、今一度稗田の家に立ち寄って、別れ杯の風を吹かしている。
 
「……やせ我慢は、するなよ」

 阿求が、ぽつりと呟いた。
 言葉に出来ることと言えば、その程度でしかなかったのだ。そしてその言葉すらも或いは、心に爪を立てるようなお節介であると思われた。
 兄妹を喪う痛みが、一人っ子の阿求には分からない。兄という存在が、どんなものなのかも知らない。畢竟他のどんな続柄にも喩え難い。兄というのは何とも――父とも姉とも違う生き物だろうということだけは分かった。信頼とか情愛とか、置き換えうる言葉を想い並べてみてもいずれにしても阿求にはやはり、茅の辛さに届くことは出来ないのだった。
 それが口惜しく、何かの力になろうとするもどかしさがゆえに、要らぬ言葉を喋らせてしまう。
 茅はとても元気にしていた。彼が旅立ってから、今日でちょうど十日目になろうとしていた。
 茅との碁は、今日で三局目である。

「悲しいです。けど、――私は大丈夫ですよ」
「そう、か」
「阿求様こそ、大丈夫ですか」
「茅に心配されるほどやわじゃない」
「あは。そうですよね、阿求様はお姉様ですから」

 茅の、人を信じた笑みが、阿求の胸に切なく映る。

「ねえ、阿求様」
「……」

 碁盤に落ちるふたつの視線は、ゆらゆら黒と白の石を追う。蝶が寄り添い合って飛ぶように、気まぐれな風に吹かれるまま、甘い香りの方へと誘われるように。
 伏された茅の瞳の色も、温度も、阿求からは見えない。

「……これからも、阿求様は、私のお姉様ですよ」

 明るい声は、どこか絞り出すようだった。
 碁石を持つ阿求の手を、躊躇に止めさせる。

「阿求様は……阿求様だけは、ずっと、お姉様で居てくださいませ。死んだりしないで、ずっと――私が老いるまで」

 小さな小さな、涙の色のない乾いた、爽やかであどけない――哀しげで痛々しい声は、彼を待ち続けし阿求の胸に去来した、積年の想いに似ている。
 その千々なる色に似ていた。
 まとまりを得ず、強気と弱気、理性と感情、あらゆる鬩ぎ合いが形を得ないまま、脆げなその声に乗っていた。
 あの日と同じように開け放した南の縁側が、爽やかな風を呼び込んできた。

「……」

 阿求は答えられなかった。
 答える術を、阿求は知らなかった。
 何も知らずに縋ってくる茅に告げるべき真実は、あまりにも残酷である。稗田阿求という娘は、残酷な自らの顛末を知り尽くしている。
 ――自分は阿礼乙女。
 いつか恐らく、この子を残して先に逝く。

「茅……」

 堪えきれず逸らした視線は宙を彷徨って、あてどなく、行き場を失ったまま陽炎のように揺らめいた。茅が不安げに、その移ろいを眺める。
 その瞳は、阿求にとても痛い。
 誰とも交わらなければ、自分は全ての哀しみと無縁でいられたと思う。自分一人ならば、早世の運命くらい容易く受容れられた。短い時間の間に見聞きしたことを憶えて、次の代の“自分”に託す。それだけの務めで終わるはずだった。
 彼を想わなければ良かったのだ。囲碁などに手を出さなければ良かった。茅を、一人の女中として扱っておけば良かった。
 大切な人たちはいつも、ひとりでに寄り添って、気付けばすぐ横にいる。そして、抗えぬ運命に悔しさを連れてくる。嬉しくて悲しい。
 姉で居てやると阿求が口にすればそれは、嘘になってしまう。茅と、破るための約束をしてしまうことになる。
 姉と契ったなら自分は、この儚い少女にいつか、今日この日の自分とまったく同じ悲しみを突きつけることになる。
 
「茅は……私のことを、好いてくれるか」
「もちろんです」

 どうして私は。
 どうして私は――大好きな人を、ひとりだって守れないのだろう。

「ありがとう」 
「どういたしまして」

 真っ直ぐな瞳を真っ直ぐ受け止める強さ。
 嘘、哀しさ、それでもなお――誰かの笑顔を慈しむことの美しさ。

「茅……良い物を、教えてあげる」

 阿求は盤上を、掌でがらりと押し流した。途中だった対局は唐突に粉々に壊れ去ったが、茅は何も言わない。
 阿求が憶えていることを、茅はよく知っている。盤上はただ本の一頁と同じだった。広げていたものを片付けてしまっても、記憶という栞を挟んでおけば、またいつでも続きから始められる。
 目に見える舞台が壊されても、いつでも対局は再開されるのだ。
 ――相手が居る限り。

「これは――」
「私と、ある人との棋譜」

 阿求のしなやかな指は迷うことなく、流麗に対局の道筋を追い掛けてゆく。二人の横にはゆらゆらと、紅茶の香り良い湯気が昇っている。
 黄色の蝶は静かになった庭を今一度舞い、ふたつの真剣な表情に揺れる湯気と、緩やかな南風と静寂の中に溶け込んだ。火鉢の炭の、小さく爆ぜる音。
 柔和な碁風と、雄麗にして勇ましい碁風は盤上に拮抗し、剣戟に交わされる刃の切っ先のように互いへ向かってゆく。それは会話に似ていた。
 囲碁とは会話のようなものだ、とは阿求がよく茅に語って聞かせる言葉だった。
 
「面白い碁ですね」
「ああ」

 昔日の記憶は阿求一人の胸の中、同心円で拡がる波紋のように記憶の隅々までを濡らし尽くしてゆく。色鮮やかな記憶を、あの日あの時に打ち合った石の攻防が連れてくる。
 この世界にもう居ない彼が、茅の前で打っている。確かに彼が生きた証を阿求以外に伝えられる瞭然とした形として、攻防目まぐるしき鮮やかな棋譜が碁盤に舞い散ってゆく。桜の散り、花吹雪になって紅色の風になるように、少しずつ色を取り戻してゆく景色は言葉にならない言葉を投げ掛けてくる。こぼれ落ちそうになる雫を堰き止めながら、ただ茅はじっと盤上に視線を落とし、あの日の彼によく似た目許を好奇心に染めている。





* *


「……阿求さま! 阿求さまっ!」

 家の庭を出たところで、家人に呼び止められた。千切れそうなその叫びが、背後より切なく響く。
 言葉は耳に痛く、硬骨の家人の声音は悲嘆の涙に濡れているのが分かった。弱々しく震え、触れれば壊れてしまいそうな哀しい叫び声が、阿求の足をふっと鈍らせそうになる。
 それでも阿求は前を向いた。少しずつ遠ざかってゆく彼の生家を振り返ることもなく、ゆっくりとした歩みのまま、決して立ち止まることはしなかった。

「阿求さま!」

 屋敷が次第に背中から離れてゆく。ご愁傷様ですと、誰かが述べ上げた哀悼の挨拶がほの小さく聞こえた。葬儀は喧噪の中に、阿求の帰途は静寂の中に、それぞれが同じ時を刻んで立ち止まらない。
 白く立ち上る息をつきながら、家人が阿求の横に追いついた。頬が、幾筋もの涙に濡れていた。

「お顔は……彼の最後の顔は、ごらんにならなくても、よろしいのですか」
「――昔、たくさんあの方のお顔は見ましたから」

 真新しい位牌に手を合わせたのみで屋敷を辞した阿求は、寒い頬に一筋の涙も無く、ただ凛と答えた。はぐれた雀が、道端から一羽飛ぶ。朝空は蒼に冴え返り、手を伸ばせばすぐ近くに天国がある気がした。
 太陽に忘れられた小さな水たまりに、その蒼が映っていた。歩みを止めぬ足の、黒い雪駄が砂を噛む。路傍、道祖神の地蔵堂の小脇に蕗の薹(ふきのとう)が生えて、ずっと前に供えられた蜜柑がひとつ、腐って転がったままになっていた。雨露を吸って萎びた線香があった。蕗の薹から小川に視線を移し、そこに飛来した川蝉の突き抜けるような碧さが寂しかった。

「だからもう、あの方の顔は見ません」
「しかし……!」

 脆弱な毅然さで辛うじて守り通す自分の立ち姿と、苔生して静かに座るお地蔵さまと、そしてとても短すぎた運命を阿求は眺めた。あまりに短く、涙すらも可笑しかった。
 ただ無心であること、何も考えずいるようにと――必死で必死で心を貫きながら、爆ぜ返りそうになる胸の痛みをひたすらに耐える。この道は自分を試している気がした。一度立ち止まってしまったが最後、涙を溢れさせ、脇目もなく彼の家へ引き返してしまいそうで、そんな自分が怖かった。今にもひとりでに向きを変えてしまいそうな雪駄を、必死で一歩ずつ、地面からまっすぐに引き剥がした。悲痛な砂利音ばかりがした。

「いいのです。だって――」

 求聞持が特技でしかないと思い、彼に反駁した、遠い昔の自分が思われる。
 昔日の手紙を見返す恥ずかしさは、幼さに向き合うことから生まれる。分かっていたことだ。何も知らず文を書き、何も知らないままに彼と碁を打った。
 阿礼乙女の自分は、想い出を失う怖さを知らず、失うことが出来ない怖さも知らなかった。
 だから、求聞持を特技だと思い込んだ。蒙昧なままに、過ちを呑み込んだ。
 こんなにも残酷な“特技”があるものか。
 阿求は一人、唇を噛んで自嘲する。
 或る別れが人並みの運命より早く訪れた今日にあって、過ぎ去った昨日はただ昨日としてだけ、空っぽになった胸の中に佇んでいる。今日でも明日でもない、もう戻らぬ一日一日の残像が、胸を焦がし続けるのだった。
 稗田阿求は莫迦だ。
 優しさもなくて器量も良くなくて、きっととびきりの美人でもなくて、求聞持という力の中でだけしか自分でいられない。そして、彼への道を二度と開かせることだってできない。封じ手は二度と開かれない。あの棋譜の続きを打ってくれる人は、もうどこにもいないのだ。
 そして自分だけが、憶えているという。
 人より早く、私も、あの空の向こうへ行ってしまうというのに。

「最後の想い出など、要りません――」

 空は薄い。土は脆い。
 堪え難い巨大な哀しみが、心の中でふと、机上に広げっぱなしの幻想郷縁起と重なった。
 蒼空のように力強くて繊細な、どこまでも流れてゆく時間の中で、腐った蜜柑のように弱々しい自分達は生かされている気がする。その暗闇の時間の中で、幻想郷縁起を編む哀しさもあるのだろう。
 大切なものが形も無く消えた冬の朝に、蒼い碧い川蝉が線を引く。
 誰かの歴史が、誰かと同じ速度で流れてゆく。
 人を忘れ得ぬという切ない痛みを、阿求は、あまりにも穏やかな春に知る。

「彼を見てしまえば――私は二度と、彼の死に顔を忘れられなくなります。そんなことは、嫌なのです」



 
 

* *


「ここで、お終いだ」
「え」

 盤上に遺された彼の一手だけが、代わりに静かに、道標を語っている。薄い靄に閉ざされた阿求の未来と、不思議色に縁取られた眼前の小さな少女の未来を、置かれたままの一手が微笑んで語りかけている。
 発条の事切れた、止まってしまった盤上の時計にゆっくりと茅が手を伸ばし、阿求がそれを制す。

「今はまだだめ」
「……」
「もう少し、上手くなってからな」

 どちらからともなく、くすっと笑った。
 ふと急激に冷え込んだ外気に肌を震わされ、投げ掛けた視線の向こうに雪が降っていた。
 はらはらといかにも小さな雪が、風に掻き混ぜられるままに軌道を描いて、地面に落ちては溶けてゆくのをじっと眺めていた。岩に少しの黒い染みが浮かび上がる。ぱちりと、炭が鳴く。

「――――茅。今日から私が、姉になってやる」

 茅の前髪を掻き上げ、阿求はそっと、茅の額に口づけた。
 そのままゆっくりと肩に抱き留めた小さな身体の温かさが、いつまでも続いてほしいと願っていた。
 姉と妹。
 それが例え偽りでも良い。僅かな時間で幕を引くとしても、いつか耐え難い辛さを与えるとしても。
 誰かを微笑ませ、安らぎを与えた事実が歴史として記憶として残るのなら良い。それを彼が教えてくれたような気がする。
 巡る未来に例え、その人を本気で傷つけるとしても。

 遺された少しの時間だけで良いのなら。
 兄の居ない妹のために、私は、「罪人」になろうと思った。








* *


 懐から古い和紙を取り出して、阿求は最後にもう一度だけ笑いかける。
 紙の端で涙を拭く。
 そして――それをくしゃっと丸めて、遊びのように河面へ放り投げる。
 放物線は緩やかに宙を舞った。来月には新たな生命の息吹を得る川沿い桜並木の下、黄色い蝶が一つ、丸めた紙と空中で交差した。
 雪解けの水を湛えた流れが、あっという間に紙を絡め取っていった。呑み込まれ、見えなくなった。

「私もすぐ――そっちへ参りますから」

 ――その気持ちが転生の果てに、千年の時を越えると思っていた。阿求は少女だった。
 例えそれが、後ろ向きの小さな強がりだとしても構わないと思っていた。
 そのときはまだ、時の流れに抗わなければ良いと思えていた。哀しむことも、きっとまだ、恐れなかった。

 大切な人を、もう一人作るまでの短い時間だった。
 川と蝶に寄り添った葬儀の帰り道、その僅かな時間である。
 川に流した手紙こそが、物言わぬ彼に届けられる、ただ一つの懸想文なのだと信じていた。



(了) 





 阿求さん。
 最近すっかりぞっこんの阿求さんですが、私が創想話で手がけた阿求さん主役の作品はこれ一本しかありません。
 自分でも意外なんですが、登場した作品すら二つしかないのでした。
 書籍活動だと阿求さん一色なのですが……。
 
 もうちょっと少女っぽい阿求さんを描きたいのですが、これ以上のエスカレートは私もエスカレートしてしまうので程々に止めておこうと思います。
 反省点? ラストはもうちょっときれいに纏めたかった……
(初出:2008年8月1日 東方創想話作品集57)